ジョーゼフ・コンラッド『闇の奥』:帝国主義と文学
19世紀末は「新しい女」が登場した時代であり、世紀末のアヴァンギャルド(前衛)芸術が生まれた時代であるとともに、帝国主義の時代でもあった。
【帝国の時代】
・E.J.ホブズボーム『帝国の時代 1875-1914』(みすず書房)より
1875年から1914年にかけての時代は、新しい型の帝国主義を発展させたという理由からだけではなく、それよりずっと古めかしい理由から、帝国の時代と呼ぶことができよう。おそらくこの時代は、自らを公に「皇帝」と称したり、西欧の外交官が「皇帝」の称号にふさわしいと考えた国家元首の数が、近代世界史の中で一番多かった時代である。 われわれが論ずる時代は、かなり重要な意味で、明らかに新しい型の帝国の時代、植民地時代である。...1880年から1914年の間に...ヨーロッパとアメリカ大陸を除く世界の大半が、一握りの国々のうちのいずれかの公式の統治もしくは非公式な政治的支配の下に置かれる領土として、正式に分割された。一握りの国々とは主に、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、オランダ、ベルギー、アメリカ合衆国、日本であった。
【帝国意識】
・北川勝彦、平田雅博編『帝国意識の解剖学』(1999年、世界思想社)より
<第1章 イギリス帝国主義と帝国意識(木畑洋一)>
筆者が考える帝国意識とは、以下のようなものである。
帝国意識とは、他民族に対する帝国主義支配を支え正当化する意識-心情であって、その中核をなしたのは、世界政治の中で力を有し地球上の他民族に対して強大な影響力を及ぼす帝国支配国に自分が属しているという意識であり、それは、自国に従属している民族への人種的差別感に基づく侮蔑感と自民族についての優越感とによって支えられていた。
1 帝国意識の構成要素
帝国意識はさまざまな要素を含んでいたと考えられるが、その中心には民族的な差別意識が位置していた。民族的差別意識のそのまた核になるものが人種主義であった。
異なる人種の間での優劣感覚を伴う差異意識の存在は、歴史上いたるところでみられたとしても、それが体系だった形をとったのはおおよそ18世紀の後半であったといってよい。イギリスにおける黒人差別の歴史について浩瀚な研究を著したフライアは、その頃までの人種偏見とそれ以降に展開を始めた人種主義の違いを、迷信とドグマの違いにたとえている。非合理的で漠然とした人種偏見にとって代わって(というよりも、そのような要素は依然として強く残るためそれに加えてと表現した方が適当だろう)、身体の各部の特徴など「科学的」に観察しうる差異を伴う人種の相違によって人間としての発展能力がはっきり違う「すぐれた」人種と「劣った」人種とが生み出されていると見る「科学的人種主義」が、この頃から唱えられはじめたのである。(27)
人種主義に基づく、進歩-停滞、文明-野蛮、成熟-幼稚、成人-子どもといった対比が、帝国主義の言説のまさざまな局面で用いられたのである。(28)
帝国主義の要素として次に指摘すべきは、大国主義的ナショナリズム、愛国主義である。大国国民としての愛国主義は、排他的・好戦的な愛国主義であるジンゴイズムに容易に転化し、戦争に際しては「国と国王のために」戦う姿勢を人々の間に広範に生み出していった。
民族的優越感と大国主義的ナショナリズムが結び付いた所で、「帝国主義」は「文明化の使命」感を育んでいくことになる。優越した位置にある自分たちが、大国イギリスの庇護のもとにある植民地や勢力圏内の人々に、文明の恩恵を与えていき、彼らを文明の高みに、あるいはそれに近いところまで引き上げる営みを行っているのだ、という感覚である。「白人の責務」をうたった有名なキプリングの詩句であらわされるこの意識は、帝国支配の正当化の上で、 常に重要な役割を果たした。第一次世界大戦後、民族自決思想の登場に対抗する形で、植民地統治の理念として強調されるようになった「信託統治」の考え方(自立に必要な資質や条件が整っていない植民地住民について、自立しうる段階までの「進歩」を植民地統治によって保証していく責任が植民地統治国に課せられている、との考え方)も、この「文明化の使命」論の延長に他ならなかった。(30)
