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2009年7月

2009年7月24日 (金)

先月観た映画(09年6月)

「ぐるりのこと。」(08、橋口亮輔監督、日本)★★★★☆
「マルタのやさしい刺繍」(06、ベティナ・オベルリ監督、スイス)★★★★
「チェ28歳の革命」(08、スティーヴン・ソダーバーグ監督、米・仏・スペイン)★★★★
「エグザイル/絆」(06、ジョニー・トー監督、香港)★★★★
「ボーダータウン 報道されない殺人者」(06、グレゴリー・ナヴァ監督、米))★★★★
「闇の子供たち」(08、坂本順治監督、日本)★★★★

Scene1   6月に観た映画の数はわずか6本。しかしどれも水準以上の映画ばかり。そういう意味では充実していた。いずれもレビューを書きたい作品ばかりだが、実際に書けたのは「マルタのやさしい刺繍」と「ボーダータウン 報道されない殺人者」の2本だけ。それも満足の行く出来ではない。何せ映画を観てからほぼ1月たってから書いているので細かいところは忘れている。「ボーダータウン」はメモを取っていたのでそれでも何とかなったが、「マルタのやさしい刺繍」の方は作品について詳しく論じることはできなかった。スイス映画についてあれこれ書いてごまかしたようなもの。今後は必ずメモを取りながら鑑賞しないといけないかも知れない。それもしんどい。

 まあ、それでもレビューを2本書けただけまだましだ。「ボーダータウン」と「マルタのやさしい刺繍」についてはそれぞれのレビューを参照してください。

「ぐるりのこと。」
 2003年から2004年にかけて日常を淡々と描く映画を何本か観た。「珈琲時光」(03、ホウ・シャオシェン監督)、「リアリズムの宿」(03、山本敦弘監督)、「茶の味」(03、石井克人監督)、そして「犬猫」(04、井口奈己監督)など。

 その後しばらくその手の映画を観ていなかったが、今年に入って「歩いても歩いても」(07、是枝裕和監督)、「ぐるりのこと。」(08、橋口亮輔監督)、「人のセックスを笑うな」(07、井口奈己監督)と、立て続けに観た。このところまた日常的リアリズムが復権しているようだ。しかし2003年頃とはまた少し味わいが違う。「人のセックスを笑うな」はどこか無理に日常のリアリティを作ろうとして、結果的にヴァーチャルなものに後退してしまった感じがしたが、「歩いても歩いても」と「ぐるりのこと。」はしばしば居心地が悪くなるくらいリアルに日常性が描かれている。「リアリズムの宿」や「茶の味」にあったシュールな味付けはもうここにはない。とことんリアルに日常性を描く。私小説映画もついにここまできたか。

  「ぐるりのこと。」は何とも不思議な味の映画。新しいタイプの日常リアリズム映画だ。人間関係、家族関係(特にその会話)がものすごくリアルだ。何事にもきちんと段取りを決めてきぱきとこなさないと気がすまない妻翔子(木村多江)と、何事にもこだわらず飄々と生きている夫カナオ(リリー・フランキー)。性格の違いから日常生活のさまざまな場面で意見の食い違いが生じる(最初のあたりで交わされるセックスをめぐる会話が二人の性格の違いを余すことなく表現している)。それでもカナオのおおらかでしなやかな優しさが妻を受け入れ、何とか大きな亀裂を生じさせることなく夫婦生活を営んでいた。

  しかし最初の子供を失ったあたりから翔子の精神が次第に病んでゆく。何度も危機が訪れるが、カナオはそんな妻を受け入れつつも正面からの衝突は避けていた。そしてある嵐の晩、翔子は積もり積もった思いのたけをカナオにぶつける。初めて互いを正面から真剣に見つめあった日。翔子には夫が自分のことを理解してくれていないという不満があったに違いない。カナオは率直に自分の気持ちを語る。「みんなに嫌われてもいいよ。好きな人にたくさん好きになってもらえたら、そっちの方がずっといいよ。」そしてその言葉以上に、カナオが見せた3枚の写生画が彼の真情を雄弁に語っていた。

  自分も経験があるが、横に苦しんでいる人がいてもかける言葉がうまく見つからない。下手に励ましても、「これ以上どう努力すればいいの」と逆に気持ちを逆なでしてしまうことになる。ケナオは終始そっと見守るという態度をとった。翔子にはそれがカナオの気持ちが離れてゆくように映ったのかもしれない。付かず離れずだった関係が、互いの気持ちを本気でぶつけ合ったことをきっかけに再び絆が深まっていった。

Cyou3  こう書くとよくある夫婦のドラマのように思えるが、この映画のユニークな点はこの夫婦のストーリーと平行して90年代を代表する有名な事件の裁判場面が描かれている点である。しかし胸が悪くなるような裁判の場面が頻繁に写されながらも、それが不思議と全体の流れを壊さないのだ。夫婦の場面がリアルなだけに、この裁判の場面はどうも作り物じみているという批判が散見される。それはおそらくその通りなのだ。誰もがよく知っている実際に起きた事件の裁判より、架空の夫婦の日常の方がよりリアルに感じられる。どうやらここにこの映画の本質がありそうだ。会う人毎に話題にした大事件よりも、身近な苦悩や煩悩やささやかな喜びの方がはるかに人にとっては重大である。現実とはそういうものだ。

 監督自身はこれをどのような思いで描いたのか。ある舞台挨拶で橋口亮輔監督は「なぜ93年からの約10年を舞台にしたのか」と問われて次のように答えている。

  僕も見事に厄年にハマり、鬱になったりなどする中で、自分が生きている日本というものを描いてみたいと思ったんです。じゃあどの時代がいいかと考えた中で、バブルという時代が日本人の価値観を徹底的に変えたのではないかと。そして、2001年の9.11テロが起こるまでの間に日本人のメンタリティがどう変わっていったのかというテーマに、自分のいろいろな思いが投影できるのではないかと思い、この時代を舞台にしたんです。

