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2008年8月

2008年8月28日 (木)

「蟻の兵隊」を観ました

Pocketwatch3  「延安の娘」(2002)に続いてようやく「蟻の兵隊」(2006)を観た。「延安の娘」には及ばないが、かなりのインパクトのあるドキュメンタリーだった。「延安の娘」に比べて劣ると感じるのは編集の仕方に疑問が残るからだ。インタビュアーの声が頻繁に入ってきて、それがどうも気になる。いちいち質問の声が入るのがどうもうっとうしいのだ。一つには奥村さん(主たる登場人物)の行動の邪魔をしていると感じるからである。もう一つは相手から自然に出てきた声を拾うのではなく、無理やり答えを引き出そうとしていると感じるからである。どうも撮影する側が前面に出すぎている気がする。もっと行動そのものを追い、相手の自然な声を拾い、質問などは別に時間を取ってまとめてする方がいい。質問も字幕で出すなどの工夫が欲しかった。

 そういう不満はあるが、それでもこの映画に強烈なインパクトがあるのは奥村さんの体験自体が強烈であり、また真相を追究しようとする彼の意志が強靭だからである。例えば、初年兵の時に「教育」として中国人を銃剣で刺し殺すよう上官から強要された話。初めて人を殺す体験。銃剣を持った側の方がおどおどしていたという。とにかく相手の目が見られない。「怒りのまなざしで睨みつけている」中国人の目が怖くて目をつぶってしまう。狙いがそれて相手の肋骨に当たりうまく刺さらない。上官に怒鳴りつけられ何度も繰り返し刺す破目になる。

 それだけでもすごい話なのだが、奥村さんはその場にいた人が生存していたら会って話が聞きたいという。パニック状態だった自分は目の前のことしか見えていなかった。だから実際はどんな状況だったのか聞きたいというのだ。そして実際に会う。それがまた予想外の展開となる。その後で奥村さんが漏らしたコメントがまたすごい。詳しくはレビューで書くことにするが、下手な演出まがいのちょっかいを出すより、実際にあったことをそのまま映した方がよほど迫力ある映像になる。池谷薫監督にはそういう題材を探してくる才能がある。今後どんな作品を作り上げてくるか楽しみだ。

「蟻の兵隊」(2006年、池谷薫監督、日本)★★★★

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「ラストゲーム 最後の早慶戦」と「ザ・マジックアワー」を観ました

 今月になってやっと「新作」を2本観ることができた。新作といっても「ザ・マジックアワー」は6月公開だが、上田では「新作」である。久々に電気館で観た。一方の「ラストゲーム 最後の早慶戦」は文字通りの新作。しかも一般公開前の8月9日に行われた先行上映会で鑑賞した。

Cyou  まずは、「ラストゲーム 最後の早慶戦」から。これは実に特異な場所で鑑賞した。延べ2000人の市民がエキストラ参加してロケが行われた上田城跡公園野球場で観たのだ。野球場にスクリーンを設置して、野外上映会が行われたのである。もうかれこれ35年以上映画を観続けているが、野外での上映会は初めてだ。もちろん野球場で映画を観るのも初めての経験。しかも無料で観た。ネットで「先着50名様ご招待」に応募してただ券を2枚入手したのである。その上さらに女性連れの鑑賞。これほど好条件が重なったにもかかわらず、結構辛い目にあってしまった。

 まず、元々映画鑑賞用には作られていない野球場なので音が観客席に反響してものすごく聞きづらい。フィールドで鑑賞したのだが、そこはいわばすり鉢の底。音が交錯して何を言っているのか聞き取れないこともしばしばあった。悪い条件はそればかりではない。当日夕方の5時ごろから激しい雨が降った。上映中止になるかと心配して問い合わせたほどだ。幸い上映前に雨は止んだが、フィールドはぬかるんでいる。中止と思ってシートも折りたたみイスも車に置いたまま。取りに行く時間もない。仕方なくビニール袋を敷いて座ったが、20分も観ているとお尻が痛くなって来た。その後はずっと立ちっぱなしで鑑賞。しかも真夏だというのに長袖が欲しいくらい寒くなっていた。ぶるぶる震えながらの鑑賞だった。

 そんな状態で観たので、映画についてはあまり書けない。まともに観ていたとは言いがたいからだ。映画の印象はあまりよくない。平凡な作品だったというのが正直な印象。ただしもっといい条件で観たら印象が違っていた可能性があるので、映画の出来については保留しておこう。題材は悪くない。学徒出陣を控えた野球部員たちが最後の早慶戦を行うという話。早稲田大学野球部顧問役の柄本明がさすがの好演。しかし野球部員たちを演じた若い俳優たちがどうも物足りない。ドラマ自体もいまひとつ盛り上がりに欠ける。そういう印象が拭い去れなかった。しかし、繰り返すが、あまり映画に集中できなかったのでそのぶん割り引いて受け止めていただきたい。

Night2  「ザ・マジックアワー」は昨日観た。こちらは期待したほどではなかったが、なかなかの出来だった。全くリアリティに欠ける設定なのだが、それでも最後まで観客を飽きさせないのは三谷幸喜の卓抜なコメディ・センスのおかげだろう。5日以内に幻の殺し屋・デラ冨樫を探し出して連れて来なければ命がない切羽詰った備後とマリ。売れない俳優の村田大樹を映画の撮影だと騙して彼をデラ冨樫に仕立て上げる。村田を本物のデラ冨樫と思い込んでいるギャングたち、偽者を仕立ててひやひやする思いの備後とマリ、最後の最後になるまで映画の撮影だと思い込んでいる村田。この3者の事実認識のズレが笑いを引き起こす。「カット」、「(カメラは)どこから俺を狙っている」という映画用語がこのズレによって思わぬ笑いを引き起こす。

  ズレ、ねじれ、勘違い、思い込み。コメディの定石がこれでもかと手を変え、品を変え連発される。さらに意図的な仕掛けもある。何も知らないギャングたちと村田の間に、事情を知っている備後とマリが挟まっているという構図。元々無理な計画の破綻を防ぐために、彼らはさらにもっと無理な「仕掛け」をひねり出す。それがさらに予想外のドタバタを引き起こす。

 相変わらず豪華な出演陣だ。普段きつい顔で登場することが多い佐藤浩市がコミカルな演技を見せるのも見物だ。ギャングのボスを演じる西田敏行がまたうまい。「ペーパー・ムーン」ばりに三日月にのって登場する深津絵里が何ともかわいい。寺島進のずれたコワモテ演技も良い。そして戸田恵子。こんなセクシーな戸田恵子を見たことがない。その他ちょい役にも鈴木京香や天海祐希などもったいないほどの顔ぶれをそろえている。ただし、新興ギャングのボス役香川照之は迫力が足らなかった。