2 帝国意識を涵養した諸装置
ジョージ・オーウェルが、「イギリス人は帝国について偽善的であるというが全くその通りである。労働者階級の場合、この偽善は帝国の存在を知らないという形をとる」と述べているのは、この点できわめて鋭い観察であったといえる。(31)
キプリングの小説や詩、ヘンティの少年向け小説、大衆新聞『デイリー・メイル』の帝国報道などが、その代表である。文字印刷物の中でも、歴史や地理をはじめとする教科書は、学校教育の場で帝国意識を育む手段となった。このような教科書や、帝国賛美の訓辞などを媒介に、学校教育はその種々の局面で帝国意識浸透の場となっている。(32)
3 帝国意識の機能
帝国意識の機能として今一つ重視したいのは、それが帝国主義国――ここではイギリス――の人々のナショナル・アイデンティティを凝固させ強化する上で大きな役割を果たした点である。...イングランドとは異質なエスニックな条件(アングロ・サクソン系を主体とするイングランドに対し、スコットランドやウェールズではケルト系の人々が住民の軸となってきた)と、自立した地域としての歴史的前提(ウェールズのイングランドとの合同は16世紀に起こり、スコットランドの合同は18世紀始めに起こった)を有するこういった地域の人々が、それぞれスコットランド人やウェールズ人としてのアイデンティティとならんでイギリス人としてのアイデンティティをも備えたのは、大きな帝国をかかえる強国として発展をとげる国家に自分たちも属しているという感覚が育まれたゆえであった。イギリス人のナショナル・アイデンティティについてすこぶる魅力的な研究を行っているリンダ・コリーは、プロテスタンティズムと対仏戦争という要因とともに、帝国の存在が18世紀から19世紀初めにイギリス人というアイデンティティを生み出していったと論じている。(35-6)
帝国意識は帝国主義国内のエスニックなあるいは地域的な多様性からくる差異感覚を覆い隠す機能を有したが、それと同時に階級に関わりなく帝国主義国の国民に幅広く共有されることによって、国内の階級間、階層間の対立意識の緩和を助け、国内統合を支える機能ももっていた。...この点ではとりわけ労働者階級の中にも帝国意識が広がっていたことに特に着目する必要があろう。(37)
4 帝国意識の通時的変化
19世紀前半から半ばにかけては、いわゆる「自由貿易帝国主義」の時代であるが、この頃...人々の間に広がっていったのは帝国意識であった。...
帝国意識を涵養するためのさまざまな道具立ても、この時代にはそろってくる。たとえば、初等教育体制の整備、マスメディアの発達(『デイリー・メイル』など労働者階級が手軽に購入しうる安価な新聞が登場し、帝国意識の鼓吹によって販売部数を伸ばした)、万国博覧会の開催、等々である。王政の機能も、帝国意識との関連で新たに重視されるようになった。...「文明化の使命」論という帝国統治の論理が明確に押し出されるようになるのである。(44-5)
第一次世界大戦は、帝国主義の時代の到達点であったと同時に脱植民地化の出発点としての性格も持っていた。とりわけ、イギリス帝国の柱ともいえるインドでは、第一次世界大戦以降、民族独立をめざす運動の著しい伸長がみられた。(45)
広大な帝国保有と結びつくようなナショナル・アイデンティティの方も、第一次世界大戦後から若干の揺るぎをみせはじめた。帝国意識は脱植民地化を経過してもまだ残存している。1982年のフォークランド戦争に際しては、帝国意識のあらわな形での活性化が見られた。また民族・人種差別意識は、旧イギリス帝国内諸地域からの移民が1950年代後半以降大量に流入してくることによって、イギリスの国内で機能するようになってきた。(46-7)
