お気に入りブログ

  • 真紅のthinkingdays
    広範な映画をご覧になっていて、レビューの内容も充実。たっぷり読み応えがあります。
  • 京の昼寝〜♪
    僕がレンタルで観る映画のほとんどを映画館で先回りしてご覧になっています。うらやましい。映画以外の記事も充実。
  • ★☆カゴメのシネマ洞☆★
    細かいところまで目が行き届いた、とても読み応えのあるブログです。勉強になります。
  • 裏の窓から眺めてみれば
    本人は単なる感想と謙遜していますが、長文の読み応えのあるブログです。
  • なんか飲みたい
    とてもいい映画を採り上げています。短い文章できっちりとしたレビュー。なかなかまねできません。
  • ぶらぶらある記
    写真がとても素敵です。

お気に入りホームページ

ゴブリンのHPと別館ブログ

無料ブログはココログ

« 2009年11月 | トップページ | 2010年1月 »

2009年12月

2009年12月30日 (水)

先月観た映画(09年11月)

「劔岳 点の記」(08、木村大作監督、日本)★★★★★
「ダウト」(08、ジョン・パトリック・シャンリー監督・アメリカ)★★★★☆
「火天の城」(09、田中光敏監督、日本)★★★☆
「吹けば飛ぶよな男だが」(68、山田洋次監督、日本)★★★☆

 ああ、悲しい。ついに月間の鑑賞数が4本にまで下がってしまった。ただ、この時期は例年映画館での鑑賞が増える。先月も4本のうち3本は映画館で観た。さらにそのうちの1本(「吹けば飛ぶよな男だが」)は「うえだ城下町映画祭」での鑑賞。実はもう1本「The Eighth Samurai」というのを映画祭で観たがこれは何と短編だった。長編だと思って観に行ったらあっという間に終わってしまった。黒澤明の「七人の侍」に8人目の侍がいたという話なのである程度期待していた。ところが観てがっかり。ある日黒澤監督が夢を見て(8本の木に囲まれていたが、そのうちの1本が倒れてきたという夢)、縁起が悪いので8人はやめて7人にすると言い出す。張り切って剣劇の練習をしていた8人目の役者はあっさり首に。散々頼み込むが無駄。結局は端役で生きてゆく決意をするというもの。8人目の侍が首になるという話だとは映画祭のパンフを見て分かっていた。その先一体どんなドラマの展開になるのかと思っていたら、首になった後うれしそうに端役を演じているシーンが短くさしはさまれてあっさり幕。なんじゃこりゃ!?ああ、こんなことなら別の映画を観ておけばよかった。

 レンタルDVDも借りてはいたが、結局時間がなくて観ないまま返すということが続いた。レンタルして観ることができたのは「ダウト」1本だけ。11月が終わった段階で年間の鑑賞数は90本。このままでは100本の大台に乗ることすら危ぶまれる。12月は何としても10本以上観るぞ。

 「劔岳 点の記」と「火天の城」は短評を書いていますのでそちらを参照してください。

* * * * * * * * * *

「ダウト」
  期待以上の力作だった。メリル・ストリープとフィリップ・シーモア・ホフマンとの掛け合いが緊張感をはらんで激烈だった。サスペンス的な要素も観る者を強烈に引き付けた。

091226_13  ケネディ大統領が暗殺された翌年の1964年。ニューヨークのブロンクスにあるカトリック学校で大きな疑惑が渦を巻いていた。当時の進歩的思想に影響を受け柔軟な考えを持つフリン神父(フィリップ・シーモア・ホフマン)は生徒から慕われていた。一方校長のシスター・アロイシアス(メリル・ストリープ)は厳格な性格で、生徒たちに対して常に厳しい目を向けていた。そのシスター・アロイシアスに新人教師のシスター・ジェイムズ(エイミー・アダムス)がある相談を持ちかけた。フリン神父が黒人の生徒ドナルド・ミラーと“不適切な関係”にあるのではないかというのだ。フリン神父は聖職者であるにもかかわらず煙草を平気で吸うような男で、彼女が厳格な規律で運営してきた学校により開かれた校風を持ち込もうとしている。シスター・アロイシアスはそんなフリン神父を普段から批判的な目で見ていた。話を聞いたシスター・アロイシアスはフリン神父に疑いの目を向け、やがてフリン神父と生徒の間に性的な関係があったと確信を抱くまでに至る。ついには、確たる証拠は何もないにもかかわらずフリン神父を告発し学校から追い出してしまう。

 執念にも似たシスター・アロイシアスの追及姿勢がとにかく凄まじい。フリン神父に直接「尋問」する場面も含め、全編にわたりこの二人の名優が激しくやり合う。それだけでもドラマとして十分見応えがある。フリン神父は核心部分については詳しく語らない。一体真相はどうなのか。観客は固唾をのんで見守る。しかし最後まで真相は分からない。最後に描かれるのは、フリン神父の追い出しに成功したシスター・アロイシアスが、自分の判断は正しかったのかという疑念にさいなまれ嗚咽する姿である。

