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カテゴリー「コラム」の記事

2024年6月 7日 (金)

心に残る言葉たち その4 豊かさとは何か?

「朝日新聞」 2005年10月26日(水) 
  「ニッポン人・脈・記」〃世界の貧しさと闘う⑦トットちゃんの恩返し〃
 一番途方にくれたのは、去年のコンゴ(旧ザイール)訪問。5歳の女の子の洋服がぬれていた。レイプで尿管が傷つき、膀胱にたまる前に尿が出てしまうというのだ。
 「処女と交わるとエイズが治るという迷信があって、小さな子供が狙われる。どうして。どうしたら。わからなくなってしまって」
 ハイチで1晩42円で売春している少女に、エイズが怖くないかと尋ねた。「エイズだったら何年かは生きられる。うちの家族は明日、食べるものもない」
 翻って日本の子どもは・・・。物は豊かでも心は貧しくはないか。日本とウガンダの小学校をテレビ回線で結んだ時のこと。「今、一番ほしいものは何ですか」と、日本の子の質問はモノの話。ウガンダの子の答えは「インドとパキスタンが戦争しないこと」。物を挙げた子はひとりもいなかった。

 

暉峻淑子『豊かさの条件』(2003年、岩波新書)
 ユーゴの子ども達とディスカッションをしていた時、「今、ほしいものは?」という話題になり、日本の子は、「お金!」とか、「MDデッキ!」とか言っている中で、ユーゴの子は、「平和!」と言った。平和・・・なんて私たちには形のない言葉だろう。この国に生まれて、私達は平和の意味も知らないままに、その中で生きている!胸が痛かった。(p.176)




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 ともに20年ほど前の言葉だが、ここで提起されている「豊かさとは何か?」という問いは今でも有効である。20年という時の経過を経て今この問いを受け止め、またこれらの引用文を読み直すと、様々な想いが脳裏に去来する。多くの日本人にとって「豊かさ」とはより多くの物、より高い物、もっと端的にはより多くのお金を持っていることである。しかし今日明日の生存を脅かされている国や地域ではとにかく生きていることが「豊かさ」であり、そのためには平和でなければならない。

 これ自体は何ら新しい認識ではない。しかしこの20年で日本人の生活も大きく変わった。「一億総中流」などと言っていたのははるか昔のように感じる。バブル崩壊後生活や価値観は大きく変わったが、意識の中では自分はまだ中流だという気持ちがあった。その中流意識を打ち砕き、それが幻想や願望にすぎないと現実を突き付けてきたのが現政権による長い停滞と後退である。社会保障は削られ、格差は広がる一方。温暖化に何も手を打たず災害列島(人災も含めて)化が急激に進行する。そんな今、「豊かさ」に対する日本人の意識はどれだけ変わっただろうか。かつて当たり前のようにあったものがどんどんなくなって行く今、とにかく生きのびてゆく、生活してゆくことが目の前の課題になっている人は多い。

 一方でウクライナやガザでの戦闘が毎日のように報じられ、戦争や平和に対する関心は高まっている。加えて、現政権が北朝鮮や中国の脅威を煽り立てるため、日本国民の間になんとなく国を守らなければならないという意識が確実に浸透している。先日のJアラートのせいで録画予約してあった番組の最後の部分が観られなくなってしまった。危険性がないことがとっくに分かっているのにくどいほど繰り返すのは、北朝鮮がいかに日本にとって脅威であるかを国民に刷り込むためである。北朝鮮が危険な国であることに疑問の余地はないが、それを必要以上に刷り込むのはもっと危険だ。実際、北朝鮮が民主化でもされたら現政権にとってむしろ都合が悪い。なぜなら、軍事費を増やす口実の一つが無くなってしまうからだ。こうして着々と日本は戦争ができる国にさせられている。

 よく「平和ボケ」と言われるが、ボケているのは平和が長く続いたからではない。時々戦争をして、それがいかに悲惨であるかを国民全体で経験した方が良いということにはならないからだ。ボケているのは、戦争についてきちんと教育し、報道してこなかったからだ。ウクライナやガザについても、どうでもいい戦況の説明などではなく(これでは木を見て森を見ないどころか、枝だけを見て木すら見えていないということだ)、なぜ今こういう事態になっているのか歴史的にきちんと経緯をたどって理解を深め、どうすれば戦火を収められるのか、とことん考え具体案を提示することだ。それをきちんとやっていればボケている暇などない。

 資源が少なく食糧自給率が低い日本は、遠い国で起きた戦争や紛争のために物不足になったり物価が上がったりする関係にある。「豊かさ」と「平和」は文字通り繋がっていることが今は誰の眼にもはっきり見えている。だから今変化が必要なのである。




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2024年2月16日 (金)

心に残る言葉たち その3 トレヴェニアン、その他の小説より

トレヴェニアン「ワイオミングの惨劇」(2004年、新潮文庫)
 「戦争ってどんなでした?すごい冒険だったでしょう?」
 「戦争が?戦争なんてだいたいが退屈だ。兵隊はいつも濡れて凍えてる。それにくたびれてる。虫に刺されてかゆい。そのうち突然みんなが銃を撃ちだし、怒鳴ったり、走りまわったりする。ものすごく恐ろしくて唾も飲めないくらいだ。闘いはやがて終わり、仲間が何人か死んで、けが人もでる。無傷な者はまたかゆいところを掻いたり、あくびをしたりする毎日に戻る。それが戦争だ。」(75-76)

 「盗むなら、でっかく盗め。子供に食わそうとパンを盗んだやつは鎖をつけられ、大きな岩を砕かせられる。しかし、でっかく盗んだら――ほんとにでっかくだぞ――そいつは称賛され、真似までされる。ロックフェラーしかり、モルガンしかり、カーネギーしかり。もちろんそういうやつらは法律を破らない。法律をつくるんだ。“企業”とか“大型融資”とか名前をくっつけて、盗みを合法的にするためにな。だから、盗みや悪党を志すならでっかく考えることだ。そうすれば一目置いてもらえるよ」(254)

コリン・デクスター「ウッドストック行最終バス」(1988年、早川文庫)
 「自殺は非常に多くの他の人々の生活にかかわることだ。重荷は捨てられたのではなく、一人の肩から他の人の肩に移されただけだ」(269)

