「チェンジリング」(08、クリント・イーストウッド監督、アメリカ)★★★★★
「ヤング@ハート」(07、スティーヴン・ウォーカー監督、イギリス)★★★★★
「グラン・トリノ」(08、クリント・イーストウッド監督、アメリカ)★★★★★
「ホルテンさんのはじめての冒険」(07、ベント・ハーメル監督、ノルウェー)★★★★☆
「ワルキューレ」(08、ブライアン・シンガー監督、アメリカ・ドイツ)★★★★☆
「ここに幸あり」(06、オタール・イオセリアーニ監督、仏・伊・露)★★★★
「画家と庭師とカンパーニュ」(07、ジャン・ベッケル監督、仏)★★★★
「レッドクリフ Part II」(09、ジョン・ウー監督、アメリカ・中国・他)★★★★
このところなかなか集中して映画レビューに取り掛かる時間が取れません。事実上休止状態が続いていました。この「先月観た映画(09年9月)」もタッチの差で「先々月観た映画」になってしまいました(涙)。
先月観た映画は上記の8本。数としてはまあまあでしょうか。しかし内容は充実していました。満点を付けた映画が3本もあります。うち2本はクリント・イーストウッド監督作品。「ミリオンダラー・ベイビー」以降はまさに破竹の勢い。どれも高水準の作品ばかり。「ヤング@ハート」はレビューを書きましたのでそちらを参照してください。
ほかも4つ星半(ここまでは傑作レベル)が2本、4つ星(佳作)が3本。8本すべてが4つ星以上ですから相当充実していたと言っていいでしょう。「チェンジリング」、「グラン・トリノ」、「ホルテンさんのはじめての冒険」あたりはなんとか本格レビューを書きたいと思っていたのですが、もうだいぶ時間がたってしまい記憶も褪せてきていますので断念せざるをえません。いつか観直す機会があればレビューを書くかもしれません。
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「チェンジリング」
クリント・イーストウッド。数々のスターを輩出したハリウッドでもこれほど長い間第一線で活躍し続けている人物は珍しいだろう。なにしろ彼は僕が子供のころ既にスターだったのだ。
これは「ミリオンダラー・ベイビー」のレビューを書いた時の書き出しである。僕が小学生のころ既にクリント・イーストウッドはTV西部劇「ローハイド」のヒーローだったのである。これほど長い間第一線で活躍している映画人は他にいない。小学生以来だからクリント・イーストウッドとはもう40年以上の付き合いになる。
「ローハイド」の後はマカロニ・ウエスタン時代(「荒野の用心棒」はこの時代の代表作)が続く。そして言わずと知れた「ダーティーハリー」シリーズ。これで一気にスターから大スターになった。それから後は「ミリオンダラー・ベイビー」のレビューをもう一度引用しよう。
その後しばらく80年代ぐらいまでは「ダーティーハリー」シリーズの印象が強く、ややマンネリの印象を持っていた。88年の「バード」でジャズの世界を描き、方向転換をした感じを受けた。監督業にも手を出していると意識し始めたのもこの頃か。実は既に71年の「恐怖のメロディ」から監督をやっていたのだが、まだこの頃までは俳優のイメージが強かった。本格的に監督になったと感じたのは92年の「許されざる者」あたりからだが、「マディソン郡の橋」(95年)、「スペース・カウボーイ」(2000年)、「ミスティック・リバー」(03年)とどれも作品としては今一だった。この頃はだいぶ枯れてきて、俳優としては昔とはまた別の味が出てきてよかったのだが、監督としてはまだたいしたことはないという認識だった。それがやっと「ミリオンダラー・ベイビー」で花開いた。