 この映画は何らかの真相にたどりついて決着がつくサスペンス映画ではない。そもそも何が真相かということにこの映画は焦点を当ててはいない。むしろ真相が分からないこと自体がこの映画の核心部分だと言っていい。タイトルが指し示すように、疑惑は最後まで疑惑のままなのである。原作を書いた劇作家ジョン・パトリック・シャンリィは9.11テロの衝撃とその余波が大きな影となって人々の心を覆ってしまった世情を背景に原作を書き上げたという。テロが生み出した不安感と不信感、根拠のない理由で他国に軍隊を派遣する愚挙、この作品の背後にはそんな社会状況がある。その意味でこの映画も「ポスト9.11映画」と位置付けることができる。60年代を舞台としながら、実は9.11後の現状を意識している。

 この映画で主要な役割をはたしている人物はシスター・アロイシアスとフリン神父の他にもう2人いる。新人教師シスター・ジェイムズとドナルド・ミラーの母親(ヴィオラ・デイヴィス)である。重要なのはこの4人のうちだれ一人として「正しい」人物として描かれていないことだ。悲劇的な4すくみ状態。この映画が描いたのは最後まで真相が見いだせず、どこにも辿りつけない閉塞した状況である。

091219_20  シスター・アロイシアスはその厳格さと疑い深さに観る者がたじろぎたくなるような人物である。何の根拠もないのに疑わしいというだけでとことん突っ走る怖さが、彼女の鬼気迫る演技を通して嫌というほど描き出される。しかし彼女はただ批判的に描かれているわけではない。身分的には彼女の上位にあるフリン神父を告発するのは勇気ある行為だと言ってもいい。彼女は何らかの個人的思惑があって行動したのではない。飽くまでも彼女が信じる信義に基づいて「不正」を見過ごさずに追及・告発したのである。フリン神父も彼女の追及に明確に答えていない弱みがある。また、彼女に比べれば「純真な」シスター・ジェイムズもあまりに単純すぎると感じざるを得ない。映画の最初の部分でシスター・ジェイムズの教師としての未熟さが強調されている。それと対比するように、生徒たちを厳格すぎるほど締め付け押さえつけようとするシスター・アロイシアスの姿勢が描かれる。シスター・ジェイムズの柔和で常識的判断力と優柔不断さ、シスター・アロイシアスの不正を徹底的に追求しようとする果敢な姿勢と証拠もないのに突っ走る思い込みの激しさが共に描かれている。

 シスター・ジェイムズはフリン神父の説明を聞いてあっさり納得してしまった。しかしシスター・アロイシアスはまだ納得しない。観客はシスター・ジェイムズの単純さに騙され易さを感じ、その一方で飽くまで追求の手を緩めないシスター・アロイシアスにも狂信的なものを感じ恐怖する。そして核心部分についてはっきりと説明をしないフリン神父にも疑いをぬぐいえない。シスター・アロイシアスが圧倒的な存在感を示すのは、彼女を演じたメリル・ストリープの力量に負うところも大きいが、シスター・アロイシアスに狭量な狂信者と不正を徹底して追求する検察官の二つの顔を同時に与えているからなのである。

 フリン神父は最後まで曖昧な存在である。伝統にとらわれない寛容な人物のようにも見えるが、どこか怪しげでいい加減な男にも見える。彼は存在それ自体が「謎」なのである。それが疑惑を生む。そもそも、彼が冒頭で語った遭難した船員の逸話が謎めいている。彼はそこで「疑惑」を強調していた。疑惑が絶望感を生むが、絶望感は人々を結びつける強力な絆になると語った。「疑惑というものも強力な絆になりえるのです。」しかしこの論理には飛躍がある。どうも「風が吹けば桶屋が儲かる」式の話で、彼が言わんとしていることがすんなり納得できないのだ。

 この話の前半は説得力がある。疑惑が疑惑を呼ぶというのは理解できる。まさにこの映画自体がそれを示している。フリン神父自身が疑惑発覚後にそのことを分かりやすい例を用いて見事に語っている。屋根の上で羽根枕をナイフで切り裂けば、羽根があたり一面に飛び散ってゆく。すべてを拾い集めることなどとてもできない。スキャンダルもそれと同じだと。疑惑とスキャンダルの関係をこれ以上分かりやすく説明するのは難しいくらいだ。

 しかしこの映画で語られないのは人々の間の絆である。疑惑は広まっても人々の間に絆が築かれることはなかった。それが問題なのだ。この映画で描かれるのは歪んだ人間関係ばかりだ。4人目の主要登場人物、ドナルド・ミラーの母親(ヴィオラ・デイヴィス)をここで取り上げよう。シスター・アロイシアスは彼女を呼び出して、彼女の息子とフリン神父の間に“不適切な関係”があると訴える。しかし彼女はフリン神父の様に息子を気にかけてくれる人が必要だと言ってシスター・アロイシアスの話に耳を傾けようとしない。つまり彼女はシスター・アロイシアスの言っていることが事実かどうかなどどうでもいいと言っているのである。彼女にとって最大の関心事は誰か息子を庇護してくれる人物を見つけなければならないということなのである。フリン神父はまさにその庇護者であった。