 よく練られた作品なのだが、どこか物足りないものも感じた。ギャングたちはもっと怖い方がいい。そのほうがメリハリも利いて笑いが増幅されるだろう。しかし一番問題なのは徹頭徹尾作りものの世界だということだろう。シカゴをもじった守加護という舞台が示しているように、コメディというよりもパロディに近い。しかしパロディにはもっと皮肉や風刺が必要だ。「こういうの一度作ってみたかったんだ」という三谷幸喜の個人的嗜好が前面に出すぎているのかもしれない。

「ラストゲーム 最後の早慶戦」(2008)★★★
  監督:神山征二郎、出演:渡辺大、柄本佑、柄本明、和田光司

「ザ・マジックアワー」(2008)★★★★
  監督:三谷幸喜、出演:佐藤浩市、妻夫木聡、深津絵里、西田敏行

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2008年8月20日 (水)

これから観たい&おすすめ映画・DVD(08年9月)

【新作映画】
8月23日公開
 「12人の怒れる男」(ニキータ・ミハルコフ監督、ロシア)
 「小さな赤い花」(チャン・ユアン監督、中国・伊)
 「セックス・アンド・ザ・シティ」(マイケル・パトリック・キング監督、米)
 「ラストゲーム 最後の早慶戦」(神山征二郎監督、日本)
 「落語娘」(中原俊監督、日本)
9月6日公開
 「イントゥ・ザ・ワイルド」(ショーン・ペン監督、米)
 「幸せの1ページ」(ジェニファー・フラケット、他監督、米)
 「落下の王国 The Fall」(ターセム監督、インド・英・米)
 「グーグーだって猫である」(犬童一心監督、日本)
9月13日公開
 「おくりびと」(滝田洋二郎監督、日本)
 「パコと魔法の絵本」(中島哲也監督、日本)
9月20日公開
 「ベティの小さな秘密」(ジャン・ピエール・アメリス監督、仏)

【新作DVD】
8月22日
 「君のためなら千回でも」(マーク・フォスター監督、米)
 「石の微笑」(クロード・シャブロル監督、仏・独・伊)
 「裏切りの闇で眠れ」(フレデリック・シェンデルフェール監督、仏)
8月27日
 「音のない世界で」(ニコラ・フィリベール監督、伊・仏・他)
8月29日
 「歓喜の歌」(松岡錠司監督、日本)
9月3日
 「やわらかい手」(サム・ガルバルスキ監督、ベルギー・ルクセンブルク、他)
 「ダージリン急行」(ウエス・アンダーソン監督、米)
9月5日
 「ファーストフード・ネイション」(リチャード・リンクレイター監督、米)
9月10日
 「4ヶ月、3週と2日」(クリスティアン・ムンジウ監督、ルーマニア)
9月12日
 「フィクサー」(トニー・ギルロイ監督、米)
 「マイ・ブルーベリー・ナイツ」(ウォン・カーウァイ監督、香港、中国・仏)
9月16日
 「ラスト・コーション」(アン・リー監督、中国・台湾・香港)
9月17日
 「ペネロピ」(マーク・バランスキー監督、英・米)
 「マゴリアムおじさんの不思議なおもちゃ家」(ザック・ヘルム監督、米)
9月24日
 「ジェイン・オースティンの読書会」(ロビン・スウィコード監督、米)
9月25日
 「最高の人生の見つけ方」(ロブ・ライナー監督、米)
9月26日
 「ここに幸あり」(オタール・イオセリアーニ監督、ロシア・他)
 「つぐない」(ジョー・ライト監督、英・仏)
 「トゥヤーの結婚」(ワン・チュアナン監督、中国)
 「ようこそ、羊さま」(リウ・ハオ監督、中国)
10月3日
 「ぜんぶ、フィデルのせい」(ジュリー・カプラス監督、伊・仏)

【旧作DVD】
8月22日
 「赤線地帯」(56、溝口健二監督)
 「山椒大夫」(54、溝口健二監督)
8月25日
 「不良少女モニカ」(53、イングマール・ベルイマン監督、スウェーデン)
8月27日
 「テレビドラマ版 男はつらいよ」(68、69、小林俊一演出)
8月30日
 「情事」(60、ミケランジェロ・アントニオーニ監督、伊・仏)
 「リラの門」(57、ルネ・クレール監督、仏・伊)
9月10日
 「ミニー&モスコウィッツ」(71、ジョン・カサベテス監督、米)
9月11日
 「エレファント・マン」(81、デビッド・リンチ監督、英・米)
9月17日
 「から騒ぎ」(93、ケネス・ブラナー監督、英・米)
9月20日
 「天菩薩」(86、イム・ホー監督、香港・中国)

Turitourou5   新作映画では特にこれといって強く惹かれるものはないが、興味深いのは「イントゥ・ザ・ワイルド」と「12人の怒れる男」、そして「小さな赤い花」あたり。「イントゥ・ザ・ワイルド」の原作はジョン・クラカワーの『荒野へ』。だいぶ前に買ったきり読んでいないが、彼の『空へ』は山岳ドキュメンタリーの白眉。めちゃくちゃ面白かった。その関係で興味をそそられる。「12人の怒れる男」は言うまでもなく裁判映画の名作のリメイクだが、監督がニキータ・ミハルコフとあってはやはり見逃せない。「小さな赤い花」は教育問題を扱った中国映画。高い水準を保っている中国映画だけにこれも観ておきたい。

  DVD新作では、先月紹介した「やわらかい手」、「ラスト・コーション」、「ペネロピ」の他に、「ジェイン・オースティンの読書会」、「最高の人生の見つけ方」、「ここに幸あり」、「ぜんぶ、フィデルのせい」などが登場。他も結構粒ぞろいだ。

 旧作DVDでは何と言っても「テレビドラマ版 男はつらいよ」のDVD化が最大の話題。大ヒットシリーズの原点。ぜひ観ておきたい。ただ残念なことに、マスターテープは初回と最終回しか残ってないらしい。今回DVD化されるのはその2回分だけだが、特典でシリーズ全体のあらすじが付いているとのこと。ルネ・クレール監督の名作「リラの門」もおすすめ。名優ピエール・ブラッスールとジョルジュ・ブラッサンスの名演に酔いしれてください。もう1本。「天菩薩」は中国の少数民族問題をいち早く取り上げた作品らしい。これも大いに興味を引かれる。

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2008年8月13日 (水)