 濡れ手で粟をつかむバブルの狂乱がまじめに物造りに励んできた日本人の価値観を徹底的に破壊してしまった。僕自身もそう思う。何か大事なものが壊れてしまった時代。そういう時代の中で人々のメンタリティも変わってしまった。監督が裁判シーンを通じて伝えたかったのはそういうことのようだ。

 確かに裁判の場面はおぞましいシーンが続く。しかし見終わってしばらくたった時に記憶に残るのはむしろカナオと翔子の夫婦のエピソードである。10年という時間が流れたという実感もあまりない。カナオは法廷画家という仕事を淡々とこなし、法廷画家になる前も後もほとんど変わっていないという印象を受ける。翔子は決して金の亡者ではないが、物事の本質よりも形式的なものを追い求めていたように思う。幸せという形を手に入れたかった。だから子供を産み育てるという女性として「当たり前」のことができない自分を許せず、一人悩み苦しんだのだ。映画はそれに対して、好きな人と寄り添っているだけで十分幸せじゃないかという考え方を対置しているのである。

 歴史的な事件の最後が9.11テロだというのは暗示的である。アメリカでは9.11後、それまでのアメリカの価値観に疑問を呈するタイプの映画が続々と現れた。「2001年の9.11テロが起こるまでの間に日本人のメンタリティがどう変わっていったのか」という監督の言葉から、彼が9.11を重要な転換点だと位置づけていることが読み取れる。別に「ぐるりのこと。」を「ポスト9.11映画」に位置づけるべきだと言いたいわけではない。翔子がそれまでとらわれていた価値観から自由になったとき新しい人生と生きる意味が見出せるようになってきたことと、9.11後の大きな価値観の転換とが並行して描かれているのかも知れないと指摘したいだけだ。

「チェ28歳の革命」
Ch01   ゲバラを描いた映画はオマー・シャリフ主演の「ゲバラ!」(1969、リチャード・フライシャー監督)とガエル・ガルシア・ベルナルがゲバラを演じた「モーターサイクル・ダイアリーズ」(2004、ヴァルテル・サレス監督)の2本を観ている。「ゲバラ!」はもう30年以上前にテレビで観たのでほとんど覚えていない。ゲバラは目がきれいだったので、それでオマー・シャリフが選ばれたという淀川長治氏の解説しか覚えていない。「モーターサイクル・ダイアリーズ」は名作「セントラル・ステーション」(1998)のヴァルテル・サレス監督作品だけに傑作だった。

 「モーターサイクル・ダイアリーズ」は、若き日のゲバラが友人の医学生アルベルトと共におんぼろバイクにまたがって南米大陸を縦断した日々を描いている。9ヶ月、1万2千キロの旅だ。まだ革命家になる前のゲバラを描いているが、同時になぜ彼が革命家になったのかも暗示されている。南米大陸縦断の旅、それは南米の人々の悲惨な現実を見、そこから革命が必要だという認識にまで到達する旅だった。現実がゲバラという革命家を生んだのである。

  「チェ28歳の革命」ではゲバラが革命運動に身を投じて以降の時代が中心に描かれている。フィデル・カストロに見出され、彼の深い信頼を得て革命家としてめきめきと頭角を現す。

 ゲバラを演じたベニチオ・デル・トロはさすがにいい。しかしドキュメンタリー・タッチの作品なので、熱演型の彼も抑えた演技をしている。後半に見せ場の戦闘場面も出てくるが、大半は移動したり、戦士を募ったり、仲間と語らったりといった日常的な描写が占めている。革命といっても実際はそんなものだろうが、やや退屈したことも確かだ。

  「モーターサイクル・ダイアリーズ」に比べると南米大陸の現状が十分描かれていないという不満がある。また、「モーターサイクル・ダイアリーズ」時代の医学生がどのような革命家に成長したのか、彼が何を見、何を感じ、何を考えているのかも十分描かれているとはいえない。その辺にも不満が残るが、後編の「チェ 39歳 別れの手紙」はぜひ観たいと思っている。

■スティーヴン・ソダーバーグ監督作品 マイ・ベスト5
 「チェ28歳の革命」(2008)
 「トラフィック」(2000)
 「エリン・ブロコビッチ」(2000)
 「イギリスから来た男」(1999)
 「セックスと嘘とビデオテープ」(1989)

「エグザイル/絆」
 アメリカ、フランス、イギリスそして香港。世界には独自のスタイルを持った犯罪アクション映画がある。このジャンルではチンケな映画しか作ってこなかった日本や「シュリ」以外これといってすぐれたアクション映画を生んでいない韓国と比べると、香港のノワール・ムービーは突出した位置にある。香港映画はあまり観ないが、よく選んで観ればそれほどはずれはない。

 ジョニー・トー監督の作品を観るのは初めて。クライム・ムービー+ロード・ムービーという作りがユニークで面白い。とにかく主要な4人の登場人物がカッコいいような情けないような描かれ方になっているのがいい。そして脚本がなく、行き当たりばったりで予想外の展開。この独特の味付けが香港ノワール映画に独自の地位を築かせた。

  登場するのはほとんど知らない俳優ばかりだが、皆個性的なキャラクターを持っている。映画製作の拠点が香港から大陸に移って、往年の勢いを失いつつある香港映画。しかし、ひたすらエンターテインメントに徹した映画を作ってきた伝統は、そう簡単には消え去らないだろう。