 彼女のように考える人は決して少なくない。マイケル・ムーア監督の「華氏911」で、食べてゆけない貧しい人々が教育を受けられ食うにも困らない軍隊に志願してゆく実態が描かれている。彼らにとってイラクにアメリカの軍隊を送ることが正しいかどうかなど問題ではない。食うに困らないことが重要なのだ。ドナルド・ミラーの母親が登場する場面は少ない。にもかかわらず強烈な印象を残すのは、アメリカの少なからぬ人々の現実がそこに反映されているからなのである。

091227_18  こうして神父の不祥事を追及して行くかに見えた物語は事態の決着は見たものの、袋小路につきあたり、何が真実か見極められない泥沼にはまり込んでしまう。疑惑だけが宙に浮いてしまう。その意味でアメリカが陥っている閉塞状況を深くえぐり出した作品だと言っていい。しかし先にふれたように、その状況から抜け出す道がほとんど見えないことが気になる。ばらばらになった人々の間に絆をどう築きあげるのか。最後にシスター・アロイシアスが自分の疑念に疑いを持ったことは示されているが、その先に何らかの出口は暗示されていない。その点がやや不満だが、ともあれアメリカを包んでいる闇の濃さが十分伝わってくる作品だった。

「吹けば飛ぶよな男だが」
  喜劇としてはいま一つだ。驚いたのは主人公のなべおさみ。最初出てきたときは寅さんかと思った。顎がとがっているので渥美清ではないとしばらくして気がついたが、顔もタイプも寅さんにそっくり。寅さんの原型か。ヒロインが緑魔子だったのも驚き。ずいぶん久しぶりに彼女を観た。ひょっとして緑魔子かと思ったら、そのとおりだった。2、3本しか彼女の映画は観ていないが、意外にも顔を覚えていた。

 うまいと思ったのは犬塚弘とミヤコ蝶々。犬塚弘はなべおさみの隣の部屋に住んでいるやくざの役。すごみはないが怖いおっさん。ミヤコ蝶々はトルコ風呂の女将。セリフ回しが堂に入っている。こういう役をやらせたらお手のもの。脇役がうまいと映画が締まる。浪花千栄子、杉村春子、沢村貞子など、やり手女将役がぴったりはまる女優が昔はたくさんいたが、今はこういうタイプの女優はいなくなってしまった。懐かしかったのは有島一郎。学校の先生役だがこれがはまっている。喜劇役者がまじめな役を演じている。昔はうまい役者がごろごろいたものだ。

 全くハチャメチャな話だが、どこか寅さん映画を思わせるところがある。最後にちょっとしんみりさせるところもいかにも山田映画だ。しかし寅さん以降の円熟味はまだない。チンピラが主人公なのでギャーギャー喚きまわってうるさいこと。

2009年12月23日 (水)

エキストラ出演した「青燕」のDVDが出ました!

 先日レンタル店で韓国映画の棚を眺めていた時「青燕」のDVDを発見しました。やった、ついに出たか。ずっと気になっていた映画です。というのもこの映画に僕がエキストラとして参加していたからです。その時のことは本館ホームページ「緑の杜のゴブリン」掲載の「韓国映画『青燕』にエキストラ出演」という記事に詳しく書いてあります(「そら日記より」コーナーに収録)。参加したのは04年の5月29日。この映画は韓国初の女性パイロットを描いた映画。日本で訓練を受け、ラストの長距離飛行で韓国に向かう途中事故で墜落死してしまう。

070611_7  事故死してしまったため歴史に埋もれていた女性を発掘してきた映画です。04年の内に編集を終え、05年の正月ごろには日本でも公開される予定でした。しかしいつまでたっても公開されないのでどうしたのかずっと気になっていました。それがある時上田フィルムコミッションのKさんの話を聞いて事情が判明しました。竹島問題で引っかかっていたのです。韓国で上映されたときに、一部の人たちがプラカードを持って映画を観ないよう呼びかけていたりした。そういう事情なので日本の輸入会社も二の足を踏んでいるということのようです。

 政治問題の狭間で1本の映画が宙に浮いてしまった。韓国の映画やドラマが大量に輸入されている影で、政治に翻弄され上映が見合わされている映画があるのです。日本が過去の問題にきちんと決着をつけずにずるずる来てしまっているから、竹島問題にも過去のわだかまりが絡み複雑な問題になってしまう。自分が映っている場面がカットされずに残っているかも気になりましたが、この映画の行方も気になっていました。

 それが劇場未公開のまま12月18日にDVDが発売されていたわけです。ようやく手にした「青燕」。さっそく日曜日に観てみました。映画自体はまあまあの出来といったところでしょうか。いかにも韓国映画らしい恋愛映画的側面に力を入れているために、時代に翻弄された悲運の韓国人女性パイロットという主筋がその分弱まっているように思いました。

