先月観た映画(10年6月)
「用心棒」(61、黒澤明監督、日本)★★★★★
「パイレーツ・ロック」(09、リチャード・カーティス監督、英・独)★★★★☆
「幸せはシャンソニア劇場から」(08、クリストフ・バラティエ監督、仏・独・チェコ)★★★★☆
「カールじいさんの空飛ぶ家」(08、ピート・ドクター監督、米)★★★★
「用心棒」
73年、84年、97年に続いて4度目の鑑賞。さすがの傑作。何度観ても面白い。細かいところまで実によくできている。
詳しく論じている余裕はないので、この映画の無類の面白さはどこから来るのかという点に絞って考えてみたい。黒澤自身が「用心棒」について語った次の言葉が有名である。「僕はかねてから映画の面白さを十二分に出した作品をこしらえてみたい、という夢を持っていた。その夢を実現させたのがこれだ。」映画の面白さとはどんなものか。映画にもさまざまな種類があるが、娯楽活劇の面白さとは痛快さ、爽快さ、躍動感、そしてヒーローの格好良さだろう。「用心棒」はこれらに加えて、豪快さとたくまざるユーモアまで備えている。
上記の様な面白さを持った時代劇を作る上で、脚本を担当した黒澤と菊島隆三は明らかに西部劇を意識していた。「用心棒」の製作は61年だから、西部劇の全盛時代がほぼ終焉に近づいた時期に、その西部劇の面白さを引き継いだ作品が日本で生まれたことになる。街道沿いに家が立ち並ぶ宿場町は西部劇によく登場する町を思わせる。立ち回りシーンで「はお約束の」土埃が舞う(さすがにタンブル・ウィ―ドが転がってくることはないが)。その土埃の中に立っているのは、圧倒的な強さと存在感を持ったヒーローと二組のやくざの一味たち。そのやくざの一人は連発銃を持っている。あるいは、冒頭で犬が人間の手首をくわえて走ってくるシーンは、マカロニ・ウエスタンにでも出てきそうな不気味な前奏曲になっていた。
しかし西部劇ではおなじみながら「用心棒」には登場しない要素もある。その一つは馬や馬車が疾走するシーンだ。「用心棒」という映画の特徴の一つは、舞台がせまい宿場町に限定されていることである。それでいてスケールや迫力に欠けるということがない。それはなぜか。一つには銃と刀の違いがあるだろう。刀を使った戦いは至近距離での白兵戦である。銃や大砲ではなく刀での切り合いという条件にはこの広さで足りるのだ。そしてこの映画の性格も関係している。同じ黒澤の「七人の侍」も一つの村が主な舞台となっているが、そこでは野武士の乗った馬が疾駆し、村を守る侍たちも駆け回る。つまり、「用心棒」は騎兵隊とインディアンとの野戦のような、機動力を駆使した戦いを描いているのではない。一人の浪人者が、狭い宿場町で勢力争いをしている悪党たちを、知力と腕力を用いて壊滅させるプロセスを描いているのである。
当然、地理的な意味での広がりや、馬や馬車が疾駆する躍動感はない。しかし「用心棒」にはそれに代わるスケールとダイナミズムがある。「用心棒」のスケールを基本的に支えているのは三船敏郎という比類ない精悍さと豪快さを持つ役者の持つスケールである。決してひときわ目立つ大男ではないが、彼の発するオーラは小さな宿場町に収まりきれないほどの「質量」を彼にまとわせている。三船敏郎の迫力と風格を前にすると仲代達矢ですらチンピラに見えるほどである。仲代達矢はかろうじてピストルを持つことで三船に対抗しえているにすぎない。敵役には主人公に匹敵する「凄腕」がいないと迫力ある見せ場が作れない。その点では正直物足りない。その反省もあったのだろう、次回作「椿三十郎」での仲代達矢は目がギラギラして、まるで抜き身の刀が歩いているような凄味があった。ラストの決闘シーンの壮絶さは日本の時代劇のみならず、世界中を見回してもこれを越えるものはいまだにないと断言したい。役者としては三船よりもずっと上である仲代達矢が、一世一代の凄味をきかせてようやく三船に対抗できる。三船敏郎という役者が持つ天性のオーラがどれほどすごいか、この一事をもっても分かるだろう。
さらには、名キャメラマン宮川一夫がとらえた画面の迫力がある。三船敏郎という堂々とした風格を持った役者の存在感と宮川一夫がフレームいっぱいにとらえた迫力ある画面が、人物や町を実際以上の大きさに感じさせているのである。
