2008 日本 2008年9月公開
評価:★★★★☆
監督:滝田洋二郎
脚本:小山薫堂
撮影監督:浜田毅
美術:小川富美夫
音楽:久石譲
出演:本木雅弘、山崎努、広末涼子、余貴美子、吉行和子、笹野高史
杉本哲太、峰岸徹、山田辰夫、橘ユキコ
<はじめに>
滝田洋二郎監督の作品は「僕らはみんな生きている」(1993)に続いて2本目。調べてみるとポルノ映画からスタートした人のようで、80年代半ばまでもっぱらポルノ映画を監督していた。86年の「コミック雑誌なんかいらない」が最初の一般映画。その後「木村家の人びと」、「病院へ行こう」、「僕らはみんな生きている」、「眠らない街 新宿鮫」、「陰陽師」、「壬生義士伝」など、次々に話題作を作ってきた。
いずれも名前は知っていたが「僕らはみんな生きている」以外はなかなか手が出ない監督だった。「僕らはみんな生きている」も真田広之主演なのでたまたま観てみた作品である。出来は悪くなかったが(『キネマ旬報』ベストテン5位)、傑作といえる出来ではない。93年という年は全く不作の年だった。90年代の日本映画は70、80年代のどん底から徐々に上向きになってきていた時期で、黒澤明、新藤兼人、熊井啓、今村昌平、黒木和雄、神山征二郎、小栗康平、市川準、山田洋次、伊丹十三、高畑勲、宮崎駿、崔洋一、原田眞人、黒沢清などの前の世代に交じって、中原俊、周防正行、阪本順治、岩井俊二、河瀬直美、三池崇史、井筒和幸などの新しい才能が台頭してきた時期である。日本映画が本格的に息を吹き返し、製作本数のみならず質的にも優れたものを少なからず生み出し始めるのは「たそがれ清兵衛」、「刑務所の中」、「OUT」、「阿弥陀堂だより」、「突入せよ!『あさま山荘』事件」などが登場した2002年以降である(一方でしょうもない駄作が多数作られてはいるが)。
「博士の愛した数式」、「フラガール」、「かもめ食堂」、「武士の一分」、「紙屋悦子の青春」、「嫌われ松子の一生」、「THE有頂天ホテル」、「雪に願うこと」、「六ヶ所村ラプソディー」、「ヨコハマメリー」などが公開された2006年に頂点に達し、その後もやや下降気味ながら勢いを保っている。90年代の作品で観たものは限られているが、次にマイ・ベスト15を挙げておく。
■90年代日本映画マイ・ベスト15
中原俊「櫻の園」(90)
篠田正浩「少年時代」(90)
山田洋次「息子」(91)
岡本喜八「大誘拐」(91)
大林宣彦「ふたり」(91)
中原俊「12人の優しい日本人」(91)
周防正行「シコふんじゃった」(92)
宮崎駿「紅の豚」(92)
新藤兼人「午後の遺言状」(95)
岩井俊二「Love Letter」(95)
周防正行「Shall we ダンス?」(96)
宮崎駿「もののけ姫」(97)
三谷幸喜「ラヂオの時間」(97)
平山秀幸「愛を乞うひと」(98)
原田眞人「金融腐食列島〔呪縛〕」(99)
さて、「おくりびと」は間違いなく滝田洋二郎監督を代表する作品になるだろう。ポルノ映画から出発してついにここまで到達した。彼の才能がやっと全面開花したということだろう。これだけの才能を持っているにもかかわらず、最初はポルノ映画しか撮れなかった。70・80年代の日本映画界はそういう状況だったのである。
「おくりびと」の主演は本木雅弘と山崎努。本木雅弘は周防正行の「ファンシイダンス」(1989)と「シコふんじゃった」(1992)で主演し、俳優としてただならぬ才能を見せつけた。こんなに才能のあるヤツだったかと当時驚いたものである。その後に観た「トキワ荘の青春」(1996)と「中国の鳥人」(1998)は作品自体がいまひとつだった。2000年代に入ってさっぱり映画では見かけなくなった。せいぜい「伊右衛門」のCMで見る程度。あれだけの才能が惜しいと思っていたところへ「おくりびと」が出現した。やっぱり彼は俳優として非凡な才能を持っている。「おくりびと」を観て、改めてそう確信した。
