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カテゴリー「読書」の記事

2025年1月 2日 (木)

2023年、2024年に読んだ本 お気に入り作品リスト

 映画や音楽に比べてあまりに貧弱なので載せるのをためらったのですが、迷った末掲載することにしました。何を観て、何を聴いて、何を読んだかは自分がどんな人間であるかを紹介する重要な要素だと思うからです。
 映画とドラマを観るのに時間のほとんどをかけたために書物を読む時間が極端に減ってしまいました。比較的多いのはさほど読むのに時間がかからない漫画です。退職後は読みたかった本をじっくり読もうと思っていたのですが、映画や音楽と違って本は読み終わるまでに時間がかかる。つい映画やドラマを観てしまって、本にまでなかなか手が出ない。そんなわけで、あまりに数が少ないので2023年と2024年分をまとめて掲載します。今年はもっと本を読む時間を増やそうと誓いつつ。
 なお、リストは各分野別に著者名の五十音順に並べてあります。

<小説>
雨穴『変な家』(2024、飛鳥新社・文庫版)
中上健次『岬』(1978、文春文庫)
山崎豊子『大地の子』第一巻~第四巻(1994年、文春文庫)
アネッテ・ヘス『レストラン「ドイツ亭」』(2021年、河出書房新社)

<エッセイ、ルポルタージュ、伝記、旅行記、研究書等>
上野千鶴子『不惑のフェミニズム』(2011年、岩波現代文庫)
角幡唯介『空白の五マイル』(2012年、集英社文庫)
古賀太『永遠の映画大国 イタリア名画120年史』(2023年、集英社新書)
水上勉『土を喰う日々』(1992年、新潮文庫)
宮本常一『イザベラ・バードの旅』(2014年、講談社学術文庫)
森まゆみ『暗い時代の人々』(2023年、朝日文庫)
渡辺浩『映画キャメラマンの世界』(1992年、岩波新書)
ベル・フックス『フェミニズム理論 ―周辺から中心へー』(2017年、あけび書房)

<雑誌>
『東京人』2023年12月号:特集「草分けWoman, 百花繚乱!」(都市出版)
『別冊太陽 牧野富太郎 雑草という草はない』(2023年、平凡社)
『東京人』2021年11月号:特集「谷口ジロー」(都市出版)
『デビュー50周年記念 諸星大二郎 異界への扉』(2020年、河出書房新社)
『AERA COMIC ニッポンのマンガ』(2006年、朝日出版社)

<漫画>
安倍夜郎『深夜食堂 26』(2023年、小学館)
安倍夜郎『深夜食堂 27』(2023年、小学館)
安倍夜郎『深夜食堂 28』(2024年、小学館)
安倍夜郎『深夜食堂 29』(2024年、小学館)
入江亜季『北北西に雲と往け ⑥』(2023年、KADAKAWA)
浦沢直樹『あさドラ 8』(2023年、小学館)
浦沢直樹『あさドラ 9』(2024年、小学館)
大友克洋『ハイウェイスター』(2022年、講談社)
坂上暁仁『神田ごくら町職人ばなし 1』(2023年、リイド社)
坂口尚『あっかんベェ一休 第壱~肆巻』(2024年、KADAKAWA)
墨佳遼『蝉法師』(2024年、イーストプレス)
武田一義『ペリリュー外伝 第1巻』(2022年、白泉社)
谷口ジロー『千年の翼、百年の夢』(2015年、小学館)
鶴谷香央理『メタモルフォーゼの縁側 ②~⑤』(2018~2021年、角川書店)
手塚治虫『火の鳥 望郷編』(1986年、角川書店)
手塚治虫『火の鳥 乱世編』(1986年、角川書店)
手塚治虫『火の鳥 黎明編』(1989年、角川書店)
手塚治虫『火の鳥 未来編』(1989年、角川書店)
手塚治虫『火の鳥 ヤマト異形編』(1989年、角川書店)
手塚治虫『火の鳥 鳳凰編』(1989年、角川書店)
永美太郎『夏のモノクローム』(2024年、リイド社)
星野之宣『宗像教授世界篇』(2023年、小学館)
星野之宣『宗像教授世界篇 02』(2023年、小学館)
星野之宣『宗像教授世界篇 03』(2024年、小学館)
星野之宣『宗像教授セレクション 源氏物語と平安文学』(2024年、小学館)
益田ミリ『ツユクサナツコの一生』(2023年、新潮社)
ますむらひろし『銀河鉄道の夜 4次稿編 第4巻』(2023年、風呂猫)
ヤマザキ・マリ、とり・みき『プリニウス Ⅻ』(2023年、新潮社)
游珮芸、周見信『台湾の少年 第3巻』(2022年、岩波書店)
游珮芸、周見信『台湾の少年 第4巻』(2023年、岩波書店)

