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2020年9月 3日 (木)

20年続いている読書会の愉しみ

 「コレクター人生」という記事の中で、僕の趣味は漫画、本、映画、音楽、そして写真だと書いた。他に、市民劇場に入っているので、観劇もこれに加えても良いかもしれない。こういう趣味・関心なので、知り合いもほぼ同じ興味・関心を持った人が多い。しかし、いずれも一人でやれることなので単独行動が基本。それでも上記市民劇場以外に二つの会に属している。どちらもほぼ20年続いている。一つは「映画の会」。最初のうちは、食事をした後映画を話題にしておしゃべりするというものだった。いつのころか毎回担当者を順繰りに替えて、その人が推薦する映画を観るという現在のスタイルに替わった。多いときは5、6人の参加者がいたが、今は3名に減ってしまった。

 もう一つは「読書会」である。この読書会の最大の特徴は日本語の原文と英語訳を並行して読んでゆくという点にある。最初に読んだのは宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』。テキストはちくま文庫版『英語で読む銀河鉄道の夜』で、右側の偶数ページに日本語の原文、左側の奇数ページにその英訳文が載っている、いわゆる対訳本である(英訳はロジャー・パルバース)。文庫本1冊に日本語と英語が両方それも見開きで載っているので非常に便利なテキストだった。僕がこの会に参加したのは、宮沢賢治の文章が英語でどう表現されているかという点に興味があったからだ。他の参加者の関心もほぼ同様だったようで、この頃はこの文章が英語だとこうなるのかという事が中心的な話題だった。

 次に取り上げた作品は松尾芭蕉の『奥の細道』。講談社インターナショナルから出ていた『対訳 おくのほそ道』をテキストとして用いた。英訳を担当したのは有名なドナルド・キーンで、こちらは左側に日本語が載っていて、『銀河鉄道の夜』とは左右が逆だった。うれしいのはカラーの挿絵が豊富に載っていたこと。これが本文の理解をだいぶ助けてくれていた。これももちろん俳句という短い詩を英語でどう訳すのかに関心が集中した。というか、英語訳を読んで、なるほどそういう意味だったのかと納得することが多かったように思う。俳句以外の地の文も、英訳ではかなり説明的表現が加えられていて、それがまた作品の理解を助けていた。

 参加者は現在6名だが(うち3名は「映画の会」と同じメンバー)、しばしば話題はテキストから離れて様々なことに飛び移ってゆく。それぞれに参加者がみな豊富な読書経験、人生経験を持っているので、話題は実に豊富で、これが楽しみの一つでもある。

 3冊目に取り上げたのは夏目漱石の『坊っちゃん』。テキストはアラン・ターニー訳の講談社インターナショナル版。これは全文英文で、参加者は別に漱石の原文を持って参加する。日本語版は指定していないので様々な出版社の物を持ち寄った。それぞれテキスト表記の細かいところに違いがあり、注の付け方もまちまちなので、かえって多様な知識が得られて面白かった。漱石の日本語は『奥の細道』に比べれば格段に現代語に近いので、話題はむしろ漱石独特の当て字にしばしば向けられた。音さえ合っていればいいという感じの当て字なので、今の漢字表記とは相当違う。「なんでこの字なんだ?」と首をひねることしきり。また同じ漢字でも現在とは違う意味で使われていたりするので、英文より漱石の原文にもっぱら関心が集中した。

 4作目は再び宮沢賢治作品。今度は短編集を読むことにした。テキストは講談社インターナショナルの『宮沢賢治短編集』(英訳はジョン・ベスター)。これは英文と日本文が見開きで並ぶ対訳本。「どんぐりと山猫」から「セロ弾きのゴーシュ」まで8つの短編が収録されている。英文も日本語の原文も分かりやすいが、しばしば賢治独特の世界に戸惑い、様々に解釈が分かれたりすることもあった。賢治独特の擬音語、擬態語についての議論も盛り上がった。日本語ほど豊富な擬音語、擬態語を持つ言語は他にないのではないか。コロコロ、ゴロゴロ、ゴロンゴロン。これだけで日本人には転がっている石の大きさまでわかる。その上に賢治は意識的に彼独自の擬音語、擬態語を作り出した。「風の又三郎」に出て来る風の音「どっどどどどうど どどうど どどう」はその典型的な例だ。「オツベルと象」に出て来る稲扱機械の「のんのんのんのんのん」も独特の響きだ。ちなみに英文では ”thumpety-thump, thumpety-thump” と訳されている。

