先月観た映画(09年11月)
「劔岳 点の記」(08、木村大作監督、日本)★★★★★
「ダウト」(08、ジョン・パトリック・シャンリー監督・アメリカ)★★★★☆
「火天の城」(09、田中光敏監督、日本)★★★☆
「吹けば飛ぶよな男だが」(68、山田洋次監督、日本)★★★☆
ああ、悲しい。ついに月間の鑑賞数が4本にまで下がってしまった。ただ、この時期は例年映画館での鑑賞が増える。先月も4本のうち3本は映画館で観た。さらにそのうちの1本(「吹けば飛ぶよな男だが」)は「うえだ城下町映画祭」での鑑賞。実はもう1本「The Eighth Samurai」というのを映画祭で観たがこれは何と短編だった。長編だと思って観に行ったらあっという間に終わってしまった。黒澤明の「七人の侍」に8人目の侍がいたという話なのである程度期待していた。ところが観てがっかり。ある日黒澤監督が夢を見て(8本の木に囲まれていたが、そのうちの1本が倒れてきたという夢)、縁起が悪いので8人はやめて7人にすると言い出す。張り切って剣劇の練習をしていた8人目の役者はあっさり首に。散々頼み込むが無駄。結局は端役で生きてゆく決意をするというもの。8人目の侍が首になるという話だとは映画祭のパンフを見て分かっていた。その先一体どんなドラマの展開になるのかと思っていたら、首になった後うれしそうに端役を演じているシーンが短くさしはさまれてあっさり幕。なんじゃこりゃ!?ああ、こんなことなら別の映画を観ておけばよかった。
レンタルDVDも借りてはいたが、結局時間がなくて観ないまま返すということが続いた。レンタルして観ることができたのは「ダウト」1本だけ。11月が終わった段階で年間の鑑賞数は90本。このままでは100本の大台に乗ることすら危ぶまれる。12月は何としても10本以上観るぞ。
「劔岳 点の記」と「火天の城」は短評を書いていますのでそちらを参照してください。
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「ダウト」
期待以上の力作だった。メリル・ストリープとフィリップ・シーモア・ホフマンとの掛け合いが緊張感をはらんで激烈だった。サスペンス的な要素も観る者を強烈に引き付けた。
ケネディ大統領が暗殺された翌年の1964年。ニューヨークのブロンクスにあるカトリック学校で大きな疑惑が渦を巻いていた。当時の進歩的思想に影響を受け柔軟な考えを持つフリン神父(フィリップ・シーモア・ホフマン)は生徒から慕われていた。一方校長のシスター・アロイシアス(メリル・ストリープ)は厳格な性格で、生徒たちに対して常に厳しい目を向けていた。そのシスター・アロイシアスに新人教師のシスター・ジェイムズ(エイミー・アダムス)がある相談を持ちかけた。フリン神父が黒人の生徒ドナルド・ミラーと“不適切な関係”にあるのではないかというのだ。フリン神父は聖職者であるにもかかわらず煙草を平気で吸うような男で、彼女が厳格な規律で運営してきた学校により開かれた校風を持ち込もうとしている。シスター・アロイシアスはそんなフリン神父を普段から批判的な目で見ていた。話を聞いたシスター・アロイシアスはフリン神父に疑いの目を向け、やがてフリン神父と生徒の間に性的な関係があったと確信を抱くまでに至る。ついには、確たる証拠は何もないにもかかわらずフリン神父を告発し学校から追い出してしまう。
執念にも似たシスター・アロイシアスの追及姿勢がとにかく凄まじい。フリン神父に直接「尋問」する場面も含め、全編にわたりこの二人の名優が激しくやり合う。それだけでもドラマとして十分見応えがある。フリン神父は核心部分については詳しく語らない。一体真相はどうなのか。観客は固唾をのんで見守る。しかし最後まで真相は分からない。最後に描かれるのは、フリン神父の追い出しに成功したシスター・アロイシアスが、自分の判断は正しかったのかという疑念にさいなまれ嗚咽する姿である。
