お気に入りブログ

  • 真紅のthinkingdays
    広範な映画をご覧になっていて、レビューの内容も充実。たっぷり読み応えがあります。
  • 京の昼寝〜♪
    僕がレンタルで観る映画のほとんどを映画館で先回りしてご覧になっています。うらやましい。映画以外の記事も充実。
  • ★☆カゴメのシネマ洞☆★
    細かいところまで目が行き届いた、とても読み応えのあるブログです。勉強になります。
  • 裏の窓から眺めてみれば
    本人は単なる感想と謙遜していますが、長文の読み応えのあるブログです。
  • なんか飲みたい
    とてもいい映画を採り上げています。短い文章できっちりとしたレビュー。なかなかまねできません。
  • ぶらぶらある記
    写真がとても素敵です。

お気に入りホームページ

ゴブリンのHPと別館ブログ

無料ブログはココログ

カテゴリー「エッセイ」の記事

2024年2月13日 (火)

悠遊雨滴 その6:ソーイング・ビー ここまで公平な番組は日本ではまだ作れない

 現在NHKのEテレで「ソーイング・ビー6」が放送されている。「ブリティッシュ・ベイクオフ」シリーズ(パンやケーキなどを作るコンテスト)のスピンオフ番組で、その名の通り裁縫のコンテストである。つづり字のコンテストを英語で「スペリング・ビー」というが、「ビー」は蜂のこと。働きバチのイメージだろう。「ソーイング・ビー」はそれをもじったタイトルである。

 正確に布を断ち縫う能力、型紙に基づいて正確に縫い上げる力、さらにはデザイン力も求められる。まあ「スター誕生」の裁縫版が「ソーイング・ビー」で、お菓子作り版が「ブリティッシュ・ベイクオフ」だと思えばいい。日本にはない番組だが、ここで焦点を当てたいのは、番組の内容ではなくその姿勢である。「ソーイング・ビー」でも「ブリティッシュ・ベイクオフ」でも同じだが、その特徴が一番はっきり表れているのは今放送されている(現在ファイナルが行われている)「ソーイング・ビー6」だろう。


240211-59



240211-53



 番組では様々な課題が課せられ、参加者は必死にその課題に取り組む。課題ごとに審査員が順位を決め、毎回一人ずつ脱落者が出る。それがこの番組の基本的流れだが、途中に各出場者のプライベートな生活が紹介される。興味深いのは、男性同士のパートナーや女性同士のパートナーが紹介されることが珍しくないということだ。しかしこの点について何ら特別な言及はない。ごく当たり前のこととして放送されており、出場者のパートナーも自然に顔を出している。

 さらに「ソーイング・ビー6」では片腕の肘から先がない出場者もいた。彼女も何ら特別扱いされることはなく、彼女に変に気を使ったりすることもない。それだけではない。なんと司会者の女性が明らかに妊娠している。回を追うごとにお腹が大きくなっているのが分かる。そのことについても何ら説明はなく、特別に言及されることもなくごく当たり前のこととして映されている。日本だったら間違いなく途中で司会者が交代させられていただろう。


240211-38



240211-24



240211-16



 ここまで公平で差別のない番組は日本にはない。もちろんイギリスだって差別もあるし偏見もある。ドイツ軍の暗号機「エニグマ」を解読したアラン・チューリングを描いた「イミテーション・ゲーム」という有名な映画がある。この映画はチューリングが暗号解読のために生み出した計算機が今のコンピューターの原型となったことだけではなく、当時同性愛は犯罪でありチューリングは有罪判決を受けたことも描いている。

 昔も今も偏見や差別はある。しかし両番組ともだれ一人特別扱いはせず、変に気を使ったりすることもなく番組を進めてゆく。その姿勢は本当に立派だと思う(まあ、美人のブローガンが他の出場者より多めに画面に映る傾向があったりはするが)。日本でもこのような番組が作られる日が来るのだろうか。彼我の差の大きさを想うと、今のところ見当もつかない。

230308-25


230129-126

 

2024年2月 7日 (水)

悠遊雨滴 その5:音楽との長い付き合い

 1999年の夏、お盆で実家に帰ったときなつかしいものを見つけた。母屋の隣に昔祖父と祖母が住んでいた隠居所があるのだが、たまたま普段閉めてある雨戸が開いていたので中に入ってみたのである。廊下の突き当たりにある納戸の中にそのなつかしいものはあった。昔買ったレコードだ。保存状態が悪かったのでジャケットがすっかり黄ばんでしまっていた。いずれもなつかしいレコードだ。年に二回、盆と正月しか実家に帰らないのでそれまではどこにしまってあるのか分からなかったのである。あるいはもう捨ててしまったのかとも思っていた。



210131-12



 初めてレコードを買ったのは恐らく中三くらいの時だ。父親が商店会の付き合いで歌を覚えるためと称して、ステレオを買ったのがきっかけだった。ナショナルのテクニクスという家具調のどでかいステレオだった。高さが70~80センチもあったろうか。幅も本体と両脇のスピーカーを合わせて1メートル数十センチほどあっただろう。今のミニコンポと比べるとまことにバカでかい。とにかくスピーカーが大きくて、音を鳴らすとガラス窓(今のようなサッシではない)がカタカタ振動したのを覚えている。実家のある日立市は電気の日立の発祥地で、いわゆる企業城下町である。しかしなぜか父は日立の製品が嫌いで、家の電気製品は全部ナショナルの製品だった。テクニクスは当時の最新機で、テレビでも宣伝をしていた。今でも「テクニークスー」というメロディを覚えている。

 父は何枚かレコードを買ってきてしばらく聞いていたが、すぐに飽きて使わなくなってしまった。もっぱらステレオを使っていたのは僕だった。最初に買ったレコードは二枚のシングル盤、藤圭子(宇多田ヒカルの母親)の「圭子の夢は夜開く」と森山香代子の「白い蝶のサンバ」だった。何を買ったらいいのか分からなかったので、当時たまたま流行っていた曲を買ったのである。GS全盛のころだと思うが、流行っているものなら何でもよかったのだろう。それから少ない小遣いをはたいてシングル盤を少しずつ買い込んでいった。アルバムは高くてとても初めのうちは手が出なかった。値段はシングル盤が500~600円、LP盤が2000円、EP盤(45回転だがシングル盤のサイズで4~6曲くらい入っていた)が700円だった。その当時買ったレコードは今では貴重なものもあるが、今思うと顔が赤らむようなものも多かった。森山香代子と布施明が大好きで、シングル盤をそれぞれ5~6枚もっていたと思う。他に、ゼーガーとエバンスの「西暦2525年」、カフ・リンクスの「恋の炎」、クリスティーの「イエロー・リバー」、CCRの「プラウド・メアリー」、ドーンの「ノックは三回」、ルー・クリスティーの「魔法」、フィフス・ディメンションの「輝く星座」など。最初に買ったアルバムはどれだったか覚えてないが、当時もっていたのはアンディ・ウイリアムズ、グレン・ミラー、映画音楽集、PPM(ピータ、ポール&マリー)のライブ盤、シャルル・アズナブール、シャンソン名曲集、カンツォーネ名曲集、それとビートルズの「ヘイ・ジュード」(アメリカ編集版)などだった。他にEP盤で「サウンド・オブ・ミュージック」のサントラ盤、サイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」、ブラザーズ・フォーなどがあった。何で高校生がこんなのを聞いていたのかと自分でも驚くようなものも入っているが、それはおそらく映画の影響だろう。



210131-67



 高校に入学して入ったクラブは音楽部だった。これは合唱部なのだが、「涙を越えて」のような合唱向きの歌のほかに、「輝く星座~レット・ザ・サンシャイン・イン」、「ノックは三回」、「悲惨な戦争」、「サウンド・オブ・サイレンス」、「レット・イット・ビー」などの洋楽もよく歌った。まだフォーク・ブームが続いていたころで、当時はPPMやブラザーズ・フォーが大好きだった(今でも好きだが)。

 好みが一変したのは大学に入学してからだった。突然クラシック一辺倒になったのだ。きっかけや理由は覚えていない。とにかく『レコード芸術』を毎月買ってレコードをチェックしては、大学生協で買ってきた。大学1年の時中学生の家庭教師をしていたのだが、週2回教えて月1万円もらっていた。それを全部レコードにつぎ込んだのである。生協で買えばレコードは2割引。当時LPレコードは2500円だったので、生協で買えば2000円。1万円で5枚買える。

 ところで、レコードは買ったものの、ひとつ困った問題があった。ステレオを持っていなかったのである。大学の3年までは千葉県流山市の伯母の家に寄留していた。伯母の家にプレーヤーがあったので、それを借りて聞いてはいた。しかしスピーカーとつながっていないプレーヤーでは聞いた気がしない。そこでどうしたかというと、帰省する時にたまりたまったレコードを両手に下げて実家に持って帰り、そこで聞いたのである。全部で150枚くらい持ち帰ったろうか。今考えるとよくやったと思う。後で東京のアパートに引っ越して自分でミニコンポを買ってから、今度は逆に田舎から東京までまた運んだりした。結局全部は持ち帰れず、まだ何十枚かは田舎においてあった。実家で久々に見つけたのはその運び残ったレコードだったというわけだ。

 