 

 

 

2023年6月 4日 (日)

ノンフィクションの魅力

 フィクションとノンフィクション。もちろん圧倒的にフィクションの方が多いが、近年ドキュメンタリー映画やエッセイ・旅行記・探検記などが増えてきている。「事実は小説より奇なり」という表現はかつてよく聞いたが、最近は昔ほど使われなくなった気がする。未曽有の自然災害が頻発し、信じられないような事件や事故が毎日のように起きているからではないか。当たり前すぎて今さら言うまでもないということだ。その典型的な例は2001年9月11日に起こった同時多発テロと2011年3月11日に発生した東日本大震災の圧倒的映像だ。下手な映画など軽々と超える信じられないような映像が世界同時中継で流れたのである。


 人災と天災。しかし天災も人間が地球に勝手に手を入れてきた結果起こっている現象だともいえる。東西の冷戦が終結した後、地域紛争はむしろ激化した。地球のどこかで戦争が行われていない日が、ベルリンの壁崩壊後一体何日あっただろうか。一日もなかったと言われてももはや驚かない。科学がどれだけ発達したとしても未来の予測などできない。いや、現実こそ予測不能である。深海や宇宙がいまだ解明されていない世界などと言われるが、もっと身近なところにも未知の世界はある。人間社会の歪みとそれが作り出した人間の心の闇こそ今もっとも光を当てられるべきものではないか。僕は80年代以来「フィクションはノンフィクションを超えられるか、リアリズムとノンフィクションとはどのような関係にあるのか」という命題をずっと意識し続けてきたが、フィクションと現実の関係は今後ますます重要な、かつ抜き差しならない関係になってくるだろう。


 もちろん戦地や被災地や事件現場からのレポートばかりがノンフィクションではない。家の中で、仕事場で、旅先で、人々はふと立ち止まり思いを巡らす。身辺雑記のような、身の回りの何ということもない出来事、路地裏を歩き回ったり、おいしいものを食べ歩いたりした経験も面白い読み物になる。一方でナチスの強制収容所や満州からの引き上げ、あるいはシベリア抑留や被爆の経験など、忘れようにも忘れられない悪夢のような体験談や回顧録のような重たいものも忘れてはならない。


 今回掲載するリストはエッセイ、旅行記、探検記、自伝・伝記、ルポルタージュ、日記、回顧録、平易な研究書、論考など、読みやすくかつできるだけ新書版や文庫版で手に入るものを選んだ。もちろんかなり古いものもあるので、現在では入手困難なものも少なくないと思う。とはいえ、すべて読む必要はないわけで、興味を持ったものから読んでみてほしい。すべて自分で読んだものだが、持っていながらまだ読んでいない本も相当数ある。随時追加してゆきたい。

 

<映画人のエッセイ>
・新藤兼人
  『三文役者の死』(岩波現代文庫)
・森田郷平、他篇
  『思ひ出55話 松竹大船撮影所』(集英社新書)
・伊丹十三
  『ヨーロッパ退屈日記』(新潮文庫)
  『女たちよ』(新潮文庫)
  『再び女たちよ』(新潮文庫)
・高野悦子
  『黒龍江への旅』(岩波現代文庫)
  『私のシネマライフ』(岩波現代文庫)
・高峰秀子
  『わたしの渡世日記』(文春文庫)
  『にんげん住所録』(文春文庫)
  『にんげんのおへそ』(文春文庫)
  『おいしい人間』(文春文庫)
・土屋嘉男
  『クロサワさーん』(新潮文庫)
・沢村貞子
  『貝のうた』(河出文庫)
  『私の浅草』(新潮文庫)
・加藤大介
  『南の島に雪が降る』(知恵の森文庫)
・笠智衆
  『俳優になろうか』(朝日文庫)
・川喜多かしこ
  『映画ひとすじに』(講談社)
・是枝裕和、ケン・ローチ
  『家族と社会が壊れるとき』(NHK出版新書)

 

