胡同の理髪師
2006年 中国 2008年2月公開
評価:★★★★☆
監督:ハスチョロー
製作:リー・シュイホー
脚本:ラン・ピン
美術:ジン・ヤン
撮影監督:ハイ・タオ
出演:チン・クイ、チャン・ヤオシン、ワン・ホンタオ、ワン・シャン、 マ・ジンロン
トン・ジョンチ、ユウ・リピン、ソン・グァ、シュ・フェジー
実に淡々とした映画である。主人公は93歳の老理髪師で、その他の主な登場人物もほとんどが老人ばかり。全体にドキュメンタリーを思わせる作りだ。自然音のみで効果音を使っていない。どこにも派手さはないが、深く重たい手ごたえを感じさせる。
中国映画は庶民の生活実感や人間の情感をじっくりと描くのを得意としてきた。この映画もその例に漏れない。なおかつ、この映画には時代の流れ、世代間のギャップ、人間関係の軋みなども描きこまれている。しかし決して複雑な映画ではない。主題は明確だ。ハスチョロー監督はこの映画の主題について、「人間なら誰もが直面する死をテーマに、精一杯生き、静かな臨終のときを迎えるためにはどのような心積もりで日々生きていけばよいかを描こうと決めた」とあるインタビューで語っている。
新しいものと古いものの対比が様々に形を変えて暗示されている。何度も映し出される入れ歯と古い時計。時計は毎日5分遅れる。老人仲間でマージャンをするシーンも何度か出てくるが、その話題の中心は知人の死や立ち退きについてである。消え去りつつある古い世代と北京オリンピックを機会に取り壊しが予定されている四合院や胡同のある古い町並み(チン老人の家に書かれた解体を意味する「拆」という文字が象徴的だ)とが並行して描かれている。チン老人の常連客の一人、モツ屋を営むチャンの息子の言葉が時代の変化を明確に表現している。「時代とともにわしらも変わらないと。古臭い習慣や思い込みは改めないとね。」チャンの孫は店も継がず、画家を志している。
時代の変化を示すものとしてテレビがうまく使われている。マージャンにいそしむ老人たちの横でテレビが水着のファッションショーを映している(誰一人見向きもしない)。またチン老人が常連客ミーの家へ行く場面では、テレビが2008年の北京オリンピックの話題を流している。一方でチン老人が遺影に使う写真を撮る気になって人民服を買いに行っても、今では誰も着ない人民服など店に置いてない。
しかし、この映画が観客に深い感銘を与えるのは、主人公のチン老人がただ時代に押し流されて漂流するのではなく、かたくななまでに自分の生き方にこだわり、決して時代に押し流されることなく自分の生き方を貫こうとしているからである。いずれ遠からず消え去ってゆく世代だが、最後まで輝きを失わない。その毅然とした生き方にわれわれは共感するのである。それは映画の最初のエピソードから暗示されている。チン老人はいつも5分遅れる古い時計を修理に持って行く。しかし時計屋の主人は、まだ充分動いているので壊れてから修理しましょうと言う。骨董のような時計だ、動くだけでも大したものだと。明らかにこの古時計はチン老人と重ねあわされている。動く限りは現役だという気概。たとえ止まってもまた修理して動かそう。
だが、そんなチン老人でもいずれ訪れる死を意識しないわけには行かない。知り合いも次々に亡くなってゆく。マージャンをするたびに誰かの死が話題になる。常連客ミー老人のところに散髪に行くと彼は亡くなっていた(皮肉にも壁にかかっている写真が遺影に見える)。それでも、チン老人の死との向き合い方は「明日の朝目覚めるのだろうかと考えながら眠りにつくんだよ」と言ったマージャン仲間とは明らかに違う。「年を取ると誰もが死を恐れ、生に執着し、不眠になるが私は違う。恐れないし、執着もない。」死を恐れるのではなく、死を受け入れる。いつ死ぬのかと心配するのではなく、彼の意識は死に方にある。有名人も金持ちも人生は一度きりだ。いつ倒れたとしても、こざっぱり、きれいに逝きたい。常に身奇麗にして、死を迎えたい。死から顔を背けるのではなく、死と向き合っている。倒れるまで現役でいたい。そんな信念と心の余裕があるからこの映画の随所にユーモラスな描写が現れるのである。
