先月観た映画(11年1月)
「プレシャス」(09、リー・ダニエルズ監督、米)★★★★★
「オーケストラ!」(09、ラデュ・ミヘイレアニュ監督、フランス)★★★★☆
「クレイジー・ハート」(09、スコット・クーパー監督、米)★★★★☆
「千年の祈り」(07、ウェイン・ワン監督、米・日本)★★★★
「男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け」(76、山田洋次監督、日本)★★★★
「インセプション」(10、クリストファー・ノーラン監督、米)★★★★
「アマルフィ 女神の報酬」(09、西谷弘監督、日本)★★★☆
「オーケストラ!」については短いながら一応レビューを書いていますのでそちらを参照してください。
「プレシャス」
予想していた展開とは違っていたが、非常に優れた映画だった。とにかく俳優たちのリアルな存在感が半端じゃない。ドキュメンタリーかと思わせるリアルさ。アメリカの抱える差別、人格荒廃、貧困、無教育の深刻さがひしひしと伝わってくる。
黒人問題を描くことは長い間アメリカ映画のタブーだった。公民権運動が盛んだった60年代にようやく「アラバマ物語」や「招かれざる客」のようなすぐれた作品が生まれた。しかし70年代は一連のブラックスプロイテーション映画が作られはしたが、歴史に残るほどの映画は生まれなかった。ようやく80年代に「ミシシッピー・バーニング」のような優れた作品がいくつか登場した。さらにスパイク・リー監督の登場で弾みがつき、90年代に多くの傑作が生まれた。しかし2000年代に入ってその勢いは止まってしまったかのようである。そんな停滞状況の中に突然飛び出してきたのがこの「プレシャス」である。
■黒人問題を描いた主な映画
「プレシャス」(2009) リー・ダニエルズ監督
「セントアンナの奇跡」(2008) スパイク・リー監督
「ゲット・オン・ザ・バス」(1996) スパイク・リー監督
「黒豹のバラード」(1994) マリオ・バン・ピープルズ監督
「マルコムX」(1992) スパイク・リー監督
「ボーイズ・ン・ザ・フッド」(1991) ジョン・シングルトン監督
「モ・ベター・ブルース」(1990) スパイク・リー監督
「ロング・ウォーク・ホーム」(1990) リチャード・ピアース監督
「ドゥ・ザ・ライト・シング」(1989) スパイク・リー監督
「グローリー」(1989) エドワード・ズウィック監督
「ミシシッピー・バーニング」(1988) アラン・パーカー監督
「カラー・パープル」(1985) スティーブン・スピルバーグ監督
「ラグタイム」(1981) ミロシュ・フォアマン監督
「招かれざる客」(1967) スタンリー・クレイマー監督
「アラバマ物語」(1962) ロバート・マリガン監督
「手錠のままの脱獄」(1958) スタンリー・クレイマー監督
「プレシャス」の凄さは浮かび上がることを諦めてしまった黒人母子家庭の闇の深さと、その底知れない漆黒の闇の中でなお浮かびあがろうと模索するプレシャスの輝きにある。ブラックホールのような母親と闇夜の月のような娘の強烈な対比・対立。濃厚な闇と淡い光が交錯する白黒映画を観るようだ。「プレシャス」が上記の作品群の中でとりわけユニークなのは、黒人に対する不当な差別に対する告発、政治的主張などはほとんどなく、ひたすら社会の最底辺に生きる人々の生活実態をなめるように見つめて行くことにある。人種的な意識は希薄で(というより当然の前提という感じだ)、むしろ貧困、無学、社会保障制度に依存しきっただらしない生活態度、闇の中でのたうちながら自分だけではなく娘まで深みに引きずり込もうとする自壊した人間性、つまり堤未果の本のタイトルを借りれば「貧困大国アメリカ」の実態をえぐり出すことに主眼がある。その象徴的存在が主人公プレシャス(ガボレイ・シディベ)を虐待する母親のメアリー(モニーク)である。