延安の娘

2002年 日本 2003年11月公開 120分
評価:★★★★★
監督:池谷薫
撮影:福居正治
音楽:三宝(サン・パオ)
編集:吉岡雅春
エグゼクティブプロデューサー:北川恵、中西利夫
プロデューサー:権洋子
出演:何海霞(フー・ハイシア)、王露成(ワン・ルーチョル)、黄玉嶺(ホアン・ユーリン)
    趙国棟(チャオ・グオトン)、王偉(ワン・ウェイ)、王雄驥(ワン・ジョンジー)

 池谷薫(いけや かおる)監督。NHKで多くのドキュメンタリー番組を作ってきた。「チャイナタウン」(1991)、「黄土の民はいま」(1994)、「広州青春グラフィティ」(1995)、「中国・12億人の改革開放」 (1995)、「中国・巨大市場へのうねり」(1999)など、中国を題材にした番組が多い。NHKスペシャルとして放映されたものがほとんどだが、まさに中国問題のスペシャリスト。89年の天安門事件以降、中国での取材活動を積極的に展開している。「延安の娘」も当初はNHKのハイビジョンチャンネルのために制作されたものだという。2年にわたり取材を続け、記録したハイビジョンテープは170時問に及んだという。

Saba3   残念ながら彼のテレビ番組は一つも観ていない。しかし、初の長編ドキュメンタリー映画「延安の娘」は彼の力量を充分印象付ける傑作だった。優れたドキュメンタリーやルポルタージュはフィクションを越える。80年代以来僕が持ち続けている確信だ。想像力(創造力)を生の現実が軽々と超えてしまう。そういう優れたドキュメンタリーやルポルタージュといくつも出会ってきた。恐らく今の中国は優れたドキュメンタリーを生み出しうる最高の題材だろう。長い歴史と急激な近代化が混在する国。急激な変化は様々な矛盾と混乱を生む。その一つの象徴が三峡ダムの建設であり、「長江哀歌」はドキュメンタリー的手法で近代化が古い遺産を容赦なく押し流してゆく実態を抉り出していった。矛盾と混乱のあるところには必ず、その中で翻弄され、苦悩し、もがく人間のドラマがある。

  ドキュメンタリーの持つ力はその具体性とリアリティである。これまでもいろんなレビューの中で書いたが、単にある戦争で何万人の犠牲者が出たと書かれてもその犠牲者たちや遺族の苦しみや苦悩はリアルに伝わってこない。実際に経験した人の体験談の方が遥に説得力があり、肌を通して伝わってくる。想像を超えた現実の重み、それが様々な技法を駆使した創造を超えてしまう。その最も分かりやすい例があの9.11テロの圧倒的な映像である。

  いや、現実がシンボリックな効果を生み出すことすらある。朝日新聞の記者だった井川一久がポル・ポト政権による民衆虐殺を取材した『このインドシナ-虐殺・難民・戦争』(1980、連合出版)に次のような一節があった。井川は数々の虐殺現場を取材してきたが、ある虐殺現場の近くで彼はあるものを見た。そしてその場にへなへなとへたり込んでしまった。百戦錬磨の新聞記者から立ち上がれないほど力を奪ったのは血なまぐさいものでも、ぞっとするほど不気味なものでもなかった。それは普通なら平和とやすらぎを連想させるものだった。

 そういう刑務所のまわりに直径3、4メートルの窪地が無数にある。1ヵ所に30体から100体の死体を入れて土をかぶせたのだけれども、死体が腐って内部に空隙ができたために、かぶせた土が陥没したんですね。その土は血で赤黒く染まっている。穴は犠牲者たちに自分で掘らせるわけです。それから彼らを後ろ手に縛りあげて穴の前にひざまずかせ、後頭部を鉄棒で一撃して殺して穴に蹴落とす。だから頭蓋骨をみると、たいてい後頭部が陥没している。穴の周辺には白骨や毛髪や衣類がおびただしく散らばっています。子どもの衣類も多い。縛られたままの白骨もある。犠牲者を拘束していた鉄の足枷や、殺害に使った鉄棒もころがっている。いちばん鬼気迫る感じがしたのは、ツオル・マリン村で小鳥の巣が人間の髪の毛でできているのを見たときです。このときは私も総身の力が抜けたような状態になって、その場に座り込んでしまいましたね。
 井川一久編/本多勝一司会『このインドシナ』(1989、連合出版)p.23

 彼が見つけたもの、それは小鳥の巣だった。すべて人間の髪の毛で作られていた真っ黒な鳥の巣。小さな鳥の巣の中に平和でほほえましいイメージと恐るべき虐殺のイメージが共存していた。生を育むイメージとむごたらしい死のイメージの一体化。散々吐き気を催す現場を見てきただけに、このコントラストは強烈だったのだろう。こんなところにまで虐殺の結果が及んでいたのか!

  この鳥の巣が持っていた力はある種のシンボリズム的な力だと言っていいだろう。髪の毛が遺体を暗示するのは隠喩の一種である提喩(シネクドキ)の効果でもある。しかも、すべて人間の髪の毛で作られていたということは、遠くまで行かなくともすぐ手近に「材料」が豊富にあったことを意味している。一つの鳥の巣が持つめまいがするような意味の重なりと広がり。これらの強烈なコントラストと「効果」の重なりが一体となって、本来なら愛らしいはずの鳥の巣をすぐ近くにある人骨の山以上におぞましいものに変えてしまったのだ。

 しかしこれを単純にシンボリズムだと言ってしまうわけにはいかない。シンボリズムはもっと曖昧で抽象的なものだ。この鳥の巣が強烈なインパクトを与えるのは、その前提に取材した人々が語った悲惨な事実、人骨の山などが積み重ねられているからである。事実の積み重ねにあるシンボリックな力が加えられた時、大きな飛躍が生まれる。そうとらえるべきだ。つまりこの効果はシンボリズムではなくリアリズムの延長としてとらえられるべきだと僕は思う。セルゲイ・エイゼンシュテイン監督の「戦艦ポチョムキン」で描かれた有名な場面、揺りかごがオデッサの階段を転がり落ちてゆくシーンを連想してもいいだろう。リアリズムを現実の平板な反映だと考えるのは間違いである。リアリズムは現実をより効果的に描き出す努力を営々と積み重ねてきている。そして上に示したように、何より現実自体が平板ではないのである。9.11の時のツイン・タワーもシンボリックな意味合いを帯びていたではないか。

 リアリズムも決して一様ではない。もう20年くらい前になるだろうか。テレビでヨーロッパのどこかで起こった航空機どうしの空中衝突事故の現場が中継されていた。インタビューを受けた男性がこんなことを言っていた。煙をあげて航空機が墜落して行くのを見上げていたら目の前に手袋が落ちてきた。拾ってみたら中に手が入っていたと。これは、物語として考えれば、グロテスク・リアリズムである。あるいは中南米のマジック・リアリズムを想起してもいいだろう。19世紀の小説において一つの頂点に達したリアリズムは、20世紀以降もさまざまに形を変えて連綿と続いている。そしてその重要な形態の一つがドキュメンタリー映画なのである。