 もうこれ以上余計な事を言う必要はない。とにかく観て楽しめばいい。

「闇の子供たち」
 「ボーダータウン 報道されない殺人者」同様、衝撃的な事実を暴きだした映画。子供を使った売春や臓器密売(何と生きている子供から内臓を取り出して臓器移植のために売っている)など、タイの闇社会のおぞましい実態が描かれている。確かに衝撃度のある映画だ。しかしドラマが今一つ弱い。ラストで江口洋介が自殺する理由がいまひとつはっきりしないし、彼の個人的苦悩が作品の主題を深めているとも思えない。

  監督は「この世の外へ クラブ進駐軍」の阪本順治。「この世の外へ クラブ進駐軍」はいい映画だったが、この映画にしても「闇の子供たち」にしても、どうも今一歩で傑作に至らない。人物の描き方が少し浅いのかもしれない。

 原作は梁石日の同名小説。原作の方はだいぶ前に買ったが時間がなくてまだ読んでいない。しかし、間違いなく映画より原作の方が出来ははるかに上だろう。『血と骨』もそうだが、梁石日のずしりと重い小説世界を映画で遜色なく再現することは不可能に近い。実人生でくぐってきたものが違うのだ。演出でカバーできるものではない。原作と比べて見劣りしない映画が現れるのはまだまだ先だろう。

これから観たい&おすすめ映画・DVD(09年8月)

【新作映画】
7月25日公開
 「クヌート」(マイケル・ジョンソン監督、ドイツ)
 「セントアンナの奇跡」(スパイク・リー監督、米・伊)
 「バーダー・マインホフ 理想の果てに」(ウリ・エデル監督、独・仏・チェコ)
 「真夏の夜の夢」(中江裕司監督、日本)
 「クララ・シューマン 愛の協奏曲」(ヘルマ・サンダース=ブラームス監督、独・他)
8月1日公開
 「そんな彼なら捨てちゃえば?」(ケン・クワビス監督、米・独・ニュージーランド)
 「ボルト」(クリス・ウィリアムズ、バイロン・ハワード監督、米)
 「サマーウォーズ」(細田守監督、日本)
 「ムーミン・パペット・アニメーション ムーミン谷の夏まつり」(マリア・リンドバーグ監督、フィンランド)
 「モノクロームの少女」(五藤利弘監督、日本)
 「ハウエルズ家のちょっとおかしなお葬式」(フランク・オズ監督、米)
 「ポー川のひかり」(エルマンノ・オルミ監督、イタリア)
 「屋根裏のポムネンカ」(イジー・バルタ監督、日本・チェコ・スロバキア)
8月8日公開
 「3時10分、決断のとき」(ジェイムズ・マンゴールド監督、米)
 「縞模様のパジャマの少年」(マーク・ハーマン監督、英・米)
 「南極料理人」(沖田修一監督、日本)
 「未来の食卓」(ジャン=ポール・ジョー監督、フランス)
 「花と兵隊」(松林要樹監督、日本)
8月15日公開
 「キャデラック・レコード 音楽でアメリカを変えた人々の物語」(ダーネル・マーティン監督、米)
8月22日公開
 「ちゃんと伝える」 (園子温監督、日本)
 「ぼくとママの黄色い自転車」(河野圭太監督、日本)
8月29日公開
 「グッド・バッド・ウィアード」(キム・ジウン監督、韓国)
 「クリーン」(オリヴィエ・アサイヤス監督、仏・英・加)
 「九月に降る風」(トム・リン、台湾)
9月5日公開
 「BALLAD 名もなき恋のうた」(山崎貴監督、日本)

【新作DVD】
7月24日
 「コレラの時代の愛」(マイク・ニューウェル監督、アメリカ)
 「エレジー」(イザベル・コイシェ監督、米)
 「ダイアナの選択」(バディム・パールマン監督、米)
 「サーティーンⅩⅢ」(デュエイン・クラーク監督、仏・加)
 「キャラメル」ナディーン・ラバキー監督、仏・レバノン)
7月25日
 「パーク アンド ラブホテル」(熊坂出監督、日本)
7月29日
 「奇術師フーディーニ 妖しき幻想」(ジリアン・アームストロング監督、英・豪)
8月5日
 「レッド・クリフ PartⅡ」(ジョン・ウー監督、中国・台湾・他)
 「ロックンローラ」(ガイ・リッチー監督、イギリス)
 「ラースと、その彼女」(クレイグ・ギレスピー監督、米)
 「いのちの戦場 アルジェリア1959」(フローラン・エミリオ・シリ監督、仏)
 「レイクビュー・テラス 危険な隣人」((ニール・ラビュート監督、米)
8月7日
 「リプリー 暴かれた贋作」(ロジャー・スポティウッド監督、ぼいつ)
8月12日
 「オーストラリア」(バズ・ラーマン監督、米)
8月19日
 「ダウト あるカトリック学校で」(ジョン・パトリック・シャンリィ監督、米)
 「初恋の思い出」(フォ・ジェンチイ監督、中国)
8月21日
 「フロスト×ニクソン」(ロン・ハワード監督、米・英・仏)
8月26日
 「PARIS パリ」(セドリック・クラピッシュ監督、フランス)
8月28日
 「ロルナの祈り」(ジャン・ピエール・ダルデンヌ監督、ベルギー・仏・他)
9月2日
 「ディファイアンス」(エドワード・ズウィック監督、米)
 「誰も守ってくれない」(君塚良一監督、日本)
9月11日
 「バーン・アフター・リーディング」(コーエン兄弟監督、米・英・仏)
9月16日
 「グラン・トリノ」(クリント・イーストウッド監督、米・独・豪)
 「そして、私たちは愛に帰る」(ファティ・アキン監督、トルコ・独・伊)

