「扉をたたく人」(07、トム・マッカーシー監督、アメリカ)★★★★☆
「イノセントワールド 天下無賊」(04、フォン・シャオガン監督、中国)★★★★
「オリンダのリストランテ」(01、パウラ・エルナンデス監督、アルゼンチン)★★★★
「消されたヘッドライン」(09、ケヴィン・マクドナルド監督、英米)★★★★
「ナイトミュージアム2」(09、ショーン・レヴィ監督、アメリカ)★★★
「天菩薩」(86、イム・ホー監督、香港・中国)★★☆
う~ん、どうしても「先々月観た映画」になってしまう。2月はどうして31日までないんだと八つ当たりしたい気分。
冗談はともかく、1月の一番の成果は「扉をたたく人」。これはいい映画でした。「イノセントワールド 天下無賊」と「オリンダのリストランテ」は拾い物。こちらもなかなかいい。「消されたヘッドライン」は途中までぐいぐい引き込まれたが、結末の甘さにがっかり。そのせいか否定的な書き方になってしまいましたが、十分楽しめる映画です。
「扉をたたく人」
「ポスト9.11映画」の系列に入る作品。その中でも特に優れた作品のひとつである。一連の「ポスト9.11映画」が描いてきたのはアメリカの政治的役割、社会構造の見直しと崩壊しつつある家族の再生である。そしてそれらの作品に共通する要素はアメリカ社会を覆っている不信感、不安感である。これがどの作品にも通奏低音のように織り込まれている。
「扉をたたく人」にはこれらの要素がすべて含まれている。家族の再生のテーマは、妻と死別して以後仕事にも人生にも情熱を失い漫然とただ生きていた大学教授のウォルター(リチャード・ジェンキンス)がシリア出身のタリク(ハーズ・スレイマン)という青年と出会うことで人間的絆を取り戻し、生きる希望を見出してゆくという形で描かれている。そのきっかけがタリクが演奏していたジャンベという打楽器である。そしてタリクの恋人ゼイナブ(ダナイ・グリラ)やタレクの母モーナ(ヒアム・アッバス)とその人間的絆の輪は広がってゆく。
もちろん本物の家族ではないからいわば疑似家族関係なのだが、しかしそれこそがこの作品において重要な要素なのである。肉親という枠を超えてアラブ出身の青年と人間的な信頼感を強めてゆくということにこの作品の意義がある。この映画がさらにアメリカが抱えている問題にさらに一歩踏み込んでいると感じるのはその点である。そして彼がシリア出身だということが重要なのだ(彼の恋人ゼイナブはセネガル出身、二人とも不法滞在者だ)。彼がシリア出身であったがゆえに彼とウォルターの絆がアメリカ社会の不安感と不信感によって引き裂かれてしまうのである。9.11テロの実行者たちがアラブ人であったために、テロの直後の混乱の中でアラブ系市民が次々にテロ活動容疑者として拘束されたことはいまだに記憶に新しい。
テロ直後の過剰反応はさすがにおさまっただろうが、テロに対する不安とアラブ人に対する不信感はアメリカ社会の中に澱のように蓄積されている。そういう社会的不安と不信が前提にあったからこそ、駅の改札口でちょっともたついただけなのにタレクは問答無用で拘束されてしまうのだ。
ウォルターはタレクを救うために必死で駆け回るが、当局は一切聞く耳を持たない。不安と不信が高じて移民に対して不寛容になってしまったアメリカ社会が鋭い痛みを伴ってえぐりだされてゆく。人間的絆が暴力的に断ち切られてしまう。ウォルターが何度扉をたたいても扉は閉ざされたままなのだ。ウォルターたちが船から自由の女神像を眺めるシーンはこういう文脈で考えれば何とも皮肉である。かつて移民たちが「約束の地」アメリカの象徴として眺めた自由の女神は、今ではむしろ移民たちの前に立ちはだかっているかのようだ。
タリクは結局国外退去となったが、映画は絶望的な雰囲気では終わらない。アメリカの法によってウォルターとタリクの間は引き裂かれたが、ウォルターとタリクの絆、さらにはウォルターとゼイナブ、タリクの母モーナとの絆はタリクに対する不当な措置に抗議することによってより強められていった。無為に生きていたウォルターに生気と憤りがみなぎり、それまでの彼には考えられないほどの大胆な行動に出るプロセスが実に自然に描かれている。話の都合上そうなったと感じさせないとすれば、それは映画の力だ。そして彼らの間をつないだのがジャンベで語る音楽だという描き方がまた素晴らしい。そう、彼らの打ちならす音楽は単なるリズムではなく何かを語っている。そう感じさせるのもまた映画の力だ。タリクは去ったが、彼は大事なものをアメリカに残していった。ウォルターはそれをしっかりと受け取り、受け継いだ。地下鉄の構内でジャンベをたたき続けるウォルターの姿が感動的なのは、それまでたどたどしい演奏しかできなかった彼が思いのたけをぶつけるような力強い演奏をしているからだ。だがそれだけではない。そこに彼が一人きりではないと感じるからだ。そこにはタリクが、ゼイナブが、そしてモーナがいた。いつか彼の周りに人々が集まってくるに違いない。
