2004年 中国 2005年2月公開
評価:★★★★
原題:一个陌生女人的来信
原作:シュテファン・ツヴァイク著「未知の女からの手紙」(『女の二十四時間』所収)
監督・製作・脚本:シュー・ジンレイ
撮影:リー・ピンビン
美術:ツァオ・ジューピン
音楽:久保田修、リン・ハイ
出演:シュー・ジンレイ、ジャン・ウェン、リウ・イエ、ホワン・ジュエ
中国には珍しい大悲恋もの。2000年の「初恋のきた道」以降恋愛ものは増えてきたような気がする。「藍色愛情」、「小さな中国のお針子」、「春の惑い」(古典的名作「小城之春」のリメイク版)、「たまゆらの女」、「ションヤンの酒家」、「天上の恋人」、「緑茶」、「ジャスミンの花開く」等々。韓国映画に比べればはるかに少ないが、「初恋のきた道」、「小さな中国のお針子」、「ションヤンの酒家」、「天上の恋人」などは韓国映画でもこれに匹敵する作品は少ない。公開本数は韓国映画にはるかに及ばないが、作品の質はまだまだ中国映画の方が上である。
「見知らぬ女からの手紙」は2004年の第17回東京国際映画祭に出品された作品。一応一部で劇場公開もされたようだが、ほとんど話題にもならなかったのではないか。それが今年になって突然DVDが出た。全くノーマークだった作品である。知人の勧めで観てみたが、確かによくできている。
絵に書いたような悲恋もので、恐らく女性の方が男性より支持する人が多いだろう。特に序盤、ヒロインの少女時代が素晴らしい。20歳ほども年が違う男性に対する少女のほのかな憧れが切なくまたみずみずしく描かれている。少女が大人になって以降はやや設定に無理が感じられる。ストーリーの展開はリアリティと説得力に欠ける。しかしそれでも観終わった時に上質のロマンス映画を観たという印象が残るのは、大人のヒロインを演じたシュー・ジンレイが魅力的だからだ。実際、序盤を除く部分の魅力はほとんど彼女の魅力だといっても過言ではない。
「スパイシー・ラブスープ」、「ウォ・アイ・ニー」に続いてシュー・ジンレイを観るのは3本目。「スパイシー・ラブスープ」は中国映画の新しい世代の到来を感じさせた秀作だったが、5話からなるオムニバスなのでシュー・ジンレイの活躍の場はそれほど多くなかった。「ウォ・アイ・ニー」はとんでもない怪作。夫婦喧嘩を延々見せられる壮絶な怒鳴り合い映画。観終わった後げんなりした。異様な迫力があったのは確かだが、さっぱりわけが分からん。シュー・ジンレイは美人だと思ったが、作品がこれじゃ記憶に残る映画ではない。一転して「見知らぬ女からの手紙」では一度も怒鳴ることはなく、彼女の可憐さと華麗さをたっぷり堪能できる。眼福の映画だ。監督としてはこれが2作目で、新人監督としては悪くない出来だ。「夢想照進現実」という3作目も2006年に完成させている(未公開)。
相手役は何とジャン・ウェン。とてもこの美女が愛する男には見えないのが難点だが、彼は「緑茶」でもシュー・ジンレイと並ぶ「中国四大若手女優」の1人ヴィッキー・チャオの相手役を務めている。中国ではもてるタイプなのだろうか?まあ、いずれにせよ、ここでは新聞社に務めるプレイボーイの作家として登場する。ダンスホールなどに入り浸り、とっかえひっかえ美女をはべらせている。相手がこんな男では、そもそも恋の成就はおぼつかない。
原作はシュテファン・ツヴァイクの短編小説。1948年の映画「忘れじの面影」はその最初の映画化作品である。ジョーン・フォンティーン、ルイ・ジュールダン主演、監督は恋愛映画の名手マックス・オフュルス。「輪舞 ラ・ロンド」(50年)、「たそがれの女心」(53年)、「歴史は女で作られる」(55年)などで知られる。
* * * * * * * * * * *
