お気に入りブログ

  • 真紅のthinkingdays
    広範な映画をご覧になっていて、レビューの内容も充実。たっぷり読み応えがあります。
  • 京の昼寝〜♪
    僕がレンタルで観る映画のほとんどを映画館で先回りしてご覧になっています。うらやましい。映画以外の記事も充実。
  • ★☆カゴメのシネマ洞☆★
    細かいところまで目が行き届いた、とても読み応えのあるブログです。勉強になります。
  • 裏の窓から眺めてみれば
    本人は単なる感想と謙遜していますが、長文の読み応えのあるブログです。
  • なんか飲みたい
    とてもいい映画を採り上げています。短い文章できっちりとしたレビュー。なかなかまねできません。
  • ぶらぶらある記
    写真がとても素敵です。

お気に入りホームページ

ゴブリンのHPと別館ブログ

無料ブログはココログ

« 2010年7月 | トップページ | 2010年9月 »

2010年8月

2010年8月27日 (金)

先月観た映画(10年6月)

「用心棒」(61、黒澤明監督、日本)★★★★★
「パイレーツ・ロック」(09、リチャード・カーティス監督、英・独)★★★★☆
「幸せはシャンソニア劇場から」(08、クリストフ・バラティエ監督、仏・独・チェコ)★★★★☆
「カールじいさんの空飛ぶ家」(08、ピート・ドクター監督、米)★★★★

