2006年 中国 2007年8月公開
評価:★★★★★
原題:三峡好人
監督・脚本:ジャ・ジャンクー
製作総指揮:チョウ・キョン、タン・ボー、レン・チョンルン
製作:シュウ・ポンルー、ワン・ティエンユン、チュウ・ジョン
撮影:ユー・リクウァイ
音楽:リン・チャン
出演:チャオ・タオ、ハン・サンミン、ワン・ホンウェイ、リー・チュウビン
マー・リーチェン、チョウ・リン、ホァン・ヨン
長江。黄河と並んで日本でも馴染み深い中国の大河である。昔は揚子江と言っていた。調べてみると揚子江は長江の下流部を指す言い方で、それが長江全体を指す言い方として誤用されていたようだ。上流部は金沙江と呼ばれるそうである。長江という言い方を初めて聞いたのはさだまさしが監督した「長江」という映画が話題になった時である。1981年の映画だからもう27年前になる。映画は観ていないが長江という言葉は記憶に残った。
(1)
「長江哀歌」は長江を進む船の乗客たちを長々と映し出すところから始まる。最後に映された冴えない中年男ハン・サンミン(ハン・サンミン)が主人公の1人である。奉節(フォンジュ)で乗客たちは船を降りる。ハン・サンミンはどうやらよそ者らしい。紙に書かれた住所を示してバイク・タクシーに乗る。バイクは長江の岸の何もないところで停まる。案内の男が「あの草が生えている辺りだ」と指差したのはなんと河の中だった。紙に書かれた住所「青石街5号」は既に河に沈んでいた。
実に印象的な出だしである。ハン・サンミンが逃げた妻を捜しているらしいことはストーリーの進展の中で次第に分かってくる。やがて、半ばごろもう1人の主人公シェン・ホン(チャオ・タオ)が登場する。彼女は逆に2年間も音沙汰のない夫を探しに奉節へやってきた。この二人は最後まで接点を持たない。唯一の共通点は2人とも山西省からやってきたことだ。初めての土地でそれぞれ妻と夫を探す主人公たち。これと言ったストーリーもなく、画面は奉節の町を歩き回る二人を追ってゆく。映画は一種のロード・ムービーになる。主人公二人は失われつつある自然や町、あるいは生まれ変わりつつある中国の活力と矛盾の目撃者となる。その中でもう1人の主人公が浮かび上がってくる。それは既に一部河に沈み、やがてそのほとんどが水没する運命にある奉節の町そのものである。
ジャ・ジャンクー監督はDVD付録のインタビューで三峡ダム建設について次のように語っている。「三峡地区で起こっていることは中国社会の問題を浮き彫りにしていたからです。三峡の現実から国の変貌を表現しようと思いました。中国文化にとって重要な意味を持つ地区です。風景画や詩歌などさまざまな中国の芸術を育んだ土地ですからね。また『三国志』の舞台としても有名だし李白や杜甫が旅した時にもここで多くの詩を詠んでいます。」ジャ・ジャンクー監督の狙いは世界最大のダム建設が中国の重要な文化遺産を水没させ、またそこに住む130万人もの住民から生活の場と故郷を奪ってゆく過程をドキュメンタリー風に描き出すことである。
三峡ダム建設は万里の長城建設以来の歴史的大事業である。とてつもない規模のダムを建設することによって暴れ河を制御し、同時に発展著しい中国社会に膨大な量の電力を供給する。まさに歴史的大事業だが、その影に故郷を奪われてゆく100万を越える人々がいる。ジャ・ジャンクー監督はその明と暗の両面、特に暗の面に焦点を当てて描こうとしている。出来るだけ作為を加えず、事実を積み重ねてゆく。登場人物には一部を除いてほとんど素人を起用し、現地で撮影したのはそのためである。
変わり行く奉節を映し出すだけでもかなりのインパクトはある。何しろ100万を超える人
々に影響を与える大事業だ。しかしいくら大きな数字を示してもそれだけでは一人ひとりの生活の変化や困窮、不安や苦悩は浮かび上がってこない。ただ多くの人々を映し出すだけではなく、一人ひとりの生活の中に入り込み、ダム建設で家を追われることがそれぞれの生活をどのように変えていったのか、人々はその変化をどう受け止めたのかを描き出してこそ「歴史」という抽象的な概念あるいは事象に実態を与えることが出来る。監督が2人の主人公を登場させたのはそういう理由からだろう。二組の夫婦の危機的状況(一組は離婚へと向かい、もう一組は元に戻る可能性を含みつつも借金を背負うことになる)と並行して、それぞれの伴侶を探すロード・ムービー的展開の中で浮かび上がる奉節の町の劇的変化を描くことで、映画に具体性と客観性(深みと広がり)を持たせたのである。