ケン・フォレット『大聖堂』下巻(2005年、ソフトバンク文庫)
 フィリップが学んできたのはもっと地に足のついたやり方である。最初の修道院の院長だったファーザー・ピーターは、常々こう言っていた――「心では奇跡を祈れ、しかし手ではキャベツを植えよ」と。(12-13)


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 取り上げた3冊はいずれも文学作品ではなく、ミステリーなどのいわゆる娯楽小説から引用したものである。文学作品と大衆小説との境目があいまいになって久しいが、一般に大衆小説とよばれるものにもハッとするような名言や警句が含まれているものだ。こういう小説を多く読んでおくことは例えば映画の理解などにも結構役に立つものである。トレヴェニアンの最初の引用文はドイツ映画歴代1位に選ばれたこともある名作「Uボート」の映画評で引用したことがある。
 まあ、いろいろ書きたいことはあるが、下手なコメントを長々とつけるのは野暮というものだろう。読んだ人がそれぞれに味わい、あれこれ考えをめぐらすのが一番良いだろう。


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2024年2月 4日 (日)

心に残る言葉たち その2 富野由悠季 夢と現実

 太平記と源氏物語にも書いてある通り、人類は2千年くらい前から同じで、色事ともめ事しかやっていないわけだ。(中略)
 人類は、夢を想定しておかないと、窒息してしまうから宇宙開発論というものがあり得た。1960年代ぐらいまでは、そういう夢を描けた時代だった。今は夢を語るではなく、もうリアリズムを考えなければならない時代になっている。それは地球が有限だからで、今のままでは人類の増殖によって地球が食いつぶされると分かる時代になった。宇宙開発よりも、地球を存続させるためにやらなければいけないことの方が急務になっている。
「朝日新聞」、2024年1月23日、「テクノロジーの未来を語る 富野由悠季の視点 1 宇宙開発:ガンダムの世界 来ないだろう」

 

<コメント>
 富野由悠季が「機動戦士ガンダム」の生みの親だということはこの記事を読んで初めて知った。だからこの記事を読んだのはタイトルに惹かれたからで、富野由悠季に対する関心からではない。子供の頃は「キングコング対ゴジラ」をはじめ、ガメラ、モスラ、ラドン、キングギドラなど怪獣映画をよく観に行った。「大魔神」も好きだった。テレビで「ウルトラQ」が始まったときは、怪獣映画を自宅で観られると大喜びしたものだ。しかし中学生になるとこういう子供向け映画や番組は卒業した。おそらくまともに観たのは「ウルトラマン」の最初のシリーズが最後だろう。だから、「仮面ライダー」も「ガッチャマン」も「ガンダム」もほとんどまともに観たことはない。「宇宙戦艦ヤマト」や「銀河鉄道999」などの映画も恐らく観ていない。富野由悠季という名前に全く聞き覚えがなかったのはそういうわけだ。

 まあそれはともかく、ここに引用した彼の考え方には大いに共感した。今大事なのは夢より現実である。地球温暖化という世界的問題、異常気象や地震などの天災が頻発して災害列島と化した日本の現状、政治・経済・社会問題・悪化する一方の国民生活などの深刻な問題に全く対応できていない腐りきった政府。こういった現状を考えれば、富野由悠季の指摘は至極もっともである。

 そう思う一方で、確かに空を眺めて夢ばかり追っている場合ではない、今は足元をしっかりと見直すべきだというのは分かるが、夢がなくても良いのだろうかとも思う。夢があるから人は先に進めるのだし、現実が厳しいからこそ夢や希望が必要なのだ。富野由悠季は厳しい現状に対してもっと危機感を持てと警告しているのだろうが、夢は全く必要ないと言っているわけではないだろう。繰り返すが、目指すべき夢がなければ現状を乗り越えられないからだ。

 夢は前向きな面もあるが、その反面現実逃避の裏返しという側面もある。上ばかり見上げて歩いていて、すぐその先にある断崖に気づかなかったり、いつの間にかズブズブと泥沼に足を踏み入れていたりしては困る。かといって、いつも下ばかり向いて歩いていて、穴を埋めたり割れ目をふさいだりしてばかりでは息が詰まる。夢と現実をうまく組み合わせるためには、ありふれた言い方だが、結局足元をしっかりと踏み固めながら、前を向いて進む以外にないのではないか。時には足を止め、かがんで犬や猫の視点、あるいは小さな虫の視点で現実を見てみる。そしてまた前を向いて歩みだす。その時遠くばかりを見ていてはいけない。足元やすぐその先をよく見つめなくてはいけない。そして歩き疲れたら、足を止めて空を仰いで深呼吸する。その時広大な空と宇宙が目に入る。そして息が整ったら、また足元とその先を見つめて歩き出す。道なき荒野に道を開きながら。

 

2024年2月 3日 (土)

心に残る言葉たち その1 吉田ルイ子『ハーレムの熱い日々』より

 これまで新聞や雑誌、本などから心に残った文章をワードに打ち込んで記録してきました。精力的に映画評を書いていた頃頻繁に引用文を差しはさんでいたのは、これがあったからこそできたわけです。しかし記憶力が衰えて、映画を観た翌日にはどんな映画だったかほとんど覚えていないようになると、もう映画評は書けません。そうなるとこれまで書き溜めてきた膨大な量の引用文集も宝の持ち腐れです。
 それだったら、朝日新聞の「折々の言葉」の様にいっそシリーズ化して他の人たちにも共有してもらった方が良い。そう考えて新たに「心に残る言葉たち」というシリーズを立ち上げました。不定期の掲載ですが、次はどんな言葉と出会えるかと楽しみにしていただければ本望です。
 まず1回目はほぼ半世紀前に書かれた吉田ルイ子さんの名著『ハーレムの熱い日々』からの引用です。

 

 「南部の黒人は白人のザンパンを食べさせられていたんです。これも白人の食べない内臓を黒人がうまく料理する方法を見つけたんです。黒人だけの食べ物ソールフード(soul food)っていうんです。」(32)

 「私の大好きな西瓜、これもケントのお母さんの話では”ニガーの食べ物”だ。」(32)

 「それにハーレム独特の食べ物で、ハーレムにしかないもの、それはかき氷だ。」(33)

