「ユーリ・ノルシュテイン作品集」★★★★☆
「シークレット・サンシャイン」(07年、イ・チャンドン監督、韓国)★★★★☆
「死者の書」(05年、川本喜八郎監督、日本)★★★★☆
「ハッピーフライト」(08、矢口史靖監督、日本)★★★★☆
「永遠のこどもたち」(07、J・A・バヨナ監督、スペイン・メキシコ)★★★★
「カレル・ゼーマン作品集」★★★★
「人のセックスを笑うな」(07、井口奈己監督、日本)★★★★
「クレイジー・ストーン」(06、ニンハオ監督、中国)★★★★
「NFB傑作選」★★★★
「山村浩二作品集」★★★★
「サマーウォーズ」(09年、細田守監督、日本)★★★☆
7月の下旬はアニメ三昧の日々。こう書くと楽しそうだが(いや、実際楽しかったのは確かだ)、実は原稿を書く必要に迫られて忙しい中必死で観たという方が実態に近い。
地元上田を舞台にした「サマーウォーズ」を特集した「幻灯舎通信」(松尾町の「キネマギャラリー幻灯舎」が不定期で出している通信)を出すことになり、原稿を依頼されたのをきっかけにアニメ作品を一気に観ることにしたのである。「サマーウォーズ」に関しては他の執筆者に任せ、僕は世界のユニークなアニメを紹介することにした。
新たに何枚もDVDを注文したので、手元にありながらまだ観ていないものがまだたくさんあるが、いい機会なので、この記事と相前後して作品リストを中心にした「ゴブリンのこれがおすすめ39 アニメ映画」も書く予定。
アニメ以外では「シークレット・サンシャイン」と「ハッピーフライト」が出色の出来。久々に観た中国のドタバタ調犯罪コメディ「クレイジー・ストーン」も面白かった。
「シークレット・サンシャイン」
久々に観る韓国映画の力作だった。度重なる不幸で精神が壊れてゆく女性を冷徹に見つめてゆく。一時宗教に救いを見出すが、その宗教にも矛盾を感じ反感を持つようになる。最後は不安定のまま、何の未来も予感させずに終わる。
監督は「グリーンフィッシュ」、「ペパーミント・キャンディ」、「オアシス」などを撮ってきたイ・チャンドン。上記の3本に続いて観るのはこれが4本目。韓国映画を代表する傑作である「ペパーミント・キャンディ」がやはり一番いい。「オアシス」はムン・ソリの迫真の演技にもかかわらず、人間と社会に対する描き方がどこか平板だと感じた。
「シークレット・サンシャイン」は何となく「オアシス」のようなタイプの映画ではないかと予想していたが、むしろ「ぐるりのこと。」と多くの共通点を持つ映画だった。息子を誘拐されて殺され、次第に精神の平衡を失ってゆくチョン・ドヨンは木村多江、その彼女を見守り続ける不器用な男ソン・ガンホはリリー・フランキーに相当する。「ぐるりのこと。」はリリー・フランキーに焦点が当てられ、彼の視点で描かれているが、「シークレット・サンシャイン」はチョン・ドヨンの苦悩に焦点が当てられている。「ぐるりのこと。」では明確に描かれていなかったヒロインの精神の彷徨をつぶさに描こうと努めている。
木村多江は夫と正面から向き合い、思いのたけをぶちまけ、そして絵を描くことで夫との絆を結び直し自分を取り戻した。一方、チョン・ドヨンは宗教に救いを見出そうとした。一時精神の平衡を取り戻したかに見えたが、自分が救おうとした誘拐犯の男も宗教によって既に「救われていた」ことを知り宗教に幻滅する。「もう許されている人をどうやって許すの?私がその男を許す前になぜ神は許したの?私が苦しんでいる時、あの男は神に許され救われていたわ。なぜこんなことが?なぜ。なぜなの?」チョン・ドヨンは自分が属していた宗教団体の集会で、「みんな嘘よ」と叫ぶロック音楽を大音響で流して妨害する。