人の世話になるのではなく、自分のやり方で死を迎えたい。チン老人は葬儀屋に電話して葬儀の手順を聞く。その後のエピソードが重要である。葬儀屋が500字で略歴をまとめろと言っていた。チン老人は自ら自分の経歴を語り、ラジカセに録音する。しかし彼の語りは500字をはるかに越えてしまう。一人の人間の人生は到底500字で語り尽くせるものではない。経歴だけ並べても、彼の生きてきた人生、彼が人生の節々で経験してきた悩み、迷い、苦しみ、悲しみ、喜びなどはほとんどこぼれ落ちてしまう。彼がテープに収めようとしたのは自分の生きてきた証だった。死ではなく生を語ったのだ。
以前日本映画の佳作「青空のゆくえ」のレビューで次のように書いた。「一本の草や木を抜けば、その下から意外に複雑に広がった根が出てくる。同じように人間も社会に根を張って生きている。大地に収まっているときには見えないが、意外に深く広く根を張っていることが分かる。この映画は、一人の男子生徒がアメリカに引っ越す前に、自分の根の張り方を確認し、思い残したことを整理してゆく過程を描いている。」
「胡同の理髪師」はやがて死を迎えようとしているチン老人が、死を迎える前に自分の生きてきた人生を、「青空のゆくえ」の主人公である中学生よりはるかに深く広く張った根を確認し、自ら死を迎える準備をしてゆく過程を描いていると言っていい。93年もの人生を刻み込んだ彼の顔のなんと風格のあることか。これほど深みのある風貌を持った人物はそうはいない。遺影用に撮った写真が気に入らなかったチン老人は、常連客の孫(画家の卵)に肖像画を描いてもらう。絵が完成した時、代金を払おうとするチン老人に対し、若い画家は逆にモデル代を払って帰る。こんな素晴らしいモデルには滅多に出会えないと言って。
地下に深く広く張った根の1本1本は知り合いや地域との絆である。その根に栄養を与え続けてきたのが胡同である。北京の胡同、それはまさに生活の匂いのする路地である。それはどこか日本の下町と人情を連想させる世界だ。しかし人情は豊かな社会ではなく貧しくつましい社会と結びついていることを忘れてはいけない。「警察日記」のレビューに次のように書いた。
「まだ日本が貧しかった頃の話だ。子供二人を捨てた母親、夫がいなくなり食い詰めて万引きや無銭飲食をする子連れの母親、病気の母親と幼い弟たちのために身売りする娘、こそ泥。警察署の厄介になるのはそんな人間ばかり。凶悪犯罪はない。貧しさゆえに犯した罪。警察官は怒鳴ったり諭したりするが、捨て子を親身になって世話したり、金に困って犯したちょっとした罪などは見逃してやる。親に捨てられた2人の子供が別々の家に預けられ、姉の方がまだ赤ん坊の弟を心配して夜訪ねてゆくところなどは泣かされる。人情物は、困った立場のものに同情できる共通の感情的基盤があって始めて成り立つ。かつての日本にはそれがあったのだ。」
森まゆみさんも『抱きしめる、東京』(講談社文庫)でこう書いている。「テレビのレポーターなどが″下町ですねえ、人情ですねえ″などと連発しているその付き合いも、非歴史的に形成されたものではない。貧しいゆえの相互扶助が根底にあったのだ。・・・人情の根底に貧困がある。」
貧しいがゆえに互いに支えあって生きてきた社会。そういう基盤の上でこそ人情が生まれる。そういったメンタリティを破壊していったのがバブル景気だった。にわかに大金をつかんだ人間はすべてを金銭ずくで判断するようになる。森まゆみさんのフィールドである谷根千でも地上げにあって歯が抜けたように古い建物が消えていった。ほとんど同じことがオリンピック前の胡同で起ころうとしていたのである。
『抱きしめる、東京』に引用されているある住民の言葉はその変化を実に的確に表現している。「情報ってのは情けで報いると書くでしょ。昔は、うちみたいな貧乏人の子沢山な家には、魚屋なんてアラを山盛りとっといて、どう、って安く売ってくれた。タダじゃプライドが傷つくから、安く売るんだ。お邸には切身を高く売りつけといてね。お邸の奥様も出入りの職人の親父に子ども服のお下がりをどっさりくれた。情報ってのは、人の暮らし向きのことを知ってて、さりげなく気をつかうことでしょう。地上げもそうだが、いまは人を出し抜いて、一山当てることを情報っていうんじゃないの。」