【旧作DVD】
7月24日
 「ソルジャー・ブルー」(70、ラルフ・ネルソン監督、米)
 「風が吹くとき」(86、ジミー・T・ムラカミ監督、イギリス)
 「ノーマン・マクラレン 傑作選」
 「ノーマン・マクラレン DVD-BOX」(05、カナダ)
7月25日
 「草の上の昼食」(59、ジャン・ルノワール監督、フランス)
 「狼は天使の匂い」(72、ルネ・クレマン監督、仏・伊)
 「素晴らしき放浪者」(32、ジャン・ルノワール監督、フランス)
 「ナサリン」(59、ルイス・ブニュエル監督、メキシコ)
 「牝犬」(31、ジャン・ルノワール監督、フランス)
7月27日
 「ヒット・パレード」(48、ハワード・ホークス監督、米)
8月5日
 「ヤングガン」(88、クリストファー・ケイン監督、米)

 夏休みを当て込んでいるのか、八月のラインナップはかなり層が厚い。新作ではスパイク・リー監督「セントアンナの奇跡」、名作「木靴の樹」で知られるエルマンノ・オルミ監督「ポー川のひかり」、チェコ人形アニメの巨匠イジー・バルタ監督「屋根裏のポムネンカ」、「ブラス!」のマーク・ハーマン監督「縞模様のパジャマの少年」など期待できそうな作品が並ぶ。個人的には「キャデラック・レコード 音楽でアメリカを変えた人々の物語」もぜひ観てみたい。 ドキュメンタリーでは「未来の食卓」と「花と兵隊」が良さそうだ。戦後もビルマにとどまった兵士たちを追ったドキュメンタリー「花と兵隊」は今村昌平の名作ドキュメンタリー「未帰還兵を追って」に匹敵する出来だろうか。

 新作DVDでは、「エレジー」、「ロックンローラ」、「いのちの戦場 アルジェリア1959」、「オーストラリア」、「ダウト あるカトリック学校で」、「初恋の思い出」、「フロスト×ニクソン」、「ロルナの祈り」、そして何といっても「グラン・トリノ」と「そして、私たちは愛に帰る」に注目。未公開だが、「リプリー 暴かれた贋作」は拾いものかも。

 旧作DVDではジャン・ルノワールとルネ・クレマンの作品がまとまって出るのがうれしい。カナダのユニークなアニメ作家ノーマン・マクラレンのボックスにも注目。核戦争の恐怖を静かに描いたイギリスの名作アニメ「風が吹くとき」の発売は快挙。

2009年7月 8日 (水)

ボーダータウン 報道されない殺人者

2006年 アメリカ 2008年10月公開
評価:★★★★
監督:グレゴリー・ナヴァ
脚本:グレゴリー・ナヴァ
撮影:レイナルド・ヴィラロボス
編集:パドレイク・マッキンリー
出演:ジェニファー・ロペス、アントニオ・バンデラス、マヤ・サパタ
    マーティン・シーン、ファン・ディエゴ・ボト、ソニア・ブラガ
   フアネス

はじめに
  6月4日に「闇の子供たち」、翌日の5日に「ボーダータウン 報道されない殺人者」を観た。まったく偶然だったが、同じタイプの映画を続けて観たことになる。2本とも一般には知られていない恐るべき事実を暴き、告発するタイプの映画なのである。この種の題材であればフィクションよりもドキュメンタリーの方が向いている。下手な演出をするよりも、事実をもって語らせる方がはるかにインパクトがあるだろう。実際、「闇の子供たち」では主人公の南部浩行(江口洋介)の個人的闇の部分が十分描ききれていないために、「ボーダータウン」では殺されかけて奇跡的に生き延びたエバ(マヤ・ザパタ)の描き方や筋の運びが不十分なために、優れた題材を取り上げながら傑作にはいたらなかったと思う。

 「ボーダータウン」のグレゴリー・ナヴァ監督は、自分はドキュメンタリー向きではないとDVD付録のインタビューで語っている。彼はあくまでドラマにこだわるのだが、彼はドラマの持つ可能性、ないしは優位性を次のように捕らえている。「ドキュメンタリーは事実と数字と統計を提示するが、ドラマは魂を語るものだ。本作ではエバという人物が登場し、見る者の心を揺さぶる。人間性を見せられることがドラマの強みだ。」

Fatmdrnh001   彼がなぜドキュメンタリーよりもドラマに惹かれるのかこの言葉からよく分かる。しかしこの対比は公平だろうか。「事実と数字と統計」という言い方から、彼がドキュメンタリーを何か平板なものだと捉えていることが分かる。だがドキュメンタリーには魂を語ることができないのだろうか。人間性を描けないのだろうか。「延安の娘」、「ミリキタリの猫」など、この間観てきたドキュメンタリー作品と照らし合わせてみると、この捉え方は納得が行く定義とは思えない。「事実は小説よりも奇なり」という表現があるように、僕はむしろ下手なドラマなどはるかに凌駕する、優れたルポルタージュやドキュメンタリーを、どうやったらフィクションが超えられるのかをずっとテーマとして考えてきた。重い現実を前にした時、フィクションに何ができるのか。絶望的な状況を描きながら、なおかつ希望を描きえるのか。簡単に答えを出せるものではないはずだ。

