岩波ホール閉館を惜しむ
年が明けて間もない11日に岩波ホールが7月29日をもって閉館すると報道された。最初は人づてに聞いたのだが、これを知って非常にショックを受けた。何しろ東京にいたころ何度も足を運んだ馴染みのホールであったという個人的事情だけではなく、上映作品の質の高さ、ミニシアターの先駆けといった社会的な意味でも重要な役割を果たしてきたホールだったからである。せっかく改装されたのに、コロナ禍で観客数を減らさざるを得なくなり、それが経営を圧迫したのだろうか。このホールが閉館になるというのは日本の映画界、映画文化にとってとてつもない痛手である。何とか再建の道筋が見つかることを祈りつつ、岩波ホールが果たした役割について自分なりの視点から書いておきたい。
2013年2月17日に「岩波ホール上映作品 マイ・ベスト50」という記事を載せた。岩波ホールの総支配人であった高野悦子さんの訃報に接して書いた記事である。岩波ホールで上映された作品からマイ・ベストを50本選んでリストを載せただけの記事だが、自分なりに岩波ホールの業績をたたえたつもりである。2021年には「みかんの丘」と「とうもろこしの島」を観たことで岩波ホールへの思いが再燃し、一気に「ゴブリンのこれがおすすめ 57 岩波ホール上映映画」として「岩波ホール上映作品 マイ・ベスト100」を選定し、2021年3月 4日に掲載した。「マイ・ベスト50」の前文では次のように書いた。
岩波ホール、文芸坐、並木座、ACTミニシアター、フィルムセンター、三百人劇場、ユーロスペース。東京在住時代にお世話になった映画館はたくさんあるが、通った回数、上映作品の質の高さで選べばこの7つが代表格だろう。中でも岩波ホールとフィルムセンターはとりわけ重要な存在だった。何しろこの二つがなければ観られなかったであろう作品がいくつもあるのだ。DVDやBDが普及した今でも「幻の作品」のままである作品はまだいくつもある。
日のあたりにくい名画の発掘という点で、エキプ・ド・シネマの川喜多かしこさんと高野悦子さんが果たした業績は非常に大きい。
高野悦子さんは有名だが、川喜多かしこさんは今ではほとんど知っている人は少ないと思うのでもう少し説明を付け加えておこう。川喜多長政さんとその妻川喜多かしこさんは外国映画輸入配給会社「東和商事」(後に「東宝東和」と名称変更)を通じて戦前から主にヨーロッパの名作を次々に日本に輸入・紹介していた。そのリストには映画史に残る名作がずらりと並んでいる。また外国映画の輸入だけではなく、同時に日本作品の海外輸出にも尽力した。長年世界を飛び回ってすぐれた映画を選び抜いてきた彼らの鑑賞眼は並外れていたと言って良いだろう。
岩波ホールは1968年に多目的ホールとして開館された。その後総支配人の高野悦子さん(岩波雄二郎の義妹)と川喜多かしこさんが手を組んでエキプ・ド・シネマ(映画の仲間)を立ち上げ、以後映画上映館として運営されるようになった。高野悦子(2013年没)と川喜多かしこ(1993年没)という稀代の目利きによる双頭体制となればまさに無敵。売れ筋重視の一般のロードショー館とは一味も二味も違うユニークな作品、日が当たらないがすぐれた作品を大量に発掘し上映してきた。参考までに、エキプ・ド・シネマの4つの目標を以下に掲げておこう。
・日本では上映されることの少ない、アジア・アフリカ・中南米など欧米以外の国々の名作の紹介。(その後、女性監督による作品も積極的にとりあげるようになる)
・欧米の映画であっても、大手興行会社が取り上げない名作の上映。
・映画史上の名作であっても、何らかの理由で日本で上映されなかったもの。またカットされ不完全なかたちで上映されたもの。
・日本映画の名作を世に出す手伝い。
岩見ホールの上映作品リストを見れば、この目標通りに実践してきたことが分かる。また、当時としてはまだ珍しかった完全入れ替え制を日本で初めて取り入れていた。だから上映前には階段に沿って長い列がずっと下の階まで続いていたのである。何度も通っている間に高野悦子さんと川喜多かしこさんを見かけたことがあるし、何人かの著名な映画評論家を見かけたこともある。