「用心棒」

  73年、84年、97年に続いて4度目の鑑賞。さすがの傑作。何度観ても面白い。細かいところまで実によくできている。
 詳しく論じている余裕はないので、この映画の無類の面白さはどこから来るのかという点に絞って考えてみたい。黒澤自身が「用心棒」について語った次の言葉が有名である。「僕はかねてから映画の面白さを十二分に出した作品をこしらえてみたい、という夢を持っていた。その夢を実現させたのがこれだ。」映画の面白さとはどんなものか。映画にもさまざまな種類があるが、娯楽活劇の面白さとは痛快さ、爽快さ、躍動感、そしてヒーローの格好良さだろう。「用心棒」はこれらに加えて、豪快さとたくまざるユーモアまで備えている。
 上記の様な面白さを持った時代劇を作る上で、脚本を担当した黒澤と菊島隆三は明らかに西部劇を意識していた。「用心棒」の製作は61年だから、西部劇の全盛時代がほぼ終焉に近づいた時期に、その西部劇の面白さを引き継いだ作品が日本で生まれたことになる。街道沿いに家が立ち並ぶ宿場町は西部劇によく登場する町を思わせる。立ち回りシーンで「はお約束の」土埃が舞う(さすがにタンブル・ウィ―ドが転がってくることはないが)。その土埃の中に立っているのは、圧倒的な強さと存在感を持ったヒーローと二組のやくざの一味たち。そのやくざの一人は連発銃を持っている。あるいは、冒頭で犬が人間の手首をくわえて走ってくるシーンは、マカロニ・ウエスタンにでも出てきそうな不気味な前奏曲になっていた。
 しかし西部劇ではおなじみながら「用心棒」には登場しない要素もある。その一つは馬や馬車が疾走するシーンだ。「用心棒」という映画の特徴の一つは、舞台がせまい宿場町に限定されていることである。それでいてスケールや迫力に欠けるということがない。それはなぜか。一つには銃と刀の違いがあるだろう。刀を使った戦いは至近距離での白兵戦である。銃や大砲ではなく刀での切り合いという条件にはこの広さで足りるのだ。そしてこの映画の性格も関係している。同じ黒澤の「七人の侍」も一つの村が主な舞台となっているが、そこでは野武士の乗った馬が疾駆し、村を守る侍たちも駆け回る。つまり、「用心棒」は騎兵隊とインディアンとの野戦のような、機動力を駆使した戦いを描いているのではない。一人の浪人者が、狭い宿場町で勢力争いをしている悪党たちを、知力と腕力を用いて壊滅させるプロセスを描いているのである。
 当然、地理的な意味での広がりや、馬や馬車が疾駆する躍動感はない。しかし「用心棒」にはそれに代わるスケールとダイナミズムがある。「用心棒」のスケールを基本的に支えているのは三船敏郎という比類ない精悍さと豪快さを持つ役者の持つスケールである。決してひときわ目立つ大男ではないが、彼の発するオーラは小さな宿場町に収まりきれないほどの「質量」を彼にまとわせている。三船敏郎の迫力と風格を前にすると仲代達矢ですらチンピラに見えるほどである。仲代達矢はかろうじてピストルを持つことで三船に対抗しえているにすぎない。敵役には主人公に匹敵する「凄腕」がいないと迫力ある見せ場が作れない。その点では正直物足りない。その反省もあったのだろう、次回作「椿三十郎」での仲代達矢は目がギラギラして、まるで抜き身の刀が歩いているような凄味があった。ラストの決闘シーンの壮絶さは日本の時代劇のみならず、世界中を見回してもこれを越えるものはいまだにないと断言したい。役者としては三船よりもずっと上である仲代達矢が、一世一代の凄味をきかせてようやく三船に対抗できる。三船敏郎という役者が持つ天性のオーラがどれほどすごいか、この一事をもっても分かるだろう。
  さらには、名キャメラマン宮川一夫がとらえた画面の迫力がある。三船敏郎という堂々とした風格を持った役者の存在感と宮川一夫がフレームいっぱいにとらえた迫力ある画面が、人物や町を実際以上の大きさに感じさせているのである。
  しかしこれだけではない。場の設定というものを忘れてはならない。鳥山明の「ドラゴンボール」や「マトリックス」のように、むやみやたらとスケールを大きくすれば迫力が出るというものではない。「用心棒」は小さな宿場町に「場」を限定し、その中で激しい銃撃戦もなく、砲弾やミサイルが飛び交うこともなく、馬車と馬の追撃戦もなく、ただただ剣と知略でのみ戦うという制限を付けているからこそ、三船のオーラが何倍にも引き立つのだ。ついでに言えば、町を支配している馬目の清兵衛親分(河津清三郎)一味も、新田の丑寅親分(山茶花究)一味も、ともにさほど強そうには思えない。昨今のアメリカ映画はいかにして強大な敵を作り出すかに心血を注いでいるが、脚本さえしっかりしていれば強大な悪を登場させなくても面白い活劇が作れるのである。
 その意味では出だしの場面がよくできている。三船は何もない原っぱを歩いている。やがて道がいくつかに分かれているところに出ると、三船は棒を投げて、その棒が指し示した方向に歩いてゆく。そして小さな宿場町に着く。三船はふらりと一軒の居酒屋に入る。そこの主人(東野英治郎)が町の現状を説明する。二組のやくざ同士が争っていて、争いが絶えない。儲かっているのは隣りの棺桶屋だけだという親父の台詞がとりわけ印象的である。その宿場町の置かれた状況を端的に語っていて見事だ。
  二つのやくざの陣営の真ん中に、居酒屋と棺桶屋があるという配置もまた見事である。そして重要なのは、その居酒屋が三船の観察ポイントになっているということである。町の真ん中にあるため町全体が見通せる。しかも窓の戸は上下に上げ下げができて町の様子がよく観察できるのである。こうして観客はいつの間にか、映画の中の小宇宙に入り込んでしまう。その時点で、ここで問題になっているのは国家的規模の陰謀でもなく、地球的規模の危機でもなく、小さな町がやくざたちに蹂躙されているという問題だと分かってくる。そしてそういうスケールで映画を見てゆくのである。
  この居酒屋を中心にして、映画のダイナミズムが展開してゆくのである。「用心棒」のダイナミズムは、一人の用心棒が二組のやくざ一家を手玉にとり、時には一方に手を貸し、ときにはもう一方に雇われ、時にはリンチを受けて命を奪われそうになりながら、互いに相手を食い合って自滅させてゆくという、危ういバランスの上に立ったダイナミズムなのである。
 その危ういバランスが、観ていて少しも危うく見えないところに三船用心棒の圧倒的強さと懐の深さが表れている。三船が火の見やぐらの上から高みの見物を決め込むあの有名なシーンを思い起こしてほしい。あのシーンは対立する二組のやくざのどちらの見方でもない三十郎の立場を象徴的に示していると同時に、双方の実力を客観的に観察しようという三船の戦略的行為でもある。それこそ二つの人形を上から糸で操る人形使いのように、三船は高みから町の勢力図を観察し、思う通りに動かしているのである。
 もっといろいろと書きたいが、長くなったので、最後にわき役にも触れておきたい。何度も書いてきたが、映画は主人公だけでは成り立たない。優れた脇役がいてこそ主人公も引き立ち、ストーリーも滑らかに展開してゆく。昔の日本映画にはいぶし銀の様な脇役が数多くいたものだ。「用心棒」もその例外ではない。たとえば、番屋の半助を演じた沢村いき雄。あの拍子木を打ち鳴らして時刻を知らせていた男だ。腰をかがめてこわごわと道の真ん中に出て、拍子木を鳴らす姿。そして土埃が消えた瞬間、やくざたちが集結していることに気づき、ぎょっとして身構える様子(2度出てくる)。とても演じているようには見えない。まるで実際にこの時代に生きて拍子木をたたいていたかのようだ。
 親分役の二人(河津清三郎と山茶花究)や居酒屋の親爺役の東野英治郎がうまいのは言うまでもないが、隣りの棺桶屋を演じた渡辺篤もまさにいぶし銀。いよいよ出入りという時に裏の塀を乗り越えて遁走した用心棒本間先生役の藤田進のこっけいさ。清兵衛親分以上に金に意地汚くて冷酷な女房おりんを、大女優の山田五十鈴がこれまた憎々しげに演じている。そしてあの加東大介。頭の弱い亥之吉に扮しているが、本当に頭が弱いように見えるのだからまさに達人の域である。中に三船が隠れ潜んでいるとも知らずに(ちょうど逃げた三船を探している時だった)、棺桶を嬉しそうに担いで行くシーンは傑作だった。
 藤沢周平の『用心棒日月抄』シリーズも面白くて、全4巻を夢中になって読んだが、やはり用心棒といえば黒澤のこの映画がまず頭に浮かぶ。決して色あせることのない傑作である。