サングラスをかけフォルクスワーゲンからさっそうと胡同に降り立ったチャン老人(チン老人の常連客の一人)の息子などはまさに「一山当て」た組だ。チャン老人の髪を切りに来たチン老人に対して実に冷たい態度をとり続けたその嫁などは、雑巾の一つも出入りの職人の親父にくれそうもない。一方、チン老人たちのマージャンは「情けで報いる」情報をやり取りする場だ。歩けない常連客がいれば三輪自転車に乗って出張サービスに出かける。胡同の取り壊しは個人ばかりか、そういう社会の絆もずたずたに切り崩してしまう。歯が抜けたようになるといった次元ではない、こと中国ともなれば、地域丸ごと解体され新しいビル群が代わりに鎮座することになる。
「鉄の扉でつきあいのない高層マンションの方が、かえって火が出たら危ないんじゃないの?消防士もオートロックのボタンを押すわけ?」「泥棒だァ、というと桜木町ではみなピシャッと窓を閉める。関係したくないわけ。で谷中の人はどこだどこだとみな家を飛び出す。」隣町ながら、山の手の邸町風の上野桜木町と庶民的な谷中とは、かくも違うらしい。(『抱きしめる、東京』)
胡同が消えた後、そこは上野桜木町のような社会になって行くのだろう。しかし、同じく胡同を舞台にした「胡同のひまわり」では主人公の老人が廃墟となった建物に座り込んで考え事をしているシーンが出てくるが、「胡同の理髪師」ではまだ胡同のある古い町並みは壊されていない。その違いは重要である。「胡同の理髪師」は死に向かってカウントダウンする映画ではない。胡同もチン老人も映画の最後まで生き続けるのだ。途中2度彼がこのまま起き上がらないのではないかと冷や冷やさせる場面が出てくるが、2度とも彼は起き上がった。
われわれの記憶に最後に残る彼の姿は、廃墟となった建物に力なく座り込む姿ではなく、自転車に乗って路地の先に消えてゆく彼の姿だ。荷台にはついに止まってしまった古時計がのせてある。彼はもう一度時計を動かそうとしているのだ。せっかくカセットテープに録音した彼の経歴も、猫がじゃれついてテープを切って台無しにしてしまった。しかしチン老人は特にがっかりする風でもない。もはや過去にも彼はこだわっていない。明日もまた朝6時に起き夜9時に床に就くまで同じ手順とリズムで生活して行くだろう。身だしなみを整え、しゃんとして振る舞い、「いい加減な仕事はするな」と誰かを叱りつけているだろう。新しい日をまた生きるだけ。死ぬまで胡同の理髪師は現役なのである。
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kimion20002000さん コメントありがとうございました。
ハスチョロー監督の作品はこれ1本しか観ていません。レンタル店には置いてあるのですが、どうもいまひとつ手が出なくて。やはりこの作品が今のところ代表作ということでしょうか。
中国は多民族国家ですから多様な視点がありうるわけですね。確かにモンゴル族から見た北京というのは興味深い観点だと思います。その点の分析はあまりしませんでしたが、機会があればじっくりと考えてみたい課題です。
投稿: ゴブリン | 2009年6月22日 (月) 22:08
こんにちは。
死ぬまで現役というのがいいですね。
このハスチョロー監督ですが、前2作と較べて、格段に撮影技法や音楽の使い方がうまくなっています。
モンゴル出身の監督ですが、その位置から視えてくる北京の移ろいというユニークな視線もあるような気がしました。
投稿: kimion20002000 | 2009年6月22日 (月) 10:41
ほんやら堂さん
こちらこそご無沙汰しております。
そうですか、この記事を読んで観てみようと思われたというのはうれしい限りです。
僕は中国映画には特別な愛着を感じています。それは、この映画のようにしみじみと心に訴えかけてくる映画が多いからです。日本人の感性に実によく合うのです。
去年は中国の印象を悪くする出来事がたくさんありましたが、それだけで中国という巨大な国をとらえてしまうと多くのことを見落とすと思います。
別に中国を擁護する義理はありませんが、客観的に見て中国映画のレベルの高さは疑いようがありません。ぜひいろんな中国映画をご覧になってください。
投稿: ゴブリン | 2009年2月20日 (金) 02:57
ゴブリン様
ご無沙汰しております.
