「たそがれ清兵衛」(02、山田洋次監督、日本)★★★★★
「博士の愛した数式」(05、小泉堯史監督、日本)★★★★★
「沈まぬ太陽」(09、若松節朗監督、日本)★★★★★
「イングロリアス・バスターズ」(09、クエンティン・タランティーノ監督、米)★★★★☆
「正義のゆくえ I.C.E.特別捜査官」(09、ウェイン・クラマー監督、米)★★★★☆
「フル・モンティ」(97、ピーター・カッタネオ監督、イギリス)★★★★☆
「ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女」(09、ニールス・アルデン・オプレヴ監督、スウェーデン・他)★★★★☆
「ジェイン・オースティン 秘められた恋」(07、ジュリアン・ジャロルド監督、英米)★★★★
「かいじゅうたちのいるところ」(09、スパイク・ジョーンズ監督、米)★★☆
※「博士の愛した数式」はレビューを書いていますので、そちらを参照してください。
「たそがれ清兵衛」
(藤沢周平の世界と山田監督の映画化作品については「武士の一分」のレビューに僕の基本的な考えと評価を書いているので、そちらを参照してください。)
藤沢周平の映画化作品はいくつかあるが、なかでもよく知られており、かつ作品として優れているのは山田洋次監督の ″時代劇三部作″ だろう。「たそがれ清兵衛」(02)、「隠し剣 鬼の爪」(04)、「武士の一分」(06)の3作である。3作とも優れた作品だが、中でもその第1作「たそがれ清兵衛」が一番の傑作だと思う。
はっきり言ってしまおう。映画の方が原作を越えていると思う。「たそがれ清兵衛」の原作は『たそがれ清兵衛』所収の「たそがれ清兵衛」と「祝い人(ほいと)助八」、および『竹光始末』所収の「竹光始末」である。原作はいずれも短編で、かなり淡々と描かれている。下級武士の日常をリアルに描くという点は原作も映画も共通しているが、登場人物の感情の起伏が丁寧に描きこまれ、余吾善右衛門(田中泯)との死闘の場面は本物の切り合いを思わせる壮絶さで文字表現をはるかに超える。さらに切り合う前の清兵衛と善右衛門の会話からは武士の世界の非情さがあぶり出されていて、これがまたこの映画に深みを与え、決闘場面の凄まじさにもかき消されないだけの強烈なインパクトを持っている。
そして何といっても井口清兵衛を演じた真田広之と、その幼馴染で後に清兵衛の妻になる朋江を演じた宮沢りえが素晴らしい(田中泯の凄味と不気味さも特筆ものだが、ここでは触れない)。同僚たちに陰口をたたかれても意に介せず、お城での仕事が終わればすぐ家に帰りせっせと家族の世話をする清兵衛。何日も風呂に入らず不快な体臭を放っている。月代(さかやき)は何日も剃っていないので見苦しいほどぼさぼさである。従来の時代劇の主人公とは全く違った、うだつの上がらない下級武士の日常を演じながら、真田広之の所作と表情にはきりっとしたものがある。かつ、ぼけた母親や子供たちを見る目には優しさがあふれている。
わずか50石の禄高ゆえ貧乏暮らしをしているが、彼は藩でも有数の小太刀の使い手である。内に秘められた強さとやさしさ、真田広之はこの埋もれた剣豪を余すところなく演じた。映画の大部分を占める日常描写の部分での演技も素晴らしいが、2度出てくる決闘の場面では鍛え抜かれた彼の剣劇がいかんなく発揮される。決闘場面の迫力と凄絶さは ″時代劇三部作″ の中でも群を抜いている。これほど魅力的な真田広之を他に見たことがない。彼の最高傑作だと言っていいだろう。
出番は真田広之より少ないが、ある意味で彼を越えるほどの魅力をこの作品に与えているのが宮沢りえである。若手の女優で彼女を越える魅力と才能を持った人はおそらくいない。「父と暮らせば」を観れば、彼女がいかに非凡な才能を持った女優であるかわかるだろう。「たそがれ清兵衛」での彼女の美しさはたとえようもない。彼女が登場するだけでそれまで薄暗いトーンが基調だった画面が一気に華やぐように感じられるほどだ。彼女はあたりを染めてしまうほどの色を持っている。そしてその感情表現の巧みさ。いや「巧みさ」などという技巧を感じさせるような表現はふさわしくない。あからさまな感情表現を許されない武家の娘という枠を軽々と乗り越えてしまう彼女だが、それでも清兵衛への思いは内に秘めたままである。にもかかわらずその思いが、彼女の話しぶり、さりげないセリフ、所作、表情によって観る者にひしひしと伝わってくる。
