「イントゥ・ザ・ワイルド」(ショーン・ペン監督、アメリカ)★★★★☆
「バンク・ジョブ」(ロジャー・ドナルドソン監督、イギリス)★★★★
「ただいま」(チャン・ユアン監督、中国、イタリア)★★★★
「リダクテッド」(ブライアン・デ・パルマ監督、米・加)★★★★
「旅するジーンズと19歳の旅立ち」(サナー・ハムリ監督、アメリカ)★★★★
「レッド・クリフPart I」(ジョン・ウー監督、中国・日本・台湾・他)★★★☆
「フィクサー」(トニー・ギルロイ監督、アメリカ)★★★☆
4月はめちゃくちゃ忙しい月でした。観た映画の本数も7本に減ってしまった。それでも短評を書くのに苦労しました。やはり、映画を観た直後にある程度まとまった感想などをメモしておかないと短評すらうまく書けない。個々のシーンやせりふなどはほとんど忘れている。このところ忙しさにかまけて、ただ映画を消費していただけだったと反省。
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「イントゥ・ザ・ワイルド」
2時間半くらいある長尺映画だが、引き込まれて観た。4月に観た映画の中では一番いい出来だと思う。原作はジョン・クラカワーのノンフィクション『荒野へ』。英語版は96年に出版され、翻訳は97年4月に出ている。新聞に載った書評で興味をもち、読書ノートを調べると翻訳が出た直後の5月7日に買っている。しかしいまだに読んでいない(既に文庫本が出ているようだ)。どういうわけか、後から買った『空へ』(イギリス映画「運命を分けたザイル」の原作)を先に読んでいる。
「イントゥ・ザ・ワイルド」は、青年クリストファー・マッカンドレス(エミール・ハーシュ)が生きる意味を見出すためにアラスカの荒野に入り、自分の犯したミスのために命を落とすまでのプロセスを冷静に追って行く。彼は大学を優秀な成績で卒業しながら、ほとんど崩壊している自分の家庭に嫌気がさし、ついには欺瞞に満ちた文明社会そのものに見切りをつけて荒野を目指したのである。
アラスカに至るまでの部分は、アメリカをヒッチハイクしながら様々な人々と出会う過程が描かれており、一種のロード・ムービー的色彩を帯びている。アラスカに徒歩で入って孤独の生活を送るあたりは「究極の自由」を求める精神の旅の趣を呈する。全体を通じて、何故彼はあのような行動をするのかという疑問が絶えず観る者の心に浮かび続ける。これが観客を引き付けるドライブの一つとなっている。
しかし映画は決して抽象的な精神世界にのめりこむことはない。冷静に主人公の行動や言動を追ってゆく。耐え難い現実に絶望し、真実を求めて迷うことなく突き進む彼の姿勢に共感を示しつつも、それが人々との絆を断ち切って行く方向に進んでいったがゆえに悲惨で孤独な死を迎える過程を冷静に描いてゆく。この描き方が成功している。恐らくほとんどの観客が彼の一途に真実と自由を求める姿勢に引き付けられると同時に、そのかたくななまでの考え方に疑問も感じているはずだ。原作には賛否両論の感想が寄せられたという。彼の強い精神性に引かれるか、その無謀さを批判するか。人によって考えが分かれるところだ。
僕自身終始彼の「真実」や「自由」というものに対する観念的な捕らえ方に疑問を感じていた。しかしたとえそうであっても、2時間半の間最後まで観るものを引き付けるだけの力がこの映画には確かにある。まずその点を評価したい。
彼は心ならずも通い続けた大学を卒業すると同時に、それまでの生活を総て投げ捨てることから新しい生き方に踏み出した。家族を捨て、金を捨てる。自分の名前さえ捨ててしまう。彼はアレクサンダー・スーパートランプと名乗る。Alexander Supertrampの”tramp”とは「放浪者」という意味である。それまでの自分すら捨てて新たな人生を探す放浪の旅に出る。
かつてフォーク・クルセダーズが「青年は荒野をめざす」と歌ったが、そこには似た感情があったと思われる。現状否定から模索へ。僕が終始感じていた疑問や違和感は彼の否定と模索の仕方である。一言で言えば、彼はたらいのお湯と一緒に赤子も流してしまった。欺瞞に満ちた人間関係や金銭づくの社会を否定するあまり、人間とその社会から自らを断ち切ってしまった。しかし人間は一人では生きられない。少なくとも経験不足の若者一人では。荒野で一人生きるには多くの経験とそこから得た知識が必要だ。しかし彼はそれらを充分学ぶ前に人間との関係を断ち切ってしまった。
