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2008年7月 7日 (月)

ONCE ダブリンの街角で

2006年 アイルランド 2007年11月公開
評価:★★★★☆
監督・脚本:ジョン・カーニー
出演:グレン・ハンサード、マルケタ・イルグロヴァ、ヒュー・ウォルシュ
    ゲリー・ヘンドリック、アラスター・フォーリー、ゲオフ・ミノゲ
    ビル・ホドネット、ダヌシュ・クトレストヴァ、ダレン・ヒーリー、マル・ワイト
    マルチェラ・プランケット、ニーアル・クリアリー・ボブ

Gita1   良い映画は良い観客が作る。良い観客は良い映画が作る。山田洋次監督の言葉だが、現実はなかなかこうはならない。むしろ逆の弁証法、つまり悪循環、が成り立っている。つまらない映画しか観ないからろくな観客が育たない。どうせろくな観客はいないのだからと作る側も話題ばかり先行の中身のないものばかり作っている。ハリウッド大作がヒット作の上位を占めるのは今に始まったことではないが、日本ではここ数年テレビで大宣伝した映画ばかりが大ヒットしている。その影で、優れた作品であるにもかかわらず小さな映画館で細々と上映されている映画がたくさんある。「ONCE ダブリンの街角で」もそういった埋もれた傑作のひとつである。有名俳優が出ていないせいかあまり話題にはならなかったが、音楽映画としても、さわやかな恋愛映画としても一級品だと思う。

 この映画の魅力はかなりの程度まで音楽の魅力である。ドキュメンタリー映画のようだとよく評されるが、確かに音楽でいえばライブを聞くような感覚の映画である。デモCD製作の裏側を撮ったドキュメンタリーといっても良いだろう。次々に音がつむぎだされるのをまるで主人公たちと一緒にその場で体験しているような感覚。そういう魅力だ。したがって、この映画の説得力のかなりの部分は歌あるいは曲自体の説得力である。グレン・ハンサードがギター弾き語りで歌う起伏に富んだ熱っぽい歌。マルケタ・イルグロヴァの澄んだ声と例えようもなく美しい歌。もちろん歌だけが良くても優れた作品にはならない。歌と映像とストーリーが見事に結びついているからこの作品は傑作になったのである。

 一方でこの映画がかなり地味な映画であることも確かである。それがはっきりと表れているのは恋愛の面だ。主演の二人はどちらも固有の役名を与えられていない(不便なのでここではグレンとマルケタと役者の名前で呼ぶことにする)。男女が出会い、しばし淡い恋愛感情のようなものを交わして、やがてそれぞれの道を目指して別れてゆく。映画は絶えず二人に焦点を当てているが、どこにでもある男女の出会いと別れとして描こうとしている。その淡白さがかえって魅力的だ。

  一生に一度あるかないかの大恋愛を描くのではなく、誰しも経験があるような恋愛未満の淡い触れ合いを描いた。女性はまだ若いが男性の方はもう中年だ。共に結婚経験があり、女性のほうは夫と子供がいる。互いに惹かれあいながらも情熱にまかせて突っ走ることはしない。抑制をきかせた演出がかえって新鮮で、かつリアルだ。だが、より重要なのは、二人の感情的触れ合いが決して抑圧的でも淡白でもないことだ。ここで音楽がうまく使われている。この映画のいくつかあるクライマックスは、恋愛劇の頂点ではなく歌を歌う場面である。

Piano2   その典型は二人が楽器店で共演する場面だ。マルケタはピアノの才能があるが、貧しいチェコからの移民の家庭に育ったので親切な楽器店のピアノを時々弾かせてもらっているのである。最初マルケタが1人でピアノを弾く。次にグレンの曲を二人で演奏する。譜面なしで演奏するのはマルケタにとって初めての経験で、最初はぎこちない。次第に二人の息が合ってゆく。即席の演奏会、ギターとピアノと歌が一つになって行く。このシーンが本当に素晴らしい。抱き合ったりキスしたりしている二人の姿を映す以上に二人の心が一つになってゆくことが伝わってくる。マルケタと出会う前に書かれた歌詞であるにもかかわらず、マルケタに対するグレンの気持ちが詩に込められているとわれわれは感じてしまう。音楽はBGMでも効果音でもない。二人の気持ちを伝える言葉なのだ。抑えた気持ちを音楽が解き放つ。