 「ハドソン河からイーストリバーまで、団地のすぐ傍らを走っている街路は、百二十五丁目といってハーレムの目抜き通り。洋服屋、靴屋、帽子屋、質屋などがやたらと多い。」(40)

 一体、ハーレムが怖いなどと誰が決めたのだろう。・・・
 ハーレムでも老人の酔っ払いはたくさん寝ていた。しかし、死にそうになっている病人を見たら、ハーレムの人たちはすぐに集まってきて、日かげに病人を連れていって手当てをする。それなのに、白人街では、こともあろうに警官が病人を見殺しにしているのだ。・・・
彼女(ケントのお母さん)は私が病気で寝ていた時、あの大きなお尻をのそのそと動かしながら、洗濯から掃除、料理までこまごまとやってくれた。そして何か欲しいものはないかと言って、パイナップル、グレープフルーツ、ココアなど、なんでも持って来てくれた。しまいには”おむすび”まで作ってくれようとするのだった。夜になっても、1時間おきに様子を見に来てくれて午前二時ごろまで側についていてくれた。
私は白人の女性も大勢知っているが、”お母さん”と言って甘えられるような温かさを感じさせる人は1人もいなかった。でも、ケントのお母さんをはじめ、ハーレムでつき合った女の人たちには、我がままを言っても、「ああ、よしよし」と大きな力で包んでくれるような温かさと寛容さを感じるのだった。」(89-92)

 それに、いかにもハーレムの建物らしいのは、エレベーターの扉が開くたびにちがった音楽が聞こえてくることだ。三階ではゴスペル、五階ではブルース、十二階でジャズ、十六階でリズムアンドブルース、そして二十階ではキューバンリズムというように。(p.12)

 ハーレムには私の好きなモダンジャズのクラブはなかった。ジャズはあまりにもクールになりすぎて、黒人社会から離れてしまったらしい。
と言っても、ジャズマンはハーレムに住んでいる。例えば、ピアノのセロニアス・モンクは猫と一緒に、小汚い路地の奥にあるがたぴし地下室に住んでいた。・・・
少し名前が出てくるとハーレムから出て白人社会に住むジャズマンが多いが、ウェイン(ウェイン・ショーター)はハーレムの人たちのことを”マイ・タイプ・オブ・ピープル”といって、ハーレムを離れようとしなかった。」(49-50)
吉田ルイ子『ハーレムの熱い日々』(昭和47年、講談社)

 

<コメント>
 「ソウル・フード」という言葉を考えると、言葉とはつくづく時代とともに変化してゆくものだと感じます。現代用語辞典『知恵蔵』には、「もともとソウルフードとは米国南部の黒人の伝統的な料理のことだが、特に2000年以降の日本ではソウル(魂、精神)との意味から派生し、各地特有の郷土料理などを指すことがほとんどとなっている」とあります。いわゆる和製英語の一つと考えていいでしょう。本来の「ソウル」は「ソウル・ミュージック」から来ていたのです。白人の残飯や白人が食べない部位を黒人が食べていたので「ソウル・フード」と呼ばれていたと聞いたら、今の若い人たちばかりか中年層もむしろびっくりするでしょうね。

 ニューヨークの黒人街ハーレムもかつては黒人が多くて危険な場所というイメージが一般にありました。しかしこれは白人の偏ったイメージをそのまま無批判的に受け入れていたことから広まったものでしょう。実際その中に飛び込んでみると、むしろ東京でいえば下町のような人情あふれる街だというのです。今はハーレムもだいぶ様変わりしてしまったようですが、言葉だけではなく街も変わってゆくわけです。その変わりゆく街のある時代を写真とともに記録する。写真家でありジャーナリストでもあった吉田ルイ子の業績は今も色あせない。

 エレベーターのドアが開くたびに違う音楽が聞こえてくるというくだりは何度か引用したことがあります。この本を読んで一番印象的だったのはこの文章です。その後にジャズは高級な音楽になりむしろ白人に好まれる音楽になってしまったというような文章があります。では黒人は何を聞いていたか。彼らはむしろソウルやR&Bを聞いていた。体をくねらせて妖艶に歌い踊るティナ・ターナーなどが大人気だったと確か書いてあったと思います。


<付記>
 吉田ルイ子さんは2024年5月31日に亡くなりました。冥福をお祈りします。

2007年6月24日 (日)

馬坂橋は沈下橋だった

Bicycle2_3  「依田川探索 その1 馬坂橋を撮る」という記事を改めて読み直してふと思いついたことがある。馬坂橋の不思議な形について「橋の横に支えのような形の木組みがあるが、不思議なことに橋とはつながっていない。これは一体何のためにあるのか?上流側にだけにあるのも不思議だ。」と書いたが、ひょっとしてこれはいわゆる沈下橋ではないかと思い当たったのだ。Wikipediaで確かめてみたらどんぴしゃ。

  「橋の上に欄干が無く(あってもかなり低い)、水面からの高さが高くないことが特徴」、「一部の橋には流木避け(増水時流木やゴミが桁や橋脚に直撃して壊れるのを防止する為、橋上流部側面に設けられた斜め状の部材)が設置されている事もある」と解説されている。まさに馬坂橋の説明文を読んでいるようだ。なぜこんなに低く、また欄干がないのかと言えば、「増水時に、橋が水面下に没するようになっており、流木や土砂が橋桁に引っかかり橋が破壊されたり、川の水が塞止められ洪水になることを防ぐため」である。なるほど、納得。

  沈下橋というのは高知県の有名な四万十川での言い方で、他にも潜水橋や潜り橋、冠水橋などの呼び方があるらしい。実は、馬坂橋を見た時に一瞬沈下橋という言葉が頭をよぎった。しかしすぐ忘れてしまった。おそらく「まさか上田にあるはずがない」と無意識のうちに否定していたのかもしれない。