もちろん彼はただ逃避していたわけではない。彼自身はむしろ真実や真の自由を探求していると思っていたに違いない。しかし彼の追い求めていた真実や自由とは極めて観念的なものだったと思う。だから探求しているつもりで結局は逃避していたのである。自由は一切の拘束のない空想的な理想郷へ逃げ込むことによってではなく、自由を制限しているものを取り除くことによってこそ得られる。真実を見抜く力とは社会の根源的矛盾がどこから来るのかを見抜く力である。社会に背を向けることによっては得られない。
人生の旅の最後に、一人中毒に苦しみもがく中で、彼は一人であることがいかに無力であるかを悟る。「人は一人では生きていけない、人生の喜びは誰かと分かち合うことではじめて得られる。」死ぬ直前に彼はやっとその認識に到達した。
カナダのユーコン準州を舞台にしたセミ・ドキュメンタリー「狩人と犬、最後の旅」(04年、ニコラス・ヴァニエ監督)という映画がある。信じられないほど美しい自然の中で生きる猟師夫婦の生活を描いている。「人間は自然の征服者としては描かれていない。人間も自然の中で生かされている一つの動物としてとらえ、動物、植物、自然が複雑に絡み合う関係性の中で描いている。人間と犬と野生の生き物と自然のドラマなのである。」(本ブログの短評より)この映画の一番の魅力は自然の美しさである。舞台となったのはカナダのユーコン準州。厳しい自然との戦いが描かれるが、同時に人間による自然破壊と自然の消失というテーマも描きこまれている。こんな奥地にまで開発の手は伸びてくる。しかし、人間を醜いだけの存在として描いているわけではない。主人公は動物の毛皮を売って現金収入を得ている。町に行けば仲間と酒を交わす。何キロ離れていても仲間を助けに行き、また仲間が助けに来てくれる。そういう関係を維持している。
「イントゥ・ザ・ワイルド」の主人公クリストファー・マッカンドレスも、生きながらえていたならばこのような生活に行き着いていたかもしれない。別の生き方を選んだかもしれないが、いずれにせよその前に命を絶たれてしまった。彼は自然の中に入り込みながら、なぜか打ち捨てられたバスの中で暮らしていた。バスは町と町だけではなく、人々の生活と生活をつなぐものだ。だがこのバスはどこにも向かわない。
旅の途中で出会う人々とのエピソードが印象的なのは、そこに人との触れ合いがあったからだ。彼は文明を拒否するあまり社会との絆も絶ってしまった。そこには太るのを拒否して拒食症になり餓死していった人と重なるものを感じる。
だが、ここまで言った上で、なおかつこう付け加えたい。それでも青年は荒野を目指す。自分を拘束していたものを一切投げ捨てて、新しい生を求める。その思いの強烈さが映画の力であった。そのことを率直に認めたい。
「バンク・ジョブ」
ダニー・ボイル監督の「トレインスポッティング」(96年)、ガイ・リッチー監督の「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」(98年)と「スナッチ」(00年)、ドミニク・アンシアーノ&レイ・バーディス監督「ロンドン・ドッグズ」(99)、ジョン・クローリー監督の「ダブリン上等!」(03年)、マシュー・ヴォーン監督の「レイヤー・ケーキ」(04年)、等々。イギリスのクライム・ムービーはアメリカ映画とはまた違った魅力がある。正直言って、こちらの方が僕は好きだ。90年代後半から2000年代前半にかけて結構作られたが、しばらく途切れていた印象がある。久々に活きのいいクライム・ムービーと出会った。これは楽しめましたね。
王室関係者や上流階級の大物の恥ずかしい姿を撮ったフィルム。そんなものが外部に漏れたら英国全土を揺るがす一大スキャンダルになる。それを防ぐために考え出された作戦は実に人を食ったものだった。素人強盗団をそそのかしてスキャンダルの「ネタ」が保管されていた銀行を襲わせる。強盗が成功した後こっそりその「ネタ」を横取りしてもみ消そうという遠大な計画。政府や警察が表立って動けないゆえの苦肉の策。この設定そのものがいかにもイギリスらしい皮肉とブラック・ユーモアにあふれているではないか。