<第2章 英国文学にみる帝国意識の生成と崩壊(小泉允雄)>
特に1980年代から、この系譜の文学[インド・東南アジアもの]がliterature of imperialism(帝国主義についての文学)として英国、米国で注目され、その研究がさかんになっている。その背景には、帝国主義がたんに政治・経済にかかわる事象であるにとどまらず、人間の文化や意識の問題であるという認識が高まったことがあるのだろう。
この系譜の文学の流れは時代とともにこのイメージがどう変わったかを私たちに示すだろう。先に憧れや恐怖と書いたが、おおまかにいって当初英国人にとってのインド・東南アジアのイメージ――大きくいってヨーロッパが描いた非ヨーロッパ世界の像――は、神秘、不可思議、冒険、奇蹟などの憧れの情緒に彩られていた。その神秘イメージは今日の文学にも残るものの、19世紀末からの帝国主義時代には、遅れた南の世界の停滞や汚濁という恐怖のイメージがそこに加わり、むしろそれが主流となる。同じように登場するヨーロッパ人の姿も変わる。当初はロビンソン・クルーソーのような冒険者が中心であった世界が、帝国主義時代に入ると、「遅れたもの」を導き、統治するというやっかいな使命を帯びたものたちの世界となる。そしてそれも末期に近づくと、この系譜の作品の登場人物は、帝国主義への疑念や批判をかくさない。かつて当然のこととして書かれた白人の矜持や差別意識はきびしく批判されたり笑われたりして、それは戦後から今日までのこの系譜の作家たちにも引き継がれる。(55)
第三に、このインド・東南アジアものの系譜が描きつづけたのは、植民者たちが南の国で作っていた白人社会の姿である。(55)
【帝国主義の文学】
・帝国主義文学の代表作リスト
1901 Kim (Rudyard Kipling)
1902 Heart of Darkness (Joseph Conrad) 『闇の奥』(岩波文庫)
1904 Nostromo (Joseph Conrad) 『ノストロモ』(筑摩書房)
1924 A Passage to India (E.M.Forster) 『インドへの道』(筑摩書房)
1926 Casuarina Trees (Somerset Maugham) 『カジュアリーナ・トリー』(ちくま文庫)
1934 Burmese Days (Goerge Orwell) 『ビルマの日々』
1936 Shooting an Elephant (Goerge Orwell) 『象を撃つ』(平凡社)
【ジョーゼフ・コンラッド『闇の奥』】
(1)ジョーゼフ・コンラッド(1857-1924)著作年表
1896 An Outcast of the Islands 『文化果つるところ』(角川文庫)
1897 The Niggar of the‘Narcissus' 『ナーシサス号の黒人』(筑摩書房)
1900 Lord Jim 『ロード・ジム』(筑摩書房)
1902 Youth 『青春』(新潮文庫)
1902 Heart of Darkness 『闇の奥』(岩波文庫)
1902 Typhoon 『台風』(新潮文庫)
1904 Nostromo 『ノストロモ』(筑摩書房)
1907 The Secret Agent 『密偵』(河出書房)
1911 Under Western Eyes 『西欧の眼の下に』(集英社)
1915 Victory 『勝利』(中央公論社)
1917 The Shadow-Line 『陰影線』(中央公論社)
(2)ジョーゼフ・コンラッドの生涯