210131-59



 クラシック熱は大学院に入るころまで続いた。80年代の初め頃、念願のラジカセを買った(まだステレオのミニコンポは高くて、やっと手に入れたのは80年代半ば頃か)。それから80年代の半ば頃まではよくFM放送を聞いた。僕がラジオを一番聞いたのはこの時期だ。高校生のころ時々夜中に「ユア・ヒット・パレード」を聞いたりしたことはあったが、それほどしょっちゅうというわけではなかった。FM雑誌を買い出したのも80年代に入ってからである。その頃から『FMfan』を愛読していて、長いこと買い続けていた。その後FM雑誌は相次いでなくなり、CD雑誌が主流になった。CD雑誌もどんどん消えてゆき、そのたびに買う雑誌を替えていった。一番長く愛読していたのは『CDジャーナル』だが、これも季刊になり今は買わなくなった。ネットが普及し雑誌そのものが売れなくなってきたからだ。

 当初はFM番組のチェックが主たる目的だったが、ラジオを聞かなくなるとCDの新譜案内のチェックが主たる目的となった。もっぱら新譜の情報はこれに頼っていた。それ以外のアーティスト関係記事はほとんど読まない。当時定期購読している雑誌はこの『FMfan』と『レコード・コレクターズ』のみ。『レコ芸』はクラシックを聴かなくなった時から買わなくなり、それに取って代わった『スイング・ジャーナル』もいつの頃からか1月号しか買わなくなった。1月号には年間のレコード評がまとめてある別冊が付くので、これ一冊あれば用が足りるからだ。
 ラジカセを買ったころから音楽の好みが大きく変わった。面白いもので、好きなジャンルは少しずつ変わるのである。クラシック一辺倒だった時でも、最初は交響曲が好きで、次にバイオリン曲、それからピアノ曲、室内楽と好みが移り、最後はバロックに行き着いた。今でもバロックとモーツァルトが好きだ。歌ものや管弦楽曲はなぜかあまり好きになれなかった。

 ラジカセを買ったころからしだいにクラシック以外のジャンルにも関心が広がっていった。FMを通じてロックや日本のニュー・ミュージックにも耳を傾けるようになったのだ。当時はFM雑誌で1~2週間先の番組をチェックして、ラジカセで片っ端からテープに録音していた。一体何本くらい録音したのか自分でも分からない。ラジオを聞かなくなってからは、もっぱらCDからカセットテープにダビングしていた。車の中で聞くためだ。CDを温度差や振動など条件の悪い車の中に置くのには抵抗があるので、わざわざテープにダビングしているのである。テープが廃れるとMDにダビングして聞くようになった。しかしMDもなくなり、今はただ車の中ではFM放送を聞くだけになっている。



210131-54



 話はジャンルに戻るが、ジャズに出会ったのも80年代初めだった。ジャズとの出会いが僕の音楽の嗜好を根本的に変えてしまったと言ってもよい。決してジャズ一辺倒にはならなかったが、この時からずっと一番好きなジャンルはジャズなのである。クラシックばかり聞いていた頃からジャズには関心があったのだが、周りにジャズが好きな友達がいなかったために、ずっと未知のジャンルだったのである。FM放送が僕をぐっとジャズに近づけたのだ。最初はヴォーカルをもっぱら聞いた。なんとなくその方が取っ付きやすかったのである。知識もなかったので、何から聞いたらよいのか分からなかったということもある。ところが、ある時たまたま古本屋でジャズの名盤を特集した雑誌を買った。「スイング・ジャーナル」誌の別冊である。むさぼるようにその雑誌から知識を吸収し、忘れないように手帳を作ってメモした。ジャケット写真も切り抜いて手帳に張り付けたりもした。その手帳を持ってレコード店へ行ったのである。初めて買ったジャズのレコードは、忘れもしないコルトレーンの「至上の愛」と「バラード」だった。銀座の輸入レコード店で見つけた。棚から取り出した時手がふるえたのを覚えている。「至上の愛」はよく理解できなかったが(そもそも初心者向きではなかった)、「バラード」は気に入った。この時から本格的にジャズにのめり込んで行ったのである。

 その後ジャズを始めソウルやブルース、そしてロックのレコードを次々に買いまくった。とにかく一気にジャズやその他のジャンルの知識を詰め込んだので、買いたいレコードが山ほどあったわけだ。買うのは専ら中古レコードだった。いつ頃から中古レコード店に出入りするようになったのかは定かではないが、恐らく80年代の前半あたりだろう。渋谷の「レコファン」、「セコハン」、「ハンター」、「ディスク・ユニオン」、新宿の「えとせとら」、「ディスク・ユニオン」、「八月社」、「レコファン」、下北沢の「セコハン」、その他お茶の水、高田馬場、池袋、吉祥寺等々、都内をくまなく捜し回った。今では名前を思い出せない店も何軒かある。渋谷の宮益坂沿いのビルの2階にあった店、高田馬場の神田川沿いにあったジャズ専門店とブルース専門店、新宿の「えとせとら」と同じ一角にあったラーメン屋の2階の店。これらの中古店のうちどれくらいが今でも残っているのだろうか。

 80年代の後半頃の中古レコードはだいたい千円くらいで買えた。定価より高いものは買うつもりはなかったので、だいたい1600円あたりが買うレコードの上限だった。もっぱら中古品を買っていたのは値段が安いからで、貴重盤を買い集める趣味は全くない。これは古本も同じで、こちらも初版本を高い金を出して買う趣味はない。そういう意味では、僕はコレクターであってマニアではない。あくまで好きなものだけを選んで買うことにしている。決してマニアックな集めかたはしない。一万枚を超えるレコードとCDを持っていれば立派なマニアだと他人は言うだろうが、本人はただ枚数が多いだけだと思っている。



210131-49



 どうして中古を買うかというと、その理由の一つは自分の性格である。新しいものにあまり興味を示さない。長いこと携帯を持たず(今はスマホを持っているが、これは車で事故ったとき困ったことがあるからで、基本非常連絡用である)、ワープロ専用機からパソコンに乗り換えたのもやっと2002年の夏からである。レコードがCDに駆逐されていっても、しばらくはレコードを買い続けていた。もっとも、CDプレーヤーもないのにパチンコの景品で何枚かCDを取ってはいたが。CDプレーヤーが出始めの頃は高くて手が出なかったのである。最初に買ったCDプレーヤーはウォークマンだった。安くてサイズも小さくて場所を取らなかったからだ。ビデオも東京から映画館が数館しかない上田に来て仕方なく借り始めた。

 もう一つの理由は、上でも書いたように、当然値段が安いからだ。中古で安いのが買えるのに、定価で買うのはばかばかしい。中古に出るまで2年でも3年でも辛抱強く待つ。たとえ中古屋でほしいものを見かけても、値段がCDならば1500円以上、DVDならば2500円以上なら、もっと安いのを見つけるまで待つ。映画はロードショーよりも300円の名画座によく通っていた。上田に来てレンタル店でビデオやDVDを借りるようになってからも、新作はめったに借りず、1週間レンタルになってから借りる。これが僕のやり方である。初版本に何万円も出したり、ジャズのオリジナル版に数千円を投げ出すなどという趣味は全く無い。ただただ安いから中古を利用するのである。出久根達郎のエッセイは好きでよく読むが、彼の本に出てくる貴重本を血眼になって捜し回る人種とは僕は本質的に異人種である。実際、学生、大学院生時代には、年間数十本から百本以上の映画を見、数百冊の本を買い、数百枚のレコードを買うにはそうする以外になかったのだ。働くようになってからもその習慣は変わらなかった。そういえば、車も中古車以外買ったことがない。

 中古品は安いのでどんどん買ってしまうが、コレクションの枚数が多くなるもう一つの理由は様々なジャンルを聞くからである。クラシック、ジャズ、フォーク、カントリー、ロック、R&B、ソウル、ブルース、レゲエ、ラテン、ワールド・ミュージック。日本の音楽も当然聴くし、アイルランドを中心としたケルト系ミュージック、イギリスのモダン・トラッド、スエーデンを中心とした北欧のポップス、中国のポップスに注目していた時期もあった。ヘビメタ系の騒々しいのや、どれを聞いても同じラップ系は好きではない(多少持ってはいるが)。アフリカのものも持ってはいるが、今一つなじめない。逆に欲しいのになかなか手に入らないのはアイリッシュ・ミュージックやフォルクローレである。新星堂のレーベル、オ-マガトキは実に良心的でここでしか手に入らない貴重なアーティストのものをたくさん出しているが、悲しいかな、なかなか中古店では見かけない。



210131-24



 40歳も過ぎて中年になってくると、また好みが変わってくる。ジャズも昔からサックスが好きだが、ピアノを中心にしたものにも強く惹かれるようになってきた。ヴォーカル系も女性ヴォーカルが中心で、ジャケットに美人が写っていると買いたくなってしまうのだから情けない。どんどん好みがやわになってきている。昔はジャズの真っ黒い感じのジャケットが好きだったのだが。とにかく最近聞いて良いと思うのは、ジャズではビル・エバンスやキース・ジャレットなどのピアニスト、アイルランド系、フォーク系、カントリー系、などの落ち着いた感じの音楽である。ジャズ、ソウル、ブルース、レゲエとブラック・ミュージックを中心に聞いてきた80年代とはだいぶ変わってしまっている。ここ10年ほどで一番よく聴くのはシンガー・ソングライターである。しかしこのところ昔買ったCDをどんどん聞き直しているが、ジャンルは何であれ良いものは今聞いても良い。改めて日々そう感じている。

