先月観た映画(09年5月)
「この自由な世界で」(ケン・ローチ監督、イギリス・他)★★★★★
「ウォーリー」(アンドリュー・スタントン監督、米)★★★★☆
「おくりびと」(滝田洋二郎監督、日本)★★★★☆
「ブロードウェイ♪ブロードウェイ」(ジェームズ・D・スターン他監督、米)★★★★
「赤い影」(73年、ニコラス・ローグ監督、英・伊)★★★★
「マサイ」(パスカル・プリッソン監督、フランス)★★☆
5月に観た映画はわずか6本。本数はかなり落ち込みましたが、作品的には充実していました。特に月末に集中して観た「この自由な世界で」、「ウォーリー」、「おくりびと」の3本はいずれも傑作でした。久々に本格レビューを書きたいという抑えがたい気持ちが湧き上がってきた作品です。「この自由な世界で」と「おくりびと」についてはレビューを書きましたので、そちらを参照してください。
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「ウォーリー」
これはいい。大いに期待して観たが、その期待を上回る傑作だった。これまでのところ、ピクサーの最高傑作だと思う。基本的なテーマに手塚治虫の世界を感じさせるところがいい。人間の心を持ったロボットというテーマ。アニメはよく動物を主人公にするが、ロボットを主人公にしたものは多くない。「アイアン・ジャイアント」という優れた作品があるが、ロボットがロボットに恋をするラブストーリーというのはアニメでも手塚作品の中でも少ないのではないか。ほとんど言葉を発しないロボットの「心理」や「感情」を動作や表情だけで表現してみせた画期的な作品なのである。
動物のような感情移入や擬人化しやすい対象ではなく、本来無機質なロボットを主人公にして恋愛冒険ドラマに仕立てている。ウォーリーの姿は人間の姿とは程遠いし、より人間の形に近いイヴですらより無機質な姿である(性格的には小生意気な感じの女の子という設定になっているところがいい)。「目は口ほどにものを言う」というが、目と手の動き、そしてしぐさで、観る者を共感させてしまうほどの「感情」表現を生み出しているのである。その表現方法が見事である。
それだけではない。ロボットという人間の道具として使われている存在に「感情」を持たせるということには、猿を見て「ああ、人間そっくりだ」と感じたり、ペットに人間と同じような愛着を感じたりすること以上の意味がある。人間の単なる道具として作られ使われてきたロボットが人間と同じような願望を持つ、それにわれわれは強く共感してしまう。そこにある共感の質は、虐げられて来た人々の怒りや、あるいはささやかな希望に対してわれわれが覚える共感とおそらく同質のものなのだ。いくらでも取替え可能で、使い捨て可能な存在。人工知能は持たされていても、言葉や感情はあらかじめ奪われていた存在。そんな彼らがささやかな「愛」という感情を持ち始めたとき、ささやかな反乱が始まっていたのである。それは一方で、でっぷりと太って自分では歩けないほど退化し、ヴァーチャルなものですべて代用して感情すらなくしかけている人間世界を風刺的に描くことにつながってゆく。かといって、厭世的、世捨て人的な人間批判が展開されているわけではない。ロボットたちの「反乱」とその生き生きとした行動が活力を失い惰性的な生活を送っていた人間たちを覚醒させるという展開になってゆくのである。「俺達は生き延びたいんじゃない。生きたいんだ!」
「ウォーリー」が生み出した世界に最も近い作品、そして同じくらいの高みに達していた作品はティム・バートンの「コープス・ブライド」である。「コープス・ブライド」の世界は生者と死者が逆転した世界である。われわれはおぞましい姿の死者(死んだ花嫁)に生きている人間以上の魅力を感じ、彼女の切ない願いに深く共感し、感動すら覚えてしまう。「コープス・ブライド」が観客に与える共感と感動の質は「ウォーリー」と同じなのだ。単にウォーリーとイヴのキャラクターのかわいらしさだけに目を奪われるべきではない。
すっかりガラクタの山になってしまった「緑の地球」というテーマも手塚治虫を連想させる。タイトルは忘れてしまったが、手塚治虫の漫画に似た話がある。短編だったか長編の中の一挿話だったかも定かではないが、確かこんな話だった。長い間宇宙で暮らしていたある人物が死ぬ前に地球に戻ってくる。死ぬ前に緑の地球を見たかったのである。彼の記憶の中にある地球(あるいは親から聞かされた話の中での地球だったか)は緑あふれる美しい星だった。しかし彼が見た実際の地球は緑などどこにもないコンクリート・ジャングルになっていた。あるのはヴァーチャルな緑の映像だけ。そんなはずはない。彼は必死で緑を捜し歩く。そしてようやく発見する。たった一箇所だけ本物の植物が残っている場所があったのだ。
確かそんな話だった。同じように未来の話で、人間は宇宙に進出しているという設定。手塚は宇宙もの、未来ものをよく描いた。手塚が漫画で描いた世界が、海の向こうで受け継がれている(「ウォーリー」では感情の芽生えと小さな緑の芽生えがパラレルな関係になっている)。そう思えるのがうれしい。「ウォーリー」はロボットたちのラブ・ストーリーであると同時に未来と宇宙を描いたSFアニメでもある。宇宙船の描き方などは「スター・ウォーズ」シリーズを彷彿とさせる。
