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2024年5月

2024年5月31日 (金)

これから観たい&おすすめ映画・BD(24年6月)

【新作映画】公開日
5月18日
 「ちゃわんやのはなし -四百年の旅人-」(2023)松倉大夏監督、日本
5月24日
 「関心領域」(2023)ジョナサン・グレイザー監督、米・英・ポーランド
 「バティモン5 望まれざる者」(2023)ラジ・リ監督、フランス・ベルギー
 「母とわたしの3日間」(2023)ユク・サンヒョ監督、韓国
 「三日月とネコ」(2024)上村奈帆監督、日本
5月25日
 「生きて、生きて、生きろ。」(2024)島田陽磨監督、日本
5月31日
 「マッドマックス:フュリオサ」(2024)ジョージ・ミラー監督、オーストラリア
 「ライド・オン」(2023)ラリー・ヤン監督、中国
 「美しき仕事 4Kレストア版」(1999)クレール・ドュニ監督、フランス
 「告白 コンフェッション」(2024)山下敦弘監督、日本
 「ユニコーン・ウォーズ」(2022)アルベルト・バスケス監督、スペイン・フランス
 「からかい上手の高木さん」(2024)今泉力哉監督、日本
 「わたくしどもは」(2023)富名哲也監督、日本
6月1日
 「アニマル ぼくたちと動物のこと」(2021)シリル・ディオン監督、フランス
6月7日
 「あんのこと」(2023)入江悠監督、日本
 「ナイトスイム」(2023)ブライス・マクガイア監督、アメリカ
 「チャレンジャーズ」(2024)ルカ・グァダニーノ監督、アメリカ
 「ドライブアウェイ・ドールズ」(2024)イーサン・コーエン監督、アメリカ
 「罪深き少年たち」(2022)チョン・ジヨン監督、韓国
 「東京カウボーイ」(2023)マーク・マリオット監督、アメリカ
 「ハロルド・フライのまさかの旅立ち」(2022)ヘティ・マクドナルド監督、イギリス
 「違国物語」(2024)瀬田なつき監督、日本
 「かくしごと」(2024)関根光才監督、日本
6月14日
 「ディア・ファミリー」(2024)月川翔監督、日本
 「ブルー きみは大丈夫」(2024)ジョン・クラシンスキー監督、アメリカ
 「蛇の道」(2024)黒沢清監督、日本(2024)
 「オールド・フォックス 11歳の選択」(2023)シャオ・ヤーチュエン監督、台湾・日本
 「HOW TO BLOW UP」(2022)ダニエル・ゴールドハーバー監督、アメリカ
6月15日
 「骨を掘る男」(2024)奥間勝也監督、日本・フランス
6月29日
 「アディクトを待ちながら」(2024)ナカムラサカヤ監督、日本




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【新作DVD・BD】レンタル開始日、またはネット配信日
5月29日
 「キリエのうた」(2023)岩井俊二監督、日本
6月5日
 「宇宙探索編集部」(2021)コン・ダーシャン監督、中国
 「SISU / シス 不死身の男」(2023)ヤルマリ・ヘランダー監督、フィンランド
 「熊は、いない」(2022)ジャファル・パナヒ監督、イラン
 「隣人X 疑惑の彼女」(2023)熊澤尚人監督、日本
 「禁じられた遊び」(2023)中田秀夫監督、日本
 「FLY! フライ!」(2023)バンジャマン・レネール監督、アメリカ・フランス
 「ペルリンプスと秘密の森」(2022)アレ・アブレウ監督、ブラジル
6月12日
 「カラー・パープル」(2023)ブリッツ・バザウール監督、アメリカ
 「法廷遊戯」(2023)深川栄洋監督、日本
6月14日
 「あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。」(2023)成田洋一監督、日本
6月19日
 「VORTEX ヴォルテックス」(2021)ギャスパー・ノエ監督、フランス
6月25日
 「唄う六人の女」(2023)石橋義正監督、日本
6月26日
 「人生に詰んだ元アイドルは、赤の他人のおっさんと住む選択をした」(2023)穐山茉由監督、日本
7月3日
 「デューン 砂の惑星 PART2」(2024)ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、アメリカ
 「君たちはどう生きるか」(2023)宮崎駿監督、日本
 「アバウト・ライフ 幸せの選択肢」(2023)マイケル・ジェイコブス監督、アメリカ
 「イ・チャンドン アイロニーの芸術」(2022)アラン・マザール監督、フランス・韓国
 「コット、はじまりの夏」(2022)コルム・バレード監督、アイルランド
 「最悪な子どもたち」(2022)リーズ・アコカ、他、監督、フランス
 「ジェントルマン」(2022)キム・ギョンウォン監督、韓国
 「シャクラ」(2022)ドニー・イェン監督、香港・中国
 「ダム・マネー ウォール街を狙え!」(2023)クレイグ・ギレスピー監督、アメリカ
 「探偵マーロウ」(2022)ニール・ジョーダン監督、アイルランド・スペイン・フランス
 「薄氷の告発」(2023)ユン・クォンス監督、韓国
 「瞳をとじて」(2023)ヴィクトル・エリセ監督、スペイン
 「市子」(2023)戸田彬弘監督、日本
 「レディ加賀」(2023)雑賀俊朗監督、日本
 「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」(2023)古賀豪監督、日本
7月5日
 「僕らの世界が交わるまで」(2022)ジェシー・アイゼンバーグ監督、アメリカ
7月10日
 「サン・セバスチャンへ、ようこそ」(2020)ウディ・アレン監督、スペイン・米・伊
7月17日
 「ブルーバック あの海を見ていた」(2022)ロバート・コノリー監督、オーストラリア
7月19日
 「サイレントラブ」(2024)内田英治監督、日本
8月2日
 「コヴェナント 約束の救出」(2022)ガイ・リッチー監督、アメリカ
 「DOGMAN ドッグマン」(2023)リュック・ベッソン監督、フランス
 「ほかげ」(2023)塚本晋也監督、日本
8月7日
 「犯罪都市 NO WAY OUT」(2023)イ・サンヨン監督、韓国
 「カラオケ行こ!」(2023)山下敦弘監督、日本