 好みが変わったのには東京から上田に移ってきたことも遠因になっていると思われる。東京と違って、長野にはあまり中古レコード店がない。上田の「ブック・オフ」、「メロディ・グリーン」、「サザン・スター」、「トム」、そして長野の「グッドタイムス」あたりがよく行く店だった。置いてあるものも貧弱で、日本のものが中心。ジャズに至ってはほとんど中古では手に入らない(「グッドタイムス」には数はあるが何せ値段が高い)。したがって欲しいものと買えるものとが一致しない。長年そんな状態が続くと好みまで変わってくるのだろう。「ラウンド」と称してそれら中古店を定期的に回っていたが、今は中古店も少なくなり、基本的にはアマゾンで注文するようになっている。送料を取られるのが癪に障るが、近くの中古店に置いてないものも簡単に見つかるのでずっと楽だ。

 僕はレコードもCDも雑誌の新譜案内を見て買っている。ヒット・チャートには関心がないので、知っている曲が欲しくてCDを買うことはめったにない。ほとんど買ってきて初めて聴くものばかりである。しかしこれは本や映画も同じだ。本も映画も書評や映画評を読んだり聞いたりしてどれを買うか、観るか決めるという点では同じだから。音楽も同じことをしているにすぎない。

 

210131-18

 

<付記>
 この記事を最初に書いたのは2000年の1月ですが、その後何度か書き足して今はなきHP「緑の森のゴブリン」に掲載してありました。今回「悠遊雨滴」シリーズに再録するにあたってさらに加筆訂正しました。

 

2024年1月21日 (日)

悠遊雨滴 その4:雲を見る

 イギリスに向かう機上、窓の外は雲ばかりだった。じっと窓の外を見ている僕の横に座っていた同僚が身を乗り出して窓の外を覗いた。「なんだ、雲しか見えないじゃないか。」そう言って彼はがっかりしたように再び座席に沈み込んだ。確かにこれが一般的な反応だろう。人は空の上から地上の景観を見たいのである。空を飛びたい、空中から地上を眺めてみたいという願望を昔から人はもっている。僕も子供のころよく空をとぶ夢を見た。宮崎駿も空を飛ぶことにあこがれていたに違いない。「未来少年コナン」「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」「紅の豚」「魔女の宅急便」等々、彼のアニメには空を飛ぶシーンがふんだんに出てくる。「ラピュタ」の飛行シーンはいつ見てもわくわくするし、魔女のキキが空から見た街は実に魅力的だった。

 

133295126892813207309

 

 人は高い丘に登ると、下界を見下ろし眺望を楽しむ。高い山に登ったときも同じだろう。東京タワーやスカイツリー、高層ビルの展望台に人気があるのも同じ理由だ。高々2メートルにも満たない人間の視野は以外に狭い。ちょうど何か棚の上にあるものを取ろうと踏み台に乗ってふと回りを見ると、部屋がいつもと違って見えることに気づくように、高いところから下を見るのが楽しいのはいつもと違った世界が見えるからなのだ。低い所にいては全体が見えない。あの塀の向こうはどうなっているのか、あの土手の向こうには何があるのか、この公園の全体構造はどうなっているのか、そんな時人は空の上から見下ろしてみたいと望む。高い所からの眺望が素晴らしいのは視界を遮るものがないからである。目の前に広がる広大な眺めには思わず見とれてしまう。見渡す限りびっしりと建物が立ち並ぶ光景(夜景はさらに魅力的になる)、高山から見渡す幾重にも重なる連なる山々や谷の眺望は圧巻だ。

 

133295142124413103433

 

 高みから下界を眺めるのもすばらしいが、逆に地上から空を眺めるのも楽しい。高校生の時、授業をサボって近くの公園に行き、芝生の上に寝そべって雲を眺めていたことがある。これが実に楽しかった。不思議なことに、真っ青な空に白い雲が浮かんでいるのをずっと眺めていると、逆に空から海を見下ろしているような感覚になってくる。そのころはまだ飛行機に乗ったことはなかったが、まるで飛行機から眺めているような感覚だった。その時信じられない雲を見た。なんと日本列島そっくりな雲だった。不思議なくらい似ていた。空から地上を見下ろしている錯覚に陥ったのも無理はない。周りが青一色だからなおさら海に浮かぶ日本列島そのものだった。おそらく僕が雲を眺めるのが好きになったのはその頃からだろう。雲はその形を色んなものに見立てられるので楽しい。まるで雪をかぶったアルプスのように見える雲、さながら滝のように山の頂から流れ落ちる雲、奇妙な形の氷山のように見える雲、雲の裂け目から一筋の光が地上に差し込んでいる神秘的な光景。ひとつとして同じものはなく、また様々なものに見えるところがいい。だから、冒頭で飛行機から雲を眺めていたとき、僕はまったく退屈していなかった。いや、それどころか、いくら眺めても見飽きないくらい楽しんでいた。隣に座っていた同僚にはまったく理解できないだろうが。

 

131313953497113202705

 

 とにかく、窓の外は見渡す限り雲しかなかった。飛行機がなかったころの人間には絶対に体験できなかった眺めだ。行けども行けども雲ばかりなのだが、まったく同じ眺めではなく、実に変化に富んでいる。南極の大雪原の上、あるいは氷山の上にでもいる感じだ。氷山はよくテレビでその映像を見ることがあるが、なんとも神秘的ですばらしい。巨大で、複雑で、人を寄せ付けない厳しさがいい。雲の魅力はそれに似ているが、一番の魅力はその変化の豊かさである。雲はどんな形にもなる。もろい石灰岩の地層にはよく浸食で作られた奇岩が立ち並んでいる風景が見られるが、そんな感じのものもある。洞窟のように見えたり、アーチ状になっているものもある。昼間と夜とでは光線の当たり具合が違うので、また違って見える。特に夜はより神秘的に見える。ときには飛行機を止めてずっと眺めていたいと思う不思議な形もある。いずれにしても延々何時間もこの摩訶不思議な異次元空間ショーは続くのである。雲好きにはたまらない時間だ。

 

165105923805550563804

(雲とは無関係ですが、見立て関連で。これって地底人?)


 
 どうしてこんなに雲が好きなのか。思い当たることはある。僕は、よくNHKで放映しているBBC製作の番組のような、ドキュメンタリー番組が好きである。深海もの、動物もの、昆虫もの、地底もの、宇宙もの。ギアナ高地やオーストラリアの地底湖の映像、始めて中国の奥地にテレビカメラが入ったときの映像(本当にあの水墨画の山々がそのままの形で写っていた!あんな形の山が本当にあるのだ!)などには、息を呑んだ。とにかく、日常的でない世界に惹かれる。人々の生活が写っているのは好きではない。人里はなれた非日常的世界がいい。車ではいけない奥地、車を降りて何時間もかけなければ到達できない世界。あるいは極地のような容易に行けないところ。自分ではあまり旅行はしないが、常に日常から逃れたいという願望はある。それらの映像はこの願望を満たしてくれるから好きなのだろう(写真集が好きなのもきっと同じ理由だ)。自分では何の苦労もしなくても、茶の間で手軽に異次元空間に移動できる。現代文明はこんなことを可能にした。たぶん、雲を見るのも同じような自分だけの空想の体験ができるから好きなのだ。この世の果てのどこかにありそうな奇妙な形の雲、もし飛行機が空中に止まれるならば、そして雲の上を歩けるならば、『銀河鉄道の夜』のジョバンニのように雲の上の駅で降りて、雲の上を歩いて近くまで行ってみたい、時にはそんな気持ちになる。そう、夜真っ暗な雲の上を飛んでいる時、きっと自分は「銀河鉄道」に乗った気持ちになっていたのかも知れない。

 

127273253325016131689

 

 ここまでは2002年8月30日に書いた古い原稿を基に一部手を入れたものです。当ブログを作る前にホームページを作っていて、そこに載せていたエッセイ文です。今はそのホームページが閉鎖されてしまったので、この機会に再録しておきたかった次第です。ただ雲となると書きたいことは他にもたくさんあります。実は当ブログの他に「ゴブリンのつれづれ写真日記」という別館ブログがあります。現在開店休業状態ですが、何としても新しい記事を載せて更新することが今年の目標の一つです。その別館写真日記ブログに「雲 天空のキャンバスに描かれた絵」、「おうまがとき」、「クレプスキュールの光芒」などのシリーズがあります。いずれも古い記事ですが、雲と深い関連があるので、関連の文章に手を加えてここにつけ足しておこうと思います。

 

137566396343813219729

 

 三谷幸喜が監督した「ザ・マジックアワー」という映画があります。「マジックアワー」という用語はもともと撮影の専門用語で、日出の直前と日没の直後、光源としての太陽が存在しない約数十分の状態のことをいうそうです。光源となる太陽が姿を消しているため自然環境としては限りなく影の無い状態が作り出されるわけです。

 

 まあ、撮影の用語なので夕方の場合日没後だけを指すようですが、世界が最も美しく見える時間帯という意味では日没前後の時間帯こそ「マジックアワー」と呼ぶべきだと個人的には思います。その時間帯こそ僕が「雲 天空のキャンバスに描かれた絵」シリーズで撮った夕焼け空が観られる時間帯と「蒼い時」とか「おうまがとき」と呼んできた時間帯です。

 

137566390981213219905

 

