なぜ映画を早送りで観るのか
稲田豊史著『映画を早送りで観る人たち』(光文社新書)という本が出ているらしい。まだ読んでいないし読む気もないが、書評によると「なぜ映画を早送りで観るのか」という問いの答えは、時間がない、早く結末が知りたい、タイムパフォーマンスが良い、LINEなどでの付き合いで話題に乗り遅れないようにしたい、などのようだ。確かにそうだろうとは思う。しかしこの問題にはもっとさかのぼって理由を探る必要があると思う。
知っていること自体が価値だという考え方。番組のタイトルは忘れたが、日本人の数割しか知らないことを知っているかどうかを競う番組があった。「ハナターカダカ」というキャッチフレーズがそれを端的に表している。要するに、かつてクイズ番組が一世を風靡していた時のように、膨大だが細切れの「知識」をより多く持っていることが自慢の種になるという偏った価値観。こういう価値観が、例えば「早く結末が知りたい」、「話題に乗り遅れ」たくないという考え方の背後にある。
僕は大学の受験勉強をほとんどしないで大学に入った人間である。受験勉強で「知識」を詰め込むより、優れた本を読み、優れた映画を観ることの方がはるかに有意義だと信じていたし、今でもその考え方は変わっていない。高校3年の時に三百数十本の映画を観た。映画を観ていなければ本を読んでおり、本を読んでいなければ映画を観ていた。おかげで五つの大学を受けてすべて不合格、かろうじてある大学に補欠合格で入学した。今ではできないが、当時は普通の学費の二倍払えば追加で入学を認めていたのである。
入学後周りを見回しても優秀な同級生がいるとは思えなかった。一年と二年の時はほぼオールAだった。受験勉強の知識がいかに真の学力を測るうえで無意味であるか身をもって体験した。ある時、妹が徳川家の将軍一五代全員の名前を言えることに、それも順番まで間違えずに言えることに驚愕したことがある。自分にはとてもまねできないし、したいとも思わないことだったからだ。調べれば簡単にわかるような(特に今ならネットという便利なものがある)「知識」をなぜ暗記しなければならないのか、僕には全く理解できない。必要になったら調べればいいだけではないか。
そういう受験勉強に踊らされてきた人たちは、ごく一部の人を除いて人が知らないことを知っていることに満足感を覚える感性を身につけてしまっている。そういう価値観を身に着けている人の一部は、例えば、重箱の隅をつつくようにして人の知らないことを掘り返してくることに喜びを見出す。すぐれた作品だが忘れ去られていた貴重な作品を発掘するに至ることはまれである。だから結局オタクになってゆく。
こういう感性または価値観が、映画を早送りで観ることの背後に間違いなくある。ただ見たということだけで満足する。話題について行けることで満足する。その程度で話題についてゆけるのだとすれば、相当に底の浅い会話だということになる。逆にオタクのように重箱の隅をつつくような、あえて言わせてもらえば、どうでもいい知識を自慢げに披露する方向に向かう人もいるが、そういう人たちは作品全体を深く理解できていないことは言うまでもない。世間で言う「映画通」とはこういう半端な知識しかもっていない人を指していることが多く、そういう人たちはなるほどと感心するような映画評を書くことはできない。作品を味わい、深く分析することなどできないのだ。こういった人たちは、早送りではなく普通の速さで観ても大して理解度が深まるわけではない。
こういう人たちが大量に生まれてきたことには日本の教育の仕方に問題があることは言うまでもない。考え分析することより、膨大だが断片的かつ浅薄な知識を覚えることに時間を費やす教育。そういう教育を長年受けてきた結果なのだ。ツイッターという短い文で何かを伝えたつもりになっているのも根は同じだ。長い文はかけないし、長い文を読む力も根気もない。物事を一面的で短絡的にしか見ないから、短い文で事足れりと思い込んでしまう。長さではなく、早いことをよしとする考え方もまた同じである。例えば映画を例にとれば、深い解釈や分析ができないから、人より早く新作を観ることに血道をあげる。全く内容のない紹介文を人より早くSNSなどに投稿して優越感を感じる。どうでもいいような細切れ「知識」を披露して「通」を気取るのも同じこと。それしかできないからそうするわけだ。