 マルケタの心情も歌を通して表現されている。グレンから借りたCDを聞いている途中で電池が切れてしまう。グレンが作曲した曲が入っているのだが、演奏だけで歌が入っていない。自分にはロマチック過ぎるので代わりに歌詞を書いて欲しいと彼女に頼んであったのだ。電池を買いにいったマルケタは道々歌いながら帰る。「私を欲しいなら私を満たして(If you want me, satisfy me)」という歌詞から彼女の心中が間接的に読み取れる。いや、グレンに対する彼女の気持ちを歌ったのか実は分からない。ロマンチックな曲にロマンチックな歌詞を当てはめただけかもしれない。それでもわれわれはそれを彼女の本心として受け止めてしまいたくなる。そんな風に作られているのだ。歌そのものも素晴らしく、この場面も実に印象的だ。

 しかし、さらに素晴らしい場面がある。デモCDの録音が長引き休憩に入った時、マルケタはレコーディング・ルームを出て薄暗い部屋のピアノの前に一人座る。そこで彼女がピアノの弾き語りで歌う歌がまた絶品だった。例えようもなく美しい曲だ。しかし、途中で彼女は泣き出して歌えなくなってしまう。何ゆえの涙か、彼女は一切語らない。それでも観客には彼女の気持ちがいやというほど伝わってくる。いろんな思いが交錯していたに違いない。夫のこと、娘のこと、家族のこと、そしてグレンのこと。ここでも音楽は言葉だった。この映画の恋愛は決して地味でも抑圧的でもない。音楽を通してわれわれの心に響き渡っているのである。

 一見地味に見えるこの映画は実は稀有な試みをしていたのである。この映画のユニークさは音楽とストーリーの結び付け方にも現れている。他の音楽映画と比べてみれば分かる。「ドリームガールズ」、「プロデューサーズ」、「ビヨンドtheシー」、「五線譜のラブレター」、「シカゴ」、あるいは「エディット・ピアフ 愛の讃歌」や「ヘンダーソン夫人の贈り物」を加えてもいい。これらと比べれば明らかに地味な音楽映画だ。なぜなら、理由は簡単、ショービジネスが絡んでいないからである。もちろんラストでグレンはショービズの世界を目指しロンドンへと向かうのだが、映画が描いているのはその直前までである。舞台の上で華々しいスポットライトを浴びることもなく、たくさんのファンに取り巻かれることもない。冒頭の場面が印象的だ。グレンは使い古して穴の開いたギターを抱え街頭で歌っている。行き交う人は誰一人気にも留めない。寄ってくるのはグレンのギターケースを持ち逃げした文無しの若者とマルケタくらいだ。

 父親の経営するフーバー掃除機の修理店で働きながら街頭演奏をしてプロへの道を夢見る中年の男とチェコからの貧しい移民で花売りをしている若い女性の物語なのである。華やかさなどどこにもない。かといってむき出しのハングリー精神などもない。物がなければないで工夫して暮らしてゆく。男は同じギターを穴の開くほど使い続け、隣の部屋の青年たちがテレビを観に部屋に入ってくる(マルケタたちの部屋にしかテレビがないのだ)様な環境に住んでいるマルケタは、楽器店のピアノを弾いて我慢する。録音スタジオを借りた時は3000ユーロのところを2000まで値切った。演奏するメンバーは急きょ集めたストリート・ミュージシャンたちだ。

La6s  ささやかな人生。そしてささやかな夢。映画は派手な演出をすることなく、あくまで等身大で二人を描く。ショービズの世界で垢にまみれる前の(その世界でグレンが成功するか分からないが)、地道に暮らしながら夢を追い続けている時期に焦点を当てた。レコーディングの時は別として、1人ないし二人で演奏するシンプルな音楽がシンプルなストーリーに合っている。ロンドンに発つ前、グレンはマルケタにピアノを贈り、夢を分け与えた。それぞれの場所で二人は夢を追いかけるのだろう。

 最後にもう一度流れる「Falling Slowly」のメロディーがいつまでも心に残る。

Take this sinking boat and point it home
We've still got time
Raise your hopeful voice you had a choice
You've made it now
Falling slowly sing your melody
I'll sing along

 彼は決して1人で歌っているのではない。彼の耳にはいつも彼女の声が響いているはずだ。

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コメント

ほんやら堂さん コメント&TBありがとうございます。
あのお父さん、出番は少ないのですがとても印象的でしたね。街に音楽があふれている。あの雰囲気が好きです。そして音楽と淡い恋愛がまたうまくマッチしている。大事にしたい素晴らしい映画でした。

ゴブリン様

TB有り難うございました.
この映画も魅力的でした.こういう音楽映画は好きです.

主人公二人も素晴らしかったけど,主人公の音楽を聴いて「お前を誇りに思う」と言ったお父さんや,突然ギターを取り出して歌い始める銀行の融資係など,音楽に対する愛情あふれる姿勢が,この映画を見て心豊かになる理由だと思います.