  沈下橋のことを何で知ったのかははっきりしない。一時富山和子の著書を読みあさっていた時期があったので、おそらくその中のどれかで読んだものと思われる。『水の文化史』(文芸春秋、文庫版もある)、『水と緑と土』(中公新書)、『水と緑の国、日本』(講談社)、『水の旅』(文春文庫)。どれも滅法面白い。ざっと目次を見てみると『水の旅』に沈下橋が触れられている。これだったか。あるいは四万十川はカヌーイスト野田知佑の本にも頻繁に出てくるのでそっちで読んだのかもしれない。野田知佑と椎名誠の本はこれまた一時期むさぼるように読んだ。まあ、いずれにせよ、四万十川はテレビなどでもよく取り上げられるので、いろんなところで見聞きしたのかもしれない。

  こうやってみると、僕はずっと川を意識していたのだ。思い返してみれば川との「付き合い」は今に始まったことではない。自分で川と橋の写真を撮り、それをブログで公開するということはつい最近、それもたまたま浦野川と出会ったことがきっかけで始めたばかりなので、自分でも最近新しいことを始めたつもりでいた。しかし川との付き合いは30年以上前から始まっていた。1997年12月18日に「川沿いを自転車で」というエッセイを書いた(ホームページ「緑の杜のゴブリン」に収録)。そこにも書いたが、川沿いの散歩を日課のごとく始めたのは1973年。江戸川のすぐ近く(千葉県流山市、最寄り駅は東武野田線の江戸川台)に住むようになってからだ。

  流山市と東京の調布市にいたころの記憶は江戸川と野川の記憶と深く、切り離しがたく結び付いている。上田に来て最初常田に住んでいた頃の記憶が千曲川散歩(散輪)と切り離せないのと同じである。海の近くで育った僕は水に惹かれる。海、湖、川、池、何でもいい。学生の頃、銀座に行けば無性に勝鬨橋を渡って晴海埠頭に行きたくなった。海が見たくて仕方がなかった。今でも盆と正月に実家の日立に帰るとよく海を見に行く。長野県には海がないからだ。何も遮るものがない海を見ると開放感を感じる。

  ハンガリー映画の名作「ハンガリアン」に、ドイツに出稼ぎにきたハンガリー人農夫たちが初めて海を見るシーンがある。海のない国から来た人たちが初めて見た海。男たちは嬉しそうに石ころだらけの海岸を波打ち際まで走ってゆく。波をよけきれずに足を濡らしてしまうもの、病気なのに海に入ろうとして止められるもの。特にどうということのない場面なのだが実に印象的だった。僕にとって海は子供のころから身近にあった。もし自分が大人になって初めて海を見たら、どう感じどう受け止めるのだろうか。

<追記>
 「上小橋梁百選」というホームページがある。馬坂橋の存在はこのホームページで知ったのだが、馬坂橋の説明文に沈下橋という言葉(あるいはそれにあたる地元の言い方)は使われていない。沈下橋という言葉が僕の頭に一瞬浮かんですぐ消えたのは、ここにそう書いてなかったからかも知れない。

 そのホームページに載っている馬坂橋の写真は架け替える前の写真である。洪水で何度も流失したと書いてあるので、昔から沈下橋として作られていたのだろう。それにしてもあの小さな川が橋を押し流すほど増水する光景は想像できない。写真を撮った時には橋の土台のコンクリートの部分すら水に浸かっていなかったのだから。

 もう一つ不思議なのは橋の高さと堤防の高さが同じこと。写真を見てもらえばわかるが、堤防上の道と橋は同じ高さで段差がない。ということは、橋が水面下に没するほど増水したら水は堤防自体も越えてしまうことになるだろう。いいのかそれで?どうして橋の高さを堤防より少し低くしないのか?

 ひとつ考えられるのは、以下の理由だ。橋に当たった水は橋を乗り越えるか左右に別れて流れる。そうすると橋の両端部分に水が押し寄せ、橋と堤防が接するあたりに大きな力が加わることになる。水の圧力が限界を超えると堤防が決壊するかもしれない。そうなると大変な被害が出る。それよりは堤防からあふれた分だけを堤防の外に流した方が被害は少ない。特定の個所に圧力が集中しなければ堤防はもつだろう。橋の高さと堤防の高さが同じなら、橋の両端に押し寄せた水はそのまま堤防を越えて外に流れる。橋が流されても橋だけを掛け替えればいいので堤防の修理はしなくて済む。そういうことか?

2006年8月17日 (木)

過去4ヶ月間のアクセス数ベスト20

06年8月17日現在

1 「ALWAYS三丁目の夕日」                                     186
2 「嫌われ松子の一生」                                           171
3 「カーテンコール」                                                 116
4 「旅するジーンズと16歳の夏」                               98
5 「プライドと偏見」                                                  97
6 「父と暮らせば」                                                   78
 「イギリス小説を読む①キー・ワーズ」                      74
8 「イギリス小説を読む③『ジェイン・エア』」                 74
9 「ランド・オブ・プレンティ」                                       70
10 「天空の草原のナンサ」                                       63
11 「リンダ リンダ リンダ」                                       61
12 「スタンドアップ」                                            60
13 「ヒトラー 最期の12日間」                                   58
14 「これから観たい&おすすめ映画・DVD(06年6月)」 57
15 「ミリオンダラー・ベイビー」                                    55
16 「ゴブリンのこれがおすすめ 14」                          54
17 「空中庭園」                                                       53
18 「これから観たい&おすすめ映画・DVD(06年7月)」 50
19 「イギリス小説を読む② 『高慢と偏見』」                 50
20 「青空のゆくえ」                                                  49
次 「下妻物語」                                                      49

  8月2日、ココログに「アクセス解析」機能が追加された。時々眺めては驚いたり、笑ったりしている。驚くのは意外な記事が上位に入っていたり読まれていたりするからだ。ベスト10に「イギリス小説を読む」シリーズが二つも入っている。今年の1月に書いたものがど_016 うしてこんな上位に入るのか分からない。英文科の学生さんがレポートを書く参考にでもしているのだろうか。「小説」のカテゴリーも「映画」に続いてアクセス数が多いので、文学関係の人も結構見にきていただいているようだ。

