明けましておめでとうございます。昨年後半はあまり記事を更新することが出来ませんでした。今年はもっとレビューに力を入れたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。
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「トゥヤーの結婚」(ワン・チュアンアン監督、中国)★★★★☆
「最高の人生の見つけ方」(ロブ・ライナー監督、米)★★★★
「4分間のピアニスト」(クリス・クラウス監督、ドイツ)★★★★
「雲南の少女ルオマの初恋」(チアン・チアルイ監督、中国)★★★★
「白い馬の季節」(ニンツァイ監督、中国)★★★★
年の瀬に中国映画を3本観た。さすがに中国映画、いずれもすばらしい映画だった。「トゥヤーの結婚」については既に掲載してある短評を読んでいただくとして、まず「白い馬の季節」から。
「白い馬の季節」
「天空の草原のナンサ」が遊牧民への賛歌、「トゥヤーの結婚」が遊牧民への挽歌であるとすれば、「白い馬の季節」は遊牧民への痛切な哀歌である。雨乞いの儀式で映画が始まるように、全編土地を追われてゆく遊牧民の苦悩の連続である。日照りが続いて牧草が枯れてゆく。秋の牧草地も国の保護政策で囲われ使えなくなってしまう。子供の学費すら払えない困窮状態。ついに白い馬を売ってしまう。生活はますます苦しくなる。かといって草原を捨てて町で暮らすことも出来ない。主人公ウルゲンは草原で暮らすすべしか知らないのである。
それだけに町に移る決意をするラストの彼の姿が痛々しい。ゲルを解体し、馬車に積んで去ってゆく姿は「天空の草原のナンサ」の同じ場面と比べると遥に悲痛感が漂っている。町の人たちの服を着た彼の格好がまったく似合っていない。そこに彼が直面せざるを得ない困難が象徴されている。町に移っても更なる困難が待ち受けているのである。
草原に1本付けられた道の真ん中を歩く白い馬の姿。それがラストシーンだ。人間が去り、無人となった草原を歩く馬。そこに製作者たちの思いが込められている。少し長くなるが、映画の中で最も印象的なせりふを引用しておこう。ウルゲンに忠告を与えた彼のおじの言葉である。
「馬に乗れてこそモンゴル民族といえる。だが馬がなくとも生きることは出来る。馬とは何か?わが民族が乗りこなすものだ。馬がモンゴル人にとって理想なのではない。馬はわれらを理想へと運んでくれるものなのだ。お前は馬に気をとられ、大事なことを見落としている。馬がいなくとも暮らせるんだ。よく考えてみろ。馬はお前が望む所にしか連れて行ってくれない。だが、馬を使わないとそこへ行けないのか?今の世の中永遠に続くものなどない。(中略)本当にあの馬が好きなら別れの歌を書いてもらい、自由にしてやれ。そうすれば歌の中であの馬は永遠に生きる。そうやって歌が生まれてきたのだ。」
馬を捨て望まざるところへと行かざるを得ない現実。馬だけが残り、やがてその馬も死に、歌だけが残る。歌の中にしか存在し得ない遊牧民の生活と文化。どうしようもない現状を前に現実的な選択を促したおじの言葉に一定の説得力を感じつつも、虚しさと寂寥感が残る。感傷を排してとことん現実を描いた力作。「トゥヤーの結婚」のような突き抜ける力強さがないのは正直残念だが、それがまた現実なのだ。
「雲南の少女ルオマの初恋」
「雲南の少女ルオマの初恋」は少数民族を扱った映画。ハニ族の少女ルオマと漢民族の青年アミンとの淡い恋を描いた恋愛映画でもある。「初恋のきた道」とよく比較されるが、「天上の恋人」や「小さな中国のお針子」と比較してもいいだろう。同じく少数民族が主人公というだけではない。画面にたびたび映される棚田の圧倒的光景は「天上の恋人」の急峻な崖を思わせる。どうやら少数民族はどこでも僻地に追いやられているようだ。その点では山奥にある「小さな中国のお針子」の舞台も同じだ。また「小さな中国のお針子」で下放されてきた漢民族のインテリ青年が「小さなお針子」という名前の女の子に字を教え、読書を通じて西洋の考え方を教えるように、「雲南の少女ルオマの初恋」でもルオマはアミンの部屋に張ってある写真を通じて西洋文化への憧れをつのらせる。高層ビルの写真が何度も映され、エレベーターがキーワードとして使われている。恋人への憧れがそのまま西洋文化への憧れとつながっているという構図は「小さな中国のお針子」と同じである。それは日常からの脱出というテーマとなって表れてくる。
