「オフィシャル・シークレット」(2018)イギリス ★★★★☆
監督:ギャヴィン・フッド
脚本:サラ・バーンスタイン、グレゴリー・バーンスタイン、ギャヴィン・フッド
撮影監督:フロリアン・ホーフマイスター
出演:キーラ・ナイトレイ、マット・スミス、マシュー・グード、リス・エヴァンス
アダム・バクリ、レイフ・ファインズ、コンリース・ヒル、インディラ・バルマ
ジェレミー・ノーサム、ジョン・ヘファーナン、マイアンナ・バーリング
ハティ・モラハン
先日上田の映画館で「オフィシャル・シークレット」を観た。期待以上の力作だった。国家機密の内部告発という点では「シチズンフォー スノーデンの暴露」(2014)に通じる映画だが、映画の出来は「オフィシャル・シークレット」の方がはるかに上だ(もう1本の「スノーデン」は未見)。むしろこの映画は告発者自身だけではなく、新聞記者の闘いも描かれているので、「ペンタゴン・ペーパーズ」(2017)、「スポットライト 世紀のスクープ」(2015)、古くは「大統領の陰謀」(1976)や「カンバセーション盗聴」(1974)の系譜ともつながっている。さらには「グッドナイト&グッドラック」(2005)、「ココシリ」(2004)、「サルバドル 遥かなる日々」(1986)などを思い浮かべても良いだろう。この手の映画はアメリカに秀作が多いが、イギリス映画では極めて珍しい。そういう意味でも貴重だし、映画としてもすぐれていると思った。ただし、植民地問題を描いた作品に関していえばイギリス映画に傑作は多い。「おじいさんと草原の小学校」(2010)、「麦の穂をゆらす風」(2006)、「遠い夜明け」(1987)、「ワールド・アパート」(1987)、「ミッション」(1986)、「ズール戦争」(1963)など。アパルトヘイト問題に関してはアメリカにも「アマンドラ!希望の歌」(2002)、「白く渇いた季節」(1989、「マルチニックの少年」のユーザン・パルシー監督)という傑作がある。
政治映画という系譜で見ると、「ヴェロニカ・ゲリン」(2003)、「マイケル・コリンズ」(1996)、「フロスト×ニクソン」(2008)、「ボビー」(2006)、「ミッシング」(1982)、「1987、ある闘いの真実」(2017)、「タクシー運転手 ~約束は海を越えて~」(2017)、「大統領の理髪師」(2004)、「光州5・18」(2007)、「Z」(1969)などともつながってくる。最近は韓国映画に力作が多い。こうやって並べてみると、もはや「スミス都へ行く」(1939)の牧歌的世界ははるか遠い昔話のように思えてくる。もう1本、タイトルも似ている映画にアルゼンチンの名作「オフィシャル・ストーリー」(1985)がある。こちらは一人の女性歴史教師が軍事独裁政権による反体制派虐殺という真実を突き止めるという作品。岩波ホールで観たが、中南米映画を代表する傑作だ。
これらの一連の作品と比べると日本映画のこの分野での貧弱さは隠しようもない。「新聞記者」(2019)は期待外れだったし、「記憶にございません!」(2019)はさすがに良く出来ているが、コメディ・タッチの映画である(風刺はちょっとした味付け程度)。他に思い当たるのは「東京原発」(2004)や「金融腐食列島 呪縛」(1999)ぐらいか。1950年代から60年代にかけて作られた独立プロの作品以来、日本では政治的テーマを扱うこと自体がほとんどタブーになっている感がある。むしろ原発問題を抉り出した鎌仲ひとみ監督の「ミツバチの羽音と地球の回転」(2010)や「六ヶ所村ラプソディー」(2006)のように、ドキュメンタリーの方に傑作が多いというのが実感である。
系譜をたどるのはこの辺にして、「オフィシャル・シークレット」に描かれたイギリスの政治的状況を次に押さえておきたい。最近非常に注目されているライターであるブレイディみかこ氏が『ザ・レフト UK左翼セレブ列伝』(Pヴァイン)の中でケン・ローチ監督を最初に取り上げていて、彼の政治的原点について次のように書いている。
終戦直後の空襲の焼け跡に立った英国の庶民たちが、戦前の「貧者がスラムという檻の中で切り捨てられた社会」に戻ることを拒み、「淫らなまでに格差が広がった社会」にNOを突きつけた結果が、「ゆりかごから墓場まで」の社会福祉国家の建設だったのである。(p.22)