映画は新聞社勤務の作家シイ(ジャン・ウェン)に突然見知らぬ女から手紙が舞い込むところから始まる。1948年の暮れ、舞台は北京。その長い手紙には一方的に彼を愛していた女性の心情が連綿と書かれていた。手紙の最初には昨日息子が亡くなった、もうあなたしかいないと書かれていた。さらにこう続く。「私の人生はずっとあなたのものでした。あなたは何も知らないまま。・・・あなたが手紙を受け取ったときは、私はもうこの世には存在しません。・・・一つだけお願いがあります。これから私が話すことを信じて欲しいのです。」
非常に心惹かれる出だしである。これだけ彼女が愛していながら、相手がそれに全く気づかないとは一体どんな状況だったのか。なぜ彼女は死ななければならないのか。そこから彼女の手紙を再現する形で、過去から現在までの二人の関係が描かれてゆく。
時代は一気に1930年までさかのぼる。北京のある四合院が舞台。四合院とは中国の伝統的家屋建築で、中庭を囲んで建物がロの字型に並んでいると考えればいいだろう。本来は全体で一つの世帯なのだが、何せ広いので何世帯かに分かれて居住していることも多いようだ。この映画の場合も共同住宅になっている。ヒロイン(リウ・イエ)はその一角に住む貧しい教師の妻の娘である。その別の一角が空き家になり、新しい借主として新聞社勤務の作家が入居することになった。「それがあなたでした。」
ヒロインの少女(後半で「ミス・ジアン」と呼ばれる場面が出てくるが、最後まで正確な名前は出てこない)は運び込まれてきた大量の荷物の中にたくさんの本があるのを見つける。多くは外国の本だった。家の中にほとんど何もない貧しい暮らしの少女には、運び込まれてきた荷物や書物が眩しく見えたことだろう。その時点で既に少女はどんな人物が引っ越してくるのか強い関心を持っていたに違いない。作家の男(ジャン・ウェン)は後からやってきたが、少女は門のところで男とたまたまぶつかってしまう。男は”Sorry”と英語で謝った。初めて見た男は裕福そうなインテリタイプだった。「その瞬間私はあなたに恋をした。・・・その瞬間から私の心の中にはあなたしかいなくなった。」そのとき少女は10代前半、男は30代か。15歳から20歳は年が離れていただろう。何が彼女の心をひきつけたのかは分からないが、恐らく(同じ四合院の中に住んではいるが)自分たちとは全く違う世界に住む異質な男に引かれたのだろう。
しかし男の裕福さに引かれたわけではないようだ。彼女は手紙の中でそれを「何の見返りも求めない無償の愛」だと言っている。実際見返りを求めようもない。明らかに身分違いなのだ。年齢も違う。女とすら思われていない。だから少女の「愛」は一方的なものになった。いつも遠くから彼の姿をのぞいているだけだ。作家が仕事をしているのを見て、突然文字の学習に力を入れだして母親を驚かせたりする。手が届かないがゆえの純粋な想い。それは「愛」というよりは「憧れ」に近いものだったろう。
少女は彼女なりに大胆な手段も用いた。下男が干していた布団をしまう手伝いをして、まんまと作家の家の中に入ってしまうのだ。少しでも彼に近づきたい、彼の生活をわずかでも覗いてみたい。初めて作家の部屋に入った彼女は彼の匂いをかいだ。「あなたのタバコのにおいがした。」少女は彼の本や家具や西洋の人形などに手を触れてみる。家の中の作り、家具などは明らかに少女の家と違う。恐らく彼が入った建物は「正房」と呼ばれる家長が住んでいた建物で、彼女が住んでいる建物は「廂房」と呼ばれる家長を除いた家族に充てられていた建物だったのだろう。同じ中庭を共有しながらも、彼の住んでいる建物の扉の中に一歩入るとそこは別世界だったのである。それまで見たこともないような外国語の本や贅沢な調度品。一つひとつ彼女は手で触れてみる。彼が触れたものに自分も触れてみる。ただそれだけのことが彼女には無上にうれしかった。「私の少女時代の最も幸せなひと時だった。」