<冒険家・探検家のエッセイ>
・星尾道夫
  『森と氷河と鯨』(世界文化社)
  『アラスカ 永遠なる生命』(小学館文庫)
  『アラスカ 風のような物語』(小学館文庫)
  『ぼくの出会ったアラスカ』(小学館文庫)
  『長い旅の途上』(文芸春秋)
  『魔法のことば』(文春文庫)
  『旅をする木』(文春文庫)
・野田知佑
  『なつかしい川、ふるさとの流れ』(新潮文庫)
  『今日も友達がやってきた』(小学館)
  『川からの眺め』(新潮文庫)
  『北極海へ』(文芸春秋)
  『ゆらゆらとユーコン』(本の雑誌社)
  『小ブネ漕ぎしこの川』(小学館)
  『ガリバーが行く』(小学館)
  『日本の川を旅する』(新潮文庫)
  『のんびり行こうぜ』(新潮文庫)
  『川を下って都会の中へ』(新潮文庫)
  『魚眼漫遊大雑記』(新潮文庫)
・角幡唯介
  『極夜行』(文春文庫)
・ジョン・クラカワー
  『エヴェレストより高い山』(朝日文庫)
  『空へ』(文芸春秋)
  『荒野へ』(集英社)
・植村直己
  『青春を山に賭けて』(文春文庫)
  『北極圏一万二千キロ』 (文春文庫)
  『北極点グリーンランド単独行』 (文春文庫)
・アーネスト・シャクルトン
  『南へ―エンデュアランス号漂流』(ソニーマガジンズ)
  (注)ただし、読み物としてはアルフレッド・ランシング著『エンデュアランス号漂流』(新潮文庫)の方がはるかに面白い。
・野村哲也
  『パタゴニアを行く』(中公新書)
・イザベラ・バード
  『日本奥地紀行』(平凡社) (注)ただし完訳版をお望みなら、講談社学術文庫版か平凡社の東洋文庫版がある。

 

<ミュージシャンのエッセイ>
・なぎら健壱
  『東京の江戸を遊ぶ』(ちくま文庫)
  『ぼくらは下町探検隊』(ちくま文庫)
  『東京路地裏景色』(ちくま文庫)
  『東京酒場漂流記』(ちくま文庫)
  『下町小僧』(ちくま文庫)
  『日本フォーク私的大全』(ちくま文庫)
  『酒にまじわれば』(文春文庫)
・高田渡
  『バーボン・ストリート・ブルース』(ちくま文庫)
・早川義夫
  『ぼくは本屋のおじさん』(ちくま文庫)
・山下洋輔
  『ピアノ弾きよじれ旅』(徳間書房)
  『ピアニストを二度笑え!』(新潮文庫)
・ウディ・ガスリー
  『ギターをとって弦をはれ』(晶文社)
・D.K.ダナウェイ
  『歌わずにはいられない ピート・シーガー物語』(社会思想社)伝記

 

<写真家のエッセイ>
・高木正孝
  『パタゴニア探検記』(岩波新書)
・吉田ルイ子
  『ハーレムの熱い日々 』(講談社)
  『フォト・ジャーナリストとは?』(岩波ブックレット)
・土門拳
  『腕白小僧がいた』(小学館文庫)
・藤田洋三
  『世間遺産放浪記』(石風社)

 

<漫画家のエッセイ>
・滝田ゆう
  『下駄の向くまま』(講談社文庫)
  『僕の裏町ぶらぶら日記』(講談社)
・水木しげる
  『ねぼけ人生』(ちくま文庫)
  『妖怪天国』(ちくま文庫)
  『ほんまにオレはアホやろか』(新潮文庫)
  『不思議旅行』(中公文庫)
・ますむらひろし
  『イーハトーブ乱入記』(ちくま新書)
・つげ義春
  『つげ義春の温泉』(ちくま文庫)
  『新版 貧困旅行記』(新潮文庫)

 

