「戦場のレクイエム」(07、フォン・シャオガン監督、中国)★★★★★
「懺悔」(84、テンギズ・アブラゼ監督、ソ連)★★★★
「路上のソリスト」(09、ジョー・ライト監督、アメリカ)★★★★
「スラムドッグ$ミリオネア」(08、ダニー・ボイル監督、英・米)★★★★
「天使と悪魔」(09、ロン・ハワード監督、アメリカ)★★★★
「青燕」(05、ユン・ジョンチャン監督、韓国)★★★☆
またまた「先々月」観た映画になってしまいました。12月に観た映画の短評を今頃載せるのも気が引けますが仕方がない。だいたいもうだいぶ内容も忘れている。観た直後にメモを残しておけばいいのですが、それすらも今は面倒くさい。ああ、また愚痴が出てしまった。反省。1月分は記憶があせないうちにすぐ載せよう。
「戦場のレクイエム」に関しては別にレビューを載せています。「青燕」についても「エキストラ出演した『青燕』のDVDがでました!」という記事を書いています。そちらを参照してください。
「路上のソリスト」
「プライドと偏見」、「つぐない」のジョー・ライト監督作品。画家と音楽家の違いはあるが、ドキュメンタリー映画「ミリキタニの猫」を思わせる作品である。あるいはこちらもドキュメンタリーだが「未来を写した子供たち」にも通じるものがある。世間に知られず、埋もれている人々。ある人物がたまたまそういった人たちと知り合い、その才能に注目し、やがては何とかその境遇から救い出そうと行動を起こす。これが上の3つの作品に共通する要素だ。
この映画を支えているのは何といってもジェイミー・フォックスの存在である。「Ray/レイ」は未見だが、「ドリームガールズ」や「ジャーヘッド」でもいい味を出していた。いろんな役
ができそうだが、ミュージシャンが今のところあたり役か。かつてのヒッピーのような格好をして、ゴミ清掃カートをごろごろ転がしながら移動する姿。音楽を演奏する時の、ものに憑かれたような集中力と恍惚感。ホームレスの天才音楽家ナサニエル・エアーズ(ジェイミー・フォックス)は実に特異で珍妙な男だ。コミュニケーションを取るのも容易ではない。なにせ早口でよく意味の分からないことを一方的にぶつぶつとしゃべるのだ。しかしその才能の豊かさにLAタイムズの記者スティーヴ・ロペス(ロバート・ダウニー・Jr)はたちまち引き付けられてしまう。
これだけの才能を持ちながら、なぜナサニエルはホームレスになってしまったのか。スティーヴとナサニエルの心の触れ合いを描きながら、同時にナサニエルの過去をあぶり出してゆく展開。さらにロサンジェルスの下層社会の実像をナサニエルを通して描きこみ、同時に新聞記者であるスティーヴの苦悩と葛藤(ナサニエルは最初取材の対象であったが、やがて友情を感じる存在になる、その距離の取り方の難しさ)も描いてゆく。
さまざまな要素を取り入れながらスティーヴとナサニエルの関係を中心に描いてゆく。期待以上にいい映画だと思ったが、残念ながら「ミリキタニの猫」や「未来を写した子供たち」には及ばなかった。おそらくスティーヴに比重をかけすぎ、その分ナサニエルという人物の掘り下げが浅くなってしまったのではないか。「ミリキタニの猫」と「未来を写した子供たち」も「観察する側」がかなり映画の中に入り込んでいるが、そのことがむしろ「対象」により深く切り込み、より問題の困難さに迫ることにつながっている。深くかかわることによって「対象」という冷たい響きの存在から深い絆によって結ばれた生身の存在に変わってゆく。もちろん「路上のソリスト」もそういう展開にはなっているのだが、2本の優れたドキュメンタリー作品に比べると深みに欠ける気がする。「ミリキタニの猫」と「未来を写した子供たち」では「観察する側」が監督を兼ねているが、「路上のソリスト」では「対象」であるナサニエルも観察するスティーヴもともに出演者であり、監督はまた別にいる。その分より間接的な描き方になっていると言うことも出来るかも知れない。