 もちろんフィクションが無力だと言いたいわけではない。「事実」に拘束されない分、フィクションはより自由に人物やテーマを描くことができる。「魂」や「人間性」をより強調して描くことは確かに可能である。しかし多くの場合は安易な結末に持って行ったり、事実に十分肉薄できず途中で腰砕けになったりしてしまうことが多い。事実の重みを十分描きながらも、なおかつドラマとして破綻がなく、安っぽくならず、問題を矮小化せず、抽象的思弁を弄して難解さに逃げ込まず、重いテーマを最後まで描ききるだけではなく、観るものに深い感銘を与える作品を作ることは至難の業である。「活きる」、「芙蓉鎮」、「ライフ・イズ・ミラクル」、「亀も空を飛ぶ」など(完璧ではないにしても)これをなしえた作品はあるが、やはりごく少数である。「闇の子供たち」も「ボーダータウン」もこれらの作品には及ばなかったと言わざるを得ない。

<1>
 「ボーダータウン」を監督したグレゴリー・ナヴァ監督は名作「エル・ノルテ 約束の地」 (1983)の監督として知られている。こちらは弾圧を逃れて南米から希望の地アメリカへ不法入国した兄妹がたどった悲惨な運命を描いている。国境の手前から見たサンディエゴの街はきらきらと輝いていたが、アメリカもまた「約束の地」ではなかった。この作品が成功したのは告発型の作品ではなく問題提起型の作品だったからだ。

 グレゴリー・ナヴァ監督はカリフォルニア州サンディエゴ出身。メキシコ人とスペイン人(バスク人)の血を引いているようだ。アメリカ人ではあるが、常にメキシコや中南米との関連でアメリカを捉えようとしている。「エル・ノルテ 約束の地」や「ボーダータウン」は言うまでもなく、未見だがもう一つの重要な作品である「マイ・ファミリー」(1995)はロサンゼルスに住むメキシコ出身の一家族を三世代に渡って物語っている。ジュリー・テイモア監督の傑作「フリーダ」 (2002)には脚本家の一人として参加している。

Stmichel7  メキシコとアメリカ。この二つの国の間には長い国境線が横たわっている。ベルリンの壁同様、この国境線には数々の悲劇が染み付いている。さまざまな理由でその国境線を越えた人々を描いた作品は「エル・ノルテ 約束の地」以外にもいくつかある。「メルキアデス・エストラーダの三度の埋葬」(2006)、「スパングリッシュ」(2004)、「カーサ・エスペランサ」(2003)。いずれも優れた作品である。しかし残念ながら決して数は多くない。「チェ28歳の革命」(2008)と「チェ39歳別れの手紙」(2008)が話題になったが、アメリカが真摯に中南米の問題を受け止めようとした映画は他にコスタ・ガブラス監督の「ミッシング」(1982)やオリヴァー・ストーン監督の「サルバドル 遥かなる日々」(1986)など、ごくわずかしかない。中南米諸国はアメリカのすぐ近くにありながら、ほとんどその視野に入っていない国々なのである。ちなみに、グレゴリー・ナヴァ監督の次回作は「エル・ノルテ 約束の地」と似たテーマを扱った”Gates of Eden”という作品らしい。これが「エル・ノルテ 約束の地」の焼き直しではない、新たな傑作となることを期待したい(もしこれが日本で公開されるなら「エル・ノルテ 約束の地」も待望のDVDが出るかも知れない)。

 グレゴリー・ナヴァ監督はメキシコとアメリカの国境、および国境地帯に関して、上記のインタビューで重要な発言をしている。

 「国境はアメリカとメキシコが衝突する場所なんだ。第一世界と第三世界が接する世界で唯一の場所だ。変化にとんだ場所で、容易に対立が起こる。多種多様の大きな物語を抱えた地域だと思う。」
 「国境では多くのことが起こっている。アメリカとメキシコの両方の文化が変容を遂げている場所だ。大きな対立と大きな変容の震源地となる場所だよ。アメリカ全体、ひいては世界に影響を与えるだろう。アメリカは重要な国だからね。アメリカは移民問題で揺れ動いているんだ。」

 「第一世界と第三世界が接する世界で唯一の場所。」メキシコとアメリカの国境や国境地帯が持つ重要な意味をこれ以上端的に表現する言葉は他にない。「ボーダータウン」はメキシコを舞台にしているが、その背後にアメリカが常に意識されていることは明確である。アメリカの影はNAFTA(北米自由貿易協定)によって象徴的に示されている。「自由貿易」というと聞こえはいいが、この「自由」とはケン・ローチ作品「この自由な世界で」が描いた意味での「自由」に過ぎないと理解すべきだ。

<2>
  国境の町フアレス。1000もの工場が密集する地域だ。それらの工場で働くのは女性工員たちである。日当でほぼ5ドルというのだからひどい低賃金である。その町でまた女性工員を狙ったレイプ殺人が起きた。しかし警察の動きは鈍い。事件として取り上げようともせず、むしろ警察がやったことは事件を報道した新聞社から新聞を没収することだった。警察は事件を闇に葬ろうとしている。その町にシカゴ・センチネル紙から派遣された女性新聞記者ローレン・エイドリアン(ジェニファー・ロペス)が取材にやってくる。

 冒頭場面はかなり鮮烈である。メキシコの場面は黄色い色調で統一されており、どこかくすんで陰鬱な映像になっている。ローレンがかつての同僚記者ディアス(アントニオ・バンデラス)を尋ねてゆくシーンも興味深い。何もない荒野で何人もの人たちが地面を棒で探っている。二人の会話を聞きながら、観客は終始彼らが何をしているのか気になっている。会話の最後あたりでやっと事情が説明される。彼らはどこかに埋められているとみられる娘の死体を探していたのである。まるでキノコ取りに来た人々でも写しているようなさりげない映し方、それがかえって殺人が日常的であることを強烈に観客に伝えている。