若いときにバンドをやってりゃよかったとつくづく思います.

ではまた

ななさん TB&コメント、ありがとうございます。

僕にとって忘れがたい音楽映画があります。「ジャズメン」というソ連映画です。ジャズがブルジョアの退廃した文化として禁止されていた20年代にジャズの魅力に目覚めた若者たち。どんなに妨害されようが逮捕されようが、彼らはジャズを演奏することをやめない。演奏しているときの彼らの顔の輝き。あんなに心から楽しそうに演奏する姿を観たことがない。

あるいは、ノルウェーの漁師町の素人合唱団を描いた「歌え!フィッシャーマン」のラストシーン。老人ばかりのこの合唱団は、ロシアでのコンサートを終え故郷の海辺の町で勢揃いして歌っています。吹雪のような天候で、帽子ばかりか眉、まつげ、髭にまで雪がこびりついている。寒さに顔が歪みそうになりながら、なお歌う喜びが顔中にあふれていました。

kimion20002000さんへのコメントレスでも書きましたが、この映画の最大の魅力は、歌うこと、演奏することの純粋な喜びがストレートに伝わってくることにあると思うのです。ジャズメンたち、海辺の老人合唱団たち、そして楽器店でデュエットする二人、彼らに共通するのは歌うことの喜びに溢れていることです。彼らの顔は皆輝いている。

これらの3本からは音楽の持つ力と豊かさ、そしてそれを心から楽しんでいる人たちの輝きが伝わってきます。

真紅さん コメントありがとうございます。一時TBが入るようになっていたのですが、また入りにくくなってしまいました。一体どういうことでしょう?

真紅さんの記事を観て「ああ、先を越された」と思いました(笑)。でもあの歌は非常に印象的で、引用したくなりますよ。

確か2000万円程度の予算で、しかもわずか17日間あまりで撮り上げたのだそうですね。主演二人の力量、優れた脚本と演出、これさえあれば低予算でもこれだけの作品が作れる。映画作りについて多くの示唆を与えてくれる作品だと思います。「ザ・コミットメンツ」と並ぶ忘れがたい音楽映画になりました。

kimion20002000さん コメントありがとうございます。

この映画の魅力は音楽の魅力が大きいと書きましたが、華やかなショービジネスではなく、いわばアマチュアのミュージシャンを描いたことが好感度をぐっと高めていると思います。プロデビューを夢に見つつも、とにかく音楽が、歌うことが、演奏することが楽しくて仕方がない、そういう男女を描いたことが成功につながったと思います。

楽器店でのデュエットが観る者の胸に迫ってくるのは、純粋に音楽を楽しんでいる姿がストレートに伝わってくるからでしょう。彼らが輝いていたのはスポットライトのせいではなく、歌うこと、演奏することの喜びが彼らの内側からあふれ出ていたからだと思うのです。

ゴブリンさん こんばんは
TBありがとうございました。
ハリウッド大作には到底まねのできない魅力がありましたね。
おっしゃるように,彼のはなばなしい成功を描いてなかった点が
かえって新鮮でした。
サクセスストーリーではなく,音楽を通して出会った二つの魂の物語,
それもとってもつつましやかな描き方でしたね。
殺伐とした現代社会の中で,癒しを与えてもらえる映画だと思います。

ゴブリンさま、こんにちは。コメントとTBをありがとうございました。
私も拙記事の最後に「Falling slowly」の歌詞を載せています。
あの曲は本当に、不思議なくらい耳にも心にも残りますね。
信じられないような低予算で作られた映画のようですが、全てが「はまって」奇跡を生んだ作品だと思います。
最後にピアノを贈るところもよかったです。彼は彼女に、どうしても音楽を贈りたかったのでしょうね。
TBができないようなので、URLを貼り付けさせて下さい。
ではでは、またお邪魔します。

http://thinkingdays.blog42.fc2.com/blog-entry-481.html

TBありがとう。
サントラ盤をまだ買っていないので、うろおぼえの歌詞が多いんだけど、どの曲もよかったですね。役名もつけられていない二人が、自然に「はもる」のがいいですね。
マルケタが歌詞を任されて、つくった曲もとてもよかった。
あの曲が、スタジオで歌われないかなあ、と思っていたら、ピアノ室で、もっとウェットなマルケタの曲が流れるんですね。
ありそうだけど、なかなかない作品ですね。
この映画を観て、「ああ、やられた!」と思った、映画や音楽関係者って結構、多いんじゃないかしら(笑)

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