一方の山崎努は滝田洋二郎監督の「僕らはみんな生きている」にも出演していた。今や日本映画界の長老とも言うべき名優だ。最初に映画で彼を観たのは恐らく黒澤明監督の「天国と地獄」 (1963)だろう。いつも丘の上の邸宅を暗く鬱屈した目で眺めていた誘拐犯人の役。暗く落ち窪んだ目が薄気味悪くぎらついていた。実に不気味で強烈な存在感だった。僕の中では、この役柄が彼のイメージとしてしばらく固着していたほどだ。「悪の階段」 (1965)でも悪党の役で、これがまた恐ろしいほどはまっていた。翳りのある暗い表情、どこか底知れない暗闇と冷酷さを内に秘めた不気味さ、そんな役柄がやたらと似合っていた。
なぜか70年代には出演作に恵まれなかったが、80年代には伊丹十三監督作品に次々と出演した。この頃には飄々とした持ち味を発揮するようになっていた。2000年代に入ってもその活躍は止まらない。貫禄がありながら飄々とした持ち味を失わない。そんな得がたい役者になっている。いんちき広告でカモを釣っておいて、平然とした顔で広告は「安らかな旅立ちのお手伝い」の誤植だとうそぶく。それでいて彼が執り行う納棺の所作には一部の隙もなく、本木雅弘がほれ込んでしまうほど見事なものであった。かといって仕事人間であるはずもなく、フグの白子を食べながらあの苦々しい顔で「うまいんだなこれが、困った事に。」などというせりふをさりげなく吐く。いい加減な奴なんだか、いい人なんだかよく分からない。飄々とした立ち居振る舞い、巧まざるユーモア。まさに至芸である。彼の作品についてもマイ・ベスト10を挙げておこう。
■山崎努 マイ・ベスト10
「おくりびと」 (2008)
「刑務所の中」 (2002)
「GO」(2001)
「僕らはみんな生きている」 (1992)
「マルサの女」 (1987)
「タンポポ」 (1985)
「お葬式」 (1984)
「悪の階段」 (1965)
「赤ひげ」 (1965)
「天国と地獄」 (1963)
次点「クライマーズ・ハイ」 (2008)
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上で指摘したように、「おくりびと」の魅力はこの二人の主要登場人物の圧倒的な存在感にかなり依存している。とりわけ、誰もが指摘するように、二人が行う「納棺」の儀式の美しさは観る者をひきつけて離さない。思わず食い入るように見とれてしまう。一連の所作が実に美しいのだ。流れるような動作の手際のよさ、手つきの美しさ。名人が行う茶道の点前を見ているようだ。小林大悟(本木雅弘)の表情も美しい。いや、表情や手つきだけではない。一連の所作に死者への敬意が込められていることが観客に伝わってくるから美しいと感じるのだ。しかもこの儀式は遺族の目の前で行われている。われわれ観客もまたその場に居合わせていると思わせるほどリアリティを感じる。それには「現実の音」も大いに貢献している。シュシュという絹ずれの音がどんな効果音よりもリアルにその場にいるような臨場感を伝えているのだ。「武士の一分」の決闘シーンでわれわれが耳にした、刀が触れ合うときの背筋がぞくぞくするような金属音、その金属音に匹敵するリアリティがあった。
この「納棺の儀」を見たことがある人はほとんどいないと思われる。どうやら現在では滅多に執り行われることのない古式にのっとった儀式らしい。なるほど、こんな風に行われるのか。見たことのない古風な儀式を見る喜び、その喜びを味わうこともこの映画の魅力である。しかし、そこにこの映画の重要なテーマの一つが絡んでいることを見逃してはいけない。観たことがないのはそれが古風なものだからというだけではない。納棺師という職業自体が「見えない職業」、あるいは表立って「見せられない職業」だからこそ、われわれは見た事がないのだ。死者に触れるという仕事柄、“穢れ”というイメージが付きまとい、それゆえに差別される職業なのである。われわれの知らないどこかでそれは秘かに執り行われ、遺体がわれわれの目の前に現れるときには既に棺に入っているのである。
葬儀には欠かせないものでありながら、誰もやりたがらない仕事。それが納棺師の仕事である。映画の冒頭で小林大悟が「納棺の儀」を執り行っている場面が出てくる。しかし、彼がNKエージェントに就職して最初の仕事に連れて行かれたとき、そこで出会ったのは死後二週間経過した老女の遺体だった。まさに「臭い、汚い、気持ち悪い」の3K職場だった。そういう現実がいやというほど観客に突きつけられる。そういう職業だけに「見えない職業」だったのである。