まあ、後は観て楽しんでもらえばいい。何てったって、監督は傑作「世界最速のインディアン」(05年)のロジャー・ドナルドソン。面白くないはずはない。主演のジェイソン・ステイサムもいい。
「ただいま」
期待した以上にいい映画だった。ラストの展開は予想がついてしまうが、それでも家族全員の苦悩が十分伝わってきた。「緑茶」(02年)、「ウォ・アイ・ニー」(03年)のチャン・ユアン監督作品。これまで観た3本の中では一番出来がいい。
出所してきた娘が家族の下に帰る。この設定は韓国映画「ファミリー」(04年、イ・ジョンチョル監督)とよく似ている(もっとも「ただいま」の場合は3日間だけの一時帰宅だが)。しかし「ファミリー」が結局韓国映画お得意のお涙頂戴に堕してしまったのに対し、「ただいま」は泣かせの演出を押さえしっとりと味わいのある作品に仕立てた。秀逸なのは娘タウ・ラン(リウ・リン)が家に帰ってからではなく、帰るまでを中心に描いたことだ。親との再会の場面は最後の最後までとって置く。代わりにたまたま同行することになった刑務所の女性教育主任シャオジェ(リー・ビンビン)との道行きを描く。
どうせ帰っても親に受け入れられないのではないか、合わせる顔がないといった娘の不安な心理がクローズアップされる。あくまで彼女を励まそうとする女性看守がやや美化されすぎている感じはあるが、かたくなに心を閉ざそうとするタウ・ランを優しくまた厳しく励まし、積極的に行動する姿は実に魅力的だ。制服姿が凛々しいシャオジェ、演じるリー・ビンビンは細面の凛とした美女。実質的なヒロインは彼女の方である。一方のタウ・ランは終始遠慮がちで縮こまっている(しかも入所した時は16歳だったが、17年も刑務所で過ごしていたので既に33歳になっていた)。
一種のロード・ムービーなので、二人のやり取りばかりではなく(夜の屋台で「水餃子」を二人で食べるシーンは特に素晴らしい)タウ・ランが見る北京の街の変貌も描かれる。何せ17年ぶり。まるで浦島太郎のような心境だったろう。やっとたどり着いた故郷のフートンは、再開発のため既に取り壊されていた。呆然とするタウ・ラン。
それでもシャオジェはあきらめず、何とか移転先を聞き出す。そしてクライマックスの両親との再会シーン。何度ノックしてもなかなか両親は出てこない。やっと父親が出てくるが、母親は影しか映らない。その影はどうも母親とは別人のように見える。ひょっとして父親は母と別れ再婚したのか。この17年間、両親にとっても地獄だったに違いない。そんな不安が頭をよぎる。この演出が実にうまい。
母親については伏せておこう。とにかく家の中に招き入れられた後もギクシャクとしてよそよそしい空気が4人を覆っている。観客の関心は主として父親の反応に向けられる。なぜなら、実はタウ・ランの両親はそれぞれ連れ子がいて結婚したのである。タウ・ランは母親の子で、父親の連れ子をある事情で殺してしまったのである。父親は自分を恨んでいるに違いない。心の重圧。この先は実際に映画を観てほしい(DVDが入手可能)。一言だけ付け加えるなら、この映画が最終的に描いたのは邦題の「ただいま」ではなく「お帰り」だったということだ。
「リダクテッド」
期待したほどではなかったが、なかなかの力作である。「告発のとき」(07年、ポール・ハギス監督)と共通する主題を持った映画だ。
タイトルの「リダクテッド」とは「編集済み」という意味。アメリカの大手メディアによるイラク戦争報道は当たり障りのない内容に「編集」されているという批判が込められている。代わって映画が映し出すのは兵士たちが戦場を直に撮影したプライベート・ビデオやアメリカ以外の国のニュース映像などである。
単純といってもいいほど分かりやすい主題である。しかしそこに描き出されたイラク戦争の「実態」にいまひとつ迫力がない。こんなものではないはず。もっといろんなことを映し出して欲しかった。そういう不満が残ってしまう。切り込みようによっては「告発のとき」以上の傑作が作れた可能性があっただけに、その点が物足りなかった。
「旅するジーンズと19歳の旅立ち」