 雲は毎日見ることができますが、一つとして同じ形のものはありません。実に様々な形に姿を変えます。同じ雲さえも刻々と姿を変えます。それが実に想像力を刺激するのです。ましてや白い雲が様々な色に変化する夕暮れ時は「マジックアワー」と呼ぶにふさわしい天体ショーの時間帯です。この時間帯は短時間に目まぐるしく色合いが変わってゆきます。夕陽がだいぶ傾いて山の端(信州は山国なので、夕日が水平線や平らな地平線に沈むことはありません)に近づいてくると光が黄色みを帯びて来ます。さらに日が沈んでくるとそれが橙色になり茜色に変わってゆきます。それがピンク色に薄らぎ、紫色が混じってくると蒼い時が始まります。蒼い時というのは僕が作った言いかたですが、言い換えれば「おうまがとき」です。「おうまがとき」とは逢魔時。つまり黄昏時、誰そ彼時です。

 

 昼間と夜の境目にある「マジックアワー」は黄色、橙色、茜色、ピンク色、そして紫色へと空の色が刻々と変化する一日で最も壮大な天空ショーが観られる時間帯です。空全体が巨大なスクリーンとなって映し出す光のショーは全国どこからでも観られます。しかもこの巨大な「映画館」は入場無料。そのうえ上映演目は日々異なり、同じショーは二度と見ることはできません。どうです、見逃す手はないでしょう。

 

 色合いだけではありません。雲は毎日見ることができますが、一つとして同じ形のものはありません。実に様々な形に姿を変えます。同じ雲さえも刻々と姿を変えます。それが実に想像力を刺激するのです。いろんな形に見えるので様々なものになぞらえたりすることができます。モンゴルを舞台にした「天空の草原のナンサ」という映画に素晴らしい場面があります。子供たちが雲を眺めてその形からいろいろなものを連想する場面です。ゾウ、キリン、ラクダに乗った子供、馬。どこまでも想像が広がる。モンゴルの大草原では自然が教室なのです。一見何もない草原の暮らしには都会にはない豊かさがあるのです。ゲームばかりやっている子供たちにはない豊かさだとあの映画を観てつくづく思いました。

 

129577483754916120730

 

 最後に音楽との関連にも触れておきます。「新星堂」に「オーマガトキ」と「クレプスキュール」というレーベルがあります。あまり見かけることはありませんが、素晴らしい作品がたくさんここから出ています。90年代から2000年代初めにかけて買いあさった時期がありました。まあ音楽のことはこのくらいにして、雲との関連に話を戻すと、「オーマガトキ」は言うまでもなく「逢魔時」 から来ていますし、「クレプスキュール」はフランス語で「黄昏」とか「薄暮」という意味です。

 

 紅く染まった夕焼け空も見事ですが、光が雲の切れ間から放射状に放たれる光芒も荘厳なものがあります。太陽がまだ山の端の上にある時には、雲の切れ目から下向きに光芒が放たれます。まるで神話の世界に出てくるような神秘的瞬間。まさにクレプスキュールの光芒です。太陽が山の影に沈むと光芒は下から上に放射されます。光芒が上から下に射している場合は宗教的な荘厳さを感じますが、光が上を向いているとまた違った感覚を覚えます。サーチライトを連想するのか、何かを指し示しているようにも感じますし、暗闇を突破したブレイクスルーの感覚もあります。上向きと下向きで感じ方が違うというのは面白いですね。

 

129577502966616120683

 

2023年12月29日 (金)

悠遊雨滴(番外編:過去のエッセイ一覧)

 2023年12月 2日に「悠遊雨滴」シリーズの1回目を掲載しましたが、エッセイはそれ以前から折に触れて載せていました。画面左上にある「アーカイブ」欄の「映画レビュー以外の記事一覧」にすべてリストアップしてありますが、タイトルだけではエッセイかどうか分かりにくい上に、いくつかのカテゴリーに分散しているのでこの機会にこれまで書いたエッセイ一覧をまとめておくことにします。すべてリンクを張ってありますので、クリックすればその記事に飛びます。

 

近頃日本映画が元気だ 2005年8月28日
喫茶店考 2005年8月28日
茶房「読書の森」へ行く 2005年8月28日
道の向こうに何があるか 2005年8月28日
パニのベランダで伊丹十三を読みながら 2005年8月29日
ある陶芸家の話 2005年9月 1日
最近聞いたCDから 2006年1月 7日
久々にコレクターの血が騒いだ 2006年3月12日
庭のテラスで読書、至福の時 2006年5月5日
映画の小道具 2006年6月24日
蒼い時と黒い雲 2006年10月 9日
漂流するアメリカの家族 2007年2月18日
路地へ 2007年7月30日
シセルとディー・ディー・ブリッジウォーターに酔う 2007年10月 7日
『路地の匂い 町の音』 2007年12月21日
変貌著しい世界の映画 2009年5月 2日
コレクター人生 2020年7月13日
ピート・ハミルの訃報から思い浮かんだことなど~連想の波紋 20年8月7日
20年続いている読書会の愉しみ 20年9月3日
小説を読む楽しみ 2021年7月26日
ロシア侵攻前のキーウの様子を映し出した貴重な映像 「世界ふれあい街歩き ウクライナ キエフ」再放送 2022年7月2日
「白い道」、東京の下町訛り 2022年7月17日
なぜ映画を早送りで観るのか 2022年7月24日
「出没!アド街ック天国」の魅力 2022年8月 8日
おおたか静流さん追悼+テレビのCMソング 2022年9月 8日

 

悠遊雨滴 その3:小学生の時僕はバスに轢かれた

 実は小学生の時バスに轢かれたことがある。あの時も跳ね飛ばされた時にとっさに受け身の姿勢をとったのかどうかわからない。そもそも柔道を習う前か後かも今となっては確かめようもない。受け身との関係はともかく、この時はいくつもの幸運が重なって生還したのである。

 一番幸いだったのはバスだから道路とバスの底との隙間が大きいということ。バスに跳ね飛ばされた後、僕の真上でバスは止まった。小学生だからランドセルを背負っていたわけで、普通の車だったら引きずられていただろう。鼻をすりむくなんてことでは済まなかったはずだ。次に幸いだったのは、丁度左右のタイヤの真ん中で倒れたこと。どちらかにずれていたらタイヤの下敷きになっていた。轢かれた場所が交差点で、バスは交差点を右折してきたのでスピードは出ていなかったのも幸いした。バスだから大きく回転する。運転手にすれば突然右側から子供が飛び出してきたように見えただろう。信号は多分青から黄色になりかかった頃と思われる。無理をしなければ何もなかったわけだが、カバンを手に下げた銀行員のようなおじさんが横断歩道を渡り終えるくらいのタイミングだったので、自分も何とか渡れると思ったのだろう。だから無理に渡ろうとした自分が悪かったのである。

 それはともかく、いくつもの幸いが重なって、僕は奇跡的にかすり傷一つ負ってなかった。自分でバスの下からはい出て行ったくらいである。ふと上を見上げると、恐怖にひきつって真っ青な顔をしたバスの運転手がかがんでこっちを覗いていた。きっと生きた心地がしなかっただろう。あの時の運転手さん、ごめんなさい。

 バスから這い出ると、僕はどこも痛くないから学校へ行くと言った。そのころには何人もの大人が集まってきていて、頭を打っているかもしれないからお医者さんに診てもらった方が良いと引き留められた。仕方がないのでしぶしぶ病院へ行った。今度は連絡を受けた母親がこれまた真っ青な顔で病院に飛んできた。電話で特に怪我はしていないようだから安心してくださいと言われたに違いないが、息子がバスに轢かれたと言われた時点でもうそれ以外の言葉は耳に入っていなかっただろう。自分の目で見て無事を確認するまでは安心できなかったに違いない。

 特に異常はないと病院で言われたのだと思うが、安全のためにその日は学校を休んだ。翌日は元気に登校した。もう半世紀以上前のことだが、今でも時々思い出すことがある。それが意外なところで話題になってしまった。今年の秋に小学校6年のクラス会があった。大学生の頃に1度やったきりだから、ほぼ半世紀ぶりだった。その時幹事の一人から、あの後事故があった交差点に歩道橋ができたのはお前の事故がきっかけだったと言われた。全く知らなかったのでびっくりした。本当のことだろうか。なんで当事者が知らないんだ。そう思ったが、いい酒の肴にされてすっかりそういうことになってしまっていた。

 2次会の後解散したが、二次会の会場の近くにその交差点があった。これが「俺の」歩道橋で、轢かれたのはあのあたりだと説明すると、誰かが今度マジックで**歩道橋と書いておくよと言い出した。「頼むからそれだけはやめてくれ」と慌てて言った。そして件の横断歩道を渡って帰っていったが、まさかあの後本当に書いたりしていないだろうなあ。

悠遊雨滴 その2:受け身の効用

 小学生のころ一時期柔道教室に通っていた。どうして柔道を習おうと思ったのか覚えていないが、おそらく友達に誘われたのだろう。なぜ一時期しかやらなかったかと言えば、その理由は単純。ひたすら受け身の練習ばかりさせられて、ほとんど組ませてもらえないのでつまらなくなってやめてしまったのである。

 当時はまだ子供だったのでどうして受け身ばかりやらされるのか理解できなかった。しかし何事も基礎練習に無駄なことはない。後年あの時受け身をしっかり習っておいて良かったと思うことが度々あった。受け身を身に付けることの一番の効用は怪我を防げるということである。とっさに受け身が出るほど叩き込まれたことが後々非常に役に立った。例えば躓いて転んだ時に、どう対応するか頭で考えていたのでは間に合わない。危ないと思った瞬間とっさに受け身の体制に入れるくらい身についているから怪我を防げるのである。頭で考えるのではなく、体で覚えさせるためにあれほどしつこく練習させられたのだ。