* * * * * * * * * *

 文革時代。中国近代史でこれほど人間の暴虐と苦悩と悲哀が詰まった時期はないだろう。映画でも「芙蓉鎮」や「青い凧」、「さらば、わが愛 覇王別姫」、「活きる」などの傑作がこの時代を描いてきた。猛威を振るった紅衛兵たちはやがてそれ自体が脅威になり始め、やっかい払いするかのように彼らは下放させられた。その下放生活がいかに悲惨なものであったかを描いたのが「シュウシュウの季節」である。幹部たちの性の慰み者にされ、故郷に帰るという望みもかなえられずに死んでゆく一人の娘。文革は終わっていたのに、彼女の存在など忘れられ辺境の地に置き去りにされた。メロドラマ的な演出も目立ち傑作には至らなかったが、時代に翻弄された1人の女性の数奇で悲惨な運命が強烈なインパクトを与える作品だった。

033798  「延安の娘」はメロドラマ的な要素は一切排している。1人の下放青年が下放時代に秘かに作った娘(他人に養子として育てられた)が北京の父親に会いに来るという話が中心にあるが、その父娘だけではなく、その父親と同世代の人たちの話を盛り込んでいるために映画に広がりと深みが加わった。同じく下放中に子供を作って逮捕された経験を持つホアン・ユーリン、下放してきた女性と結婚の約束をした(当時は男女が恋愛すること自体反社会的行為だった)ために下放破壊罪で15年の刑に服したワン・ウェイ(しかも冤罪の可能性がある)、四人組を批判する詩を持っていたために逮捕されたワン・ジョンジー(大変なインテリだがいまだ満足な職を得られない)。「延安の娘」は単なる娘と父の再会のドラマではない。忘れられた父の世代にいまだ生々しい下放時代を語らせ、心に深く負った傷が今なお癒えないどころか、教育を受ける機会を奪われたこの世代が時代の変化についてゆけず、今やリストラの対象となっていることまで描いている。それでいて彼らが社会問題として取り上げられることはない。「失われた世代」ならぬ「忘れられた世代」。彼らはあの時どんな思いで生き、今どのように暮らしているのか。そして過去とどう向き合い、乗り越えようとしているのか。映画の視野はそこまで及んでいる。

 登場するのは北京の長辛店に生まれ、中学生の時に陝西省・延安に下放された人々である。「長辛店の中学生400名は陝西省・延安に下放させられた。」(字幕)延安は毛沢東率いる労農紅軍が軍事拠点を築いた場所で、「革命の聖地」と呼ばれるようになった。しかし革命運動の情熱に燃えた中学生たちがそこに見出したのは期待とおよそかけ離れた現実だった。二人の登場人物がこの期待から幻滅への変化を的確に表現していた。「延安は革命の聖地で『花香る』と歌にある。美しい土地と思ってた。ひらけた場所だと・・・ところが水も電気もない。」「虫がわいた水溜りの水を飲んだ。お腹もへって、みんな泣いた。泣けば帰りたくなるけど、帰してもらえるはずもない。」「結局、下放は青少年の思想の幼稚さを利用してたんだ。」

 最後の言葉が強烈だ。毛沢東の権力闘争に利用され、邪魔になれば「下放」の名の下にやっかい払いされた。延安の荒れはてて不毛な風景が象徴的だ。黄土高原にある延安は何もない不毛の山岳地帯だった。見渡す限りの山また山。一面黄土色で緑がほとんどない。地面も壁も同じ黄土色。風が吹けばものすごい土煙が舞い上がる。何のことはない、ゴビ砂漠にある労働改造所に押し込められたようなものだ。

 「延安の娘」フー・ハイシアの父ワン・ルーチョルなどは、延安で散々苦労した挙句、北京に戻っても給料の安い工場の仕事しか世話してもらえなかった。同じ延安に下放されていたハイシアの母親はもっと給料のいい仕事を得た。やがて彼女はうだつの上がらないワン・ルーチョルと別れる。既に結婚していた母親は最後まで娘のハイシアに会う決心が付かなかった。

Cut_bmgear04  ワン・ルーチョルはまさに忘れられた下放世代の代表だ。失業して昼間から上半身裸でゴロゴロ寝ている。見るからにやる気のない様子。住んでいる家も貧民街のようなボロ家だ。延安に残してきた娘がお前に会いたがっていると聞かされて、ただおろおろして泣くばかりの情けない父親。しかし彼のだらしなさばかりを責めるわけにはいかない。「ずっとおれを思ってたなんて、申し訳ない」と言って泣き出す彼の姿には、責任放棄というよりは貧しくて親としての責任を果たせない自分の情けなさが現れている。「見つけてくれなくてよかった。おれなんかいないのと同じだ。」と泣く彼の気持ちの背後には、娘が会いに来ても服を買ってやることもできない(自分の服も「貧困救済用」の服だ)という思いがある。

 娘と会いたくないという彼の気持ちには、娘に居つかれては困るという危惧もあっただろう。しかしハイシアの気持ちはもっと純粋だった。「私はどうしても北京へ行きたい。行けばどうして自分が生まれたのか、真実は何なのかはっきりすると思います。」自分はなぜ生まれたのか、両親はなぜ自分を育てず養子に出したのか。とにかく父親と一目会ってそれを聞きたい。その一心だったろう。彼女の北京行きに養父母は強硬に反対していた。ハイシアはその反対を押し切っても北京に行きたかった。「実の父と会えるなら養父母と縁を切っても構いません。北京に行ったら必ず認めてもらいます。育ての親と縁を切る覚悟で行くのですから。気にかけてくれる人が欲しい。」  

 「気にかけてくれる人が欲しい。」この言葉の切実さに胸を突かれる。まだ20代なのに顔にはいくつもしわが刻まれている。彼女もまた苦労をしてきたのだ。養母は自分の子どもが出来るとハイシアの世話をしなくなった。小学校も3年までしか行かせてもらえなかった。しかし嫁いだ先の家族は親切な人たちに思えた。それでも彼女は寄る辺ない思いを抱いていたのだろうか。恐らく自分が養子だと知った時、彼女は自分が天涯孤独だと感じたのだろう。自分には本来の家族がいない。たとえ優しい人たちに囲まれていたとしても、この気持ちは抑えがたかったのかもしれない。だからこそ、養父母と縁を切ってでも北京の父に会いたかったのだ。