<ジャーナリスト、ルポライターのルポ・エッセイ>
・本多勝一
  『戦場の村 ベトナムー戦争と民衆』(朝日新聞社)
  『アメリカ合衆国』(朝日新聞社)
  『殺される側の論理』朝日新聞社
  『殺す側の論理』(すずさわ書店)
  『貧困なる精神 悪口雑言罵詈讒謗集』A~S集(朝日新聞社)
  『北海道探検記』(集英社文庫)
  『麦とロッキード』(講談社文庫)
  『日本語の作文技術』(朝日新聞社)
  『わかりやすい文章のために』(すずさわ書店)
  『中国の旅』(朝日新聞社)
  『北爆の下』(朝日新聞社)
  『ルポルタージュの方法』(すずさわ書店)
  『虐殺と報道』(すずさわ書店)
  『事実とは何か』(未来社)
・星野博美
  『戸越銀座でつかまえて』(朝日文庫)
  『コンニャク屋漂流記』(文春文庫)
  『転がる香港に苔は生えない』(文春文庫)
・ブレイディみかこ
  『ザ・レフト UK左翼セレブ列伝』(アイ・ビー・エス)
  『ヨーロッパ・コーリング・リターンズ』(岩波文庫)
・森下典子
  『日日是好日』(新潮文庫)
・小関智弘
  『ものづくりの時代』(文春文庫)
  『春は鉄までが匂った』(ちくま文庫)
  『町工場巡礼の旅』(中公文庫)
  『町工場 世界を超える技術報告』(小学館文庫)
  『町工場 スーパーなモノづくり』(筑摩書房)
  『大森界隈職人往来』(朝日文庫)
・スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ
  『戦争は女の顔をしていない』(群像社)
・アンジェラ・ホールズワース
  『人形の家を出た女たち』(新宿書房)
・沢木耕太郎
  『深夜特急』(新潮文庫)
  『バーボン・ストリート』(新潮文庫)
・J.シンプソン
  『死のクレバス』(岩波現代文庫)
・チボル セケリ
  『アコンカグア山頂の嵐』 (ちくま文庫)
・内田宗治
  『外国人が見た日本』(中公新書)
・ジョン・リード
  『世界をゆるがした十日間 上・下』(岩波文庫)
・井川和久
  『このインドシナ』(連合出版)

 

<エッセイストの本>
・出久根達郎
  『朝茶と一冊』(文春文庫)
  『古本夜話』(ちくま文庫)
  『風がページをめくると』(ちくま文庫)
  『本と暮らせば』(草思社文庫)
  『人さまの迷惑』(講談社文庫)
  『たとえばの楽しみ』(講談社)
  『漱石を売る』(文芸春秋)
  『古書彷徨』(中公文庫)
  『古書奇譚』(中公文庫)
・森まゆみ
  『路地の匂い 町の音』(旬報社)
  『抱きしめる東京』(講談社文庫)
  『懐かしの昭和を食べ歩く』(PHP新書)
  『寺暮らし』(集英社文庫)
  『その日暮らし』(集英社文庫)
  『とびはねて町を行く』(集英社文庫)
  『昭和快女伝』(文春文庫)
  『千駄木の漱石』(ちくま文庫)
  『女三人のシベリア鉄道』(集英社文庫)
  『谷中スケッチブック』(ちくま文庫)
  『不思議の町 根津』(ちくま文庫)
・小田実
  『何でも見てやろう』(講談社文庫)
  『基底にあるもの』(筑摩書房)
・下川裕治
  『アジア路地裏紀行』(徳間文庫)
・アーサー・ビナード
  『空からきた魚』(集英社文庫)
・ジャック・シフマン
  『黒人ばかりのアポロ劇場』(スイング・ジャーナル社)
・小板橋二郎
  『ふるさとは貧民窟なりき』(ちくま文庫)
・小松崎茂
  『昭和の東京』(ちくま文庫)
・小林一郎
  『横丁と路地を歩く』(柏書房)
・吉田篤弘
  『木挽町月光夜噺』(ちくま文庫)
・高田宏
  『信州すみずみ紀行』(中公文庫)

 

<研究者・専門家・評論家の著書>
・堤未果
  『ルポ 貧困大国アメリカ』(岩波新書)
・富山和子
  『川は生きている』(青い鳥文庫)
  『日本の米』(中公新書)
  『水の旅』(文春文庫)
  『水の文化史』(文春文庫)
・室謙二
  『非アメリカを生きる』(岩波新書)
・高橋裕子
  『世紀末の赤毛連盟』(岩波書店)
・井野瀬久美恵
  『女たちの大英帝国』(講談社現代新書)
・コンラート・シュペングラー
  『5000年前の男』(文春文庫)
・高橋哲雄
  『二つの大聖堂のある町』(ちくま学芸文庫)
・加藤周一
  『羊の歌』(岩波新書)
  『続 羊の歌』(岩波新書)
  『日本文学史序説 上・下』(平凡社)
・斎藤美奈子
  『日本の同時代小説』(岩波新書)

 