 実際とっさに出た受け身が体を守ってくれた経験は何度もある。まだスキーをやり始めたころ。初心者向きの林間コースを滑っていた時、止まろうとしても止まらなくなってしまった。体が後傾姿勢になっているのでスキー板に力が伝わらない。だから止まろうと思っても止まれない。転べばいいのだろうが、次第に勢いがついてどんどんスピードが出てくるのでなおさら止まらない。コースの幅も狭いのでとにかくその時出来たのはできるだけ左右に曲がって直滑降にならないようにすることだけだった。

 ようやく広いゲレンデに出てほっとしたが、それもつかの間。はっきりとは見えにくいがその先が少しうねっていた。そのうねっている所の頂点で飛んだ!初心者がいきなりジャンプしたのだからたまらない。そのままつんのめるようにして大転倒。しばらく何が起こったのか理解できなかった。立ち上がって体を調べてみると、幸いまったく怪我はしていなかった。どこも捻ったり打ったりしていなかった。それで落ち着いて、やっと周りを見渡す余裕ができた。自分でも目を疑ったが、四方八方に身につけていたものが飛び散っている。正確には憶えていないので例えばの話だが、スキー板は左右別々の方に転がり、帽子は右後方、サングラスは左前方。スティックも左右泣き別れ。なんと片方の手袋まで取れている。一体何がどうなれば手袋まで取れるのか、その時不思議に思ったほどだ。それでいて体は全く怪我なし。どうやら着地した瞬間板が外れ、その後とっさに体を丸めて2、3回前転をするように転がったと思われる。

 転がることで衝撃を和らげる。これが受け身の効用である。何が起こったのか自分でもよく覚えていないくらいの瞬間的な出来事だった。体が勝手に反応して体を丸めたから怪我をしないで済んだわけだ。その後はずれたもの、脱げたものを全部拾い集めて、何事もなかったかのようにスキーを続けた。不思議に恐怖心も残らなかった。そこまでの大転倒は1度きりだが、その後も何回かスキー板が外れるほどの転倒をしたことがある。しかし一度もけがをしたことはない。毎回起き上がってすぐまた滑り出した。とっさに体を丸めるという無意識の反応が柔道をやめた後もずっと身についていたおかげだ。

 他にもこんな経験がある。東京にいた頃は調布市に住んでいたが、下宿のすぐ横を野川が流れていた。その川沿いの遊歩道を散歩していた時、錦鯉のようなものが川にいるのを発見。緑色の鉄柵を乗り越えて川まで下りて眺めた。間違いなく錦鯉だった。普通川に錦鯉がいるはずはない。誰かが放ったか、大雨の時にでも流れ込んだのだろう。ひとしきり眺めた後、土手を上ってまた柵を乗り越えようとした。片足を柵にのせ、もう一方の足を引き上げようとしたその時、土手の草が濡れていたのか靴底が濡れて滑りやすくなっていて足を滑らした。地面と体が平行な状態でまっすぐ下に落下。遊歩道側に落ちたが、そこは舗装されている。しかし手のひらを軽く擦りむいたりはしたかもしれないが、まったく怪我はしなかった。腰などを打ったりもしていない。これもとっさの出来事だったので何がどうなったのか覚えていないが、たぶん左側が下になる状態で落下したので、地面に落ちる直前に左手と左足を地面に軽くついて、それを支点にコロッと横に回転したのだと思う。落下の衝撃を回転力に変える。まさに受け身の原理そのもの。

 そんな経験を何度もして、柔道教室に通っていた時あれほどしつこく受け身の練習をさせられた意味がそこにあったのだとようやく気が付いた。もう10年くらい前か、躓いて転んだ時とっさに手が前に出なくてそのままの姿勢で倒れるので、鼻を打つ人が少なくないということを新聞で読んだことがある。信じられなかった。せめて手を出すぐらいのことがどうしてできなかったのか。それも手を突っ張っていては手に衝撃が集中するから、ひじを少し曲げて衝撃を吸収できるようにする。できれば回転する。なぜそんな簡単なことができないのか不思議に思ったが、とっさに体が反応できなければきっとそうなるのだろう。このままでは危ないと頭では分かっていても、とっさに体が対応できないから怪我をする。そういうことなのだろう。

 

 

2023年12月 2日 (土)

悠遊雨滴 その1

 以前から何か軽いエッセイをブログに書きたいと思っていた。朝日新聞の「三谷幸喜のありふれた生活」、伊藤理佐と益田ミリが交代で書いている同名のエッセイ「オトナになった女子たちへ」、「山田洋次 夢をつくる」などを愛読しているので、自分も何かそんな感じのエッセイを書きたいと思っていたのである。22年7月に「『白い道』、東京の下町訛り」という記事を書いたのもそういう思いからだが、その後がなかなか続かない。しかしもっと肩の力を抜いて、日々感じたことを気軽に書いてみるぐらいの気持ちでまずは書き始めてみることにした。いずれは毎週1回定期的に書けるようになりたいと思っているが、まずは思い立ったときにとにかく書いてみることから始めようと思う。

 そのためには何かタイトルが必要なので、あれこれ思いつくまま候補を書き留めてみた。「独言独語」、「妄想妄語」、「夢想庵のひとりごと」などいろいろ考えたが、結局「悠遊雨滴」にした。仕事を退職し悠々自適の生活をしているので(年金だけしか収入がないので、つましい生活を余儀なくされてはいるが)、それをもじってみた。構えず悠々とし、遊び心を失わず、水滴が石を穿つように気長に続けてみようという意味を込めている。

* * * * * * * * *

 まず1回目は失敗談から。先日歯医者へ行った。当然歯医者の駐車場に車を停めるわけだが、途中うっかりして、いつもの習慣で手前の「イオン」の駐車場に入ってしまった。まあどうせ歯医者の後はここで買い物をするつもりだったので、いっそここに車を停めてしまえ。そう思ってそこに車を置いて、歯医者まで歩いて行った。ところが予約時間は3時だと思いこんでいたが実際は3時30分でまだ早いと窓口で言われる。待つ間本が読めるのでむしろ好都合、受付の人にはここで待ちますと伝えた。早速古賀太さんの『永遠の映画大国 イタリア名画120年史』をバッグから取り出して読み始める。しかしどうもページが薄暗いし、ピントが合わなくて字が読みにくい。そこではっと気が付いた。サングラスをかけたままだった!その日は雲一つない上田晴れで、日差しが強いので車を運転するときにサングラスをかけていたことを忘れていた。しかし本来の眼鏡(これは遠近両用)は車の中。仕方がないのでまた歩いて「イオン」の駐車場へ戻る。また歩くのも面倒なので、今度はそのまま車で歯医者へ戻った。

 その後はじっくり本を読んだ。『永遠の映画大国 イタリア名画120年史』(集英社新書)はイタリア映画史をコンパクトにまとめた本で、新書版だから分かりやすい。実は、かつてフランスと並ぶヨーロッパの映画大国だったイタリアがどうしてこうも衰退してしまったのか、かねてから疑問だった。その理由が分かるかと思って買ったのだが、それ以外のところ、例えばほとんど一般には知られていないイタリア映画の黎明期の話から、ネオリアリズモ以前の話など、知らなかったことだらけで面白い。ネオリアリズモの前あたりから一気に慣れ親しんだ名前がどんどん出てくる。なじみの作品がたくさん出てくるが、これだけ整理されてまとめられると理解しやすい。今80年代ごろまで来たので、これからいよいよ不振期に入ってゆく。どう分析されているか、どこまで納得のゆく説明がされているか楽しみだ。ということで結果オーライだったが、それにしても3重の失敗に我ながらあきれる。まあもう年だからこんなことは珍しくはないが。むしろ、たっぷり本を読む時間ができた上に多少の運動にもなったので良かったと思う。

 最後に余談だが、この本に名前が出てくる作品(特に名作、傑作と呼ばれる作品)はほとんど観ている。それでもネオリアリズモ以前の古いものはなかなか観る機会もなかったわけだが、今はかなり手に入りやすくなっている。コスミック出版から出ているCD10枚組で1800円というシリーズが容易に手に入るのだ。1枚180円!しかもリマスターされているので映像は鮮明だ。映像がきれいで、この安さで、しかも貴重な作品が盛りだくさん。買わない手はない。

 そのシリーズの中には「イタリア映画コレクション」と題する特集がいくつも含まれている。今のところ「2ペンスの希望 DVD10枚組」(以後「DVD10枚組」は略す)、「ミラノの奇跡」、「越境者」、さらには「3大巨匠名作集」(ロッセリーニ、デ・シーカ、ヴィスコンティ)を持っている。よく調べてみると他にも「殿方は嘘吐き」、「人生は素晴らしい」、「十字架の男」、「栄光の日々」もあり、いずれ全部買いそろえる予定である。これを全部揃えれば、『永遠の映画大国 イタリア名画120年史』に出てきて名前だけ知っている古い作品もかなり埋まることだろう。今からワクワクしている。

 

<付記>
 『永遠の映画大国 イタリア名画120年史』を最後まで読んだ。残念ながら、なぜあれほど栄えたイタリア映画が見る影もなく衰退してしまったのかという疑問に対する納得のゆく説明は結局なかった。イタリア国内の観客数が減ったなどの現象は書かれていても、なぜそうなったのか、それに対してどのような手を打ったのかについての深い分析はない。どういう新しい監督が登場し、どういう作品を作ったかが並べられるばかりだ。

