トランシルヴァニア
2006年 フランス 2007年8月公開
評価:★★★★☆
監督・脚本・音楽:トニー・ガトリフ
オリジナル音楽:トニー・ガトリフ、デルフィーヌ・マントゥレ
音楽:エマニュエル・ガレ、フィリップ・ウェルシュ、ジェローム・ブール
撮影:セリーヌ・ボゾン
出演:アーシア・アルジェント、ビロル・ユーネル、アミラ・カサール
アレクサンドラ・ボジャール 、マルコ・カストルディ、ベアタ・バーリャ
「トランシルヴァニア」のストーリーを簡単にまとめると次のようになる。お腹の中にいる子どもの父親にもう愛していないと拒否された女が、絶望と焦燥の末に新しい愛を見出し出産する。どこにでも転がっているような話だ。トニー・ガトリフ監督はこのありふれたテーマを全く独自のスタイルと演出でユニークな作品に仕立て上げた。改めて言われないとそんなありふれたシチュエーションだったと気づかないほど変容されている。
「トランシルヴァニア」を取り上げる場合、そのユニークさをきちんと説明しなければならない。映画の基本的形式はロード・ムービーである。考えてみれば「流浪の民ロマ」を描く上でロード・ムービーはまさにふさわしい形式だ。しかし「トランシルヴァニア」の主人公2人、ジンガリナ(アーシア・アルジェント)もチャンガロ(ビロル・ユーネル)もロマではない。にもかかわらずジンガリナは途中から服装も生き方もロマのようになってゆく。チャンガロはいつも車で移動し、ロマのように野宿しながら村から村へさすらう生活をしている(「なぜホテルが嫌いなの?」「壁に囲まれていると不安だから」という会話に注目!)。この2人が出会い、流浪の旅をする。そういう展開になっている。音楽も伝統的なロマの音楽そのものではなく、現地の民俗音楽をベースにしてトニー・ガトリフ監督自身が創作したオリジナル曲なのである。ロマでないものにロマの生き方をさせる。ロマの生き方は「ガッジョ・ディーロ」や「僕のスウィング」の観察され共感されるものから、体の中に取り込まれ自分と一体のものに変わっている。自ら追い続けてきたテーマをさらに押し進めようと試みているのだ。
ここで「トランシルヴァニア」と「娼婦とクジラ」との共通点を指摘しておくことは大いに示唆を与えるだろう。「娼婦とクジラ」はマジック・リアリズムとでも呼ぶべき手法を駆使し、「トランシルヴァニア」はドキュメンタリーのようなタッチを使いながら巧みに民族的、土着的要素を織り込んでいる。片やタンゴがふんだんに使われ、片やロマの音楽を中心にした民俗音楽があふれかえっている。そして共にむせ返るような情熱的愛が、時に哀愁を帯び時に情熱的に吼え猛る音楽に乗って画面からはじけだす勢いで語られるのだ。しばしばパッションとなってほとばしる感情表現の起伏の激しさこそ「トランシルヴァニア」の特徴である。映像的には、一例を挙げれば、登場する女たちの髪が常に乱れていることに表れている。
さらに「トランシルヴァニア」にはエミール・クストリッツァの「ライフ・イズ・ミラクル」の世界とも近い要素がある。車の上で絡み合っている男女の後ろでゴミをあさっているクマ、「自転車に乗るロマの女を初めて見た」、あるいは「75歳にして男のように戦う女を初めて見た」と素朴に驚く老人。ユーモアのセンスがどこか共通している。いろんな要素が混入されているのもクストリッツァ的だ。それは人物の性格付けによく表れている。手に人間の目を描き、腹に天使の刺青を入れ、10本の指全部似に指輪をはめた若い女ジンガリナは、一方で占い師に占ってもらったり悪魔祓いの儀式を受けたりする。チャンガロはその悪魔払い師に「ペテン師め」と言って料金を踏み倒して逃げ去るような男だが、大怪我をしたときにはアフリカで買ったという傷を治す力を持った隕石で体をなでたりしている。あるいは、突如「黒いオルフェ」のような狂騒的カーニバルが出てきたりする。行方の定まらない何でもありの迷走的ロード・ムービーなのである。
しかし一見行き当たりばったりの旅に見えて実は一貫して追求されているテーマがある。ジンガリナはフランスから恋人(かつお腹の中の子どもの父親)のミランを探してトランシルヴァニアまでやってくる。しかしジンガリナに対するミランの愛情と情熱はとうに冷めていた。ショックを受け、1日中踊り狂い荒れ狂うジンガリナ。「うんざりよ、幸せになりたい」と言って泣く。一緒についてきた友達のマリー(アミラ・カサール)はフランスへ帰ろうとジンガリナを促す。しかし彼女は帰らなかった。「なぜ心が惹かれるの」というこだわりがジンガリナにはあったからだ。彼女は一体何に心を惹かれていたのか。映画はそれを描いている。