「パイレーツ・ロック」
  痛快といえば、「パイレーツ・ロック」も痛快な映画だった。監督がMr.ビーンの監督だけに、実に楽しくて、猥雑で、自由奔放で、痛快な映画だった。僕も高校生時代から、東京にいた大学生と大学院生の頃までラジオをよく聞いていた。聞くのはもっぱら音楽ばかりで、必ずエアチェックしていた。何百本ダビングしたのか自分でもわからないくらいだ。
 しかしこの映画に描かれた人たちのように夢中になって聞いていたわけではない。もちろん音楽が好きだから聞いていたわけだが、どちらかというとコレクションを増やすために聞いていた感じだ。聞くよりダビングする方が中心だった。60年代のイギリスのリスナーたちはもっと切羽詰まって聞いていただろう。なにしろ、この映画を観るまで知らなかったが、当時イギリスには民放のラジオ局は存在せず、国営のBBCラジオがポピュラー音楽を1日45分だけ流していたというのだ。そりゃレコードも買えただろうが、何を買うべきか知るためにはまずラジオで聞かなければならない。それが1日45分だけしか流れないのでは、ポピュラー音楽ファンは情報に飢えていたに違いない。親がポピュラー音楽のレコードを買うことを認めていないケースも多かっただろうから、ラジオから流れる音楽はまさに唯一の情報源だったわけである。そう考えると、あの熱狂ぶりが理解できる。
 音楽を流すDJ側も当然力が入る。派手なパフォーマンスとお下劣なトークを交えて音楽を送り出す。イギリスの領海外に浮かぶ船から音楽を発信している海賊ラジオ局はまるで解放区である。男ばかりだから、寄ると触ると音楽と女とセックスの話ばかり。
 と書くとまるで夢のような世界だが、しかし映画としてみると話の展開は今一つだ。基本的に船の中の世界に限定されているので、これといった展開もなく、小さなエピソードの積み重ねといった形になる。その分個性的な俳優を集めて、話にメリハリをつける工夫をしている。海賊ラジオ局のオーナーであるビル・ナイ。彼は何を演じさせてもうまい。売れっ子DJ役のフィリップ・シーモア・ホフマンもまたはまり役だ。こんな役もできるとは、さすが名優だ。意外だったのは、アメリカから戻って来た超売れっ子DJを演じたリス・エヴァンス。こんなセクシーな男を演じられるとは!エンディングのキャスト表を見るまで誰だか分らなかった。また、怪演を見せたのはケネス・ブラナー。海賊ラジオ局をつぶそうと圧力をかける大臣役。金槌でたたいても割れないほど頭が固いコチンコチンの堅物を演じて、はまることはまること。
 しかし最後は船が沈没する場面で、なんだかスペクタクル映画の様になってしまうのは御愛嬌。ストーリー的にやや物足りないところもあるが、十分楽しませてもらった。

「幸せはシャンソニア劇場から」
  いかにもフランス映画らしい香りのする映画だった。監督は「コーラス」のクリストフ・バラティエ。主演も「コーラス」のジェラール・ジュニョ。
  パリの下町にあるミュージック・ホール“シャンソニア劇場”をめぐる人々の波乱万丈の人生を描く音楽群像劇。人情話と音楽と恋愛劇が楽しめる。
 困ったことにこんな一般的なことしか書けない。とてもいい映画だったのだが、内容が波瀾万丈すぎたのか、観た時の体調が悪かったのか、観てから2ヶ月たった今ではほとんどどんな話だったのか思い出せない。浮かんでくるのは断片的な記憶ばかり。いつか見直す機会があれば、書き足すことにしよう。