主人公2人を山西省(山西省はジャ・ジャンクー監督の出身地でもある)からやってきたよそ者に設定した理由を監督は次のように説明している。「三峡は知らない土地なので旅人の視点で書くことにしました。」探し当てた土地を飲み込んで滔滔と流れる大河を見て呆然と佇むハン・サンミンの姿は、知識としてだけ知っていた三峡ダム建設の現実を目の当たりに見て衝撃を受けたジャ・ジャンクー監督自身の姿でもあるわけだ。
(2)
奉節という小さな町で何が起きていたか。ハン・サンミンが訪ねた役所で垣間見た風景がそれを象徴的に示している。住民が党の役人(?)に「話が違うじゃないか」と激しく抗議している。役人はそれに対してこう言い返す。「2千年の町が2年で消える。解決には時間が要る。」それは言い訳だったかもしれないが、「2千年の町が2年で消える」という言葉はそこで起きている事態を正しく指摘している。映画は効果音をほとんど使わない。代わりに画面に常に響き渡っているのは槌音である。建設の槌音ではなく解体の槌音だ。画面は主人公2人を追ってゆくが、その背後に常に映りこんでいるのは解体されつつある町の姿である。どこもかしこも瓦礫の山ばかりなのだ。
この映画の主題は二組の夫婦の成り行きではない。三峡の変わりゆく姿と同じく変わり行く人々の暮らしである。行き交う人々の背景には常に長江がある。太古と変わらないかのように悠然と流れる大河と解体・建設が進む奉節の町。いや、悠久の大河すらダム建設が進めばその姿が変わって行く。その変化の急激さに社会がきしみだしている。「2千年の町が2年で消える。解決には時間が要る」という言葉は、あながち言い訳とばかり決め付けるわけには行かない。地方の党幹部さえ対応にあたふたするほどの急激な変わりようなのだ。
水の届かない高台には新しい建物が見えるが、画面に大きく写るのは解体されてゆく瓦礫のような建物だ。その解体作業も実に原始的だ。木槌やハンマーでコンクリートをたたいて壊している。今の日本ではまず見かけなくなった文字通りの肉体労働。重機やドリル、あるいはダイナマイトを使った作業に比べると遥に効率が悪い。万里の長城時代からほとんど変わっていないのではないかという感覚さえ覚える。安い賃金で自分の体を酷使する過酷な労働。危険さえ伴う。チョウ・ユンファにあこがれていたチンピラのような若者マークは解体作業中に瓦礫の下敷きになり命を落とした。そんな仕事でも働き口さえあれば労働者は集まってくる。社会の底辺で働く肉体労働者が就ける仕事はこんな解体作業か、あるいは賃金は高いがそれ以上に危険な炭鉱の仕事などしかないのだ。
一方、夫を探しているシェン・ホンが夫の知り合いであるワンと真新しい建物のベランダから長江を眺める場面がある。そのベランダを行き交う人々の服装は、上半身裸かあるいはランニングシャツ姿で解体作業をしている下界の人たちと同じ国民とは思えないくらい上等だ。まさに黒澤明の「天国と地獄」のような対比。シェン・ホンはそこで夫を待っていたのだが、ついに夫は現われない。彼女たちが去った後そのビルの支配人らしき人物(彼がシェン・ホンの夫グォ社長なのかははっきりしない)が客を案内して現われ、新しく作られた橋をライトアップさせる。まばゆいばかりに輝く橋。この場面も実に印象的だ。上流に住む貧しい者たちの家と生活と故郷を奪って作り出した電力が上海など下流の大電力消費地を明るく輝かせる。そういう関係を象徴的に示しているからである。