もっとも感動的な場面だけをあげよう。清兵衛が余吾善右衛門との果たし合いに赴く直前、朋江に清兵衛が嫁に来てほしいと打ち明ける場面。その場面全体がまことに感動的なのだが、一番感動したのは朋江が「どうかご無事で」と清兵衛を送り出した後である。ぼけた清兵衛の母親が朋江に「どちらのお嬢様でがんしたかのう」と聞く。朋江は「わたくしは清兵衛さんの幼馴染の朋江でがんす」と答えてうつむいてしまう。このシーンは何度観ても涙があふれてしまう。
実は、朋江はすでに会津の家中の者と縁談が決まっていたのである。朋江の兄が清兵衛に妹を嫁にもらってほしいと頼んだ時、清兵衛が断っていたからだ。生死をかけた果たし合いの直前、清兵衛は本心を打ち明けたのだが、その時はもう遅かったのである。朋江も叶うなら清兵衛の元に嫁ぎたかった。だから彼女は清兵衛の母の問いに「清兵衛さんの許嫁の朋江でがんす」と答えたかったのだ。そう言えない悲しさに朋江は顔をゆがめ、うつむいたのである。彼女の無念さを直接表現するのではなく、「清兵衛さんの幼馴染の朋江」という言葉で間接的に表した演出は秀逸である。このような感情の激発は原作では一切描かれない。客観的に淡々と描かれるのである。そしてこの「付加された部分」があったからこそ映画は原作を越えたのである。余吾善右衛門が骨壷から取り出した娘の骨を食らうという凄まじいシーンも映画によって付け加えられたものである。登場人物たちの揺れ動く感情、余吾善右衛門の味わったどん底生活とお家騒動の巻き添えになった無念さ、壮絶な二人の果たし合い。これらが単なる映画的な味付けや視覚的効果に終わらず、原作に人間ドラマの奥行きを与え映画の視覚的リアリズムをより徹底するものになっていたからこそ、この映画は原作を越える傑作になったのである。
「沈まぬ太陽」
原作は読んでいないが、骨太でいい映画だった。これだけまじめな日本映画は近ごろ珍しい。原作の良さをできるだけ引き継ごうと真摯に努力していると感じた。何よりも、労働組合の活動家を主人公にした原作を取り上げたこと自体称賛に値する。独立プロの時代以降の日本映画ではまともに描かれることがなかったヒーロー像なのである。しかもからかったり揶揄したりすることなく、きちんと正面から描いたのは立派だ。
原作が『白い巨塔』や『華麗なる一族』で知られる山崎豊子だけに、山本薩夫監督作品を連想しないわけにはいかない。長い間途切れていた伝統だが、ようやくその伝統につながる作品が表れてきたわけだ。
原作は長大なものなので、原作を読んでいる人は物足りないと感じるだろう。あくまで信念を貫く主人公と会社側にすり寄って寝返った元組合幹部、主人公の後を継いで組合の委員長になった男への会社からの執拗ないじめと嫌がらせ。単純で分かりやすい図式になっているのは否めない。しかし労働組合の立場に立つということは、単に会社に待遇改善を要求するということだけではなく、乗客の安全を守る立場に立つことであり、事故が起こった場合には遺族の立場に立つということなのだという視点を貫いている点は評価していい。原作と映画にわれわれが共感するのはまさにそういう視点で描かれているからである。会社と組合との対立という時にわれわれが思い浮かべる、お決まりの図式化されたイメージとは全く違う描き方をした。原作と映画が持つ説得力は根源的にはそこからきていると言っていい。
山本薩夫監督作品もそうだったが、やや大味な所があることは否めない。それでも、御巣鷹山の大事故をセンセーショナルに描くことなく、ひたすら遺族に寄り添う裏方の地味な仕事を描き続け、なおかつ観客を飽きさず、共感を持たせ続けた手腕は評価できる。同じ日航機墜落事故を報道陣の視点から描いた「クライマーズ・ハイ」という作品もあった。骨太な社会派ヒューマン・ドラマが日本でもまた作られるようになってきたことを素直に喜びたい。
「イングロリアス・バスターズ」
