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2021年7月26日 (月)

小説を読む楽しみ

■小説(物語)との出会い(個人的メモワール)
・小説(物語)との出会いは小学校の5年生ごろだと思う。まったく勉強をしない僕を心配して、母親が小学館の『少年少女世界の名作文学』(当時480円:月ごとに配本される)の定期購読を始めたのである。厚さ5センチほどもある大部なシリーズ本で、世界文学全集の子供版である。内容も子供用にやさしく書きなおされており、子供にも楽しめる部分だけを収録していたと思われる。

 

・最初のうちは本なんて女が読むものと馬鹿にして読まなかったが、たまたま「みつばちマーヤの冒険」を読んでその面白さにはまってしまった。巣を襲撃してきたクマバチと巣を守ろうとするミツバチとのすさまじい戦いの場面に一気に引きこまれた。それ以来、ほかにも面白い物語があるかと次々に読み漁るようになり、いつの間にか次の号が配本されるのを楽しみに待つようになっていた。

 

・『少年少女世界の名作文学』以外の本も読むようになった。小学生のころ好きだったのはモーリス・ルブランの“怪盗ルパン”シリーズ、コナン・ドイルの“シャーロック・ホームズ”シリーズ、江戸川乱歩の“少年探偵団”シリーズ、そしてジュール・ヴェルヌの『十五少年漂流記』や『地底旅行』など。とにかく推理ものや冒険ものをわくわくしながら読みふけったものだ(『赤毛のアン』など女の子が主人公の物語も好きだった)。

 

・『十五少年漂流記』や『地底旅行』など何度読み返したかわからない。しばらくするとまた読みたくなり、読んでまた時間がたつとまた読みたくなる。夢中になって読みふけっていて、ふと気がつくといつの間にか夕方になって暗くなっており、顔を本にくっつけるようにして読んでいる自分に気がつくこともしばしばだった。

 

・中学生になるとSF小説をむさぼるように読みだした。創元文庫などを片っ端から買ってきては読み漁った。大好きなジュール・ヴェルヌも当時出ていた傑作集を全巻まとめて買ってきて読んだ。中三ごろにSF小説から推理小説に移行し、高校生になると推理小説から純文学に移っていった。当時何種類も出ていた世界文学全集をこれまた片っ端から読み漁った。トルストイの『戦争と平和』やメルヴィルの『白鯨』などの大長編を数カ月かけて読んだものだ。冬の寒い時は今のような暖房施設がなかったので布団に入って本を読んだ。片手で本を持ち、もう一方の手を布団に入れて温める。そうやって持つ手を交代しながら読んだものである。

 

高校2年生ごろから映画を見始め、学校から帰宅した後は映画と読書にほとんどの時間を費やしていた(音楽に興味を持ち、レコードを買いだしたのも高校生時代)。これまで一番映画を観たのは高校3年生の時。1年に300本以上観た。つまらない受験勉強など見向きもせず、映画を観ていなければ本を読んでおり、本を読んでいなければ映画を観ているという生活をしていた。

 

・高校生の時は外国文学一辺倒だったが、大学生になってからは日本文学も読み始めた。大学院生時代には児童文学にまで関心を広めた。

 

■小説を読む楽しみ
・あまり難しいことを言うつもりはない。僕にとって小説を読む面白さと映画を観る面白さとはそれほど違いはない。小説の読み方については様々な方法論があるが、楽しみ方も人によって様々あるだろう。しかし小説に親しむ一番の近道は物語を楽しむことである。高度な読みや深い読みは当面要らない。映画を楽しむように小説を楽しむことだ。だから入口は “ハリー・ポッター”シリーズでもいいし、『不思議の国のアリス』でもいいし、宮部みゆきでもスティーヴン・キングでもいい。あるいはNHKで「竜馬伝」が放送されていたので司馬遼太郎の大長編『竜馬がゆく』を読んでみた、という入り方でもいいだろう(これほど面白い時代小説はいまだに書かれていない)。子供のころから児童文学に親しんで、わくわくドキドキしながら本を読む経験を持っていればなおのこといいが、そういう経験がなくても文学に親しむことはできる。読んで面白いものから読み始めるのが一番。

 