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【旧作DVD・BD】発売日
6月19日
 「ジャン・ユスターシュ Blu-ray BOX」(63~79)ジャン・ユスターシュ監督、フランス
  収録作品:「わるい仲間」「アリックスの写真」「サンタクロースの眼は青い」「ママと娼婦」全9作
7月3日
 「シークレット・サンシャイン」(2007)イ・チャンドン監督、韓国
 「オアシス」(2002)イ・チャンドン監督、韓国
 「ポエトリー アグネスの詩」(2010)イ・チャンドン監督、韓国
 「ボブ・マーリー ラスト・ライブ・イン・ジャマイカ・サンスプラッシュ」(1980)ステファン・ポール、西独・ジャマイカ
 「茶の味」(2003)石井克人監督、日本
8月9日
 「赤い影 4Kレストア特別版」(1973)ニコラス・ローグ監督、イギリス・イタリア
 「ザ・コミットメンツ」(1991)アラン・パーカー監督、イギリス・アイルランド・アメリカ



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*色がついているのは特に注目している作品です。

 

 

2024年5月15日 (水)

ゴブリンのこれがおすすめ 72 カラー時代のモノクロ映画

「せかいのおきく」(2023)阪本順治監督、日本
「遺灰は語る」(2022)パオロ・タヴィアーニ監督、イタリア
「小説家の映画」(2022)ホン・サンス監督、韓国
「エル プラネタ」(2021)アマリア・ウルマン監督、アメリカ・スペイン
「カモン カモン」(2021)マイク・ミルズ監督、アメリカ
「茲山魚譜 チャサンオボ」(2021)イ・ジュニク監督、韓国
「パリ13区」(2021)ジャック・オーディアール監督、フランス
「ベルファスト」(2021)ケネス・ブラナー監督、イギリス
「スウィート・シング」(2020)アレクサンダー・ロックウェル監督、アメリカ
「異端の鳥」(2019)ヴァーツラフ・マルホウル監督、チェコ・ウクライナ・スロヴァキア
「パラサイト 半地下の家族 モノクロ版」(2019)ポン・ジュノ監督、韓国
「ライトハウス」(2019)ロバート・エガース監督、アメリカ
「ROMA/ローマ」(2018)アルフォンソ・キュアロン監督、メキシコ
「藍色少年少女」(2016)倉田健次監督、日本
「彷徨える河」(2015)シーロ・ゲーラ監督、コロンビア・ベネズエラ・アルゼンチン
「ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅」(2013)アレクサンダー・ペイン監督、アメリカ
「パプーシャの黒い瞳」(2013)ヨアンナ&クシシュトフ・コス=クラウゼ監督、ポーランド
「コーヒーをめぐる冒険」(2012)ヤン・オーレ・ゲルスター監督、ドイツ
「ブランカニエベス」(2012)パブロ・ベルヘル監督、スペイン・フランス
「フランケンウィニー」(2012)ティム・バートン監督、アメリカ
「フランシス・ハ」(2012)ノア・バームバック監督、アメリカ
「アーティスト」(2011)ミシェル・アザナヴィシウス、フランス
「木洩れ日の家で」(2007)ドロタ・ケンジェジャフスカ監督、ポーランド
「さらば、ベルリン」(2006)スティーヴン・ソダーバーグ監督、アメリカ
「グッドナイト&グッドラック」(2005)ジョージ・クルーニー監督、アメリカ
「シン・シティ」(2005)ロバート・ロドリゲス、クエンティン・タランティーノ、他、監督、米
「コーヒー&シガレッツ」(2003)ジム・ジャームッシュ監督、アメリカ
「13デイズ」(2000)ロジャー・ドナルドソン監督、アメリカ
「あの娘と自転車に乗って」(1998)アクタン・アリム・クバト監督、キルギス・フランス
「カラー・オブ・ハート」(1998)ゲイリー・ロス監督、アメリカ
「スモーク」(1995)ウェイン・ワン監督、アメリカ
「デッドマン」(1995)ジム・ジャームッシュ監督、アメリカ
「シンドラーのリスト」(1993)スティーヴン・スピルバーグ監督、アメリカ
「コルチャック先生」(1991)アンジェイ・ワイダ監督、ポーランド
「少年、機関車に乗る」(1991)バフティヤル・フドイナザーロフ監督、タジキスタン・ ロシア
「黒い雨」(1989)今村昌平監督、日本
「ベルリン・天使の詩」(1987)ヴィム・ヴェンダース監督、西ドイツ・フランス
「海と毒薬」(1986)熊井啓監督、日本
「ダウン・バイ・ロー」(1986)ジム・ジャームッシュ監督、アメリカ・西ドイツ
「夢みるように眠りたい」(1986)林海象監督、日本
「最後の戦い」(1983)リュック・ベッソン監督、フランス
「ボーイ・ミーツ・ガール」(1983)レオス・カラックス監督、フランス
「ベロニカ・フォスのあこがれ」(1982)ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督、ドイツ
「泥の河」(1981)小栗康平監督、日本
「エレファント・マン」(1980)デヴィッド・リンチ監督、英・米
「レイジング・ブル」(1980)マーティン・スコセッシ監督、アメリカ
「マンハッタン」(1979)ウディ・アレン監督、アメリカ
「イレイザーヘッド」(1976)デヴィッド・リンチ監督、アメリカ
「さすらい」(1976)ヴィム・ヴェンダース監督、西ドイツ
「ヤング・フランケンシュタイン」(1974)メル・ブルックス監督、アメリカ
「レニー・ブルース」(1974)ボブ・フォッシー監督、アメリカ
「都会のアリス」(1973)ヴィム・ヴェンダース監督、西ドイツ
「ペーパー・ムーン」(1973)ピーター・ボグダノヴィッチ監督、アメリカ
「株式会社/ザ・カンパニー」(1972)サタジット・レイ監督、インド
「ラスト・ショー」(1972)ピーター・ボグダノヴィッチ監督、アメリカ