「なぜ心が惹かれるの」という言葉はもう一つ別の言葉と重なり合っている。ジンガリナがチャンガロと交わした言葉だ。チャンガロはなぜこんな村にいるとジンガリナに聞かれて「金(きん)」と答えた。彼は住民から小道具などを安く買い叩いて故買商に売り払う商売をしている。逆に彼からここで「何を探してる」と聞かれたジンガリナは、「愛よ」と答えている。彼女が追い求めていたのはミランではなかった。むしろ彼が身につけていたロマの「匂い」であったのだろう。彼女が追い求めていた愛と、彼女が心を惹かれていたロマの文化がここで結びつく。
ジンガリナの愛を捜し求める旅は、自らロマのようになり、またロマのように自由に暮らしているチャンガロと出会い、母になる不安を克服して子どもを授かることで終わる。一方、ジンガリナを道端で拾った時「世界は愛に満ちている」と言ったチャンガロは、一方で人間嫌いで金だけを愛するとうそぶいていた。その彼もジンガリナと出会うことで愛を知るのである。旅の途中で2人はそれぞれ生まれ変わるための重要な儀式を通過する。ジンガリナの場合は言うまでもなく悪魔祓いの儀式である。
ミランの裏切りを知った後ジンガリナは荒れ狂った。狂ったように踊りまわり、踊りながら次々と皿を割る。グラスを割りながら踊るダンスは結婚式のパーティなどの場面で映画にもよく出てくる。そういえば、何の映画だったか盛り上がった客たちが派手にグラスを床にたたきつけて割る横で、店の主人がガチャガチャチーンと損害をレジに打ち込んでゆくユーモラスなシーンがあった。それはともかく、「トランシルヴァニア」のこの場面はジンガリナの心中の嵐を間接的に描いている。その後外に飛び出してカーニバルの渦に飛び込む。独特の民族衣装と天狗のように赤く長い鼻をした怪物のような仮装で踊りまくる人々。これも同じ間接的感情表現である。音楽と踊りは何度も重要な場面で効果的に使われている。
チャンガロの車に拾われた時も途中で突然降りてしまう。「悪魔が」体の中にいると叫びながら林の落ち葉の中でのた打ち回る。彼女の体の中に棲みついた「悪魔」とは愛の喪失から来る絶望感だけではなく、腹の中にいる子供だったと考えられる。彼女が恋人を失ったと同時に子どもは父親を失ったのである。日に日に大きくなる「悪魔」が自分の体内にいる不安。その不安は悪魔祓いをした後でも危機的場面で表出する。陣痛で苦しみながら「ミランお腹に何を入れたのよ」と叫んだとき、出産の手伝いをする村の女たちを「魔女みたい」と怖がったとき、「悪魔」がよみがえりかけた。しかし彼女はそれを乗り越えた。今度は悪魔祓い師の手を借りずに。悪魔祓いの儀式の後ジンガリナはロマの衣装を着て現われる。明らかに精神の切り替えがあったのだ。あの儀式で払われたのは悪魔ではない。それまでの彼女の価値観と生き方なのである。
チャンガロが通過した儀式はより自虐的だった。ジンガリナが無事子どもを出産した後、恐らく彼は自分の役目は終わったと考えてジンガリナから去ろうとしたのだ。しかしその一方で去りがたい思いが彼の中にあった。チャンガロの内心の動揺を示す場面がある。村の女たちが出産の手助けをしている横でチャンガロはタバコに火をつける。しかし緊張のあまりタバコの反対側に火をつけていることに気づかない。出産に際して見守る以外何もできない男たちを描くごくありふれた描写にも思える。しかし、ひょっとしたら彼の胸の内には生まれ来る子は自分の子ではない、ジンガリナの気持ちが自分からそれてゆくのではないかという不安もあったのではないか。だから彼は出産の後立ち去ったのだ。
彼には自分の気持ちを整理するために儀式が必要だった。楽師たちを雇って、荒野でビールを飲みながら音楽に合わせて踊るチャンガロ。彼は頭にスカーフをかぶり頭でビール瓶を割る。自分で自分の頬をたたく。近くに立っている木の幹にジンガリナの手にあったのと同じ目の形が彫ってある。これはジンガリナへの思いを断ち切ろうとする儀式だったのだろう。だが、彼の自暴自棄的行為にあきれて楽士たちは演奏をやめてしまう。「音楽は生きるためのものだ、苦しむためじゃない。」そう言って彼らは夕暮れの中去っていった。
チャンガロは音楽によって目を覚ました。自分を取り戻した。チャンガロは酒場で酒を飲んでいた時、ふと目に入ったギターを弾く熊の人形を買う。やっとジンガリナと、さらには彼女の子どもと向き合う気持ちになったのだ。しかしジンガリナを預けた家に戻ると、子どもを連れて出て行ったと言われる。ロマと一緒だったと。ようやく探し当てたジンガリナは赤ん坊を抱いてベッドに寝ていた。目覚めてにっこりと笑うジンガリナ。その表情は安らぎに満ちていた。音楽が流れ、エンドロールへ。
