先月観た映画(09年2月)
「告発のとき」(07、ポール・ハギス監督、米)★★★★☆
「アフター・ウェディング」(06、スサンネ・ビア監督、デンマーク)★★★★☆
「赤い風船」(56、アルベール・ラモリス監督、フランス)★★★★☆
「ダージリン急行」(07、ウェス・アンダーソン監督、米)★★★★☆
「モンテーニュ通りのカフェ」(06、ダニエル・トンプソン監督、仏)★★★★☆
「クライマーズ・ハイ」(08、原田眞人監督、日本)★★★★
「西の魔女が死んだ」(08、長崎俊一、日本)★★★★
「光州5.18」(07、キム・ジフン監督、韓国)★★★★
「胡同愛歌」(03、アン・ザンジュン監督、中国)★★★★
「白い馬」(53、アルベール・ラモリス監督、フランス)★★★★
「相棒 劇場版」(08、和泉聖治監督、日本)★★★☆
久しぶりに映画を二桁観た。うち5本は4つ星半を付けた傑作。それ以外もほとんどが4星クラスの出来で、いちばん点の低い「相棒 劇場版」も決して悪くはなかった。レビューは1本しか書けなかったが、久々に充実した1ヶ月だった。「告発のとき」はレビューを書いているので、そちらを参照してください。
「アフター・ウェディング」
これは期待してみた映画だが、裏切られることはなかった。初めて観たスサンネ・ビア監督作品である。どうやら恋愛ものを得意とするらしい。前作「ある愛の風景」も早く観たい。デンマーク映画を観るのは「幸せになるためのイタリア語講座」以来だ。デンマークはカール・ドライエルやビレ・アウグストを産んだ国だが、日本で観られる作品はまだまだ少ない。
喜ばしい出来事である結婚式の後に、何かが壊れ、また何かが生まれた。一つの家族と一人の男に焦点を当てているが、インドでの奉仕活動がサブテーマとして通奏低音のように流れている。過去の恋愛と存在を知らなかった娘をめぐる心理的葛藤のドラマだが、家族を取るかインドを取るかという葛藤がそれに重なっている。結局家族を取るのだが、ラストはインドでの足場をなくした男の苦悩に満ちた顔で終わる。
自分に子供がいたことを知って慌てふためく男。「アメリカ、家族のいる風景」、「トランスアメリカ」、「ブロークン・フラワーズ」などのアメリカ映画も同じような設定だが、「アフター・ウェディング」のような展開にはならない。「アメリカ、家族のいる風景」や「ブロークン・フラワ^ズ」の父親の葛藤はユーモラスでとぼけてすらいる。「トランスアメリカ」は父親が性転換するというねじれた設定のため、父親の葛藤が中でも一番切実でリアルである。しかし、いずれも父親の視点を中心に描かれている。「アフター・ウェディング」が秀逸なのは、自分に娘がいたことを知ってショックを受けた男ヤコブ(マッツ・ミケルセン)だけではなく、ヤコブが死んだと思っていた元恋人ヘレネ(シセ・バベット・クヌッセン)のショックと葛藤、父親は死んだと聞かされていた娘アナ(スティーネ・フィッシャー・クリステンセン)の葛藤、そしてわざわざ妻ヘレネの元恋人ヤコブを娘の結婚式に呼んだヨルゲン(ロルフ・ラッセゴード)の意図と葛藤が同時に描かれているからである。この多様な視点がこの作品に繊細さと深みを与えている。
■おすすめデンマーク映画
「幸せになるためのイタリア語講座」(2000) ロネ・シェルフィグ監督
「マイ・リトル・ガーデン」(1997) ソーレン・クラウ・ヤコブセン監督
「愛と精霊の家」(1993) ビレ・アウグスト監督
「ペレ」(1987) ビレ・アウグスト監督
「バベットの晩餐会」(1987) ガブリエル・アクセル監督
「奇跡」(1955) カール・ドライエル監督
「赤い風船」
「赤い風船」をフィルムセンターで観たのは75年2月22日。34年ぶりに観直したことになる。使い古された言い方だが、「映像詩」という表現がぴったりくる映画だと改めて思った。
36分の短編だが、ほとんどせりふはなく、風船を見つけたパスカル少年と赤い風船、そしてその風船を奪おうとする腕白少年たちをキャメラは淡々と追ってゆく。言ってみれば、ただそれだけ。筋らしい筋はなかったと記憶していたが、ある程度筋のようなものはあった。風船がまるで意思を持っているかのように動くことも忘れていた。ただただ赤い風船を追って行くだけだが、なぜかそれが魅力的だったと記憶していた。