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 最初に「カラー時代」とはいつからなのかをはっきりさせておきたい。ここでは便宜上1970年以降とした。カラーフィルム自体はサイレント映画時代にすでに発明されていたようだが、長編カラー映画が作られ始めたのは1930年代からと言っていいだろう。「オズの魔法使」(1939)や「風と共に去りぬ」(1939)がその代表作だ。しかしその後もかなり長い間白黒映画の時代が続く。おそらくカラー映画は制作費が高くついたからだと思われる。

 

 カラー化が一気に進んだのは1960年代だろう。テレビの普及で映画の人気が落ち込んでいた頃で、その起死回生の手段がカラー化だったと思われる。しかしまだ白黒作品も少なからず上映されていた。1970年代はさすがにほとんどがカラー映画になっていた。そこで切りの良いところで1970年以降をここでは「カラー時代」と呼ぶことにする。

 

 さて、モノクロ映像(画像)の特徴は何だろうか。「思い出はモノクローム 色を付けてくれ~」(大滝詠一、「君は天然色」)と歌われているように、思い出がモノクロないしセピア色なのは、色あせた昔の白黒写真を連想させるからだ。もちろん昔だって色はあふれていたはずだが。記憶は時間がたつと薄れてゆく。しかし写真は残る。だから消えはしないが、現像された写真は経年劣化で鮮明な白黒から色あせたセピア色に変わってゆく。つまり、モノクロという色調はイメージとして過去ないし過去の思い出と重なっているのである。過去と現在を対比的に描く映画などで過去の部分がモノクロないしセピア色で撮られていることがしばしばあるのはこのためである。

 

 過去の歴史的出来事や自身の幼少期を投影して描いた自伝的ドラマなどを描く映画の場合、全編モノクロで描かれることがあるのも基本的には同じ理由からであろう。過去とは色のない、灰色でくすんだ世界というイメージと結びつきやすく、そこからさらに寒々とした世界、荒涼とした世界、闇の多い不気味さ、不安感などにつながってゆく。後半の諸要素(寒々とした世界、荒涼とした世界、闇の多い不気味さ、不安感)を強調しているのはハード・ボイルドやフィルム・ノワールである。ノワール→黒→闇→犯罪・陰謀という連想。実際ポン・ジュノ監督の「パラサイト 半地下の家族」(2019)のモノクロ版を観た時、カラー版よりぐっとノワール的要素が押し出されていると感じた。結末があんな感じだったかと驚いた。ラストの惨劇は赤い鮮血が強調されるより、どす黒い怒りと悪意の塊が噴き出す感じがモノクロで強調されている。大雨で半地下がある家の一帯が水に浸かっているシーンは古いニュース映像を観ている感じがする。カラー版よりもモノクロ版の方が先に完成していたというのも何となくわかる気がした。その手法をやや違った形で活用したのがドイツ表現主義やその手法を取り入れた映画だ。こちらは光と影の対比、特に闇や影の不気味さが強調されている。さらには、カラーとモノクロの対比は生者の世界と死者の世界の対比にも使われる。人が希望を失った時、世界は色を失う。

 

 カラーとモノクロの対比を意図的に強調したのがパート・カラーである。現実の世界と幻想の中で見る天国をカラーとモノクロで描き分けた「天国への階段」(1946)がその典型だが、「ベルリン・天使の詩」(1987)、「カラー・オブ・ハート」(1998)、「ラン・ローラ・ラン」(1998)、「シン・シティ」など他にも結構ある。「天国と地獄」(1963)や「シンドラーのリスト」(1993)、「あの娘と自転車に乗って」(1998)のようにワンポイントでカラー画面を用いるのも効果的である。




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 このように白黒映画と言っても、白よりも黒あるいは灰色のイメージが強いのは否めない。つまりそこは鮮やかな色彩がない世界なのである。だから犯罪と暴力、闇の中でうごめくハード・ボイルドな男の美学、ダークで渋い大人の世界、怪奇性、そこから生まれる不安や焦燥、閉塞感、不条理感を描くのにモノクロの映像は効果的なのである。そう考えると、「ディメンシャ13」、「エレファント・マン」、「ライトハウス」などがモノクロで撮られたのも納得がゆく。

 

 モノクロ画面の効果や効能は上で述べた以外にももちろんある。例えば「せかいのおきく」がモノクロで撮られたのは過去の時代を描いているからということもあるだろうが、もう一つ生々しさを抑えるという狙いもあるだろう。これは必ずしもマイナス思考ではない。一気に話は映画から絵画に飛ぶが、ピカソの「ゲルニカ」も白黒で描かれている。その分生々しさは抑えられており、原爆画のような血なまぐささはないし、パッと見たところ悲惨さやむごさをさほど感じない。ピカソはむしろ白黒にすることによって、真っ赤な血の色を強調するのではなく、表面的な悲惨さではなく魂の声、声なき叫びを描いたと言えよう(鬼気迫る原爆画の価値が低いと言いたいのではなく、ピカソは全く別のアプローチを試みて成功していると言いたいだけだ)。悲惨さを生理的に伝えるのではなく、頭だけで理解するのでもなく、もっと象徴的に、感覚にしみこませる試みだと理解すべきだ。

 