「ミリオンダラー・ベイビー」以降は平均してどれもすぐれた作品ばかり。低迷気味だった80年代を除いて、60、70、90、2000年代とそれぞれの時代に代表作があると言うのはすごいことだ。しかも晩年に入り傑作を連発するというのはこれまた世界でも稀有なことである。参考までに、クリント・イーストウッドの代表作品(主演と監督を両方含めて)を挙げておこう。
「グラン・トリノ」 (2008)
「チェンジリング」 (2008)
「父親たちの星条旗」 (2006)
「硫黄島からの手紙」 (2006)
「ミリオンダラー・ベイビー」 (2004
「スペース カウボーイ」 (2000)
「ザ・シークレット・サービス」 (1993)
「バード」 (1988)
「アルカトラズからの脱出」 (1979)
「ガントレット」 (1977)
「ダーティハリー」 (1971)
「夕陽のガンマン」 (1965)
「荒野の用心棒」 (1964)
「チェンジリング」はまず何より1920年代におけるロサンゼルス市警の横暴で腐敗しきった実態に衝撃を受ける作品である。その意味で「ボーダータウン 報道されない殺人者」や「闇の子供たち」などの作品と共通するものがある。しかし映画としての出来栄え、その完成度はその2作をかなり上回る。「ボーダータウン」と「闇の子供たち」は衝撃的な事実を示すことに力点を置きすぎたためドラマの部分が弱かった。不自然な描写があったり、劇的な展開を作ろうとしてハリウッド調になってしまったりしていた。
「チェンジリング」はヒロインであるクリスティン・コリンズ(アンジェリーナ・ジョリー)の人間的葛藤に焦点を当てているため、人間ドラマとして他の2作よりも深められている。警察の信じられないような実態をリアルに描くこととクリスティンの葛藤とが常に結び付けて描かれている。その点が前述の2作と「チェンジリング」の違いであり、「チェンジリング」の作品としての完成度が前2作を上回っている理由である。
警察のそもそもの大失態は発見された子供が間違いなくウォルターであると確認するのを怠ったことである。普通ならまず母親に間違いなく自分の子供であるか確認させ、その上で行方不明の子供が発見されたと公表するはずである。では、なぜそうしたなかったのか。当時ロサンゼルス市警は汚職まみれの上に、銃撃隊という影の組織があって気に入らない連中を射殺しているとマスコミや市民から批判されていた。行方不明の子供を発見した「快挙」は警察の名誉を挽回する絶好の機会だった。だから前もって確認もせず、汽車から降りてきた「息子」と母親の感動の再会シーンをマスコミに取材させ、警察の手柄を大々的にアピールしようと目論んだのである。
しかしその子は全くの別人だった。J・J・ジョーンズ警部(ジェフリー・ドノヴァン)はあわてただろうが、ここまでマスコミをあおりたてた挙げ句に、「人違いでした」とは絶対に言えない。警察の面目丸つぶれである。アピールどころか大失態だ。そこでとにかく母親のクリスティンを無理やり説き伏せて、母と子の感動の再会場面をでっちあげてしまった。そうなった以上もう後には引けない。「あれは自分の子ではない」というクリスティンの訴えをとことん否定するしかない。事件の真相や子供を失った母親の悲しみなど見て見ぬふり、警察の体面を保つことにだけ躍起になる。こうしてJ・J・ジョーンズ警部とロサンゼルス市警は坂道を転がり落ちていった。
あくまで発見された子は息子ではないと主張するクリスティンをJ・J・ジョーンズ警部は口封じのために精神病院に放りこんでしまう。そんななりふり構わぬ人権無視がなぜできたか。そこには権力を笠に着た警察のおごりと首までどっぷり汚職につかった感覚の麻痺があった。
クリスティンも決して警察に盾突いたわけではない。最後まで警察を頼りとして、本当の息子を探してくれて何度も頼みに行った。彼女の行動が感動を与えるのは、最後まで息子の生存を信じ行動を続けたからである。