<作家のエッセイ>
・スーザン・ヒル
  『シェイクスピア・カントリー』(南雲堂)
・松本清張
  『日本の黒い霧』(文春文庫)
・三谷幸喜
  『三谷幸喜のありふれた生活』(朝日新聞出版)
・井上ひさし
  『井上ひさし ベスト・エッセイ』(井上ユリ編、ちくま文庫)
・G.ガルシア・マルケス
  『戒厳令下チリ潜入記』(岩波新書)
・ジョージ・オーウェル
  『パリ・ロンドンどん底生活』(朝日新聞社)
・大江健三郎
  『ヒロシマ・ノート』(岩波新書)
・堀田善衛
  『インドで考えたこと』(岩波新書)
・レオ・ヒューバーマン
  『アメリカ人民の歴史』(岩波新書 上・下)
・水上勉
  『土を喰う日々 ―わが精進十二ヵ月―』(新潮文庫)

 

<エッセイ・ノンフィクション、その他>
・マーティン・ルーサー・キング
  『自由への大いなる歩み』(岩波新書)
・マルコムX
  『マルコムX自伝』(河出書房新社)
・アドルフ・ヒトラー
  『わが闘争 上・下』(角川文庫)
・阿波根昌鴻
  『米軍と農民――沖縄県伊江島』(岩波新書)
・日本エッセイストクラブ編『年度別ベスト・エッセイ』(文春文庫)
・『父さんの贈りもの』(レターボックス社)
 (サッチャー政権時代、歴史的大ストライキに参加していた炭鉱夫の子供たちが書いた作文を集めたもの)

 

2021年7月26日 (月)

イギリス小説を読む イントロダクション:小説を読む楽しみ

■小説(物語)との出会い(個人的メモワール)
・小説(物語)との出会いは小学校の5年生ごろだと思う。まったく勉強をしない僕を心配して、母親が小学館の『少年少女世界の名作文学』(当時480円:月ごとに配本される)の定期購読を始めたのである。厚さ5センチほどもある大部なシリーズ本で、世界文学全集の子供版である。内容も子供用にやさしく書きなおされており、子供にも楽しめる部分だけを収録していたと思われる。

 

・最初のうちは本なんて女が読むものと馬鹿にして読まなかったが、たまたま「みつばちマーヤの冒険」を読んでその面白さにはまってしまった。巣を襲撃してきたクマバチと巣を守ろうとするミツバチとのすさまじい戦いの場面に一気に引きこまれた。それ以来、ほかにも面白い物語があるかと次々に読み漁るようになり、いつの間にか次の号が配本されるのを楽しみに待つようになっていた。

 

・『少年少女世界の名作文学』以外の本も読むようになった。小学生のころ好きだったのはモーリス・ルブランの“怪盗ルパン”シリーズ、コナン・ドイルの“シャーロック・ホームズ”シリーズ、江戸川乱歩の“少年探偵団”シリーズ、そしてジュール・ヴェルヌの『十五少年漂流記』や『地底旅行』など。とにかく推理ものや冒険ものをわくわくしながら読みふけったものだ(『赤毛のアン』など女の子が主人公の物語も好きだった)。

 

・『十五少年漂流記』や『地底旅行』など何度読み返したかわからない。しばらくするとまた読みたくなり、読んでまた時間がたつとまた読みたくなる。夢中になって読みふけっていて、ふと気がつくといつの間にか夕方になって暗くなっており、顔を本にくっつけるようにして読んでいる自分に気がつくこともしばしばだった。

 

・中学生になるとSF小説をむさぼるように読みだした。創元文庫などを片っ端から買ってきては読み漁った。大好きなジュール・ヴェルヌも当時出ていた傑作集を全巻まとめて買ってきて読んだ。中三ごろにSF小説から推理小説に移行し、高校生になると推理小説から純文学に移っていった。当時何種類も出ていた世界文学全集をこれまた片っ端から読み漁った。トルストイの『戦争と平和』やメルヴィルの『白鯨』などの大長編を数カ月かけて読んだものだ。冬の寒い時は今のような暖房施設がなかったので布団に入って本を読んだ。片手で本を持ち、もう一方の手を布団に入れて温める。そうやって持つ手を交代しながら読んだものである。

 

高校2年生ごろから映画を見始め、学校から帰宅した後は映画と読書にほとんどの時間を費やしていた(音楽に興味を持ち、レコードを買いだしたのも高校生時代)。これまで一番映画を観たのは高校3年生の時。1年に300本以上観た。つまらない受験勉強など見向きもせず、映画を観ていなければ本を読んでおり、本を読んでいなければ映画を観ているという生活をしていた。

 

・高校生の時は外国文学一辺倒だったが、大学生になってからは日本文学も読み始めた。大学院生時代には児童文学にまで関心を広めた。

 