 絵画にふれたついでに、ラファエル前派のオーブリー・ビアズリー(1872-98)の作品にも触れておこう。『サロメ』などに代表される彼独特の挿絵は、大胆な白と黒のコントラストによる奇抜な構成という魅力を持っている。彼の挿絵は、ほとんどが「ライン・ブロック」と呼ばれる印刷法によっている。この技法は、写真を使っているので正確に原画を再現することが出来るが、その代わり白と黒の対比だけで、微妙な中間色や濃淡を表すことは出来ない。ビアズリーはこの印刷法の特質を充分に心得ていて、思い切った白と黒のコントラストによる構成を実現して見せている。『サロメ』の挿絵や『イエロー・ブック』の作品になると、この白と黒の対比に加えて白地の部分を思い切って大きくして、流麗な描線の魅力を強調するという傾向が見られる。余計な部分をいっさい切り捨てて、ほんのわずかの的確な線だけを生かすというやり方を用いたのである。

 

 話を絵から映画に戻そう。ビアズリーを取り上げたために白と黒の対比が強調されてしまったが(この効果は確かにあるわけで、例えばビートルズの「ウィズ・ザ・ビートルズ」のジャケット写真で使われたハーフ・シャドウの効果を思い浮かべればいい)、映画の場合画面の大部分を占めるのは真っ白や真っ黒な部分ではなく、その間にある灰色の様々なグラデーションである。モノクロ映画は世界を光と影に還元することだという指摘は、光と影(陰影)の持つ様々なイメージや比ゆ的意味合いを強調することになりその意味で有意義ではあるが、完全に白と黒だけに還元してしまうわけではない。むしろ世界から色彩を取り去るという表現の方がより正確だろう。色がなくなることで、色に頼っていた表現をコントラストだけで表現することになるわけなので、ここで先ほどピカソの「ゲルニカ」で示したような別な要素や工夫を盛り込むことが必要になってくる。つまり、世界から色を奪うことはそれ自体「異化」効果を持っており、色がない分それ以外の要素、人物造形(例えば、顔に斜めから光を当てれば影ができて表情に深みが増す)やサスペンスフルなストーリー展開、フィクション性の強調、コントラストを強めてシルエットを浮かび上がらせる効果、等々を意識させることにつながる。日没前後の美しい夕焼けが見られるマジック・アワーの後に続く蒼い時(逢魔が時)。明るい昼間とは全く違う色のないあの独特の時間帯が持つ不思議な魅力。モノクロ映画にはそれと同じような効果がありはしないだろうか。世界が色を失う時、われわれは新しい世界に足を踏み入れる。

 

 グレーのグラデーションを活かした作品として韓国映画「茲山魚譜 チャサンオボ」(2021)を取り上げておきたい。全編モノクロームの韓国時代劇だが、ここでは水墨画のような効果が実に効果的だ。韓国には文字通り水墨画の世界を描いた「酔画仙」(2002)というカラー映画もある。墨といっても黒以外の色も用いるが、やはり黒墨を中心としてシンプルな線と構図と墨の濃淡で表現する画である。ただワンポイントで色を入れることもあるのでカラー映画にしたのだと思われるが、カラーの色調は寒々とした寒村や海岸の風景などあえて色彩を抑えたダークな色調にしている。同じ水墨画の世界でも「線は、僕を描く」(2022、日本)とは全体の色合いがだいぶ違う。

 

 最後に、白黒が主流だったフィルム映画時代のモノクロ画面の美しさについて触れておきたい。「オズの魔法使」(1939)や「風と共に去りぬ」、もう少し時代は下がるがイギリスの「黒水仙」(1946)や「赤い靴」(1950)の鮮烈なカラー映像は非常に魅力的だった。しかし白黒画面に不満を感じていたわけではない。白黒画面の美しさに初めて感銘を受けたのは「シベールの日曜日」(1962)を観た時だった。アンリ・ドカエが映し出した白黒画面の冴え冴えとした美しさに背筋がゾクゾクしたものだ。寒々しさを内に含みながらも冴え冴えとした美しさ保つあの映像美は、おそらくカラーでは出せなかっただろう。フィルム時代の白黒映画の肌触りは、デジタル時代のモノクロ映画とはやはり違う。おそらく同じことは写真にも言えるだろう。ロバート・キャパの写真集『ロバート・キャパ スペイン内戦』(岩波書店、2000年)の鮮烈な画像はデジカメでは恐らく撮れないのではないか。際立つ歴史的リアリティ。モデルでもなく俳優でもない人たちの表情の美しさ。普通のスナップ写真とは全く違うただならぬ存在感を持って立ち現れる名もない人々。あの写真集をカラーで見たいとは思わない。同じことはフィルム時代の白黒映画にも感じる。この原稿を書くために49年ぶりにジャンヌ・ダルク裁判を描いたカール・テオドール・ドライエル監督の名作「裁かるゝジャンヌ」(1928)を観直した。全編これ人間の顔のオンパレードといった作品。それでいて最後まで圧倒的迫力で観る者に迫ってくる。物語の展開以上に人間の顔の個性的造形が雄弁に語りかけてくる(サイレント映画で字幕も多くはない)。審問官たちの特異な顔立ちや表情は陰影が際立つ白黒フィルムだからこそ引き出せたのだ。




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2024年5月 8日 (水)

アメリカ小説を読む ノーマン・メイラー『裸者と死者』:兵士の恐怖と苦悩

■ノーマン・キングズレー・メイラー(Norman Kingsley Mailer、1923~2007年)
ノーマン・メイラーはニュージャージー州ロング・ブランチで生まれた。ロシア・リトアニア系のユダヤ人である。彼はブルックリンで育ち、1939年にハーバード大学に入学した。大学で彼は小説に興味を持ち、18歳の時最初の作品を公表した。

ハーバード大学卒業後、1944年に陸軍に入隊し、南太平洋で従軍した。レイテ、ルソンを転戦した。1945年の終戦と同時に進駐軍の一員として千葉県の館山に上陸、その後銚子に移った。1946年には福島県の小名浜(現在のいわき市)に移り、その後5月に帰国するまで銚子に滞在した。1948年、パリのソルボンヌ大学に入る前に、ベストセラーとなる『裸者と死者』を書いた。それは彼自身の戦中の経験に基づいたものであり、第二次大戦を描いた最良のアメリカ小説のうちの1つとされる。