このドキュメンタリー(注:「ザ・スピリット・オブ・45」)を見てわたしが驚いたのは、サッチャ-以降の英国の政権が、いかにこの1945年の民衆のスピリットを歴史から葬り去ろうとしてきたかということだ。(p.22)
「サッチャーの真の息子」と言われたトニー・ブレアの労働党も、戦後英国の起点であったはずの1945年のスピリットを無かったことにしたのである。(p.23)
この3カ所の引用文に「オフィシャル・シークレット」の歴史的背景が要約されている。「サッチャーの時代とイギリス映画①」という記事の中でも同じことを書いているので少し補っておこう。世界で最初に産業革命を起こし、最初の工業国家となったイギリスは、この国力を生かして19世紀後半には大英帝国として世界各地に植民地を持つほどの大国となった。しかしイギリスを含むヨーロッパは第一次世界大戦と第二次世界大戦の直接の戦場となり、国土は荒廃し人々の生活は疲弊していた。そんな荒廃の中から生まれたのが、労働党が作り上げた「ゆりかごから墓場まで」という標語で知られる社会福祉国家である。しかしその後イギリスは「英国病」と呼ばれる不況に陥り、右肩下がりの長期低落傾向から抜け出せずにいた。
そこに登場したのが保守党のサッチャー政権である。イギリス最初の女性首相で「鉄の女」と呼ばれた彼女は、福祉国家こそが経済停滞の主要原因だと主張し、イギリスを市場経済中心の競争社会に作り変えた。サッチャーにとっての人間の美徳は自助、独立の精神、努力、簡約、勤勉などであり、福祉政策は人々に国家に頼る体質を植えつけ、労働意欲をそいでいると批判した。そして社会保障をどんどん削ってゆき、国営企業の民営化を進めた。「自助」というキーワードが象徴的だ。「自助」とはまさにサッチャーが唱えたスローガンだった。安倍政権とその後を継いだ菅政権が目指しているのはまさにこのサッチャー路線なのである。これからは税金を国民の生活を支えることに使うことはどんどん減らしてゆくから政府を頼るな、自分のことは自分で何とかしろ。こういう方向に政治を転換させた。一億総中流なんてついこないだまで言っていたが、いまや日本は低所得者層が激増し、格差社会になってしまった。「自助」が金科玉条のように大手をふるってのさばってくると、生活保護を受けるという憲法で保障された当然の権利がまるでずるをしているように言われるようになる。そんなとんでもない国に日本はなってしまったのである。
サッチャーによる荒療治でイギリスは表面上確かに豊かになったが、その一方でアメリカ的な消費生活が急速に拡大し、金の有無だけがその人間関係を決定する社会に変貌していった。競争意識が高まることによって経済は好転したが、極端な上昇志向や拝金主義が蔓延し、弱者は切り捨てられることになった。サッチャー時代の自助努力による立身出世というイデオロギーは、上昇志向の個人が他人を踏みにじって這いあがろうとする風潮を生み、そのあおりでかつてのコミュニティという人のつながりは解体されてゆく。這い上がる余地のない失業者や社会の最底辺にいる者たちは、出口のない閉塞した社会の中に捕らわれて抜け出せない。社会が人々を外から蝕み、酒とドラッグが中から蝕(むしば)んでゆく。競争社会+自助=弱肉強食の非情な世界。つまりそういうことだ。サッチャーの敷いた路線がイギリスをどのように変質させてしまったかを圧倒的なリアリティで描いたのが「わたしは、ダニエル・ブレイク」(2016)と「家族を想うとき」(2019)というケン・ローチ監督の2本の映画である。そこに描かれていたのはかつて世界に冠たる福祉国家であったイギリスの成れの果てである。イギリスは今やこんなに国民に冷たい国家に成り下がってしまったのか。観客は驚愕し、唖然とせずにいられない。
新型コロナウィルスの感染拡大で封鎖された武漢市で暮らす作家の方方がブログで書き続けた60日間の日記をまとめた『武漢日記』(河出書房新社、1600円)が日本で出版されたが、その中で彼女は「国の文明度を測る唯一の基準は『弱者に対してどういう態度をとるか』だ」と書いている。世界中に広まったコロナウィルスは、医療制度や社会保障制度等が充実していない発展途上国ばかりではなく、ヨーロッパやアメリカなどの先進国でも猛威を振るった。日本を含む先進国がそろって進めてきたのは、国民生活の基盤である社会保障制度を掘り崩し、効率一辺倒の競争社会に作り替えることだった。そんな新自由主義路線の危うさが皮肉なことにコロナウィルスによって露わになったのである。今まさに問われているのは、「弱者に対してどういう態度をとるか」という問題なのだ。