  「嫌われ松子の一生」と「ALWAYS三丁目の夕日」がダントツなのは理解できる(この二つは見るたびに順位が入れ替わっている、デッドヒート状態)。人気のある作品だからだ。しかしどうして「カーテンコール」がベスト3に入るのか理解できない。もちろんいい映画なのだが、それほど評判になっただろうか。僕としては「THE有頂天ホテル」「博士の愛した数式」、あるいは「運命じゃない人」がもっと上位に入って欲しいと思うのだが。一方、「旅するジーンズと16歳の夏」、「天空の草原のナンサ」、「青空のゆくえ」などの地味な作品が上位に入っているのはうれしい。「キャロルの初恋」26、「風の遺産」25、「歌え!フィッシャーマン」19、「アマンドラ!希望の歌」15、「子供たちの王様」14など、ほとんど知られていないが強くおすすめしたい作品が多少なりとも読まれているのもうれしい。でも、出来ればもっと読んで欲しい、そして映画も観て欲しい。

  笑ってしまうのは「検索ワード/フレーズ」一覧を眺めている時だ。「輸入雑貨 あずきパンダちゃん」、「駆け落ちすると長生きしない」、「吉田日出子 巨乳」、「のんびりチャーリー 三輪自転車」、「太った森久美のコンサート」、「かざぐるまアート 文化祭」、「前世 突然変異 姫 アトランティス」等々、これで検索してどうして僕のブログに?さっぱり見当がつかない。吉田日出子って巨乳?最後のフレーズを打ち込んだ人は何を調べたかったの?いやはや、興味は尽きない。

 という訳で、またまた映画を観なかった日の埋め草記事でした。このところレンタル店に行ってもなかなか借りたいと思う映画がありません。しばらく手持ちの古い映画を観て「名作の森」(80年代までの作品は「掲載記事一覧」ではなくこちらのアーカイブに入れてあります)の収録作品数を増やしておこうと思います。

2005年11月 3日 (木)

「五十音順記事一覧」の作り方

  やったー!ついにやったぞ。むふふふふふふ。うれぴ~。

  なにがそんなにうれしいかって?念願の「五十音順記事一覧」をついに作ったのですよ。もうどうやったらこれを作れるかずっと頭を悩ましていたんですからね。それをついに考え出したんです。他人に教えてもらったのではなく、自分で考えだした。うれしくないわけがないでしょう。

  まあ、あまりうれしがってばかりいないで、少し冷静になって事情を説明しましょう。以前「庭の枯葉~生活のゆとり」という記事の中で次のように書きました。「ブログの欠点は、古い記事を探しにくいということである。最近書いた記事しかトップページには表記されない。バックナンバーも付いてはいるが、日付で区切られているので、一つひとつの記事のタイトルが分からない。他のブログには五十音順のリストが付いているものもあるが、ココログには標準装備されていない。何らかの工夫をしてつけているのだと思うが、その方法が分からない。何とかその方法を見つけるのが当面の課題だ。」

  実は、ある程度見通しはついていたのです。要は左のサイドバーに載せればいいわけです。サイドバーにはカレンダー、最近の記事、バックナンバー、最近のコメントなどの項目が載っていますが、これらは最初から標準でついているものです。これらに唯一自分で追加できる項目はマイリストですね。これを使えばいい。ここまでは見当がついていた。そこから先が思いつかなかったわけですよ。

  それが最近トラックバックをやたら使うようになって「固定リンク」の概念がやっと分かってきた。何だこれを使えばいいんだ。これに気付いた段階で問題は解決したようなものです。ためしにやってみたら見事成功。がははははは。では、何とか自分の書いた記事を整理したいとお悩みの方に、わたくしゴブリンがそのハウ・ツーを教えて進ぜよう。ただし、あくまでこれはココログを使っている場合の手順ですからね。他のブログを使っている人は応用が必要かもしれません。

 最初に、うんと簡単にやり方を説明すると、まず「五十音順記事一覧」を自分のブログに載せ、マイリストにお気に入りのブログやHPを登録するのと同じ手順で、「五十音順記事一覧」をマイリストに登録するだけです。アーカイブ専用のマイリストを新しく作ればなおいいでしょう。

手順1
  まず自分が書いた記事を分野別、かつ五十音順に並べます。既にたくさんの記事を書いた人はこの作業が大変ですが、とにかくこれをやらないことには先に行けません。頑張りましょう。

手順2
 出来上がった一覧表にリンクをつけます。その時必要なのが「固定リンク」です。それぞれの記事の一番下に「固定リンク」「コメント」「トラックバック」という文字が入っています。どれをクリックしてもいいのですが、「固定リンク」をクリックするとその記事だけが画面に出ます。コメントやトラックバックが来ていれば下に金魚のうんこのように付いています。その画面のURLがその記事固有のURLです。これをコピーして記事のタイトルにリンクさせてください。記事の作成画面のすぐ上に左からB、I、U、S、A等の文字やアイコンが並んでいますが、Aは文字の色を変えるボタンです。必要なら記事のタイトルを選択して色をつけてください。僕は青色を使いました。その右隣にLinkと書かれたアイコンがあります。タイトルを選択したままでこのボタンをクリックするとボックスが開きます。そのボックスの中に先ほどの「固定リンク」のURLをコピーすればリンクが張れます。すべての記事にこのリンクを張って下さい。実はこの作業が一番大変です。僕はクリックしすぎて指が痛くなりました。

手順3
 全部リンクを張り終わったら記事を保存してブログにアップします。これでブログの最新記事としてトップ画面に載ります。これだけでは新しい記事を載せただけです。次にこの記事をサイドバーに載せる手順を説明します。

手順4
 マイリストに新しいリストを追加します。マイリスト画面の右側にある新規作成の欄を使って出来ます。分からなければヘルプを参照してください。リストに名前をつけます。僕は「アーカイブ」にしました。このリストに先ほど作った「記事一覧」を新規項目として追加すればいいわけです。 「記事一覧」の固定リンクURLをコピーして貼り付けましょう。

手順5
   しかし、これだけではまだトップページに表示されません。次にブログのタブを開いて「設定の変更」に進み、「デザイン」のタブを選びます。画面真ん中左の囲みの中に緑色で「コンテンツ」「並べ方」「名称」という文字が並んでいますので、「コンテンツ」をクリックします。ブログに表示するコンテンツ一覧が表示されます。「マイリスト」の項目を探してください。その中に先ほど追加登録した「アーカイブ」(僕の場合)の名前が追加されているはずですので、その左にある小さなボックスにチェックを入れます。一番下にある「変更を保存」をクリックすれば、おめでとう、あなたのブログのサイドバーに見事「アーカイブ」と「五十音順記事一覧」が表示されます。ブログで確認してみてください。