 次に読んだのは樋口一葉の「にごりえ」と「十三夜」。これはなぜか英文テキストのコピーが手元に残っていないので、英文の出典が分からない。それはともかく、樋口一葉の原文は句読点がないのですこぶる読みにくい。誰が言った言葉で、どこまでがその言った言葉なのかも判然としない。英文を読んで初めて、「ああ、そういうことか」とようやく納得がゆくという次第。英語訳はもはや現代語訳の代わり的な役割を果たすことになる。日本語も古典となるほど詳細な注釈がないとさっぱり意味が分からない。英語の方がはるかに簡単だ。逆にいえば、英訳者は原文を深く読んで解釈し、分かりやすく説明的な表現も付け加えて訳している。大変な労苦だ。

 次いで挑んだのは泉鏡花の『高野聖』。読書会の良いところは一人ではとても読む気になれない、あるいは読みだしても読み続けられないような本を知恵を寄せ合って何とか読み下し、最後まで読み切ることができると言うことである。有名な本とはいえ、この読書会がなかったなら『高野聖』など生涯読むことはなかっただろう。英文テキストの出典はこちらもはっきりしない。英文のコピーは残っているが、テキスト部分のコピーしかないため、出典が分からない。最初に読んだのは2008年2月28日だが、その日の日記には「意外に日本語の方はわかりやすいと感じた」と書かれている。そうはいっても難解なところはいくつもあり、ああだこうだと言いながら読んでゆくのはこれまた楽しい。一人で読んでいたのではそんな風に楽しんで読むことはできない。

 『高野聖』の後はガラッと趣向を変えてみた。中国の作家魯迅を読むことにしたのである。中国語の原文は読めないので、日本語訳と英語訳を読み比べるという特殊な読書会になった。2009年5月26日からまず『阿Q正伝』を読み始めた。その日の日記には「英語のテキストは同一だが、日本語の翻訳がそれぞれ持っているものが違うので、これまでとはまた違った面白さがあった」と記されている。『阿Q正伝』読了後に短編の「故郷」を挟んで、その後に『狂人日記』も読んだ(英文テキストはいずれもネットからダウンロードしたものを用いていたと思う)。いやあしかし魯迅は難解だった。「故郷」は短編だし、中学校の国語の教科書にも載っていたので比較的わかりやすかった(また感動的だった)が、長編2冊は何を言いたいのかつかみきれない。個々の文章も分からないことだらけだが、全体として何を言いたかったのかも判然としない。それまでは英文を読めば理解が深まったのだが、これについては英文を読んでもさっぱり分からない。全体に寓意が多用されているので分かりにくいわけだが、文化的な違いも大きくそういう意味でも分かりにくい。3冊も続けて読んだのは面白かったからというよりも、何とか魯迅の世界を理解したいという思いだったからではないか。今振り返ってみるとそう思う。

 魯迅の後がまた凄い。『方丈記』、『徒然草』、『枕草子』と日本の古典を3冊続けて読んだのだ。これこそ読書会でないと読み切れない難しい代物ばかり。一人だったら何度挑んでも途中で挫折していただろう。とにかく同じ日本語とはいえ、現代語とは全く違う言葉だ。詳細な注釈があってもなお分からないことだらけ。ここでも英語訳が、分かりやすい現代語訳の役割を果たしている。『方丈記』の1回目、2011年3月16日の日記には「日本語は難しいが、英語が解説書代わりとなる」とある。実際そんな感じだった。『徒然草』は比較的知られている章を選んで読んだが、全部読んでいたらとんでもない時間がかかっただろう。