 いや、そんなことはともかく、あの場面はカットされずにちゃんと残っているのか、観ながらずっとそれが気がかりでした。ありました、ありました。映画のだいぶ後半の方。外務大臣役の中原丈雄とヒロインのライバルだった日本人女性パイロット役の笛木優子が神社でお参りをする場面が出てきます。その神社が上田の塩野神社(上の写真)で、そこでのシーンを撮る時に僕がエキストラで参加したのです。そして二人がお参りする場面のすぐ後のシーン。中原丈雄と笛木優子が並んで話をしている背後を、僕ともう一人のエキストラの女性が歩いているのがはっきりとわかるではないですか。うちのテレビは43インチの大画面プラズマテレビですが、たぶん普通のテレビでもわかると思います。

Photo  う~ん、僕ともう一人のエキストラの女性は夫婦という設定で、役者の二人がお参りした同じ神社でお参りをして戻ってくるところが背景に小さく映っているのですが、ちょっと二人の間が離れすぎてはいないか。確か助監督のYさんに女性の方は三歩下がって歩くようにとか指示されていたと思うのですが、それにしても離れすぎていて一緒にお参りしたようには見えないかな。もっとも観客はそんなこと気にも留めていないか。ははは。そんなことを気にしているのは自分だけですね。

 まあ、機会があれば「青燕」を観てください。十分楽しめる映画です。その時現場で撮った写真を1枚だけ載せておきましょう。青いスーツに白い帽子をかぶっているのが僕です。

2009年12月22日 (火)

これから観たい&おすすめ映画・DVD(10年1月)

【新作映画】
12月19日公開
 「バチャママの贈りもの」(松下俊文監督、日本・アメリカ・ボリビア)
 「バッタ君町に行く」(41年、デイブ・フライシャー監督、米)
 「のだめカンタービレ 最終楽章前篇」(武内英樹監督、日本)
12月23日公開
 「アバター」(ジェイムズ・キャメロン監督、米)
 「ティンカー・ベルと月の石」(クレイ・ホール、米)
 「よなよなペンギン」(りんたろう監督、日本)
12月26日公開
 「海角七号 君想う、国境の南」(ウェイ・ダーション監督、台湾)
 「ずっとあなたを愛してる」(フィリップ・クローデル監督、仏・独)
 「ヴィクトリア女王 世紀の愛」(ジョン=マルク・バレ監督、英・米)
 「釣りバカ日誌20 ファイナル」(朝原雄三監督、日本)
1月9日公開
 「(500日の)サマー」(マーク・ウェブ監督、米)
 「鏡の中のマヤ・デレン」(マルティナ・クドゥラーチェク監督、オーストリア・チェコ・他)
1月15日公開
 「かいじゅうたちのいるところ」(スパイク・ジョーンズ監督、米)
1月16日公開
 「今度は愛妻家」(行定勲監督、日本)
 「板尾創路の脱獄王」(板尾創路監督、日本)
 「ブルー・ゴールド 狙われた水の真実」(サム・ボッゾ監督、米)
 「ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女」(ニールス・アルデン・オプレブ監督、スウェーデン)

【新作DVD】
12月18日
 「甘いウソ」(チョン・ジョンファ監督、韓国)
 「青燕」(ユン・ジョンチャン監督、韓国)
12月25日
 「湖のほとりで」(アンドレア・モライヨーリ監督、イタリア)
 「映像詩 里山 劇場版」(菊池哲理監督、日本)
1月1日
 「アマルフィ 女神の報酬」(西谷弘監督、日本)
1月6日
 「ノウイング」(アレックス・プロヤス監督、米・英)
1月8日
 「マン・オン・ワイヤー」(ジェイムズ・マーシュ監督、英・米)
 「愛を読むひと」(スティーブン・ダルドリー監督、米・独)
 「ディア・ドクター」(西川美和監督、日本)
 「クララ・シューマン 愛の協奏曲」(ヘルマ・サンダース・ブラームス監督、独・仏・他)
 「太陽のかけら」(ガエル・ガルシア・ベルナル監督、メキシコ)
1月15日
 「ハゲタカ」( 大友啓史監督、日本)
 「トランスポーター3 アンリミテッド」(オリビエ・メガトン監督、仏・英)
 「レスラー」(ダーレン・アロノフスキー監督、アメリカ)
1月20日
 「縞模様のパジャマの少年」(マーク・ハーマン監督、英・米)
 「ウィッチマウンテン 地図から消された山」(アンディ・フィックマン監督、米)  
 「ココ・アヴァン・シャネル」(アンヌ・フォンテーヌ監督、フランス)
 「ココ・シャネル」(クリスチャン・デュゲイ監督、伊・仏・英)
 「ぼくとママの黄色い自転車」(河野圭太監督、日本)
1月21日
 「蟹工船」(SABU監督、日本)
1月22日
 「セントアンナの奇跡」(スパイク・リー監督、米・伊)
1月27日
 「マイケル・ジャクソン THIS IS IT」(ケニー・オルテガ監督、米)
 「キャデラック・レコード 音楽でアメリカを変えた人々の物語」(ダーネル・マーティン監督、米)
1月29日
 「1978年、冬。」(リー・チーシアン監督、中国・日本)
 「ウェディング・ベルを鳴らせ!」(エミール・クストリッツァ監督、セルビア・仏)
2月5日
 「四川のうた」(ジャ・ジャンクー監督、中国・日本)
2月10日
 「グッド・バッド・ウィアード」(キム・ジウン監督、韓国)
 「のんちゃんののり弁」(緒形明監督、日本)
 「クヌート」(マイケル・ジョンソン監督、ドイツ)
2月17日
 「南極料理人」(沖田修一監督、日本)
2月19日
 「私の中のあなた」(ニック・カサベテス監督、アメリカ)