正直言って観客は気取ったおばさまが多かったが、上映作品は確かに素晴らしかった(期待外れの作品も多少はあったが)。高野悦子さんと川喜多かしこさんが映画を選ぶときには、間違いなく映画とは芸術であり、文化であり、社会を映す鏡であるという意識があったと思われる。「よい映画はよい観客が作る。よい観客はよい映画が作る。」上で名前を挙げた岩波ホールや国立フィルムセンター(現「国立映画アーカイブ」)などの優れた上映館はまさにそれを実践していたのである。
ただこれには下地があったことも指摘しておくべきだろう。僕は東京に出てくる前の高校生時代(期間としてはおよそ1年半)に500本ほど映画を観ていた。そのほとんどはテレビで観た。まだ衛星放送などなかったころなので、すべて地上波放送(これも衛星放送が始まってから生まれた名称である)で観たわけである。その後も衛星放送が始まるまでの長い間テレビで数多くの映画を観てきた。僕がこれまで観てきた名作の多くはテレビで観たのである。当時の観客にはいわゆる娯楽作品以外のものまで観る余裕と鑑賞眼があったということも指摘しておくべきだろう。
ただし70年代までは外国映画といえば欧米の映画先進国の映画がほとんどだった。多様な国の映画が日本で上映されるようになってきたのは80年代に入ってからである。2000年代に入ってからも世界中の様々な国の映画が公開される傾向は続いている。ドキュメンタリー映画の公開数も増えている。大きな変化の一つは2001年の同時多発テロの影響でアメリカ映画が量的にも質的にも落ち込んでいた時期に、それと入れ替わるように日本映画の製作数と公開数、観客動員数が増えたことである。1993年以来、日本映画市場は洋画7に対し、邦画は3という比率に落ち込んでいた。映画全体に占める邦画の興行収入比率は2002年には27.1%にまで落ち込んでいた。だが、2005年は洋画6対邦画4まで持ち直し、2006年にはついに逆転した。
日本映画はその後も引き続き好調さを保っており、優れた作品も少なからず作られている。しかし量的増加に見合うほど質的に充実してきているかといえば疑問である。邦画も洋画も興行成績ベストテンのほぼすべてがテレビ局と連携した映画である。日本映画のベストテンはほとんど東宝映画で占められている。公開前に大量のCMを流し、特集を組み、出演者らが様々な番組にゲスト出演する。こうして観客の多くは知らず知らずのうちに受け身的選択をさせられているのである。今の大学生の多くは日本映画以外ほとんど観たことがない(同じことは音楽にも言える)。その視野の狭さには愕然とする。しかもスマホなどの小さな画面で観ている人が激増しており、当然「面倒な」映画はほとんど顧みられない。
「よい映画はよい観客が作る。よい観客はよい映画が作る」というサイクルは容易に逆転する。つまらない映画ばかり見ているから、観客の目が肥えていない。目の肥えていない観客ばかり相手にしているから、つまらない映画しか作られない。娯楽映画中心とはいえ、安定して一定数の優れた作品を生み出し続けているハリウッド映画はむしろ立派だと言える。それでなくてもシネコンが増えてかつてのミニシアター系の作品が上映される機会はどんどん減ってきている。そこへ岩波ホールが閉館となると、ますます映画の偏りが大きくなるのではないか。そんな心配が頭から離れない。
個人的なことをもう少し書いておきたい。僕が初めて岩波ホールで映画を観たのは77年の2月9日である。観たのはマイケル・カコヤニス監督の「トロイアの女」だった。こんなに遅かったのかと自分でも驚く。そういえば高田馬場の古本屋街の一角にあったACTミニシアターへ初めて行ったのも77年の6月だった。岩波ホールにはその後しばらく行かなかった。というより映画そのものをほとんど観ていなかった。76年から78年の3年間は何と年間で一桁しか映画を観ていない。英米文学の研究会活動が忙しかったのである。しかしいくら忙しかったとはいえ、よく映画を観ないでいられたものだと今では不思議に思う。やっと79年になって20本に増えた。