彼女の精神的彷徨はさらに続く。精神病院にも入院した。退院して髪を切ろうと美容院へ行けば、息子を誘拐して殺した男の娘が美容師になっていて彼女の髪を切ろうとする。耐えきれず彼女は途中で美容院を飛び出す。彼女の精神は落ち着くところを見いだせぬまま漂い続ける。「ぐるりのこと。」のような明確な救いは描かれない。
チョン・ドヨンは家に帰り、庭に出て自分で髪を切り始める。心配してやってきたソン・ガンホが前に立って鏡を持っている。切り落とされた髪束が風に吹かれてゆく。映画は庭の片隅を意味ありげに映して終わる。
「ぐるりのこと。」に比べてはるかに重苦しい映画だ。ラストで髪を切るチョン・ドヨンは鏡に映る自分を観ている。そこにはどんな自分がいたのか?彼女の視野にソン・ガンホは入っているのか?2人の関係はその後どうなってゆくのか(ソン・ガンホは彼女の夫ではなく、彼女の車を修理したのが縁で何かと世話を焼いている近所の男である)。絶望と救いと幻滅をくぐりぬけてきた彼女の壮絶な精神的葛藤を中心に描き、明確な未来を示さずに終わる。そういう映画だ。
「ぐるりのこと。」と「シークレット・サンシャイン」、さらには「キムチを売る女」を並べてみると、抱えきれないほどの精神的苦悩を背負った女性の生き方を描くさまざまなタイプの映画があることが分かる。終始淡々とヒロインを描いた「キムチを売る女」では、ヒロインが怒鳴る姿も涙を見せるシーンも描かれない。それでいて淡々とした無表情な画面の奥から孤独感や悲しみや喪失感がにじみ出てくる映画だった。彼女も事故で最愛の息子を失うが、ラストで彼女は自分の住んでいた町を出てゆく。線路を踏み越え(丁度列車が通りかかっていて、そこに飛び込むのではないかと観客を一瞬不安にさせるが)、彼女を閉じ込めていた世界から歩み出ようとした。
「ぐるりのこと。」と「シークレット・サンシャイン」そして「キムチを売る女」。いずれもヒロインたちは耐えきれないほどの重荷を背負い、絶望に打ちひしがれ、苦悩し、死ぬことさえ考えただろうが、最後まで生きようとした。描き方のタッチの違い、ラストの描き方の違い、苦悩の描き方の違いはあれ、いずれも観客の共感を得てしまうのは彼女たちが最後まで生きる意欲を失わなかったからだ。
チョン・ドヨンを観るのは「接続 ザ・コンタクト」に続いて2本目。こちらはハン・ソッキュの印象ばかり強くて、彼女の方はほとんど記憶に残っていない。今後はチョン・ドヨンといえば「シークレット・サンシャイン」を思い浮かべることになるだろう。
名優ソン・ガンホは「グリーンフィッシュ」、「シュリ」、「JSA」、「反則王」、「復讐者に憐れみを」、「殺人の追憶」、「大統領の理髪師」、「グエムル 漢江の怪物」に続いて9本目。どんな映画に出ても存在感を示してしまうのはさすがだ。
「ハッピーフライト」
最初はテレビドラマのようなお気軽映画のように思えたが、飛行機が事故のため空港に引き返すことになってから俄然緊張感が高まってきた。その後は息も継がせぬ展開。その緊張感を最後まで持続できているところが見事。日本ではこの種の大掛かりな映画は大味になってしまうことが多いが、これはその数少ない例外となった。「クライマーズ・ハイ」と並ぶ出色の出来。
アメリカ映画が得意とするタイプの映画だが、日本でもこれだけの水準のものが作れるようになったことを素直に喜びたい。単なるパニック映画にするのではなく、新米パイロット(田辺誠一)の試練を軸にしているところにドラマとしての工夫がある。ただそれと並行して描かれる新米フライトアテンダント(綾瀬はるか)のエピソードは、テレビドラマ並みのお手軽演出が目立っていただけない。