前作「旅するジーンズと16歳の夏」(05年、ケン・クワピス監督)ははほとんど一般に知られなかったが、拾い物、いやそれ以上の秀作だった。その続編が出た。がっかりするかもしれないという不安もあったが、「ひょっとすると」という思いで借りてみた。
あれから3年。最初はなんだか4人がバラバラで、フラッシュバックのように目まぐるしく4人のシーンが入れ替わるのであまり映画に入り込めなかった。しかし途中からどんどん引き込まれていった。最初の内は4人とも前作のような魅力がないと思っていたが、次第にその魅力を取り戻してくる。最後に魔法のジーンズはどこかに消えてしまう。しかしバラバラになりかけていた4人は友情を取り戻すことができた。「もう魔法のジーンズがなくても自分で問題を乗り越えてゆける、そこに彼女たちの本当の成長があった。」前作のレビューの最後にこう書いたが、続編も同じような展開になっている。その点が物足りないようでもあり、またほっとするところでもある。
アンバー・タンブリン、アメリカ・フェレーラ、ブレイク・ライヴリー、アレクシス・ブレーデル。前作に引き続き出演したこの4人組がやはりいい。細かいストーリーは省略するが、今回一番良かったのはブリジットと祖母のエピソード。前回はただの可愛い子ちゃんという感じだったのが、いいストーリーと出会って輝いている。また今回は全員がリーナの応援にギリシャに駆けつけるところが見所。ギリシャの美しい風景が全体のストーリーの弱さを幾分補っている。まあ、サービスだと思って楽しめばいい。
「レッド・クリフPart I」
「ロード・オブ・ザ・リング」をお手本にしたような作り。大味だがそれなりに楽しめた。ドラマを弱めたのはミスキャストのせいもあるかもしれない。違和感があったのは諸葛孔明に扮した金城武。もっと老獪な感じでないと諸葛孔明らしくない。それ以上に物足りなかったのは劉備役のユウ・ヨン。泰然自若とした落ち着きや思慮深さが全くなく、ほとんどただのおっさん。どこにも英傑らしさが感じられない。逆に一番魅力的だったのは周瑜を演じたトニー・レオン。事実上彼が主役の位置にある。韓国の名優アン・ソンギそっくりな深みのある顔立ち。「ラスト、コーション」(07年、アン・リー監督)でも渋い味を出していた。実に素晴らしい俳優だと最近見直している。
しかし集団の戦闘シーンはうまく撮るのは難しい。つくづくそう感じさせられる。第二次世界大戦後の近代戦ならば壮絶な戦闘シーンが作れるが、大砲も銃もない時代の戦闘シーンは兵と馬がやたらと多いだけでゴチャゴチャと入り乱れているだけ。どれを観ても大味だ。見せ場としていろいろな陣形を見せるが、亀甲の陣だったかはほとんど笑ってしまう。「ズール戦争」(63年、サイ・エンドフィールド監督)に比べるとはるかに劣る。
中国人は英雄、豪傑を異常なほど愛好する。『水滸伝』や『三国志』はまさに英雄伝である。したがって集団戦闘の場面でもそれぞれの英雄の超人的強さをやたらと強調する。見ていて食傷してしまう。義侠心や智恵などは脇にやり、ただ豪傑ぶりだけを描いているからだ。数年前にビデオで全巻観たテレビドラマ・シリーズ『水滸伝』の方が英傑一人ひとりの個性が描き分けられているだけにずっと面白かった。「レッド・クリフPart I」で人物、戦闘の技量共にしっかり描かれていたのは周瑜のみ。ドラマが弱くなるわけだ。アランが歌った主題曲も評判ほどいい曲だとは思えなかった。
「フィクサー」
どんなストーリーだったか思い出すのに時間がかかった。いやはや、もうすっかり記憶から抜け落ちている。わりと評判だったので観てみたのだが、特に印象に残るところもない映画だった。
同じ「フィクサー」というタイトルなら、68年のアラン・ベイツ、ダーク・ボガード主演作品が断然おすすめ。バーナード・マラマッドの原作をジョン・フランケンハイマーが映画化した作品。原作はずいぶん昔『修理屋』というタイトルで早川書房から翻訳が出ていた(英文科の学生だった頃に入手)。ユダヤ人差別を描いた骨太の作品で、ジョン・フランケンハイマーの最高傑作だ。30年数年前にテレビで観たが、いまだにDVD化されていない。もはや幻の名作。どうでもいい映画を繰り返し出していないで、こういう名作を早くDVDにして欲しいものだ。