さて、もう一度焦点をイギリスに戻そう。80年代以降(サッチャーは79年から90年まで政権を維持したので、80年代はまるまるサッチャーの時代だった)イギリスはリトル・アメリカと化したのである。サッチャーの後を継いだメージャー首相(名前に反して全くマイナーな存在だった)に代わって政権を取ったのは労働党のトニー・ブレアである。ブレア首相は「ニュー・レイバー」を掲げて若々しくさっそうと登場したが、すぐ化けの皮ははがれた。保守党から労働党に替わったが、結局彼はサッチャー路線を根本的には変えられなかった。いや彼だけではない、今に至るまでイギリスはサッチャー路線から抜け出せていない。輝いていたかに見えたブレア首相の新しい路線という仮面がボロボロになって剥げ落ち、文字通り地に堕ちたのはイギリスがアメリカと並んでイラク侵攻に参加した時である。大英帝国の栄光は遠い昔の記憶となり、イギリスは今やアメリカの腰巾着にまで成り下がった。サッチャー政権時代にアルゼンチンと小さな島の領有権をめぐって戦ったフォークランド紛争は今思えば帝国主義の最後のあがきだったと思えるが(イギリス側は当初あんな小国など一ひねりだ、一週間もあれば片が付くと豪語していたが、結局勝つことは勝ったが戦闘が終結したのは3か月後だった)、イラク戦争の頃にはアメリカとの同盟関係を最重視する対アメリカ従属国家、言ってみれば旧ソ連時代の東欧諸国のような位置にまで落ちてしまっていた。しかもこの時代のアメリカは保守反動の時代だった。サッチャー時代のアメリカ大統領はロナルド・レーガンであり、イラク戦争時の大統領はジョージ・H・W・ブッシュだった(2代後の大統領ジョージ・W・ブッシュは彼の息子)。
「オフィシャル・シークレット」を理解するとき、こういった事柄をどうしても知っておく必要がある。そうでなければ、この映画を深く理解することはできない。「政府は変わる、私は国民に仕えている」というキャサリンの言葉は、こういう文脈の中でとらえられてこそその重みが真に理解できるのである。彼女は最初からそういう確固とした考えを持っていたから国家機密を告発したわけではない。イラク攻撃に根拠がないにもかかわらずいくつかの小国の弱みを握ってアメリカに賛成するよう圧力をかけるという裏工作の卑劣さが許せなかったからである。しかし直後に彼女は自分のした事の重大さに気づき、思い悩む。「国家の嘘を暴く」がこの映画のキャッチコピーらしい。そしてしばしばポリティカル・サスペンスと呼ばれる。確かにその通りではある。アメリカはトンキン湾事件をでっちあげてベトナム戦争に介入したように、今度もまたイラクに大量破壊兵器があるという口実でイラク攻撃に踏み切った。その口実に根拠がないことをキャサリンは事前に知ってしまった。そしてその国家機密を告発したことが公務秘密法違反に問われ、彼女は起訴される。彼女を弁護しようとするリベラルな弁護士が現れ、法廷闘争に焦点が向けられてゆく。そういう意味では確かにポリティカル・サスペンスである。
しかしこの映画で描かれるのはその裁判闘争での駆け引きだけではない。キャサリンの心の揺れがつぶさに描かれていることを忘れてはいけない。機密を暴露した時彼女は一人だった。たった一人ではとても国家権力に立ち向かえるものではない。しかもたまたま彼女の夫がトルコ系移民であったため逮捕され、彼女はますます追いつめられる。しかし彼女は追い詰められながらも何度も思い直し、新聞記者や弁護士たちという共に戦う仲間を得ることで彼女の決心は揺らぎないものに替わってゆく。自分が忠誠を誓うべきは国家権力なのか、国民なのか。自分が従うべきはアメリカとの同盟という大義名分によって押し付けられている偽りなのか、それとも真実なのか。家族まで巻き込まれて恫喝され、迷い悩みながら到達したのが、「政府は変わる、私は国民に仕えている」という認識なのである。この人間ドラマが作品に奥行きを与えていることを見落とすべきではない。