これはすべてに心を閉ざしてしまったウォルター個人の魂の再生物語ではない。彼の閉ざされた扉は開け放たれたが、移民に対するアメリカ社会の扉はまだ閉ざされたままだということを描いた映画なのである。ウォルターを演じたリチャード・ジェンキンスが素晴らしい。それまではほとんど端役が多かった人だが、この作品で役者としての優れた才能を存
分に発揮して見せた。今後どんな作品に登場してくるのか楽しみだ。タレク役のハーズ・スレイマンと、ゼイナブを演じたダナイ・グリラも強い印象を残した。ほとんど無名に近い人たちだが、従来通りの大作が力を失い、低予算だが質的に高い映画がその間隙を突いて浮上してくる今のアメリカ映画の流れから登場していた人たちだ。そして何といっても強烈な印象を残したのはタレクの母モーナを演じたヒアム・アッバス。あの毅然とした彼女の姿勢には深い感銘を受けた。データを調べてみて、「画家と庭師とカンパーニュ」、アニメ「アズールとアスマール」のジェナヌの声、「ミュンヘン」とこれまで彼女がかかわった映画を3本も観ていたことに気付いた。イスラエル出身の女優で、今レンタル中の「シリアの花嫁」にも出演している。これは楽しみだ。
監督、脚本のトム・マッカーシーは俳優から出発した人。1966年1月生まれだからまだ44歳という若さだ。ボストン・カレッジとイェール大学のドラマ・スクール(大学院相当)を出ている。「グッドナイト&グッドラック」、「シリアナ」、「父親たちの星条旗」と彼の出演作は3本観ているが、正直どんな俳優だったかほとんど記憶がない。最初の監督作品は「ザ・ステーション・エイジェント」 (2003)。「扉をたたく人」は監督2作目である。脚本家・ライターとしても才能があるようで、「カールじいさんの空飛ぶ家」では原案を作っている。「扉をたたく人」を見る限り、俳優としてよりも監督・脚本家としての才能の方が上だと感じる。彼の監督次回作も楽しみだ。
「イノセントワールド 天下無賊」
「戦場のレクイエム」を観て、すぐアマゾンで注文したのが「イノセントワールド 天下無賊」。さまざまなタイプの映画が作れ、「戦場のレクイエム」で大監督の風格も身に付けたフォン・シャオガン監督だが、やはり彼にはコメディが似合う。抜群の職人技でしっかり笑わせ、楽しませてくれる。
長距離列車という閉ざされた空間で展開されるサスペンスフル・アクション・コメディ+愛の駆け引きという盛り沢山の映画。スリの名人ワン・ポー(アンディ・ラウ)とフー・リー(グォ・ヨウ)をリーダーとする別の窃盗集団が「全財産を持って故郷に帰るところだ」と人前で行ってしまう純朴な田舎の青年シャーケン(ワン・バオチアン)の大金を狙う。ワン・ポーの恋人で、かつて一緒に詐欺やスリを働いていたワン・リー(レネ・リウ)も一緒に乗り合わせて、何とか青年の金を守ろうとする。さらには鉄道公安も同じ車両に乗っていて・・・。
「天下無賊」とは「泥棒のいない世界」という意味。世間知らずのシャーケンを皮肉る言葉だが、確かに列車の中にはスリたちがうようよ。しかしシャーケンは自分の周りで展開されている血みどろのスリ合戦には最後まで全く気付かない。そういう展開になっているのが面白い。
最初のあたりでワン・ポーとワン・リーに騙される金持ちが出てくるが、登場人物の大部分はスリや満員列車に乗っている地方の農民などの庶民ばかり。そういうところが大衆に支持されるのだろう。とにかくスピーディーな展開に乗って楽しめばいい。名優グォ・ヨウが窃盗集団のボスを演じているのも面白い。その窃盗集団の1員シャオイエ役でリー・ビンビンも出演しており、お色気まじりでこれまた楽しませてくれます。
「オリンダのリストランテ」
久々に観るアルゼンチン映画。ブラジルと並んで中南米映画を代表する国だが、日本での公開数はもちろん多くはない。「オフィシャル・ストーリー」(1985)と「娼婦と鯨」(2004)のルイス・プエンソ監督、「タンゴ―ガルデルの亡命」(1985)、「スール その先は・・・愛」(1988)、「ラテンアメリカ光と影の詩」(1992)のフェルナンド・E・ソラナス監督が代表的な監督だろう。特に「オフィシャル・ストーリー」と「ラテンアメリカ光と影の詩」は中南米映画を代表する傑作である〔これに「100人の子供たちが列車を待っている」(1988、チリ)、「セントラル・ステーション」(1998、ブラジル)、「フリーダ」(2002、メキシコ)を加えたのがラテン・アメリカ映画マイ・ベスト5〕。他にはダニエル・プルマン監督の「僕と未来とブエノスアイレス」(2003)もおすすめ。