こういう現状を考えてみれば、タモリの「ブラタモリ」は非常に優れた番組だと言える。ある街(町)を一般的な紹介の仕方とは全く違った角度から見直す。地理的、地質的、地形的な特質から街の歴史や成り立ちを見直してゆく。何でも知っているプロはだしのタモリの知識も、ただ断片的なものではない。彼はなぜこうなるのかを自分の言葉で説明できる。互いにつながりのない点のような知識の寄せ集めではなく、豊富な知識が線や面となってつながっている。だから成り立ちを説明できるし、推測もほとんど当たるのである(的中率の高さは驚異的だ)。「ブラタモリ」を観た後は、同じ街(町)が全く違って見える。
僕の文章は総じて長いので、90%以上の人は滞在時間0秒か10秒以内に他に移ってしまう。僕の文章の内容がどうとかいう以前に、その長さと文字ばかりがずらっと並んでいるのを見た瞬間に拒否してしまう。ただ長いというだけで避けてしまう。こちらも読みたいと思う人に読んでもらえればいいので、それでも別に構わない。ただ面白いことに、毎年必ず閲覧数を稼ぎ、秒殺でよそへ行ってしまうのではなく、一応内容を観ていると思われる記事がいくつかある。とは言え、最後まで読み切っているわけではなく、使えそうだと判断した時点でコピーして離れてゆく場合がほとんどだと思われる(滞在時間から判断して)。
どういう記事かというと、イギリス小説を取り上げた記事である。つまり授業のレポートを書く際の「資料」として使われているようなのだ。普段は0秒で去ってゆく人たちも、必要に迫られると仕方なく目を通す。読んでもらえるのはうれしいが、ただコピペして剽窃しているようなら困ったことだ。もっとも最近は手が込んできて、多少手を加えて引用元がすぐ分からないようにしていることが多いようだ。不特定多数の人に読んでほしいからブログに掲載しているのだが、ルール違反の盗用はいけない。こういうことがはびこるのも、自分の頭で考え、分析するのではなく、手っ取り早く結果を出せばいいという文化が生み出したことだ。このように、これまで述べてきたことはすべて根っこでつながっている。もちろんきっかけはレポートの素材探しだったとしても、面白そうなブログだと思って時々見に来てくれている人もいることはアクセス数の分析からわかります(当ブログへの入り口がイギリス小説を取り上げた記事である場合は、そのページをブックマークに入れたからだと判断できるので)。そういう方たちもひっくるめて批判しているわけではありません。
人々の判断力、思考力を奪っているのは暗記中心の教育の在り方だけではなく、校則という縛りも手を貸していると思われる。全く正当な理由もなく理不尽な規則を一方的に押しつけ、生徒をがんじがらめにする。校則ではなく「拘束」と書き直したいくらいだ。しかも優等生ほどこれを素直に受け入れて、うまく立ち回る。知らぬ間に判断力、思考力を奪われ、規則に従うことが正しいことだと刷り込まれてゆく。いつの間にかその校則が本当に必要なのか疑う力を奪われている。文科省が作りたいのは何も疑わずただ上からの言いなりになる人間の育成なのかと疑ってみることもできない人間が大量に生産される。難しいことは偉い人に任せておけばいいという受け身的な考えが知らず知らずのうちにしみついてしまう。何度選挙をやっても自民党が勝つはずだ。どうしてそれが必要なのかを疑う、様々なことに疑問を持つ習慣が早い段階で摘み取られてゆく。上から言われたことをそつなくこなす人が出世する。そういう社会がこうして作られてゆく。
不当に自由を奪う校則に何の疑問もなく従うメンタリティは、言われた通りにできないものを怒鳴りつけ、罵倒し、何でもいいから言われた通りにやれと押しつける人間を作り出す。黙って受け入れてきた人は、黙って受け入れることを他人に強要する。相手にわかりやすく、かつ筋の通った説得をする力を持たないからだ。おまけに本人もストレスを抱えているので(その人自身も会社のコマの一つに過ぎない)、なおさら叱り飛ばし、怒鳴りつけるしかない。物事を立ち止まってよく考えない人たちが先も見えずただうろたえるばかりの、効率一辺倒の息苦しい社会。自分で自分の首を絞めながら、他人の首も絞めている。負の歯車は回り続ける。これを止めるには、立ち止まってよく考え、何事にも疑問を持つことから始めなければならない。
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