モニークという女優を初めて観たが、誰もが指摘するように、すさまじいほどの力演である。憎々しいなどという言葉ではそのおぞましさを表現しきれない。囚人を虐待する冷酷な監守など彼女と比べたら可愛いものだと思えてくる。自分はぐうたらと一日中何もしないで食っちゃ寝のだらしない生活を送っている。それでいて娘のプレシャスが字を学んで最底辺の生活から這い上がろうとすると、足を引っ張って引きずり戻そうとする。地獄の亡者さながら、娘に絡みつき、しがみつき、はがいじめにし、足で踏みつけ自分の足元に埋めておこうとする。凄まじい形相で怒鳴りつけ、泣きわめき、叩き伏せようとする。関取のような巨体だけに波の迫力ではない。
なぜ彼女はそれほど娘を虐待するのか。哀れなことにプレシャスは実の父親の子どもを2度妊娠するが、母親のメアリーはそれを知りながら黙認していた。映画のラストで彼女はなぜそうしたのかと問い詰められ、もし止めたら夫に捨てられる、そうなったら「誰が私を愛してくれるの?誰が私をいい気分にさせてくれるの?」と泣きながら答える。異常な関係が続くうちに彼女の精神が歪み、娘を近親相姦の犠牲者としてではなく、自分の夫を奪った女として考えるようになってしまった。この精神の荒廃が観る者の心をぞっとさせるのだ。
しかしどれほどひどい虐待を受けてもプレシャスは母親に手出しはしない。プレシャスも母親に負けないほどの巨躯である。まともに立ち向かったなら、重量級同士がぶつかり合う壮絶な格闘になるはずだが、そうはならない。プレシャスにはそれ以外の道を選びとるだけの知性があったからだ。彼女が選んだ道は学校に通って文字を覚える事だった。彼女は学校に通うことで素晴らしい教師と出会い仲間と出会った。オータナティヴ・スクールに通い、そこでブルー・レイン先生(ポーラ・パットン)と出会うこの部分が実にすばらしい。泥沼の中を這いまわるような母親との生活から抜け出す道が文字を覚える事と繋がっている、そういう描き方が素晴らしいのだ。
文字を覚えるということは単に読み書きができるようになるというだけではない。NHKの名作ドラマ「大地の子」で主人公の陸一心が労働改造所で華僑の黄書海から日本語の文字を習うシーンはこのドラマのもっとも感動的な場面の一つだ。地面に字を書いては消す、その繰り返し。地面が黒板だった。大地が学校だった。日本映画でも例えば「拝啓天皇陛下様」で山田正助(渥美清)が字を習う場面が出てくる。山田正助に字を習うよう勧めた中隊長(加藤嘉)の言葉が印象的だ。「お前は文字を知らん。それは人生において甚だ損。学を修めるということは人間が正しく生きる道を学ぶことである。」
中隊長は、文字を習うことは「学を修める」ことであり、それは「人間が正しく生きる道を学ぶこと」だと言った。文字を習うことを、例えば、漢字検定を受けるという程度の意味でとらえていないことが大事である。漢字検定を映画検定に替えてもいいだろう。映画検定で高い得点が取れたからといって、優れた映画評が書けるようになるわけではない。人間は言葉を介して思考する。文字を習う事は言葉を学ぶことであり、言葉を学ぶことによって人は様々な考えや考え方を学ぶのであり、自分の考えを持ち、他人に自分の意見を正確に表現する力を持つ土台を作る。ブルー・レイン先生(演じるポーラ・パットンの毅然とした美しさに惹きつけられた)がプレシャスから引き出したのは、単に字を書く能力だけではない。先生は最初に、自分には何もできないというプレシャスから、さんざん粘った末に料理ならできるという言葉を引き出した。それを糸口に最終的に引きだしたもの、それは、自分は母親の持ち物ではない、自分には自分の人格があるという認識であり、自分の進む道は自分で決めるという決意である。だからプレシャスは最後に母親が自分の本心を胸から絞り出すように告白した後でも決心が揺るがなかったのだ。
監督のリー・ダニエルズはこれが監督第2作(第1作の「サイレンサー」は未見)。監督業に進出する前には「チョコレート」や「The Woodsman」(日本未公開)の制作をしていた。1959年12月生まれだから今51歳。監督としては遅咲きだが、今後の作品を期待したくなる逸材だ。
「クレイジー・ハート」
■ジェフ・ブリッジスの代表作
「クレイジー・ハート」(2009)
「シービスケット」(2003)
「ビッグ・リボウスキ」(1998)
「白い嵐」(1996)
「フィッシャー・キング」(1991)
「恋のゆくえ/ファビュラス・ベイカー・ボーイズ」(1989)
「タッカー」(1988)