キャサリンの告発を取り上げた新聞社は「オブザーバー」紙だった。その前にいくつもの新聞社に断られてやっと拾い上げてくれたのがこの新聞だった。この新聞についても少し説明がいるだろう。イギリスは階級社会である。階級によって楽しむスポーツも違うし、読む新聞も違う。イギリスの新聞は日本の新聞より支持する政党や読者層がはっきりと分かれている。全国紙でいえば、左翼支持の傾向が強いのは一般紙では「ガーディアン」、「インディペンデント」、大衆紙では「デイリー・ミラー」の3紙。キャサリンの告発文が載った「オブザーバー」紙は実質的に「ガーディアン」紙の日曜版である。
キャサリン、新聞社、弁護士が互いに絡み合って展開するサスペンスフルな展開はめまぐるしい展開で確かに面白い。せっかくの大スクープが校正係によってアメリカつづりをイギリスつづりに直されてしまったために、偽物だと指摘を受ける展開が予想外で面白い(当の校正係の女性はいたたまれない思いだったろうが)。そして詳しくは書けないが、紆余曲折を経て裁判が告訴取り下げという形で終結するまでの緊迫した展開もなかなか秀逸だ。キャサリンは言ってみれば一種のスパイ行為を強要されたわけだが、その元をたどれば2001年9月11日の同時多発テロに行き着く。しかしそれが始まりではない。アメリカは9.11のテロ行為を口を極めて非難したが、何の理由もなくテロ事件が起こったわけではない。テロ行為を肯定するつもりはないが、そもそもあのテロはアメリカが世界の警察として行ってきた数々の暴虐行為に対する報復だったのである。アメリカはテロリストを非難する前に、なぜこれほどアメリカは世界から嫌われているのかを真剣に反省すべきだった(中東諸国では炎上し崩れ去るツインタワーの映像を観て大勢の人々が歓声を上げていた)。
その反省なしにテロに対する報復をしゃにむに強行したからアフガンやイラクのような泥沼にはまり込んでしまったのである。テレビ・ドラマや映画ではテロリストといえばひたすら卑劣な連中として描かれるようになる。イギリスのテレビ・ドラマ「MI-5 英国機密諜報部」は若い頃のキーリー・ホーズ、ルパート・ペンリー=ジョーンズが魅力的で大好きなドラマだが、事件がテロリストがらみになると途端に荒唐無稽な展開になり説得力に欠ける。それは一連のアメリカの警察ドラマも全く同じだ。9.11直後のピリピリした雰囲気は収まったが、トランプ大統領の登場で再び偏見と排除の論理がはびこってき始めている。仏教やキリスト教をはじめ、世界中のほとんどの宗教や新興宗教は信徒離れに悩んでいるが、イスラム教はその例外である。だからいつまでも緊張状態がなくならない。ある意味テロリストを生み出しているのは反イスラム勢力だと言えないこともないからだ。この憎しみの連鎖はいつ断ち切れるのか。いまだ見通しがつかないのが残念でならない。
最後に監督とキャストについて簡単に触れておきたい。ギャヴィン・フッド監督作品を観るのは「アイ・イン・ザ・スカイ」(2015) に続いて2本目である。この映画は大好きなヘレン・ミレン主演であるにもかかわらず、正直期待外れだった。テロリストへの攻撃を優先するか、巻き添えになりそうな少女の命を優先するかで英米の首脳陣が迷うというのかメインの主題。その設定にどうしても疑問が残る。巻き添えになるのが少女でなければ問題はないのかという疑問だ。すべてがその一点にかかっているだけに最後まですっきりしなかった。これに比べると「オフィシャル・シークレット」は格段に完成度が高い。今後の作品に期待が持てる。
キャストの中でとりわけ称賛したいのは主演のキーラ・ナイトレイである。あの暗い表情は最初誰かと思ったほどである。最初に注目したのは「ベッカムに恋して」(2002) だったが(もっとも主演のパーミンダ・ナーグラの方がはるかに存在感はあったが)、その後も「パイレーツ・オブ・カリビアン」シリーズ、「プライドと偏見」(2005)、「はじまりのうた」(2013) など多くの作品で印象的な仕事をしている。「オフィシャル・シークレット」は彼女の代表作の一つになるだろう。弁護士役のレイフ・ファインズはさすがの存在感。しかし「シンドラーのリスト」(1993)、「イングリッシュ・ペイシェント」(1996)、「太陽の雫」(1999)、「ナイロビの蜂」(2005)の頃に比べると最近作は印象が薄いのは否めない。それ以降の物で印象に残るのは「グランド・ブダペスト・ホテル」(2013) ぐらいか。しかしまだ老け込むのは早い。今後の作品に期待しよう。