「扉をたたく人」との比較も有益だろう。観る前はどちらも同じような映画だろうと思っていた。心の隙間を抱えた男が、見知らぬミュージシャンと知り合い、次第に心を通わせてゆく。そういう展開だろうと思っていた。「路上のソリスト」は確かにそういう展開の作品だった。しかし「扉をたたく人」は途中から予想もしない展開になってゆく。9.11後のアメリカを覆っている不信感と不安感と疑念が痛いほどリアルに描かれている。「扉をたたく人」が描いた世界は「路上のソリスト」より遥かに深刻なアメリカの現実だった。個人の善意の限界、それを阻む社会の厚い壁。「扉をたたく人」と比べると、「路上のソリスト」は何ともストレートな作品に思える。「ミリキタニの猫」や「未来を写した子供たち」も「扉をたたく人」に比べればストレートな展開だが、「ミリキタニの猫」には第二次大戦中日系人が敵国人として受けた深い傷が根底にあり、「未来を写した子供たち」の子供たちは常に社会的矛盾の中で描かれている。「路上のソリスト」は結局個人の善意の範囲を超えられなかった。しかしそれでも凡百の作品に埋もれなかったのはジェイミー・フォックスの熱演があったからである。
「懺悔」
「懺悔」が作られた1984年頃は三百人劇場での特集をはじめ結構日本でソ連映画を観る機会があった。ちなみに84年は4月から5月にかけて三百人劇場で「ソビエト映画の全貌PART2」という特集上映があった。87年にも4月から5月にかけて「ソビエト映画の全貌‘87」が開催された。その時の目玉は長いことソ連で上映禁止になっていた「道中の点検」。おそらく「懺悔」の評判を聞いたのはその頃ではないか。新聞でも取り上げられたと思う。「道中の点検」が上映されたのだから、「懺悔」もいずれ近いうちに観られるようになるだろう、当時はそう思っていた。しかし実際は08年末に岩波ホールで公開されるまで20年近く待たされることになった。
当然期待して観た。しかし期待値が高かっただけに期待したほどではなかったというのが正直な感想。ただ確かに問題作ではある。最初の20分くらいまでは「これは大はずれか」と危惧したが、さすがに後半はぐいぐい惹き付けるものがあった。ただどうしても物足りないという気持ちが残る。もっとリアリズムに徹した作品かと思っていたのでややがっかりした面はあるが、理不尽さが通ってしまう社会の怖さは伝わってくる。しかしあの独裁者の描き方には疑問もある。シュールな感じの演出も疑問だ。危機感や恐怖感がかえって薄らいでしまう。どこか現実味の薄いフィクションのような感じで、リアリティに欠けると感じた。
もちろんリアリズムでなければこの映画のテーマを描けないというわけではない。小型スターリンのような市長ヴァルランによる不当で苛烈な弾圧。その弾圧で両親を失った女性がヴァルランの遺体を3度も墓から掘り返す。裁判で被告の女性が過去のいきさつを語り始める。つまり主題はスターリニズム批判である。
そういう主題であれば、弾圧の実態をつぶさに描き出す手法が普通取られる。しかしあまりに悲惨な現実を、その苛酷な現実から目をそらさずにかつシュールな演出やユーモアの味付けをして描き出す手法もある。ボスニア紛争をシュールに笑い飛ばしたエミール・クストリッツァ監督の「ライフ・イズ・ミラクル」、ナチ占領下でユダヤ人をかくまった一家の緊張の日々をユーモアを交えて描いたチェコ映画の傑作「この素晴らしき世界」、ボスニア紛争をユーモアを交えて描いた「ビューティフル・ピープル」。あるいはチャップリンの「独裁者」のように、独裁者を徹底的に風刺してこき下ろすやり方もある。
「懺悔」もシュールでユーモラスであり、風刺もされている。そういう手法を用いた結果、ヴァルランという何とも個性的で、つかみどころがなく、悪人か善人か判別し難い摩訶不思議な人物像が出来上がった。その意味では確かに強烈な個性を持ったキャラクターである。独裁者らしい残虐さや冷酷さなどほとんど感じられない。マサラ・ムービーよろしく突然歌いだしたりする破天荒さ。