スリル満点の演出も素晴らしいが、この映画の一番の価値は飛行機を安全に飛ばすのにどれだけ多くの人がかかわっているか、また一旦危機的状況が発生した時に様々な部署がどのように対応するのかをしっかり描いたことにある。飛行機の乗務員や管制塔のスタッフだけではない、整備員や滑走路から鳥を追い散らす係員、窓口対応のスタッフまで、空と地上のすべてのスタッフが1機の飛行機の安全を支えていることが手に取るように分かる。それぞれのスタッフがそれぞれの持ち場で同じ危機に対処する。一人の英雄の超人的活躍によって乗り切るのではなく、組織体として力を合わせて事に当たる。そういう描き方になっているところが素晴らしい。
有名俳優を多数起用しているが、新人パイロットを脇で支えるベテランパイロット役の時任三郎、新しいシステムについて行けず、普段は邪魔もののように思われていたが、いざとなると有能な指揮官ぶりを発揮する岸部一徳がとりわけ素晴らしい。
「永遠のこどもたち」
本格的なホラー映画の作りだが、最後はファンタジーのように終わる。ホラー映画ではあるが後味は悪くない。スペインの(あるいはスペイン人の監督による)ホラー映画はそれほど観ていない。アレハンドロ・アメナーバル監督の「アザーズ」、ギレルモ・デル・トロ監督(「永遠のこどもたち」の製作総指揮も務めている)の「デビルズ・バックボーン」くらいか。そもそもホラー映画自体あまり観ないのだから、少なくて当然である。それでも「永遠のこどもたち」をあえて観ようと思ったのはギレルモ・デル・トロ監督のからみである。「パンズ・ラビリンス」が素晴らしかったので、彼に関連する作品はぜひ観ておきたかった。「デビルズ・バックボーン」を観たのも彼の監督作品だったからだ(観てがっかりしたが)。
「アザーズ」や「デビルズ・バックボーン」もそうだが、まず舞台となる建物がいかにもそれらしい不気味な雰囲気を持っている。「デビルズ・バックボーン」は孤児院、「永遠のこどもたち」元孤児院が舞台だ。どうも孤児院というのは暗く気味の悪い印象があるようだ。そしてその孤児院には過去に何か秘密があるというお決まりの設定。次々と起こるオカルト的現象。一体過去に何があったのか。こうしてサスペンス的要素を含んで展開してゆく。
まあ、内容については詳しく触れないでおこう。ともったいをつけてみるが、あまり覚えていないというのが正直なところ。どうもこの手の映画はその時楽しんでもすぐ忘れてしまう(汗)。しかし映画としてはよくできていたと思うので観て損はない。
主演のベレン・ルエダは「海を飛ぶ夢」(アレハンドロ・アメナーバル監督)で女性弁護士フリアを演じた人だと後でわかった。監督のJ・A・バヨナはこれが長編デビュー。アレハンドロ・アメナーバルやギレルモ・デル・トロ並みの大物になるかは分からないが、十分才能はあると見た。
「人のセックスを笑うな」
最近また増えてきた妙にリアルな映画の一つ。「歩いても歩いても」や「ぐるりのこと」と似たタイプの映画だが、映画の出来としては「歩いても歩いても」や「ぐるりのこと」の方が上だと感じた。
この映画の魅力は謎の女を演じた永作博美の魅力、彼女の不思議な存在感にあると言えるだろう。彼女自身はそれほど魅力的な女優とは思えないのだが、やはり謎の女という設定が彼女を魅力的にしていると思われる。捕まえたと思ったらするりと手からすり抜けてゆく女。サスペンス映画によく登場するタイプのヒロインだが、日常描写をリアルに描く私小説的映画にそれを登場させた所に新味があるといえる。