  娘と会った時ワン・ルーチョルは娘に次のような言葉をかけた。「よく捜したな。やっと見つけたんだ。顔を見れば苦労がわかる。たいへんだったな。」苦労が顔にまで表れている。「おれの罪だ」と自分を責める父親としてはいたたまれない思いだっただろう。だがその言葉自体に彼の変化が表れている。あれほど会いたくないといっていたワン・ルーチョルだが、娘と会ってからの彼は立派だった。初対面の時に上半身裸で現れるところはいかにもだらしないと感じるが、(インタビューで監督が指摘したように)彼は飾らない普段の自分を娘に見せたかったのだろう。

 彼の同級生たち(下放仲間)がハイシアの歓迎会を開いたとき、彼は突然立ち上がって発言する。「おれたちは国にすべてをささげた。青春を犠牲にしてな。ところが今忘れられている。だれもおれたちを気にしやしない。」この発言には幾分か言い訳も含まれているだろう。悪いのはおれ個人ではないと。しかし「このままでいいのか」という前向きの提起も含まれている。監督が言うように、彼は散々迷いはしたが、最終的には娘という「過去」から逃げなかった。娘と会い、自分をさらけ出し、そして娘を受け入れた。彼は彼なりに現実に立ち向かおうとしている。

 ハイシアの出現が埋もれた「過去」を、昔の古傷をうずかせたのはワン・ルーチョルの同級生たちも同じだった。そして彼らもまたハイシアを受け入れた。ハイシアのためにカンパをつのった司会者の言葉がそれをよく表している。「農村で生まれたワン・ルーチョルの娘は下放青年みんなの娘だ。」その場に集まっていた同級生それぞれにいろんな思いがあっただろう。誰もが下放時代の語るべきエピソードがあるに違いない。苦しい時代を共有したからこそ、仲間の痛みや辛さが理解できる。自分たち自身が「過去」になってしまいたくはないという思い。ワン・ルーチョルの突然の演説に対する反応は様々だったが、この思いは共通していただろう。

 こうして一組の父娘を中心にしながらも、「忘れられた世代」へと視点が広がってゆく。ホアン・ユーリン、ワン・ウェイ、ワン・ジョンジーのエピソードが父娘のエピソードを包み込むようにつづられてゆく。中でも特に重点が置かれ、また強烈な印象を残すのはホアン・ユーリンである。どっしりとした落ち着き、思慮深さ、包み込むような懐の深さ。食堂を営んでいる一介の市民に過ぎないのに、まるで名優のような圧倒的存在感。僕は「芙蓉鎮」でクー・イェンシャン(谷燕山)を演じたチョン・ツァイシーを連想した。

 ホアン・ユーリンこそこのドキュメンタリーの結節点に位置する人物である。ハイシアの両親が彼女を捨てざるを得なかった事情を説明したのは彼だった。彼自身同じ状況に陥り下放破壊罪を宣告されて辛酸をなめてきたのだ。「あの時代下放青年が子供を産むことは許されなかった。お腹の子供は中絶させられた。・・・当時妊娠がばれたら大事件だった。なにせあの時代は男と女が恋愛すること自体反社会的行為だった。文革の間恋愛は封建主義や資本主義の悪しき産物として厳しく取り締まられた。下放破壊は反革命罪だった。」ハイシアの両親は反革命罪を逃れるためやむを得ず生まれた娘を他人に預けたのである。

 同じように恋愛問題で下放破壊罪に問われ、15年の刑を言い渡されたワン・ウェイの無念を晴らそうと努力したのも彼だった。自分ははめられ、見せしめにされたのだという彼の言葉をどこまで信じたのかは分からないが、「いまさらどうこうという訳じゃないが、謝罪の言葉が欲しい」と言う彼の言葉を受けて行動した。

Ftshsbn1  しかし彼の存在が印象的なのはその落ち着いた聡明さや行動力のためだけではない。底知れない彼の苦悩の深さ、突然嗚咽する彼の姿こそがわれわれの胸を打つのである。「お前は人間じゃない畜生だ」とダムの建設現場(ここで強制労働させられていた)で看守に言われ、彼はその言葉にずっと苦しめられてきたのだ。「芙蓉陳」の主人公たちを想起させる非人間的な扱いに長年もがき苦しんできたのだ。「おれは人間だ、畜生じゃない。」そう自分に言い聞かせることで痛みに耐えてきた。知的で常に冷静だった彼が「だれかホアン・ユーリンが歩んだ道を語ってくれ。おれの歴史を語ってくれ」と泣き崩れる場面はこの作品の中でもっとも悲痛でかつ感動的な場面である。この言葉を引き出したところにこのドキュメンタリーの最大の価値がある。僕はそう言い切りたい。声なき叫びに声を与える。これこそドキュメンタリー映画の重要な役割の一つである。ホアン・ユーリンはこの映画の中で自分の「歴史」を詳しく語らなかったが、1人の女性に自分の歴史を3時間にわたってとうとうと語らせたのが、昨年の山形国際ドキュメンタリー映画祭でロバート&フランシス・フラハティ賞を受賞した「鳳鳴(フォンミン)−中国の記憶」(「鉄西区」のワン・ビン監督)である。生の現実がフィクションを越えてしまう実例がここにもある。

 最後にもう1人の主要登場人物であるワン・ジョンジーについても簡単に触れておきたい。下放して延安に住み着いているが、しょせんよそ者なので仕事が見つからない。テレビもない生活をしている。彼がこの映画の中で比較的大きく取り上げられているのは文革肯定派だからである。彼は、66年8月18日に毛主席が紅衛兵に接見した時の写真をいまだに大事そうに掲げ、「文革を生きた者はあの時の感動を簡単には捨てられない。こんな暮らしぶりだとなおさらだ」と語る。

 北京から持ってきたという箱の中は理論書でいっぱいだ。ベートーヴェンを語る彼の言葉から彼が相当なインテリであることが分かる。二度投獄された経験を持つ彼がなぜいまだに毛沢東や文革を信奉しているのか。映画の中で語られた限りでは分からない。理論に傾倒するあまり現実が見えていないのだろうか。恐らく彼は革命の現実ではなく革命の理想を見ていたのだろう。その意味で訳も分からずひたすら旧体制破壊に狂奔していた他の紅衛兵たちと違っていた。彼の毛沢東像は「老紅軍」たちのそれとあるいは近いのかもしれない。

