先月観た映画(09年1月)
「胡同の理髪師」(ハスチョロー監督、中国)★★★★☆
「アクメッド王子の冒険」(26、ロッテ・ライニガー監督、ドイツ)★★★★☆
「アメリカン・ギャングスター」(リドリー・スコット監督、米)★★★★☆
「ダークナイト」(クリストファー・ノーラン監督、米)★★★★☆
「やわらかい手」(サム・ガルバルスキ監督、イギリス・他)★★★★☆
「4ヶ月、3週と2日」(クリスティアン・ムンジウ監督、ルーマニア)★★★★
「さらば友よ」(68、ジャン・エルマン監督、フランス)★★★★
「HERO」(鈴木雅之監督、日本)★★★☆
1月に観た映画の数は8本とまあまあだったが、実に充実していた。満点こそなかったが力作ぞろい。「胡同の理髪師」は久々にレビューを書いたのでそちらを参照してください。それにしても、本格的レビューを書いたのは8月13日の「延安の娘」以来。なんと半年振り。なかなかうまく書けず苦労しました。
「アクメッド王子の冒険」
「アクメッド王子の冒険」は世界最初の長編アニメ(66分)。とても80年前のアニメとは思えない滑らかで自然な動きと、なんと言っても切り絵の芸術的センスに圧倒される。色と音楽は後から付け加えたものと思われるが、黒い影絵部分と彩色を施した背景との組み合わせの鮮やかさはミッシェル・オスロ監督の「アズールとアスマール」と比べても見劣りしない。というよりも、ミッシェル・オスロ監督自身1999年に影絵の手法を使った「プリンス&プリンセス」を作っているくらいだから、かなりロッテ・ライニガーを意識しているのかもしれない。それはともかく、歴史的意義のみならず作品の出来からしても、これまで観たアニメのベスト10に入れてもいい特上の作品である。
内容は「アラビアン・ナイト」をモチーフにした冒険物語である。ドイツはイギリスのようにケルト文化を引き継いでいないので妖精物語の伝統はない(有名なファンタジーや児童文学のほとんどはイギリスで生まれたものである)。グリム童話に魔女は登場するが(有名な魔女の集会、ワルプルギスの夜という伝承もある)、妖精は出てこない。そこで「アラビアン・ナイト」に目をつけたのだろう。悪い魔法使いとその宿敵の魔女、王子と王女、空とぶ馬とアラジンの魔法のランプ、大コウモリと様々な形の魔物たち。典型的なファンタジーで、波乱万丈のストーリーはテンポよく展開してゆく。善と悪のはっきりした単純なストーリーとテーマではあるが、とにかく芸術的といっていい切り絵の見事さが観客を引き付けて離さない。ちょっとしたところにも様々な飾り付けを施す細かい装飾とその意匠の見事なこと。背景も一色でベタ塗りするのではなく、すかしのように薄く景色や文様を配置している。色彩もグラデーションを多用しているが、決してあざとくはない。
アニメなのだからストーリー展開の荒さなど細かなところは気にせず、しばし夢の世界に浸ればいい。DVDの映像特典「アート・オブ・ロッテ・ライニガー」(31分)も必見。僕は「アクメッド王子の冒険」のみを収録したDVDを入手したが、DVD3枚組みの「ロッテ・ライニガーDVDコレクション」には短編作品も収録されている。ああ、これも欲しい。
「アメリカン・ギャングスター」
「エイリアン」と並ぶリドリー・スコットの代表作と呼べる作品に仕上がった。もう1本挙げるとすれば「マッチスティック・メン」か。「ブレードランナー」や「グラディエーター」より好きだ。
「アメリカン・ギャングスター」の魅力はなんと言ってもデンゼル・ワシントンとラッセル・クロウの対決。ともに力演だ。面白いのは正義漢のイメージが固着したデンゼル・ワシントンにあえて実在の麻薬王を演じさせたこと。悪役だが、そこはデンゼル・ワシントンが演じているだけに見るからに悪党という役柄ではない。スーツをびしっと着こなし、見かけや立ち居振る舞いはまるで紳士である。家族思いで教会にも通っている。しかし一方で容赦なく人を撃つ冷酷さもある。そういう役作りが功を奏している。「レイヤー・ケーキ」でダニエル・クレイグが演じた役柄、一見普通のサラリーマン風麻薬のディーラー(彼の座右の銘「ゴールデン・ルール」が可笑しい)にどこか通じるものがある。やくざな商売だが、二人ともはそれをビジネスとして割り切っている所は共通する。あるいは「ロード・オブ・ウォー」のニコラス・ケイジとも共通する部分がある。ニコラス・ケイジは自分では人を殺しはしないが、それでいて人殺しの道具(武器)を何の矛盾も感じずに売っている。ダニエル・クレイグもニコラス・ケイジもサラリーマンのようにビジネスライクに「商売」を行っているが、「アメリカン・ギャングスター」のデンゼル・ワシントンはビジネスライクに「商売」を行ないつつ、場合によっては人も平気で殺す。それでいて「紳士」でもあるという点がおもしろいのだ。その意味では「殺人狂時代」でチャップリンが演じたムッシュ・ベルドゥにも通じるキャラクターだ。