 警察は殺された女性の数を375人と発表しているが、実際には5000近いとディアスはローレンに語っている。その言葉以上にこのさりげない映像が観客の胸に澱のように残る。発表される人数が少ないのは、多くの場合遺体すら発見されていないからだということもこの場面から分かるのだ。ディアスはさらに地元では悪魔にさらわれたと噂されていると語る。それを聞いたローレンがもらす「本当に悪魔かも」という言葉が印象的だ。

 ローレンにこのせりふを言わせた後で「悪魔と地獄へ行って逃げ帰ってきた」女性エバが登場するという展開もうまい。冒頭でバスの運転手ともう一人の男が若い女性を襲い、殴り殺して地面に埋める場面が出てくる。その時襲われたのがエバだった。彼女は奇跡的に息を吹き返したのだ。夜、地面から起き上がるエバの映像には異様な迫力があった。

 この導入部あたりまでは悪くない出来だ。しかしこの肝心なエバがいまひとつリアルに描けていない。彼女が悪夢にうなされる場面はたびたび描かれるが、起きて行動している場面ではさっぱり緊張感も不安感もないのだ。殺人犯が何人もうろうろしているはずの町中にいてもあまりおびえているようには思えない。犯人を捕まえるために協力することは理解できるが、そのために冒す危険にあまりに鈍感である。おびえる彼女をローレンとディアスが必死で説得するという展開のほうがずっとリアルだったと思うが。そもそもエバが何としても犯人を見つけて欲しいという強い意思を持っているようにも見えないのだ。

 これは演じたマヤ・ザパタの演技力の問題というよりも、彼女の描き方に問題がある。おそらく彼女は架空の人物である。事件の鍵を握る重要な人物として登場させているが、どちらかというとストーリー展開上必要な役回りに重点があり、その分彼女の恐怖や不安が十分掘り下げられていないということだろう。

 例えば、サラマンカ家の令嬢の15歳の誕生パーティ会場で彼女が犯人の一人と目を合わすという場面は、あまりにご都合主義的で説得力に欠けると言わざるを得ない。その後の展開を導入するために無理やりひねり出した方策である。その後の、ローレンが囮となって工場に潜入して犯人二人をおびき出し、最後に追い詰めるという展開はハリウッドのアクション映画でも観ているような感じだった。

<3>
 どうもドラマがサスペンス・アクションの方向に流れてしまっている。その点が弱い。もちろん途中で腰砕けになっているというわけではない。殺人者たちはローレンたちが追い詰めた二人以外にまだ何人もいることは強調されている。事件は終わっておらず、なおも女Tuki1 性の行方不明は続いている。調査結果をまとめたローレンの記事は結局没にされてしまった。ディアスは暗殺され、ローレンはディアスの新聞社を引き継いでさらに追求する姿勢を示している。ローレンの父親も実は殺されており、女性行員たちの悲惨な状況がその記憶と重なって、ローレンは「私があの工場で働いていたかも知れない。あれは私のお墓だったかもしれない」という認識にいたる。工場に潜入するために髪を金髪に染めていたのを黒髪に戻したローレンが、また金髪に染めようとして思いとどまる場面はその意識の変化を象徴的に示している。

 事件の社会的背景への追求が浅いわけでもない。警察がまともに事件を捜査する姿勢を持っていないこと、それどころかむしろ事件を闇に葬ろうとしていることは早くから示されている。事件の背後にNAFTA(北米自由貿易協定)があり、その協定の実現に大きく貢献したサラマンカ家やローリング議員などが事件のもみ消しに関わっていることが暗示されている。サラマンカ家のパーティでローレンに言い寄ってきたマルコという人物には重要な発言をさせている。「どこの国にも二つの法律がある。権力者のとその他大勢のとだ。アメリカだって同じだ。僕は双方の政治家を金で買う。だから工場が建った。」

 要するに、すべて政治がらみで、利益優先の姿勢が女性工員たちから人権を奪い、レイプ殺人の頻発という事態の下地を作っていると告発しているのだ。ローレンは結局没になった記事でこう書いている。「殺人者が大勢いるのは明白だ。隠蔽されることでさらに殺人が増える。女性の保護よりも隠蔽のほうが安価だからだ。すべてが損得勘定。そして犠牲者が増える。」

 こういう姿勢を最後まで保っているからこそ、ハリウッド的演出に一部流れてしまったことがなおさら惜しまれるのである。エバの描き方にしてもまったくだめなわけではない。犯人の一人が運転しているバスを待っている間にローレンとエバが交わした会話は作品全体の中でも重要な位置を占めている。エバがなぜ国境地帯の工場に流れてきたのかをローレンに語る場面だ。「私はオアハカから来たの。あそこを愛してた。オアハカは私の魂。私の心。彼らが奪った。」ローレン「誰が?」エバ「政府。税金が払えなくて。“国境地帯へ行って工場で働け。土地を守るなら金を稼げ”って。でもここにお金はない。政府と工場が全部持っていく。お金は彼らのもの。私たちには何もない。父さんはアメリカに働きに行ってる。何年も会ってないの。どうにもならない。土地もないし、故郷にも帰れない。何もないの。」

 この後に続く、ローレンがキャリアという言葉の意味をエバに教える場面も上昇志向だったローレンの意識が変わり始めていたことを示していて興味深い。「キャリアというのはすべてを捨ててもやりたい仕事のことよ。でも実際その仕事に就くと、期待はずれで自分の生活がないのに気づく。」エバ「分からない。」ローレン「私もよ。」

 こういう会話をもっと積み重ね、映画の重点をアクション映画的な演出ではなくエバをもっと丁寧に、よりリアルに描くことに移していたならば、この映画は群を抜いた傑作になっていたかもしれない。

2009年7月 3日 (金)