さらに連想を膨らませると、人間に捨てられたゴミだらけの地球で一人黙々と鉄クズを集めてまるで高層ビルのように積み上げているウォーリーの姿。これはニック・パークの「ウォレスとグルミット」シリーズの1本、「チーズホリデー」とよく似たシチュエーションである(地球ではなく別の星が舞台だが)。手塚治虫+「スター・ウォーズ」+「チーズホリデー」。「ウォーリー」はそういう作品である。ウォーリーは英語では“WALL・E”となっているが(ウォーリーという名前の普通のつづりは”Wally”である)、これはゴミの壁を築いているロボット(Eは電気仕掛けということだろう)という意味と思われる。しかし、深読みすれば人間とロボットの「壁」を壊そうとする映画だという意味がこめられているとも読める。
「ブロードウェイ♪ブロードウェイ」
映画版「コーラスライン」(リチャード・アッテンボロー監督)は85年に製作された。日本でも同年に公開され大ヒットした。83年公開の「フラッシュダンス」と並んで鮮烈な印象を残したミュージカル映画だった。オリジナルの「コーラスライン」は75年初演の舞台劇。ミュージカル製作の舞台裏をそのまま作品にしたミュージカル劇である。
この有名なブロードウェイ・ミュージカルが2006年に再演されることになり、8ヵ月間にわたる長く過酷なオーディションが展開された。「ブロードウェイ♪ブロードウェイ」はそのオーディションの過程を追いながら、応募者たちの人生模様を描いたドキュメンタリー映画である。
″コーラスライン″とは、稽古でコーラス(役名のないキャスト達)が、ダンス等でこれより前に出ないよう舞台上に引かれるラインのことである。つまり、「コーラスライン」の主役たちは、メインキャストではなくその背後で踊るその他大勢役に応募してきた人たちである。メインキャストではないコーラスの役ですらこれほど過酷な選抜試験をくぐり抜けねばならないのか、85年12月に映画版を観た時そう思った。ダンスの楽しさを堪能しただけではなく、ショービジネスという能力主義世界のすさまじさを垣間見た思いである。
「ブロードウェイ♪ブロードウェイ」はドキュメンタリーなので劇的な盛り上がりには欠けるが、順番待ちの間の緊張感、オーディションにかける思い、本番での熱演、そして結果発表の瞬間の明暗、無名の応募者たちのさまざまな人生の断面が捉えられている。実際のオーディションの具体的様子も良く分かる。アメリカのショービジネス界の熱さが伝わってくる優れたドキュメンタリーである。
「赤い影」
BFI(the British Film Institute)が1999年に選定した「イギリス映画ベスト100」(本館ホームページ「緑の杜のゴブリン」の「イギリス映画の世界」コーナーに全作品のリストを載せています)で歴代8位にランクされた作品。2005年にDVDが出てやっと観られるようになった。かなり期待して観たが、ややがっかりしたというのが正直なところ。というのもサスペンス映画だと思っていたら実はオカルト・ホラーだったのである。もちろんサスペンス的要素もあるが、どうも中途半端な印象だ。結末もすっきりしない。
監督のニコラス・ローグは撮影監督出身だけに、赤い色をうまく使ってサスペンスを盛り上げている。様々な映像的効果が使われていて(ラストは確かにショッキングだ)、おそらくそれが高い評価を得ている理由だろうが、結局説明のつかないオカルト的方向に行ってしまうのではがっかりである。要するに、デヴィッド・リンチの世界をいち早く70年代に描いて見せた作品と言えばいいだろう。
主演はドナルド・サザーランドとジュリー・クリスティ。この二人の若いころの作品を観るのは実に久々だった。二人ともまだ現役で頑張っているのだから立派である。前述のように、監督のニコラス・ローグはもともと撮影監督として知られていた人。撮影監督時代の代表作にはトリュフォーの「華氏451」やジョン・シュレシンジャーの「遥か群集を離れて」(トマス・ハーディ原作、寒々とした映像が素晴らしい)などの秀作がある。名作「アラビアのロレンス」では第二班の撮影監督を務めていた。「赤い影」は監督第3作。有名な作品はこれだけで、監督としては平凡だったといわざるを得ない。
「マサイ」
出演者は皆マサイ族で言葉もマサイ語という珍しい映画。しかし製作とスタッフはフランスである。毎月行なっている映画の会の例会で観たが、正直言ってこれははずれ。
マサイ族の若い戦士たちが旱魃に襲われた村を救うために、伝説の獅子ヴィチュアのたてがみを手に入れる旅に出る。そのたてがみを神に捧げれば、雨は戻ってくると村では信じられていたのである。その旅はまた彼らが真の「マサイの戦士」になるため旅でもあった。
ストーリーを簡単にまとめるとこういうことになる。実際のマサイ族の姿など滅多に見られるものではないし、その風習や生活が描かれているところは確かに興味深い。戦士でいられるのは(確か)18歳までというのも知らなかった。それを過ぎると力士の断髪式のように髪の毛を剃って卒業するのである。
しかし映画としてはストーリーも演出もありきたりで標準以下。ラストのライオンを倒すシーンに至ってはあまりに稚拙で情けなくなる。マサイ族に対する西洋人のステレオタイプ化されたイメージに通過儀式のこれまたお定まりのパターンをかぶせた安易な作り。イヌイット語でイヌイットを描いた最初の長編劇映画「氷海の伝説」(01年、カナダ、監督のザカリアス・クヌク自身イヌイットである)が堂々たる秀作だったことを考えれば、企画があまりに安易だったと言わざるを得ない。
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