この映画は何らかの真相にたどりついて決着がつくサスペンス映画ではない。そもそも何が真相かということにこの映画は焦点を当ててはいない。むしろ真相が分からないこと自体がこの映画の核心部分だと言っていい。タイトルが指し示すように、疑惑は最後まで疑惑のままなのである。原作を書いた劇作家ジョン・パトリック・シャンリィは9.11テロの衝撃とその余波が大きな影となって人々の心を覆ってしまった世情を背景に原作を書き上げたという。テロが生み出した不安感と不信感、根拠のない理由で他国に軍隊を派遣する愚挙、この作品の背後にはそんな社会状況がある。その意味でこの映画も「ポスト9.11映画」と位置付けることができる。60年代を舞台としながら、実は9.11後の現状を意識している。
この映画で主要な役割をはたしている人物はシスター・アロイシアスとフリン神父の他にもう2人いる。新人教師シスター・ジェイムズとドナルド・ミラーの母親(ヴィオラ・デイヴィス)である。重要なのはこの4人のうちだれ一人として「正しい」人物として描かれていないことだ。悲劇的な4すくみ状態。この映画が描いたのは最後まで真相が見いだせず、どこにも辿りつけない閉塞した状況である。
シスター・アロイシアスはその厳格さと疑い深さに観る者がたじろぎたくなるような人物である。何の根拠もないのに疑わしいというだけでとことん突っ走る怖さが、彼女の鬼気迫る演技を通して嫌というほど描き出される。しかし彼女はただ批判的に描かれているわけではない。身分的には彼女の上位にあるフリン神父を告発するのは勇気ある行為だと言ってもいい。彼女は何らかの個人的思惑があって行動したのではない。飽くまでも彼女が信じる信義に基づいて「不正」を見過ごさずに追及・告発したのである。フリン神父も彼女の追及に明確に答えていない弱みがある。また、彼女に比べれば「純真な」シスター・ジェイムズもあまりに単純すぎると感じざるを得ない。映画の最初の部分でシスター・ジェイムズの教師としての未熟さが強調されている。それと対比するように、生徒たちを厳格すぎるほど締め付け押さえつけようとするシスター・アロイシアスの姿勢が描かれる。シスター・ジェイムズの柔和で常識的判断力と優柔不断さ、シスター・アロイシアスの不正を徹底的に追求しようとする果敢な姿勢と証拠もないのに突っ走る思い込みの激しさが共に描かれている。
シスター・ジェイムズはフリン神父の説明を聞いてあっさり納得してしまった。しかしシスター・アロイシアスはまだ納得しない。観客はシスター・ジェイムズの単純さに騙され易さを感じ、その一方で飽くまで追求の手を緩めないシスター・アロイシアスにも狂信的なものを感じ恐怖する。そして核心部分についてはっきりと説明をしないフリン神父にも疑いをぬぐいえない。シスター・アロイシアスが圧倒的な存在感を示すのは、彼女を演じたメリル・ストリープの力量に負うところも大きいが、シスター・アロイシアスに狭量な狂信者と不正を徹底して追求する検察官の二つの顔を同時に与えているからなのである。
フリン神父は最後まで曖昧な存在である。伝統にとらわれない寛容な人物のようにも見えるが、どこか怪しげでいい加減な男にも見える。彼は存在それ自体が「謎」なのである。それが疑惑を生む。そもそも、彼が冒頭で語った遭難した船員の逸話が謎めいている。彼はそこで「疑惑」を強調していた。疑惑が絶望感を生むが、絶望感は人々を結びつける強力な絆になると語った。「疑惑というものも強力な絆になりえるのです。」しかしこの論理には飛躍がある。どうも「風が吹けば桶屋が儲かる」式の話で、彼が言わんとしていることがすんなり納得できないのだ。