マルタのやさしい刺繍

2006 スイス 08年10月公開
評価:★★★★
監督:ベティナ・オベルリ
原案:ベティナ・オベルリ
脚本:ザビーヌ・ポッホハンマー
撮影:ステファン・クティ
美術:モニカ・ロットマイヤー
衣装:グレタ・ロデラー、リュク・ツィマーマン
出演:シュテファニー・グラーザー、ハイジ・マリア・グレスナー
    アンネマリー・デューリンガー、モニカ・グブザー
    ハンスペーター・ミュラー=ドロサート

はじめに
  珍しいスイス映画である。スイスと映画の関係というとロカルノ国際映画祭が思い浮かぶ。1946年からスイス南部のイタリア語圏ロカルノで毎年8月に開催されている。老舗の映画祭ではあるが、地味なのであまり報道されることはない。グランプリである金豹賞を受Engle2 賞した作品でも日本未公開というのはざらにある。受賞作で僕が観たことがあるのはトルコ映画「群れ」とジム・ジャームッシュ監督の「ストレンジャー・ザン・パラダイス」くらいのものだ。日本で公開された作品は他にフレディ・M・ムーラー監督の「山の焚火」(スイス)、テレンス・デイヴィス監督の「遠い声、静かな暮し」(アメリカ)、ペ・ヨンギュン監督の「達磨はなぜ東へ行ったのか」、トム・ディチロ監督の「ジョニー・スエード」(アメリカ)、クレール・ドニ監督の「ネネットとボニ」(フランス)など、数えるほどしかない。 日本映画では実相寺昭雄監督の「無常」(70年)と小林政広監督の「愛の予感」(07年)が金豹賞を受賞しているが、日本ではほとんど話題にならなかったのではないか。受賞作はほとんどすべてアート系作品ばかりである。その辺はいかにもヨーロッパの映画祭らしい。日本であまり馴染みがないのもそのせいだろう。ただし、スイスの一般観客はやはりハリウッド映画を観ている。映画館がハリウッド映画に占領されている状況はスイスでも他の国と変わらない。

 ついでに触れておくと、今年の8月に開催される第62回ロカルノ国際映画祭では、「Manga Impact - The World of Japanese Animation」と題した特集上映が行なわれることになった。アニメ映画から短編アニメーション、テレビアニメなど、初期のものから最近のものまでを網羅した大回顧展になるらしい。

 さて、スイス映画というとどのような作品があるか。ちなみにこれまで僕が観てきたスイス映画は以下の通り。実質的には他の国の映画だがスイスが製作あるいは資本に参加したものも含めてある。

「僕のピアノコンチェルト」(07、フレディ・M・ムーラー監督、スイス)★★★★
「コーラス」(04、クリストフ・バラティエ監督、独・仏・スイス)★★★★
「そして、デブノーの森へ」(04、ロベルト・アンドゥ監督、仏、伊、スイス)★★★★
「列車に乗った男」(02、パトリス・ルコント監督、仏・独・英・スイス)★★★★
「キャラバン」(99、エリック・ヴァリ監督、英・仏・ネパール・スイス)★★★★
「遥かなる帰郷」(96、フランチェスコ・ロージ監督、伊・仏・独・スイス)★★★★
「ジャーニー・オブ・ホープ」(90、クサヴァー・コラー監督、スイス)★★★★
「アリス」(88、ヤン・シュヴァンクマイエル、スイス)★★★☆
「路」(82、ユルマズ・ギュネイ監督、トルコ・スイス)★★★★★
「カンヌ映画通り」(81、ダニエル・シュミット監督、スイス)★★★☆
「光年のかなた」(80、アラン・タネール監督、仏・スイス)★★★★
「サラマンドル」(70、アラン・タネール監督、スイス)★★★★☆

 スイスは映画産業がそれほど発達しておらず、人口が少ない上にドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語の四つの言語圏に分かれているため(ちなみに、「マルタのやさしい刺繍」はドイツ語圏の村が舞台)、自国だけで映画を作っても制作費を回収することが困難である。また、スイスはEUに入っていないため、ヨーロッパの映画製作のための基金、文化的な基金による援助を受けられないという事情もある。そのため、カナダと同じように、他国の映画に資本参加するという形をとることが多いと思われる。「ジャーニー・オブ・ホープ」がアカデミー外国語映画賞を受賞したが、この作品を含め、まだまだスイス映画の知名度は低い。

  スイス映画が日本で知られるようになってきたのは80年代からである。当時アラン・タネール監督とダニエル・シュミット監督の作品はよく名画座や自主上映館で上映されていEngle1 た。アラン・タネール監督(1929-)は60年代のスイスのヌーヴェル・ヴァーグといわれた時代から映画を作っているスイス映画界の巨匠。1985年2月から3月にかけてアテネ・フランセ文化センターで大規模な特集が組まれた。「サラマンドル」はその時に観たもの。ダニエル・シュミット監督(1941-2006)も81年にアテネ・フランセ文化センターで「ダニエル・シュミット映画祭」が開催されている。2007年にもユーロスペースで特集が組まれ、いまだに人気を保っている。フレディ・M・ムーラー監督(1940-)は「山の焚火」で一躍知られた人である。その後さっぱり名前を聞かなくなったが、昨年「僕のピアノコンチェルト」が公開された。なかなかの出来。この3人あたりがスイスの代表的な監督だろう。