・活字を読むのが苦手などと尻ごみすることはない。読み進んでいるうちに字は自然に覚えてしまう。時々辞書を引く習慣をつければなおいい。ただし、あまり頻繁に引いていると物語の展開を楽しめないので、どうしても気になる言葉だけを引くようにした方がいい。僕は小学校や中学校の国語の教科書に出てくる新出漢字で読めないものはなかった。すべて本を読んでいるうちに自然に覚えてしまった。最初のうちは細かいことにこだわらずに、とにかく筋を追うだけでもいい。この先はどうなるのか。そう思って読み進めるうちに本を読む楽しさにはまっているかもしれない。

 

・小説や物語を読み進む時に一つ意識してほしいことは、何がテーマ(主題)であるかということである。ほとんどの小説にはテーマがある。そのテーマにそって物語が展開されてゆく。そのテーマにはたいていの場合何らかの葛藤が含まれている。その葛藤に共感できた時、読者はひきこまれるようにして小説の世界に入り込んでゆくことになる。もちろん小説には様々な種類があり、これに当てはまらないものも多くあるが、多くの場合そこに何らかの読者をひきつけるものがあるから人は長い時間机に座って本を読むのである。

 

■小説を読むために
・テーマに含まれる葛藤は多くの場合時代や社会の制約を反映している。たとえば、江戸時代の侍や商人や農民を主人公にした小説の場合、彼らは現代の私たちとは違った制約を時代や社会から受けている。具体例をあげれば、藤沢周平の主人公は多くが下級武士である。下級武士であるがゆえに彼らは藩の命令で無理難題を押し付けられたりする。藩にとって都合の悪くなったものを消す刺客として選ばれたりする。何の恨みもない者を藩命で殺さねばならない羽目に陥り、主人公は苦悩する。その人間的葛藤に読者は共感するのである。彼の小説は決して勇ましい侍がばっさばっさと悪人を切り倒して成敗するようなたぐいの小説ではない(『用心棒日月抄』シリーズにはそれに近い面があるが)。むしろ下級武士の苦悩や悲哀に焦点が当てられている。

 

 しかしその葛藤は時代の制約からくるものであるゆえに、時代が変われば解決される問題である。したがってそこには文学作品が持つ普遍性はない。こう考えるのは間違いである。なぜなら人間は時空を超えて生きることはできないからだ。こんな不合理で理不尽な社会ではない、もっと自由な社会に住みたいとどんなに願っても、それはかなわない。タイムマシンに乗って21世紀の日本に逃げ込むことはできないのである。もし小説の最後がそんな終わり方になっていたら、あまりに安易すぎて説得力のある小説にはならない。逃れようにも逃れられない制約の中で苦悩するからこそ、その人間的葛藤、彼らのささやかだが平穏な生活や、その生活を無理やり奪われる怒りや悲しみや最後の凄絶な決断に説得力があるのである。

 

 当時の武士がどんな暮らしをし、何を考え、どんな苦悩を抱えていたかを実際に見てきた者は今の世に一人もいない。にもかかわらず私たちは藤沢周平の小説の主人公たちの葛藤に十分共感することができる。下級武士の苦悩に満ちた生き方を読むとき、私たちは会社の平社員、あるいは何らかの組織の中で下積みを強いられている者の悩みを連想するかもしれない。小説の主人公たちの苦悩が人間的なものであれば、たとえその苦悩を同時代人として共有しなくとも共感することが可能なのである。人間にはそれを理解できるだけの想像力がある。何よりいっさいの苦悩や葛藤を持たない人間などいないからだ。芸術作品の持つ普遍性とはむしろそこにあるのではないだろうか。だからこそ、時代も国も異なる18世紀のイギリスの小説や19世紀のロシアの小説、あるいは古代ギリシャの古典悲劇さえ私たちには理解できるのである。

 

・しかし人間の想像力には限界がある。たとえば生まれてから一度も見たことのない色を想像することができないように。視覚的なメディアである映画を例にとればより明確である。1926年に製作されたフリッツ・ラング監督の名作『メトロポリス』は未来都市を描いた映画だが、巨大なビルが立ち並ぶ未来都市の空間を何と複葉機(宮崎駿監督の『紅の豚』に出てくるような翼が上下に二つある飛行機)が飛んでいる。まだジェット機が登場していない時代ではせいぜい空を複葉機が飛びまわっている未来しか想像できなかったのである。