有名な映画批評家岩崎昶(いわさきあきら)が、さまざまな悪役キャラクターが映画で描かれたがそのほとんどはナチスのイメージに基づいている、つまりナチスを超える悪役のイメージは生まれていないという意味のことを書いている。恐らく『ヒトラーと映画』(1975年、朝日選書)の中で書いていたのだと思うが、雑誌か新聞に書いていたのかもしれない。いずれにしても、この指摘はおそらく今でも通用するだろう。「イングロリアス・バスターズ」はそのナチスとの戦いを描いたということで期待もあったが、タランティーノが監督という点に多少の不安もあった。アクションやバイオレンス描写に流されて反ファシズムという点がぶれてはいないかという不安である。幸いそれは杞憂だった。いろいろ疑問はあるが、反ファシズムという基本線はさすがに外してはいない。
“イングロリアス・バスターズ”というナチスを裏返したようなユダヤ系アメリカ人部隊が登場するが、殺したナチスの頭の皮を剥ぐという彼らの報復行為を見ていると、軍の特殊部隊というよりもむしろテロ部隊と呼ぶのがふさわしいと感じる。ナチスを殺し続け、ついにはヒトラーをはじめナチス高官を一気に殺害することに成功する(ドイツ軍の高官たちが集まった所を爆破するあたりはロバート・アルドリッチ監督の「特攻大作戦」と似た展開)。史実にはない全くのフィクションだが、要するにナチスが犯して来た蛮行をフィクションの中で逆にナチスに対してやり返してやったわけだ。「ワルキューレ」でトム・クルーズたちが失敗したことを、代わりに“イングロリアス・バスターズ”とレジスタンスの手で成功させてしまおうというストーリー。事実ではないが、それだけに爽快感があるのも確かだ。
それでも“イングロリアス・バスターズ”部隊だけを描いていては、いくら相手がナチスでも単なるバイオレンス・アクションもので終わってしまう。しかも相手のやり口をまねて(「1人あたり100人のナチの頭の皮を俺に持って来い!」)やり返すという設定だから、まずその相手の残虐行為が先になければならない。だから最初にドイツ軍によるユダヤ人狩りの場面を描いたのである。実際この場面は強烈かつ重要である。 “ユダヤ・ハンター” の異名をとるハンス・ランダ大佐のいやらしいほどの落ち着きと表面的な紳士的対応、そして最後にむき出しになる冷酷さが観る者の目に焼き付いてしまう。演じたクリストフ・ヴァルツという俳優が出色だった。本当に憎々しいほどだ。カンヌ映画祭で最優秀男優賞を受賞したのも頷ける。この場面が最初にあるから後で登場する“イングロリアス・バスターズ”部隊に我々は心強いものを感じるのだ。
そして、このとき一家の中で唯一人難を逃れて生き延びたショシャナ(メラニー・ロラン)が後にエマニュエル・ミミュと名を替えて再び登場し、重要な役割を果たすことになる。彼女と“イングロリアス・バスターズ”が協力することで、“イングロリアス・バスターズ”のテロ行為に根拠と大義が与えられるのである。またショシャナが経営する映画館が爆破作戦の舞台となるため、ショシャナはハンス・ランダ大佐をはじめとするドイツ軍と身近に接することになる。そこに緊張感が生まれる。
このような形でかろうじてナチスの残虐行為と裏腹の関係になっているため、単なる活劇にとどまることは避けられた。しかし、言うまでもなく、ナチスを崩壊させたのは一部の部隊の功績ではない。連合軍と占領された国々のレジスタンス活動を中心とした長く粘り強い戦いがナチスを追いつめ崩壊させたのである。一部のヒーローたちの大活躍で問題が解決されてしまうという描き方はいかにもアメリカ映画的だ。まあ、十分楽しませてもらったからこれ以上うるさいことを言うこともないだろう。楽しませてくれなきゃタランティーノ印ではない。
「正義のゆくえ I.C.E.特別捜査官」
「エル・ノルテ 約束の地」、「ディープ・ブルー・ナイト」、「グリーン・カード」、「クラッシュ」、「スパングリッシュ」、「メルキアデス・エストラーダの三度の埋葬」、「扉をたたく人」など、アメリカの移民や不法入国者をめぐる問題を描いた作品は決して多いとは言えない。しかし、映画として優れたものが多い。「正義のゆくえ I.C.E.特別捜査官」はこれらの系列に新たに加えられた力作である。