 さて、「マルタのやさしい刺繍」(原題は「遅咲きの乙女たち」)のベティナ・オベルリ監督は1972年生まれ。まだ30代の若い女性監督だ。チューリヒの造形芸術大学の映画ビデオ学科で学んだということだから、若い世代を育てる機関があり、新しい才能が着実に育っているということだろう。最初の長編劇映画「ひとすじの温もり」はいくつもの賞を受賞し注目された。「マルタのやさしい刺繍」は長編第2作目。スイスで大ヒットした作品である。何とハリウッド大作を抑え2006年度の観客動員数 No.1を獲得したという。ちなみに、日本でも2008年のミニシアター観客動員数で1位を獲得した。

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  スイスの小さな村にある、澄み切ったように美しい湖。そこに誰かが石を投げ込んだ。小さな波紋が緩やかに広がってゆく。しかしその波紋はいつまでたっても消えない。それどころか湖底から茶色く濁った汚泥が吹き上がってきた。たとえて言えばそんな映画か。若いころの夢を実現しようとする一人の老女によって、スイスの小さな村の驚くほど保守的な面がさらけ出されてゆく。この映画は「森の中の淑女たち」(1990)、「ムッソリーニとお茶を」(1999)、「ポーリーヌ」(2001)、「歌え!フィッシャーマン」(2001)、「ラヴェンダーの咲く庭で」(2004)のような老人映画であると同時に、「靴に恋して」(2002)、「カレンダー・ガールズ」(2003)のような女性映画でもある。夫をなくしたばかりの未亡人が一つのムーブメントを引き起こしてゆくという点では「カレンダー・ガールズ」が一番近い映画かもしれない。刺繍を通じて生きる力を得てゆくという点では「クレールの刺繍」(2004)とも共通点がある。

 自分の夢を実現するためには閉鎖的な村の空気や冷たい村人たちの視線、果ては悪質な妨害にも一歩も引かないマルタとその仲間たちの芯の強さに共感せずにはいられない。ついにはマルタの商売はビジネスとして成功を収め、散々妨害していた息子で牧師のヴァルターや村の保守党員フリッツたちをやり込めてしまう。何とも爽快な映画だ。

 この映画が魅力的なのはマルタ(シュテファニー・グラーザー)とその仲間たち(リージ、フリーダ、ハンニ)と保守派の代表であるヴァルター(ハンスペーター・ミュラー=ドロサーTntpn001 ト)やフリッツ(マンフレート・リヒティ)などとの対立の構図が明快だからである。ほとんどハリウッド映画を思わせる単純明快さ。これほど単純な構図でなおかつ面白さを引き出せるのは、村の生活があきれるほど保守的だからである。そもそも、あの下着を作り販売することのどこがいやらしいのか、何で破廉恥だの、ふしだらだの、身の程知らずだの、村の恥だのと言われるのかさっぱり理解できない(笑)。逆に言えば、村がそれほど保守的だったから、マルタたちが断固自分たちの意志を曲げずに自分たちの道を進む様を描くだけで、観客は彼女たちに感情移入してしまうのである。

 もちろんそれだけ話は単純になり、物足りないと感じることも確かだ。確かに、女友達のフリーダやハンニも最初のうちはマルタについて行けず非難する側に回るが、やがて考えを変えてマルタを応援するようになる。その点、イギリス映画「柔らかい手」(2006)では、普段仲良くしていた知り合いたちが最後までヒロインの足を引っ張るというよりシビアな展開になる。だから「柔らかい手」にははるかにはらはらする緊張感がある。ヒロインたちが手を染める商売も「やわらかい手」や「ヘンダーソン夫人の贈り物」(2006)のほうがずっと大胆だ。これらのイギリス映画に比べるとやはりひねりがないといわざるを得ない。

 マルタの「勝手な」行動は平穏だった村を引っ掻き回してしまう。定年で仕事を引退し、しょぼくれていた男たちが次第に新しい生きがいを見出してゆく重松清の『定年ゴジラ』(講談社文庫)に比べると、マルタの選んだ道はより厳しい道だった(『定年ゴジラ』がつまらない小説だと言っているのではない)。古い価値観と正面から衝突せざるを得ない道を選んだのだから。しかし、「マルタのやさしい刺繍」はそれを重苦しく悲痛なタッチではなく、ユーモアを交えた軽快なタッチで描いた。

 村人たちから冷たい目を向けられ(女たちからさえ白い目で見られるのだ)、身内から手ひどい妨害を受けても、マルタたちはひょうひょうとしてアップルパイとお茶でおしゃべりを楽しみ、作戦を練っている。そんな描き方がいい。

 リージ(ハイジ=マリア・グレスナー)、フリーダ(アンネマリー・デューリンガー)、ハンニ(モニカ・グプサー)といったマルタの友人たちも、彼女たちを一番しつこく非難したヴァルターやフリッツもそれぞれに悩みや事情を抱えている。中心的な対立の構図とともに、そういった個々の家族の事情を丁寧に描いている。息子のヴァルターの秘密を知ったマルタが、彼にある助言をして彼を見方にしてしまうという展開が面白い。社会派ドラマとしてではなく、ファミリー・ドラマとして描いたから「マルタのやさしい刺繍」は成功した。「オフィシャル・ストーリー」(1985)、「セントラル・ステーション」(1998)、「母たちの村」(2004)、「ヴェラ・ドレイク」(2004)、「スタンドアップ」(2005)、「スパングリッシュ」(2006)などの優れた女性映画に比べると、「マルタのやさしい刺繍」は単純すぎるといわざるを得ない。しかし、「マルタのやさしい刺繍」には「ククーシュカ ラップランドの妖精」(2002)、「オフサイド・ガールズ」(2006)、「ボルベール<帰郷>」(2007)などの、また別のタイプの優れた女性映画に通じるものがあることも確かだ。われわれにはさまざまなタイプの映画が必要なのである。あまり難しいことを言わずに、その痛快さと爽快さを楽しめばいい。

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