アメリカ小説を読む ノーマン・メイラー『裸者と死者』:兵士の恐怖と苦悩
■ノーマン・キングズレー・メイラー(Norman Kingsley Mailer、1923~2007年)
ノーマン・メイラーはニュージャージー州ロング・ブランチで生まれた。ロシア・リトアニア系のユダヤ人である。彼はブルックリンで育ち、1939年にハーバード大学に入学した。大学で彼は小説に興味を持ち、18歳の時最初の作品を公表した。
ハーバード大学卒業後、1944年に陸軍に入隊し、南太平洋で従軍した。レイテ、ルソンを転戦した。1945年の終戦と同時に進駐軍の一員として千葉県の館山に上陸、その後銚子に移った。1946年には福島県の小名浜(現在のいわき市)に移り、その後5月に帰国するまで銚子に滞在した。1948年、パリのソルボンヌ大学に入る前に、ベストセラーとなる『裸者と死者』を書いた。それは彼自身の戦中の経験に基づいたものであり、第二次大戦を描いた最良のアメリカ小説のうちの1つとされる。
主な作品
『裸者と死者』 - The Naked and the Dead (1948)
『なぜぼくらはヴェトナムへ行くのか?』 (1967)
『夜の軍隊』(1968)
『マイアミとシカゴの包囲』(1968)
『月にともる火』(1970)
『性の囚人』 (1971)
『死刑執行人の歌 : 殺人者ゲイリー・ギルモアの物語』(1979)
『ハロッツ・ゴースト』(1991)
■『裸者と死者』のアウトライン
ノーマン・メイラーの『裸者と死者』は戦場という極限状態に置かれた赤裸々な人間の生と死、絶望と悲惨を描いて世界に衝撃を与えた小説である。オカリナの形をしたアノポペイ島という、フィリピン諸島の小島が舞台。日本軍が占領するアノポペイ島に上陸したアメリカ軍を描いている。戦場におけるクロフツ軍曹率いる偵察小隊の部分と司令部におけるファシストの様なカミングス将軍とハーバード大学出身のリベラル派将校ハーン少尉との確執部分が交互に描かれる。さらには進行中の物語を中断するように「タイムマシン」という中間章が挿入され、各人物の過去が紹介される。これによってそれぞれがトラウマを抱えて現在の人格が形成されていることが示される。
最終的に日本軍はほぼ全滅し、島は米軍の手に落ちる。しかし小説は戦闘場面よりも、戦場における兵士たちの恐怖や疲労感などのリアルな描写に多くの紙数を割く。死の恐怖にとりつかれる兵士たちの厭戦気分、軍隊内の非人間的行為、生と死が交錯する戦場の生々しい描写。
さらには司令部におけるカミングス将軍とハーン少尉の対立を通して、アメリカの軍隊に潜在する「内なるファシズム」の脅威と、それに対する危機感が描かれている。
■『裸者と死者』を読む:兵士の恐怖と苦悩
<はじめに>
第二次世界大戦を描いたアメリカの戦争映画に出てくるドイツ兵には顔がない。ただ銃弾や砲弾を受けてばたばたと倒れるだけである。たとえ戦闘後に倒れているドイツ兵の顔を身近に見たとしても、そこに何の感慨も沸かない。彼らは単に「敵」という文字で一括りにできてしまうからだ。顔がないというのはそういう意味である。
しかし何かの拍子に敵兵の顔を見てしまい、一旦相手を単なる「敵」ではなく人間として認識してしまったならば、そう簡単には人を撃てるものではない。アメリカの傑作TVドラマ「バンド・オブ・ブラザーズ」のウィンタース中尉も戦闘中に1人のドイツ兵を撃ち殺した時、一瞬その青年の顔を見てしまった。その青年の顔は何度も彼の記憶の中に浮かび上がり、それ以後彼は銃を撃てなくなってしまった。この「バンド・オブ・ブラザーズ」や「フルメタル・ジャケット」、「ジャーヘッド」などの戦争映画でたびたび新米兵士の過酷な訓練が描かれる。新兵を殺人機械に変えるための洗礼である。逆に言うと、そこまで追い詰めなければ人間は簡単に人を殺せないのである。
戦争を批判する映画にはなぜ敵同士が身近に接する(つまり互いに相手の顔が見える)シチュエーションが何度も繰り返し描かれるのか、以上の説明である程度理解できるだろう。「ノー・マンズ・ランド」、「JSA」、「ククーシュカ ラップランドの妖精」、「トンマッコル へようこそ」そして「みかんの丘」等々、いずれも敵同士であったものがたまたま偶然によって同じ場所に閉じ込められてしまうのだ。身近に接した敵は決して憎むべき冷酷な人間ではなかった。
<作品に即して>
