先月観た映画(09年6月)
「ぐるりのこと。」(08、橋口亮輔監督、日本)★★★★☆
「マルタのやさしい刺繍」(06、ベティナ・オベルリ監督、スイス)★★★★
「チェ28歳の革命」(08、スティーヴン・ソダーバーグ監督、米・仏・スペイン)★★★★
「エグザイル/絆」(06、ジョニー・トー監督、香港)★★★★
「ボーダータウン 報道されない殺人者」(06、グレゴリー・ナヴァ監督、米))★★★★
「闇の子供たち」(08、坂本順治監督、日本)★★★★
6月に観た映画の数はわずか6本。しかしどれも水準以上の映画ばかり。そういう意味では充実していた。いずれもレビューを書きたい作品ばかりだが、実際に書けたのは「マルタのやさしい刺繍」と「ボーダータウン 報道されない殺人者」の2本だけ。それも満足の行く出来ではない。何せ映画を観てからほぼ1月たってから書いているので細かいところは忘れている。「ボーダータウン」はメモを取っていたのでそれでも何とかなったが、「マルタのやさしい刺繍」の方は作品について詳しく論じることはできなかった。スイス映画についてあれこれ書いてごまかしたようなもの。今後は必ずメモを取りながら鑑賞しないといけないかも知れない。それもしんどい。
まあ、それでもレビューを2本書けただけまだましだ。「ボーダータウン」と「マルタのやさしい刺繍」についてはそれぞれのレビューを参照してください。
「ぐるりのこと。」
2003年から2004年にかけて日常を淡々と描く映画を何本か観た。「珈琲時光」(03、ホウ・シャオシェン監督)、「リアリズムの宿」(03、山本敦弘監督)、「茶の味」(03、石井克人監督)、そして「犬猫」(04、井口奈己監督)など。
その後しばらくその手の映画を観ていなかったが、今年に入って「歩いても歩いても」(07、是枝裕和監督)、「ぐるりのこと。」(08、橋口亮輔監督)、「人のセックスを笑うな」(07、井口奈己監督)と、立て続けに観た。このところまた日常的リアリズムが復権しているようだ。しかし2003年頃とはまた少し味わいが違う。「人のセックスを笑うな」はどこか無理に日常のリアリティを作ろうとして、結果的にヴァーチャルなものに後退してしまった感じがしたが、「歩いても歩いても」と「ぐるりのこと。」はしばしば居心地が悪くなるくらいリアルに日常性が描かれている。「リアリズムの宿」や「茶の味」にあったシュールな味付けはもうここにはない。とことんリアルに日常性を描く。私小説映画もついにここまできたか。
「ぐるりのこと。」は何とも不思議な味の映画。新しいタイプの日常リアリズム映画だ。人間関係、家族関係(特にその会話)がものすごくリアルだ。何事にもきちんと段取りを決めてきぱきとこなさないと気がすまない妻翔子(木村多江)と、何事にもこだわらず飄々と生きている夫カナオ(リリー・フランキー)。性格の違いから日常生活のさまざまな場面で意見の食い違いが生じる(最初のあたりで交わされるセックスをめぐる会話が二人の性格の違いを余すことなく表現している)。それでもカナオのおおらかでしなやかな優しさが妻を受け入れ、何とか大きな亀裂を生じさせることなく夫婦生活を営んでいた。
しかし最初の子供を失ったあたりから翔子の精神が次第に病んでゆく。何度も危機が訪れるが、カナオはそんな妻を受け入れつつも正面からの衝突は避けていた。そしてある嵐の晩、翔子は積もり積もった思いのたけをカナオにぶつける。初めて互いを正面から真剣に見つめあった日。翔子には夫が自分のことを理解してくれていないという不満があったに違いない。カナオは率直に自分の気持ちを語る。「みんなに嫌われてもいいよ。好きな人にたくさん好きになってもらえたら、そっちの方がずっといいよ。」そしてその言葉以上に、カナオが見せた3枚の写生画が彼の真情を雄弁に語っていた。
自分も経験があるが、横に苦しんでいる人がいてもかける言葉がうまく見つからない。下手に励ましても、「これ以上どう努力すればいいの」と逆に気持ちを逆なでしてしまうことになる。ケナオは終始そっと見守るという態度をとった。翔子にはそれがカナオの気持ちが離れてゆくように映ったのかもしれない。付かず離れずだった関係が、互いの気持ちを本気でぶつけ合ったことをきっかけに再び絆が深まっていった。