何でもないシーンをさも意味ありげに長写しするのがこのタイプの映画の特徴だ。美術学校に非常勤講師としてやってきた彼女は学生の松山ケンイチに絵のモデルになってほしいと頼み、彼を自分のアトリエに誘う。彼女はすでに結婚しているのだが、松山ケンイチはそのことを知らない。やがて二人は関係を持ってしまう。永作博美は別に自宅がある。アトリエは彼女にとって一種の解放区だったのである。アトリエで二人が過ごす濃厚な時間。松山ケンイチはすっかり彼女の魅力のとりこになる。アトリエは彼にとって二人だけの甘い時間を過ごす逢瀬の場所だった。しかしある日突然彼女は姿を消す。
ストーブをめぐるなんでもないエピソードが妙に記憶に残る。なんでもないごく日常的なエピソードを何か特別な意味を持ったものに変えてしまうのが、日常描写を得意とする井口奈己監督の特徴である。監督の井口奈己は「犬猫」(2004)の監督。「犬猫」も日常的描写を重ねた映画だった。どこかシュールな味付けがしてあって、それがとても魅力的だった。「人のセックスを笑うな」では謎の女という非日常的なヒロインを登場させることで新しい試みをしていると言えるかもしれない。
アトリエでのエピソードはなかなか秀逸なのだが、しかしこの映画全体としてみるといろいろと不満が残る。日常のこまごまとしたことをリアルに描いてはいるのだが、観終わった時にどこかリアルというよりはヴァーチャルなものだったという印象が残ってしまう。謎の女という設定は謎めいていて魅力的でもあるが、ちょっとさじ加減を間違えるとリアリティに欠けると感じられてくる。
恐らくその微妙なさじ加減に問題があるのだ。映画の視点は松山ケンイチの視点である。これは必然的にそうならざるを得ない。謎の女というのは男の視点から見て謎ということなのである。サスペンス映画に登場する謎の女もそういう描かれ方をしている。その松山ケンイチの描き方にもう一つ不満が残る。だらだらでれでれしていてどうも煮え切らない。謎めいた女性に振り回されながらもずるずる付きまとうあきらめの悪い男をねちねち描かれてもねえ。蒼井優も出ているが、損な役回りで彼女の魅力が十分発揮できる設定ではない(松山ケンイチに思いを寄せているが、彼は永作博美ばかり追いかけている)。
永作博美自身の描き方にも疑問が残る。あまりにも自分勝手すぎる。あんな勝手な理由で大学の非常勤の仕事を突然辞めていいものか。そのあたりから映画にリアリティがなくなってくる。とらえどころのない女として描きたかったのかもしれないが、ご都合主義的な描き方と言えなくもない。現実から生まれたドラマではなく、頭でひねり出した「こんなだったら面白いかも」的夢想ドラマ、そんな作りだという気がする。つまり、どこか基本の設定にリアリティが欠けているので、ドラマの展開もヴァーチャルなものに映るのだろう。どうも違和感の原因はそのあたりにありそうだ。
「クレイジー・ストーン」
いかにも中国らしいハチャメチャなギャング・ストーリー。結構楽しめた。香港映画は別として、中国映画のコメディは日本ではあまり公開されない。本国ではおそらくたくさん作られていると思われるが、なぜか日本にはあまり入ってこないのだ。
香港の大スター、アンディ・ラウが製作指揮を務めているので香港映画お得意のドタバタ調になっているが、大陸のコメディもそうとうハチャメチャである。チャン・イーモウ監督の「キープ・クール」(1998)やフォン・シャオガン監督の「ハッピー・フューネラル」(2001)を観れば、そこまでやるかと呆れるほど話がとんでもない方向にエスカレートしてゆく。最近の日本のコメディはばかばかしいことをやって見せて無理やり笑いをとるものが多いが、中国のコメディはねじれにねじれたシチュエーションを設定して笑わせる。ハチャメチャだが笑のつぼをしっかりと押さえている。本人たちはいたってまじめで真剣なのだが、彼らの意図を越えて話がとんでもない方向へねじれてゆくので、登場人物たちは脂汗をかいているのに観ているわれわれは腹を抱えて笑ってしまうのである。コメディとしてたいていの日本映画より上質である。