『裸者と死者』に関して批評家の誰もがほめるのは、その圧倒的な描写力である。上陸前の兵士たちのいら立ち、夜のトラック移動、対戦車砲の運搬、歩哨に立つ兵士の緊張感、日本兵の渡河攻撃、累々たる日本兵の死体、ジャングルと岩山を越える苦難に満ちた行軍、等々。最後までメイラーの筆力は衰えることがない。何より特筆すべきは五感に訴えてくるその描写の具体性である。偵察小隊の苦渋に満ちた行軍を描いたどの一節を抜き出しても、リアルな描写で満ち溢れている。ジャングルのムッとするような密度、鳥の引きちぎる声や昆虫の唸るような音、靴にしみこむ水、湿ったシダの腐った糞のような臭い、アザラシの皮ふみたいに呼吸しているかと思われるような岩肌、兵士たちのうめき声や泣き声、ジャングルにこもった放屁の匂い、汗の塩で白い縞ができ、腋の下やベルトの下が腐りかけている兵士たちの上着、兵士たちの激しい息遣いと時々おそう吐き気、歩きながら眠り地面に足がつくたびに目を覚ますほどの疲労状態、等々。
だが注意を作品全体の構造に向けてみれば、この小説の全体としての説得力が、単に個々の場面の圧倒的描写力だけによるものではないことに気づくだろう。『裸者と死者』は偵察小隊と司令部を交互に描くという構成になっているが、それが一つのパターンを形造っていてこの小説に緊張感と視点の広がりを与えている。
アメリカの軍隊に潜在する「内なるファシズム」を浮かび上がらせる司令部の部分は重要な部分だが、ここでは偵察小隊の部分と直接関連する点だけを簡単にまとめておくことにする。カミングス将軍は「ファシズムという観念は、よく考えてみれば、共産主義よりはるかに理にかなっとる。それは人間の現在の本性にしっかり基づいておるのだ」と主張するような人物である。彼はハーン少尉に対して、「上官に対しては怯え、部下に対しては軽蔑するようになった時、軍隊は一番よく機能を発揮するものだ」と語る。彼は戦争をチェスに例え、個人の人格などは軍隊では考慮に値しないと断言する。それに対してハーンは「たとえば、一分隊なり、一小隊なりの兵をとってごらんなさい―あなたは、彼らが頭の中でどんなことを考えているか一体御存じなのですか?」と問いかける。
この司令部での対決の直後に描かれる偵察小隊の場面(第2部の第7章)は凄惨で強烈な印象を残す章である。この章ではクロフト軍曹が日本兵の捕虜を撃ち殺すぞっとするような場面が描かれる。
3人の日本兵を発見したクロフトたちは手榴弾で彼らを倒す。しかし1人だけ生き残っていた者がいる。捕らえられたその日本兵が持っていた家族写真を見る。突然クローズアップされた日本兵の顔。カミングスの理論の中にはこの顔はない。そしてギャラガーが自分にも子供がもうすぐ生まれることを思い出したその瞬間、クロフトがその捕虜を撃つ。この場面が衝撃的なのは、ここで初めてギャラガーが、そして読者が人間の死の重みを感じ取ったからである。
ここで日本兵の死に衝撃を受けたのが、偏見に満ちたギャラガーだったことも注目に値する。彼は反共主義者で、またユダヤ人に対するむき出しの偏見を持った男だが、彼はもともと決して下劣な人間ではない。ではギャラガーは一体どんな男なのか。この章のすぐ後にギャラガーのタイムマシンを持ってきて、彼の過去を描いている。この構成もうまい。このタイムマシンで、もともと正義感の強かったギャラガーがその無知と崩れかけた家庭環境のために政治によって利用され、反共主義者に作りかえられてゆく過程が客観的に描かれている。世の中に矛盾を感じ不満だらけの人間を、政治的扇動者が取り込むのは簡単だった。「誰がわれわれから職を奪ったのか。ユダヤ人やアカどもである。」答えは偏見に基づいているが、問いは現実に基づいている。こうして反共・反ユダヤ主義者ギャラガーが出来上がった(トランプが支持者を取り込む手口も基本的にこれと同じである)。
ギャラガーの妻は出産の際に死んだ。ショックと悲しみのためにギャラガーは完全に麻痺状態になった。彼がいかに妻を愛していたかが分かれば、なぜ彼が日本兵の写真を見て胸が痛くなったのか理解できる。妻の死を知って何日か経った後、彼は海岸に打ち上げられた巨大な海藻を見て、以前洞窟の中で見た日本兵の死体を思い出し、ぞっとする。その死体を見た時は何も感じていなかった。妻という一人の大切な人間の死が、死というものを現実化させたのだ。反共主義と反ユダヤ主義に凝り固まった人物の人間的な揺れ。ギャラガーの人物形象を真に見事なものにしているのはこの揺れである。