コンラッドは1857年、当時ロシアの治政下にあったポーランドの由緒ある家柄に生まれた。彼の父は祖国独立の謀議に参加していたとの理由で北ロシアに流刑され、幼いコンラッドも父に同行したが、両親は次々に亡くなり、11歳で孤児になってしまった。17歳でマルセーユに出てフランス船に乗り組み、20歳あまりではじめて英国に行き、やがて英国船長の資格も取り、20代の終わりには英国に帰化した。彼の船員生活は35歳までの20年間続いたが、その間にアフリカ奥地のコンゴ河の上流まで行っている。コンラッドの作品の素材になったのはこの船乗り時代の経験である。その後健康を害したこともあり、作家に転じた。
『ナーシサス号の黒人』、『青春』、『台風』などの作品で海洋小説作家という印象を持たれているが、『ノストロモ』、『密偵』、『西欧の眼の下で』のような政治小説が後に評価されるようになってきた。しかし、このところ「ポスト・コロニアリズム批評」などの影響もあり、彼の作品の帝国主義的側面に関心が向けられている。『闇の奥』はその焦点となる作品である。作品の大筋は実体験に基づいている。コンラッドは「コンゴ上流開拓会社」の汽船の船長になった。開発というと聞こえはいいが、実態は原住民から象牙を搾取している会社だったようだ。そこの奥地代理人のクラインというフランス人が重病になったので、コンラッドは遠征隊とともにコンゴ河をさかのぼってその男を引き取って来たのである。初めてアフリカの奥地を見たコンラッドは、孤独がもたらす人間性の荒廃と白人による搾取のすさまじさを見て人間性の深淵をのぞいた思いがする。
(3)『闇の奥』の世界
フランシス・フォード・コッポラ監督の映画『地獄の黙示録』(1979年)の下敷きになった作品として知られる。もっとも、映画の方はベトナム戦争が舞台になっているが、小説の方はコンゴが舞台である。映画はカーツ大佐を探す旅だが、小説は貿易商人クルツを探す旅である(ただし、カーツもクルツも元のつづりは同じKurtz で、日本語表記が違っているだけである)。一方はアメリカ帝国主義の野蛮さと退廃を描くが、他方はアフリカ大陸と大英帝国の闇を探る。川を船でさかのぼって奥地の闇へと入り込んで行く展開、そしてどちらの主人公も最後に「恐怖」とつぶやくのは同じである。
『闇の奥』はロンドンのテムズ川で始まる。物語全体の枠組みは、『青春』や『ロード・ジム』にも出てくるマーロウという語り手が、同じ船に乗り合わせた他の乗客に語って聞かせた話という設定になっている。話にこれと行った筋の構成はなく、単にマーロウがクルツという男を救出するまでに出会ったエピソードやマーロウの想念や考察が連なっているだけである。
マーロウは象牙を輸出する会社に雇われ、その一番奥地の出張所主任クルツという男を救出する任務を申し付けられる。彼はとにかく優れた能力をもった人物らしいが、病気らしい。クルツを探す旅で出会ったものは何とも重苦しく、危険で、強欲で、野蛮で、荒廃した世界だった。原始林、生い茂った草むら、ざわつく木の葉、欲望まる出しの白人たち、崩れかかった小屋、獣のほえ声、現地人(訳では土人)の不気味な姿と恐ろしい叫び声、転がっている死体、杭に刺さった首、悲鳴のような船の汽笛、そして暗闇。
マーロウたちは沈没船を引き上げて修理し、のろのろと河をさかのぼって行く。途中でクルツの話を聞くうちに、マーロウはある道徳的信念を持ってやってきたというクルツにしだいに引かれて行く。クルツは象牙に引きつけられてしまったようだ。一旦象牙を運んで河を下り始めたのだが、途中でまた引き返すと言い出した。「突如として本部に背き、交代になることを拒み、そしておそらくは家郷の思い出にさえ背いて、あの荒野の奥地、荒涼たる無人の出張所に」戻ってしまったのだ。マーロウはクルツに会うが、すぐにクルツは死んでしまう。最後に残した言葉は「恐怖」(訳では「地獄」)である。やがてフランスに戻ったマーロウはクルツの婚約者と会い、彼の遺品を渡す。
(4)作品からの引用 (岩波文庫版より)
<帝国主義にかかわる部分>