今回観直してもう一つ驚いたのは風船の赤い色の鮮烈さである。実に鮮やかな色だった。その鮮やかな色の風船が淡い色調の街をゆらゆらと飛んでゆく映像はそれだけで魅力的だ。しかしそれだけではこの映画の魅力を十分説明したことにはならない。では、この映画の魅力はどこにあるのか。これを説明するのは難しい。
赤い風船の魅力はその鮮やかな色ばかりではなく、それが自ら意志を持っているかのように自由に動くという所にあると思われる。少年の後を追いかけるばかりではなく、少年が授業を受けている間は先生をからかって、少年が外に出てくるとまたついてゆく。少女が持っていた青い風船にふらふらとついていったりもする。つまり風船は少年の飼い犬であるかのように振舞っているのである。
擬人化という技法がある。童話などでよく使われる手法だ。動物や鳥や昆虫などが人間のように話したり行動したりする。そうすることで動物や鳥や昆虫をより身近なものに感じさせ、人間と同じように共感したり反発したりできるようになる。「赤い風船」の魅力はその擬人化の魅力と説明できそうだ。タイトルが示すように、観客は少年よりも風船に心を奪われている。観ている子供が簡単に風船に感情移入してしまい、風船が割られてしまった時には泣き出したりするのはこの擬人化の力だろう。大人にとってもあの場面はショッキングだ。風船を飼い犬に置き換えてみればいい。まるで少年がかわいがっていた飼い犬がいじめ殺される場面を観たかのように、われわれは風船が割られてしまう場面を観ているのである。
上で動物や鳥や昆虫などと書いたが、普通擬人化するのは人間以外の生き物である。「赤い風船」が秀逸なのは、生き物ではなく全く無機質な風船に「命」を与えたことにある。それは本来感情や心を持たないロボットに人間のような心を持たせた手塚治虫の世界に通じるものがある。しかし、ロボットの場合は人間のような形をしていることが多いので、風船に比べればまだしも生き物に近いとも言える。風船という全く人間と異なる無機質なものに「生命」を持たせたことにこの映画の根源的魅力があると言えるのではないか。
だが、それだけでもない。風船の色の鮮やかさ、やんちゃな子犬のようないたずらっぽい動き、少年はそんな風船に心を引かれたのだろう。腕白少年たちに風船を奪われそうになって必死で風船を護ろうとする少年は、単に自分のものを奪われたくないという独占欲で行動しているのではなく、かわいい子犬を護る飼い主のような気持ちで行動しているのだろう。その少年の必死な気持ちにもわれわれは共感してしまう。少年と風船は一体なのである。そう考えると、「白い馬」も基本的には同じ話なのだ(「白い馬」の短評は割愛します)。
少年と風船の心の通い合い。この本来ありえない設定をごく自然にわれわれに受け入れさせてしまう力量、そこにアルベール・ラモリスの才能があったといえる。
「ダージリン急行」
「ダージリン急行」のタッチはまったくアメリカ映画らしくない。フランス映画を観ている感覚の映画だ。英語を話しているにもかかわらず、アメリカ映画という感じがほとんどしない。まだしもイギリス映画と言われたほうがしっくり来る。主要登場人物はアメリカ人で舞台はインドだが、ヨーロッパ映画の感覚なのである。そう、主題もタッチもフランス映画「サン・ジャックへの道」に近い。3人の兄弟が母を訪ねて旅に出るロード・ムービー仕立て。最期に荷物を捨てて行くところも「サン・ジャックへの道」に通じる。
家族崩壊とその再生を描いた「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」、かなりオタクの世界に踏み込んだ「ライフ・アクアティック」に続いて、僕が観たウェス・アンダーソン作品はこれが3作目。前の2作は楽しめたもののやや物足りないものを感じたが、「ダージリン急行」でやっとブレイク・スルーした感じだ。
主人公の3兄妹(オーウェン・ウィルソン、エイドリアン・ブロディ、ジェイソン・シュワルツマン)がみな強烈な個性の持ち主。何かと厄介ごとを呼び込みそうな癖のあるキャラクターぞろい。そんなばらばらの3人が長男の計らいでダージリン急行に乗って“スピリチュアル・ジャーニー”に旅立つ。神聖な場所に詣でたり、祈りを捧げたりはするが、その旅がさっぱり“スピリチュアル”でないのが可笑しい。