やがて、意外な方面からウォルターも巻き込まれたと思われる連続殺人事件の犯人が浮かび上がり逮捕される。その後、同時並行して行われる殺人犯の裁判とロサンゼルス市警の腐敗をただす公聴会、連続殺人犯の死刑執行とその前日のクリスティンとの面会。次々とめまぐるしく展開してゆく。サスペンス的な緊張感は最後まで持続する。最後まで組織対個人、個人の無力さと権力を持った組織の横暴さというテーマを追求しているところは立派である。同時に、常にクリスティンの内的葛藤に焦点を当てていたことがこの作品を単なる告発ものに終わらせていない。どうして子供を一人っきりにしたのか。こういうときの母親はまず自分を責めてしまう。その気持ちが切ない。偽物の「息子」が発見されて以降はどこかで生きているに違いない息子を何としてでも探し出そうと必死に警察に食い下がる。その一途な思いが観る者をどんどん引っ張ってゆく。
しかし連続殺人犯ゴードン・ノースコット(ジェイソン・バトラー・ハーナー)の裁判以降は彼の犠牲者の中に息子が含まれていたのかどうかという疑問が彼女の心にのしかかる。自分の息子はどこかで生きているという気持ちが揺らぎ、言を左右するゴードン・ノースコットの態度にクリスティンの心は翻弄され、かき乱される。
結局息子はゴードン・ノースコットの手にかかって殺されたのかどうか最後まで分からない。観客は不安で落ち着かない気持ちのまま映画は終わる。ウォルターの誘拐事件とゴードン・ノースコットによる連続児童誘拐殺人事件を並行して描くことによって、映画はゴードン・ノースコット事件の犠牲者の中にウォルターも含まれていると暗示しているように思われる。しかし一方でクリスティンは犠牲者の中にウォルターも含まれていたという明確な証拠がないため、息子はどこかで生きているという気持ちを変えない。
このラストは、ここに至っても息子の死を認めようとしないクリスティンの狂信的な思い込みに皮肉な視線を向けているようにも思える。しかしイーストウッドの意図はそこにあったのではないだろう。最後まで息子の生存を信じ続けた母親の姿を冷静に見つめ続けたと考えるべきではないか。
「グラン・トリノ」
この映画は「ダーティハリー」、「夕陽のガンマン」、「荒野の用心棒」といったイーストウッドに切り離しがたくまとわりついているイメージを下敷きにしている映画である。隣に住むモン族の少年タオを不良グループから救うために立ち上がる朝鮮戦争帰還兵コワルスキー。正義の男が立ち上がり、タオやその姉のスーを何度か町の不良グループから救う。一度は銃を使って脅した。
典型的なヒーロー映画のパターンだ。しかしこの映画はお約束のパターンを踏みながらも、一方でそのパターンを崩してゆく。コワルスキーは雄々しいヒーローどころか長年勤めたフォードの工場を引退した孤独な老人にすぎない。バタバタと敵を倒す超人的な力はない。新しく近所に住み着いた外国の移民たちには強い偏見を持っている偏屈なオヤジだ(妻にも先立たれ、いつの間にか近所に知り合いもいなくなっていた)。
老人にしてはシャキッとしてはいるが、西部劇のヒーローのような精悍さはもちろんない。朝鮮戦争に従軍した経験は彼を殺人マシーンに変えたのではなく、むしろ朝鮮で若い敵兵を殺したことが生涯消えないトラウマになっている。「生より死に詳しい」と牧師に言われるほどだ。このように人物設定をヒーロー物のパターンからことごとくひっくり返してみせる。それでいて観客は無意識のうちにコワルスキーがダーティハリーのように悪党どもをやっつけてくれることを今かいまかと待ち望んでいる。そして最後まで「グラン・トリノ」はその期待を引き延ばし、かつ裏切る。そういう作りになっている。
つまり、「グラン・トリノ」はヒーロー物のパターンを下地にしたアンチ・ヒーロー映画なのである。単にイーストウッドが年をとったというだけではない。時代が単純なヒーロー像を求めなくなってきたのである。暴力で悪を倒す時代は終わった(その手の映画はまだまだ作られてはいるが)。その意味でこの映画を「ポスト9.11映画」の枠内に入れることは可能だろう。