ドタバタ調ではないが笑いの要素を巧みに入れ込んだ映画、例えばルー・シュエチャン監督の「わが家の犬は世界一」(2002)、チャン・イーモウ監督の「至福のとき」(2002)、リュウ・ビンジェン監督の「涙女」(2002)などを観れば、中国の映画人がいかに笑いのつぼをうまく抑えているか分かるだろう。日本や韓国のコメディ映画よりはるかに良くできている。
さて、「クレイジー・ストーン」は倒産目前の工芸品工場のガラクタの中から大きな翡翠の原石が見つかる。この翡翠をめぐって会社の社長のどら息子、工場を買収しようとたくらんでいた大企業の手先、空き巣連中が収奪合戦を演じる。そうはさせじと奮闘する工場のセキュリティ担当員。会社の社長のどら息子が女に貢ぐために翡翠を盗み、代わりに偽物を置いておいた(この工場の翡翠が評判になって、出店ができて本物そっくりの土産物が売られていた)ために、混乱はさらに深まる。偶然手に入れた本物の翡翠を本物とは気づかず、チンピラ空き巣たちが苦労して会場に忍び込んで展示されていた偽物とわざわざ置き換えたりする混乱ぶり。
まあ、これ以上内容に触れるのは野暮というもの。詳しくは観てもらいましょう。十分楽しめます。
「ユーリ・ノルシュテイン作品集」
いやあ、素晴らしかった。有名な「話の話」を最初に観たのは1984年の4月。当時4月から5月にかけて三百人劇場で「ソビエト映画の全貌PART2」という特集が組まれていたのである。ただ、その時はさほど感心しなかった。どんな内容だったかもすっかり忘れていた。しかし今回見直して素晴らしい作品だと思いなおした。収録された作品はどれも素晴らしいのだが、やはり代表作とされる「霧につつまれたハリネズミ」と「話の話」がいい。もう一本挙げるとすれば「あおさぎと鶴」だろうか。これは絵が素晴らしい。19世紀の小説の挿絵のような絵。ギュスターヴ・ドレを想わせる。人間の建築物に棲む鳥たちが不思議と違和感なくマッチしている。
「霧につつまれたハリネズミ」の民話的、幻想的映像は実に魅力的だ。霧の中の世界が幻想的でぞくぞくさせる。輪郭をぼかした絵のタッチが優しい雰囲気を出している。ハリネズミのヨージックが実にかわいい。巨大なフクロウも印象的。これはキャラクターの魅力で魅せるアニメでもある。チェブラーシカよりかわいいぞ。
「霧につつまれたハリネズミ」は動物たちだけが登場する幻想的な作品だが、「話の話」には人間が登場する。自動車やミシンがオオカミや様々な生き物の世界と入り混じっている。それでいて違和感がない。シュールでありながら、親しみやすくてどこか愛らしい。不思議な奇想の数々が次々と展開される。全く脈絡のないエピソードの連続。それがまた実に詩的なのだ。まさに映像詩。
ある程度テーマもある。花火が写されるが、これは後でもう一度写された時に戦争の爆撃とコラボされる。「あなたのご主人は勇敢にたたかいましたが負傷し、その傷がもとで死亡しました。」女の子が縄とびし、母親がゆりかごを揺らし、父と息子が食事をしているところを若者が通り過ぎてゆく。哀愁を帯びた美しいメロディが流れる。いったん通り過ぎた若者は一緒にテーブルに着く。しかしまた丘の向こうへ去ってゆく。おそらくこの若者は戦争へ行ったまま帰らなかったのだ。そう暗示されている。