それぞれの個性丸出しで、ハプニングの連続。互いにぶつかり合いながらの珍道中も、やがて父親の結婚式をすっぽかして以来行方の知れない母を探す旅だと分かってくる。しかし、やっとある修道院にいる母をたずね当ててみると、翌朝母親はまたもやとんずらしていた。兄弟たちが真の絆を結んだのはその後だ。これは何かを見つけ出す旅というよりは、三人の兄妹を縛り付けていた両親の呪縛から解放され、それぞれが心のわだかまりを剥ぎ取ってゆく旅だったのである。旅の間絶えず引きずっていた父親の形見であるバッグをラストで次々に投げ捨てて行く場面はその象徴なのである。「サン・ジャックへの道」の3人同様、彼らも煩悩やしがらみという荷物を最後に捨て去ったのだ。
ウェス・アンダーソン作品の常連であるビル・マーレイ(「ライフ・アクアティック」では主演)の使い方が面白い。最初に登場するので主人公かと思わせながら、列車に乗り遅れるとそのままラスト近くでチラッと登場するまで出てこないのだ。この人を食った演出がすれ違い続きの旅を暗示している。
「モンテーニュ通りのカフェ」
これは拾い物だった。それぞれの人生が交錯するカフェというよくある設定だが、非常に良く出来ている。人物造形とシナリオが秀逸で、散漫にならずに複雑なストーリーが展開してゆく。
「アリスのレストラン」、「ギャルソン」、「フライド・グリーン・トマト」、「バグダッド・カフェ」、「リストランテの夜」、「パリのレストラン」、「マーサの幸せレシピ」、「ディナー・ラッシュ」、「アントニアの食卓」、「少年と砂漠のカフェ」、「かもめ食堂」、「レミーのおいしいレストラン」など、カフェやレストランを主たる舞台にした映画は多い。いろんな人が出入りし、人生が交錯する場だからだ。
「モンテーニュ通りのカフェ」はそれをさらに群像劇に仕立て上げた。モンテーニュ通りの老舗カフェ「カフェ・ド・テアトル」で働くジェシカ(セシル・ドゥ・フランス)はヒロインではなく、むしろ狂言回しの役である。彼女の周りに集まるテレビ女優のカトリーヌ(ヴァレリー・ルメルシェ)、ピアニストのジャン(アルベール・デュポンテル)、資産家のグランベール(クロード・ブラッスール)などの人生が絡まりあい、それぞれがほぼ等分に焦点を当てられている。それぞれの性格がまた強烈で、そのために互いの陰に隠れてしまうことはない。群像劇には傑作が多いが、ここにまた1本加わった。
「クライマーズ・ハイ」
期待を上回るなかなかの力作。緊迫した場面が続き、ドラマとしてよく出来ていた。日航機墜落事故という未曾有の大惨事を題材にしながら、安っぽい活劇にするのではなく、他紙との取材合戦、締め切り時間との戦い、方針をめぐる上司とのせめぎ合い、情報の裏をとるための粘り強い取材活動など、新聞記者としての葛藤をドラマとして描こうとしている点に共感した。墜落現場の凄惨な状況などはほとんど全く描かない。墜落現場で汗まみれ、泥まみれで駆け回る記者たちや新聞社内でのあわただしい人の動きや意見のぶつかり合いを主に描いている。事故直後の社内のあわただしさは「ユナイテッド93」に比べれば劣るが、それでもかなりリアルだった。いや、むしろ当時の地方新聞社の雰囲気はあんなものだったかもしれない。
主演の堤真一が相変わらずいい仕事をしている。「フライ、ダディ、フライ」や「ALWAYS三丁目の夕日」シリーズと並ぶ、彼の代表作になるだろう。
「西の魔女が死んだ」
期待通りのいい映画だった。韓国映画の傑作「おばあちゃんの家」や中国映画の名作「心の香り」を思わせる映画だ。老人と子供の触れ合い。なんといっても、おばあちゃんが住んでいるあの別荘のような家と森の中の理想郷のような環境がファンタジーのような雰囲気を盛り上げている。そして「魔女」のおばあちゃんを演じたサチ・パーカーがいい。
しかし最後はほろ苦い味も交じる。無理やり泣かせようとしない、ぐっと抑えた演出に好感を持った。
「光州5.18」
いかにも韓国映画らしい映画だ。泣かせる演出、主要登場人物の死ぬ場面を大仰に盛り上げる型通りの描き方、それにお調子者のお笑いと恋愛を絡ませるというお決まりのパターンが目立つ。それでも、光州事件の現場がどのような状況だったかをかなりリアルに再現していることは高く評価したい。日本でも当時報道はされたが、現場がどんな様子だったのかは分からなかった。ただ虐殺があったことしか分からなかった。まさか、あんな内乱状態のような状況だったとは。市民が武器を取り、市街戦にまで発展していたなんて思ってもみなかった。単に武力でデモを鎮圧したのだと思っていた。
しかしハリウッド調の演出が作品の価値をだいぶ下げてしまった。せっかくいい題材を取り上げたのに、お決まりの手法で作ってしまった感じだ。韓国映画はアメリカで映画製作を学んできた若手が90年代半ばごろから次々に優れた作品を発表して、華々しく世界の表舞台に登場した。次々に才能のある新人が現れ、新人離れした秀作を作り上げていた。