冒険家、移住者、王室の所有船、取引所商人の船、船長、提督、東洋貿易の「もぐり商人」、東インド商会艦隊の新「将軍」たち――彼らはすべて船出して行ったのだ。黄金を求め、名声に憧れて、あるものは剣を、あるものは松明を携えて、すべてこの流れ[注:テムズ川]を下って行ったのだ。奥地に対する力の使者、聖火を伝える光の使者。...人類の夢、英連邦の胚種、そして帝国の萌芽!(8)
彼ら[征服者]の勝利は、ただ相手の弱さからくる偶然、それだけの話にすぎないのだ。ただ獲物のゆえに獲物を奪ったにすぎない。暴力による略奪であり、凶悪きわまる大規模な殺戮だ。そして奴らは、ただまっしぐらに、盲滅法それに飛び込んで行った――それでこそ暗黒と格闘するものにふさわしいのだ。この地上の征服とは何だ。たいていの場合、それは単に皮膚の色の異なった人間、僕らよりも多少低い鼻をしただけの人間から、むりに勝利を奪い取ることなんだ。よく見れば汚いことに決まっている。だが、それを償ってあまりあるものは、ただ観念だけだ。征服の背後にある一つの観念。...われわれがそれを仰ぎ、その前にひれ伏し、進んでいけにえを捧げる、そうしたある観念なんだ。(12)
僕は子供の時分から、大変な地図気違いだった。その頃はまだこの地球上に、空白がいくらでもあった。...なるほど、その頃はもう空白ではなかった。僕の子供時分から見れば、すでに河や、湖や、さまざまな地名が書き込まれていた。もう楽しい神秘に充ちた空白ではなかった...すでに暗黒地帯になってしまっていたのだ。だが、その中に一つ、地図にも著しく、一段と目立つ大きな河があった。たとえていえば、とぐろを解いた大蛇にも似て、頭は深く海に入り、胴体は遠く広大な大陸に曲線を描いて横たわっている。そして尻尾は遥かに奥地の底に姿を消しているのだ。(14-5)
[マーロウの伯母に別れのあいさつをしにいった時]
なにしろその頃は、そうしたばかばかしい話が、いくらでも印刷になり、口の端にも上っていたので、このお偉い伯母ごなども、すっかりそうしたたわごとの波にもまれて、足元をさらわれていた形だった。言い草がいいねえ、「無知蒙昧な土民大衆を、その恐るべき生活状態から救い出す」とおっしゃったからねえ。(23-4)
奴[クルツ]に言わせるとですねえ、出張所というものは、すべて将来の発展のために、いわば街道の灯台のようなものにならなくちゃいけない。商売の中心というだけじゃなくね、進んで文明、進歩、教化の中心にならなくちゃいけない、とそう言うんですよ。(65)
捕らえられて繋がれた怪物を見ることには、僕らは慣れている。だが、ここでは解放された自由な怪物を見ることができるのだ。...彼らもまた人間だという――そのことこそが最悪の疑念だった。疑念はいつも徐々として頭を占める。彼らは唸り、飛び上がり、旋回し、そして凄まじい形相をする。――だが、僕らのもっとも愕然となるのは――僕らと同様――彼らもまた人間だということ、そして僕ら自身と、あの狂暴な叫びとの間には、遥かながらもはっきり血縁があるということを考えた時だった。(73)
[マーロウたちが乗っている船の船員である黒人の頭が岸にいる「土人」たちを見て]
彼は「引っ捕らえろ、引っ捕らえろ。そいでおいらにくれよ、ね」と吐き出すように叫んだ。「君らに?いったいどうするというんだ、それを?」と、僕は聞き返した。「食べるだね」と、彼はズバリと答えた。(82-3)
[クルツが国際蛮習防止協会向けに書いた報告書]
冒頭まず僕ら白人が、現在到達している文明の高さから考えて、「彼ら(蛮人)の眼に超自然的存在として映るのはやむをえない、――我々はあたかも神の如き力をもって彼らに接するのである」云々...(102-3)
果たして僕らが彼をたずねて行くために失ったあの生命に値したか、そこまで断言するつもりはない。むしろ僕は、死んだ舵手のことをどれだけ悲しんだかしれない...