少女時代のクライマックスは別れの場面である。その日は突然訪れた。彼女の知らないところで彼女の縁談がまとまったのだ。相手はちょっとした財産もある男。山東でお嬢さんとして暮らせるよと母親はうれしそうに話す。しかし彼女にとってそれは死の宣告と同じだった。「もうあなたに会えない、そう思うと人生が終わったような気がした。」山東に発つ前の晩、いたたまれなくなった彼女は部屋を出て作家の家まで行く。ノッカーを軽く鳴らすが、誰も出てこない。彼女にできるのはただ待つことだけ。だいぶたってから作家が女の人と外に出てきた。少女は物陰で涙を流す。
この序盤部分が素晴らしいのは報われない愛を描いていたからだ。見返りはなくとも一途に彼を思う切ない気持ちが素直に伝わってくる。詳しい説明などなくとも理解できる。彼女は男自身だけではなく、彼が身にまとっていた彼女とは異質な世界のきらびやかさに引かれていたのだろう。それまではくすんでいたであろう彼女の人生に彼は鮮やかな色を塗りこんだのである。
彼女がつかの間享受した人生の輝きは山東へ引っ越すことで突然断ち切られてしまった。時間は一気に6年後に飛び、彼女のナレーションが入る。「大勢の人に囲まれた孤独ほど寂しいものはない。山東での6年間私は痛いほど孤独だった。考えるのはいつもあなたのことばかり。あなたを待ち続けた日々を繰り返し思い返していた。あの1年だけが少女時代のすべてだった。」彼女の人生から突然また色が失われてしまった。暗く鬱屈した日々。「あの1年だけが少女時代のすべてだった」というせりふが何とも痛切だ。20年近く生きてきて唯一輝いていた時期。男の姿を観ているだけで幸せを感じていた。そのささやかな幸せはもろくもしぼんでしまった。
ここまでは素晴らしい出来だったと思う。ここまでで終わらせておけば見事に完結した短編映画になっただろう。しかし実際にはここまではまだ序盤であって、その後のシュー・ジンレイが大人になったヒロインとして登場してくる部分が大部分を占めている。これ以降は映画のトーンが変わってくる。画面にみなぎっていた少女の切ないまでの想いはシュー・ジンレイの大人の女としての魅力に切り替わって行く。残念ながらこの部分が序盤に比べると弱い。無理やりくっつけた後日談のようになっている。
序盤部分が説得力を持っていたのは男が手の届かない存在だったからであり、ヒロインがまだ世間知らずの少女だったからである。しかし少女が大人になったとたんあっさりと男に手が届いてしまうのである。ヒロインは男への思いを断ち切ることができず、ついには北京女子師範に合格し大学生として北京に戻ってくる。生まれ育った四合院の近くに住んで、窓から道を通る作家を眺めている。スケート靴を履いた女性を連れた作家が彼女を追い越していったこともある。そのときもまた男は”Sorry”と言った。互いに人力車に乗って出くわした時に作家は彼女に興味を示した。このあたりでこの作家が女をとっかえひっかえしている節操のない男だということが分かってくる。奇妙なのは彼女がそれをなんら気に留めていないことだ。
抗日デモに参加していた彼女が警官隊に襲われて逃げ惑っている時に、たまたま近くで取材していた作家に助けられる。無事難を逃れた2人は一緒に食事をした後、彼の家で抱き合う。彼女は「ずっと待ち望んできた瞬間がここに。とうとうこうしてあなたに抱かれている。これが私の夢。ついに現実となった。覚めても決して消えることのない夢」と語っているが、男にとっては彼の前を通り過ぎていった何人もの女の1人に過ぎなかった。女は自分が誰であるかを打ち明けようともしない。男は「どこかで会ってる?」と聞くが、なぜか女は否定する。それでいて女はうれしそうだ。
