「延安の娘」を観ました
レビューを書きたいと思いながら、これはという作品に出会わないままにほぼ1月が過ぎてしまった。ようやく「延安の娘」というとてつもない傑作と出会った。圧倒的な説得力と強烈なインパクトを持つ秀逸なドキュメンタリー作品だ。
注目すべきドキュメンタリー映画が増えていると感じ始めたのは2006年ごろからである。もちろんそれ以前にも優れたドキュメンタリー作品はあったが、ドキュメンタリーが広く注目を集め話題に上るようになったのは2006年ごろからだと思う。これには山形ドキュメンタリー映画際や「ポレポレ東中野」の果たした役割が大きいだろう。「WATARIDORI」、「ディープ・ブルー」、「皇帝ペンギン」、「アース」などの動物・ネイチャーものを除いても話題の作品に事欠かない。「ガーダ パレスチナの詩」、「スティーヴィー」、「六ヶ所村ラプソディー」、「蟻の兵隊」、「ヨコハマメリー」、「三池 終わらない炭鉱の物語」、「ヒロシマナガサキ」、「不都合な真実」、「シッコ」、「ミリキタニの猫」等々。いずれも社会の一面を切り取るというドキュメンタリー本来の力を発揮した作品である。
それ以外にも続々とドキュメンタリー作品が登場している。「チョムスキーとメディア」、「いのちの食べかた」、「ニキフォル 知られざる天才画家の肖像」、「コマンダンテ」、「カルラのリスト」、「スケッチ・オブ・フランク・ゲーリー」、「マイ・シネマトグラファー」、「ヴィットリオ広場のオーケストラ」、「チャーリー・チャップリン ライフ・アンド・アート」、「ブラインドサイト 小さな登山者たち」、「パレスチナ1948 NAKBA」、「おいしいコーヒーの真実」、「1000の言葉よりも 報道写真家ジブ・コーレン」、「いま ここにある風景」、「敵こそ、我が友 戦犯クラウス・バルビーの3つの人生」。そしてもう1本、「延安の娘」との関連でどうしても付け加えておきたいのは2007年山形国際ドキュメンタリー映画祭でロバート&フランシス・フラハティ賞(大賞)を受賞した「鳳鳴(フォンミン)−中国の記憶」。「鉄西区」のワン・ビン監督作品。1人の女性が文化大革命期に受けた数々の迫害を3時間にわたって語るドキュメンタリーである。目に付いたものだけでもこれだけある。今後も陸続と続くに違いない。
「延安の娘」は「蟻の兵隊」の池谷薫監督が2002年に製作した作品である。先月末に「蟻の兵隊」と同時にDVDが出た。日本映画だが、舞台は中国であり、登場する人物もすべて中国人だ。付録としてDVDに収録されている池谷薫監督のインタビューが実に充実している。彼の言葉がこの映画の特質を端的に表現している。「文革とは何かという映画を撮りたかったわけじゃないんですよ。それよりもあのような心の傷を負った人々がそこからどうやって再生しようとしているのか、その物語を撮りたいなと思ったんですね。」「ハイシアが現われたことによって、かつての下放青年たちが過去と向き合う。僕は実はその過去と向き合うという勇気を撮りたかったし、見て欲しかった。」
プロレタリア文化大革命(1966~1976年)。下放、紅衛兵、造反有理、四人組、五悪分子(地主、富農、反革命分子、右派、不良分子)、走資派。日本でも耳に馴染んだ言葉だ。それは恐怖と狂乱の時代だった。池谷薫監督は、彼が文革時代の事を聞きたいと言うといずれの中国人も意味不明の含み笑いを浮かべ、やがて誰もいなくなってしまうと語っていた。いまだに触れたくない「生々しい」記憶なのだ。
文革あるいは文革時代を描いた中国映画はこれまでもたくさん作られてきた。「標識のない河の流れ」(1983)、「芙蓉鎮」(1987)、「子供たちの王様」(1987)、「青い凧」(1993)、「さらば、わが愛 覇王別姫」(1993)、「活きる」(1994)、「太陽の少年」(1995)、「シュウシュウの季節」(1998)、「初恋のきた道」(2000)、「小さな中国のお針子」(2002)、「ジャスミンの花開く」(2004)、等々。そのほとんどが傑作である。その系譜に日本人監督が撮ったドキュメンタリー作品が加わった。この作品の場合、1966年8月からから67年2月にかけて文革時代の中国を撮った日本人監督によるドキュメンタリー映画「夜明けの国」(1967、時枝俊江監督)と違い、日本人であることがより真実に迫ることを可能にした。日本人であるからあそこまで肉薄できたのだろう。また客観視できたのだろう。実際、日本人だからあの映画が作れたと中国人から言われたそうである。
文革の10年間でのべ1600万人が下放された。その一人ひとりに物語があると監督は語る。「歴史の中で翻弄された人間のドラマを撮りたかった。」以前「胡同のひまわり」のレビューを書いたとき最後を次のように締めくくった。「最後に長々と映される老人たち。文革時代を生き抜いてきた人たちだ。シャンヤンの父親はきっとどこかでこういった老人たちに混じって生きているのだろう。 彼らの一人ひとりにそれぞれのドラマがある。映画が生まれて百年余。それでも物語は尽きない。一人ひとりに物語があるからだ。」この言葉が決して単なるレトリックでないことを「延安の娘」が雄弁に示してくれている。
<追記>
「延安の娘」のレビューはこちらからどうぞ。
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» 独断的映画感想文:延安の娘 [なんか飲みたい]
日記:2008年9月某日 映画「延安の娘」を見る. 2002年.監督:池谷薫. ドキュメント映画である. 北京長辛店の趙国棟は,同級生王露成を訪ねる.文化大革命後,下放した王露成が延安で生ませた娘が見... [続きを読む]
ほんやら堂さん TB&コメントありがとうございます。こちらこそご無沙汰しておりました。
まだボストンにいます。帰国は来月の6日の予定です。
中国の文革ものはいろいろ観てきましたが、この映画は「芙蓉鎮」、「青い凧」、「さらば、わが愛 覇王別姫」、「活きる」などと並ぶ傑作として長く残る作品だと思います。日本人が作ったということも重要ですね。
ドキュメンタリーという手法についてもいろいろと考えさせられる映画だったと思います。
投稿: ゴブリン | 2008年9月29日 (月) 21:12
ゴブリン様
ご無沙汰しております.今未だ在ボストンですか?
この映画の登場人物達はほぼ僕と同年代と思われます.
あのとき新聞等で読んだりTVで見たりした紅衛兵(及び吊し上げられていた実権派の幹部達)の印象は,未だに鮮烈です.
それもあって印象的な映画でしたが,とにかく映像の持つ力に圧倒されました.貴記事でも記載のある黄玉嶺の悔し泣きするシーンは,胸を打たれました.
音楽が素晴らしかったのも特筆すべきでしょう.
投稿: ほんやら堂 | 2008年9月27日 (土) 00:05