【旧作DVD】
12月24日
 「カミーラ あなたといた夏」(94、ディーバ・メータ監督、カナダ・イギリス)
12月25日
 「私は殺される」(48、アナトール・リトバック監督、米)
12月26日
 「薔薇の貴婦人」(86、マウロ・ボロニーニ監督、イタリア)
12月29日
 「1984」(56、マイケル・アンダーソン監督、英)
1月6日
 「ヒンデンブルグ」(75、ロバート・ワイズ監督、米)
2月3日
 「禁じられた抱擁」(63、ダミアノ・ダミアニ監督、仏・伊)

 年末から新年にかけての時期なのでかなり充実したラインナップだ。まず劇場新作では、「海角七号 君想う、国境の南」、「ずっとあなたを愛してる」、「かいじゅうたちのいるところ」、ドキュメンタリー「ブルー・ゴールド 狙われた水の真実」、そして名作アニメのリバイバル「バッタ君町に行く」あたりが面白そうだ。

 新作DVDでは「湖のほとりで」、「ディア・ドクター」、「縞模様のパジャマの少年」、「セントアンナの奇跡」、「1978年、冬。」、「ウェディング・ベルを鳴らせ!」、「四川のうた」、「グッド・バッド・ウィアード」あたりに期待したい。

 旧作DVDはいま一つインパクトに欠けるか。特におすすめできるものはない。まだまだ出してほしい傑作はかなりあるが、まあちょっと一息というところか。

2009年12月 1日 (火)

先月観た映画(09年10月)

「未来を写した子どもたち」(04、ロス・カウフマン、ザナ・ブリスキ監督、米)★★★★★
「イースタン・プロミス」(07、デビッド・クローネンバーグ監督、英・米・加)★★★★☆
「ジプシー・キャラバン」(06、ジャスミン・デラル監督、米)★★★★☆
「2番目のキス」(05、ボビー・ファレリー&ピーター・ファレリー監督、米)★★★☆
「爆音」(39、田坂具隆監督、日本)★★★☆
「ゴジラ」(54、本多猪四郎監督、日本)★★★

 今回もまた「先々月観た映画」になってしまった。仕事ばかりか身辺も忙しくなってなかなか落ち着いて映画も観られないし、ましてやじっくりレビューを書いている時間も取れない日々が続いています。10月に観た映画は僅か6本。しかし2本の優れたドキュメンタリー「未来を写した子どもたち」と「ジプシー・キャラバン」、そして「イースタン・プロミス」を観ることができたのは成果でした。

 「未来を写した子どもたち」は書いているうちに長くなってしまったので、レビューに格上げしました。そちらをご覧ください。他の作品はメモも取っていないし記憶もだいぶ薄れていますので短い感想のみしか載せられませんでした。

「イースタン・プロミス」
  この手の映画は最近あまり観ないが、これは文句なしの傑作だと思った。「アパルーサの決闘」では今一つ迫力に欠けたヴィゴ・モーテンセンのハードボイルドなたたずまいが実にカッコいい。冷酷なようでいて、どこか人間味も感じる。実に微妙な役を見事に演じている。冒頭いきなり床屋でロシア人が殺され、妊娠した14歳の少女が子供を産んで病院で死ぬ。一体この二つはどうつながるのか。

  助産婦のナオミ・ワッツが死んだ少女の身元を探しているうちに危険なロシア人に近づいてしまう。そのロシア人のところで運転手をしているのがヴィゴ・モーテンセンである。ハラハラする展開だが、胸が悪くなることはない。ヴィゴ・モーテンセンがサウナで二人の男に襲われ、素っ裸で格闘するシーンがすごい。