「カールじいさんの空飛ぶ家」

  予想していた展開とずいぶん違ったが、非常にいい映画だった。「ウォーリー」には劣ると思ったが、さすがディズニー/ピクサーの水準は高い。まずは安心して観ていられる。
  まさかギアナ高地が舞台になるとは思ってもいなかった。ものすごい数の風船を付けた家が空に舞い上がることに始まり、果てはギアナ高地に行き着くという奇想天外の展開。しかしまあこれがアニメの特権であり、面白さだろう。こまっしゃくれた小僧と犬と巨大な鳥が旅のお供になるのはディズニーのお家芸か。ごつごつしたカールじいさんの顔がいい。
 アメリカのアニメはピクサー/ディズニー系とドリームワークス系、そしてティム・バートン原案・製作・監督の作品が三つの頂点をなしている。もはやかつてのお子様向けディズニーアニメのレベルに戻ることはないだろう。今後も楽しませてくれるに違いない。また新しい才能も出てくることだろう。
  ただし、ティム・バートンの作品を除けば個性に乏しい。世界にはイスラエルの「戦場でワルツを」、フランスのミッシェル・オスロ監督作品、イギリスのニック・パーク監督の「ウォレスとグルミット」シリーズ、チェコのカレル・ゼマン監督作品、ソ連・ロシアのユーリ・ノルシュテイン監督やイワン・イワノフ=ワノ監督、アレクサンドル・ペトロフ監督などの作品、イジィ・トルンカを始めとするチェコのアニメ作品、カナダのNFBの実験アニメなど、ユニークで個性的なアニメがたくさんある。3Dアニメもいいが、もっと手作りの味を生かした個性的な作品も出てきてほしいものだ。

2010年8月24日 (火)

先月観た映画(10年5月)

  とうとう先先先月観た映画になってしまった。毎回嘆き節で始めるのは自分としてもやめたいが、ここまで遅れれば嘆くほかない。こんなことで「遅筆堂」井上ひさし先生と張り合っても仕方がないのに。
 この半年はかつて経験したことがないほど忙しかったが、ようやく多少まとまった時間が取れるようになりました。その間に遅れを一気に取り戻さねば。頑張って6月と7月分も書きます。いや、もう1週間もすれば8月分も書かなくてはならない。いやはや、ゲゲゲの水木しげる先生ではないが、仕事に追われる人生は苦しいし空しい。ブログが息抜きだったのに、そのブログがまた重荷になってしまった。
 とはいえ、ブログを書いているとやはり充実感があります。だから遅れてでも書きたい。長いことお待たせしましたが、また少しずつ書き始めます。 *

* * * * * * * * * * * *

「シリアの花嫁」(04、エラン・リクリス監督、イスラエル・仏・独)★★★★★
「母なる証明」(09、ポン・ジュノ監督、韓国)★★★★☆
「THIS IS ENGLAND」(06、シェーン・メドウス監督、イギリス)★★★★
「踊るニューヨーク」(40、ノーマン・タウログ監督、アメリカ)★★★★
「人生に乾杯!」(07、ガーボル・ロホニ監督、ハンガリー)★★★★
「大阪ハムレット」(08、光石冨士朗監督、日本)★★★★
「空気人形」(09、是枝裕和監督、日本)★★★★
「有頂天時代」(36、ジョージ・スティーヴンス監督、アメリカ)★★★★