ありきたりの独裁者像にしたくなかったという意図は理解できる。粛清される人々を連行して行くのはナチスやゲシュタポのように姿を見ただけでぞっとするような連中ではなく、鎧兜を身にまとった中世の騎士のような輩をあえて登場させている。これも風刺としてみれば
分からないではない。しかしこれらの演出が積み重なって得られるのは強烈な個性はあるが、しかしグルジアのあるいは旧ソ連のある時期の歴史に深く関与した人物という面が薄れてします。彼のもとで呻吟した人々の苦しみや悲しみも同様である。これでは在職中に汚職をした市長やセクハラで職を追われた市町でも何でもいいことになってしまう。そこが問題なのだ。
テンギズ・アブラゼ監督は幻想的で不合理な作品を意図したようだ。確かにいわれのない弾圧は不合理だが、この映画はその不合理さを描くのではなく、ヴァルランという人物の支離滅裂さを描いている。だからこの映画は焦点が定まらず、変な独裁者が出てきて面白かったという作品になってしまっている。どうやら歴史的事実を具体的に描くと主題が矮小化されてしまうという、昔からある誤った理解に彼はからめとられているようだ。それは全くの誤解だ。具体的に描かれているからこそ50年も100年もあるいはもっと前の出来事や物語でも今読んであるいは観て理解し、共感し、その世界に入り込むことができるのである。過去の作品が持つ普遍性とはそういうことだ。寓意化や抽象化から生まれるのは普遍性ではなく一般化である。人は時空を超えて生きることはできない。人間の悲劇は人間が時間と空間に縛られているからこそ生じるのだ。「懺悔」はその具体性が弱いためにドラマ性が弱まってしまった。
もちろんフィクションは自分が置かれている状況から逃れたいという人間の願望を描くことができる。それはフィクションの持つ重要な機能だ。ファンタジーのような、現実味は薄いがそれはそれとして想像の世界を楽しむというタイプの作品もある。しかし「懺悔」は一方でグルジアの人々が経験した過酷な現実も描いている。いや、主題からしてそれを描かずには成り立たない。ヴァルランがあっけらかんとして言う「暗闇の中でも猫を見つけられる たとえ猫がいなくても」という言葉は、実はぞっとする言葉である。猫を不穏分子と置き換えればよく分かるだろう。そんなものは実際にはいなくてもいくらでも作りだせるというのだ。にもかかわらず、そんな市長の死を心から悼むたくさんの市民がいる。これも怖い話だ。
あるいはラストの印象深い会話。一人の老婆がニノに道を尋ねる。「この道は聖母教会へ通じていますか。この道では教会へ行けないのですか。」ニノ「ここはヴァルラム通り。教会へは通じてないわ。」老婆「教会に通じない道が何の役に立つのですか。」この街は神に見放された街だ。宗教的な表現だが、それが言わんとしていることはよく理解できる。寓意的な表現でもうまく使えば大きな効果を発揮する。しかしその根底にはリアルなドラマがなくてはならない。
要するに「懺悔」は中途半端な作品なのだ。映画の芯になる葛藤がリアルに描かれていない。たぐいまれな独裁者を創造し、印象に残る場面をいくつも作り上げたが、結局はその摩訶不思議で支離滅裂な世界を楽しむ作品になっているのではないだろうか。
もちろんあまりストレートに体制批判をできないという時代の制約もあったのかもしれない。いずれにしても、当時のソ連は抽象的ではあれこういう作品が作られる状況になっていたということである。ゴルバチョフ政権が誕生したのはこの作品が製作された翌年の1985年である。
「スラムドッグ$ミリオネア」
ダニー・ボイル監督作品は「シャロウ・グレイブ」、「トレインスポッティング」、「ザ・ビーチ」、「ストランペット」、「ヴァキューミング」、「28日後…」、「ミリオンズ」と観てきた。「スラムドッグ$ミリオネア」は作品系譜としては「ミリオンズ」に近い作品だと言えるだろう。
スリリングな展開だが基本的にはご都合主義のラブ・ロマンスという枠をそれほど出てはいないと感じた。クイズの答えはスラムの生活の中で学んだという設定は面白いが、クイズの問題がすべてたまたま彼の知っていること重なるというのはあまりに都合よくできすぎている。インドのスラム街での生活もそれほど過酷だとは感じられなかった。