 もしサイドバー上の表示位置が気に入らなければ(例えば一番下では不便ですよね)、先ほどの「コンテンツ」「並べ方」「名称」の画面に戻り、「並べ方」のタブで位置を変えられます。好きな位置にドラッグするだけです。一番上が見やすくていいでしょう。ついでに名称を変えたければ「名称」のタブで出来ます。

 さあこれで完成です。お疲れ様でした。こんなに長い記事になるとは思ってもいませんでした。細かく説明しようとするとこうなるのですね。「記事一覧」を作るのは早ければ早いほどいいですよ。記事が増えればそれだけ苦労が増えますから。

 よく分からなくても自分で考えてください。基本的な操作はヘルプで大体分かるはずです。安易に質問されても困ります。僕もココログを完璧に使いこなしているわけではありませんから。パソコンに詳しいわけでもありません。理系ではなく文系ですから、わたし。

2005年8月29日 (月)

パニのベランダで伊丹十三を読みながら

070611_5_1  久しぶりに喫茶店「パニ」に行った。幸いベランダの席が空いていたので、そこに座って伊丹十三の『ヨーロッパ退屈日記』(新潮文庫)を読んだ。「北京の55日」を撮っていた頃の話だ。1963年の映画だからその1、2年前の話だろう。当時の伊丹十三は俳優をやっており、「北京の55日」や「ロード・ジム」などの外国映画にも出演していた。この2本は昔テレビでよく放送されていた。その頃の伊丹十三はまだ若造で、細身であまり存在感がなかった。当時は大根だと思っていた。まあ、大柄な外国人俳優に混じっていたのだから、(身体的にも存在感の上でも)小さく見えるのは無理もなかったわけだが。

 しかしこのエッセイは面白い。共演したチャールトン・ヘストンやデヴィッド・ニーヴン、あるいは他の俳優たち、プロデューサー、監督などの裏話が満載だ。あるいはイギリス、フラン070611_2_1 ス、スペインなどと日本を比較している部分も面白い。特にチャールトン・ヘストンにまつわる話が多く、どのエピソードもこっけいだ。小話などがふんだんに出てきて、しかもそれが実によく出来ているので感心する。さらに興味深いのは、当時から伊丹十三が演出や脚本について一家言を持っていたことだ。後に監督としてデビューする(1984年の「お葬式」が監督デビュー作)素地が既にこの頃から培われていたことが分かる。文章は軽妙で、知性と批判精神にあふれている。

 時々本を置いて目の前の景色を眺める。「茶房パニ」は独鈷温泉の裏山をさらにどんどん登っていった山の上にある喫茶店だ。まったくの山の中にあるので、周りには人家は数070611_1_1 軒しかなく、見えるのは山ばかり。まったく信州は山深い土地だ。山の向こうにまた山がある。遠くの山ほど青く見えるのを実感したのも信州に来てからだ。しかしどこを見ても山で視界がさえぎられているのは息苦しい。海岸に近い土地で育った僕は視界がさえぎられていると圧迫感を覚えるが、信州育ちの人は却って安心感があると言うから面白い。ベランダは高いところにあって下を見下ろせるのが一番いい。夜景にしても高いところから見下ろすから美しく見えるのだ。昨日「阿弥陀堂だより」を観たばかりだが、阿弥陀堂から見下ろす眺めは最高だった。下界の家々がジオラマのように小さく見える。遠くには山がそびえ、その山の後ろにはアルプスらしき雪をいただいた高山が見える。毎日こんな景色を眺めていたら体から毒素もすっかり出て行くだろう。

 ふとまた現実にかえると、目の前にヤマボウシの花が咲いている。うちのヤマボウシの花はとっくに枯れたのに、ここではまだ咲いている。季節が数週間遅れている感じだ。ベランダに出ているので気持ちがいい。麓では暑くてベランダで本を読む気分になれないが、ここまで上がってくると温度も2、3度低いのだろう。適度な気温で気持ちがいい。

 それにしても何でこんなにベランダは気持ちがいいのだろうか。うちにも玄関の横にテラスがありデッキ用のテーブルとチェアーが置いてある。ベンチもある。2階にはベランダがある。しかしこんなに気持ちよくはない。周りが家に囲まれているので落ち着かないし、眺めもよくないからである。やはりベランダやテラスは眺めがよくなければならない。広い庭で隣近所の目が気にならなければ、あるいは小高い丘の上で下を見下ろせる位置にあればくつろげるだろうが、うちのように猫の額程度のせまい庭では外から丸見えだ。

070611_8_2    レストランなどに素晴らしいベランダがあると、何とかうちにもこんなのを作れないかと想像してしまう。あるいは外国の映画に出てくるようなガゼボや和風のあづまやにもとても憧れる。駐車場のあそこをこうしてなどと考えるが、周りが家ばかりではそんなものを作っても仕方がないといつも最後はあきらめてしまう。リフォームばやりだが、庭やエクステリアの改造も放送してほしい。いろんな卓抜なアイデアを仕入れたい。

 子どもの頃は屋根裏部屋(あの屋根のところに窓がついているやつだ)と暖炉に憧れた。恐らく外国の小説を読んでいてうらやましいと思ったのだろう。屋根裏部屋は、夏は陽が当たって暑苦しいに違いない。狭苦しくて決して居心地はよくないだろう。だから外国では召使の部屋に使われるのだ。子供にとっては冒険心をくすぐるところがあって憧れるのかもしれないが、現実にはあまり快適ではないだろう(もっとも「劇的リフォーム ビフォーアフター」などを見ていると実にうまく作ってあって、あれなら快適そうに思えるけれども)。

 暖炉はなぜ憧れたのか今となってはよく覚えていないが、やはり日本にはあまりなじみの070611_4_1 ないものなので異国情緒を感じて憧れたのかもしれない。信州は寒いので暖炉を作っているところもあるが、たいていは見せ掛けだけの飾りである。中に電気ストーブが入っていたりする。しかし家の中にレンガの一角があるのはいいものだ。レンガは見栄えがして好きだ。うちでも庭の周りにレンガの塀を作ろうと考えている。全部を覆うのではなく、また高さも数段重ねただけの低いものだ。完全に覆ってしまうのは防犯上よくない。あくまで庭のアクセントである。赤レンガではなく、黄色いレンガがいい。落ち着いていて上品だ。まあ実際に作るのはいつになるか分からないが。出来てしまってからよりも、色々考えているときのほうが楽しいのかもしれない。