「おくりびと」は単に珍しい仕事の内幕を見せてくれたという類の映画ではない。職業差別という生々しい現実と正面から向き合った映画なのである。この映画の最大の意義はそこにある。タブーに挑んだ映画なのだ。その最初の仕事の帰り、大悟はバス内で女子高生から「何か臭う」と言われ、あわてて途中下車し銭湯に飛び込む。何かに取り憑かれたように体から死臭を洗い落とそうとする彼の姿には「汚れてしまった」、その汚れを他人に気づかれてしまったという戸惑いと恥ずかしさがあった。もちろん、彼が洗い落とそうとしたのは死臭だけではない。大悟は死臭と一緒に世間の差別的視線をも洗い落とそうと必死になっていたのだ。夜な夜な夢遊病者のように眠りながら歩き回り、まだ手から血のにおいが消えない、血のしみが消えないと、深いため息をついているマクベス夫人が、手に付いた血(これは幻覚だが)と同時に殺人を犯した罪意識をも洗い落とそうとしていたように(マクベス自身も「大海原の水すべてを使えば、この手についた血を落とせるのか?いいや、それどころか、俺の手は、広大な海を血の色で染め、海の緑を赤一色にするだろう。」と嘆いている)。帰宅後、妻の体を抱きしめる。まるでその体から「生」の息吹を吸い取ろうとするかのように。このシーンは秀逸だった。
実際、世間の冷たい視線と態度は容赦なく彼の心に突き刺さる。友人の山下(杉本哲太)からは「もっとましな仕事さ就けや」と忠告され、ある喪主からは「おめぇら死んだ人間で食ってるくせに」と怒鳴られる。「あの人みたいな仕事」と指差されることもあった。ついには、妻の美香(広末涼子)からも「汚らわしい」と言われてしまう。
「おくりびと」が描いたのは、そういう世間の冷たい視線に押しつぶされそうになりながらも、迷いつつ葛藤しつつも大悟が自分の職業に誇りを持つに至るプロセスである。われわれがこの映画に共感するのはまさにその点である。
彼の認識を変える上で、NKエージェントの社長である佐々木(山崎努)の存在が大きかった。この一見いい加減そうな人物は実におおらかな人柄だった。彼は仕事上の知識や技術面で大悟を指導しただけではない。死との向き合い方を教えていた。フグの白子をむしゃむしゃと食べながら言った彼のせりふは実に暗示的だ。「生き物は遺体を食って生きる。これも遺体だろ。どうせ食うなら美味しいほうがいい。うまいんだなこれが、困った事に。」この「困った事に」というところがなんとも滑稽に響くが、この言葉は「おめぇら死んだ人間で食ってるくせに」という心無い言葉に対置されている。人は生きるために食ってゆかねばならない。食うために就いた職業がたまたま人の死とかかわる職業だったに過ぎない。納棺師は生きるための手段。自分の生業で金を稼ぎ、その金でうまいものを食らう。それでいいんだ。妻にも逃げられ、くよくよしていた大悟には、世間の冷たい視線など歯牙にもかけない、このあっけらかんとした社長の姿が不思議であり、うらやましくも見えただろう。「一旦その職に就いたのなら自分の職に誇りを持て」などという直接的表現よりもはるかに説得力がある。死とかかわりながら、旺盛な食欲を持ち、旺盛に生を享受する。佐々木と違い大悟はまじめ一方の男だが、佐々木のこだわりのなさに彼もいつしか引き付けられてゆく。
迷い続ける大悟を支え、その迷いを振り払う手助けをした人は他にもいる。彼がとっさに飛び込んだ銭湯にかかわる人たちだ。銭湯はNKエージェントと並ぶ、「おくりびと」の人間関係のもうひとつの中心である。銭湯の経営者である山下ツヤ子(吉行和子)、その息子で大悟の友人である山下、そして銭湯の常連客銭湯の常連客平田(笹野高史)。
美人だと思ったら「あれ」が付いていた青年、幼い娘を残して亡くなった母親、沢山のキスマークで送り出されたじいさん、最後の旅立ちにルーズソックスをはいていったばあさん。大悟たちはいろんな遺体を納棺したが、その人たちの人生は垣間見ただけである。遺体はそこにある物体に過ぎない。丁寧に扱いはするが、遺族や友人たちと同じ気持ちにはなれない。しかし親しくしていた銭湯のおばちゃんの納棺の儀式が描かれることで、遺体に人生が取り戻された。単なる物体ではなく、確かに生きてきた記憶が込められた。その意味で銭湯のおばちゃんの存在は重要であり、また必要だった。遺体は単なる魂の抜け殻ではなく、死ぬ直前まで確かに生きていたのだ。彼女は身をもって大悟と観客にそのことを教えた。そしておそらく、銭湯のおばちゃんを送り出した時、大悟は体を清めるための銭湯を必要としなくなったのだ。そのとき大悟は一人前の納棺師になった。