「ジプシー・キャラバン」
090525_99  「ヤング@ハート」に続いてすぐれた音楽ドキュメンタリーを観た。トニー・ガトリフの映画でおなじみのジプシー音楽。その音楽性の素晴らしさばかりではなく、彼らの音楽に染みこんでいる彼らの民族性、その迫害の歴史をきちんと描きこんでいることがこの作品を単に貴重な記録であるだけではなく、優れた映画作品にしている。そしてその民族と音楽の多様性をしっかりと描きこんでいる。ロマのルーツであるインドの音楽にロマの魂を注ぎ込んだ「マハラジャ」、ルーマニアの名門バンド「タラフ・ドゥ・ハイドゥークス」(トニー・ガトリフ「ラッチョ・ドロム」にも出演している)の独特の民族音楽、ギリシャの歌姫エスマの魂の叫びとも言うべき歌声。他にも「アントニオ・エル・ピパ・フラメンコ・アンサンブル」、12人編成の超高速ブラスバンド「ファンファーラ・チョクルリーア」などがキャラバンに参加している。

   この映画を見ればロマのルーツがインドだということが分かるような気がする。そしてミュージシャンたちの人間臭い一面が画面に映し出されている。彼らを美化しないそういう描き方もいい。監督のジャスミン・デラルはイギリスに育ち、子供時代の多くを南インドの村で過ごし、大人になってからはほとんど合衆国で暮らしている。ドキュメンタリーを得意とし、またロマの文化にも関心を持つ。「ジプシー・キャラバン」の前には「アメリカン・ジプシー」を撮っている。

「2番目のキス」
  昨年1カ月ほど過ごしたボストンが舞台の映画だというので観てみた。コメディー調の軽いラブ・ロマンス。ドリュー・バリモアの相手役が熱烈なボストン・レッドソックスのファンという設定がいかにもボストンを舞台にした映画らしくて面白い。特に優れた作品ではないが、十分楽しめる。ただラストの球場での展開はいかにもハリウッド映画といった感じでやや興ざめ。

「爆音」
090529   上田市仁古田に「月のテーブル」という喫茶店がある。立派なお屋敷の一部を喫茶店に改装したものだが、「爆音」(田坂具隆監督)はその田中邸でロケをしている。何とものんびりした映画で、息子が11時に飛行機に乗って飛んでくるとふれまわる村長と村人たちの反応を描いた風俗喜劇。傑作というほどではないが、十分楽しめた。上田周辺でロケをした作品で、田中邸の他に八木沢の法輪寺、舌喰池、生田の吉池邸などでロケをしている。

「ゴジラ」
  デアゴスティーニから出ている『東宝特撮映画』シリーズ第1巻付録のDVDで観た。画像は思ったよりきれいなので安心した。前に観たつもりだったが、全く見覚えがない。どうやら初めて観たようだ。こんな話だったとは驚いた。漠然と思っていたのとは全く違う展開。オキシジェン・デストロイヤーには笑ってしまう。それにしても最後にゴジラが骨だけになって崩れ落ちるとは!

 怪獣映画をよく観たのはもちろん子ども時代。おそらく最初に観たのは「キングコング対ゴジラ」。面白くて怖くて大好きだった。以来モスラ、ガメラ、ラドン、キングギドラなどの怪獣映画に夢中になった。大魔神を観たのもそのころだろう。

 今観るとお粗末なところも多々ある映画だが、ゴジラには親近感がある。というのも、「ゴジラ」が作られたのは僕が生まれた年だからである。したがって上映時には観ていない。その後ビデオで観たように思っていたが、どうやら違ったようだ。

 今回わざわざ「ゴジラ」を観たのは僕の記憶の中にある一つのシーンを確かめたかったからである。確か映画の冒頭、南海の海底でゴジラが氷づけになっているシーンがあったはずだ。その海底のシーンが黄色い光を帯びていたように記憶している。それが実に不気味なシーンだった。そのシーンを観たかったのである。しかし「ゴジラ」には全くそんなシーンは出てこない。してみると、あれは「キングコング対ゴジラ」の冒頭シーンだったのか。う~ん、気になる。「キングコング対ゴジラ」も観ないといけないだろうか。まだ書店にあるかなあ。

未来を写した子どもたち

2004年 アメリカ 2008年11月公開
評価:★★★★★
監督:ロス・カウフマン、ザナ・ブリスキ
撮影:ロス・カウフマン、ザナ・ブリスキ
編集:ナンシー・ベイカー、ロス・カウフマン
音楽:ジョン・マクダウェル 出演:コーチ、アヴィジット、ゴウル、シャンティ
    マニク、タパシ、ザナ・ブリスキ

090522_14   これは傑作だった。このところのドキュメンタリーの充実ぶりはすごい。「アース」、「ヒロシマナガサキ」、「シッコ」、「延安の娘」、「蟻の兵隊」、「ミリキタニの猫」、「ヤング@ハート」。去年から今年にかけて観たドキュメンタリー映画はどれも力作だ。これらに先月観た「未来を写した子どもたち」と「ジプシー・キャラバン」が加わった。まだまだ見逃しているドキュメンタリー映画が多いことを考えると、世界各地で社会の矛盾が噴き出し、同時に新しい動きが生まれつつある今の時代はドキュメンタリーの傑作が生まれ得る時代だといえるだろう。社会が変動するとき現実がフィクションを、そして想像力を超えてしまう。疲弊しマンネリ化した想像力とフィクションを救うには現実という豊かな大地に横たわり、そこから力を得ることが必要だろう。現実から力を得てこそ想像力とフィクションはより高く羽ばたくことができる。