 「パニ」のベランダで考えたことと、家に戻って日記を書きながら考えたことが入り混じった文章になってしまった。それにしてもエッセイ風の文章を日記に書いたのは久しぶりだ。映画のエッセイはしょっちゅう書いているのだが、これは実際に映画を観ているから書ける。しかし純粋なエッセイは精神的に余裕がないと、あるいは何か強烈なきっかけがないと書けない。映画を観て感動したときは、興奮冷めやらぬまま感想を書く。精神が高揚している時に書くのでいい文章が書ける。1週間後ではとても書けない。ふさわしい言葉や表現が浮かんでこないのだ。日常的な行動を繰り返しているだけではエッセイのアイデアは浮かんでこない。

070611_3_1  「あの頃名画座があった」を書いたきっかけは、記憶があせてしまう前に昔のことを書き残しておきたいと考えたからだ。しかし実際に書き出したのは何かのきっかけがあったのに違いない。そのきっかけが何だったかは忘れたが。あの日は喫茶店に入って、手書きの映画ノートを見ながら夢中で書いていた。文字通り時間がたつのを忘れていた。ふと一息ついて顔を上げると、喫茶店のおじさんがものすごい顔でこちらをにらんでいた。はっとして時計を見ると大分時間がたっていた。珈琲一杯で何時間も粘られたのでは迷惑なのだろう。もっとも他には客がひとりもいなかったと思うが。あわててもう一杯珈琲を注文した。懐かしい思い出だ。

 エッセイは映画関係の文章に比べると収録数が少ない。もっと意識して書かなければ。しかし意志だけで書けるものではない。もっと非日常的な経験をたくさんしなければいけない。週末はもっと外出するようにしよう。

※写真は07年6月11日に撮ったものです。

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<ブログ内関連記事案内>
 「喫茶店考」
 「茶房『読書の森』へ行く」

2005年8月28日 (日)

韓国映画の流れ

 2004年5月4日付けの朝日新聞に「韓国産映像アジアを覆う」という記事が載っていた。「冬のソナタ」の大ヒットをきっかけに韓国ドラマは日本でも大人気だが、その人気は日本だけにとどまらず中国、台湾、東南アジア各国などアジア全域に広がっているという。記事はテレビドラマ中心だが、映画も広くアジアに浸透しているようだ。韓国の映像文化が勢いを得ている背景には、韓国政府の積極的な映像文化振興政策がある。97年のアジア金融危機をきっかけに韓国政府は文化産業へのてこ入れを強めてきた。98年から2003年の間に韓国映画の輸出額は実に11倍に伸びている。これは驚異的な数字だ。

1980年 新しい出発
 しかし政府の支援策だけではこれだけの急成長を説明できない。実は韓国映画の水準はもともと高かったのだ。2000年の末に、「長雨」、「森浦への道」、「帰らざる海兵」、「朴さん」、「誤発弾」、「ノダジ」、「荷馬車」、「ハンネの昇天」など、60、70年代の作品8本が一気にビデオ化された。「ノダジ」は今ひとつだったが、それ以外はすべて傑作である。1950年代末から60年代半ばにかけての第二期黄金時代以後、韓国映画は軍事政権の下で長い停滞期が続いていた。その停滞期とされる時期にこれほどの水準の作品を作っていたとは、ただただ驚嘆するばかりだ。1980年以降ようやく韓国映画は停滞から脱した。イ・チャンホ、ペ・チャンホ、イム・グォンテクの三大巨匠が次々と傑作を放ち始めた。これらの作品を日本はずっと無視してきたのだ。
 そのあたりを自分の体験を交えて振り返ってみたい。僕が韓国映画を意識し始めたのは80年代末ごろだ。もっとも、当時は「鯨とり コレサニヤン」、「達磨はなぜ東へ行ったのか」、「旅人は休まない」といった、かわった題名の映画が入ってきたなという程度の認識だった。80年代末から90年代初めごろビデオ屋にあった韓国映画はほとんどがエロチックな映画で、僕が最初に見た韓国映画も「桑の葉」だった(^-^;。同年に「シバジ」、「旅人は休まない」、「ディープ・ブルー・ナイト」も見てはいるが、その後数年は空白。東京映画祭でグランプリを取った「ホワイト・バッジ」と米兵に体を売りながらもしぶとく生き抜いてゆく一人の母親を描いた「銀馬将軍は来なかった」という力作2本が93年に公開されたが、当時はまだ関心は持たなかった。
 そこへ突然94年に登場したのが「風の丘を越えて」という傑作である。多くの人が韓国映画の最高傑作と称えるこの作品の登場は、韓国映画に対する僕の認識を一夜にして変えてしまった。だがその後またしばらく空白の時期が続いた。96年公開の元従軍慰安婦を取り上げたドキュメンタリー「ナヌムの家」、97年公開の社会風刺映画「われらの歪んだ英雄」、99年公開の傑作ラブ・ストーリー「八月のクリスマス」等が注目された程度だ。