ここで描かれているのは「ココシリ」が描いたものと同じ関係なのだ。貧しい国の人々が作った食べ物を富める国の人々が口にする。飢えた国で食料にならない珈琲豆を作り、豊かな国の人々がそれを嗜好品として飲む。貧しい国の森林を伐採し豊かな国の人々がそれで家を建てる。あるいは、飢えた人たちが生きるために自分の血を売り、その血が豊かな国の人たちに輸血される。そういう関係が一つの巨大な国の中でも貫徹しているのである。無一文と思われたハン・サンミンがやにわに携帯を取り出して話すシーンが与える不思議な違和感、その違和感は中国における不均衡な経済発展がもたらした歪みの表れなのである。この映画が描いているのはその歪みである。決して失われるものを懐かしみノスタルジーに浸る映画ではない。
三峡ダム完成間近の奉節の町を象徴するのがドミノを重ねたような不思議な建物だ。監督インタビューによると、この建物は去ってゆく人を祈念する建物になるはずだったとい
う。しかし資金難で建設が中断してしまった。「建設・発展」の象徴になるはずのものが結局は「残骸・廃墟」として屹立しているわけである。この「物体」に目をつけたのはさすがだと思う。ただ、その「物体」がロケットのように飛び立ってゆくという描き方には正直疑問が残る。監督はその意図を次のように語っている。「この建造物は周囲と調和がとれていません。三峡ダムの建設も同じで、あまりに早い変化は不調和を生み出します。それを異質な描写を用いて表現しました。」意図通りの効果を得られたとは思えない。むしろ同じシュールな映像でも、窓辺で携帯をかけているハン・サンミンを映したキャメラがパンすると部屋の奥で京劇の格好をした3人の男が携帯でゲームをやっているという映像の方が効果的だった。あるいは、ハン・サンミンが廃墟で妻のヤオメイと飴を分け合っていると突如遠くのビルが轟音とともに崩れ落ちるシーン。これらは古き物と新しい物が混在し、解体作業が日常となっている奉節の町をよく表している。あの不思議な「遺物・異物」は最後まで原爆ドームのようにあの場所に佇立しているべきだったと思う。
(3)
「三峡好人」という中国語の原題はドイツの劇作家ブレヒトの戯曲『セツアンの善人』をもじったものらしい。アメリカ映画「善人サム」(48年、レオ・マッケリー監督、ゲーリー・クーパー主演)のように都合よく話が進むのはまれで、むしろ振り込め詐欺を見れば分かるように、善人の人のよさにつけ込んでその好意を踏みにじって金儲けに走るのが資本主義の世界である。ここでいう善人とは2人の主人公ばかりではなく、すべてを押し流す河の流れのような社会の変化によって翻弄される人々を指すのだろう。しかしそこに込められた皮肉は翻弄される人々にではなく社会に向けられている。「STILL LIFE」(「静物」と「静かな生活」の両方の意味をかけていると思われる)という英語のタイトルとは裏腹に、奉節の町を覆っているのは変化の嵐である。静かな画面とゆったりとした時間の流れの中に時代の大きな変化が描かれている。家を失い漂流する人々。杜甫や李白が描いた漂泊の旅人よりはるかに無慈悲に故郷を追われた漂泊の民。21世紀の長江に流れる哀歌(エレジー)には静寂を破るドリルや槌の音、建物が崩れ落ちる音が容赦なく進入してくる。
しかしジャ・ジャンクー監督は奉節の人々を単に哀れな人たちとして描きはしなかった。たとえ解体作業であっても仕事はある。仕事があれば人々は集まってくる。もちろん善人ばかりではない。冒頭の船の中で登場する、無理やり手品を見せて金をせびるやくざ者もいる。解体作業中の事故で命を落とす者もいる。まことに善人には生き難い社会だが、それでも人々はしぶとく生き抜いている。「長江哀歌」が優れているのは、社会の大きな矛盾を描いただけではなく、その中でも営々と生活を営む庶民の姿を共感を込めて描いているところにある。ジャ・ジャンクー監督はDVDの付録とは別のインタビューで、「死刑宣告された街」にしがみつくようにして生活している底辺の人々に触れて次のように語っている。「特に、三峡ダムのあの辺は貧しい地区で、あそこの人間は出稼ぎに出ないと生きていけないので、政府もあまりケアしなかった。彼らは雑草みたいに生きていたんですよ。・・・2600年の歴史がある建造物が取り壊されることにみんな感傷的なんだけど、人間の営みのほうにもっと不具合が出てくると思うんです。」