わずかではあるが持ち直したのは岩波ホールのおかげだった。79年に岩波ホールで「家族の肖像」(3月21日)と「木靴の木」(4月29日)と「旅芸人の記録」(9月10日)を観たのである。これらを観てまた映画熱がぶり返し始めた。少なくとも月に1本は映画を観ようと決心したのはこの頃からである。翌80年には岩波ホールに頻繁に通いだし、「女の叫び」、「青い年」、「メキシコ万歳」、「鏡」、「ルードウィヒ神々の黄昏」、「チェスをする人」、「株式会社」、「約束の土地」、「山猫」と、ほとんど欠かさずに観に行った。それでも年間22本しか観ていない。岩波ホールに通うことで何とか映画への情熱を保っていた感じだ。再び年間100本以上観るようになったのは84年になってからだ。
頻繁に通うようになる馴染みの映画館もどんどん増えていった。千石の「三百人劇場」初体験は81年。京王線沿線にある「下高井戸京王」、池袋の「文芸座ル・ピリエ」、東京駅前の「八重洲スター座」に通い始めたのもこの年である。82年からは新宿の「シネマスクエアとうきゅう」にも通い始めた。ここは全座席入れ替え制を導入していた。岩波ホール以外で導入しているのはまだ珍しかった頃だ。ここは岩波ホールと並ぶ代表的なミニシアターで、上映作品の質が高かった。頻繁に通っていたのはそのためである。
83年には池袋の「スタジオ200」、84年には「大井武蔵野館」、「シネ・ヴィヴァン六本木」、東銀座の「松竹シネサロン」、渋谷の「ユーロスペース」(今の円山町ではなく当時は渋谷駅北口の高速の下にあった)が常連入り。86年には竹橋の「近代美術館」で山本嘉次郎の「馬」を観ている。「近代美術館」は国立フィルムセンターが火事で焼けたため、一時ここに引っ越していたのである。この火災はまさに日本における映画文化の貧困さを象徴する事件だった。84年の9月3日、多分いつもより比較的涼しい日だったのだろう、フィルム保管庫のクーラーを止めていたところ可燃フィルムが自然発火してしまった。予算をケチってクーラーを止めたために貴重なフィルムを消失してしまったのである。当時新聞でそれを知ったときにはしばし呆然としたものだ。
そもそも古いフィルムはセルロイド製で発火しやすく、フィルム保管庫はいわば弾薬をかかえているのと同じである。オランダ視聴覚アーカイヴの可燃性フィルム保存庫は海辺の砂丘地帯の窪地にある。第二次大戦中にナチス・ドイツ軍のトーチカとして建設されたものをフィルム保存庫に改造したのである。オーファーフェーンの森の奥にあるオランダ映画博物館分館もまたかつてはトーチカだった。
昔のトーチカを改造して使う。これほど保存に気を使わねばならないくらい可燃性フィルムはデリケートなものなのである。そのクーラーを切るとは!フィルムセンターの所員の責任ではない。貧困な予算しかつけない政治に問題がある。日本の文化予算は能や歌舞伎などの伝統文化の維持にほとんどをつぎ込み、映画などという「大衆文化」にはおこぼれ程度しか回ってこない。果ては、予算を増やすどころか、これでもまだ多いとばかりに2001年にはフィルムセンターを独立法人化してしまった。
国の文化予算の貧弱さと岩波ホール閉館は決して無関係ではないと思う。日本の政府には映画を文化遺産ととらえる意識が決定的に欠如している。イギリスはブレア首相時代に映画大臣を新設したが、日本でこんなことは考えられない。映画だけではない。コロナ禍で文化芸術関係の団体はどこでも運営、いや存続すら危うい状況にある。岩波ホールなき後の日本の映画文化はいったいどうなるのだろうか。僕もユーネクストを利用しているが、このまま動画配信が主流になり映画館は消えてゆくのか。ユーネクストはかなりレアなものも掘り起こしていて助かるが、それで映画制作会社が潤うわけではない。少なくともコロナ後の映画製作・上映状況は、コロナ前とは大きく変わったものになっているだろう。長い間馴染んできた「戦後」という言い方に代わって、「コロナ後」という言い方が当たり前のように使われるようになるのかもしれない。岩波ホールなき後に洪水が来て欲しくはない。
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