 テレビの普及で映画の観客が減ったのは何もイタリアに限らない、当時はどこの国でも同じように苦戦していた。しかし様々な努力や工夫をして90年代以降、特に21世紀に入ってから盛り返している国は(日本も含めて)少なくない。アメリカもかつての勢いはないが、イタリア映画ほどの激しい落ち込み様ではなく、それなりに一定の水準を保ってはいる。1976年に文革が終わった中国は80年代に息を吹き返し、次々と傑作を放ち世界の最高水準に並ぶ映画大国になった。スペイン内戦でファシストが勝利して以来長い間スペイン映画の歴史は検閲との戦いだった。しかし1975年に独裁者フランコが死んだ後、80年代にスペイン映画はルネッサンス期を迎え世界中の映画祭で次々に賞を取るようになった。ナチス台頭期に才能のあるユダヤ人や反ナチの映画人が大量に外国にのがれ、1920年代に世界でトップクラスの地位にあったドイツ映画はその後見る影もなく衰退していった。それが70年代から80年代にかけて新たな才能が続々台頭してきて、ニュー・ジャーマン・シネマと言われて一気に世界の第一線級に躍り出た。

 デヴィッド・リーンやキャロル・リード監督など多くの巨匠を産んだイギリス映画界も60年代から退潮傾向が目立ち、70年代から80年代はどん底だった。80年代に首相を務めたサッチャーは新自由主義経済を導入し、かつて「ゆりかごから墓場まで」と言われた福祉国家を弱肉強食の競争国家に変えてしまった。長期低落傾向にあった経済は国家補償を削り自己努力を奨励する競争社会(イギリスはまさにリトル・アメリカと化した)に改造することで上向きになったが、貧富の差は拡大した。90年にサッチャーが退いた後、イギリスの映画人たちはとんでもない格差社会になった現状を批判的に描き出し、かつての巨匠の時代に匹敵する活況を90年代に取り戻した。長い歴史を持つ韓国映画界も国家によるテコ入れで1990年代から傑作が現れ始めた。とりわけアメリカで映画を学んできた人たちが韓国で次々とすぐれた作品を作り始めた2000年以降に絶頂期を迎える。

 1980年代から、それまで映画を作っていたとは思いもしなかった国々の映画がどっと日本で公開されるようになってきた。2000年代に入ってその傾向は加速している。今や世界の様々な国の映画が観られるようになっている(しかもその水準はかなり高い)。女性監督も世界中で進出しており、世界映画の水準を押し上げる原動力の一つとなっている。

 イタリアもそれなりに作品は作っており、注目すべき作品もいくつか生まれてはいるが、60年代までの勢いや作品水準とは比べるべくもない(実際、『永遠の映画大国 イタリア名画120年史』の冒頭で、著者自身も「映画大国イタリア」という言い方に驚く読者も多いだろうと書いている)。一体イタリアの映画産業に何が起こっていたのか。減ってゆく観客を呼び戻すためにイタリアの映画産業はどのような努力や工夫をし、国の文化政策は映画産業に対してどのような支援・援助をしてきたのか。またそれがどうしてあまり実を結ばないのか。そういった一番知りたいことにはほとんど言及されていない。イタリア映画衰退の謎はいまだ解明されていない。

 

2022年8月 8日 (月)

「出没!アド街ック天国」の魅力

 朝日新聞の2022年6月18日付の「テレビ時評」欄で「アド街」が紹介されていた。実はこの番組についてはだいぶ前に記事を書いてあったのだが、どうやらブログには載せていなかったらしい。どうして掲載しなかったのか理由は覚えていないが、一つ理由として考えられるのはいつのころからか上田では観られなくなったからということである。衛星放送に入っていれば観られたのかどうかわからないが、僕は衛星放送の契約はしていないので、地上波で放送していなければ観られないのである。

 それがなぜか今年に入って再び「出没!アド街ック天国」が長野放送で放送されるようになったのである。放送が始まって以来ずっと録画しているが、以前観ていた頃とはだいぶ変わっていた。まず司会の愛川欽也とアシスタントの女性アナウンサーがいなくなった。「あなたの街の宣伝本部長」愛川欽也は亡くなったので出ていないのは当然だが、進行役がいなくなったため、取り上げた街の「ベスト20」からいきなり始まる。これだって以前は「ベスト30」だったのが「ベスト20」に減っている。さらに、かつてはゲストトークの時間がたっぷりとってあったが、今は「ベスト20」紹介の合間にちょっとさしはさまれるだけ。「薬丸印の新名物」や最後に地域のコマーシャルを作るという楽しみもなくなっていた。以前の充実した番組と比べると何とも味気ない番組になっていた。何しろ10数年ぶりに観たのだから、ずっと観ていた人よりその激変ぶりを如実に感じるわけだ。その一方で変わらないものもある。女性コレクションのコーナーだ。しかも音楽も昔と一緒。これには逆にびっくりした。

 僕はあまり旅行をしないが、旅行番組は割と好きだ。実際に出かけるという面倒なことを省略して、家で美味しいところだけいただく。長野で冬季オリンピックが行われた時も一度も見に行かなかったし、行ってみたいとも思わなかった。わざわざ寒いところでしかも人垣の頭越しに遠くから見るよりも家のテレビでぬくぬくと温まりながらアップや解説も交えて観る方がずっと良い。大きなコンサート・ホールで聴くよりもCDでライヴ版を聞く方が楽だし、実際に聞きに行くなら小さなライブハウスの方が良い。東京にいたころは新宿の「ルイード」や渋谷の「エッグマン」などのライブハウスによく通った。すぐ間近で見られるのでもっぱら若い女性歌手ばかり選んで聞きに行っていた(というか見に行っていた)。

 閑話休題。ともかく旅行番組は結構好きだ。もうだいぶ昔だが「兼高かおる世界の旅」なんかもよく観ていた。今お気に入りの旅行番組、あるいは地域紹介番組は「出没!アド街ック天国」のほかに、「ブラタモリ」、「世界遺産」、「世界ふれあい街歩き」などである。この4つは番組としての水準は相当に高い。有名人が大騒ぎしながら行列ができる店や観光名所などを紹介する番組はどれもつまらない。「出没!アド街ック天国」は昔に比べたらずいぶんやせ細った感じではあるが、それでもまだ十分面白い。

 始まったころの「出没!アド街ック天国」がどんな感じだったかを最近見始めたばかりの人たちに紹介する意味もあると思うので、昔書いた文章をこの後に載せておきます。最初からずっと観てきた人たちには懐かしいかもしれません。

 

 

 最近はテレビを観ることも少なくなった。テレビをつけるのはDVDを観るためである事が多い。そんな状態でも毎週録画している(注:録画したものの大部分はVHSビデオだったので今は全部捨ててしまった)番組が1つだけある。「出没!アド街ック天国」である。

 「アド街ック天国」はいつ頃から始まった番組かはっきりとは分からないが、もう10年はたっているのではないか(注:上記朝日新聞の記事で1995年4月スタートと判明)。現在長野朝日放送で日曜日の12時から放送されている。ただ、残念なことにまだ完全なレギュラー番組にはなっていない。つまり、必ず毎週放送されるわけではなく、何か特別な番組が入るとそちらに差し替えられてしまうのだ。今の時期だと高校野球の地方大会の放送でこの2週間「アド街ック天国」はお休みである。要するにほとんど埋め草的扱いを受けているのだ。それどころか、毎年のように放送局や放送曜日が変わる。ひどいときにはまったく放送されなかった年もある。今年はほぼ毎週放送されているが、ただ放送される内容は東京12チャンネルより数週間遅れている。何年か前、お盆で実家に帰っていたときに「アド街」を見ていて、その1月後くらいに上田で同じ放送を見たことがある。実家で見たことはすっかり忘れていて、どうして見覚えがあるのだろうかとキツネにつままれたような気分になったことがあった。

 この番組は「地域密着型エンターテインメント」という極めて珍しいタイプの番組であり、番組構成と出演者の魅力という点で出色のスグレモノ番組である。番組の構成はいたって単純である。東京の諸地域(例えば千歳烏山、戸越銀座、本所吾妻橋、東浅草、自由が丘のような単位)や時には地方都市(例えば大阪新世界、横浜本牧、逗子など)を毎回取り上げ、その地域のシンボル的名所、その地域を代表する名店などのベスト30を紹介してゆき、最後に番組がその地域のコマーシャルを作るというものである。これだけでも楽しいのだが、司会の愛川欽也(自称「あなたの街の宣伝本部長」)と大江麻理子(初代は八塩圭子)、レギュラー・メンバーの薬丸裕英、峰竜太、毎回変わるその地域ゆかりのゲスト、そしてコメンテイターの山田五郎(初代は泉麻人)の間のやり取りが実に面白い。

 毎回同じパターンなのだが、少しも飽きないのはレギュラーとゲストの魅力を見事に引き出しているからである。特にレギュラー陣がいい。山田五郎には尊敬すら感じる。その知識の豊富さ、マニアックさ、発想の柔軟さがすごい。地域のコマーシャルを作る時にキーワードを皆で考え出すのだが、彼の発想は抜群である。横浜の「港未来」をテーマに取り上げたときは、港に群がる恋人たちが互いに見詰め合っている絵をバックに流れるキーワードが「港見ない」だった!薬丸君はいつも駄洒落路線だが、彼もすっかりこれにはお株を取られた感じだった。ゲストもまた多彩だ。特になぎら健壱がそのすっとぼけた持ち味を出していて実にいい。彼は準レギュラー的存在で、下町を取り上げたときには必ず出てくる。毎回最後の地域コマーシャルには彼自身が出演し、そのいずれもが傑作である。ギターの弾き語りで珍妙な歌を歌いながらその地域を歩き回るパターンが多いが、彼の人柄がうまく生かされていていつも感心する。いつか是非下町コマーシャル特集をやってほしい。ちょっとしたコーナーも充実していて、中でも「薬丸印の新名物」にはいつも笑わされる。レギュラーの薬丸裕英がテーマの地域に行ってそこの名物を探してきて紹介するのだが、いつもしょぼくてかえって面白いのである。時々掘り出し物があって感心することもある。