おっぱいを飲む赤ん坊。それを見つめるオオカミ。「おねんねしないと灰色オオカミがやってくるよ。オオカミは脇腹をつかまえる。そして森の中に引きずってゆく。」とオオカミが人間の赤ん坊をあやして歌う。
繰り返し出てくる印象的な映像。青いリンゴ、リンゴを食べる少年、縄跳びをする巨大な牛、白い光があふれるドア。いくつものストーリーが並行し、交錯し、混じり合う。「話の話」はさまざまなストーリーのコラージュ。まさにストーリーの点描画である。
「死者の書」
黒子のいない人形浄瑠璃。それに能の世界を加味し、さらに伝奇的、民俗的要素を加えたのが川本喜八郎の世界。人形の力、絵の力、人間の思いの激しさが観る者の胸を打つ。ピクサーやジブリのアニメを見慣れた目にはぎこちないと映った人形の動きも、「死者の書」ではほとんど気にならない。建物、塀、機織り機など、リアルな造形がリアリティを格段に高めている。その点ではニック・パークの世界にも通じる。
原作は折口信夫の小説『死者の書』。奈良當麻寺(たいまでら)に伝わる蓮糸曼荼羅の伝説と大津皇子(おおつのみこ)の史実をモチーフに、奈良時代藤原南家の郎女(いらつめ)の一途な信仰が若くして非業の死を遂げた大津皇子のさまよう魂を鎮める物語である。
有名な「道成寺」で川本喜八郎の人形アニメはほぼ独自のスタイルを作り上げた。「死者の書」は70分の大作。川本喜八郎の集大成的な作品である。いつもながらのゆったりとしたテンポだが、それがこの時代設定と主題によくマッチしている。人形の表情の豊かさもいつもと変わらない。多数の人形が同時に様々な動きをするダイナミックな演出もさすがだ。
非業の死を遂げた大津皇子の怨念が終始作品の中に漂っているが、情念の中にからめとられてゆく作品ではない。無念さを残したまま地上をさまよっている大津皇子の魂を敏感に感じ取る郎女の心。彼女の目には二上山の上に立つ巨大な大津皇子がたびたび見え、その裸の姿は常に菩薩の姿と重なる。彼のさまよえる魂を鎮めようと一心に祈る彼女の心には篤い信仰心だけではなくほのかな愛情が感じ取れる。だからついに大津皇子の魂が鎮められた時、そこに開放感を感じるのだろう。
「カレル・ゼーマン作品集」
これは期待以上に面白かった。特にジュール・ヴェルヌを原作にした「盗まれた飛行船」が素晴らしい。カレル・ゼマンはチェコスロバキアのモラヴィア生まれ。子供の頃からジュール・ヴェルヌの世界に惹かれていた。同じジュールヴェルヌ原作の「月世界旅行」(1902)を撮ったジョルジュ・メリエスを思わせる映像世界。メリエスの世界を引き継ぐ位置にある映像作家だ。
もう一つの収録作品、短編の「水玉の幻想」(1948)はチェコスロバキアの伝統工芸であるボヘミアンガラスに代表されるガラス細工の人形を動かし、生命を与えるという世界でも珍しいアニメ。アイディアに詰まったガラス細工師が、製作の手を休めて窓越しに外を眺め、幻想に耽るという設定。外は雨が降っており、その水滴がガラスになり、ガラスの魚やバレリーナたちが自由に動き回り始める。台詞はなく、BGMが流れるのみ。動きはややぎこちないが実にユニークな作品だ。
「盗まれた飛行船」(1966)はヴェルヌの 『二年間のバカンス』(『十五少年漂流記』というタイトルの方が一般には馴染み深いだろう)と『神秘の島』を素材にし、自由奔放に脚色している。5人の少年たちが載った飛行船が不時着したのはネモ船長がノーチラス号とともに隠れ住んでいた謎の無人島だったという展開。