主な作品
『裸者と死者』 - The Naked and the Dead (1948)
『なぜぼくらはヴェトナムへ行くのか?』 (1967)
『夜の軍隊』(1968)
『マイアミとシカゴの包囲』(1968)
『月にともる火』(1970)
『性の囚人』 (1971)
『死刑執行人の歌 : 殺人者ゲイリー・ギルモアの物語』(1979)
『ハロッツ・ゴースト』(1991)




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■『裸者と死者』のアウトライン
 ノーマン・メイラーの『裸者と死者』は戦場という極限状態に置かれた赤裸々な人間の生と死、絶望と悲惨を描いて世界に衝撃を与えた小説である。オカリナの形をしたアノポペイ島という、フィリピン諸島の小島が舞台。日本軍が占領するアノポペイ島に上陸したアメリカ軍を描いている。戦場におけるクロフツ軍曹率いる偵察小隊の部分と司令部におけるファシストの様なカミングス将軍とハーバード大学出身のリベラル派将校ハーン少尉との確執部分が交互に描かれる。さらには進行中の物語を中断するように「タイムマシン」という中間章が挿入され、各人物の過去が紹介される。これによってそれぞれがトラウマを抱えて現在の人格が形成されていることが示される。

 最終的に日本軍はほぼ全滅し、島は米軍の手に落ちる。しかし小説は戦闘場面よりも、戦場における兵士たちの恐怖や疲労感などのリアルな描写に多くの紙数を割く。死の恐怖にとりつかれる兵士たちの厭戦気分、軍隊内の非人間的行為、生と死が交錯する戦場の生々しい描写。

 さらには司令部におけるカミングス将軍とハーン少尉の対立を通して、アメリカの軍隊に潜在する「内なるファシズム」の脅威と、それに対する危機感が描かれている。

■『裸者と死者』を読む:兵士の恐怖と苦悩
<はじめに>
 第二次世界大戦を描いたアメリカの戦争映画に出てくるドイツ兵には顔がない。ただ銃弾や砲弾を受けてばたばたと倒れるだけである。たとえ戦闘後に倒れているドイツ兵の顔を身近に見たとしても、そこに何の感慨も沸かない。彼らは単に「敵」という文字で一括りにできてしまうからだ。顔がないというのはそういう意味である。

 しかし何かの拍子に敵兵の顔を見てしまい、一旦相手を単なる「敵」ではなく人間として認識してしまったならば、そう簡単には人を撃てるものではない。アメリカの傑作TVドラマ「バンド・オブ・ブラザーズ」のウィンタース中尉も戦闘中に1人のドイツ兵を撃ち殺した時、一瞬その青年の顔を見てしまった。その青年の顔は何度も彼の記憶の中に浮かび上がり、それ以後彼は銃を撃てなくなってしまった。この「バンド・オブ・ブラザーズ」や「フルメタル・ジャケット」、「ジャーヘッド」などの戦争映画でたびたび新米兵士の過酷な訓練が描かれる。新兵を殺人機械に変えるための洗礼である。逆に言うと、そこまで追い詰めなければ人間は簡単に人を殺せないのである。

 戦争を批判する映画にはなぜ敵同士が身近に接する(つまり互いに相手の顔が見える)シチュエーションが何度も繰り返し描かれるのか、以上の説明である程度理解できるだろう。「ノー・マンズ・ランド」、「JSA」、「ククーシュカ ラップランドの妖精」、「トンマッコル へようこそ」そして「みかんの丘」等々、いずれも敵同士であったものがたまたま偶然によって同じ場所に閉じ込められてしまうのだ。身近に接した敵は決して憎むべき冷酷な人間ではなかった。

<作品に即して>
 『裸者と死者』に関して批評家の誰もがほめるのは、その圧倒的な描写力である。上陸前の兵士たちのいら立ち、夜のトラック移動、対戦車砲の運搬、歩哨に立つ兵士の緊張感、日本兵の渡河攻撃、累々たる日本兵の死体、ジャングルと岩山を越える苦難に満ちた行軍、等々。最後までメイラーの筆力は衰えることがない。何より特筆すべきは五感に訴えてくるその描写の具体性である。偵察小隊の苦渋に満ちた行軍を描いたどの一節を抜き出しても、リアルな描写で満ち溢れている。ジャングルのムッとするような密度、鳥の引きちぎる声や昆虫の唸るような音、靴にしみこむ水、湿ったシダの腐った糞のような臭い、アザラシの皮ふみたいに呼吸しているかと思われるような岩肌、兵士たちのうめき声や泣き声、ジャングルにこもった放屁の匂い、汗の塩で白い縞ができ、腋の下やベルトの下が腐りかけている兵士たちの上着、兵士たちの激しい息遣いと時々おそう吐き気、歩きながら眠り地面に足がつくたびに目を覚ますほどの疲労状態、等々。

 だが注意を作品全体の構造に向けてみれば、この小説の全体としての説得力が、単に個々の場面の圧倒的描写力だけによるものではないことに気づくだろう。『裸者と死者』は偵察小隊と司令部を交互に描くという構成になっているが、それが一つのパターンを形造っていてこの小説に緊張感と視点の広がりを与えている。

 アメリカの軍隊に潜在する「内なるファシズム」を浮かび上がらせる司令部の部分は重要な部分だが、ここでは偵察小隊の部分と直接関連する点だけを簡単にまとめておくことにする。カミングス将軍は「ファシズムという観念は、よく考えてみれば、共産主義よりはるかに理にかなっとる。それは人間の現在の本性にしっかり基づいておるのだ」と主張するような人物である。彼はハーン少尉に対して、「上官に対しては怯え、部下に対しては軽蔑するようになった時、軍隊は一番よく機能を発揮するものだ」と語る。彼は戦争をチェスに例え、個人の人格などは軍隊では考慮に値しないと断言する。それに対してハーンは「たとえば、一分隊なり、一小隊なりの兵をとってごらんなさい―あなたは、彼らが頭の中でどんなことを考えているか一体御存じなのですか?」と問いかける。