 このようにメンバーのやり取りが魅力なのだが、やはり何と言っても僕がこの番組に感じる一番の魅力は東京という街そのものの魅力である。東京以外の都市を取り上げることもあるが、ほとんどは東京の一角を取り上げている。東京という巨大な街のさまざまな地域を、拡大鏡を通してみたように微視的に取り上げている番組は他にない。いや雑誌などでもないだろう。雑誌の特集は取り上げる地域もテーマも限られている。普通の住宅街が取り上げられることはない。東京は人形町、経堂、谷中、王子、渋谷、日本橋、どこをとってもきわめて個性のある町で、それぞれに違った顔を持っている。それが東京の魅力である。東京を離れて長いが、まだまだ知らない東京がある。知っていると思っていた地域でも意外な顔があったりする。東京というメガシティの持つ多彩な顔、ここに一番惹かれるのだ。

 その地域の歴史や地名のいわれなども間単に紹介されている。ベスト30に選ばれるものも、最近のグルメブームの反映でレストラン等の食べ物屋が多く選ばれているきらいはあるが、誰でも知っている名所や有名な老舗などももれなく入っていて、極端な偏りがないところもいい。食べ物も、グルメ番組などで有名人やアナウンサーが食べに行って大仰に「うまい」などと叫んでいると、かえって本当かと疑いたくなるが、この番組では実際に行ったことのある出演者が「そうそう、あのタレが本当にうまいんだよねえ」などと言い合いながら進めてゆくので、その点いやみや宣伝臭がない。

 青年時代の12年間を過ごしたせいだろうか、いまだに東京には惹かれるものがある。なかなか実際に東京の街をゆっくりと歩いている時間は取れないのだが、東京の街歩きを主題にした本はよく読む。四方田犬彦の『月島物語』、なぎら健壱の『下町小僧』や『東京酒場漂流記』、『東京の江戸を遊ぶ』、『ぼくらは下町探検隊』、川本三郎の『私の東京万華鏡』や『私の東京町歩き』、森まゆみの『不思議の町根津』や『谷中スケッチブック』などのいわゆる「谷根千」ものなど、他にもいろいろ読んだ。また、東京の地名がついた小説にもなぜかひかれる所があって、つい何冊も買ってしまう。森田誠吾の『魚河岸ものがたり』(築地が舞台)と『銀座八邦亭』を読んだのもそのせいで、藤沢周平の『本所しぐれ町物語』は実在しない町だが、これも同じ関心から手を出したものである。買ったまま読んでいない本も多いのだが、これからも東京の地名のつく本を買い続けるだろう。

 「アド街ック天国」のビデオやDVDは出ないのだろうか。こういう番組こそDVDがほしい。つまらないドラマなど出すよりもっと教養系の番組をDVDにすべきだ。NHKの番組にはDVDにしてほしいものがたくさんある。海外でもBBC製作のものは出色の出来である。一部ビデオやDVDも出てはいるが、教養系のビデオやDVDは本数が少ないせいだろうが、値段が高い。でも、「アド街ック天国ベスト30」などというDVDがあったら高くても買いたい。せめてテレビで連日3日くらいかけてベスト版総集編でもやってくれないものか。
(2005年7月26日)

 長いこと上田では観られない状態が続いていたが、2022年4月から長野放送で放送されるようになった。久しぶりに観るとだいぶ変わっていた。ベスト30からベスト20に減り、ラストでコマーシャルを作るという企画を始め、いろんな企画がなくなっていた。しかしやや形態が変わったとしても相変わらず面白い。さらに幸いなことに、今ではユーネクストで観ることができる。録画はできないが、これまで見落としていた分を大量に観ることができた。ただしテレビで放送されているものは録画できるので、毎週せっせと録画している。

 

2022年7月24日 (日)

なぜ映画を早送りで観るのか

 稲田豊史著『映画を早送りで観る人たち』(光文社新書)という本が出ているらしい。まだ読んでいないし読む気もないが、書評によると「なぜ映画を早送りで観るのか」という問いの答えは、時間がない、早く結末が知りたい、タイムパフォーマンスが良い、LINEなどでの付き合いで話題に乗り遅れないようにしたい、などのようだ。確かにそうだろうとは思う。しかしこの問題にはもっとさかのぼって理由を探る必要があると思う。

 知っていること自体が価値だという考え方。番組のタイトルは忘れたが、日本人の数割しか知らないことを知っているかどうかを競う番組があった。「ハナターカダカ」というキャッチフレーズがそれを端的に表している。要するに、かつてクイズ番組が一世を風靡していた時のように、膨大だが細切れの「知識」をより多く持っていることが自慢の種になるという偏った価値観。こういう価値観が、例えば「早く結末が知りたい」、「話題に乗り遅れ」たくないという考え方の背後にある。

 僕は大学の受験勉強をほとんどしないで大学に入った人間である。受験勉強で「知識」を詰め込むより、優れた本を読み、優れた映画を観ることの方がはるかに有意義だと信じていたし、今でもその考え方は変わっていない。高校3年の時に三百数十本の映画を観た。映画を観ていなければ本を読んでおり、本を読んでいなければ映画を観ていた。おかげで五つの大学を受けてすべて不合格、かろうじてある大学に補欠合格で入学した。今ではできないが、当時は普通の学費の二倍払えば追加で入学を認めていたのである。

 入学後周りを見回しても優秀な同級生がいるとは思えなかった。一年と二年の時はほぼオールAだった。受験勉強の知識がいかに真の学力を測るうえで無意味であるか身をもって体験した。ある時、妹が徳川家の将軍一五代全員の名前を言えることに、それも順番まで間違えずに言えることに驚愕したことがある。自分にはとてもまねできないし、したいとも思わないことだったからだ。調べれば簡単にわかるような(特に今ならネットという便利なものがある)「知識」をなぜ暗記しなければならないのか、僕には全く理解できない。必要になったら調べればいいだけではないか。

 そういう受験勉強に踊らされてきた人たちは、ごく一部の人を除いて人が知らないことを知っていることに満足感を覚える感性を身につけてしまっている。そういう価値観を身に着けている人の一部は、例えば、重箱の隅をつつくようにして人の知らないことを掘り返してくることに喜びを見出す。すぐれた作品だが忘れ去られていた貴重な作品を発掘するに至ることはまれである。だから結局オタクになってゆく。

 こういう感性または価値観が、映画を早送りで観ることの背後に間違いなくある。ただ見たということだけで満足する。話題について行けることで満足する。その程度で話題についてゆけるのだとすれば、相当に底の浅い会話だということになる。逆にオタクのように重箱の隅をつつくような、あえて言わせてもらえば、どうでもいい知識を自慢げに披露する方向に向かう人もいるが、そういう人たちは作品全体を深く理解できていないことは言うまでもない。世間で言う「映画通」とはこういう半端な知識しかもっていない人を指していることが多く、そういう人たちはなるほどと感心するような映画評を書くことはできない。作品を味わい、深く分析することなどできないのだ。こういった人たちは、早送りではなく普通の速さで観ても大して理解度が深まるわけではない。

 こういう人たちが大量に生まれてきたことには日本の教育の仕方に問題があることは言うまでもない。考え分析することより、膨大だが断片的かつ浅薄な知識を覚えることに時間を費やす教育。そういう教育を長年受けてきた結果なのだ。ツイッターという短い文で何かを伝えたつもりになっているのも根は同じだ。長い文はかけないし、長い文を読む力も根気もない。物事を一面的で短絡的にしか見ないから、短い文で事足れりと思い込んでしまう。長さではなく、早いことをよしとする考え方もまた同じである。例えば映画を例にとれば、深い解釈や分析ができないから、人より早く新作を観ることに血道をあげる。全く内容のない紹介文を人より早くSNSなどに投稿して優越感を感じる。どうでもいいような細切れ「知識」を披露して「通」を気取るのも同じこと。それしかできないからそうするわけだ。

 こういう現状を考えてみれば、タモリの「ブラタモリ」は非常に優れた番組だと言える。ある街(町)を一般的な紹介の仕方とは全く違った角度から見直す。地理的、地質的、地形的な特質から街の歴史や成り立ちを見直してゆく。何でも知っているプロはだしのタモリの知識も、ただ断片的なものではない。彼はなぜこうなるのかを自分の言葉で説明できる。互いにつながりのない点のような知識の寄せ集めではなく、豊富な知識が線や面となってつながっている。だから成り立ちを説明できるし、推測もほとんど当たるのである(的中率の高さは驚異的だ)。「ブラタモリ」を観た後は、同じ街(町)が全く違って見える。