アニメと実写を組み合わせたユニークな作風。子供たちが乗った飛行船の行方を追って、新聞記者や謎の人物に派遣されたスパイや海賊たちが入り乱れて参入してくるという、予想もつかない展開になってゆく。19世紀末の建物や風俗を描いた絵が独特の雰囲気を作り出し、さまざまなタイプの飛行船や潜水艦などの魅力的な造形がそれに加わる。ユーモラスな場面を多く取り入れているのもいい。特にとんでもない珍妙な小道具を操るスパイが何とも滑稽だ。モンティパイソン版007といった趣で、これが実に愉快。子供たちにコテンパンにやっつけられた海賊どもが「しつけの悪いガキどもだ。俺たちの子供のころとは違う。」と嘆く場面も愉快だ。
空を飛び交う飛行船の形がユニークで魅力的だ。子供たちが乗った飛行船は後のツェッペリン飛行艇やヒンデンブルク飛行艇を想わせるし、新聞記者やスパイの乗った飛行船はヴェルヌの小説の挿絵から抜け出てきたかのようだ。後者の二つは推進装置がなく、大きな2枚の羽根を櫂のように使って空を漕いで進むというのがばかばかしくてかえって面白い。
カレル・ゼーマンは他にも「悪魔の発明」(原作は『悪魔の発明』 )と「彗星に乗って」(原作は『彗星飛行』 )という、ジュール・ヴェルヌ原作のアニメを2本撮っている。ジュール・ヴェルヌ以外にも、オトフリート・プロイスラーの有名な児童文学『クラバート』(ハリー・ポッター・シリーズよりずっと前に書かれた魔法使い物語、学生時代に読んで大いに気に入った)を原作とした「クラバート」も撮っている。こちらは未見・未入手だが、原作が好きなのでこれもぜひ観たい。
「NFB傑作選」
NFBとは「カナダ国立映画制作庁」のこと。劇映画だけではなく、アニメ作品の制作にも力を入れている。世界でもまれなユニークな創作方法から生まれたユニークな作品の数々で知られる。「NFB傑作選」にはイシュ・パテル、キャロライン・リーフ、ジャック・ドゥルーアンの3人の作家の作品が収められている。3人とも実にユニークな作風だ。
中でも才能と魅力を感じたのはインド出身のイシュ・パテル。例えば「パースペクトラム」という短編では、正方形と幾何学模様という無機質なものが音楽とシンクロして様々に変容し、次々に形を変えて展開してゆく(2次元だけではなく3次元へと広がってゆく)。驚異的な表現の豊かさ、多彩さ、色彩のコラボレーション、変幻自在の変化を楽しめる。観ていてミロの幾何学模様を多用した絵画を連想した。「ビーズ・ゲーム」では音楽に合わせてビーズが虫のように動き出す。さまざまなものに変容し、次々に思いもよらないイメージが繰り出される。音楽に合わせて自在に絵を描く感覚だ。抽象的な世界のようでいて、生物の進化と人類の闘争の歴史が巧みに織り込まれている。
代表作の「パラダイス」は名作「王と鳥」を想わせる短編。白と黒を多用することでむしろ色彩が強調される。真っ黒な自分の体に不満を持つカラスが、光り輝く王宮へ飛んでゆく。まばゆいばかりの宮殿。そこには1羽の白い鳥が飼われていた。王の鳥は自在に王宮の中を飛び回りながら次々に変身してゆく。変身するたびに色合いを変え、まばゆいばかりの輝きを帯びる。
色彩にあこがれるカラスはいろんな色の羽根を身に付けて変装し、王宮に入り込む。王の前であの白い鳥のように踊ってみせるが、つまみだされてしまう。我に返ったカラスは自分の周りの自然の中にこそ様々な色があふれていることに気づく。そういう話なのだが、ストーリーよりもむしろ、あふれんばかりの色彩と鳥の自在な変容ぶりを楽しむアニメだ。
「天国の門」では2人の死人の醜い欲望が描かれる。そのテーマに原爆と死のイメージが重ねられる。抽象的なイメージの連鎖を紡ぐ作品から隠し味のテーマを持ったものまで。実に多彩な作風だ。もっとこの人のアニメを観てみたい、そう思わせる力がある。