もう一人印象的だったのは新聞記者役のリス・エヴァンス。「ノッティングヒルの恋人」(1999)での強烈な役柄が最初の出会い。それから「パイレーツ・ロック」(2009) で演じたアメリカ帰りの超売れっ子DJ役のセクシーさに驚愕。こんな役も演じられるとはびっくり!「オフィシャル・シークレット」ではガンガン怒鳴り散らす役柄がはまること。今のところこの3作がマイ・ベスト3だ。
■「オフィシャル・シークレット」とつながる系譜の作品リスト
「家族を想うとき」(2019)ケン・ローチ監督、イギリス・フランス・ベルギー
「記憶にございません!」(2019)三谷幸喜監督、日本
「新聞記者」(2019)藤井道人監督、日本
「国家が破産する日」(2018)チェ・グクヒ監督、韓国
「1987、ある闘いの真実」(2017)チャン・ジュナン監督、韓国
「タクシー運転手 ~約束は海を越えて~」(2017)チャン・フン監督、韓国
「ペンタゴン・ペーパーズ」(2017)スティーヴン・スピルバーグ監督、アメリカ
「わたしは、ダニエル・ブレイク」(2016)ケン・ローチ監督、英・仏・ベルギー
「スポットライト 世紀のスクープ」(2015)トム・マッカーシー監督、アメリカ
「シチズンフォー スノーデンの暴露」(2014) ローラ・ポイトラス監督、アメリカ・ドイツ
「おじいさんと草原の小学校」(2010)ジャスティン・チャドウィック監督、イギリス
「オレンジと太陽」(2010)ジム・ローチ監督、イギリス
「ミツバチの羽音と地球の回転」(2010)鎌仲ひとみ監督、日本
「ルート・アイリッシュ」(2010)ケン・ローチ監督、英・仏・・ベルギー・伊・スペイン
「フロスト×ニクソン」(2008)ロン・ハワード監督、アメリカ
「この自由な世界で」(2007)ケン・ローチ監督、イギリス・他
「光州5・18」(2007)キム・ジフン監督、韓国
「ボビー」(2006)エミリオ・エステヴェス監督、アメリカ
「麦の穂をゆらす風」(2006)ケン・ローチ監督、イギリス、アイルランド、他
「六ヶ所村ラプソディー」(2006)鎌仲ひとみ監督、日本
「グッドナイト&グッドラック」(2005)ジョージ・クルーニー監督、アメリカ
「ココシリ」(2004) ルー・チュ-アン監督、中国
「東京原発」(2004) 山川元監督、日本
「大統領の理髪師」(2004) イム・チャンサン監督、韓国
「ヴェロニカ・ゲリン」(2003) ジョエル・シュマッカー監督、米・アイルランド・英
「アマンドラ!希望の歌」(2002) リー・ハーシュ監督、南アフリカ・アメリカ
「1票のラブレター」(2001) ババク・パヤミ監督、イラン
「金融腐食列島 呪縛」(1999) 原田真人監督、日本
「マイケル・コリンズ」(1996)ニール・ジョーダン監督、アイルランド・英・米
「白く渇いた季節」(1989) ユーザン・パルシー監督、アメリカ
「戒厳令下チリ潜入記」(1988) ミゲル・リティン監督、スペイン
「遠い夜明け」(1987) リチャード・アッテンボロー監督、イギリス
「ワールド・アパート」(1987) クリス・メンゲス監督、イギリス
「サルバドル 遥かなる日々」(1986) オリヴァー・ストーン監督、アメリカ
「ミッション」(1986) ローランド・ジョフィ監督、イギリス
「オフィシャル・ストーリー」(1985) ルイス・プエンソ監督、アルゼンチン
「ミッシング」(1982) コスタ・ガブラス監督、アメリカ
「大統領の陰謀」(1976) アラン・J・パクラ監督、アメリカ
「カンバセーション盗聴」(1974) フランシス・F・コッポラ監督、アメリカ
「Z」(1969) コスタ=ガヴラス監督、フランス・アルジェリア
「ズール戦争」(1963) サイ・エンドフィールド監督、イギリス・アメリカ
「スミス都へ行く」(1939) フランク・キャプラ監督、アメリカ