 僕の文章は総じて長いので、90%以上の人は滞在時間0秒か10秒以内に他に移ってしまう。僕の文章の内容がどうとかいう以前に、その長さと文字ばかりがずらっと並んでいるのを見た瞬間に拒否してしまう。ただ長いというだけで避けてしまう。こちらも読みたいと思う人に読んでもらえればいいので、それでも別に構わない。ただ面白いことに、毎年必ず閲覧数を稼ぎ、秒殺でよそへ行ってしまうのではなく、一応内容を観ていると思われる記事がいくつかある。とは言え、最後まで読み切っているわけではなく、使えそうだと判断した時点でコピーして離れてゆく場合がほとんどだと思われる(滞在時間から判断して)。

 どういう記事かというと、イギリス小説を取り上げた記事である。つまり授業のレポートを書く際の「資料」として使われているようなのだ。普段は0秒で去ってゆく人たちも、必要に迫られると仕方なく目を通す。読んでもらえるのはうれしいが、ただコピペして剽窃しているようなら困ったことだ。もっとも最近は手が込んできて、多少手を加えて引用元がすぐ分からないようにしていることが多いようだ。不特定多数の人に読んでほしいからブログに掲載しているのだが、ルール違反の盗用はいけない。こういうことがはびこるのも、自分の頭で考え、分析するのではなく、手っ取り早く結果を出せばいいという文化が生み出したことだ。このように、これまで述べてきたことはすべて根っこでつながっている。もちろんきっかけはレポートの素材探しだったとしても、面白そうなブログだと思って時々見に来てくれている人もいることはアクセス数の分析からわかります(当ブログへの入り口がイギリス小説を取り上げた記事である場合は、そのページをブックマークに入れたからだと判断できるので)。そういう方たちもひっくるめて批判しているわけではありません。

 人々の判断力、思考力を奪っているのは暗記中心の教育の在り方だけではなく、校則という縛りも手を貸していると思われる。全く正当な理由もなく理不尽な規則を一方的に押しつけ、生徒をがんじがらめにする。校則ではなく「拘束」と書き直したいくらいだ。しかも優等生ほどこれを素直に受け入れて、うまく立ち回る。知らぬ間に判断力、思考力を奪われ、規則に従うことが正しいことだと刷り込まれてゆく。いつの間にかその校則が本当に必要なのか疑う力を奪われている。文科省が作りたいのは何も疑わずただ上からの言いなりになる人間の育成なのかと疑ってみることもできない人間が大量に生産される。難しいことは偉い人に任せておけばいいという受け身的な考えが知らず知らずのうちにしみついてしまう。何度選挙をやっても自民党が勝つはずだ。どうしてそれが必要なのかを疑う、様々なことに疑問を持つ習慣が早い段階で摘み取られてゆく。上から言われたことをそつなくこなす人が出世する。そういう社会がこうして作られてゆく。

 不当に自由を奪う校則に何の疑問もなく従うメンタリティは、言われた通りにできないものを怒鳴りつけ、罵倒し、何でもいいから言われた通りにやれと押しつける人間を作り出す。黙って受け入れてきた人は、黙って受け入れることを他人に強要する。相手にわかりやすく、かつ筋の通った説得をする力を持たないからだ。おまけに本人もストレスを抱えているので(その人自身も会社のコマの一つに過ぎない)、なおさら叱り飛ばし、怒鳴りつけるしかない。物事を立ち止まってよく考えない人たちが先も見えずただうろたえるばかりの、効率一辺倒の息苦しい社会。自分で自分の首を絞めながら、他人の首も絞めている。負の歯車は回り続ける。これを止めるには、立ち止まってよく考え、何事にも疑問を持つことから始めなければならない。

 

2022年7月17日 (日)

「白い道」、東京の下町訛り

 まだ東京に住んでいた頃だから1980年代の初め頃だろうか。どこか東京の下町あたりで浅草へ行く道を聞いたことがある。誰か明らかに地元の人と思われそうな人がいないかと探していると、前からまるで沢村貞子のような感じの女性が歩いてきた。顔が似ているというのではない。その佇まいや服装からまるで沢村貞子がスクリーンから抜け出てきたような感じがしたのである。この人なら間違いなく地元の人だと確信して、道案内を乞うた。

 

 その人が言うには、そこの路地に入ってまっすぐ進むと白い道に出るので、そこを右だったか左だったかに行けばよいとのことだった。「白い道」というのがどういう道なのかよく理解できなかったが、とにかく言われた通りに歩いて行けばわかるだろうと考え、特に質問もせずお礼を言って別れた。

 

 路地に入り、道々「白い道」のことを考えていた。どうして道が白いのか。白い横断歩道がやたらとある道なのか、それとも何らかの理由で道を白く塗ってあるのだろうか。それにしても何で道を白く塗る必要がある?そんなことをあれこれ考えながら歩いているうちに、ふとある考えが浮かび、謎が解けた。

 

 実はすぐその半年くらい前だったか、朝日新聞の「天声人語」に東京の下町訛りのことが書いてあったのを思い出したのだ。東京にも訛りがあるのかと驚いたが、下町あたりでは「ひ」と「し」が逆になるというのだ。潮干狩りが「ヒオシガリ」に、彼岸と此岸が逆になる。ということは、あのおばさんは「広い道」と言っていたのだ。つまり細い路地を抜けると大通りに出ると説明していたのだとやっと理解できた。実際やがて大通りに出た。

 

 下町訛りがあることは知識として知ってはいたが、実際に聞いたのはこの時が最初で最後だった。あの時あのおばさんに道を聞いてよかった。あの時のおばさん、ありがとう。おかげで得難い経験ができました。ところで、都会の訛りと言えばロンドンの労働者の言葉コックニーも有名だ。この訛りの典型は「エイ」が「アイ」になること。テイプ(日本語表記ではテープ)がタイプに、「デイ」が「ダイ」になってしまう。(注)

 

 有名なエピソードは「マイ・フェア・レディ」に出てくるレックス・ハリソンがオードリー・ヘプバーンの訛りを矯正するシーン。彼はヘプバーンにThe rain in Spain stays mainly in the plain.という文を何度も発音させるが、何度試しても彼女は「ザ・ライン・イン・スパイン・スタイズ・マインリー・イン・ザ・プライン」と発音してしまうのが可笑しい。オーストラリアにも同じ訛りがある。この訛りを実際に経験したことがある。90年代にイギリス南部のブライトンにある語学学校で2週間ほど語学研修を受けたことがある。その時の先生の一人がこの訛りを話していた。最初のうちは慣れないので頭の中で「アイ」を「エイ」にいちいち変換していたが、帰るころには意識しなくても自然に入ってくるようになっていた。

 

 そういえば、小学生のころ、東北訛りの先生がいて「い」と「え」が逆になっていた。いや、「い」と「え」がほとんど同じになって区別がつきにくかったということだったかもしれない。いずれにせよ、生徒もそれが分かっているのでやはり頭の中で変換しながら聞いていたと思うが、ある時訛った結果全然別の単語になってしまい(上の「白い道」のような感じだ)、生徒全員がぽかんとしていたことがあった。先生もそれに気が付いていろいろ言いなおしてくれたのでやっと理解できた次第。それが何という言葉だったかは覚えていないが、これも懐かしい思い出だ。

 

 もちろん僕も茨城県出身なので当然茨城弁を話していた。イントネーションは直せるので、これには苦労した覚えはないが、アクセントだけはどうにもならない。何せ同音異義語をアクセントで区別するという習慣自体が存在しないのだ。川にかかる橋も、ご飯を食べるときの箸も、すみっこという意味の端もすべて同じアクセントになる。アクセントを意識するという習慣そのものが存在しないので、アクセントが合っているのかも違っているのかも分からない。聞き分けられないから発音もできない。ある時「古事記」と言ったつもりが、お前の発音では物乞いする「乞食」になると言われびっくりしたことがある。そもそもアクセントと僕が言うと、「悪戦苦闘」と聞こえるとまで言われた。直しようがないので、東京に来た最初のころから気にしないことにした。茨城県人は文脈で判断するので、お前らもそうしろというわけだ。おかげで、言葉で悩んだことはない。アクセントの間違いを指摘されたら、その時覚えればいい(指摘されないと分からない)。

 

 そういえば、方言を標準語だと思い込んでいる場合もある。もうだいぶ前だが、NHKの教育テレビ(今のEテレ)で方言の話をしていた。その中で茨城弁を取り上げていくつか例を挙げていた。それを観て初めて「青なじみ」が方言だとわかった。これはショックだった。標準語だと思っていたからだ。千葉県の船橋市出身の同僚に聞いたら、彼を同じように驚いていた。船橋でも「青なじみ」という言葉を使っていて、標準語だと思っていたのである。標準語の「青あざ」に当たる表現だが、今じゃ実家あたりでも使う人は少ないかもしれない。

 

 先にあげた「マイ・フェア・レディ」の例がそうだが、発音というのはなかなか治らないようだ。タイトルは忘れたがあるアルゼンチン映画でこんな場面があった。アメリカ人が自分の名前をソーントンだと紹介するのだが、相手のアルゼンチン人はトルトンとしか発音できない。何度直してもトルトンのまま。この場面が妙に可笑しかった。

 

 もちろん地域独特の発音や語彙があってしかるべきだ。どんどん方言がなくなってきている今ではむしろ方言を残す努力をしなければいけない状況になっている。方言や訛りは絶滅危惧種だ。東京の下町訛りは今でも残っているのだろうか。いや、言葉ばかりではない。全国どこに行っても同じような家が建ち、同じチェーン店があるというのも味気ない。


(注)
 イギリスのテレビ・ドラマの傑作「ニュー・トリックス~退職デカの事件簿」シリーズで、デニス・ウォーターマン演じるジェリー・スタンディングが話しているのはまさにこのむき出しのコクニーである。