脚本のサイモン・ボーフォイは「マイ・スウィート・シェフィールド」や「シャンプー台の向こうに」の脚本を書いた人。警部役のイルファン・カーンはどこかで見たことがあると思いつつ観ていたが、後で調べてみたら「その名にちなんで」や「ダージリン急行」に出ていた人だった。
サッチャーが首相を務めていた重苦しい80年代が過ぎ、90年代に入ってイギリス映画は一気に花開いた。一時の停滞を抜けだし、さまざまなタイプの作品が次々に登場した。
特徴的なのは文芸映画、アート系映画などの昔から得意だったジャンルに加えて、貧困・失業・ストを描いた映画や犯罪や薬中・アル中を描いた映画がたくさん作られるようになったことだ。イギリスを福祉国家からアメリカのような、食うか食われるかの競争国家に変えてしまったサッチャー政権の生々しい傷跡が映画の中で描かれるようになった。
一方その反動でハッピー・エンドの成功物語が作られるようになった。「ブラス!」、「フル・モンティ」、「リトル・ヴォイス」、「リトル・ダンサー」、「グリーン・フィンガーズ」、「シーズン・チケット」、「シャンプー台の向こうに」、「カレンダー・ガールズ」、「キンキー・ブーツ」等々。しかし2000年代に入ってからは、この手のハッピーな映画よりはケン・ローチ作品に代表されるような現実を厳しく見つめた作品が主流になる。
ダニー・ボイル監督の作品でいえば「シャロウ・グレイブ」、「トレインスポッティング」、「ストランペット」、「ヴァキューミング」あたりが後者の系統(アメリカに渡って撮った「普通じゃない」、「ザ・ビーチ」、「28日後」はいずれも凡作)。元々リトル・アメリカと化したイギリス社会の底辺でもがく人物たちを疾走感たっぷりに描く作風で出発した人だ。
「ミリオンズ」は主人公の男の子がたまたま大量のポンド札が入った袋を手に入れるが、奪った金を横取りされた間抜けな強盗に追われるというドタバタ調の展開になり、最後はファンタジーの様に終わる。「スラムドッグ$ミリオネア」はインドのスラム街の悲惨な現実を描くという点では従来の路線の延長線上にある作品だが、同時に愛とお金を手に入れる成功物語でもある。貧困・犯罪ものと成功物語を統合したような作品が生まれたことになる。その意味では興味深い作品だ。しかし残念ながらケン・ローチ作品のような深みには欠ける(この作品のみならず、最初から一貫してそうだった)。
このところいかにもイギリス映画らしい彼の屈折した持ち味が薄らいできているように思う。ねじれにねじれながら疾走する彼の持ち味で現実にもっと深く食い込んだら傑作が生まれるかもしれない。
「天使と悪魔」
「ダ・ヴィンチ・コード」と同じような作り。展開が速すぎて話についてゆくのが大変だというのも前作と同じ。ただ、今回は原作を先に読んでいないので映画として楽しめた。内容については特に言うことはない。とにかく楽しめばいい映画なのだから。
ただ、あのあわただしく展開するテンポの速さは考えものだ。もっと謎解きをじっくり楽しむ展開にした方がいいと思う。『ビッグコミックオリジナル』に連載された「イリヤッド 入矢堂見聞録」(東周斎雅楽原作・魚戸おさむ画)は面白かったなあ。謎の大陸アトランティスの探索が主題だが、謎の暗殺集団である「山の老人」が出てきたり、テンプル騎士団、アガメムノン、マルコ・ポーロの『東方見聞録』、秦の始皇帝の墳墓、さらにはシュリーマンやナチスまで絡んでくる。その壮大さと荒唐無稽さがたまらない。星野之宣の『ヤマタイカ』や『宗像教授伝奇考』も大好きだ。
もっと謎を謎として楽しむ映画があってしかるべきだ。調べれば調べるほど謎が深まる。そういう展開がいい。しかし「天使と悪魔」のテーマではそこまでの広がりはない。そうだ、誰か「イリヤッド 入矢堂見聞録」を映画化してくれないかなあ。「ロード・オブ・ザ・リング」の向こうを張って三部作にするというのはどうか。どうせ作るならそれぐらい壮大な映画を作ってみてよ。