銭湯の常連客である平田もまた「見えない」職業に就いている人だった。そのことは銭湯のおばちゃん山下ツヤ子の火葬のときに明らかになる。その時まで誰も彼の職業を知らなかったのは故なきことではない。彼もまた人に自分の職業を話しづらい仕事をしていたのだ。その彼の言葉がまた味わい深い。「死は門である」と言うのだ。「この人たちは、三途の川を渡るのではなく、門をくぐって行くわけです。私は門番としてたくさんの人をおくって来たんですよ。」この言葉には「おくりびと」の原案となった青木新門著『納棺夫日記』に対するオマージュが感じられる。この本はまだ読んでいないが、あるサイトによると、その中に「死者にとっては、さわやかな風の世界からすきとおった世界へ往くだけである。そこには死もないから<往生>という」という文章があるようだ。「死は門である」という言葉は青木新門の世界観に通じるものがある。
青木新門の『納棺夫日記』は独特の宗教観を持っているようだ。映画はそこまで立ち入っていない。日本人の死生観に関しても深く踏み込んでいるとはいえない。だが、それは必ずしもマイナスとはいえない。死生観や宗教的考察に下手に踏み込んでいたずらに難解な作品になってしまったかも知れない。うまく取り込むのは難しいし、下手に踏み込めば消化不良になってしまう。その是非はともかく、少なくとも、分かりやすくすっきりまとめたことが商業的成功につながったとはいえるだろう。ユーモアの味付けをしたことも評価していい。
むしろ疑問を感じるのは最後のクライマックスである。大悟が父親を納棺する場面。彼が子供の時に家庭を捨て出て行った父を大悟はずっと憎んでいた。当然最初は遺体の引き取りすら拒否していたが、同僚の上村(余貴美子)の説得で引き取ることを決意する。この結末にいたるまでに、顔の見えない父親の姿が何度も映され、父親が残していった“石文“が伏線として何度も挿入される。大悟は父親の遺体が握っていた石を発見し、父親の真意を知る。また、一度は実家に帰っていた妻も葬儀社の人に「夫は納棺師なんです」ときっぱりと言いきるところまで変わっていた。
伏線的に扱われていた大悟の父親と妻のエピソードがこの大団円でひとつに結びつく。そういう展開になっている。だが、はっきり言って、この部分が一番弱い。最後にお決まりの泣かせの路線に逃げてしまった。そう感じるひとつの理由は、妻の心境の変化を十分描きこめていないからである。しばらく夫から離れている間に気持ちに変化があったらしいと暗示するにとどまっている。つまり、彼女がどのように考え方を変えたのかが何も描かれていないのだ(子供ができたというだけでは説得力がない)。演じる広末涼子の力量も他の出演者と比べると大きな隔たりがあると感じる。どうも一人だけ浮いている感じだ。だから「夫は納棺師なんです」という決め台詞も胸に迫ってこない。
父親のエピソードについては、むしろない方が良かった。ただただ観客を泣かせるためだけに無理やり作られたものである。仮に父親を納棺することになったにしても、それは大悟の成長過程の一通過点として描くほうが良かったのではないか。父親が息子に石を贈るエピソードはイギリス映画の傑作「Dearフランキー」でも描かれている。フランキーにとって父からもらった平らな石は何物にも代えがたい宝であった。しかし映画のラストで、彼は大事にしていたその石を水きり遊びに使う。その石は今までになく何度も水の上をはねた。そこにフランキーの成長が描かれていた。もう思い出の石は必要ない。同時に彼はもはや父親からの手紙(実は母親が代わりに書いていた)も必要としなくなっていた。
大悟も何らかの形で父親の記憶に決着をつけ、先に進むべきだった。その方が安易なお涙頂戴路線に走るよりずっと良かった。