 しかし一番難解だったのは『枕草子』だった。2014年1月から読み始めたが、その3回目、3月18日の日記には「『枕草子』はかなり難しい。詳しい注があってやっと理解できる。それもみんなで知恵を寄せ合ってやっと分かる程度。元の原文は句読点も段落もなく漢字もほとんどないというのだから、読みにくいことこの上ない。まるで暗号解読だった。句読点と段落を付け、漢字にも変換され読み仮名を振られている現代版テキストを用いているのに、詳細な注なしでは理解できない。『方丈記』や『徒然草』より難しいと思った」と書かれている。相当てこずったことが伝わってくる。日記を付けていると、こういう時に役立つ。余談だが、僕が使っている日記は「そら日記」というフリーソフトだが、アイコンの図柄は空になっている。しかしこの「そら」は『奥の細道』で芭蕉に同行した弟子の曾良の意味も含んでいるのではないかと個人的には思っている。

 『方丈記』は2011年3月~2011年9月にかけて、『徒然草』は2011年10月~2013年12月、『枕草子』は2014年1月~2016年9月にかけて読んでいる。『方丈記』は短いので半年で読み終わっているが、『徒然草』と『枕草子』は共に2年以上かかっている。言葉だけではなく、建物や家具、道具、服装など、ありとあらゆるものが違うので、テキストの注だけではなく、画像などの視覚的資料も必要となる。何度も繰り返すが、一人ではとても読み切れなかっただろう。最初に日本語を読み、次にその部分にあたる英文を読むという順序で進めているが、その後の議論がどんどん長くなる。話がテキストからそれてどんどん長くなって、ごくわずかしか読み進まない回もあった。しかしそういう時間こそ得難いものだ。読書会の前に食事をするのだが、テキストを読むという行為の他に、この食事を味わう楽しみと参加者各自の知識と経験に基づく自由闊達な発言を交わす愉しみ、これがあったからこそ20年も読書会が続いてきたのだろう。その分高齢化がだいぶ進んだが、まだ何年かは続けられるだろう。

 難しい古典が続いた後は、一息入れるかのように森鴎外の『雁』を取り上げた。2016年10月18日から読み始めたが、その日の日記には「『枕草子』に比べると日本語も英訳も格段に読みやすいという感想で全員一致。鴎外というと擬古文体で書かれた歴史もののイメージが強いが、『雁』を読むと漱石と同時代の作家だということがよくわかる」と記されている。庶民の日常会話をそのまま取り入れた分かりやすい文章だ。それでいて地の文に突然カタカナの難しい外国語がさしはさまれるのはご愛敬。ヒロインのお玉が思いを寄せる相手が大学生という設定なので、インテリらしい言葉遣いを意図的にさしはさんでいると思われる。高峰秀子主演の映画版を先に観ていたが、原作の方がずっと良い。登場人物の心理が実に事細かに書き込まれている。作家とはここまで細かく人間観察をしているのかと感心する。

『雁』は2年半ほどかけて、2019年4月に読了。現在はまた趣向を変えて、イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(Unbeaten Tracks in Japan )を読んでいる。今は日光を訪れているところ。ここはだいぶ気に入ったようで、長く滞在している。今年の4月と5月は新型コロナウイルス大流行のため休会になったが、6月からまた再開している。個人的には前に一度読んではいたが、何人かで一緒に読むのはまた違った楽しみがある。イギリス人の視点から見た明治の日本。ユニークなシチュエーションだけにまた会話が弾む。同じ旅行記でも『奥の細道』とは全く視点も関心の向け処も違う。現在の旅行ガイドより詳しいのではないかと思うほど詳細な描写と解説。インターネットも充実した辞書もない時代に、どうやってこれだけの知識を得たのか。しかも原文は手紙文である。旅先から送っているので、図書館に通って調べたりする余裕はなかったはず。案内役兼通訳のイトーにもそれほど知識があったとは思えない。日記や手紙を書くためにかなりの数の日本人に「取材」をしたに違いない。自分で挿絵も描いているわけだから、かなりじっくり観察もしたのだろう。それにしても驚くべき描写力である。文章とわずかな挿絵だけで異国の風景や風土を見たことがない人に説明するのは容易なことではない。飛行機も自動車も、ビデオもパソコンもインターネットもない時代に世界各地を旅し、詳細な記録を残した一人のイギリス人女性。いやはやとてつもない人がいたものである。

 

 

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