実に独特ではあるが、正直疑問を感じたのはキャロライン・リーフの作品。ガラスの上に砂を置いて影絵のような画像を撮るというテクニックはユニークで、その素朴な輪郭のはっきりしない絵と淡い色調はうまく使えば魅力にもなりえるが、どうも独りよがりの「アート」作品になりがち。今一つ魅力を感じなかった。
キャロライン・リーフの作品に比べると、ピン・スクリーンというこれまたユニークな手法を用いるジャック・ドゥルーアンはシュールではあるがまだ分かりやすい。ピン・スクリーンとはボードにびっしり刺さった何万本ものピンに光をあてて、その影の長さで濃淡を出す技法である。これを使ってアニメを作るのは気が遠くなるような作業だろう。収録された2本ともいいが、特に絵の中に入り込み、絵の中の不思議な風景を次々に観た後、最後にまた絵の外に出てくる「心象風景」が良かった。
「山村浩二作品集」
こちらもとりとめもないイメージの連鎖を描く作風。アニメの手法は多彩ではあるがNFBに比べるとむしろ標準的だ。有名な「頭山」はまさに奇想のオンパレード。シュールなイメージの連鎖。印象的だが、好き嫌いがはっきり分かれそうな作品だ。だが、他は意外にほのぼのした作品が多い。子供を意識しているからだろう。独りよがりにならないのはおそらくそのためだ。「キップリングJR」、「カロとピヨブフト サンドイッチ」、「バベルの本」などが印象に残った。
「サマーウォーズ」
7月20日の特別試写会で一足早く鑑賞。地元上田市が舞台となっているので、以前このブログでも応援記事を書いた。しかしこう言っては身も蓋もないが、アニメ自体にはさほど期待はしていなかった。細田守監督の評判になった前作「時をかける少女」は平凡な出来だと思ったからだ。
「サマーウォーズ」はやはり物足りなかった。絵はしっかりしている。たくさん出てくる登場人物も良く描き分けられていると思う。しかし残念なことに、ドラマの中心部分にリアリティがない。終始ヴァーチャルな内容なのだ。戦いはコンピューターの中で展開されている。まるで他人がやっているテレビゲームを脇で眺めているようなもの。従って切迫感も緊張感もない。
後日「デジモンアドベンチャー/ぼくらのウォーゲーム!」(2000)を観たが、シチュエーションは「サマーウォーズ」そっくり。要するに「サマーウォーズ」は「デジモンアドベンチャー/ぼくらのウォーゲーム!」の舞台を上田に置き換え、40分を114分に拡大したようなものだ。タイムリミットぎりぎりで世界が救われるという、ハリウッド映画で見慣れた展開も同じ。「サマーウォーズ」では家族の絆が強調されているが、しばしば韓国映画並みの泣かせの演出に走ってしまうのでしらけてしまう。
それにしても、ポケモンは知っていたが、デジモンは知らなかった。と振っておいて、先日テレビで偶然観た「劇場版ポケットモンスター ダイヤモンド&パール」に少し触れておこう。正直驚いた。子供だましの映画だろうと思っていたが、その画像の質の高さにびっくりした。「ルパン三世 カリオストロの城」や「天空の城ラピュタ」並みの迫力ある画面。建物の巨大さが感覚的に伝わってくる構図、その質感、風景描写の壮大さ、その点を見れば宮崎駿のアニメにも引けを取らない。日本アニメの質の高さはテレビアニメの劇場版にまで及んでいる!相当有能な人材がアニメ界に流れ込んでいるのだろう。内容的には相変わらずバイオレンス描写が多いことや、製作環境やスタッフの待遇面などに大きな課題を残しているが、少なくとも水準の高い作品を少なからず生み出し続けていることには敬意を表したい。