移民や不法入国者を描くことは、同時にアメリカ社会を描くことである。様々な国からの移民が絡み合う群像劇という作りにしたのは、その意味で成功だったと言えるだろう。多様な視点からアメリカ社会をとらえることになるからだ。それは9.11テロ以降、移民に対して不寛容になったアメリカ社会の抱える矛盾や問題点をあぶり出すことにもなる。その意味でこの映画は「ポスト9.11映画」の系譜にも位置付けることができる。
かなり複雑な構成の映画だったこともあって、かなり記憶が薄れている。良心的な移民税関捜査局ハリソン・フォードを中心に、不法就労で摘発されたメキシコ人女性ミレヤ、グリーンカードを欲しがっているオーストラリア出身のクレアと彼女の弱みに付け込むグリーンカード判定官のコール、クレアの恋人である南アフリカ出身のユダヤ系移民ギャビン、バングラデシュ出身の高校生タズリマ、イラン出身の捜査官ハミード一家、韓国出身のヨン・キムなどのエピソードが絡み合う。群像劇としたことがどのような効果を生み、そこからどんなアメリカ像がえぐり出されてきたのか。記憶が薄れていてそのあたりが書けない。いずれ見直す機会があった時にそのあたりを確認しよう。
「フル・モンティ」
79年から90年まで続いたサッチャー政権を経て、90年代以降のイギリス映画界はサッチャー時代とその負の遺産によって疲弊し、大きな矛盾を抱えるにいたったイギリス社会を批判する一連の傑作群を生み出した。「リフ・ラフ」、「レディバード・レディバード」、「ブラス!」、「シーズン・チケット」、「リトル・ダンサー」等々。「フル・モンティ」もこれら「アンチ・サッチャリズム映画」の一つに位置づけられる。
最初に観たのは98年。それから12年後に観直したわけだが、この痛快な映画は今観ても少しも色あせていない。この映画には強烈なエネルギーがある。そのエネルギーはたとえば「ブラス!」や「リトル・ダンサー」などにも共通するもので、抑圧的だった80年代のイギリス映画にはあまり見られなかったものだ。90年代のイギリス映画に見られる明るさや前向きのエネルギーは、富める者と貧しき者との格差が広がったイギリス社会で冷や飯を食わされていた人々が、閉塞状況を前向きに打ち破ろうとして発散するエネルギーなのである。
この時代のイギリス映画は「がんばれ、リアム」、「ボクと空と麦畑」、「マイ・ネーム・イズ・ジョー」、「人生は、時々晴れ」などの、将来にほとんど何の希望も見出せない、見終わって気が重くなるような暗い映画も生み出した。これらの作品もまた当時のイギリス社会を反映していると言える。しかし「マイ・スウィート・シェフィールド」、「グリーン・フィンガーズ」、「シャンプー台のむこうに」、「ベッカムに恋して」、「カレンダー・ガールズ」など、全体としてはやはり前向きのエネルギーをもった映画が主流だ。
上で「閉塞状況を前向きに打ち破ろうとして発散するエネルギー」と書いた。つまり一連の映画の主人公たちは失業したり、スト中であったり、低所得者だったりする場合が多く、その苦しい状況を打ち破るために前向きの意思とエネルギーが必要なのである。失業して喰いつめた男たちが一念発起してストリップをやろうとする「フル・モンティ」は、まさにこの時代の典型的なイギリス映画だと言える。そのあたりのことを「サッチャーの時代とイギリス映画②」という記事で次のように書いた。
「フル・モンティ」や「ブラス!」や「リトル・ダンサー」などの明るい前向きのイメージを持った映画にも、それらの映画の明るさの裏には失業、貧困、犯罪などの現実がある。そしてこの「失業、貧困、犯罪」こそが、現在のイギリス映画を読み解く重要なキーワードなのである。
「フル・モンティ」の舞台であるシェフィールドはかつて鉄鋼業で栄えた街である。映画の冒頭に映し出される70年代初頭のニュースフィルムに写っているシェフィールドの街は実に活気にあふれている。しかしあれから20数年、今や鉄鋼所は次々と閉鎖に追い込まれ、ガズ(ロバー ト・カーライル)や親友デイヴ(マーク・アディ)たちはあわれ失業中の身。半年たってもまだ仕事が見つからない。鉄鋼所の仕事しか知らない彼らにはなかなか転職先が見つからないのである。「フル・モンティ」の翌年に公開された「マイ・スウィート・シェフィールド」では、やはり失業者たちが鉄塔のペンキ塗りという誰もやりたがらない危険な仕事についていた。