 この司令部での対決の直後に描かれる偵察小隊の場面(第2部の第7章)は凄惨で強烈な印象を残す章である。この章ではクロフト軍曹が日本兵の捕虜を撃ち殺すぞっとするような場面が描かれる。

 3人の日本兵を発見したクロフトたちは手榴弾で彼らを倒す。しかし1人だけ生き残っていた者がいる。捕らえられたその日本兵が持っていた家族写真を見る。突然クローズアップされた日本兵の顔。カミングスの理論の中にはこの顔はない。そしてギャラガーが自分にも子供がもうすぐ生まれることを思い出したその瞬間、クロフトがその捕虜を撃つ。この場面が衝撃的なのは、ここで初めてギャラガーが、そして読者が人間の死の重みを感じ取ったからである。

 ここで日本兵の死に衝撃を受けたのが、偏見に満ちたギャラガーだったことも注目に値する。彼は反共主義者で、またユダヤ人に対するむき出しの偏見を持った男だが、彼はもともと決して下劣な人間ではない。ではギャラガーは一体どんな男なのか。この章のすぐ後にギャラガーのタイムマシンを持ってきて、彼の過去を描いている。この構成もうまい。このタイムマシンで、もともと正義感の強かったギャラガーがその無知と崩れかけた家庭環境のために政治によって利用され、反共主義者に作りかえられてゆく過程が客観的に描かれている。世の中に矛盾を感じ不満だらけの人間を、政治的扇動者が取り込むのは簡単だった。「誰がわれわれから職を奪ったのか。ユダヤ人やアカどもである。」答えは偏見に基づいているが、問いは現実に基づいている。こうして反共・反ユダヤ主義者ギャラガーが出来上がった(トランプが支持者を取り込む手口も基本的にこれと同じである)。

 ギャラガーの妻は出産の際に死んだ。ショックと悲しみのためにギャラガーは完全に麻痺状態になった。彼がいかに妻を愛していたかが分かれば、なぜ彼が日本兵の写真を見て胸が痛くなったのか理解できる。妻の死を知って何日か経った後、彼は海岸に打ち上げられた巨大な海藻を見て、以前洞窟の中で見た日本兵の死体を思い出し、ぞっとする。その死体を見た時は何も感じていなかった。妻という一人の大切な人間の死が、死というものを現実化させたのだ。反共主義と反ユダヤ主義に凝り固まった人物の人間的な揺れ。ギャラガーの人物形象を真に見事なものにしているのはこの揺れである。

 第2部第7章にはもう一つきわめて印象的な個所がある。ギャラガー同様、ある日本兵の死体を見て、その場で死の意味をより深く考察している男がいた。レッドである。日本兵の死体を見ながらのレッドの考察は、ある種の感銘を与えるものである。

 

  彼はほとんど裸の状態であおむけに横たわっている死体を見ていた。それは感銘を与える死体であった。なぜなら体には傷一つなく・・・死体の口元からは、そこにあったに違いない苦痛の表情を容易に想像することができた。だがその死体には頭部がなかった。・・・その男にも幼年時代、少年時代、青年時代があったのだ。そして夢も思い出もあったのだ。・・・

 

 頭部のない死体は二重の象徴的効果を持つ。死体に頭部がないからこそかえってその人間の顔を想像させられる。どこでどのような生活を送っていた人間なのか否応なく想像させられる。同時に、頭部がないからこそ彼はすべての戦死者を代表しているのである。だが死体に頭部がないことは、同時に彼の個人的人格が奪われていることも意味する。兵士一人ひとりの人格は考慮に値しないと言いきったカミングスの言葉が、ここで不気味に響いてくる。兵士たちの意思を越えて、戦争の非常な論理は貫徹している。カミングスの言葉に不気味な説得力があるのは、現実がその言葉をある点で裏付けているからである。戦争とファシズムは現実的な脅威なのである。





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 第2部の5章から11章にかけては『裸者と死者』のもっともすぐれている部分である。11章でハーンとカミングスの対立に最終的な決着がつけられる。この章でカミングスははっきりとファシストとして姿を現す。結局ハーンはカミングスに屈し、ハーンは偵察小隊に配属されてしまう。小隊に配属されてからのハーンは精彩を欠き、あっさり戦死してしまう。ハーンが去った後のカミングスはただの将軍に戻り、超人的意志を感じさせなくなる。カミングスとハーンが支えていた司令部のパートは事実上解消され、したがって小隊との間に生じていたパターンの力学も消失してしまった。

 また兵士の中で最も人間味があり兵士たちの怒りと悲しみと陽気さを代表していたレッドも急速に精彩を欠いてゆく。彼はもはや兵士たちの怒りや悲しみを代表しなくなり、単なる不平家になってしまう。クロフトはどうか。彼は確かに強烈な個性を持っていて、他の兵士たちに比べれば際立った存在感を持っている。だが彼にはカミングスのような象徴性がない。たとえば、クロフトがロスから小鳥を奪い、手の中で握りつぶす強烈な場面がある。例の日本兵の捕虜をギャラガーの目の前で撃ち殺した時を思わせる場面で、読者をぎょっとさせるに十分なほど残酷である。しかしそこで強調されているのはクロフト個人の残酷さである。

 このように小説の後半は、残念ながら前半の力強さを維持できていない。もちろん最初に指摘したように、偵察小隊の苦難に満ちた行動を力強く描くメイラーの筆力は最後まで衰えていない。しかしハーンが小隊に配属されてから小説に深みと広がりを与えていたパターンが弱められていることは否定できない。

 しかし後半部分にも前半で描かれた兵士の顔という観点をさらに深く追求した重要な場面がある。マーチネズが偵察に出た時に、やむを得ない事情で日本兵を殺す場面である。この場面はある重要な意味でクロフトが捕虜を撃った時の問題を、より深く追求しているのである。

