心に残る言葉たち その4 豊かさとは何か?
「朝日新聞」 2005年10月26日(水)
「ニッポン人・脈・記」〃世界の貧しさと闘う⑦トットちゃんの恩返し〃
一番途方にくれたのは、去年のコンゴ(旧ザイール)訪問。5歳の女の子の洋服がぬれていた。レイプで尿管が傷つき、膀胱にたまる前に尿が出てしまうというのだ。
「処女と交わるとエイズが治るという迷信があって、小さな子供が狙われる。どうして。どうしたら。わからなくなってしまって」
ハイチで1晩42円で売春している少女に、エイズが怖くないかと尋ねた。「エイズだったら何年かは生きられる。うちの家族は明日、食べるものもない」
翻って日本の子どもは・・・。物は豊かでも心は貧しくはないか。日本とウガンダの小学校をテレビ回線で結んだ時のこと。「今、一番ほしいものは何ですか」と、日本の子の質問はモノの話。ウガンダの子の答えは「インドとパキスタンが戦争しないこと」。物を挙げた子はひとりもいなかった。
暉峻淑子『豊かさの条件』(2003年、岩波新書)
ユーゴの子ども達とディスカッションをしていた時、「今、ほしいものは?」という話題になり、日本の子は、「お金!」とか、「MDデッキ!」とか言っている中で、ユーゴの子は、「平和!」と言った。平和・・・なんて私たちには形のない言葉だろう。この国に生まれて、私達は平和の意味も知らないままに、その中で生きている!胸が痛かった。(p.176)
ともに20年ほど前の言葉だが、ここで提起されている「豊かさとは何か?」という問いは今でも有効である。20年という時の経過を経て今この問いを受け止め、またこれらの引用文を読み直すと、様々な想いが脳裏に去来する。多くの日本人にとって「豊かさ」とはより多くの物、より高い物、もっと端的にはより多くのお金を持っていることである。しかし今日明日の生存を脅かされている国や地域ではとにかく生きていることが「豊かさ」であり、そのためには平和でなければならない。
これ自体は何ら新しい認識ではない。しかしこの20年で日本人の生活も大きく変わった。「一億総中流」などと言っていたのははるか昔のように感じる。バブル崩壊後生活や価値観は大きく変わったが、意識の中では自分はまだ中流だという気持ちがあった。その中流意識を打ち砕き、それが幻想や願望にすぎないと現実を突き付けてきたのが現政権による長い停滞と後退である。社会保障は削られ、格差は広がる一方。温暖化に何も手を打たず災害列島(人災も含めて)化が急激に進行する。そんな今、「豊かさ」に対する日本人の意識はどれだけ変わっただろうか。かつて当たり前のようにあったものがどんどんなくなって行く今、とにかく生きのびてゆく、生活してゆくことが目の前の課題になっている人は多い。
一方でウクライナやガザでの戦闘が毎日のように報じられ、戦争や平和に対する関心は高まっている。加えて、現政権が北朝鮮や中国の脅威を煽り立てるため、日本国民の間になんとなく国を守らなければならないという意識が確実に浸透している。先日のJアラートのせいで録画予約してあった番組の最後の部分が観られなくなってしまった。危険性がないことがとっくに分かっているのにくどいほど繰り返すのは、北朝鮮がいかに日本にとって脅威であるかを国民に刷り込むためである。北朝鮮が危険な国であることに疑問の余地はないが、それを必要以上に刷り込むのはもっと危険だ。実際、北朝鮮が民主化でもされたら現政権にとってむしろ都合が悪い。なぜなら、軍事費を増やす口実の一つが無くなってしまうからだ。こうして着々と日本は戦争ができる国にさせられている。
よく「平和ボケ」と言われるが、ボケているのは平和が長く続いたからではない。時々戦争をして、それがいかに悲惨であるかを国民全体で経験した方が良いということにはならないからだ。ボケているのは、戦争についてきちんと教育し、報道してこなかったからだ。ウクライナやガザについても、どうでもいい戦況の説明などではなく(これでは木を見て森を見ないどころか、枝だけを見て木すら見えていないということだ)、なぜ今こういう事態になっているのか歴史的にきちんと経緯をたどって理解を深め、どうすれば戦火を収められるのか、とことん考え具体案を提示することだ。それをきちんとやっていればボケている暇などない。
資源が少なく食糧自給率が低い日本は、遠い国で起きた戦争や紛争のために物不足になったり物価が上がったりする関係にある。「豊かさ」と「平和」は文字通り繋がっていることが今は誰の眼にもはっきり見えている。だから今変化が必要なのである。