イーストウッド中心の映画だが、タオの姉のスーがうまく描かれている。不良仲間に引きずられている弟のことを嘆いて言うセリフがいい。「男は女より順応性がないから。女の子は大学、男の子は刑務所。」男が腕力にものを言わせて肩で風を切って歩く時代はとうに過ぎてしまった。コワルスキーはまさに消えゆくヒーローの最後の世代なのだ。
優れた映画だが、偏屈なコワルスキーがあまりにも簡単にタオやスーに親近感を持ってしまうあたりは物足りない。その分「チェンジリング」よりやや劣ると感じたが、大甘で満点をつけた。
「ホルテンさんのはじめての冒険」
スウェーデン、ノルウェー、フィンランド、デンマーク、そしてアイスランド。1970年代までは北欧の映画と言えばスウェーデンのイングマル・ベルイマン監督とデンマークのカール・ドライエル監督くらいしか思い浮かばなかった。80年代以降になってやっとこの二人の巨匠以外の映画が少しずつ入ってくるようになった。特に2000年以降になって増えてきている。まだまだ日本ではなじみの少ない国々だが少しずつ知られるようになってきた。ただ、このところの不況のあおりでミニ・シアター系がどこも苦戦しているという。ほとんどミニ・シアター系で公開されるこれらの国の映画がまた遠のくことがなければいいが。
さて、「ホルテンさんのはじめての冒険」は「キッチン・ストーリー」で知られるベント・ハーメル監督の作品。当然期待して観たが、その期待は裏切られなかった。いかにも北欧らしいゆったりとしたペースの映画。とぼけた味わいも健在だ。しかし「ホルテンさんのはじめての冒険」の場合は「キッチン・ストーリー」よりもっとシュールな味わいになっている。なじみのレストランでビールを飲んでいるといきなりシェフが逮捕されるエピソード。観客はあっけにとられるが、ホルテンさんは全く動じない。一体何がどうなっているんだと観客がキツネにつままれた思いでいる間にさっさと場面は切り替わってしまう。何とも不思議で新鮮な感覚。その乾いた演出が妙に可笑しい。さらに可笑しいのは、寒い夜に凍った坂道にさしかかったホルテンが転ばないように柱につかまって動けないでいる横を、一人の男が道路に座った姿勢で坂道を滑り降りてゆくシーン。何ともシュールな場面だった。こういった妙に滑稽なシーンがあちこちに短く差しはさまれる。
シュールな場面が一番集中するのは空港でのエピソード。ホルテンは空港で働くフローという男を探しに行くが、すれ違いが続いてなかなか会えない。ホルテンはあちこち右往左往するが、そんな中彼が直立した姿勢でちゃっかりカートに乗せてもらって移動している短いカットが2、3度さしはさまれる。これには笑ってしまった。かと思うと麻薬など持っていないのに機械が反応し麻薬の売人と間違われ、別室に連れていかれると手にゴム手袋をはめながら空港の係官が近づいてくる。しかし次のシーンでは何事もなかったかのように相変わらずフローを探すホルテンの姿が映される。何があってもあわてず、表情一つ変えない。21世紀のバスター・キートンとでもいいたくなるこの人物造形。この監督のユーモアのセンスは実に独特だ。
こういったシュールな演出がピリッと効いて、しかも作品全体の流れとうまくマッチしている。なぜならホルテンが経験した数日間は彼の人生の中で最も非日常的な数日間だったからだ。それまで真面目一方の鉄道員として働いてきたホルテンはついに定年退職の日を迎えた。仲間に祝ってもらい、さらに飲み会に付き合わされる。しかし煙草を買いに行ったために一人遅れて同僚のアパート(そこが飲み会の会場だった)に入ろうとすると、正面玄関で暗証番号を押してもドアが開かない。そのまま家に帰っていれば彼は翌日いつものように最後の日を迎えられただろう。しかし行き掛かり上何とか友人のアパートへ行こうとした。たまたまそのビルは工事中で、ホルテンは工事の足場を上ってゆく。最上階の1階下で行き止まり。たまたま開いていたドアから入ると、子供に呼び止められる。