 夜一人で偵察に出たマーチネズは、気づかぬうちに日本兵の野営地の中に入り込んでしまい、目の前の歩哨を殺さねば脱出できない羽目になった。だが彼は一瞬ためらう。そこにいたのはほとんど少年のような若者だった。彼もまたギャラガーのように日本兵の中に一人の人間を見てしまったのだ。マーチネズはその少年兵のちょっとしたしぐさに微笑をこぼしたりもする。しかし彼を殺さなければ、自分が殺される。ふと人間的なものを感じたまさにその時に、彼は非人間的な解決を迫られたのである。彼は意を決してその少年兵を殺すが、長い間彼は人間一人を殺したという罪の意識に苦しめられる。この場面は先のクロフトが捕虜を撃ち殺した場面をさらに突き詰めている。もしクロフトが自分で撃たず、ギャラガーに撃つことを命令したらどうだったか。マーチネズが追い込まれた状況はまさにそのような状況だった。マーチネズの追いこまれた状況と彼の苦悩はギャラガーのそれをより突き詰めているゆえに、読者に容易には追い払えない問題を突きつけ、根深い消え去らない傷跡を読者の胸の中にも残してしまうのである。




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2024年5月 1日 (水)

クルド人と映画

 最近クルド人に対するいわれのない中傷や嫌がらせが日本国内で広まっているという記事が2回ほど朝日新聞に載った。ネット社会で誹謗中傷が跋扈していることには今さら驚かない。そういった中傷や嫌がらせは誤解や偏見に基づいている。非難している当の人々をよく知らないがゆえに簡単に偏見や嫌悪感が醸成されてしまう。そういう状況をただ憂いていても何も変わらない。自分にやれることをやるしかない。ということで、クルド人を描いた映画、クルド人監督が作った映画を紹介したい。

 日本人にとって身近でかつ動画配信などで比較的観やすいものとして「マイスモールランド」(2022、川和田恵真監督)という日本映画をまず挙げたい。主人公のサーリャは日本に住むクルド人難民の娘。すでに何年も日本に住んでいるが、ある日難民申請が不認定となり、サーリャの父親の抗議にもかかわらず在留カードは無効だと冷たくあしらわれる。今後は仮放免扱いになり、働くことも、(許可なしには)住んでいる都道府県から出ることもできない。

 舞台が日本なので理解しやすいが、しかし主人公がクルド人でなければならない必然性はない。別の国からの移民を主人公にしても大きな違いはないだろう。むしろ「マイスモールランド」は、収監されたまま亡くなったウィシュマさんの問題などをきっかけに見直しを迫られている日本の入管問題や在留外国人に対する非人道的扱いという重要なテーマを扱った作品群、「やさしい猫」(2023、TVドラマ)や「海辺の彼女たち」(2020、日本・ベトナム)などの作品系列に属していると考えるべきだろう。



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 クルド人についてより深く理解するためには、トルコやイランなどで実際に暮らしているクルド人たちの生活や差別などをリアルに描いた作品を観る必要がある。クルド人はトルコ、イラン、イラク、シリアなどにまたがって暮らしている「国を持たない最大の民族」である。しかもクルド人が住んでいるのはどこの国であれ山奥や荒れ果てた不毛の地で、住んでいる国からは迫害を受けている。しかし日本ではその存在はほとんど知られていない。参考文献として山口昭彦著『クルド人を知るための55章』(2019年、明石書店)を挙げておきたい。ただし買っただけでまだ読んでいないので、ここでは書名を挙げるだけにとどめたい。

 僕がクルド人の存在を知ったのは1985年にユルマズ・ギュネイ監督の「路(みち)」(1982、トルコ・スイス)を観た時である。1982年のカンヌ映画祭でアメリカの「ミッシング」とグランプリを分け合ったトルコ映画の名作である。「路」は拘置所から仮出所を許された囚人たちの、拘置所以上に過酷で悲惨な運命を描く。暗然とするほど因習的で過酷なクルド人の生活がリアルに映し出されてゆく。重苦しく、悲痛な作品だが、観る者の胸を揺さぶらずにはおかない。この映画を観た時、中国映画「芙蓉鎮」(1987)を観た時と同じくらい強烈な衝撃を受けた。

 ユルマズ・ギュネイはトルコに住むクルド人だが、100本以上の映画に出演した国民的スターであり、監督でもある。彼は政治犯として何度も投獄された。代表作とされる「路」や岩波ホールで上映された「敵」(1979)と「群れ」(1978)は彼が獄中にいた間に、獄中から指揮して代理監督に撮らせたものである。仮出獄したときにロケハンし、獄中を訪れる代理監督や俳優たちと細部の打ち合わせをしたという。この辺の事情は西独製の記録映画「獄中のギュネイ」(1979)で詳しく描かれている。

 「路」のヒットを受けて、渋谷のユーロスペース(まだ円山町に移転する前で、北口の高速下にあった)で「エレジー」(1971)、「希望」(1970)、「獄中のギュネイ」が公開された。いずれも優れた作品だった。ユーロスペースでは日本で最初に公開されたトルコ映画「ハッカリの季節」(1983 、エルデン・キラル監督)も観た。高度3000メートルにある小さなクルド人の村と小学校が舞台。雪に覆われた何もない世界と独特の生活風習には心底驚いたものだ(フェリット・エドギュの原作本は晶文社から『最後の授業』というタイトルで翻訳が出ている)。他にハンダン・イペクチ監督の「少女ヘジャル」(2001、トルコ・ギリシャ・ハンガリー)もすぐれた作品なので名前を挙げておきたい。