  さて、本題の「未来を写した子どもたち」。この映画の主人公はコルカタ(旧カルカッタ)の売春街に住む子供たちと、彼らに未来の希望を持たせようと写真を教え、さらには彼らが学校教育を受けられるように奔走したイギリス人女性ザナ・ブリスキである。そもそもの発端は、1998年に売春窟の女性たちの写真を撮るためにインドに渡ったザナ・ブリスキが売春窟に生きる子供たちを「発見」したことにある。おそらくその時彼女は売春をしている母親たち以上に魅力的な「素材」を見出したのである。

 売春窟に生きる子供たちの現実と未来は悲惨なものだった。貧しく教養もない大人たちに囲まれて育ち、しょっちゅう汚い言葉を親たちから浴びせられて育ってきた。子供のうちから水くみや食器洗いをさせられ(客から代金を取り立てている子もいる)、親がどんな商売をしているのかもうすうす知っている。女の子たちはいずれ自分も同じことをするようになることを理解している。「パパはあたしを売ろうとした。お姉ちゃんが助けてくれなければ売られてた。ママみたいな大人になるのが怖い。」(シャンティ)しかし重要なことは、決してその子供たち全てが自分の悲惨な運命に打ちひしがれ、暗い表情を浮かべているわけではないことである。むしろそんな境遇の中で彼らなりにたくましく生きていたのだろう。しかも子供らしい人懐っこさを失わず、ときには無邪気な笑みを浮かべて。だからこそザナ・ブリスキは子供たちに魅せられ、彼らに未来と希望を与えるために写真教室を始めたである。

  売春が日常の世界。しかしそこは必ずしも地獄ではなかった。きわめて特殊な世界ではあるが、そこで営まれていたのは他でもない生活活動なのである。人と金が行きかい、汚い言葉が飛び交い、淫靡ではあるが汗臭いほどの活気もある生活。劣悪な環境であることは間違いないが、それでもそんな環境が子供たちの顔から笑みを奪っていないことにまず感銘を受ける。むしろ親が十分かまってくれない分子どもたちはある程度自立し早熟になる。普通の子供より早い段階で社会の現実を見てきた子供たちは驚くほど大人びた発言をする。「お金持ちになりたいとは思わないな。どんなに貧乏だって幸せにはなれると思うから。受け入れなくちゃ。悲しいことや苦しいことも人生だもんね。」(タパシ)

090228_26   子供たちの中で最も大人びているのはゴウルという子だ。終始落ち着いた話しぶりで、その哲学者然とした考え深げな顔(稲垣吾郎に似ている)は実に印象的だった。彼の発言はとても小学生くらいの子供の言葉とは思えない。「いつかプージャの家に行ったらおじさんがおばさんを折檻してた。お酒を買うお金を渡さなかったからだって。それで怒って殴ってた。できることならプージャをここから連れ出したい。このままじゃ“街の女”だ。麻薬をやったり人の金を盗むようになる。」

  子供たちがザナ・ブリスキの写真教室に集まってきたのは、そこに彼らの日常生活にない新しい、そしてワクワクする世界があったからだろう。意識していたかどうかにかかわらず、現状から一歩外に踏み出す魅力と可能性がそこにあったからだろう。しかもこの子たちは何かを求めて集まってきただけではなく、驚くべきことに意外な才能まで発揮して見せるのである。

  インスタントカメラを手に持って、彼らは街に飛び出して思い思いの写真を撮ってくる。その写真が実に素晴らしいのだ。僕自身も写真日記のブログ(「ゴブリンのつれづれ写真日記」)を書き始めて2年たつが、子供たちの写真の新鮮さとインパクトには正直驚いた。風景の一部を切り取ったりもしているが、とりわけ印象深いのは人物を多く撮っていることだ。カメラをもって街を歩いてみればわかるが、風景や建物を撮るのは容易だが、なかなか人を撮ることはできない。勝手に撮るわけにはいかないし、いちいち許可を得るのは面倒だ。許可を得ても、撮ると分かっていれば相手は身構えてしまうので自然な写真は撮れない。子供たちだから気軽に互いを撮り合ったり、たとえ相手が大人でも相手に警戒を与えずに写真を撮ることができるのである。そしてその写真に写っている人たちはみな生き生きとしているのである。

  「未来を写した子どもたち」はインドの現実の一部を鋭く切り取った映画だが、子供たちもまたインスタントカメラを通してインドの現実を切り取っていた。子供たち独特の新鮮な目で。カメラはきれいなものばかりに向けられているわけではない。例の哲学者のようなゴウルがこの点でも興味深い発言をしている。「ここは田舎と違ってすごく汚い。お皿の隣に靴がある。田舎じゃ見たことない。そういう生活をありのままに撮りたい。」玄関の靴の横に食べ散らかした食べ物と食器が転がっている彼の写真には人間は写っていない。にもかかわらずその人間たちの生活がその写真から読み取れてしまうのだ。