このドアを開けた時からホルテンはそれまでの長い人生で一度も経験したことがなかった非日常的でシュールな世界に入り込んでしまう。「ホルテンさんのはじめての冒険」は鉄道のことしか知らず、(おそらく)家族もなく潤いに欠ける人生を歩んできた男が、初めて「鉄道の軌道」からそれて新たな世界へ踏み込んだ数日間を描いている。
新しい人生に一歩踏み出したとたんそれまで真剣に見つめようとしていなかった自分の人生の裏側や自分が見落としていた世間が見えてくる。スキー・ジャンパーだった母を持ちながらスキーから逃げていた自分。自分がいなくてもいつも通り電車は運行されているという現実。シッセネールという不思議な人物との出会い。その会ったばかりのシッセネールの突然の死。使い慣れたパイプの紛失。仕方なく新しいのを買おうと馴染みのパイプ屋へ行けば、いつも応対してくれた主人は亡くなっていた。「死も人生の一部ですわ」というパイプ屋の奥さんの言葉。人生の翳りが定年を迎えたホルテンを包んでゆく。
さまざまな出来事が走馬灯のように通り過ぎてゆき、わずか数日間にさまざまなことを経験した。最後にホルテンは新しい人生に向けて「飛ぶ」ことを決意する。彼の背中を押したのはシッセネールの言葉だった。「人生は手遅ればかりだ、違うか。逆に言えば何にでも間に合う。」母はスキージャンプをやっていたが、自分は勇気がなくてやらなかったとホルテンが言うのを受けて、シッセネールが言った言葉だ。
シッセネールのスキー板をはいてジャンプ台から滑り降りたホルテンの先には一人の女性が待っていた。ホルテンが「飛んだ」直後にトンネルを抜けた列車がまばゆいばかりの白銀の世界に出てゆく映像が映し出される。人生における重要なターニング・ポイントを前向きに乗り越えてゆく展開に共感を覚えた。
「ワルキューレ」
ナチスに抵抗し反逆者として有罪判決を受けた旧軍人たちの存在は、ドイツの最後のタブーとされてきた。彼らは判決の見直しをされないまま、戦後の64年間にわたり「犯罪者」として扱われてきた。それがようやく今年の9月7日に、ドイツ連邦議会(下院)の本会議で「国家反逆者」として言い渡された有罪判決を一律に取り消す「包括的名誉回復法案」が成立した。長い間忘れられていたナチス裁判による犠牲者の名誉がようやく回復されたのである。トム・クルーズ主演の「ワルキューレ」も採択を促す世論を喚起したと言われている。ラストの字幕に出る「自由と正義と名誉のために抵抗し命を犠牲にした者はなにも恥じることはない」というベルリン抵抗運動記念碑からの引用は、彼らが実際に名誉回復されたことと重ね合わせてみるとなおさら感慨深いものがある。
ドイツではなくアメリカとドイツの制作なのが気になったが、期待以上の力作だった。全編に緊張感が絶えることなく漲っている。失敗すると分かっていても、ハラハラして見守ってしまう。見事な演出だった。久々に見たトム・クルーズはなかなか精悍で、役柄の重さにつぶされることなく最後まで演じ切った。ただサスペンスに力を入れているために、なぜこれだけ多くの人たちがヒトラー暗殺に加担したのかが十分描かれてはいないと感じた。
最後に印象に残ったケネス・ブラナーのセリフを一つ引用しておこう。「神は”10人の高潔な人間がいればソドムは滅ぼさぬ”と言った。今のドイツにはたった一人いればいい。」
「ここに幸あり」