■小説を読む楽しみ
・あまり難しいことを言うつもりはない。僕にとって小説を読む面白さと映画を観る面白さとはそれほど違いはない。小説の読み方については様々な方法論があるが、楽しみ方も人によって様々あるだろう。しかし小説に親しむ一番の近道は物語を楽しむことである。高度な読みや深い読みは当面要らない。映画を楽しむように小説を楽しむことだ。だから入口は “ハリー・ポッター”シリーズでもいいし、『不思議の国のアリス』でもいいし、宮部みゆきでもスティーヴン・キングでもいい。あるいはNHKで「竜馬伝」が放送されていたので司馬遼太郎の大長編『竜馬がゆく』を読んでみた、という入り方でもいいだろう(これほど面白い時代小説はいまだに書かれていない)。子供のころから児童文学に親しんで、わくわくドキドキしながら本を読む経験を持っていればなおのこといいが、そういう経験がなくても文学に親しむことはできる。読んで面白いものから読み始めるのが一番。

 

・活字を読むのが苦手などと尻ごみすることはない。読み進んでいるうちに字は自然に覚えてしまう。時々辞書を引く習慣をつければなおいい。ただし、あまり頻繁に引いていると物語の展開を楽しめないので、どうしても気になる言葉だけを引くようにした方がいい。僕は小学校や中学校の国語の教科書に出てくる新出漢字で読めないものはなかった。すべて本を読んでいるうちに自然に覚えてしまった。最初のうちは細かいことにこだわらずに、とにかく筋を追うだけでもいい。この先はどうなるのか。そう思って読み進めるうちに本を読む楽しさにはまっているかもしれない。

 

・小説や物語を読み進む時に一つ意識してほしいことは、何がテーマ(主題)であるかということである。ほとんどの小説にはテーマがある。そのテーマにそって物語が展開されてゆく。そのテーマにはたいていの場合何らかの葛藤が含まれている。その葛藤に共感できた時、読者はひきこまれるようにして小説の世界に入り込んでゆくことになる。もちろん小説には様々な種類があり、これに当てはまらないものも多くあるが、多くの場合そこに何らかの読者をひきつけるものがあるから人は長い時間机に座って本を読むのである。

 

■小説を読むために
・テーマに含まれる葛藤は多くの場合時代や社会の制約を反映している。たとえば、江戸時代の侍や商人や農民を主人公にした小説の場合、彼らは現代の私たちとは違った制約を時代や社会から受けている。具体例をあげれば、藤沢周平の主人公は多くが下級武士である。下級武士であるがゆえに彼らは藩の命令で無理難題を押し付けられたりする。藩にとって都合の悪くなったものを消す刺客として選ばれたりする。何の恨みもない者を藩命で殺さねばならない羽目に陥り、主人公は苦悩する。その人間的葛藤に読者は共感するのである。彼の小説は決して勇ましい侍がばっさばっさと悪人を切り倒して成敗するようなたぐいの小説ではない(『用心棒日月抄』シリーズにはそれに近い面があるが)。むしろ下級武士の苦悩や悲哀に焦点が当てられている。

 

 しかしその葛藤は時代の制約からくるものであるゆえに、時代が変われば解決される問題である。したがってそこには文学作品が持つ普遍性はない。こう考えるのは間違いである。なぜなら人間は時空を超えて生きることはできないからだ。こんな不合理で理不尽な社会ではない、もっと自由な社会に住みたいとどんなに願っても、それはかなわない。タイムマシンに乗って21世紀の日本に逃げ込むことはできないのである。もし小説の最後がそんな終わり方になっていたら、あまりに安易すぎて説得力のある小説にはならない。逃れようにも逃れられない制約の中で苦悩するからこそ、その人間的葛藤、彼らのささやかだが平穏な生活や、その生活を無理やり奪われる怒りや悲しみや最後の凄絶な決断に説得力があるのである。

 

 当時の武士がどんな暮らしをし、何を考え、どんな苦悩を抱えていたかを実際に見てきた者は今の世に一人もいない。にもかかわらず私たちは藤沢周平の小説の主人公たちの葛藤に十分共感することができる。下級武士の苦悩に満ちた生き方を読むとき、私たちは会社の平社員、あるいは何らかの組織の中で下積みを強いられている者の悩みを連想するかもしれない。小説の主人公たちの苦悩が人間的なものであれば、たとえその苦悩を同時代人として共有しなくとも共感することが可能なのである。人間にはそれを理解できるだけの想像力がある。何よりいっさいの苦悩や葛藤を持たない人間などいないからだ。芸術作品の持つ普遍性とはむしろそこにあるのではないだろうか。だからこそ、時代も国も異なる18世紀のイギリスの小説や19世紀のロシアの小説、あるいは古代ギリシャの古典悲劇さえ私たちには理解できるのである。