「シリアの花嫁」
 イスラエルの映画はこれまで「迷子の警察音楽隊」、「約束の旅時」、アニメ「戦場でワルツを」、そして「シリアの花嫁」の4本しか観ていないが、いずれも傑作だった。「迷子の警察音楽隊」は哀調を帯びたコメディだが、「約束の旅時」、「戦場でワルツを」、「シリアの花嫁」の3本はシリアスな人間ドラマである。それぞれタッチは異なるが、どの映画にもイスラエルとその周辺のアラブ諸国との緊張をはらんだ関係が底辺にある。日本やアメリカの浮ついたお気軽映画には望むべくもない深く重い人間ドラマが展開されている。いずれも観終わった後に深い感動と重い手ごたえが残る映画である。
 「シリアの花嫁」は高い期待をさらに越える傑作だった。今のところ2009年公開映画マイベストテンの1位につけている。憂い顔の花嫁、この映画の特徴を一番よく示しているのは、楽しかるべき結婚式に終始憂い顔を通している花嫁の存在である。なぜ憂い顔なのか。花嫁の住む土地と花婿の住む土地は元々同じシリア領だったのだが、第三次中東戦争で花嫁の住む場所がイスラエルに占領されたために、花婿の土地と分断されてしまったからである。
  結婚式で身内が集まってくるが、家族もまたそれぞれに問題を抱えばらばらである。憂い顔の花嫁モナを囲むのは、政治犯の父、不幸な結婚をした姉のアマル、ロシア娘と結婚して勘当同然の弟、内通者と付き合う妹。
  それでも何とか国境まで行くが、思わぬトラブルが発生する。国境で出入国を管理する係官のまったくの形式主義に振り回されて、花婿の待つ国境の向こう側に渡れないのだ。自分で判断しない係官たちのおざなりな対応に観ているこちらまで腹が立ってくる。元々同じ国なのになぜこれほどの苦労をするのか。国境が人為的に引かれたものだという事実がいやというほど観る者に突きつけられる。人為的に引かれた国境線で展開される不条理な狂騒曲。
  しかしこの混乱にあっさり決着をつけたのは憂い顔の花嫁自身だった。あたふたする人々をしり目に、誰もいなくなった隙に彼女はすたすたと国境線を越えてゆく。その決然とした姿は実に感動的だった。花嫁は自分の判断で国境を越えた。手続きも法も関係ない。花嫁が花婿のいるところまで歩いて行った。ただそれだけのことだ。
  国境が越えがたいのはそこに断崖絶壁があるからではない。障害は天然のものではなく人為的なものにすぎない。しかし線も引かれていないその境界線に人々は翻弄されてきた。花嫁モナも一旦国境を越えれば戻ってくることはできない。国境だけではない。宗教、人種、政治、伝統や風習、身分、等々。人間社会には様々な目に見えない境界線が引かれている。さらには偏見や憎しみなどの対立をあおる感情がそれに絡んでくる。これらの線を越えるのは実際には容易なことではない。だからこそ快刀乱麻を断つごときモナの決然とした行動に深い感銘を覚えるのであり、同時にそうはいかない現実を見つめ直すことをもわれわれに迫るのである。

「母なる証明」
  純粋無垢な心を持った青年が女子高生殺人の容疑者とされる。息子の無実を信じる母が自ら真犯人を探し出そうと奮闘する。いかにも感動ものという設定だが、そう思って観ていると裏をかかれることになる。最後は意外な結末となるのだ。
  「ほえる犬は噛まない」、「殺人の追憶」、「グエムル 漢江の怪物」のポン・ジュノ監督だけあって、さすがに観客をぐいぐい引き付けるつぼを心得ている。確かにうまいのだが、どうも人為的に作ったサスペンスという印象が残ってしまうのが残念だ。知的障害を持った息子という設定でないと成り立たない話なのだ。むしろ映画の焦点は感動的な親子映画というパターンをひっくり返すことに向けられている。結末あたりの母親の行動は鬼気迫るものがある。その迫力は確かにすごいのだが、一方でこの辺りの展開と人間を見る視線にはキム・ギドクに近いものを感じる。その点に一抹の不安を感じてしまう。