しかしこれだけではない。場の設定というものを忘れてはならない。鳥山明の「ドラゴンボール」や「マトリックス」のように、むやみやたらとスケールを大きくすれば迫力が出るというものではない。「用心棒」は小さな宿場町に「場」を限定し、その中で激しい銃撃戦もなく、砲弾やミサイルが飛び交うこともなく、馬車と馬の追撃戦もなく、ただただ剣と知略でのみ戦うという制限を付けているからこそ、三船のオーラが何倍にも引き立つのだ。ついでに言えば、町を支配している馬目の清兵衛親分(河津清三郎)一味も、新田の丑寅親分(山茶花究)一味も、ともにさほど強そうには思えない。昨今のアメリカ映画はいかにして強大な敵を作り出すかに心血を注いでいるが、脚本さえしっかりしていれば強大な悪を登場させなくても面白い活劇が作れるのである。
その意味では出だしの場面がよくできている。三船は何もない原っぱを歩いている。やがて道がいくつかに分かれているところに出ると、三船は棒を投げて、その棒が指し示した方向に歩いてゆく。そして小さな宿場町に着く。三船はふらりと一軒の居酒屋に入る。そこの主人(東野英治郎)が町の現状を説明する。二組のやくざ同士が争っていて、争いが絶えない。儲かっているのは隣りの棺桶屋だけだという親父の台詞がとりわけ印象的である。その宿場町の置かれた状況を端的に語っていて見事だ。
二つのやくざの陣営の真ん中に、居酒屋と棺桶屋があるという配置もまた見事である。そして重要なのは、その居酒屋が三船の観察ポイントになっているということである。町の真ん中にあるため町全体が見通せる。しかも窓の戸は上下に上げ下げができて町の様子がよく観察できるのである。こうして観客はいつの間にか、映画の中の小宇宙に入り込んでしまう。その時点で、ここで問題になっているのは国家的規模の陰謀でもなく、地球的規模の危機でもなく、小さな町がやくざたちに蹂躙されているという問題だと分かってくる。そしてそういうスケールで映画を見てゆくのである。
この居酒屋を中心にして、映画のダイナミズムが展開してゆくのである。「用心棒」のダイナミズムは、一人の用心棒が二組のやくざ一家を手玉にとり、時には一方に手を貸し、ときにはもう一方に雇われ、時にはリンチを受けて命を奪われそうになりながら、互いに相手を食い合って自滅させてゆくという、危ういバランスの上に立ったダイナミズムなのである。
その危ういバランスが、観ていて少しも危うく見えないところに三船用心棒の圧倒的強さと懐の深さが表れている。三船が火の見やぐらの上から高みの見物を決め込むあの有名なシーンを思い起こしてほしい。あのシーンは対立する二組のやくざのどちらの見方でもない三十郎の立場を象徴的に示していると同時に、双方の実力を客観的に観察しようという三船の戦略的行為でもある。それこそ二つの人形を上から糸で操る人形使いのように、三船は高みから町の勢力図を観察し、思う通りに動かしているのである。
もっといろいろと書きたいが、長くなったので、最後にわき役にも触れておきたい。何度も書いてきたが、映画は主人公だけでは成り立たない。優れた脇役がいてこそ主人公も引き立ち、ストーリーも滑らかに展開してゆく。昔の日本映画にはいぶし銀の様な脇役が数多くいたものだ。「用心棒」もその例外ではない。たとえば、番屋の半助を演じた沢村いき雄。あの拍子木を打ち鳴らして時刻を知らせていた男だ。腰をかがめてこわごわと道の真ん中に出て、拍子木を鳴らす姿。そして土埃が消えた瞬間、やくざたちが集結していることに気づき、ぎょっとして身構える様子(2度出てくる)。とても演じているようには見えない。まるで実際にこの時代に生きて拍子木をたたいていたかのようだ。
親分役の二人(河津清三郎と山茶花究)や居酒屋の親爺役の東野英治郎がうまいのは言うまでもないが、隣りの棺桶屋を演じた渡辺篤もまさにいぶし銀。いよいよ出入りという時に裏の塀を乗り越えて遁走した用心棒本間先生役の藤田進のこっけいさ。清兵衛親分以上に金に意地汚くて冷酷な女房おりんを、大女優の山田五十鈴がこれまた憎々しげに演じている。そしてあの加東大介。頭の弱い亥之吉に扮しているが、本当に頭が弱いように見えるのだからまさに達人の域である。中に三船が隠れ潜んでいるとも知らずに(ちょうど逃げた三船を探している時だった)、棺桶を嬉しそうに担いで行くシーンは傑作だった。
藤沢周平の『用心棒日月抄』シリーズも面白くて、全4巻を夢中になって読んだが、やはり用心棒といえば黒澤のこの映画がまず頭に浮かぶ。決して色あせることのない傑作である。
「パイレーツ・ロック」
痛快といえば、「パイレーツ・ロック」も痛快な映画だった。監督がMr.ビーンの監督だけに、実に楽しくて、猥雑で、自由奔放で、痛快な映画だった。僕も高校生時代から、東京にいた大学生と大学院生の頃までラジオをよく聞いていた。聞くのはもっぱら音楽ばかりで、必ずエアチェックしていた。何百本ダビングしたのか自分でもわからないくらいだ。