 小さいころから絵が得意だったというアヴィジット(現在ニューヨーク大でカメラを学んでいる)という子の写真もすごい。この子はまれに見る才能を持っている。アングルや目の付けどころが実に独特で、10代にしてプロ並みの感覚と感性を持っている。この子たちの才能を引き出したザナ・ブリスキの才能と指導の的確さも称賛されるべきだろう。写真教室は週に1回。撮影だけではなく、編集や批評もし合っている。率直に意見を言い合い、かつ他人の才能を認め合うことで飛躍的に子供たちの感性(柔軟で自由な発想と物を見る目)と技術は高まっていったのだろう。しかし感性と技術を磨くだけではおのずから限界ができてしまう。視野を広げるために新鮮な体験が必要だ。狭い馴染みの地域を飛び出し、ザナは子供たちを動物園や海に連れて行った。はしゃぎまわり、互いの写真を撮り合う子供たち。子供たちは写真を通じて自分たちの視野と世界を広げていったのである。

  しかしこれだけ生き生きと写真を撮り才能を発揮している子供たちに、それにふさわしい未来は保証されていない。ザナ・ブリスキは何とか子どもたちが教育を受けられるよう努力し始める。ここから映画の焦点がザナ・ブリスキの活動に向けられてゆく。「非力な大人たちが子供たちの未来を奪う」とザナ・ブリスキが語っているように、最大の障害は親たちや社会の無理解と偏見である。彼女は子供たちの学費にするために子供たちが撮った写真を売り、写真の展覧会を開くなど孤軍奮闘で奔走する。子供たちもにわかに光が差してきた未来にあらかじめ定められた道筋から脱却する夢を膨らませる。コーチという女の子が言った言葉がその真剣な思いを伝えている。「もしこの町を出て学校で勉強出来たら、すてきな未来が待っているんだろうな。」他の子たちだってみな同じ気持ちだったろう。同じ希望を持ちながら結局学校に行けなかった子たち、あるいはいったん入学しながらも様々な事情で退学していった子供たちの無念さを思うと胸が締め付けられる。

091004_135  売春窟に住んでいるというハンディは大きく、彼らを受け入れてくれる学校を簡単には見つけられない。面倒な書類をそろえ、かつエイズの検査を強要されるなど彼女の前には幾重もの障害が立ちふさがった。それでも彼女はそれらの壁を一つずつ越えていった。ついに彼女の努力が実って何人かの子供は寄宿制の学校への入学が許された。それだけではない、もっとも才能があったゴウルとアヴィジットは「子ども写真展」が開かれるアムステルダムにインド代表として招待されることが決まった。しかし、ここでもまた様々な障害が立ちふさがった。売春窟に住んでいる彼らがパスポートを取るのは容易なことではなかった。彼女と子供たちはその壁も乗り越えた。この映画のラストは初めて行ったアムステルダムで楽しそうにはしゃぐ二人の姿が映される。後半はザナ・ブリスキに大きく焦点が当てられているが、何といっても一番の主人公は子供たちなのである。

  もしザナ・ブリスキにより大きな焦点を当てていたら、あるいは子供たち中心の前半とザナ・ブリスキ中心の後半を入れ替えていたら、この映画の印象はだいぶ変わっていたかもしれない。子供たちとザナに共に焦点を当てつつも、一貫して子供たちこそ主人公という姿勢を貫いたからこの映画は優れたものになった。ザナの努力は立派であり敬服に値するが、一方でごく一部の子供たちを救っても現状は変えられないという問題があるからだ。「ナイロビの蜂」に出てくる「目の前の一人を助けたところでどうなる。ああいう人は、他に何千、何万といるんだ」という言葉。一人二人を救っても根本的な解決にはならない。それは確かに事実なのだ。

  しかしザナの努力は無駄だったというのも言い過ぎだろう。さまざまな要因が複雑に絡み合って生まれた現状を一気に変えることは難しい。小さな努力の積み重ねがやがて重大な変革期と重なった時に大きなうねりになる可能性はある。もちろん大概は泡のように生まれては消えてゆくことになるだろう。現にせっかく学校に入学した子供たちの何人かはそれぞれの事情で学校をやめている。ザナの努力が今後どのように実を結び波紋を広げてゆくのかはわからない。社会を大きく変えることはないにしても、彼女のような努力を続けている個人や団体は今も世界中にあるし、これからも生まれてくるだろう。この映画自体がそういう活動の延長線上に生まれた成果である。

 ザナも立派だが、やはりこの映画で一番印象に残るのは子供たちだろう。あのような境遇の中で育った子供たちの中にも優れた才能を持った子供たちがいること、そしてその中の何人かは今も才能を伸ばそうと努力していることをいつまでも記憶にとどめておきたい。

« 2009年11月 | トップページ | 2010年1月 »