 

・しかし人間の想像力には限界がある。たとえば生まれてから一度も見たことのない色を想像することができないように。視覚的なメディアである映画を例にとればより明確である。1926年に製作されたフリッツ・ラング監督の名作『メトロポリス』は未来都市を描いた映画だが、巨大なビルが立ち並ぶ未来都市の空間を何と複葉機(宮崎駿監督の『紅の豚』に出てくるような翼が上下に二つある飛行機)が飛んでいる。まだジェット機が登場していない時代ではせいぜい空を複葉機が飛びまわっている未来しか想像できなかったのである。

 

 このように想像力には限界がある。人間にできるのはこれまで人類が経験してきたことや積み重ねてきた知識を組み替え、新しいフィクションの世界を創造することだけである。小説や映画に出てくるエイリアンは人間に似ていたり何かの動物や昆虫に似ていたりする。『プレデター』や『アバター』に出てくるエイリアンは基本的に人間の形をしているし、それ以外のエイリアンも気味の悪い生き物を組み合わせて作っているにすぎない。『アバター』にふんだんに出てくる異星の動物や昆虫や植物はどれもイメージのもとになったものが何か見当がつく。空中に浮かんでいる「島」も地球上のどこかにあるような形で、違うのは空に浮いていることだけである。空中に浮かぶ島は、18世紀に書かれたジョナサン・スウィフト著『ガリヴァー旅行記』に出てくるラピュタのエピソードから発想を借りている。映画監督の黒澤明は「想像とは記憶である」と言ったそうだが、おそらく同じことを言っていたのではないか。


 だがそこにまた可能性がある。現実との接点がある。つまり、想像力・創造力の源泉は現実なのである。私たちは現実を知るからこそ、過去に書かれた小説に描き込まれた「現実」に入り込むことができるのである。現実に対する知識が豊富なほど作品に対する理解も豊かになる。

 

 しかし「事実は小説より奇なり」と言われるように、しばしば現実にはフィクション以上に想像しがたいことが起こる。下手な小説よりノンフィクションやルポルタージュ作品の方がはるかに衝撃的で面白かったりするのである。J・シンプソン著『死のクレバス』(岩波現代文庫、映画『運命を分けたザイル』の原作)やジョン・クラカワー著『空へ』(文芸春秋社)などの山岳遭難を描いたノンフィクションは圧倒的な面白さだ。

 ドキュメンタリーやルポルタージュにフィクションの味付けをした傑作も紹介しておこう。アルフレッド・ランシング著『エンデュアランス号漂流』(新潮文庫)は、今からおよそ100年前、英国人探検家シャクルトンを隊長とする南極探検隊が氷の海に閉じ込められ(船はやがて沈没)、17ヶ月にわたって漂流した後、乗組員28名が一人も欠けることなく奇跡的な生還を果たした史実をフィクション化したものである。シャクルトン本人の手記をまとめた『南へ―エンデュアランス号漂流』も翻訳が出ているが、シャクルトンは物書きではないのでやはり面白さに欠ける。彼らが遭遇した、信じがたいような事実を基に練達のライターがフィクション化した『エンデュアランス号漂流』の方がはるかに面白い。どんな冒険物語もこれにはかなわない。読み始めたらやめられない面白さである。

 

 あるいはバフマン・ゴバディ監督によるイラン・イラク映画の傑作『亀も空を飛ぶ』では、クルド人の子供たちの想像を絶する現実が描かれている。その生活は悲惨であるが、同時に子どもたちのたくましさにも圧倒される。「何も知らない幼い子供たちと映画を撮ろうとした。イラクに旅した時に子供たちが丘の上でナッツを食べながら戦火を眺めていた。欧米の子供たちはポップコーンを食べながら映画を観るが、イラクでは現実の戦争を見る。」インタビューに答えた監督の言葉がこの映画の特質をよくあらわしている。まるで芋でも掘り出すように地雷を掘り出している子供たち。それはまさに彼らの「日常生活」だった。両手を失った子供は口で器用に地雷の信管を抜く。

 