しかし韓国TVドラマが一世を風靡する頃から、かつてのハリウッドのスター・システムのような映画作りに流れていったように思う。有名スターをとっかえひっかえ登場させて安易にヒットを狙う路線が目立ってきた。05年9月に「大統領の理髪師」のレビューで次のように書いた。「監督のイム・チャンサンはこれが初監督作品。前にもどこかで書いたが、韓国映画では初監督作品によく出会う。映画人養成機関がうまく機能している表れだろう。しかも一発屋で終わる事は少なく、ほとんどの監督が高い水準を保ったままその後も製作を続けていることは特筆に価する。スターや花形監督が特別扱いされるようなスター・システムが出来て映画界が歪められるようなことがなければ、韓国映画の勢いは当分続くだろう。」
この期待はあっけなく裏切られた。「大統領の理髪師」の後にも「僕が9歳だったころ」、「王の男」、「トンマッコルへようこそ」、「マラソン」、「グエムル 漢江の怪物」など優れた作品が作られたが、もはやかつての勢いと質の高さは失せてしまった。ここしばらく優れた韓国映画と出会っていない。「大統領の理髪師」や「王の男」クラスの作品と出会いたいものだ。
ヒロインのイ・ヨウォンは「子猫をお願い」で美人OL役を演じた人だと分かった。キム・サンギョンは「気まぐれな唇」でぼさっとしてまったくしまりの無い主人公を演じ、「殺人の記憶」ではソウルから来た頭の切れる刑事を演じていた人。最近あまり韓国映画を観なくなったせいか、二人とも全く覚えていなかった。
ヒロインの父親を演じたアン・ソンギは他を圧する存在感だった。韓国一の名優は何を演じさせてもうまい。
■アン・ソンギ マイ・ベスト5
「光州5.18」
「シルミド」
「酔画仙」
「MUSA武士」
「ホワイト・バッジ」
「胡同愛歌」
実にザワザワ、バタバタした映画だ。似たような題名でも「胡同の理髪師」とは全く味わいが異なる作品だった。父と息子だけで母親不在の家庭。その父親トウ(ファン・ウェイ)には花屋を営むシャオソン(チェン・シャオイー)という愛人がいる。再婚するつもりでシャオソンは荷物を運び込んでトウの家に引っ越してくる。しかしシャオソンの夫リュウサン(チャオ・ジュン)が監獄から出所してきて、無理やり妻を連れ戻してしまう。
せっかくつかみかけた幸せが一人の乱暴な男のためにガラガラと音を立てて崩れてゆく。愛に飢え、愛を求めながら得られない人々を描く映画である。どうも後味がよくない。ズブズブと泥沼に足を引き込まれてゆくような映画なのである。
トウはリストラされて駐車場の案内係として働いている。当然暮らしは豊かではない。彼ばかりではない。登場する男たちはみなランニング、Tシャツ1枚のみっともない格好だ。トウの高校生の息子シャオユー(チャン・ウェイシュン)は成績が最低である。しかし息子をなくした先生のために300元の募金をしようと努力する優しいところもある子だ。
「胡同の理髪師」のような人のつながりも描かれないわけではない。刑務所帰りのリュウサンが押しかけてきた時は、近所の人たちがわっと集まってきてトウを助けてくれた。リュウサンに向かって「更正しないで出てきたな」と近所の人が言ったりする。しかし最後はリュウサンによってトウは泥沼に沈んでいってしまう。「父さんみたいになるなよ。」トウは息子の誕生日にそう言って、長い間隠していた母親の手紙を息子に渡す。「母さんのところへ行け。」彼は自分の人生の結末を予想していたのである。
重苦しいわけではないが、人生の苦味がいつまでも口内に残る映画だ。
「相棒 劇場版」
テレビ的演出も随所に見られるが、この種の日本映画としてはマシな出来だと思った。とにかく一応楽しめた。外国でゲリラに捕まった若者がバッシングに会ったことを踏まえているのには共感できるが、結局国外退去の知らせが後れて届いたということになっている。つまりゲリラに殺された若者は退去勧告を知らなかったということだ。それでは、勧告を受けてもなお留まろうとする者に向けられた異常なバッシングという問題は巧妙に避けられている。その点に疑問を感じた。水谷豊は改めていい俳優だと思った。
(注) 写真はすべて自分で撮ったものです。
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