一方の刑事リッチー・ロバーツに扮するラッセル・クロウは警官の汚職がはびこる時代に一切裏金を受け取らない潔癖な男だ。あまりに潔癖すぎて周囲から疎まれ孤立している。しかし私生活では優等生とはいえない。元妻と子供の養育権をめぐって係争中なのである。職場でも家庭でも疎まれているが有能な刑事。女にもてもてのタフガイというタイプはとうに消え去り、今はこういう陰のある多少へタレ気味のキャラクターが映画でも小説でもよく登場する。そういう意味ではユニークではないし、デンゼル・ワシントンに比べればキャラクターとしての強烈さでは劣る。しかし、地道に捜査し、じりじりとデンゼル・ワシントンに迫ってゆくしつこさと執拗さがなかなか出色だ。
あまりストーリーは詳しく書けないが、ベトナム戦争と絡んだ麻薬の密輸方が面白いし時代を感じさせる。ギャング物としては「インファナル・アフェア」以来の秀作だと思った。
<ラッセル・クロウ マイ・ベスト5>
「L.A.コンフィデンシャル」
「インサイダー」
「ビューティフル・マインド」
「シンデレラ・マン」
「アメリカン・ギャングスター」
<デンゼル・ワシントン マイ・ベスト10>
「遠い夜明け」
「グローリー」
「モ’・ベター・ブルース」
「マルコムX」
「フィラデルフィア」
「クリムゾン・タイド」
「天使の贈り物」
「ザ・ハリケーン」
「インサイド・マン」
「アメリカン・ギャングスター」
「ダークナイト」
「ダークナイト」はバットマンの映画というよりはジョーカーの映画である。それほどにヒース・レジャー演じるジョーカーに凄みがある。実際バットマンは彼の前ではかすんでいるとすら感じる。
バットマン・シリーズはこれまであまり真面目に観たことはなかった。しかし「バットマンビギンズ」以降の新生バットマン・シリーズはずっと気になっていた。「バットマンビギンズ」はまだ見ていないが、どうやらそのあたりから単なる活劇からシリアスなドラマに変わったようだ。もはや正義の味方が活躍するアクション物の枠を超え、ダークな世界観の追求という新たな道に突き進んでいったと見るべきだろう。タイトルにバットマンがついていないことは実に暗示的だ。
「ダークナイト」のテーマは文字通り悪の追求である。「ダークナイト」というタイトルには「闇の騎士」という意味と、つづりは違うが、「暗い夜」という意味の両方がかけてあるかもしれない。画面を常に闇が支配しているダークな映像。カラー映画だが、白黒で撮った「シン・シティ」を思わせる雰囲気が全編に漂っている。しかも光と闇は、「アクメッド王子の冒険」の影絵とその背景のようにくっきりと分かれているのではなく、互いに溶け合い微妙な陰影が重なり合っている。 「闇の騎士」はバットマンを指しているようでいて、ジョーカーを指している様にも思えてくる。いい例が新たなヒーローかと思えた新任の地方検事ハービー・デントである。彼は「光の騎士」から「トゥー・フェイス」に転落してゆく。光と闇の両方の顔を持った男。もはやかつてのようなヒーローは存在しえなくたってきている。その変化の兆しは「スパイダーマン2」やアニメの「Mr.インクレディブル」にも表れていた。「ダークナイト」のバットマンも悩めるヒーローである。
もちろん、「悪の追求」というテーマが最も追求されているのは悪、ないし闇の側だ。颯爽と現われ悪を倒すヒーロー像が廃れたように、悪の側も見るからに悪党という単純な人物像や不当な扱いを受けて復讐鬼と化した人物などのステレオタイプを脱して、「アメリカン・ギャングスター」のデンゼル・ワシントンのようなタイプが描かれるようになってくる。究極の悪を描く。これは実に魅力的なテーマだ。かつて岩崎昶がナチスを超える悪のイメージはいまだ作られていないとどこかで書いていた。「ガッチャマン」に出てくるギャラクターの首領ベルク・カッツェにもナチスの影響が濃厚に漂っていた。確かにナチスは今でも根源的悪のイメージとして超えがたい存在である。