 老紅軍とは1935年の長征で延安にたどり着き、毛沢東の下で抗日戦争、国共内戦を戦った老兵たちである。彼らも「毛沢東のことは死んでも忘れない。あんな偉大な人はいない」と語っていた。老紅軍とかつての紅衛兵・下放青年たちを同じだと思ってはいけない。戸外でマージャンに興じる老紅軍たちの昔話は単に昔を懐かしがっているだけではなく、誇りに満ちている。彼らは伝説の英雄世代なのである。侵略者日本軍と闘い、中華人民共和国を成立させた世代だ。自分たちが新しい中国を作った。そこには若々しい革命への情熱があっただろう。その戦いの先頭には常に毛沢東がいた。彼らの毛沢東に対する信頼はそこから来ている。いつしかそれは妄信となり、その後党内の権力闘争にのめりこんで行く彼の姿が見えていないのだ。彼らから見れば紅衛兵たちの運動は兄ちゃんや姉ちゃんたちが騒ぎまわっているという程度にしか見えなかっただろう。一方、当の紅衛兵・下放世代は過去を語る時に悔悟と苦悩がにじむ。そうでない者もいるが、大概はやっと傷口がふさがった古傷のように触れたがらない。彼ら自身が忘れられた世代なのだ。「テレビを見て社会の変化を学んでいる」と語るワン・ジョンジーの目に今の中国はどう見えているのだろうか(見かねた弟が送ってくれた金で彼はテレビを買った)。

 一つの視角にまとめ上げるのではなく、多様な視点を取り入れたことがこの作品にふくらみを与えた。一組の親子ではなく一つの世代を描こうとした。そうすることで歴史の流れも取り込むことが出来た。しかもそうしながら個々の人物の心の叫びがきちんと伝わってくる。ラストは父に宛てたハイシアの手紙で終わる。声に出して娘の手紙を読むワン・ルーチョル。手紙の最後には「娘 海霞(ハイシア)」と署名されている。娘は延安に帰っていったが、親子の絆は結ばれた。顔にいくつものしわを刻みながら、はにかんだり笑ったりする時のハイシアは二十歳の小娘のように見える(ふとした表情がどこかアグネス・チャンを思わせる)。最後に延安の茶色の台地が映され、畑を耕すハイシアの姿が見える。手紙の中では作物がどれだけ取れたか報告されている。あの茶色の大地は決して不毛の地ではなかった。

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2008年8月 8日 (金)

「延安の娘」を観ました

 レビューを書きたいと思いながら、これはという作品に出会わないままにほぼ1月が過ぎてしまった。ようやく「延安の娘」というとてつもない傑作と出会った。圧倒的な説得力と強烈なインパクトを持つ秀逸なドキュメンタリー作品だ。

Tuki1  注目すべきドキュメンタリー映画が増えていると感じ始めたのは2006年ごろからである。もちろんそれ以前にも優れたドキュメンタリー作品はあったが、ドキュメンタリーが広く注目を集め話題に上るようになったのは2006年ごろからだと思う。これには山形ドキュメンタリー映画際や「ポレポレ東中野」の果たした役割が大きいだろう。「WATARIDORI」、「ディープ・ブルー」、「皇帝ペンギン」、「アース」などの動物・ネイチャーものを除いても話題の作品に事欠かない。「ガーダ パレスチナの詩」、「スティーヴィー」、「六ヶ所村ラプソディー」、「蟻の兵隊」、「ヨコハマメリー」、「三池 終わらない炭鉱の物語」、「ヒロシマナガサキ」、「不都合な真実」、「シッコ」、「ミリキタニの猫」等々。いずれも社会の一面を切り取るというドキュメンタリー本来の力を発揮した作品である。

 それ以外にも続々とドキュメンタリー作品が登場している。「チョムスキーとメディア」、「いのちの食べかた」、「ニキフォル 知られざる天才画家の肖像」、「コマンダンテ」、「カルラのリスト」、「スケッチ・オブ・フランク・ゲーリー」、「マイ・シネマトグラファー」、「ヴィットリオ広場のオーケストラ」、「チャーリー・チャップリン ライフ・アンド・アート」、「ブラインドサイト 小さな登山者たち」、「パレスチナ1948 NAKBA」、「おいしいコーヒーの真実」、「1000の言葉よりも 報道写真家ジブ・コーレン」、「いま ここにある風景」、「敵こそ、我が友 戦犯クラウス・バルビーの3つの人生」。そしてもう1本、「延安の娘」との関連でどうしても付け加えておきたいのは2007年山形国際ドキュメンタリー映画祭でロバート&フランシス・フラハティ賞(大賞)を受賞した「鳳鳴(フォンミン)−中国の記憶」。「鉄西区」のワン・ビン監督作品。1人の女性が文化大革命期に受けた数々の迫害を3時間にわたって語るドキュメンタリーである。目に付いたものだけでもこれだけある。今後も陸続と続くに違いない。

 「延安の娘」は「蟻の兵隊」の池谷薫監督が2002年に製作した作品である。先月末に「蟻の兵隊」と同時にDVDが出た。日本映画だが、舞台は中国であり、登場する人物もすべて中国人だ。付録としてDVDに収録されている池谷薫監督のインタビューが実に充実している。彼の言葉がこの映画の特質を端的に表現している。「文革とは何かという映画を撮りたかったわけじゃないんですよ。それよりもあのような心の傷を負った人々がそこからどうやって再生しようとしているのか、その物語を撮りたいなと思ったんですね。」「ハイシアが現われたことによって、かつての下放青年たちが過去と向き合う。僕は実はその過去と向き合うという勇気を撮りたかったし、見て欲しかった。」

 プロレタリア文化大革命(1966~1976年)。下放、紅衛兵、造反有理、四人組、五悪分子(地主、富農、反革命分子、右派、不良分子)、走資派。日本でも耳に馴染んだ言葉だ。それは恐怖と狂乱の時代だった。池谷薫監督は、彼が文革時代の事を聞きたいと言うといずれの中国人も意味不明の含み笑いを浮かべ、やがて誰もいなくなってしまうと語っていた。いまだに触れたくない「生々しい」記憶なのだ。

Tkyakr001_2  文革あるいは文革時代を描いた中国映画はこれまでもたくさん作られてきた。「標識のない河の流れ」(1983)、「芙蓉鎮」(1987)、「子供たちの王様」(1987)、「青い凧」(1993)、「さらば、わが愛 覇王別姫」(1993)、「活きる」(1994)、「太陽の少年」(1995)、「シュウシュウの季節」(1998)、「初恋のきた道」(2000)、「小さな中国のお針子」(2002)、「ジャスミンの花開く」(2004)、等々。そのほとんどが傑作である。その系譜に日本人監督が撮ったドキュメンタリー作品が加わった。この作品の場合、1966年8月からから67年2月にかけて文革時代の中国を撮った日本人監督によるドキュメンタリー映画「夜明けの国」(1967、時枝俊江監督)と違い、日本人であることがより真実に迫ることを可能にした。日本人であるからあそこまで肉薄できたのだろう。また客観視できたのだろう。実際、日本人だからあの映画が作れたと中国人から言われたそうである。