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 イランにもクルド人を描いた作品がある。有名なのはバフマン・ゴバディ監督の作品。彼自身ユルマズ・ギュネイと同じクルド人監督で俳優も兼ねる。「酔っぱった馬の時間」(2000)、「わが故郷の歌」(2002)、「亀も空を飛ぶ」(2004、イラン・イラク)はいずれも傑作だ。俳優として出演しているアッバス・キアロスタミ監督の「風が吹くまま」(1999)は、TVディレクターとそのクルーたちがクルド人の山村で行われる珍しい葬儀を取材にゆくという内容である。したがって、これもクルド人映画に含めていいだろう。

 イランに比べるとイラクのクルド人映画は少ない。中東の映画大国イランに比べたらもともとイラクの映画製作数はずっと少ないと思われるので別に意外なことではない。それでもモハメド・アルダラジー監督の「バビロンの陽光」(2010、イラク・イギリス・フランス・他)は見逃せない傑作である。クルド人の年老いた女性が12歳の孫を連れて行方不明となった彼女の息子を探す過酷な旅を描いたロード・ムービー。今まで観た中で一番悲惨なロード・ムービーだが、観終わった後には深い感銘が残る。イランのバフマン・ゴバディ監督が亡命中にトルコで撮った「サイの季節」(2012、イラク・トルコ)も名前を挙げておこう。幻想的な映像を多用したイメージ重視のアート系映画である。



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 これだけ優れた映画が日本で上映されていても、クルド人の存在はほとんど知られていない。よく耳にするようになったのは湾岸戦争やシリアの内戦でISの蛮行が有名になった頃だろう。ISに拉致された後脱走し、女性戦士としてISと戦う女性たちを描いたのが「バハールの涙」(2018、エヴァ・ユッソン監督、フランス・ベルギー・他)である。

 「マイスモールランド」が個人的に感慨深いのは、ついに日本にもクルド人を真摯に描く映画が現れたかという思いがあるからだ(その1年前に日向史有監督の「東京クルド」という作品も作られているが、こちらは未見)。自分たちの国を持たないクルド人には、追われるように国を出ても安住の場所はない。どれほど苦しい道のりを歩めば彼らの国クルディスタン(クルド人居住地域を指す言葉として使われているが、本来はクルド人の国という意味である)にたどり着けるのか。その文脈の中で考えると、1999年制作、イエスィム・ウスタオウル監督のトルコ映画「遥かなるクルディスタン」というタイトルは実に意味深長だ。



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<付記>
 ユルマズ・ギュネイ監督とその作品については「トルコ映画の巨匠ユルマズ・ギュネイ①」「トルコ映画の巨匠ユルマズ・ギュネイ②」を参照してください。なお、今のところ彼の作品はDVDもBDも日本では発売されていません。

 なお、文中で色がついている作品は本ブログでレビューを書いているものです。リンクを張っていますので、クリックすればレビューを読めます。興味があればそちらにも目を通してみてください。

 

先月観た映画 採点表(2024年4月)

「パリのレストラン」(1996)ローラン・ベネギ監督、フランス ★★★★☆
「バルーン 奇蹟の脱出飛行」(2018)ミヒャエル・ブリー・ヘルビヒ監督、ドイツ ★★★★☆
「スワンソング」(2021)トッド・スティーヴンズ監督、アメリカ ★★★★☆
「靴に恋して」(2002)ラモン・サラザール監督、スペイン ★★★★☆
「ドライビング・バニー」(2021)ゲイソン・サヴァット監督、ニュージーランド ★★★★☆
「小さき麦の花」(2022)リー・ルイジュン監督、中国 ★★★★☆
「偽りの隣人 ある諜報員の告白」(2020)イ・ファンギョン監督、韓国 ★★★★☆
「アウシュヴィッツのチャンピオン」(2020)マチェイ・バルチェフスキ監督、ポーランド ★★★★△
「赤ちゃんに乾杯!」(1985)コリーヌ・セロー監督、フランス ★★★★△
「カラオケ行こ!」(2024)山下敦弘監督、日本 ★★★★△
「文化果つるところ」(1951)キャロル・リード監督、イギリス ★★★★△
「鹿の王 ユナと約束の旅」(2020)安藤雅司、宮地昌幸監督、日本 ★★★★△
「ミッション:8ミニッツ」(2011)ダンカン・ジョーンズ監督、アメリカ ★★★★
「トンネル」(2001)ローランド・ズゾ・リヒター監督、ドイツ ★★★★
「ベル&セバスチャン」(2015)ニコラ・ヴァニエ監督、フランス ★★★★
「友情」(1974)クロード・ソーテ監督、フランス ★★★★▽
「サイダーのように言葉が湧き上がる」(2020)イシグロキョウヘイ監督、日本 ★★★★▽
「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」(1995)押井守監督、日本 ★★★★▽
「スター・トレック4 故郷への長い道」(1986)レナード・ニモイ監督、アメリカ ★★★☆
「スタートレック ジェネレーションズ」(1994)デヴィッド・カーソン監督、アメリカ ★★★☆

 

 

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主演男優
 5 ミシェル・オーモン「パリのレストラン」
   ウド・キア「スワンソング」
   ピョートル・グウォヴァツキ「アウシュヴィッツのチャンピオン」
   ウー・レンリン「小さき麦の花」
   オ・ダルス「偽りの隣人 ある諜報員の告白」
   綾野剛「カラオケ行こ!」
 4 フリードリヒ・ミュッケ「バルーン 奇蹟の脱出飛行」
   ミシェル・ブージュノー「赤ちゃんに乾杯!」
   ローラン・ジロー「赤ちゃんに乾杯!」
   チョン・ウ「偽りの隣人 ある諜報員の告白」

 

主演女優
 5 ハイ・チン「小さき麦の花」
   アンヘラ・モリーナ「靴に恋して」
   ステファーヌ・オードラン「パリのレストラン」
   エシー・デイヴィス「ドライビング・バニー」
   ナイワ・ニムリ「靴に恋して」
 4 モニカ・セルベラ「靴に恋して」

 

助演男優
 5 トーマス・クレッチマン「バルーン 奇蹟の脱出飛行」
   ラルフ・リチャードソン「文化果つるところ」




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