しかし、冷酷さと恐怖が常に付きまとっているナチスが一方のタイプだとすれば、もう一つのタイプに「ロード・オブ・ウォー」のニコラス・ケイジや「殺人狂時代」のムッシュ・ベルドゥがいる。「ロード・オブ・ウォー」のニコラス・ケイジは、もともと持っていた人間性や人間的悩みを捨て去り、ひたすらビジネスライクに武器を売りつける武器商人である。ビジネス・スーツをびしっと着こなした死の商人。チャップリン演じるムッシュ・ベルドゥは家庭を愛するよき夫でありながら、何人もの女たちを顔色一つ変えずに冷酷に殺してきた。逮捕された後も、「M」のピーター・ローレのように狂気を帯びた様相でまくし立てたりはしない。平然と「一人殺せば犯罪だが、百万人殺せば英雄だ」という有名なせりふを吐いて、薄笑いを浮かべながら泰然自若として死んで行った。最後のせりふはナチスを暗黙の内に示している。ここにもナチスの影があるが、ムッシュ・ベルドゥという人物像は悪の深淵に深く潜む不気味な存在として闇の輝きを放っている。
そこに究極の悪として新たに登場してきたのがジョーカーである。彼は金にも関心がなく、バットマンを倒すことが究極の目的でもない。ただひたすら無秩序を愛し、人々に死と恐怖をもたらすことに快感を覚える男だ。もはや歪んでねじれた人格とか破壊された人格とかいう次元ではなく、もっと抽象的な何かを体現した存在、つまり悪ないし悪意そのものと化している。悪ないし悪意そのものであること自体が彼の存在意義なのである。ジョーカー自体はターミネーターのような人並みはずれた強さを持っているわけではなく、強大な組織を持っているわけでもない。バットマンに殴られれば壁まで吹っ飛んでゆく普通の人間に過ぎない。しかし彼の行くところ悪が広まり、死人が生まれる。
悪そのものの出現、二つの顔を持つニュー・ヒーロー、悩めるバットマン。ベクトルは正義から悪へと大きく振れている。夜の闇に響くジョーカーの高笑いはいつまでも消え去ることはない。彼が死んだのかどうかもはっきりしないのだ。究極の悪の新しいタイプを生み出したこと、「ダークナイト」の価値はそこにあるといっていい。
「やわらかい手」
「やわらかい手」は久々に見たイギリス映画。イギリス・フランス・ベルギー・ドイツ・ルクセンブルクの合作映画だが、舞台と俳優はイギリスなのでイギリス映画として扱っていいだろう。イギリス映画は7~80年代の低迷期を脱して、90年代以来アメリカ、中国両横綱に続く大関の位置に定着しているだけにさすがに出来はいい。主演はなんとマリアンヌ・フェイスフル。まだ引退していなかったの!1946年生まれということだから今年で63歳になる。
僕にとってマリアンヌ・フェイスフルといえば歌手というイメージが強い。この原稿を書く際にあわててレコード棚から唯一持っているレコードを引っ張り出して、「やわらかい手」のチラシと一緒に写真を撮った。光が反射するのでうまく撮れなかったが、若い頃の彼女がいかに可憐だったか分かるだろう。日本題が「妖精の歌」となっているのには笑ってしまうが、そう付けたくなる気持ちも分かる。しかしその後数々のスキャンダルにまみれ、容貌がすっかり変わってしまった。波乱の人生を歩んだ人である。アイドルから滑り落ちて以降のアルバムは深みがあっていいらしいが、僕は聴いたことがない。
60年代にいくつかの映画に出演したが、観たかどうかも覚えていない。僕の中ではただのかわい子ちゃん歌手として記憶の片隅に忘れ去られていた人である。それが調べてみると意外にも90年代以降結構映画に出演している。「豚が飛ぶとき」、「パリ・ジュテーム」など気になりつつ見逃していた映画に出演していた。
前置きはこのくらいにしておこう。重病の孫を救おうと、たまたま見かけたセックスショップ「セクシー・ワールド」の“接客”の仕事を始めた平凡な主婦マギー(マリアンヌ・フェイスフル)が、その滑らかな手の感触ですっかり売れっ子になってしまうというストーリーだ。そのセックスショップの「売り」が日本から学んだものだというのには苦笑い。