 文革の10年間でのべ1600万人が下放された。その一人ひとりに物語があると監督は語る。「歴史の中で翻弄された人間のドラマを撮りたかった。」以前「胡同のひまわり」のレビューを書いたとき最後を次のように締めくくった。「最後に長々と映される老人たち。文革時代を生き抜いてきた人たちだ。シャンヤンの父親はきっとどこかでこういった老人たちに混じって生きているのだろう。 彼らの一人ひとりにそれぞれのドラマがある。映画が生まれて百年余。それでも物語は尽きない。一人ひとりに物語があるからだ。」この言葉が決して単なるレトリックでないことを「延安の娘」が雄弁に示してくれている。

<追記>
 「延安の娘」のレビューはこちらからどうぞ。

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2008年8月 2日 (土)

先月観た映画(08年7月)

  「スウィーニー・トッド」(ティム・バートン監督、米) ★★★★
*「河童のクゥと夏休み」(原恵一監督、日本) ★★★★
*「僕のピアノコンチェルト」(フレディ・M・ムーラー監督、スイス) ★★★★
  「題名のない子守唄」(ジュゼッペ・トルナトーレ監督、伊) ★★★★
*「有りがたうさん」(清水宏監督、日本) ★★★★
*「潜水服は蝶の夢を見る」(ジュリアン・シュナーベル、米・仏) ★★★★
   「サラエボの花」(ヤスミラ・ジュバニッチ監督、ボスニア) ★★★★
   「勇者たちの戦場」(アーウィン・ウィンクラー監督、米) ★★★★
   「テラビシアにかける橋」(ガボア・クスポ監督、米) ★★★★
   「プロヴァンスの贈りもの」(リドリー・スコット監督、米) ★★★☆
*「ゲド戦記」(宮崎吾朗監督、日本) ★★★☆
*「ディスタービア」(D・J・カルーソ監督、米) ★★★
   「フランドル」(ブリュノ・デュモン監督、フランス) ★★★

 7月は結構映画を観たのですが、ついにレビューを書きたいという欲求が湧き起こってくる作品には出会えませんでした。ブログを始めて1年目くらいまでは、観た映画はほとんど全部レビューを書いていました。さすがに今はもうそんな勢いはありません。*印を付けたものは短評を書いてありますので、そちらを参照してください。

* * * * * * * * * *

「スウィーニー・トッド」
Hutky02_2  「スウィーニー・トッド」はなかなか面白かった。「コープス・ブライド」や「シザーハンズ」ほどの出来ではないが、ティム・バートン独特のホラー感覚は健在だ。思った以上に残酷描写はどぎつかったが、胸が悪くなるほどではない。この映画で一番興味深いのは、これだけ殺人を犯したスウィーニー・トッド(Toddの最後のdを取ってTodと綴れは、ドイツ語で「死」を意味する)に強い嫌悪を感じないことだ。それはなぜだろうか。恐らく彼の殺人行為は一種の復讐であって、その復讐の動機に同情を誘うものがあるからだ。スウィーニー・トッドはエドモン・ダンテスを思わせる人物として登場してくるのだ。スウィーニー・トッドとその妻が受けた理不尽な仕打ちは、19世紀のイギリスという階級社会において下層社会の人々の命と人権がいかに低く扱われていたかを表している。復讐鬼と化したスウィーニー・トッドは終始暗い憂い顔でニコリともしない。だが彼は単なる異常性格者でも殺人鬼でもない。楽しそうに親子連れで来た客は殺さずに見逃している。

 かといって彼の行為を肯定してもいない。彼の無慈悲な行為は結果として愛する妻を自ら殺すことにつながり、最後には自慢のナイフで首を切られて死ぬことになる。あれだけ大量の血と殺人を描きながら後味が必ずしも悪くないのは、復讐の無意味さも描いているからだ。トビーと若い二人は生き残る。『モンテ・クリスト伯』のような深みはないが、独特の様式美を備えた映像は相変わらず魅力的だ。

「題名のない子守唄」
  ジュゼッペ・トルナトーレ監督の「題名のない子守唄」は意外にも本格的なサスペンス映画だった。しかしよく出来ている。ヒロインがある一家に近づいてゆく動機は途中で分かってしまうが(日本のテレビドラマでよく描かれるテーマ)、それ以外にも多くの謎が絡まりあっていて最後まで引っ張られる。何しろ「家政婦は見た」どころか、その家政婦が怪しい行動をとるのだから。かなり重厚な味わいで、3時間近くあったような感じがした。「スウィーニー・トッド」のような復讐劇になりうる主題をはらんでいるが、こちらは愛情が強調されている。

 ヨーロッパにおける人身売買という裏の事情が謎の核心部分にあるが、それ以上に謎の家政婦イレーナを演じたクセニア・ラパポルトの存在感にひきつけられる。

「サラエボの花」
  「サラエボの花」は「亀も空を飛ぶ」のアグリンの主題と同じ主題を扱いながら、悲劇に至るのではなくその苦悩を乗り越えてゆく映画である。ボスニア紛争の傷痕という点でいえば、「ビューティフル・ピープル」の5つのエピソードの一つと重なる。産婦人科医モルディの元に子供を堕ろして欲しいと必死に頼みこんで来るボスニア難民夫婦のエピソードだ。理由を聞いても夫婦は答えない。やがて「サラエボの花」のヒロインと同じ事情だということが分かる。悩んだ末夫婦は子供を産む決意をする。生まれた子供は「ケイオス(混沌)」と名づけられた。

 「ビューティフル・ピープル」の5つのエピソードに共通するキーワードは「ケイオス」と「ライフ」だった。それは「サラエボの花」にも共通する。観るものに「ライフ」という言葉の持つ様々な意味、「生命」とは、「人生」とは、「生活」とは何かを問いかけるという点でも共通している。そういう意味では決して新鮮なテーマではない。「亀も空を飛ぶ」や「ビューティフル・ピープル」に比べればインパクトは弱いと言わざるを得ない。

 真相を知った娘があっさり母親と仲直りしてしまうというラストも安易だと感じる。しかしあくまで真実を隠そうとする母親を何とかそれを聞き出そうとする娘が追い詰めて行く展開、触れたくない過去をぐりぐりとつつきまわされる母親の耐え難い苦痛と苦悩は観るものに十分伝わってくる。傑作とはいえないが、観ておくべき作品である。

「勇者たちの戦場」
 「勇者たちの戦場」はハル・アシュビー監督の「帰郷」(1978)やアン・ソンギ主演の韓国映画「ホワイト・バッジ」(第5回東京映画祭グランプリ作品)に通じる戦争後遺症を扱った作品。これら二つはベトナム戦争を扱った映画だが、「勇者たちの戦場」はイラク帰還兵を描いている。その意味でこの作品も新鮮味に欠けるが、ベトナム帰還兵ものと違うのは9・11後の一連の作品群と共通するテーマも含んでいることである。その意味で「ジャーヘッド」とつながる映画だ。

