2006年 イラン 2007年9月公開
評価:★★★★
監督・製作・脚本・編集:ジャファル・パナヒ
出演:シマ・モバラク・シャヒ、サファル・サマンダール、シャイヤステ・イラニ
M.キェラバディ、イダ・サデギ、ゴルナズ・ファルマニ、マフナズ・ザビヒ
ナザニン・セディクジャザデ
久々のイラン映画。「亀も空を飛ぶ」を観てからもう9ヶ月近くたつ。イラン映画を盛んに観ていたのは90年代から04年くらいまでだ。その後一部の映画祭を除いて急激に観る機会がなくなってしまった。イラン映画は社会的なものからエンターテインメントまで年間80本くらい作られているとジャファル・パナヒ監督はあるインタビューで言っているので、イラン映画の製作数自体が少なくなっているわけではなさそうだ。では、質が落ちているのか?当局による検閲や規制は相変わらず厳しいらしい。あれやこれやの根回しで「イランの映画監督は、撮影前に80%のエネルギーを使っている気がします」と監督もぼやいている。「オフサイド・ガールズ」も今のところ国内での公開の見通しは立っていないようだ。しかしこれまでもそういう条件の下で少なくない数の傑作が作られてきた。イランにしろ、中国にしろ、厳しい条件下に置かれながらも映画人たちはしたたかに行動し、優れた映画を作ってきたのだ。そう考えれば、公開数が減ったのはもっぱら日本側の事情かもしれない。
監督のジャファル・パナヒはデビュー作「白い風船」で日本でも知られるようになった。この映画はずっと観たいと思っているのだが未だに観る機会を得ていない。初めて観た彼の作品は「チャドルと生きる」。03年8月7日に観ている。オムニバス風にイランの女性たちの生き難さを描いた作品。小品という印象だが、タイトルが示すように、社会の因習と戒律によってがんじがらめにされているイランの女性の苦悩に満ちた人生が、ほんの半日の間に交錯する様子が鮮烈に描かれていた。
「オフサイド・ガールズ」は一転してコメディ調の風刺映画である。観る前はなんとなくブータン映画「ザ・カップ 夢のアンテナ」のような展開かと思っていた。こちらは、どうしてもサッカーのワールドカップをテレビで観たい一心で涙ぐましい努力をする小坊主たちを描いたコメディだ。笑いの中にヒューマンな温かみが込められたなかなかの佳作である。
「オフサイド・ガールズ」は同じような笑いとヒューマンな要素を持ちながらも、そこはジャファル・パナヒ監督、イラン社会の息苦しさを描いた風刺映画になっていた。修行中の小坊主たちがテレビでのサッカー観戦を禁じられるというのならまだ理解できるが、イランでは女性がサッカーの試合を男性と同席して競技場で観ること自体が禁じられている。79年のホメイニ革命(何て懐かしい言葉だ!)によってイスラム原理主義者がイランの親米政権を打倒して以来、イランは厳格なイスラム原理主義によって統制される窮屈な国になってしまった。ホメイニ師が登場した直後にはイラン・イラク戦争が勃発する(1980年から88年まで続いたこの長い戦争は当時「いらいら戦争」とも呼ばれていた)。宗教の戒律に戦時統制が加わる。ホメイニ革命前のイランは西欧化が進んだ国でミニスカートの女性さえ見られるほどだったのに、79年を期に一変してしまったわけだ。
とりわけ自由を制限されたのは女性たちだ。旧弊な戒律に支配され、いやでもチャドルと共に生きる生活を強要される。したがって、そういう現状を風刺している「オフサイド・ガールズ」は「ザ・カップ 夢のアンテナ」だけではなく、「母たちの村」や「ベッカムに恋して」にも通じる要素を併せ持っているのである。
映画は、男装してサッカー場にもぐりこもうとする女性たちの姿で始まり、彼女たちが次々につかまって競技場横にある柵の中に閉じ込められるという展開になってゆく。何とかして監視の兵士たちの手をすり抜けてサッカーの試合を生で観たいと説得したり懇願したり突っかかったりする女性たちと、そうさせまいとする兵士たちのやり取りが中心になるという予想外の展開になってゆく。
重要なのは、決して兵士たちが冷酷で高圧的な人間には描かれていないことだ。彼らも命令で仕方なくやっている。女性たちの気持ちも理解できるが、見逃せば罰せられるのは自分たちだという板ばさみ状態。臨時の拘置所の責任を負かされている兵士のボヤキがそのあたりの事情をよく表している。お前らのような女がいるからこうして動員されている。そうでなければ今頃は田舎で家畜の世話をしていたはずだと。女たちばかりか、兵士たちもある意味で犠牲者だという視点。そういう描き方になっていることを見逃すべきではない。
一見本物の男に見える女性がなぜ女は駄目なのかとしつこく責任者の兵士に食い下がる場面が重要だ。日本人の女性は観客席で一緒に応援していたじゃないかと。兵士は、それは日本人だからだ。日本人の女は汚い言葉を理解できないと苦しい説明をせざるを得ない。男と女は同席できない。つまるところそれ以上の説明は兵士にも出来ないわけだ。男顔の女性は、映画館は女性も同席できるじゃないかとなおも食い下がる。それはまた話が違うと兵士。
兵士は追い詰められ、たじたじとなっている。女性たちの主張を上回る説得力のある答えは最後まで提出されることはない。その点は「母たちの村」と同じだ。要するに、行動や判断の根底にある価値基準そのものに疑問が投げかけられたため、とにかくそれが決まりだという以上に何も言えないのである。兵士たちの戸惑いは、自分たちがそれまで当然だと思っていた前提を彼女たちが共有していないことから来る戸惑いなのである。彼女たちの要求は兵士たちの行動規範に小さな穴を開けた。