弱り目に祟り目で、ガズは別れた女房から息子のネイサン(ウィリアム・スネイプ) を取り返そうとしているが、養育費の700ポンドが払えそうもない。そんな窮状の中、たまたま見かけた男性ストリップが女性の人気を集めているのにヒントを得て、自分たちもストリップをやろうと仲間を集め始める。何とも安易な発想に思えるが、暗黙の前提として既にカズたちはありとあらゆる就職先を半年間に試していたと考えるべきだろう。どうにもならないところまで追い詰められた挙句、最後の賭けとしてストリップに飛びついたのである。「フル・モンティ」は非常に良くできたコメディだが、その笑いの根底に失業という生活の根幹を揺るがす問題があることを見落とすべきではない。
仲間集めのオーディションが始まるが、当然「七人の侍」のようにはいかない。色男も、マッチョも、若い男もいるはずはなく、何とかかき集めた6人はいずれも情けなさあふれる中年のオッサンぞろい。いくら追いつめられた失業者があふれているとはいえ、男のストリップとあっては志願者が列をなすはずもない。裸になること自体も当然恥ずかしいが、彼らを押しとどめる要因はほかにもある。あれほど積極的に仲間を誘いストリップ実現に向けて頑張っていたガズが、いざ本番という時にやめると言いだしたところでそれが明らかになる。彼が逃げ腰になったのは、会場に男の観客や自分の分かれた女房が来ていることを知ったからである。つまり、彼は裸になること以上に、そこまで落ちぶれた自分たちの情けない姿を見られることに耐えられなかったのである。
そのプライドを投げ捨てる決意をさせたのは息子のネイサンだった。最初はあきれていた息子が親を励ますようになる。親が息子を応援するようになる「リトル・ダンサー」と逆の構図になっているのが面白い。
会場には結構な人数が集まっていた。ガズはこの売り上げで養育費の700ポンドが払えるかもしれない。一体なぜこれだけの観客が集まったのか。この映画を論じるとき、どうしてもこの点をはっきりさせておく必要がある。チケットが売れだしたのは、工場跡で下着だけになって練習しているところを警察に見つかって拘束され、そのことが新聞で報道されたことがきっかけである。したがって興味本位で見に来た人も一部にはいただろう。しかし、ストリップを見に行った大部分の人たちの理由は別のところにあったに違いない。観客たちの一番の目的は冴えない中年オヤジたちのストリップそれ自体を楽しみことではない(もちろん、それはそれで楽しんだろうが)。生活のためにプライドまで投げ捨てて必死で努力しようとしている男たちの心意気に触れ、その心意気に対する自分たちの共感と支持を示すために行ったのだ。そこには不況で苦しむ者たち同士の連帯感があったのである。
実際ガズたちは必死だった。しかしその必死さが目をむき歯を食いしばっている姿ではなく、コミカルな演出で描かれているところがいい。例えば、ダンスの特訓に励んではみるものの、なかなか足並みが揃わない時のエピソード。ダンスだと思うと動きがまったくそろわないのに、サッカーのオフサイド・トラップの要領でやればいいと言われると見事に一発で決まる。さすがはサッカー発祥の国、ここは実に可笑しかった。あるいは、上で述べた警察に連行された時のエピソード。証拠のビデオを見せられているうちに、「ほら、そこでお前のタイミングが遅れている」などと警察そっちのけで、仲間同士で振付の点検を始めるところは傑作だ。
この軽やかさ、おおらかさ、前向きの姿勢がこの映画の命である。主人公たちが裸になるイギリス映画はほかに「カレンダー・ガールズ」という傑作がある。こちらは中年のおばさんたちがヌード・カレンダーを作るという映画だ。どちらも目的のために羞恥心とプライドを捨て明るく前向きに取り組もうとする人たちが描かれている。違いがあるとすれば目的の重さの差だ。「カレンダー・ガールズ」の場合、女性たちは生活に困っていたわけではない。メンバーの一人の夫が白血病で亡くなり、彼が入院していた病院の硬いソファの代わりに新しいソファを寄付しようという趣旨から始まった企画である。