「THIS IS ENGLAND」
  「鉄の女」マーガレット・サッチャーを首班とする保守党政権は79年から90年まで続いた。つまり、何度も指摘してきたことだが、イギリスの80年代はまるまるサッチャーの時代だったのである。「サッチャーの時代とイギリス映画①、②」という記事で書いたように、このサッチャーの時代にイギリスは大きく変わってしまった。端的にいえば、「ゆりかごから墓場まで」と言われた福祉国家から、国家による社会保障を削り国民を競争原理の中に放り出すリトル・アメリカに変わったのである。
  アレクサンダー・コルダ、マイケル・パウエル&エメリック・プレスバーガー、デヴィッド・リーン、キャロル・リード、カレル・ライス、トニー・リチャードソン、リンゼイ・アンダーソン、ジョゼフ・ロージーなどの巨匠が活躍したイギリス映画の黄金時代は60年代でほぼ終わり、70年代は低迷期だった。80年代には「炎のランナー」、「未来世紀ブラジル」、「マイ・ビューティフル・ランドレット」、「ミッション」、「遠い夜明け」などの作品が現れてやや持ち直し、90年代になってやっとイギリス映画ルネッサンスともいうべき活況が戻って来た。90年代イギリス映画の興隆とその後の好調を支えていたのは「リフ・ラフ」、「レディバード・レディバード」、「フェイス」、「ブラス!」、「フル・モンティ」、「マイ・スウィート・シェフィールド」、「シーズン・チケット」、「リトル・ダンサー」などの、サッチャー時代やその負の遺産を批判的に描いた作品群である。
  サッチャー政権時代の83年を舞台にした「THIS IS ENGLAND」もサッチャリズム批判映画の系譜に入る作品である。父親がフォークランドで戦死した少年ショーンが主人公。ショーンは町の不良グループに誘われ、どんどん深みに落ちてゆく。当時のパンクっぽいファッションと音楽があふれている。何もせずただばかふざけばかりしている若者たち。この辺りの雰囲気はまさにサッチャーの時代である。90年代以降、労働者や失業者、アル中やヤク中、犯罪者が登場する映画ががぜん増えた。イギリスはそういう社会になってしまったのである。
  不良グループのリーダーであるウディは多少まともなところがある。仲間のガジェット、ミルキー、ウディの彼女ロルとショーン少年の彼女になるスメルなど、人物造形はしっかりしている。このまま描いてゆけば「シーズン・チケット」のようなほほえましい映画になったかもしれない。しかし、そこに突然右翼民族主義者のコンボが表れて空気に不穏な気配が混じりだす。やはりコンボに引っかき回されて仲間が二つに割れてしまう。ショーンはコンボの仲間に入るが、やがてコンボがミルキーをニガーと呼んでたたきのめす事態となる。すっかり幻滅したショーンはイングランドのセント・ジョージ旗を海に捨てる。
  どうも右翼民族主義者のコンボが表れてからの展開が強引で、説得力に欠ける。社会の底辺にいる者には将来に希望が持てず、荒みきっている状況で、そこに右翼民族主義者が台頭してくることは理解できる。映画はもちろん右翼民族主義もイギリスを救う道ではないことを描いている。それはそれでいいのだが、コンボに引きまわされているうちに、ショーンやウディたちの影が薄くなってくる。どうやらその辺にこの映画の問題点があると思われる。その分物足りない映画になってしまったが、一連のサッチャリズム批判映画同様、イギリスの現状をよく描いている映画であることは確かである。

「踊るニューヨーク」、「有頂天時代」

  どちらもフレッド・アステアが主演。「踊るニューヨーク」の相手役はエリノア・パウエル、「有頂天時代」はジンジャー・ロジャース。この時代のミュージカル映画は久々に観たが、なかなか良かった。前者はタップダンスが中心、後者はドラマ主体だった。この時代の映画は本当によく作りこまれている。プロが作っているという感じがする。
 実はこの時代のミュージカル映画はそれほど好きではなかった。代表作といわれるものでも観ていないものは結構ある。MGM社製ミュージカル映画の総集編「ザッツ・エンターテインメント」も観ていない。観る気にもなれなかった。どうも学生の頃は、何の脈絡もなく歌い出すことに違和感があったのだ。特に深い内容があるわけではなく、ただ歌って踊っているだけの映画に魅力を感じなかった。ミュージカル映画をやや見直すようになったのは84年に「イースター・パレード」と「ショウ・ボート」を、85年に「錨を上げて」と「バンドワゴン」を観てからだと思う。個々の作品の記憶は全く残っていないが、ミュージカルも結構面白いと思ったのは覚えている。フレッド・アステアやジーン・ケリーの圧倒的な個人技には魅了されずにいられない。
 そういえば、ミュージカル映画が嫌いだった時でもダニー・ケイだけは好きだった。彼の身体能力も驚異的だった。もう長いこと観ていない。あまりレンタル店に置いていない気がするが、今度見つけたら観てみよう。

「人生に乾杯!」
  久々に観たハンガリー映画。かつて80年代に次々と傑作を生んだハンガリー映画だが、このところさっぱり観る機会がなかった。80年代の傑作群のような重い映画ではないが、十分楽しめる佳作だった。
 「ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア」の展開と「バニシング・ポイント」の結末を合わせた様な映画である。「ただ一つ心残りなのは海を見られなかったこと。」という妻の言葉は「ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア」や、同じハンガリーのいぶし銀の様な名作「ハンガリアン」を連想させる。老夫婦には大いに共感するが、疑問に思うところもある。それでも強盗を働きながら逃走する老夫婦に観客を共感させてしまう演出は見事だと言っていい。二人を追う男女の刑事役も印象的だ。