マシャディという兵士がトイレに行きたいと言う女性に仕方なく付き添ってゆくエピソードが秀逸だ。彼は女性が顔を見られないようにポスターをお面代わりに被せる。彼は真面目に考えてそうさせたのだが、それが何とも滑稽に思える。また、道々彼女が語った話も滑稽だ。彼女は女子サッカーチームに属しているという。そこは逆に男子禁制である。男性の監督は競技場に入れないので携帯電話で指示をするというのだから、ほとんどシュールな域に達している。
トイレに着いてからのエピソードも可笑しい。マシャディはトイレに入っている男たちを全員出してから女を入れようと四苦八苦する。何人か出てゆくそばからまた別の男たちがトイレに入ってくる。入れろ、入れないの大騒ぎ。ついにはその隙に女性は横をすり抜けて逃げてしまう。彼はただただ、女性と男性を画然と分けるという「当然の社会的規範」に従って行動しただけなのである。汚い言葉や絵が一面に落書きされている男性トイレに入る女性に、「読むな!目をつぶって入れ!」と彼が声をかけるのも同じ規範に沿った行動である。彼自身には微塵も悪意はない。
トイレに行って用を足すという至極当たり前の、ごく自然な行為が不自然で滑稽でシュールにさえ思えてくる。サッカー競技場には女性が入れないという前提になっているので、そもそも女子トイレが設置されていないからである。そこからねじれが生じ、男子トイレに女性を連れてゆくという「不自然」な展開になってしまったわけだ。付き添った兵士は彼なりに女性に対して思いやりを示しているのである。しかし彼らの置かれた特殊な事情を周りの男たちが理解していないために、混乱が生じてしまう。兵士は矛盾の溝にはまり込んでしまった。説得しようにもその場に女性がいるとは言えない。あせればあせるほど事態は混乱を招き、ついには女性に逃げられてしまう。ひとりの兵士がもがきあたふたする姿を通して、イランにおける社会的規範や宗教的戒律がいかに硬直した融通のきかないものであるかを浮かび上がらせる。秀逸なエピソードだった。
その点は他の兵士たちも同じなのだ。もし自分個人で判断することが許されるならしきりに懇願する女性たちを競技場に入れていただろう。半分は面倒な奴らをやっかい払いしたい気持ちからかもしれないが。問題が兵士個人にあるのではないことは明らかだ。問題は彼らが当然と受け止めてきた社会の規範が基本的に男性優位のダブル・スタンダードに基づいており、その二重基準は男たちが汚い言葉を吐くことを許容するが、女性たちが競技場で男と同席してサッカーを観戦することは認めないということにある。もちろん、個人的には男の格好をしてバスに紛れ込んでいる女性を見逃してやる者もいる。しかし、一方で女だと気づくと、とんでもない値段でチケットを売りつける者もいる(しかもポスターまで無理やり高値で買わせている)。
女性たちも何も社会の規範をひっくり返そうとまで考えているわけではない。観たいのだから観せてくれ、ただそれだけの要求をしているだけなのだ。兵士たちが個人的な悪意から意地悪をしているのではないことは彼女たちも承知している。だから一旦トイレから脱走した女性も、ある程度満足したところで自分から柵の中に戻ってきたのだ。「なぜ戻ってきたの?」と他の女性に聞かれた彼女は「彼の家畜がかわいそうだから」と責任者の兵士を指して答えた。その兵士は思わず顔を背ける。それまで彼は女性を逃がしてしまったマシャディと責任問題でずっと言い合っていたのだ。
男たちは女性が汚い言葉と接しないように必死に奮闘するが、その考え方の裏側にある女性はか弱いもので男が守ってやらなくてはならない、あるいは常に清純であるべきだという前提を軽々と彼女たちは乗り越え、自分の意思で行動した。彼女たちも別に兵士個人が憎いわけではない。守るべき女性から示された思いやりに兵士は戸惑い、顔を背けた。彼はバスで彼女たちを護送する時に、せめてラジオで試合の経過を聞かせてほしいという彼女たちの要求を入れて、必死で壊れたアンテナを手で支えようとした。融通の利かない戒律は男たちも束縛している。
女性たちのバイタリティーとそれに気圧されつつも何とか任務を果たそうと奮闘する兵士たちの苦渋、そういう描き方になっているところが一番の魅力だ。女性が自由でない限り、男性もまた自由ではない。多くの優れた女性映画同様、この映画もまたそういう観点と姿勢がつらぬかれている。エンターテイメントの味付けをしながらも(爆竹を持った若い男が愉快、一体あの花火はどこに隠し持っていたんだ?)イラン女性の不自由さを描く視点は最後までぶれていない。
<付記>
当初「『オフサイド・ガールズ』を観ました」というタイトルで載せていましたが、加筆してレビューに格上げしました。
<おまけ>
■イラン映画マイ・ベストテン
「友だちのうちはどこ?」(87、アッバス・キアロスタミ)
「桜桃の味」(97、アッバス・キアロスタミ)
「運動靴と赤い金魚」(97、マジッド・マジディ)
「風が吹くまま」(99、アッバス・キアロスタミ)
「太陽は、ぼくの瞳」(99、マジッド・マジディ)
「酔っぱらった馬の時間」(00、バフマン・ゴバディ)
「少女の髪どめ」(01、マジッド・マジディ)
「カンダハール」(01、モフセン・マフマルバフ)
「一票のラブレター」(02、ババク・パヤミ)
「亀も空を飛ぶ」(04、バフマン・ゴバディ)
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