それに比べるとガズたちが背負っていたものははるかに重い。「キンキー・ブーツ」に登場するドラッグ・クイーンのローラは大柄な黒人男性だが、無理して女性用のハイヒールをはいている。男物などないからだ。したがって彼女の体重を支えきれないため、しょっちゅうヒールが折れる。そのとき「彼女」は言った。「またヒールが取れちゃった。人生の重みに負けるのよ。」一方、ガズたちが背負っていたのは「人生」というよりもむしろ「生活」の重さだった。
「ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女」
原作のスティーグ・ラーソンの『ミレニアム』3部作は全世界で話題騒然となったらしいが、全く知らなかった。映画の方もいかにもB級映画という感じのタイトルとパッケージだったので全く観る気はなかった。それが知り合いに面白いからと勧められて観てみると、なるほど確かに面白かった。
主人公であるジャーナリストのミカエル(ミカエル・ニクヴィスト)は平凡だが、彼の相棒となる “ドラゴン・タトゥーの女” リスベット(ノオミ・ラパス)はかなり個性的だ。あの黒く縁取られた目が底知れない人間不信の様なものを感じさせる。ただ、ごてごてとゴスロリ風に飾り立てた割には、聞いていたほどの強烈な印象は受けなかった。
ストーリーは、リスベットの秘められた過去の謎を小出しにしながら(この点は第2作で明かされるようだ)、大財閥ヴァンゲル・グループの前会長ヘンリックの姪であるハリエットが疾走した事件を調べてゆくという展開。舞台となる孤島が謎めいていていい。ミステリーにはよくある設定だが、あの謎めいた雰囲気は好きだ。調べてゆくうちに、ある連続殺人がハリエットの疾走と関係していることが分かってくる。そしてカギとなる1枚の写真、ハリエットの視線の先にいる人物とは?この部分がなかなか解き明かされないという憎いほどの気の持たせ方が、かえって謎の奥へと観客をのめり込ませる。
まったくマークしていなかったが、意外な拾いものといった1編。映画を観た後からでも原作を読んでみたいと思わせるなかなかの出来だった。原作者のスティーグ・ラーソンは『ミレニアム』シリーズの出版を見ずに急死したらしい。4作目と5作目の構想もあったようだが、今となっては永遠に日の目を見ないままになってしまった。
「ジェイン・オースティン 秘められた恋」
う~ん、悲しいことに2カ月たった今ではほとんどどんな話だったのか記憶がない。アン・ハサウェイのくりくりオメメがずいぶんキャサリン・ロスに似てきたなと思ったことぐらいしか覚えていない。そもそも僕はこの手の有名作曲家や作家の伝記映画が好きではない。やたらと派手なコスチュームをつけさせて、ひたすら美しく歌い上げる。ほとんどが美化されている。「ジェイン・オースティン 秘められた恋」もほぼ同様の映画だと思った。
監督が「キンキーブーツ」のジュリアン・ジャロルドなのでもう少し期待したが、当たり前の演出で彼らしさが感じられなかった。ただ、面白いことに、ジェイン・オースティンの伝記映画を観ているというよりは、彼女の小説の映画化作品を観ている感覚だった。どうも原作となった伝記は小説から逆にオースティンの実生活を類推して書いたのではないかという印象を受けた。実際の話、本当に秘められた恋ならば、それを示す証拠が残っているとも思えない。まあ、オースティン原作の映画でも観ている感じだったので、そういう意味ではそれなりに楽しむことができた。
「かいじゅうたちのいるところ」
こちらは全く期待はずれの退屈な映画だった。あまりに退屈なので途中眠ってしまった。モーリス・センダックの原作は絵が魅力だったのだろうが、映画ではあれこれ書きこんで長くしたようだ。それが結果的に成功しなかったということだろう。ユーリ・ノルシュテイン監督の名作「霧につつまれたハリネズミ」のような作品を期待したのだが、期待したほど幻想的でもなく、キャラクターの魅力も乏しかった。そもそもストーリー展開が平板で退屈すぎる。無理せず、30分くらいの短編にしておくべきだった。