「大阪ハムレット」
  案外拾いものかもという期待感と、がっかりするかもしれないという不安感が相半ばするまま借りてきた映画。結果は意外に良かった。思った以上にまともな映画だった。ほんわかした家族ムービーである。特に母親役の松坂慶子と叔父さん役の岸部一徳がいい。とにかく岸部一徳が出る映画にははずれが少ない。得難い俳優だ。
  それぞれに悩みを抱えた3人の息子と、細かいことにこだわらないおおらかな“おかん”。その間に入ってひょうひょうとした存在感で和ませる叔父さん。この個性的な家族と、その間に漂う深刻なようでどこか滑稽な空気がいい。
  ただちょっと疑問に思うのは二男の行雄(森田直幸)。どうして日本映画にはこの手の突っ張りが頻繁に出てくるのか。家族に一人ぐらいヤンキーがいないとリアルじゃないのか。「フライ、ダディ、フライ」、「パッチギ!」を挙げるまでもなく、とうてい観る気になれない突っ張り映画は世にあふれている。それでも「大阪ハムレット」の面白いところは、この二男が教師に言われて『ハムレット』を読み始めること。おかげで彼は自分の父親は誰かと悩み始める始末。この辺りは工夫が感じられるが、それにしても別に彼が突っ張りである必然性はない。突っ張りが『ハムレット』を読む意外性を狙っているわけだが、突っ張りが出てくるとどうしても性格も行動もステレオタイプ化されてしまう。そこに問題がある。もう少し何か工夫ができないものかねえ。

「空気人形」
  そうか、こういう映画だったのか。まったく予想とはかけ離れた映画だった。要するにペ・ドゥナのヌードをたっぷりお見せしましょうという映画だった。美しく悲しいファンタジーに仕立てようとしているが、かつてのロマンポルノのような淫靡な影が付きまとう映画である。人形が心を持ってしまうというテーマを描きたいのなら別に空気人形(要するにダッチワイフ)である必要はない。普通の人形でもマネキンでもいい。手塚治虫の『I.L』を思わせるところもあるが、I.Lはいろんなものに変身できるので(マネキンも含めて)、人間の欲望をもっと多面的に描けた。どうも基本のところで志の低い映画だと感じた。
  ただしペ・ドゥナはやはり魅力的だと思った。ほとんど彼女で持っている映画だ。「ほえる犬は噛まない」、「子猫をお願い」、「リンダ リンダ リンダ」あたりが代表作で、彼女の独特の個性が非常にうまく生かされている。「復讐者に憐れみを」や「グエムル 漢江の怪物」では今一つ彼女らしさが発揮されていなかった。この2本よりは「空気人形」の方がずっとペ・ドゥナ印だ。別に彼女でなければ務まらない役柄ではないが、彼女が演じたからこそ全篇に彼女ならではの不思議な雰囲気が漂っていた。
 人間の心を持った人形というテーマ自体は悪くない。しかも主演はペ・ドゥナという不思議な雰囲気を持った魅力的な女優である。にもかかわらず、期待したほどの結果をもたらすことができなかった。うまく作っていれば悲恋映画の秀作になった可能性もあるだけに、ペ・ドゥナのヌードを美しく撮ることに過度にこだわった演出が惜しまれる。

2010年8月23日 (月)

これから観たい&おすすめ映画・DVD(10年9月)

【新作映画】
8月21日公開
 「ハナミズキ」(土井裕泰監督、日本)
 「カラフル」(原恵一監督、日本)
 「ようこそ、アムステルダム国立美術館へ」(ウケ・ホーヘンダイク監督、オランダ)
 「シークレット」(ユン・ジェグ監督、韓国)
8月28日公開
 「トイレット」(荻上直子監督、日本)
 「東京島」(篠崎誠監督、日本)
9月4日公開
 「トラブル・イン・ハリウッド」(バリー・レビンソン監督、米)
 「コップ・アウト 刑事(でか)した奴ら」(ケビン・スミス監督、米)
 「ミック・マック」(ジャン・ピエール・ジュネ監督、仏)
 「BECK」(堤幸彦監督、日本)
 「オカンの嫁入り」(呉美保監督、日本)
 「アトランティス」(リュック・ベッソン監督、フランス)
9月11日公開
 「悪人」(李相日監督、日本)
 「ミレニアム2 火と戯れる女」(ダニエル・アルフレッドソン監督、スウェーデン、他)
 「終着駅 トルストイ最後の旅」(マイケル・ホフマン監督、独・ロシア・英)
 「彼女が消えた浜辺」(アスガー・ファルハディ監督、イラン)
 「ナイト・トーキョー・デイ」(イザベル・コイシェ監督、スペイン)
 「ベンダ・ビリリ!」(ルノー・バレ、他監督、フランス)
 「ジャーロ」(ダリオ・アルジェント監督、米・伊)
9月17日公開
 「食べて、祈って、恋をして」(ライアン・マーフィ監督、米)
9月18日公開
 「パーフェクト・ブルー」(下山天監督、日本)
 「THE LAST MESSAGE 海猿」(羽住英一郎監督、日本)
9月中旬公開
 「ブロンド少女は過激に美しく」(マノエル・ド・オリベイラ監督、ポルトガル)