こう書くとよくある夫婦のドラマのように思えるが、この映画のユニークな点はこの夫婦のストーリーと平行して90年代を代表する有名な事件の裁判場面が描かれている点である。しかし胸が悪くなるような裁判の場面が頻繁に写されながらも、それが不思議と全体の流れを壊さないのだ。夫婦の場面がリアルなだけに、この裁判の場面はどうも作り物じみているという批判が散見される。それはおそらくその通りなのだ。誰もがよく知っている実際に起きた事件の裁判より、架空の夫婦の日常の方がよりリアルに感じられる。どうやらここにこの映画の本質がありそうだ。会う人毎に話題にした大事件よりも、身近な苦悩や煩悩やささやかな喜びの方がはるかに人にとっては重大である。現実とはそういうものだ。
監督自身はこれをどのような思いで描いたのか。ある舞台挨拶で橋口亮輔監督は「なぜ93年からの約10年を舞台にしたのか」と問われて次のように答えている。
僕も見事に厄年にハマり、鬱になったりなどする中で、自分が生きている日本というものを描いてみたいと思ったんです。じゃあどの時代がいいかと考えた中で、バブルという時代が日本人の価値観を徹底的に変えたのではないかと。そして、2001年の9.11テロが起こるまでの間に日本人のメンタリティがどう変わっていったのかというテーマに、自分のいろいろな思いが投影できるのではないかと思い、この時代を舞台にしたんです。
濡れ手で粟をつかむバブルの狂乱がまじめに物造りに励んできた日本人の価値観を徹底的に破壊してしまった。僕自身もそう思う。何か大事なものが壊れてしまった時代。そういう時代の中で人々のメンタリティも変わってしまった。監督が裁判シーンを通じて伝えたかったのはそういうことのようだ。
確かに裁判の場面はおぞましいシーンが続く。しかし見終わってしばらくたった時に記憶に残るのはむしろカナオと翔子の夫婦のエピソードである。10年という時間が流れたという実感もあまりない。カナオは法廷画家という仕事を淡々とこなし、法廷画家になる前も後もほとんど変わっていないという印象を受ける。翔子は決して金の亡者ではないが、物事の本質よりも形式的なものを追い求めていたように思う。幸せという形を手に入れたかった。だから子供を産み育てるという女性として「当たり前」のことができない自分を許せず、一人悩み苦しんだのだ。映画はそれに対して、好きな人と寄り添っているだけで十分幸せじゃないかという考え方を対置しているのである。
歴史的な事件の最後が9.11テロだというのは暗示的である。アメリカでは9.11後、それまでのアメリカの価値観に疑問を呈するタイプの映画が続々と現れた。「2001年の9.11テロが起こるまでの間に日本人のメンタリティがどう変わっていったのか」という監督の言葉から、彼が9.11を重要な転換点だと位置づけていることが読み取れる。別に「ぐるりのこと。」を「ポスト9.11映画」に位置づけるべきだと言いたいわけではない。翔子がそれまでとらわれていた価値観から自由になったとき新しい人生と生きる意味が見出せるようになってきたことと、9.11後の大きな価値観の転換とが並行して描かれているのかも知れないと指摘したいだけだ。
「チェ28歳の革命」
ゲバラを描いた映画はオマー・シャリフ主演の「ゲバラ!」(1969、リチャード・フライシャー監督)とガエル・ガルシア・ベルナルがゲバラを演じた「モーターサイクル・ダイアリーズ」(2004、ヴァルテル・サレス監督)の2本を観ている。「ゲバラ!」はもう30年以上前にテレビで観たのでほとんど覚えていない。ゲバラは目がきれいだったので、それでオマー・シャリフが選ばれたという淀川長治氏の解説しか覚えていない。「モーターサイクル・ダイアリーズ」は名作「セントラル・ステーション」(1998)のヴァルテル・サレス監督作品だけに傑作だった。
