「長江哀歌」を観ました
念願の「長江哀歌」をやっと観た。これを観ずして07年に公開された映画のベストテンはつけられないと思っていた。しかし、まだまだ観ていない映画がたくさんある。中国映画だけでも「雲南の少女ルオマの初恋」、「呉清源 極みの棋譜」、「中国の植物学者の娘たち」(カナダ・フランス製作の映画だが中国映画に加えていいだろう)とまだ3本も残っている。他にも「アフター・ウェディング」、「サラエボの花」、「シッコ」、「ヒロシマナガサキ」、「ペルセポリス」、「迷子の警察音楽隊」、「ミリキタニの猫」、「モン族の少女パオの物語」等々。観たい映画がまだこれだけあるようではベストテンを作れるのは早くても6月末になりそうだ。
最初に観たジャ・ジャンクー監督作品は「プラットホーム」。2003年9月に観た。正直言ってこの作品の印象はあまり良くなかった。「映画日記」には当時の感想が次のように書いてある。「期待して観たのだが、長くて退屈な映画だった。芸術を気取る監督によくある、これと言ったストーリーもなく、連続性のない細切れ的な映像を少ない科白でつなぐというタイプの映画だ。」ただ、一定の魅力もあることは認めている。「文革後の短い開放的な時代に生きた青年たちの淡い恋愛、目的もなくただその日が過ぎて行くだけのような生き方、そういう時代の雰囲気が多少なりとも伝わってくる。・・・人物たち以上に引き付けるものは、どさ回りをしながら通過する土地の風景である。煉瓦造りの崩れかけたような貧しい家々、何もないだだっ広い平原、広大な低地にかかる橋の上を走り抜ける汽車。上海や北京のような大都市とは掛け離れた田舎の生活と風景がもう一つの主人公だと言えるかもしれない。」それでもあまり感心しなかったのは、作る側の独りよがりが目立つ作品だと感じたからだろう。
今観ればもっと寛容に受け止められるかもしれないが、とにかく当時は「評論家好みの監督」と片付けていた。かといって無視するつもりもなく、2004年の「世界」は観るつもりだったがレンタル店に置いてなかったのでまだ観ていない。98年の「一瞬の夢」はDVDを持っているがこれも未見。結局「長江哀歌」がジャ・ジャンクー作品2度目の体験となった。
あちこちで評判を聞き、『キネマ旬報』ベストテンで1位に選ばれているだけに「長江哀歌」はぜひとも観たかった。幸い期待は裏切られなかった。淡々と描くスタイルは「プラットホーム」と共通する。だが、農村を回る文化工作隊の青年たちをあえて突き放して描いた「プラットホーム」と違い、「長江哀歌」は全く関係のない2人の主人公を丹念に追ってゆく。「プラットホーム」が文革後の短い開放的な時代を通して時代の変化と流れを描いたとすれば、「長江哀歌」は2人の主人公を通して現在の中国の劇的変化を描いた。三峡の変わりゆく姿と人々の暮らしの変化を通して、古いものを壊して遮二無二近代化を図る中国の現状とそれに対する不安と疑問が浮かび上がってくる。それがこの映画の主題である。
人を訪ね歩く2人の主人公たち。彼らが行く先々で絶えず聞こえてくるのは槌音である。建設ではなく解体の槌音。次々に解体されてゆく建物と町。二人は尋ね人を何とか捜し当てるが、ハッピーエンドは待っていない。一組の夫婦の絆はもはや修復できないところまで来ていた。もう一組の夫婦もかろうじて関係がつながってはいるが、先がどうなるか分からない。人間の絆も町も壊されてゆく。社会の変化に押し流され、ただ彷徨うばかりの人間たち。それがダムに沈む町とシンクロするように描かれている。瓦礫の山ばかり目立つ奉節の町。解体される場面は多いが建設の場面はほとんどない。その象徴がドミノを重ねたような不思議な建物だ。DVD所収の監督インタビューによると、この建物は去ってゆく人を祈念する建物になるはずだったという。しかし資金難で建設が中断してしまった。「建設」の象徴になるはずのものが結果的に「廃墟」として屹立している。ライトアップされて幻想的に夜の川の上に浮かびあがる橋も描かれるが、それは三峡の明るい未来を示すものとして描かれてはいない。
中国はどこに向っているのか。淡々とした映像の向こうに見えるのはどんな明日なのだろうか。
「長江哀歌」レビュー
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