多分諸君は、わからないと言うだろう、サハラ砂漠の砂一粒ほどの値もない蛮人一人の生命だ、それをそんなに悲しむなどとはね。だが、いいかね、あれでもとにかくすることはしたんだ、ちゃんと舵は取ってくれたんだからねえ。(104)
<クルツに関する部分>
問題は、彼が恵まれた天才で、しかもその才能中にも最も著しいもの、いいかえれば彼の本質とでもいった感を与えたものは、彼の話術の才、彼の言葉――人々を幻惑し、啓蒙し、時には最も高邁な才能でもあれば、時にはまた最も下劣な天分でもあるもの、いわば人跡を許さぬ暗黒の奥地から流れ出る光の鼓動か、でなければ欺瞞の流れともいうべき表現能力だった。(96-7)
生身のクルツは半分イギリスで教育を受けた、そして――彼自身そう言ってくれたが――もともとは憐れみ深い人間だったらしい。母親は混血のイギリス人であり、父親も同じく混血のフランス人だった。いわばヨーロッパ全体が集まって彼を作り上げていたといってよい。(102)
「いったいなにをしてるんだね?探検かね?それとも...」「もちろんそうですとも」と彼[奥地に住むロシア人]は答えた。それによると、彼はおびただしい村落や、それに湖水まで一つ発見したということだ...だが、もちろんたいていは象牙集めのためだったことはいうまでもない。...「じゃ、露骨に言ってしまえば、略奪だね?」と僕は言った。彼はうなずいた。...「じゃ、その部落民もクルツの手下だったんだね?」...「だって土人たちは、あの人を神様のように思っていたんですからね」と答えた。(115ー6)
実際その後支配人は、クルツのやり方がこの地域を荒廃させてしまったのだと言った。...言えることは、クルツという男が、いろいろ彼の欲望を充たす上において、自制心というものを欠いていたこと、つまり、彼の中にはなにか足りないものがあった...荒野はすでに早くからそれを見抜いていた、そして彼の馬鹿げた侵入に対して、恐ろしい復讐を下していたのだった。(120)
あの荒野の呪縛を、僕は破ってしまいたかったのだ。思うに、ただこの呪縛のみが、彼を駆り立ててあの森の奥へ、ジャングルへ、そしてあの篝火の炎、太鼓の鼓動、妖気迫る呪文の唱和の方へと走らせるのにちかいない。この呪縛のみが、不逞な彼の魂を欺いて、人間に許された野心のらちを踏み越えさせるのに違いない。(137)
ただ彼の魂は常軌を逸していた。たった一人荒野に住んで、ただ自己の魂ばかり見つめているうちに、ああ、ついに常軌を逸してしまったのだった。...彼もまた彼自身と闘っていたのだ。...その魂自身を相手に盲目的な格闘をつづけているという魂の不可思議きわまる秘密を目の当たりにした。(138-9)
一口でいえば、きびしい完全な絶望の表情を見てとった。...彼は低い声で叫んだ――二度叫んだ。...「地獄だ(horror)!地獄だ!」(144)
マーロウの話は終わった。...沖合の空は黒雲が層々と積み重なり、世界の最果てにまでつづく静かな河の流れが、一面の雲空の下を黒々と流れ--末は遠く巨大な奥までつづいているように思えた。(162)
(5)『闇の奥』と帝国主義
有名なコナン・ドイルのシャーロック・ホームズ・シリーズにもインド、オーストラリア、アフリカ、中南米などが言及されるが、ドイルにとってそれらの地域は犯罪の供給源であり、猛毒や蛮人などのイメージと結び付いて語られるのである。例えば、「まだらの紐」の犯人はインド産の毒蛇を使って殺人を犯すのである。また、『ジェーン・エア』に登場するロチェスターの狂った妻バーサが西インド諸島のジャマイカ出身であることを思い出してもよい。
『闇の奥』はコンラッドが実際に体験したアフリカを描いたものだとよく言われる。またベルギーのコンゴ支配に対する暴露と告発の書であるとよく指摘される。しかし、正木恒夫の『植民地幻想』(みすず書房、1995年)によれば、コンゴ河流域はみすぼらしい出張所だけが点々とあるのではなく、実際には軍隊の駐屯所や伝導所、病院、警察、監獄などもあったという。ではなぜコンラッドはあのような描き方をしたのか。正木恒夫はこう説明する。