よくもまあ思いついたなという設定とそこはかとなく滑稽な展開はいかにもイギリス映画らしいひねりが効いていて感心する。「ヘンダーソン夫人の贈り物」、「キンキー・ブーツ」、「シャンプー台の向こうに」、「カレンダー・ガールズ」、「ケミカル51」、「ヴァキューミング」、「ウェイクアップ!ネッド」、「フル・モンティ」、「ウェールズの山」など、この手の映画を作らせたらイギリスは世界のトップレベルだ。さすがは「モンティ・パイソン」やイーリング・コメディを産んだ国である。
最近よく出かけるマギーをしつこく追い回す知り合いのおばちゃんたちに「仕事」がばれてしまうのではないかとハラハラさせたり、職業病の「テニス肘」ならぬ「ペニス肘」を患って腕を肩から吊ったり、セックスショップのオーナーと微妙な関係になったりと飽きさせないストーリー展開。最後は息子に真相を知られて親子断絶の危機に。息子には怒鳴りつけられ、仲良しおばちゃんグループから縁を切られる。しかし、孫のためにすべてを投げ捨て一歩前に踏み出していたマギーはそれでもめげない。おばちゃん仲間に投げ返した啖呵にはすっかり溜飲が下がった。単に面白おかしい滑稽譚ではなく、一人の初老の女性が自分の新しい可能性を見出し、文字通り「手に」職をもち自立してゆくプロセスを描いている映画にもなっている所に大きな価値がある。滑稽でありながらどこか悲哀感があり(卑猥感はあまりない)、最後にはほんのりロマンスの可能性も示される。「カレンダー・ガールズ」のような突き抜けた女性が描かれているのである。
それにしても、マリアンヌ・フェイスフルはすっかりおばちゃんになっていた。もうまるで別人。しかしその彼女をヒロインにしてこれだけ優れた作品を作ってしまうとは立派である。サム・ガルバルスキ監督については、ドイツ生まれという以外に詳しいことは分からない。英語のサイトを見ても何も見つからない。謎の人物だ。
「4ヶ月、3週と2日」
「4ヶ月、3週と2日」はほぼワンシーンワンショットで撮影された作品で、ドキュメンタリーを観るような感覚の映画だ。自分もその場にいるような感覚を覚える、実にリアルな映画だが、その分限定された空間を描いており、チャウシェスク政権下のルーマニアという時代設定がいまひとつ描ききれてはいない。中絶は非合法で密かに中絶をするものが多かったというだけなら、1950年のイギリスを描いた「ヴェラ・ドレイク」だって同じだ。「ヴェラ・ドレイク」はやはり限定された空間を描いているが、より社会的な関連性と広がりがある。そういう意味で映画としては「ヴェラ・ドレイク」の方が出来は上だと思う。
しかし「4ヶ月、3週と2日」の生々しい感覚も捨てがたいものがある。大学生のオティリアが寮のルームメイトであるガビツァの妊娠中絶手術の手助けをするために奔走する様を描いている。寮の中でのなんでもない会話から始まり、最初は何が起こるのかわからないまま、とにかく観客はオティリアの行動についてゆくことになる。何のためにオティリアはホテルを予約しているのか、ある場所で落ち合った怪しげな男は一体誰なのか、しばらくは事情が分からないままに観客はオティリアの行動を追って行く。
やがてあるホテルの一室でガビツァの堕胎手術を受けることになっていることが分かってくる。散々走り回って手術代を借りるがそれでもまだ足りない。もぐりの医者との交渉。手術代を安くする代わりに男が要求した代償。「手術」を施す手順のリアルな描写。カチャカチャという器具の金属音。恋人から金を借りた手前、その家で開かれるパーティーへの出席を断れず、術後のガビツァを一人ホテルに残して恋人の家ですごす退屈な時間、すっかりオティリアに任せきりで自分では何にもしないガビツァ。
次第につのってゆくオティリアの苛立ちが観客には手に取るように分かる。いや、一緒に体験したといってもいい。その臨場感、どうしようもなく状況に振り回される無力感と苛立ちの共有。この映画の説得力はそこにある。「ヴェラ・ドレイク」同様「中絶の是非」を問う作品ではない。しかし、繰り返すが、その臨場感と引き換えに、社会的矛盾の広がりと深さを犠牲にした。そういう物足りなさも残る映画だ。タイトルの「4ヶ月、3週と2日」とは、カビツァが中絶する日までの妊娠期間を表している。
既に充分長くなってしまったので、残念ながら「さらば友よ」と「HERO」については割愛します。
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