「ラスト・ショー」(1971)
ジェフ・ブリッジスというとどうしても「ラスト・ショー」が最初に思い浮かぶ。しかし主演のジェフ・ブリッジスやティモシー・ボトムズより印象に残っているのはサム・ザ・ライオン役を演じたベン・ジョンソンの方だ。ジェフ・ブリッジスもティモシー・ボトムズも「ラスト・ショー」以後は長いことあまりいい作品と出会っていないと思う。ティモシー・ボトムズは「ラスト・ショー」の次に名作「ジョニーは戦場へ行った」で主演しているが、その後は泣かず飛ばずだったと言っていい。一方ジェフ・ブリッジスも長い間浮かび上がれなかったが、40代、50代になって渋みを増してからはそこそこ良い作品に出るようになった。そしてついに「クレイジー・ハート」でアカデミー賞主演男優賞を得た。男優の場合、若い時はただハンサムなだけだが、中年になってから渋みや重みや演技力が増して、あるいは枯れた味や飄々とした味が出ていい役者になる例は多い。
「クレイジー・ハート」はいかにもアメリカ映画らしい作品だった。何といってもジェフ・ブリッジスがいい味を出している。これはジェフ・ブリッジスの映画だと言っても過言ではない。ジェフ・ブリッジスの役柄は、かつて一世を風靡したものの今やすっかり落ちぶれて、どさまわりで食いぶちを稼いでいるバッド・ブレイクという初老のカントリー・シンガー。カントリー歌手が主人公の映画と言えばシシー・スペイセクとトミー・リー・ジョーンズ主演の「歌え!ロレッタ愛のために」(1980)が有名だが、こちらは無名から大歌手にのし上がってゆく映画で勢いと明るさがあった(モデルはロレッタ・リン)。一方「クレイジー・ハート」には人生の陰影がべったりと張り付いている。しかしその陰影は「プレシャス」のようにどす黒いものではなく、哀感がにじみ出ている灰色の陰影である。
しかしこの映画が描いたのは人生の翳りだけではなく、そこにふと差し込んだ光によって翳りが薄れてゆくプロセスでもある。彼に興味を持ち取材を申し込んできた女性ジャーナリスト、ジーン・クラドック(マギー・ギレンホール)との出会い。このジーンが彼の人生に光をもたらした。二人は一夜を共にする。二人の関係はうまく行きかけるが、バッドがジーンの息子を預かっている時につい酒に手を出し、息子が行方不明になってしまう。息子は無事見つかるが、二人の関係に亀裂が入り結局別れてしまう。しかし映画はそこで終わらない。何年か後にバッドがジーンと彼女の息子と再会する場面が最後に付けられている。バッドは酒を断ち、ミュージシャンとしても再起していた。
主人公とヒロインが結婚してめでたしめでたしとなるお決まりのパターンをたどらなかったところが良い。それでいて明るいラストになっている。バッドはジーンとの別れという苦い試練を経て立ち直ったのである。「クレイジー・ハート」で、ジェフ・ブリッジスは「ラスト・ショー」のベン・ジョンソンのような人生の深みと陰影を演じられる存在になった。
「男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け」
『男はつらいよ 寅さんDVDマガジン』第2巻収録のDVDで観た。薄い冊子も着いて1590円とお得な値段だが、DVDの画質は悪くない。しかもこの値段で特典映像まで付いている。このシリーズは今後も買い続けるつもりだ。
まあ、内容はおなじみのパターンなので触れない。マドンナの太地喜和子がなかなかいい。宇野重吉がさすがの貫録で、息子の寺尾聰も一緒に出ていたのには驚いた。映画の余韻を楽しみたくて、付録映像を全部観た。
それにしても48本ものシリーズ作品を作り続け、平均して高い水準を維持するというのは大変なことだと思う。70年代には寅さん以外にも有名なシリーズはたくさんあった。東映の「仁義なき戦い」と「トラック野郎」そして「網走番外地」シリーズ。大映には勝新太郎の「座頭市」シリーズ、「兵隊やくざ」シリーズ、「悪名」シリーズの他に、市川雷蔵の「陸軍中野学校」シリーズもあった。喜劇の東宝には植木等の「無責任&日本一」シリーズとクレイジーキャッツの「クレイジー作戦」シリーズ、そして森繁の社長シリーズと駅前シリーズ、加山雄三の若大将シリーズなど。これらの中で国民的シリーズと言えるのはやはり「男はつらいよ」シリーズだろう。このシリーズの魅力は何と言っても渥美清の魅力なのだ。「お男はつらいよ」以外のどんな映画に出ても、渥美清は常に寅さんだった。それでいて見飽きる事がない。まさに稀代の俳優である。