このサイトのご紹介で見た「胡同の理髪師」ですが,本当に良い映画を有り難うございました.
こういう穏やかな落ち着いた映画が大好きです.しみじみと心に響きます.中国映画でこんな穏やかな映画があるというのが嬉しいですね.
お年寄り達の一挙一投足が微笑ましくまた涙ぐましかったです.
投稿: ほんやら堂 | 2009年2月19日 (木) 21:35
ななさん TB&コメントありがとうございます。
韓国映画は日本のテレビドラマを観る感覚に近いですが、中国映画は失われた日本の過去と出会う感覚を覚えます。人間関係や情感の描き方に日本と近いものを感じますね。
ただ中国の変化はものすごい勢いで進んでいますので、北京の胡同が象徴するように、中国でも古い世界が失われつつあるようです。
中国映画にはよく老人が出てきますが、老人を演じる俳優が皆なんとも味があるのです。くぐってきたものが違うのでしょうね。容貌に、立ち居振る舞いに、語る言葉に、くぐり抜けてきた風雪がにじみ出ています。
つまり人生の出汁が効いている。下味が豊かだからこそいい料理が生まれる。見た目の華やかさを競っている日本映画や韓国映画が中国映画に及ばないのは、すべての元になる出汁が効いていないからでしょう。
投稿: ゴブリン | 2009年2月10日 (火) 12:57
ゴブリンさん,こんばんは
ご訪問がすっかり遅くなってしまい,申し訳ありません。
この作品は,ぜひ感想を語り合いたいな~と思っていた大好きな作品です。
>地下に深く広く張った根の1本1本は知り合いや地域との絆である。その根に栄養を与え続けてきたのが胡同である。北京の胡同、それはまさに生活の匂いのする路地である。それはどこか日本の下町と人情を連想させる世界だ。
・・・相変わらず,ゴブリンさんの深い考察に感銘しました。
チン老人の顔に刻まれた人生の軌跡・・・崇高なものを感じましたが
地に足をつけてたしかに一日一日を生きてきた彼の生きざまと
その背景にある胡同の存在の大きさ。そんなことを感じる素晴らしい作品でしたね。
中国作品って・・・,もう,やみつきです!
投稿: なな | 2009年2月10日 (火) 00:13
ぺろんぱさん コメントありがとうございます。
「胡同の理髪師」は本当に滋味溢れる映画でした。「死をどう迎えるか」がテーマになっていますが、映画はむしろいつもと変わらぬ生活を淡々と送ろうとするチン老人の姿を描いていると感じました。自分の姿勢を崩さずに生きようという前向きの意欲が伝わってくる映画だと思います。
引用文の「情報」の解釈はかなり強引な解釈だと思いますが、「情報」を「人情」に置き換えるとすんなり納得できます。人に対する心遣いと何でも金に換算してしまう態度、その対比は「胡同の理髪師」にぴったりと当てはまります。町の人の言葉にはとてつもない説得力があるものですね。そういう町の人たちの言葉に耳を傾けることから政治は始まるべきだと思うのですが。
投稿: ゴブリン | 2009年2月 7日 (土) 00:51
TBをありがとうございました。
ゆっくりと拝読させて頂き、滋味あふれるあの作品世界が甦ってきている私です。
来るものを受け入れながらも、自分の凛とした生き方を貫くチンさんに、私も自分自身に対して恥ずかしくない生き方をしたいものだと思わされた本作でした。
貴文中で「情報」の語源に言及されたところ、大変興味深い心で脳内にインプットさせて頂きましたよ。
良き“情報”をありがとうございます。(*^_^*)
投稿: ぺろんぱ | 2009年2月 5日 (木) 20:56