最初に観たオタール・イオセリアーニの作品は「落葉」。82年に岩波ホールで観ている。まだ故郷グルジアにいたころに作った作品である。次に観たのが「月曜日に乾杯!」。これは2004年に観た。「ここに幸あり」は3本目に観た作品である。DVD-BOX「オタール・イオセリアーニ・コレクション」(「群盗、第七章」、「蝶採り」、「歌うつぐみがおりました」、「四月」を収録)は何年か前に手に入れたが、まだ観ていない(どういうわけか、BOXで買うとなかなか観る気にならない)。
「ここに幸あり」はメル・ブルックスの「逆転人生」やジャック・ニコルソン主演の「アバウト・シュミット」を連想させる映画だが、そこはオタール・イオセリアーニ、彼らしい淡々とした映画に仕上げている。あまりに淡々としていて物足りないくらいだ。それでも最後まで観ていると次第に主人公たちに共感してくるようになるからさすがだ。「月曜日に乾杯!」の短評の最後に「小津とはまた違った日常の描き方の文法を発明している」と書いたが、その独特の映画文法はこの作品でも健在である。
突然大臣の職を追われた主人公のヴァンサン。何もかも失いホームレスに。しかし捨てる神あれば拾う神あり。彼は新しい人間関係を少しずつ作り上げてゆく。考えてみれば「ホルテンさんのはじめての冒険」によく似た映画なのだ。いかにもヨーロッパ映画らしい作品のタッチも「逆転人生」や「アバウト・シュミット」といったアメリカ映画よりも、やはり「ホルテンさんのはじめての冒険」に近い。ヨーロッパ映画を見る楽しみとは、アメリカやアジアの映画とは違う個性的なスタイルとタッチを味わう楽しみである。
内容はもうほとんど忘れてしまったのでこれ以上詳しくは書けないが、セリフが少ない分映像が印象的である。部分的にいろいろな場面を覚えている。そういう映画だ。
「画家と庭師とカンパーニュ」
驚いたことに「ビフォア・サンセット」のようにほとんど二人だけで延々と会話をしている映画だった。よく見ると原題は「ジャルダンとの対話」となっていた。なるほど。地味だが滋味がある映画だった。ジャルダン(庭師)役のジャン=ピエール・ダルッサンがうまい。「サン・ジャックへの道」で酒びたりで一文無しのクロードを演じた人だ。ヨーロッパにはこういう飄々としたいい役者がいる。
中年の画家とその屋敷の庭を手入れするために雇われた庭師。登場するのはほとんどこの二人だけ。男二人の友情を描く。そう聞いただけでほぼどんな話か想像が付いてしまう映画だ。確かにそうなのだが、最後まで楽しませる不思議な魅力がある。ダニエル・オートゥイユとジャン=ピエール・ダルッサンというベテラン俳優二人の力で最後まで観客を引っ張ってしまう。フランス版人情劇とでも呼ぶべき映画だが、日本の人情劇とは違って実にさばさばしている。
ジャン・ベッケル監督作品は「クリクリのいた夏」、「ピエロの赤い鼻」に続いて3作目。これまでのところ「ピエロの赤い鼻」が一番いい出来だと思う。父親のジャック・ベッケル(フランス映画黄金時代を築き上げた巨匠の一人)とはだいぶ作風が異なるが、平均していい作品を作り続けている。新作が楽しみな監督の一人だ。
「レッドクリフ Part II」
相変わらずのハリウッド調大作映画の作りながら、前篇よりはずっと出来はいいと感じた。諸葛孔明もやっと天才軍師らしさを発揮し始めた。トニー・レオンは後篇でも出色の存在感。また敵役の曹操も単純な悪人という描き方ではなく、侮りがたい才能と人望を持った人物として描かれているところがいい。曹操を演じたチャン・フォンイーも憎々しげでいてどこか人間的奥行きも感じさせてしまう素晴らしい役者だった。
まあとにかく楽しめばいいという映画だが、尚香や周瑜の妻が単身敵の中に乗り込むあたりの演出には疑問を感じた。尚香が男装して敵に紛れ込みながら怪しまれないという設定は相当無理がある。周瑜の妻が自ら曹操の元に赴き攻撃の時期を遅らせるというエピソードはそれよりはましだが、夫のために身を投げ出す妻という描き方や緊張感の盛り上げ方がいかにもハリウッド調で型どおりすぎた。