そこに少数民族を遅れた人々と見る視点を見て取ることも出来るだろうが、むしろ恋愛を通じて自由への意思を持つという展開に好感を持った。高層ビルの写真と同じくらいの重要度を持って棚田を背景にしたルオマの写真が使われている。結局写真家として大成するのはアミンであって、ルオマは村に残る。しかし彼女はアミンと会う前の彼女と同じではない。棚田を背景にした写真に写っているルオマの表情の輝き。棚田は単に美しい背景として描かれているのではない。いつも機織をしているルオマの祖母、トウモロコシを道端で売っているルオマの姿。幅が20センチ程度しかないと思われる棚田のあぜ道を平気ですいすい歩いてゆくルオマの姿。そこにあるのは生活の姿である。
ルオマを安易に都会へ出さなかったのは正しい判断だったと思う。「黄色い大地」のヒロインは地方の民謡を採取するために村にやってきた役人に恋をする。役人の話に出てくる自由な生き方に憧れ、自分も八路軍に連れて行ってほしいと望むようになる。黄河まで5キロの道のりを歩いて水汲みに行く過酷な労働、遥に年上の男とだいぶ前から結婚が決まっていたという因習的な暮らし。娘は嫁入り後夫のもとを逃げ出し、対岸の八路軍のところに渡ろうと黄河に船を出すが、途中でおぼれたことが暗示される。
村での生活が因習に満ちた閉塞的なものとして描かれた「黄色い大地」では悲劇になり、同じく村を捨てた「小さな中国のお針子」のヒロインはその後ようとして消息が知れない。「雲南の少女ルオマの初恋」でも農村の古い体質が描かれているし、そこにいては同じような生活を続けるしかないという一定の閉塞感もある。しかし、それだけではなく村の平穏な生活とその美しい自然は一定の共感を持って描かれてもいる。その描き方が結末を分けているとも言える。どの選択が正しいという問題ではない。むしろそれぞれの作品における一貫性の問題として判断されるべきだろう。ルオマは飛ばなかった。しかし村に残ったルオマの笑顔に救いがある。この結末には好感を持った。
「最高の人生の見つけ方」
「先月観た映画(08年11月)」で書いたが、「最高の人生の見つけ方」はスペイン映画「死ぬまでにしたい10のこと」に似たテーマを持つ作品である。原題のThe Bucket Listは「棺桶リスト」という意味で、つまり死ぬ前にやりたい事のリストである。したがって設定も「死ぬまでにしたい10のこと」とよく似ている。物知りの自動車整備工カーター(モーガン・フリーマン)と実業家で大金持ちのエドワード(ジャック・ニコルソン)はたまたま同じ病室に入院する。最初はギクシャクしていたが、やがて同じ状態に置かれた二人に友情が芽生える。二人は互いに「棺桶リスト」を作り、それを実現するために病院を抜け出す。
カーターのリストには「見ず知らずの人に親切にする、泣くほど笑う、荘厳な景色を見る、マスタングを運転する」などが含まれ、エドワードは「世界一の美女にキスをする、刺青を入れる、スカイダイビングをする」などを死ぬ前にやりたいという。
「アバウト・シュミット」に続いて無精ひげにもじゃもじゃの髪という情けなさ横溢のスタイルが妙にはまるジャック・ニコルソン。一種の難病ものだが、その種の映画にありがちな湿っぽさが全くなく、カラッとしてユーモアがあるところがいい。その点ではドイツ映画の快作「ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア」と同じ趣向を持った映画である。後者は犯罪映画の赴きもあるが、アメリカの犯罪物とは一味も二味も違ったユーモラスな映画。死ぬ前に一度でいいから海が見たいという思いで病院から逃げ出した末期患者の男二人、そこにギャングがからんでドタバタ調になる。とりわけ行き掛かり上銀行強盗をしてしまうところが傑作。
「最高の人生の見つけ方」も老友二人を主人公に迎えて、これっぽっちも湿り気のないユーモラスな映画に仕上げた。病室で「LAで最高だよ」と贅沢な食事をした後、思いっきり食べたものを吐いてしまうエドワード。「今じゃLAで最低だ。」一方のカーターは「何か必用なものがありますか?」と看護婦に聞かれて、「健康な体を一つ」と答える。こういったやり取りが巧まずして実にうまい。