小品だが、ブエノスアイレスの小さなリストランテを舞台にしたしっとり、しみじみしたいい映画だ。レストランやカフェ、食堂を舞台にした映画には傑作や佳作が多い。「アリスのレストラン」、「ギャルソン」、「タンポポ」、「フライド・グリーン・トマト」、「バグダッド・カフェ」、「リストランテの夜」、「パリのレストラン」、「マーサの幸せレシピ」、「ディナー・ラッシュ」、「アントニアの食卓」、「少年と砂漠のカフェ」、「かもめ食堂」、「レミーのおいしいレストラン」など。いろんな人が出入りし、人生が交錯する場だからだ。
「オリンダのリストランテ」でもいくつかの人生が交錯する。その一番重要な交差はリストランテの女主人オリンダとたまたまそこで寝泊まりすることになったドイツ人の旅行者ペーターの人生である。少ない会話の中でオリンダもまた昔イタリアから人を追ってアルゼンチンにやってきたことが分かってくる。
何か劇的なことが起こるわけではない。淡々と日常を描いてゆく展開。これも人間的な絆を描いてゆく映画だが、それを日常の中で描いたところが出色だ。交錯する人生の中でもう一つ重要なのはオリンダと常連客のフェデリコの関係。このフェデリコを演じたマルティン・アジェミアンという役者がいい。いつもそこにいるけれど決して目立たないし、何かにうるさく口を突っ込んだりしない。しかしそこにいるだけで何か周りに安心感のようなものを与える存在。そういう味わいのある役柄を見事に演じていた。惜しいことに、この映画が完成した5年後に亡くなったそうだ。
彼の存在がこの映画の特質をよくあらわしている。劇的なことだけが人に感動を与えるわけではない。ぶつかりあったり、支えあったり。失うこともあれば得ることもある。新しい出会いがあるごとに人の人生にはささやかな変化が起こる。うれしいこと、悲しいこと、腹が立つこと、驚くこと、人生はささやかな出来事の積み重ね。劇的ではないけれども、そのささやかな波風の中にも小さなドラマがある。十人十色の人生模様。日本映画や韓国映画のようにべたべたすることなく、あくまでドライに描き通しながら、それでいてそこに人のぬくもりを感じる映画である。
オリンダを演じたリタ・コルテセは1951年生まれ。90年代からテレビを中心に活躍してきた女優のようだ。オリンダ役でいくつもの賞を受賞している。他には特に受賞歴はなさそうなので、この「オリンダのリストランテ」が彼女の代表作ということになるだろう。残念なことに、「オリンダのリストランテ」の後もやはりテレビ出演が多い。いつかまた映画で彼女に出会いたいものだ。
「消されたヘッドライン」
途中まではなかなか良くできたミステリー・サスペンスだと思ったが、結末で真相が明らかになるとがっかり。アメリカの巨大民間軍事企業がらみの事件として追及してゆくのかと思っていると、結末は単なる個人レベルの問題に縮小されてしまう。竜頭蛇尾とはこのことだ。
ラッセル・クロウ、ベン・アフレック、レイチェル・マクアダムス、ヘレン・ミレンとなかなか豪華な配役。監督は「敵こそ、我が友 ~戦犯クラウス・バルビーの3つの人生~ (2007)、「ラストキング・オブ・スコットランド」(2006)、「運命を分けたザイル」(2003)のケヴィン・マクドナルド。どうもこの監督そこそこの作品は作るが、もうひとつ突き抜けない。
「ナイトミュージアム2」
実はこのシリーズ、1作目を観ていない。何か肩の凝らない映画でも観ようと手に撮ったのがたまたまこの作品だった。前作の自然史博物館から部隊はワシントンのスミソニアン博物館に変わり、石版の魔法を使って世界征服を企む古代エジプトの王カームンラーが登場する。そのカームンラーと手を組んだのがナポレオン、イワン雷帝、そしてアル・カポネ。
面白さよりもばかばかしさが先に立つ。まあ、疲れている時に観る映画だからあまりぜいたくは言えない。しかし、後から思うとなんか本数稼ぎのために観ていたような気が・・・。
「天菩薩」
「香港ニューウェイブの実力派が描く衝撃のストーリー」、「実話に基づく想像を絶する展開と圧倒的な映像美で迫る衝撃のストーリー」。DVD裏の解説に踊る興味をそそるような宣伝文句。それにまんまと踊らされた私がバカでした。
中国の抗日戦を支援しているアメリカ軍の将校が、中国奥地に墜落した米軍機の捜索のために奥地に入る。そこで彼は住民につかまってしまう。なんとその部族はまだ奴隷制度を維持しており、アメリカ人の将校は10年間も奴隷生活を強いられる。確かに話は衝撃的だが、映画のつくりがあまりに浅薄だ。アメリカ人が登場した段階からどこかB級映画の匂いが漂っていた。名作だろうが駄作だろうがテレビで放送していた映画は全部観ていた70年代半ば以降トンとかがなくなった匂い。いやな予感がしたんだよなあ、その時。
出来事を並べるだけで、人物描写が薄っぺらなのでドラマがさっぱり深まらない。題材としては面白いのだが、こんな作りではねえ。