第2部第7章にはもう一つきわめて印象的な個所がある。ギャラガー同様、ある日本兵の死体を見て、その場で死の意味をより深く考察している男がいた。レッドである。日本兵の死体を見ながらのレッドの考察は、ある種の感銘を与えるものである。
彼はほとんど裸の状態であおむけに横たわっている死体を見ていた。それは感銘を与える死体であった。なぜなら体には傷一つなく・・・死体の口元からは、そこにあったに違いない苦痛の表情を容易に想像することができた。だがその死体には頭部がなかった。・・・その男にも幼年時代、少年時代、青年時代があったのだ。そして夢も思い出もあったのだ。・・・
頭部のない死体は二重の象徴的効果を持つ。死体に頭部がないからこそかえってその人間の顔を想像させられる。どこでどのような生活を送っていた人間なのか否応なく想像させられる。同時に、頭部がないからこそ彼はすべての戦死者を代表しているのである。だが死体に頭部がないことは、同時に彼の個人的人格が奪われていることも意味する。兵士一人ひとりの人格は考慮に値しないと言いきったカミングスの言葉が、ここで不気味に響いてくる。兵士たちの意思を越えて、戦争の非常な論理は貫徹している。カミングスの言葉に不気味な説得力があるのは、現実がその言葉をある点で裏付けているからである。戦争とファシズムは現実的な脅威なのである。
第2部の5章から11章にかけては『裸者と死者』のもっともすぐれている部分である。11章でハーンとカミングスの対立に最終的な決着がつけられる。この章でカミングスははっきりとファシストとして姿を現す。結局ハーンはカミングスに屈し、ハーンは偵察小隊に配属されてしまう。小隊に配属されてからのハーンは精彩を欠き、あっさり戦死してしまう。ハーンが去った後のカミングスはただの将軍に戻り、超人的意志を感じさせなくなる。カミングスとハーンが支えていた司令部のパートは事実上解消され、したがって小隊との間に生じていたパターンの力学も消失してしまった。
また兵士の中で最も人間味があり兵士たちの怒りと悲しみと陽気さを代表していたレッドも急速に精彩を欠いてゆく。彼はもはや兵士たちの怒りや悲しみを代表しなくなり、単なる不平家になってしまう。クロフトはどうか。彼は確かに強烈な個性を持っていて、他の兵士たちに比べれば際立った存在感を持っている。だが彼にはカミングスのような象徴性がない。たとえば、クロフトがロスから小鳥を奪い、手の中で握りつぶす強烈な場面がある。例の日本兵の捕虜をギャラガーの目の前で撃ち殺した時を思わせる場面で、読者をぎょっとさせるに十分なほど残酷である。しかしそこで強調されているのはクロフト個人の残酷さである。
このように小説の後半は、残念ながら前半の力強さを維持できていない。もちろん最初に指摘したように、偵察小隊の苦難に満ちた行動を力強く描くメイラーの筆力は最後まで衰えていない。しかしハーンが小隊に配属されてから小説に深みと広がりを与えていたパターンが弱められていることは否定できない。
しかし後半部分にも前半で描かれた兵士の顔という観点をさらに深く追求した重要な場面がある。マーチネズが偵察に出た時に、やむを得ない事情で日本兵を殺す場面である。この場面はある重要な意味でクロフトが捕虜を撃った時の問題を、より深く追求しているのである。
夜一人で偵察に出たマーチネズは、気づかぬうちに日本兵の野営地の中に入り込んでしまい、目の前の歩哨を殺さねば脱出できない羽目になった。だが彼は一瞬ためらう。そこにいたのはほとんど少年のような若者だった。彼もまたギャラガーのように日本兵の中に一人の人間を見てしまったのだ。マーチネズはその少年兵のちょっとしたしぐさに微笑をこぼしたりもする。しかし彼を殺さなければ、自分が殺される。ふと人間的なものを感じたまさにその時に、彼は非人間的な解決を迫られたのである。彼は意を決してその少年兵を殺すが、長い間彼は人間一人を殺したという罪の意識に苦しめられる。この場面は先のクロフトが捕虜を撃ち殺した場面をさらに突き詰めている。もしクロフトが自分で撃たず、ギャラガーに撃つことを命令したらどうだったか。マーチネズが追い込まれた状況はまさにそのような状況だった。マーチネズの追いこまれた状況と彼の苦悩はギャラガーのそれをより突き詰めているゆえに、読者に容易には追い払えない問題を突きつけ、根深い消え去らない傷跡を読者の胸の中にも残してしまうのである。