最初の内は「死体置き場に来てしまった」などと悪態をついていたエドワードも、手術後の縫い目が残る頭を鏡で見て、「心臓麻痺で死ぬやつがうらやましい」と弱音を吐くようになる。しかし二人で病院を抜け出すあたりから映画に活気が出てくる。クイズには驚くほど強いが決して豊かな生活ではないカーターと有り余るほど金を持っているエドワードという組み合わせには多少の工夫を感じるが、結局はエドワードの金で願いの大半を実現させてしまう安易さはいかにもアメリカ映画らしい。
しかしすべて金で解決させないところがいい。コピ・ルアクの話をして死ぬほどわらうカーター、別居中の妻に会いに行き孫娘にキスをするエドワード。「泣くほど笑う」、「世界一の美女にキスをする」という夢はこんな形でかなう。アメリカ映画らしいシャレたところがある。
「人生を楽しめ」、「目を閉じて水の流れに身をまかせるのだ」というカーターの手紙、エドワードが大好きだった「チョック・フル・オブ・ナッツ」の缶に遺灰を入れて安置する秘書のマシュー。バージニア、エミリーという二人の妻も絡ませて飽きさせない展開。すべて都合よく収まるところはいかにもアメリカ映画だが、それでも単なる「死ぬまでにしたい10のこと」や「ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア」の二番煎じに終わらない作品に仕上がっていると思う。
監督はロブ・ライナー。「スタンド・バイ・ミー」、「恋人たちの予感」、「ミザリー」などと並ぶ彼の代表作になるだろう。
「4分間のピアニスト」
「4分間のピアニスト」は久々のドイツ映画。スイス映画「僕のピアノコンチェルト」、未見だがアメリカ映画「奇跡のシンフォニー」など、音楽を題材にした映画をこのところよく見かける。老人と少年の心の通い合いをテーマにした「僕のピアノコンチェルト」に比べると、「4分間のピアニスト」はぐっと緊張度が高い。なにしろ刑務所の女受刑者と彼女にピアノを教える老教師が主人公なのである。かつては神童といわれた才能を持つジェニーは素直に女教師クリューガーの言うことを聞かない。何度も対立を繰り返しながらもついにジェニーは舞台に立つ。このあたりの展開は2004年のフランス映画「コーラス」と重なる。こちらは孤児院の子供たちにコーラスを教える中年男性教師の話である。
まあ「コーラス」ほどではないがやはりストレートな映画である。囚人や孤児院のねじけた子供たちを対象にすることによってストーリーにメリハリを付けてはいるが、成功に向かって物語が進行してゆくことは最初から見えている。それを救っているのはやはり役者の存在感である。「コーラス」の教師マチューはちびでデブではげ頭。見事に三拍子そろったさえない男である。よくある熱血型の教師でもなく、懇々と諭すようなタイプでもない。優しい性格なのだが、甘やかすことはせず、過度な優しさも示さない。だが、ちょっとしたいたずら程度は笑って済ます。この距離の取り方が絶妙だった。演じたのは「バティニョールおじさん」のジェラール・ジュニョ。この映画の一番の魅力はコーラスの魅力でも、ジャン=バティスト・モニエの美声でもない。さえない教師マチューである。
「4分間のピアニスト」はジェニーを演じたハンナー・ヘルツシュプルングが強烈な演技を見せている。決して美人女優ではない。大胆で鼻っ柱が強いが、一旦ピアノに向かうと繊細な音をつむぎだす。しかし本当はクラシック以外を弾きたいと思っている。そういう複雑な役柄を新人離れした存在感で演じきっている。一方の教師役のモニカ・ブライブトロイはそれを上回る存在感だ。「ラン・ローラ・ラン」にも出ていたらしいが、ほとんど記憶にない。しかしこの映画では堂々たる演技力を示している。自分が見出した才能を何としても開花させようとするその執念はついにジェニーの抵抗を押し切ってしまう。過去に辛い傷を持つという設定になっているが、それがなくても圧倒的な存在感だった。彼女が期待したとおりの結末にはならないが、それがまた圧巻だ。
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