「シュリ」から始まった韓国映画ブーム
 何といっても日本で韓国映画ブームの原点になったのは、2000年に公開された「シュリ」の大ヒットである。さらに「シュリ」より作品的に高く評価されたのは、同年公開の「ペパーミント・キャンディ」だ。韓国映画得意のラブ・ロマンスの佳作「美術館の隣の動物園」も同じ年に公開されている。
 その後はまるで堰を切ったように韓国映画が流れ込んできた。翌年の「JSA」、「イルマーレ」、「リメンバー・ミー」、「リベラ・メ」、「魚と寝る女」、「反則王」、「ユリョン」、2002年の「ラスト・プレゼント」、「友へ・チング」、「春の日は過ぎ行く」、そして2003年には「おばあちゃんの家」、「二重スパイ」、「猟奇的な彼女」、「吠える犬は噛まない」と傑作、話題作が目白押し。2004年に入っても「殺人の追憶」、本国での観客動員数の記録を塗り替えた大作「ブラザーフッド」と「シルミド」が相次いで公開され着実にファンを増やした。他にも「MUSA」、「オールド・ボーイ」、「SSU」(日本の「海猿」はほとんどこのまね)、「春夏秋冬、そして春」、「永遠の片想い」、「子猫をお願い」と傑作・話題作が続々と公開された。「大統領の理髪師」と「オアシス」は未見だが、傑作に違いない。「風の丘を越えて」のイム・グォンテク監督の主要な作品も次々に公開された。
 ただその反面、「冬ソナ」ブームのあおりで大量にラブ・ロマンスものが入り込み、質的に大したことがない作品までレンタル店の棚にあふれている状況が出現した。ほとんど迷惑だ。また「カル」、「H」などのサスペンス・ホラー、「4人の食卓」「箪笥」などのホラーも大量に輸入されたが、どれも大したことはない。サスペンス・ホラーはアメリカにかなわないし、ホラーなら日本のほうが上だ。
 独自の映画文化を築き上げてきた中国映画に対し、韓国映画は、ラブ・ロマンスに独自の境地を切り開いてはいるが、全体としてアメリカ映画路線に近づいている。韓国映画は今後どのような方向に向かうのか。韓国映画の方向を決定するのは韓国社会の発展方向だろう。当分韓国と韓国映画から目が離せない。  

近頃日本映画が元気だ

日本映画の黄金時代
 1950年代は日本映画の黄金時代だった。巨匠たちが競い合うようにして歴史に残る名作を次々に生み出していた。東映の黒澤明、内田吐夢、松竹の小津安二郎、家城巳代治、木下恵介、五所平之助、渋谷実、清水宏、大映の衣笠貞之助、溝口健二、吉村公三郎、東宝の稲垣浩、成瀬巳喜男。他にも小林正樹、豊田四郎、そして社会派の2大巨匠今井正と山本薩夫。錚々たる顔ぶれである。
 その前の時代の阿部豊、伊藤大輔、伊丹万作、亀井文夫、島津保次郎、山中貞雄、山本嘉次郎等を加えると、まさにビッグ・ネームのオンパレード。圧倒される思いである。

テレビの普及 下降の時代 
 しかし60年代の高度成長期に入りテレビが普及してくると、映画はテレビに次第に押されてゆき、長期低落の傾向が顕著になってくる。60、70年代には市川崑、今村昌平、浦山桐郎、岡本喜八、黒木和雄、熊井啓、新藤兼人、勅使河原宏、野村芳太郎、羽仁進、増村保造、山田洋次、吉田喜重などの新しい世代が活躍するが、もはや巨匠の時代は終わったといってよいだろう。
 それでもまだ今よりは活況を呈していた。この時代に様々な大ヒットシリーズが生まれている。70年代の東映を支えた「仁義なき戦い」「トラック野郎」の2大ヒットシリーズ、それらと並ぶ東映の看板作品となった「網走番外地」シリーズ。東映はまた美空ひばり主演の映画も数多く製作した。ひばりと結婚したマイトガイ小林旭は石原裕次郎、「拳銃無頼帖」シリーズの赤木圭一郎とならんで日活の人気を支えた。松竹のご存知「男はつらいよ」シリーズは、第1作発表後27年間に48作が製作される大ヒットシリーズとなった。大映は勝新太郎の3大人気シリーズ、「座頭市」シリーズ、「兵隊やくざ」シリーズ、「悪名」シリーズを放ち、市川雷蔵主演の「陸軍中野学校」シリーズも大ヒットさせた。植木等の「無責任&日本一」シリーズとクレイジーキャッツの「クレイジー作戦」シリーズは喜劇の東宝。東宝はこの他にも森繁の社長シリーズと駅前シリーズ、加山雄三の若大将シリーズなどヒットシリーズをいくつも抱えていた。

どん底から活況へ
 しかし長期低落傾向は止まらなかった。80年代は恐らくどん底だろう。90年代後半ごろから新しい世代が出始めやや上向きになってきた。ようやく2000年以降になって、韓国映画の勢いに対抗するかの如く、秀逸な作品が大分作られるようになってきた。世界の映画祭で日本の作品が賞を受賞するようになってきたのもこの頃からである。宮崎駿の優れたアニメ作品が世界的に評価されてきたことも、日本映画の勢いをかなり後押ししていると思われる。
 「スウィング・ガールズ」「茶の味」「下妻物語」「深呼吸の必要」「この世の外へ クラブ進駐軍」「GO」「ジョゼと虎と魚たち」「ホテル・ハイビスカス」「突入せよ!『あさま山荘』事件」「ピンポン」「阿弥陀堂だより」「誰も知らない」。多少不満はあるが「東京原発」「草の乱」「美しい夏キリシマ」「チルソクの夏」「刑務所の中」「理由」「犬猫」なども悪くない。あるいは日本映画といえるか微妙だが、「珈琲時光」もなかなかの秀作である。「ハウルの動く城」「隠し剣 鬼の爪」「たそがれ清兵衛」などの巨匠の作品を別にしても、自分が見て感心したものだけでこれだけある。なかなかのものだ。まだまだ見落としているものもたくさんある。志の低い情けない作品がまだ圧倒的に多いが、今後どのような素晴らしい作品が生まれてくるか楽しみである。
 以前に比べて日本映画の製作体制が格段に良くなってきたわけではないだろう。映画人の養成機関も増えてきているようだが、まだまだ課題は多い。作りたくても資金が調達できなくて製作できないケースは多々ある。巨匠といわれる人でもその点では大した違いはない。国の支援体制を抜本的に強化したイギリスや韓国、テレビと映画が協力して国の支援なしでも映画の製作、上映、保存、修復体制を支援・維持しているフランスなどからもっと学ぶべきである。ちなみに中川洋吉著『生き残るフランス映画』(希林館)はフランスのシステムを詳しく紹介していて大いに参考になる。しかし、何よりも今必要なことは、映画は後世に伝えるべき優れた文化遺産だという認識を国と国民の中に根付かせることだ。これがなければ映画はいつまでも単なる「商品」というアメリカ式の考え方から抜け出せないだろう。

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