 

 このように想像力には限界がある。人間にできるのはこれまで人類が経験してきたことや積み重ねてきた知識を組み替え、新しいフィクションの世界を創造することだけである。小説や映画に出てくるエイリアンは人間に似ていたり何かの動物や昆虫に似ていたりする。『プレデター』や『アバター』に出てくるエイリアンは基本的に人間の形をしているし、それ以外のエイリアンも気味の悪い生き物を組み合わせて作っているにすぎない。『アバター』にふんだんに出てくる異星の動物や昆虫や植物はどれもイメージのもとになったものが何か見当がつく。空中に浮かんでいる「島」も地球上のどこかにあるような形で、違うのは空に浮いていることだけである。空中に浮かぶ島は、18世紀に書かれたジョナサン・スウィフト著『ガリヴァー旅行記』に出てくるラピュタのエピソードから発想を借りている。映画監督の黒澤明は「想像とは記憶である」と言ったそうだが、おそらく同じことを言っていたのではないか。


 だがそこにまた可能性がある。現実との接点がある。つまり、想像力・創造力の源泉は現実なのである。私たちは現実を知るからこそ、過去に書かれた小説に描き込まれた「現実」に入り込むことができるのである。現実に対する知識が豊富なほど作品に対する理解も豊かになる。

 

 しかし「事実は小説より奇なり」と言われるように、しばしば現実にはフィクション以上に想像しがたいことが起こる。下手な小説よりノンフィクションやルポルタージュ作品の方がはるかに衝撃的で面白かったりするのである。J・シンプソン著『死のクレバス』(岩波現代文庫、映画『運命を分けたザイル』の原作)やジョン・クラカワー著『空へ』(文芸春秋社)などの山岳遭難を描いたノンフィクションは圧倒的な面白さだ。

 ドキュメンタリーやルポルタージュにフィクションの味付けをした傑作も紹介しておこう。アルフレッド・ランシング著『エンデュアランス号漂流』(新潮文庫)は、今からおよそ100年前、英国人探検家シャクルトンを隊長とする南極探検隊が氷の海に閉じ込められ(船はやがて沈没)、17ヶ月にわたって漂流した後、乗組員28名が一人も欠けることなく奇跡的な生還を果たした史実をフィクション化したものである。シャクルトン本人の手記をまとめた『南へ―エンデュアランス号漂流』も翻訳が出ているが、シャクルトンは物書きではないのでやはり面白さに欠ける。彼らが遭遇した、信じがたいような事実を基に練達のライターがフィクション化した『エンデュアランス号漂流』の方がはるかに面白い。どんな冒険物語もこれにはかなわない。読み始めたらやめられない面白さである。

 

 あるいはバフマン・ゴバディ監督によるイラン・イラク映画の傑作『亀も空を飛ぶ』では、クルド人の子供たちの想像を絶する現実が描かれている。その生活は悲惨であるが、同時に子どもたちのたくましさにも圧倒される。「何も知らない幼い子供たちと映画を撮ろうとした。イラクに旅した時に子供たちが丘の上でナッツを食べながら戦火を眺めていた。欧米の子供たちはポップコーンを食べながら映画を観るが、イラクでは現実の戦争を見る。」インタビューに答えた監督の言葉がこの映画の特質をよくあらわしている。まるで芋でも掘り出すように地雷を掘り出している子供たち。それはまさに彼らの「日常生活」だった。両手を失った子供は口で器用に地雷の信管を抜く。

 

・優れたドキュメンタリーやルポルタージュはフィクションを越える。80年代以来僕が持ち続けている確信だ。想像力(創造力)を生の現実が軽々と超えてしまう。そういう優れたドキュメンタリーやルポルタージュといくつも出会ってきた。ドキュメンタリーの持つ力はその具体性とリアリティである。単にある戦争で何万人の犠牲者が出たと書かれてもその犠牲者たちや遺族の苦しみや苦悩はリアルに伝わってこない。実際に経験した人の体験談の方が遥に説得力があり、肌を通して伝わってくる。想像を超えた現実の重み、それが様々な技法を駆使した創造を超えてしまう。その最も分かりやすい例があの9.11テロの圧倒的な映像と、3.11東日本大震災の時に流された津波の息を飲むほど凄まじい映像である。