この話の前半は説得力がある。疑惑が疑惑を呼ぶというのは理解できる。まさにこの映画自体がそれを示している。フリン神父自身が疑惑発覚後にそのことを分かりやすい例を用いて見事に語っている。屋根の上で羽根枕をナイフで切り裂けば、羽根があたり一面に飛び散ってゆく。すべてを拾い集めることなどとてもできない。スキャンダルもそれと同じだと。疑惑とスキャンダルの関係をこれ以上分かりやすく説明するのは難しいくらいだ。
しかしこの映画で語られないのは人々の間の絆である。疑惑は広まっても人々の間に絆が築かれることはなかった。それが問題なのだ。この映画で描かれるのは歪んだ人間関係ばかりだ。4人目の主要登場人物、ドナルド・ミラーの母親(ヴィオラ・デイヴィス)をここで取り上げよう。シスター・アロイシアスは彼女を呼び出して、彼女の息子とフリン神父の間に“不適切な関係”があると訴える。しかし彼女はフリン神父の様に息子を気にかけてくれる人が必要だと言ってシスター・アロイシアスの話に耳を傾けようとしない。つまり彼女はシスター・アロイシアスの言っていることが事実かどうかなどどうでもいいと言っているのである。彼女にとって最大の関心事は誰か息子を庇護してくれる人物を見つけなければならないということなのである。フリン神父はまさにその庇護者であった。
彼女のように考える人は決して少なくない。マイケル・ムーア監督の「華氏911」で、食べてゆけない貧しい人々が教育を受けられ食うにも困らない軍隊に志願してゆく実態が描かれている。彼らにとってイラクにアメリカの軍隊を送ることが正しいかどうかなど問題ではない。食うに困らないことが重要なのだ。ドナルド・ミラーの母親が登場する場面は少ない。にもかかわらず強烈な印象を残すのは、アメリカの少なからぬ人々の現実がそこに反映されているからなのである。
こうして神父の不祥事を追及して行くかに見えた物語は事態の決着は見たものの、袋小路につきあたり、何が真実か見極められない泥沼にはまり込んでしまう。疑惑だけが宙に浮いてしまう。その意味でアメリカが陥っている閉塞状況を深くえぐり出した作品だと言っていい。しかし先にふれたように、その状況から抜け出す道がほとんど見えないことが気になる。ばらばらになった人々の間に絆をどう築きあげるのか。最後にシスター・アロイシアスが自分の疑念に疑いを持ったことは示されているが、その先に何らかの出口は暗示されていない。その点がやや不満だが、ともあれアメリカを包んでいる闇の濃さが十分伝わってくる作品だった。
「吹けば飛ぶよな男だが」
喜劇としてはいま一つだ。驚いたのは主人公のなべおさみ。最初出てきたときは寅さんかと思った。顎がとがっているので渥美清ではないとしばらくして気がついたが、顔もタイプも寅さんにそっくり。寅さんの原型か。ヒロインが緑魔子だったのも驚き。ずいぶん久しぶりに彼女を観た。ひょっとして緑魔子かと思ったら、そのとおりだった。2、3本しか彼女の映画は観ていないが、意外にも顔を覚えていた。
うまいと思ったのは犬塚弘とミヤコ蝶々。犬塚弘はなべおさみの隣の部屋に住んでいるやくざの役。すごみはないが怖いおっさん。ミヤコ蝶々はトルコ風呂の女将。セリフ回しが堂に入っている。こういう役をやらせたらお手のもの。脇役がうまいと映画が締まる。浪花千栄子、杉村春子、沢村貞子など、やり手女将役がぴったりはまる女優が昔はたくさんいたが、今はこういうタイプの女優はいなくなってしまった。懐かしかったのは有島一郎。学校の先生役だがこれがはまっている。喜劇役者がまじめな役を演じている。昔はうまい役者がごろごろいたものだ。
全くハチャメチャな話だが、どこか寅さん映画を思わせるところがある。最後にちょっとしんみりさせるところもいかにも山田映画だ。しかし寅さん以降の円熟味はまだない。チンピラが主人公なのでギャーギャー喚きまわってうるさいこと。