この映画のドラマ的展開の基盤は序盤で描かれた少女の切ない想いにある。子どもたちが手を伸ばして月や星をつかもうとするように、手の届かない存在にひそかな憧れを持っていた少女。久しぶりに作家の家に入り、立派な装丁の本や外国の人形など、作家の家の中の懐かしいものに手を触れるときの彼女は本当にうれしそうだ。ここは印象的な場面だ。なぜなら少女時代と直接的につながっているからである。
しかしこの幸せも長続きはしなかった。男が取材に行ってしまったからだ。「戻ったら連絡する」と言い残したが、2ヶ月たっても連絡はなかった。さらに8年後、彼女はまた男と出会う。彼女は高級娼婦として軍の将校に囲われていた。どんどん話は非現実的になってゆく。「奥様」と呼ばれ、毎日遊び暮らしている。いつの間にか作家と同じような場所に出入りし、共通の友人さえあった。作家と出会ったのはダンスホールである。この時も男は彼女のことを忘れている。しかしまた彼女に関心を示す。男がかけた言葉に「誰とでも付き合うの」と女は答え、再び彼女は作家と抱き合う。「プライドなんてどうでもいい。誘われれば応じる。あなたの魅力には逆らえない。10年たっても何一つ変わっていなかった。あなたに誘われればたとえ墓の中にいようと、よみがえってついて行く。」
浮気者の作家にとって彼女はしばらく離れていれば忘れてしまう程度の存在だったのである(男がこれほど完全に女のことを忘れてしまうというのも不自然だが)。その程度の男なのだが、なぜか女は少女の頃と同じ気持ちで彼を見ているのだ。そこが理解しがたい。6年の月日は何も女の意識を変えなかったのか。少女の頃はいざ知らず、大人になっても男を見る目は成長していないのか。少女の頃の想いがまるで冷凍保存されたように変わらずに続いている。恋愛は理屈で割り切れないところもあるが、敢えて理屈をつければ、恐らく彼女は作家本人に対してではなく、無条件に彼にあこがれていた頃の自分にいつまでもあこがれていたのかも知れない。しかし、そう説明をつけたところでリアリティが感じられないことに変わりはない。
監督・脚本のシュー・ジンレイとしてはそれほど彼女の想いは強かったのだと言いたいのだろう。しかし、それだけ強い想いを持っていながら女は男に結婚を迫るわけでもない。実は男が去った時彼女は妊娠していた。「私はあなたを永遠に自分のものにした。自分のお腹にあなたの命を宿し、その成長を見守ることができるのだ。そう思うととても幸せだった。あなたは私のものだ。」しかしそう言うわりには子供のことはほとんど描かれない(男が現われたとたん彼女の意識は子供から男に向いてしまう)。しかも子供がいることを男に伝えようともしない。「あなたの負担になりたくなかった。ただ私の存在に気づき、愛して欲しかった。他の女性たちとは一線を画したかった。でも、あなたは私に気づく事無く、私のことを忘れ去った。」相手の負担になりたくないと思う一方で、他の女たちよりも自分を愛して欲しいと願う。この矛盾した心理を理解する鍵は「何の見返りも求めない無償の愛」という前述の言葉だろう。しかし彼女は既に彼と体を交え子供すらもうけている。男に手が届きようのない少女の頃だったら「無償の愛」も理解できるが、その後の展開にはどうもしっくり来ないというのが正直な印象だ。
しかしこれだけ疑問だらけの展開であるにもかかわらずシュー・ジンレイが画面に出ているだけでそれなりに魅せてしまうのだからすごい。この点では確かに理屈を超えている。ただ、シュー・ジンレイがどんなに頑張っても少女時代の輝きを超えられなかった。それは監督としての彼女自身も分っていたのかも知れない。ラストでもう一度少女が出てくるのだ。最後にまた現在に戻り、手紙を読んでいる作家が映る。彼は家のドアを開けて、最初に女と出合った門のほうを見る。その門の隙間からこちらを覗いていたのは少女の顔だった。「男人的一夜 女人的一生」(男にとっては一夜の事でも、女は一生想い続ける)というサブタイトルは、せめて学生時代で物語が終わっていれば本当に胸に響いただろう。
人気blogランキングへ