「アマルフィ 女神の報酬」
かつてどこかで織田裕二主演だから大した作品ではないだろうというようなことを書いたことがある。だが「アマルフィ 女神の報酬」を観た後ではその言葉を撤回しなければならない。主演の織田裕二が実に渋い役者になっていて本当に驚いた。ゴルゴ13並みの沈着冷静さ。アメリカにはこの手の渋かっこいい役者がたくさんいるが、日本にもやっとこういうカッコよく決まる役者が出てきたかと「アマルフィ 女神の報酬」を観て思った。織田裕二はTVドラマ「外交官黒田康作」でもその渋さとカッコよさを持続している。東日本大震災でシリーズが途切れてしまったのが残念。いつか放送されるのだろうか。
「千年の祈り」
「千年の祈り」の監督は香港生まれのウェイン・ワンだが、台湾生まれのアン・リー監督による父親3部作(「推手」、「ウェディング・バンケット」、「恋人たちの食卓」)を思わせるしっとりとした温もりのある佳作である。過去に監督した「ジョイ・ラック・クラブ」や「スモーク」のような名作にはさすがに劣るが、地味ではあっても深い味わいのある作品だ。
「千年の祈り」のテーマは上記父親3部作の「推手」と一番近い。「推手」では父親と息子夫婦、特にアメリカ人である息子の嫁と父親が互いに馴染めないのである。言葉も生活習慣も違うのだから無理もない。一方「千年の祈り」の場合は父親と実の娘の心が通い合わないのである。娘のイーラン(フェイ・ユー)は父親(ヘンリー・オー)を煙たがって次第に家を空ける時間が長くなる。時間をもてあました父親は散歩に出かけ、様々な人と会話を交わす。やがてイラン出身の老婦人(ヴィダ・ガレマニ)と親しくなる。互いにつたない英語で会話するが、しばしばそれぞれの自国語が混じる。当然相手の言葉は理解できないのだが、それでも不思議に気持ちは通じあう。一方イーランは父親と同じ言葉が話せるにもかかわらず、中国語で話すのは苦手だと言う。新しい言語である英語で話す方が新しい自分になれるからだと。
心が通い合わない痛み。そのすれ違いの奥深くに父親の過去の秘密がかかわっていた。その秘密とは実は文革時代に父親が経験した出来事と関係していた。つまりこの映画も文革が荒れ狂った辛い時代と芯のところで深いかかわりのある映画だったのである。
父親が文革時代の辛い経験を語った後、娘と少し心が通じ合えるようになった。終始淡々とつづられたこの映画は余韻を残して終わる。アン・リー監督の父親3部作もそうだったが、この映画も小津映画の流れを汲んでいるように思う。小津安二郎の笠智衆、アン・リーのラン・シャン、ウェイン・ワンのヘンリー・オー。アジアの父親たちは娘のことを思い時々寂しい表情をのぞかせる。「いつまでこっちにいるつもり?アメリカを見に来たんでしょ。」「見たかったのは、おまえが幸せに暮らす国だ。」だが、イーランの父親シー氏が見たのは中国人の夫と別れ一人寂しく笑顔もなく暮らす娘、孫が生まれたと喜んだ矢先に息子夫婦によって老人ホームに入れられてしまうイラン人の老婦人が暮らす国だった。しかし上述したようにこの映画はラストで陰影の中にかすかな光を投げかけて終わる。タイトルが示すようにそこに「祈り」が込められているからだろう。
同じ舟に乗り合わせるならば百世もの前世の縁(祈り)がある。
枕を共にして眠るのであれば千世もの縁(祈り)がある。
娘のイーランはこのことわざを英語で言う時にあえて「縁」を「祈り」と訳した。父と娘は千年の祈りで結ばれている。シー氏はいつか娘が「幸せに暮らす国」を見る事が出来るのだろうか。
「インセプション」
人の夢の中に入り込んで記憶を盗んだり、記憶を植え付けてゆくというきわどい設定のSF映画。まあ「マトリックス」からアイディアを借りてきたような映画だ。SF的な作りにはなっているが、基本的には人工的な「場」を作って、そこで展開されるゲームのようなものである。めまぐるしい展開で、やや分かりにくいところもあるが、それほど混乱することはない。十分楽しめるが、それほど深い印象が残る映画ではない。