「モーターサイクル・ダイアリーズ」は、若き日のゲバラが友人の医学生アルベルトと共におんぼろバイクにまたがって南米大陸を縦断した日々を描いている。9ヶ月、1万2千キロの旅だ。まだ革命家になる前のゲバラを描いているが、同時になぜ彼が革命家になったのかも暗示されている。南米大陸縦断の旅、それは南米の人々の悲惨な現実を見、そこから革命が必要だという認識にまで到達する旅だった。現実がゲバラという革命家を生んだのである。
「チェ28歳の革命」ではゲバラが革命運動に身を投じて以降の時代が中心に描かれている。フィデル・カストロに見出され、彼の深い信頼を得て革命家としてめきめきと頭角を現す。
ゲバラを演じたベニチオ・デル・トロはさすがにいい。しかしドキュメンタリー・タッチの作品なので、熱演型の彼も抑えた演技をしている。後半に見せ場の戦闘場面も出てくるが、大半は移動したり、戦士を募ったり、仲間と語らったりといった日常的な描写が占めている。革命といっても実際はそんなものだろうが、やや退屈したことも確かだ。
「モーターサイクル・ダイアリーズ」に比べると南米大陸の現状が十分描かれていないという不満がある。また、「モーターサイクル・ダイアリーズ」時代の医学生がどのような革命家に成長したのか、彼が何を見、何を感じ、何を考えているのかも十分描かれているとはいえない。その辺にも不満が残るが、後編の「チェ 39歳 別れの手紙」はぜひ観たいと思っている。
■スティーヴン・ソダーバーグ監督作品 マイ・ベスト5
「チェ28歳の革命」(2008)
「トラフィック」(2000)
「エリン・ブロコビッチ」(2000)
「イギリスから来た男」(1999)
「セックスと嘘とビデオテープ」(1989)
「エグザイル/絆」
アメリカ、フランス、イギリスそして香港。世界には独自のスタイルを持った犯罪アクション映画がある。このジャンルではチンケな映画しか作ってこなかった日本や「シュリ」以外これといってすぐれたアクション映画を生んでいない韓国と比べると、香港のノワール・ムービーは突出した位置にある。香港映画はあまり観ないが、よく選んで観ればそれほどはずれはない。
ジョニー・トー監督の作品を観るのは初めて。クライム・ムービー+ロード・ムービーという作りがユニークで面白い。とにかく主要な4人の登場人物がカッコいいような情けないような描かれ方になっているのがいい。そして脚本がなく、行き当たりばったりで予想外の展開。この独特の味付けが香港ノワール映画に独自の地位を築かせた。
登場するのはほとんど知らない俳優ばかりだが、皆個性的なキャラクターを持っている。映画製作の拠点が香港から大陸に移って、往年の勢いを失いつつある香港映画。しかし、ひたすらエンターテインメントに徹した映画を作ってきた伝統は、そう簡単には消え去らないだろう。
もうこれ以上余計な事を言う必要はない。とにかく観て楽しめばいい。
「闇の子供たち」
「ボーダータウン 報道されない殺人者」同様、衝撃的な事実を暴きだした映画。子供を使った売春や臓器密売(何と生きている子供から内臓を取り出して臓器移植のために売っている)など、タイの闇社会のおぞましい実態が描かれている。確かに衝撃度のある映画だ。しかしドラマが今一つ弱い。ラストで江口洋介が自殺する理由がいまひとつはっきりしないし、彼の個人的苦悩が作品の主題を深めているとも思えない。
監督は「この世の外へ クラブ進駐軍」の阪本順治。「この世の外へ クラブ進駐軍」はいい映画だったが、この映画にしても「闇の子供たち」にしても、どうも今一歩で傑作に至らない。人物の描き方が少し浅いのかもしれない。
原作は梁石日の同名小説。原作の方はだいぶ前に買ったが時間がなくてまだ読んでいない。しかし、間違いなく映画より原作の方が出来ははるかに上だろう。『血と骨』もそうだが、梁石日のずしりと重い小説世界を映画で遜色なく再現することは不可能に近い。実人生でくぐってきたものが違うのだ。演出でカバーできるものではない。原作と比べて見劣りしない映画が現れるのはまだまだ先だろう。