 

・いや、現実がシンボリックな効果を生み出すことすらある。朝日新聞の記者だった井川一久がポル・ポト政権による民衆虐殺を取材した『このインドシナ-虐殺・難民・戦争』(合同出版)に次のような一節がある。井川は数々の虐殺現場を取材してきたが、ある虐殺現場の近くで彼はあるものを見た。そしてその場にへなへなとへたり込んでしまった。百戦錬磨の新聞記者から立ち上がれないほど力を奪ったのは血なまぐさいものでも、ぞっとするほど不気味なものでもなかった。それは普通なら平和とやすらぎを連想させるものだった。

 

 そういう刑務所のまわりに直径3、4メートルの窪地が無数にある。1ヵ所に30体から100体の死体を入れて土をかぶせたのだけれども、死体が腐って内部に空隙ができたために、かぶせた土が陥没したんですね。その土は血で赤黒く染まっている。 穴は犠牲者たちに自分で掘らせるわけです。それから彼らを後ろ手に縛りあげて穴の前にひざまずかせ、後頭部を鉄棒で一撃して殺して穴に蹴落とす。だから頭蓋骨をみると、たいてい後頭部が陥没している。穴の周辺には白骨や毛髪や衣類がおびただしく散らばっています。子どもの衣類も多い。縛られたままの白骨もある。犠牲者を拘束していた鉄の足枷や、殺害に使った鉄棒もころがっている。いちばん鬼気迫る感じがしたのは、ツオル・マリン村で小鳥の巣が人間の髪の毛でできているのを見たときです。このときは私も総身の力が抜けたような状態になって、その場に座り込んでしまいましたね。
井川一久編『このインドシナ』(1989、 連合出版)p.23

 

 彼が見つけたもの、それは小鳥の巣だった。すべて人間の髪の毛で作られていた真っ黒な鳥の巣。小さな鳥の巣の中に平和でほほえましいイメージと恐るべき虐殺のイメージが共存していた。生を育むイメージとむごたらしい死のイメージの一体化。散々吐き気を催す現場を見てきただけに、このコントラストは強烈だったのだろう。こんなところにまで虐殺の結果が及んでいたのか!

 

 この鳥の巣が持っていた力はある種のシンボリズム(象徴主義)的な力だと言っていいだろう。髪の毛が遺体を暗示するのは隠喩の一種である提喩(シネクドキ)の効果でもある。しかも、すべて人間の髪の毛で作られていたということは、遠くまで行かなくともすぐ手近に「材料」が豊富にあったことを意味している。一つの鳥の巣が持つめまいがするような意味の重なりと広がり。これらの強烈なコントラストと「効果」の重なりが一体となって、本来なら愛らしいはずの鳥の巣をすぐ近くにある人骨の山以上におぞましいものに変えてしまったのだ。

 

 しかしこれを単純にシンボリズムだと言ってしまうわけにはいかない。文学的シンボリズムはもっと曖昧で抽象的なものだ。この鳥の巣が強烈なインパクトを与えるのは、その前提に取材した人々が語った悲惨な事実、人骨の山などが積み重ねられているからである。事実の積み重ねにあるシンボリックな力が加えられた時、大きな飛躍が生まれる。そうとらえるべきだ。つまりこの効果はシンボリズムではなくリアリズムの延長としてとらえられるべきだと僕は思う。セルゲイ・エイゼンシュテイン監督の「戦艦ポチョムキン」で描かれた有名な場面、揺りかごがオデッサの階段を転がり落ちてゆくシーンを連想してもいいだろう。リアリズムを現実の平板な反映だと考えるのは間違いである。リアリズムは現実をより効果的に描き出す努力を営々と積み重ねてきている。そして上に示したように、何より現実自体が平板ではないのである。9.11同時多発テロによって崩れ落ちたツイン・タワーもシンボリックな意味合いを帯びていたではないか。

 

<追記>
 これまた古い原稿の復活です。「イギリス小説を読む」シリーズと同じ時期に書かれたもので、文学へのイントロダクションとして書かれたものです。ただ、内容は小説一般について書いており、イギリス小説に限定していないので、「イギリス小説を読む」シリーズとは別の独立した記事として掲載します。

 

 

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