あえてずぶの素人を俳優として使ったのも、河と共に生きてきた人々の生活感や息遣いを大事にしたかったからだ。「その土地に呼吸をしてきた彼らの表情は、プロの俳優にもなかなか出せませんからね。」未曾有の経済発展の影で、テレビなどで取り上げられることもなく静かに消えてゆく底辺の人々。監督はあえてそういう人々に焦点を当てた。山田洋次監督は70年代初めに、石船の仕事に見切りをつけ故郷を捨てる決意をした家族と、故郷を捨て新しい土地に向う家族を描いた「故郷」と「家族」という2本の傑作を作った。「長江哀歌」は21世紀の「故郷」である。人々を押し流す「大きな力」(「故郷」の主人公が言った言葉)は70年代の日本より遥に強大で情け容赦ない。
世界一の巨大ダム建設という世紀の大事業は人々に何をもたらし、またもたらそうとするのか。ジャ・ジャンクー監督は、開発と破壊は常に表裏一体であるという視点から巨大ダム建設と人々の生活を描いた。その主題をさらに深く理解するにはゲーテの『ファウスト』(新潮文庫)と関連付けてみるといいかも知れない。
己は幾百万の民に土地を拓いてやる。
安全とはいえないが、働いて自由な生活の送れる土地なのだ。
・・・(中略)・・・
そうだ、己はこういう精神にこの身を捧げているのだ。
それは叡智の、最高の結論だが、
「日々に自由と生活とを闘い取らねばならぬ者こそ、
自由と生活とを享(う)くるに値する。」
そしてこの土地ではそんな風に危険に取囲まれて、
子供も大人も老人も、まめやかな歳月を送り迎えるのだ。
己はそういう人の群れを見たい、
己は自由な土地の上に、自由な民とともに生きたい。
そういう瞬間に向って、己は呼びかけたい、
「とまれ、お前はいかにも美しい」と。
「日々に自由と生活とを闘い取らねばならぬ者こそ、自由と生活とを享くるに値する。」「己は自由な土地の上に、自由な民とともに生きたい。」何度でも引用したいと思わせる感動的な言葉だ。ファウストが生涯の最後に到達した「歓喜の歌」とも言うべき境地。しかし既に失明していたファウストは重大な錯誤に気づいていなかった。彼の周りで聞こえる槌音は壮大な干拓事業を進める音ではなかった。そこに「建設」されていたのは彼自身の墓穴だったのである。
しかしこの壮大な戯曲は最後にもう一回転する。メフィストフェレスの手から天使たちがファウストの遺骸を奪い天へ運んでゆくのだ。この一大戯曲の結びの言葉は「永遠にして女性的なるもの、われらを牽(ひ)きて昇らしむ」である。
「長江哀歌」が描いたのは主人公2人の人探しではない。国家の壮大なプロジェクトによって土地と家とそして何よりも故郷を失ってゆく人々の姿である。ハン・サンミンとシェン・ホンのエピソードはその中からピックアップされた二つのケースである。シェン・ホンの夫は一山当てようと奉節に乗り込んで一応の成功を収めた組である。しかし商売に精を出しすぎて妻を失ってしまった。ハン・サンミンの妻は貧しい生活のために彼に金で売られたのだろう。故郷に逃げ帰ってからも兄の借金のかたにまた売られている。その兄も家をなくし船の上で生活している。巨大なダム建設という事業は国家が自らを埋める巨大な墓穴の建設なのか?もちろんジャ・ジャンクー監督はダム建設そのものまでは否定していない。しかし「長江哀歌」が投げかけている問いを突き詰めれば今の中国の経済発展のあり方そのものまで問い直すことに行き着くことになるだろう。
『ファウスト』では最後に天使が現れファウストを地獄行きから救った。だが現実世界に天使などいない。故郷を追われた人々はどうなるのか?映画は未来について何も提示しない。しかしかすかな暗示はある。シェン・ホンは夫に離婚を突きつけ、毅然として歩み去った。ハン・サンミンは1年かけてでも借金を返して妻を引き取ることを約束した。この2人以外も恐らく同じなのだ。何度大波にさらわれても民衆はしぶとく生き延びて行くだろう。雑草のように。彼らは悠久の河の流れのように、ずっとそうして生きてきたのだから。
人気blogランキングへ