しかしこの映画に描かれた人たちのように夢中になって聞いていたわけではない。もちろん音楽が好きだから聞いていたわけだが、どちらかというとコレクションを増やすために聞いていた感じだ。聞くよりダビングする方が中心だった。60年代のイギリスのリスナーたちはもっと切羽詰まって聞いていただろう。なにしろ、この映画を観るまで知らなかったが、当時イギリスには民放のラジオ局は存在せず、国営のBBCラジオがポピュラー音楽を1日45分だけ流していたというのだ。そりゃレコードも買えただろうが、何を買うべきか知るためにはまずラジオで聞かなければならない。それが1日45分だけしか流れないのでは、ポピュラー音楽ファンは情報に飢えていたに違いない。親がポピュラー音楽のレコードを買うことを認めていないケースも多かっただろうから、ラジオから流れる音楽はまさに唯一の情報源だったわけである。そう考えると、あの熱狂ぶりが理解できる。
音楽を流すDJ側も当然力が入る。派手なパフォーマンスとお下劣なトークを交えて音楽を送り出す。イギリスの領海外に浮かぶ船から音楽を発信している海賊ラジオ局はまるで解放区である。男ばかりだから、寄ると触ると音楽と女とセックスの話ばかり。
と書くとまるで夢のような世界だが、しかし映画としてみると話の展開は今一つだ。基本的に船の中の世界に限定されているので、これといった展開もなく、小さなエピソードの積み重ねといった形になる。その分個性的な俳優を集めて、話にメリハリをつける工夫をしている。海賊ラジオ局のオーナーであるビル・ナイ。彼は何を演じさせてもうまい。売れっ子DJ役のフィリップ・シーモア・ホフマンもまたはまり役だ。こんな役もできるとは、さすが名優だ。意外だったのは、アメリカから戻って来た超売れっ子DJを演じたリス・エヴァンス。こんなセクシーな男を演じられるとは!エンディングのキャスト表を見るまで誰だか分らなかった。また、怪演を見せたのはケネス・ブラナー。海賊ラジオ局をつぶそうと圧力をかける大臣役。金槌でたたいても割れないほど頭が固いコチンコチンの堅物を演じて、はまることはまること。
しかし最後は船が沈没する場面で、なんだかスペクタクル映画の様になってしまうのは御愛嬌。ストーリー的にやや物足りないところもあるが、十分楽しませてもらった。
「幸せはシャンソニア劇場から」
いかにもフランス映画らしい香りのする映画だった。監督は「コーラス」のクリストフ・バラティエ。主演も「コーラス」のジェラール・ジュニョ。
パリの下町にあるミュージック・ホール“シャンソニア劇場”をめぐる人々の波乱万丈の人生を描く音楽群像劇。人情話と音楽と恋愛劇が楽しめる。
困ったことにこんな一般的なことしか書けない。とてもいい映画だったのだが、内容が波瀾万丈すぎたのか、観た時の体調が悪かったのか、観てから2ヶ月たった今ではほとんどどんな話だったのか思い出せない。浮かんでくるのは断片的な記憶ばかり。いつか見直す機会があれば、書き足すことにしよう。
「カールじいさんの空飛ぶ家」
予想していた展開とずいぶん違ったが、非常にいい映画だった。「ウォーリー」には劣ると思ったが、さすがディズニー/ピクサーの水準は高い。まずは安心して観ていられる。
まさかギアナ高地が舞台になるとは思ってもいなかった。ものすごい数の風船を付けた家が空に舞い上がることに始まり、果てはギアナ高地に行き着くという奇想天外の展開。しかしまあこれがアニメの特権であり、面白さだろう。こまっしゃくれた小僧と犬と巨大な鳥が旅のお供になるのはディズニーのお家芸か。ごつごつしたカールじいさんの顔がいい。
アメリカのアニメはピクサー/ディズニー系とドリームワークス系、そしてティム・バートン原案・製作・監督の作品が三つの頂点をなしている。もはやかつてのお子様向けディズニーアニメのレベルに戻ることはないだろう。今後も楽しませてくれるに違いない。また新しい才能も出てくることだろう。
ただし、ティム・バートンの作品を除けば個性に乏しい。世界にはイスラエルの「戦場でワルツを」、フランスのミッシェル・オスロ監督作品、イギリスのニック・パーク監督の「ウォレスとグルミット」シリーズ、チェコのカレル・ゼマン監督作品、ソ連・ロシアのユーリ・ノルシュテイン監督やイワン・イワノフ=ワノ監督、アレクサンドル・ペトロフ監督などの作品、イジィ・トルンカを始めとするチェコのアニメ作品、カナダのNFBの実験アニメなど、ユニークで個性的なアニメがたくさんある。3Dアニメもいいが、もっと手作りの味を生かした個性的な作品も出てきてほしいものだ。