流域開発の過小評価は、裏返せば、「未開」の強調にほかならないということである。そしてこの未開への憧れと反発、魅力と恐怖という両義的な感情こそ、『闇の奥』を支配する情念なのであった。(209)
マーロウ(コンラッド)は自ら描き出した「原始」の像を、半ば恐れ半ば賛美する。その限りにおいて、『闇の奥』は、ヨーロッパ精神史を貫流する例の「気高き野蛮人」ないし「原始礼讚(primitivisum)」の伝統の中に位置づけることのできる作品である。(212)
スタンレーの「暗黒」大陸とコンラッドの「闇」の奥。二人にとってアフリカは、闇のとばりに閉ざされている必要があった。この闇の領域は、スタンレーにはヨーロッパ文明の「光」を呼び込む口実を、コンラッドにはヨーロッパ的自我内面の闇を投射すべき格好の場所を、それぞれ与えてくれる。地図に残された最後の空白地帯アフリカの、その空白がスタンレーの探検によって埋められたまさにその瞬間、そこが「暗黒大陸」と呼ばれはじめる奇妙さは、これら二人の人物が体現するヨーロッパの必要をぬきにしては説明のつかないものだ。ようやく見えはじめたアフリカを、ヨーロッパは闇の奥に沈めてしまったのである。(218)
つまり、『闇の奥』に描かれたアフリカは、ヨーロッパ人に都合がいいように改変されたアフリカだったと言うのだ。結局コンラッドの帝国主義/植民地主義批判は徹底したものとは呼べない。彼の意識の下に人種差別が潜んでいるからだ。彼の関心はむしろアフリカの原始社会の「闇の力の強さ」や「荒野の呪縛」といった不可解な力へと向けられている。これとクルツ自身の「象牙への欲望」が結び付いてクルツを破滅させたのである。クルツは「俺には大きな計画があったんだ」というが、結局それが何であったかは分からない。神秘的な「闇の力」が文明人とその欲望を飲み込んでいったわけだが、その「闇の力」とはマーロウやコンラッド自身あるいはヨーロッパ人の意識の中にある、「暗黒」や原始的野蛮さ、あるいはその裏返しの原始的生命力に対する恐怖と畏怖が象徴されたものかも知れない。アフリカの深い闇の中にコンラッド自身も半分飲み込まれていたのではないか。
【おまけ:ジョージ・オーウェル「象を撃つ」】
ビルマ時代のオーウェルは普通の警察官であった。その経験を基に書かれた「象を撃つ」という短編の内容は単純である。
ある日駐在所にいた主人公に一頭の家畜の象が暴れているとの知らせがあり、彼は駆けつけるが現場に来てみると、象はすでに発作が治まり、もう後は持ち主が戻るのを待っていればいい状態だった。しかしふと振り向くと、二千もの「黄色い顔の群れ」が、最新式のライフルを肩にした彼を遠巻きにして見守っていることに気がつく。彼らは主人公が象を撃つのを期待している。このまま引き上げれば彼は彼らに馬鹿にされる。しかし馬鹿にされることはできない。本人は象を撃ちたくはなかったのだが、群衆に押されるようにして、結局彼は象を撃つ。
つまり「東洋にいるすべての白人の生活は、笑われまいとする苦闘の連続なので」あり、「白人たる者は『土民たち』の前ではおじけづいてはならない」、ゆえに彼は「馬鹿に見られたくないというだけの理由で」象を撃ったのである。この出来事を通じて彼は支配するものの「空しさ」と「虚ろさ」を発見する。「その出来事のおかげで私は、帝国主義の本性――専制政府を動かしている真の動機――を、これまで以上にはっきりと見定めることができた」のである。ではその「帝国主義の本性」とは何か。それは「白人が暴君と化すとき、彼は自らの自由を破壊するのだ」ということである。こうしてオーウェルは「象を撃つ」を通して「威張るものが腐る」という真理を発見したのである。オーウェルはいわば内部告発の力でもって、帝国意識を「威張るものが腐る」という視点から痛みを込めて書いたのである。
<追記>
「イギリス小説を読む」シリーズは20年前(まだブログを始める前)に入門者向けに書いた記事です。ブログには『土曜の夜と日曜の朝』まで9本載せていました。しかしフォルダーの奥深くまで分け入って昔書いた記事を探っていたら、まだブログに載せていない記事がいくつかありました。その中から『大いなる遺産』と『日陰者ジュード』という大物2本を掲載しましたが、もう1本『闇の奥』を載せることにしました。古い記事はこれで打ち止めです。