【新作DVD】
8月25日
 「17歳の肖像」(ロネ・シェルフィグ監督、英)
8月26日
 「カンフー・キッド」(ジャン・ピン、他監督、中国)
8月27日
 「ニューヨーク、アイラブユー」(ナタリー・ポートマン、他監督、米・仏)
 「ドゥーニャとデイジー」(ダネ・ネクスタン監督、オランダ・ベルギー)
 「セックス・クラブ」(クラーク・グレッグ監督、米)
9月1日
 「食道かたつむり」(富永まい監督、日本)
9月2日
 「ハート・ロッカー」(キャスリン・ビグロー監督、アメリカ)
 「ウルフマン」(ジョー・ジョンストン監督、英・米)
 「バーダー・マインホフ 理想の果てに」(ウリ・エデル監督、独・仏・チェコ)
9月3日
 「サベイランス」(ジェニファー・リンチ監督、カナダ)
 「ボーダー」(ジョン・アブネット監督、米)
 「ウディ・アレンの夢と犯罪」(ウディ・アレン監督、米・英・仏)
  「スナイパー」(ダンテ・ラム監督、香港) 「ソラニン」(三木孝浩監督、日本)
9月8日
 「牛の鈴音」(イ・チュンニョル監督、韓国)
9月9日
 「NINE」(ロブ・マーシャル監督、アメリカ・イタリア)
 「ずっとあなたを愛してる」(フィリップ・クローデル監督、仏・独)
9月10日
 「シャッター・アイランド」(マーティン・スコセッシ監督、米)
 「アイガー北壁」(フィリップ・シュテルツェル監督、独・オーストリア・スイス)
9月15日
 「パリより愛をこめて」(ピエール・モレル監督、フランス)
 「花のあと」(中西健二監督、日本)
10月2日
 「ザ・エッグ ロマノフの秘宝を狙え」(ミミ・レダー監督、米・独)
10月6日
 「グリーン・ゾーン」(ポール・グリーングラス監督、仏・米・他)
10月8日
 「やさしい嘘と贈り物」(ニック・ファクラー監督、アメリカ)
10月14日
 「RAILWAYS レイルウェイズ」(錦織良成監督、日本)

【旧作DVD】
8月28日
 「ヴィターリー・カネフスキーDVD-BOX」(89~94)
  収録作品:「動くな、死ね、甦れ!」、「ひとりで生きる」、「ぼくら、20世紀の子供たち」
 「影」(56、イエジー・カヴァレロヴィッチ監督、ポーランド)
9月3日
 「アメリカ時代のフリッツ・ラング傑作選DVD-BOX①」(37-43)
  収録作品:「暗黒街の弾痕」、「マンハント」、「死刑執行人もまた死す」
9月25日
 「サクリファイス」(86、アンドレイ・タルコフスキー監督、仏・スウェーデン)

 新作映画では荻上直子監督の「トイレット」、マノエル・ド・オリベイラ監督の「ブロンド少女は過激に美しく」、マイケル・ホフマン監督の「終着駅 トルストイ最後の旅」、アスガー・ファルハディ監督の「彼女が消えた浜辺」、ドキュメンタリーでは「ベンダ・ビリリ!」が面白そうだ。1作目が意外な拾いものだった「ミレニアム2 火と戯れる女」も期待できそうだ。デジタルリマスター版でリバイバルされる「アトランティス」はリュック・ベッソン監督の傑作。

 新作DVDでは「17歳の肖像」、「ハート・ロッカー」、「ウディ・アレンの夢と犯罪」、「牛の鈴音」、「NINE」あたりに期待している。 

 旧作DVDはさすがにめぼしいものが減って来た。それでも「影」の発売は快挙だ。アンジェイ・ワイダ監督、アンジェイ・ムンク監督、ロマン・ポランスキー監督、クシシュトフ・キェシロフスキ監督などと並ぶポーランドの巨匠の傑作だ。4月発売の「尼僧ヨアンナ」、6月発売の「夜行列車」と合わせて、彼の代表作がこれでそろった。アンジェイ・ワイダ監督の「地下水道」も早く出してほしい。フリッツ・ラングのDVD-BOX①は収録作の一部を持っている人が多いだろうが、もし持っていなければ間違いなく「買い」だ。ヴィターリー・カネフスキーのBOXは前にも載せた。発売日が延期になったということか。タルコフスキー監督の遺作「サクリファイス」は高度に抽象的で難解だが、一度は観ておくべき作品だろう。

« 2010年7月 | トップページ | 2010年9月 »