・優れたドキュメンタリーやルポルタージュはフィクションを越える。80年代以来僕が持ち続けている確信だ。想像力(創造力)を生の現実が軽々と超えてしまう。そういう優れたドキュメンタリーやルポルタージュといくつも出会ってきた。ドキュメンタリーの持つ力はその具体性とリアリティである。単にある戦争で何万人の犠牲者が出たと書かれてもその犠牲者たちや遺族の苦しみや苦悩はリアルに伝わってこない。実際に経験した人の体験談の方が遥に説得力があり、肌を通して伝わってくる。想像を超えた現実の重み、それが様々な技法を駆使した創造を超えてしまう。その最も分かりやすい例があの9.11テロの圧倒的な映像と、3.11東日本大震災の時に流された津波の息を飲むほど凄まじい映像である。

 

・いや、現実がシンボリックな効果を生み出すことすらある。朝日新聞の記者だった井川一久がポル・ポト政権による民衆虐殺を取材した『このインドシナ-虐殺・難民・戦争』(合同出版)に次のような一節がある。井川は数々の虐殺現場を取材してきたが、ある虐殺現場の近くで彼はあるものを見た。そしてその場にへなへなとへたり込んでしまった。百戦錬磨の新聞記者から立ち上がれないほど力を奪ったのは血なまぐさいものでも、ぞっとするほど不気味なものでもなかった。それは普通なら平和とやすらぎを連想させるものだった。

 

 そういう刑務所のまわりに直径3、4メートルの窪地が無数にある。1ヵ所に30体から100体の死体を入れて土をかぶせたのだけれども、死体が腐って内部に空隙ができたために、かぶせた土が陥没したんですね。その土は血で赤黒く染まっている。 穴は犠牲者たちに自分で掘らせるわけです。それから彼らを後ろ手に縛りあげて穴の前にひざまずかせ、後頭部を鉄棒で一撃して殺して穴に蹴落とす。だから頭蓋骨をみると、たいてい後頭部が陥没している。穴の周辺には白骨や毛髪や衣類がおびただしく散らばっています。子どもの衣類も多い。縛られたままの白骨もある。犠牲者を拘束していた鉄の足枷や、殺害に使った鉄棒もころがっている。いちばん鬼気迫る感じがしたのは、ツオル・マリン村で小鳥の巣が人間の髪の毛でできているのを見たときです。このときは私も総身の力が抜けたような状態になって、その場に座り込んでしまいましたね。
井川一久編『このインドシナ』(1989、 連合出版)p.23

 

 彼が見つけたもの、それは小鳥の巣だった。すべて人間の髪の毛で作られていた真っ黒な鳥の巣。小さな鳥の巣の中に平和でほほえましいイメージと恐るべき虐殺のイメージが共存していた。生を育むイメージとむごたらしい死のイメージの一体化。散々吐き気を催す現場を見てきただけに、このコントラストは強烈だったのだろう。こんなところにまで虐殺の結果が及んでいたのか!

 

 この鳥の巣が持っていた力はある種のシンボリズム(象徴主義)的な力だと言っていいだろう。髪の毛が遺体を暗示するのは隠喩の一種である提喩(シネクドキ)の効果でもある。しかも、すべて人間の髪の毛で作られていたということは、遠くまで行かなくともすぐ手近に「材料」が豊富にあったことを意味している。一つの鳥の巣が持つめまいがするような意味の重なりと広がり。これらの強烈なコントラストと「効果」の重なりが一体となって、本来なら愛らしいはずの鳥の巣をすぐ近くにある人骨の山以上におぞましいものに変えてしまったのだ。

 

 しかしこれを単純にシンボリズムだと言ってしまうわけにはいかない。文学的シンボリズムはもっと曖昧で抽象的なものだ。この鳥の巣が強烈なインパクトを与えるのは、その前提に取材した人々が語った悲惨な事実、人骨の山などが積み重ねられているからである。事実の積み重ねにあるシンボリックな力が加えられた時、大きな飛躍が生まれる。そうとらえるべきだ。つまりこの効果はシンボリズムではなくリアリズムの延長としてとらえられるべきだと僕は思う。セルゲイ・エイゼンシュテイン監督の「戦艦ポチョムキン」で描かれた有名な場面、揺りかごがオデッサの階段を転がり落ちてゆくシーンを連想してもいいだろう。リアリズムを現実の平板な反映だと考えるのは間違いである。リアリズムは現実をより効果的に描き出す努力を営々と積み重ねてきている。そして上に示したように、何より現実自体が平板ではないのである。9.11同時多発テロによって崩れ落ちたツイン・タワーもシンボリックな意味合いを帯びていたではないか。