 生き残った兵士が戦場での体験によって苦しめられている様を丁寧に一人ひとり描き分けてゆく。負傷した兵士はいうまでもなく、負傷せずに帰還した軍医のウィル(サミュエル・L・ジャクソン)すらも生活に順応できなくなっていた。ラストでウィルがまた戦場に戻ってゆくところが彼の精神的傷の深さを示している。普通の生活に彼の居場所はなかったのである。

 ありきたりのタイトルなので「ア・フュー・グッドメン」や「戦火の勇気」程度の映画かと思っていたが、意外に手ごたえがあった。しかし「帰郷」や「ホワイト・バッジ」を越えてはいない。アーウィン・ウィンクラー監督自身の作品としても「真実の瞬間」や「五線譜のラブレター」よりは劣ると思った。

「テラビシアにかける橋」
 「テラビシアにかける橋」は子供だましの映画かと心配していたが、なかなか良く出来ていた。ヒロインのアナソフィア・ロブ(「チャーリーとチョコレート工場」に出ていた子らしい)と音楽の先生役ズーイー・デシャネルが魅力的だった。「河童のクゥと夏休み」もそうだったが、現代のファンタジーは学校でのいじめと裏腹というのが寂しい。

 川を渡るロープ、木の上の家、二人が「テラビシア」王国と名づけた森、ファンタジーらしい要素はそれくらいだ。ないものは想像力で補う。「ナルニア物語」のようないかにもファンタジーという世界ではない。それがかえって魅力的だった。主人公のジェス少年は家にも学校にも居場所がない。そんな彼が偶然隣に引っ越してきたレスリーという活発な女の子に引かれ、二人で森の奥に空想の世界を作る。想像力は創造力であることを教えてくれる作品だ。

 最初はいやな家庭や学校からの逃避的な行動だったが、やがてそれが自分で新しい世界を作る喜びに変わって行く。そしてジェスを襲う突然の試練。ジェスは自分を責める。やがて彼はその悲しみを乗り越え、テラビシアに新しい王女を迎える。

 残念なのはレスリーに起こった悲劇があまりに唐突なのでリアリティを感じないということだ。だからジェスがそれを乗り越えてゆく過程もどこか抽象的である。むしろ学校でのいじめの方がやけにリアルに感じる(トイレの使用料を強要する女番長が印象的)。まあ、あまりうるさいことを言わず楽しめばいい。

「プロヴァンスの贈りもの」
Hotarubukuro20082   一頃ピーター・メイルの作品をよく読んでいた。『南仏プロヴァンスの12か月』(河出書房新社)の翻訳が出たのが93年だから、90年代の初めから半ばごろだろう。翻訳が出るたびに買って読んでいた。イギリス人の目から見たフランスという視点が面白かったのと、プロヴァンス地方の魅力に惹かれていたのだろう。4冊目ぐらいから飽きてしまって、それ以後は読んでいない。プロヴァンス地方に関心を持ったのは恐らくマルセル・パニョルの回想録『少年時代の思い出』を映画化した「プロヴァンス物語 マルセルの夏」(90)、「プロヴァンス物語 マルセルのお城」(91)二部作の影響だろうと思われる。この2本は90年代前半のフランス映画を代表する優れた作品だった。

  「プロヴァンスの贈りもの」で久々にピーター・メイルの作品を味わった。恋愛映画だったのは意外だったが、予想以上にいい映画だと思った。恋愛映画といってもそれが必ずしも中心ではない。あるいはプロヴァンスにおけるロハスな生活と“豪腕トレーダー”として危ない橋を渡る生活の対比という枠組みだけで観る映画でもない。映画の中心にはワインがある。芳醇なワインの香りを楽しむように人生を楽しむことを描いた映画なのである。恋愛もシャトーでのゆったりとした生活もその一部に過ぎない。

 だからこの映画でいちばん魅力的なのはアルバート・フィニー演じるヘンリーおじさんなのである。「負けを認めるのが男だ。相手の勝利を祝う、広い心を持て。勝利から学ぶものは何もない。だが敗北は知恵を生み出す。もちろん勝つ方が楽しいに決まっているが、負けることだってある。大事なのは、負け続けないことだ。」マックスは不器用にその後を追いかけているだけである。映画の最後でやっと彼は出発点に立ったばかり。ファニーは簡単に手に入ったが、人生の熟成はこれからだ。主役は常にヘンリーおじさんだった。人生の苦さを知ってこそワインの芳醇さを味わえる。マックスが未熟な分映画も未熟だった(あまりに都合のいい展開)。しかし失敗してもそこから学べばいい。

 ついでながら、今やフランス大統領夫人となったカーラ・ブルーニの姉ヴァレリア・ブルーニ・テデスキも公証人役でちょいと顔を出している。

「フランドル」
 舞台はフランドル地方の小さな村。いつも地面はぬかるんでいて、人が歩くたびにびちゃびちゃと音を立てる。家は点々とあるだけで何とも寂れた感じのする田舎。登場するわずかな人々は皆無口で、どこか無気力さを漂わせている。何度か描かれるセックスも何とも潤いのない機械的行為だ。

 そんな活気のない村を出て男たちは戦場へと向かう。そこにあったのは砲弾と弾丸が降り注ぐ地獄だった。「フランドル」はこの二つを対比的に描いている。死んだように活気のない村と兵士たちが転げまわり叫びまわり死んでゆく戦場。村に残された少女バルブは精神に異常をきたす。

 たまたまレンタル店で見つけた作品。いかにもヨーロッパの批評家が喜びそうな映画だ。06年カンヌ国際映画祭で審査員グランプリを受賞したというが全く評判を聞かなかった。ということはいわゆるアート系映画に違いない。一応観ておくことにしたが全く期待はしていなかった。予想通り退屈でつまらない映画だった。ヨーロッパの批評家たちはこの手の抽象度の高い作品を「芸術的」として誉めそやす傾向がある。僕はそういう価値観には常に疑問を感じてきた。彼らは極力説明的描写や物語性を排除し、イメージや情念を前面に押し出した作品を高く評価する。僕にいわせれば、そんなものは一部の「芸術オタク」御用達のオタク映画に過ぎない。

 同じブリュノ・デュモン監督の「ユマニテ」もカンヌで審査員グランプリを受賞したが、これも全く退屈でつまらない映画だった。ヨーロッパ映画は時々こういうだらだらした作品を作る。映画なのだからもっと面白く作って欲しい。

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