叫び声と泣き声と怒鳴り声に満ちた映画だが、最後に映し出されるジンガリナの聖母のような微笑に救いがある。彼女自身はロマではないが、生まれた子はロマの血を引いている。実の父は逃げてしまったが、新しい「父」になりうる男はロマのように自由に生きている男だった。彼女を引き付けてやまなかったロマの生活にやっと入り込むことができた。彼女の微笑みはそれを表している。
冒頭に示したようなテーマがあるにはあるが、それは同じロード・ムービーでも「サン・ジャックへの道」のような明確な枠組みをなしてはいない。すべてのエピソードが結末へと結びついているという描き方ではない。行き当たりばったりで、暗喩に満ち、ストーリーのつながりよりも一つひとつのエピソードが際立っている。たまねぎやトマトを手でつぶして作ったチャンガロの料理のように、ごつごつとした手触りの映画だ。言葉以上に感情が表面に湧き出している映画だ。しかしどろどろはしていない。渦巻いているのは暗い情念ではなく熱いパッションだからである。そしてこの映画の土着的、風土的パッションを描くのにもっとも適した音楽がロマの音楽を中心とする民族音楽だったのだ(ミランがミュージシャンであったことを忘れてはいけない)。
ロマの音楽に最初に心引かれたのは、恐らくほとんどの人がそうだろうが、サラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」を聴いた時だ。あの哀愁と情熱にあふれた楽曲には聞く者の心をかきむしるほどの魅力があった。取り澄ましたようなクラシック音楽と違って感情が音の固まりになって降りかかってくるような音楽。同じくロマ音楽に影響を受けたリストの「ハンガリー狂詩曲」、ブラームスの「ハンガリー舞曲」も起伏に富んだ楽曲である。その後ジャズを聴くようになってジャンゴ・ラインハルトを知り、さらにだいぶ遅れてタラフ・ドゥ・ハイドゥークスやビレリ・ラグレーンを知った。そして映画ではトニー・ガトリフ監督の作品と出会ったのである。
トニー・ガトリフ監督の作品は常に音楽と一体である。「トランシルヴァニア」は映画の中で演奏される音楽同様、見る者の心と感情をかきむしる映画だ。激しい音楽に乗ってむき出しの激情が表出される。それでいい。ロマの音楽は言葉だったのである。文字をもたなかった流浪の人々は、自分たちの民族の歴史、自分たちが経験してきた悲しみや喜びなどを言葉ではなく歌や踊りに刻みつけてきたのだ。
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とんちゃんさん TB&コメントありがとうございます。
この映画の場合儀式はそれ自体が大事なのではなく、それを通じて何かを思い切って、新しく生まれ変わることが重要なのだと思います。
あのタバコのシーンはうまく使われていましたね。逆さに吸っても煙が出るのかと驚きましたよ。
投稿: ゴブリン | 2008年3月 9日 (日) 11:47
こんばんは、ゴブリンさん。
お~~やっぱ深いですね。
私のへタレのレビューを消し去りたくなります(涙)
>あの儀式で払われたのは悪魔ではない。それまでの彼女の価値観と生き方なのである。
そうだったのか!!
なるほど。
チャンガロの煙草のシーン。私も逆じゃん!と思いました。
私自身が、たま~に反対側に火を点けちゃうので^^
でも、ちゃんと煙が出ていたので、アレ?と思ったり・・・。
深いです。読み応えあるレビューに私自身が、自分の頬をぶった叩きたくなりました(笑)
投稿: とんちゃん | 2008年3月 9日 (日) 01:14
シャーロットさん コメントありがとうございます。TBが入りにくくて申し訳ありません。
トニー・ガトリフの映画世界とロマの音楽とは切り離せませんね。日本人の文化や感情表現などとは相当かけ離れた世界ですが、それでも否応なくひきつけられてしまう。どこか理屈を超えた魅力がありますね。
投稿: ゴブリン | 2008年2月22日 (金) 01:49
こんばんは。例によってTBが出来ず…コメントのみでごめんなさい。とても熱いパッションでしたね。そんな2人の姿にはどうしたって引っ張られて見入ってしまったのでした。
そうそう、私もハンガリー舞曲や狂詩曲、ツィゴイネルワイゼンなどなど大好きです。なのでロマの音楽と出会った時もすんなり入り込めました。ガトリフの作品はまさに音楽が印象的。って、当然ですね;笑
投稿: シャーロット | 2008年2月21日 (木) 21:04
真紅さん コメントありがとうございます。
TBが入らなくて申し訳ありません。不思議ですね以前は入っていたのに。
ラストのジンガリナの微笑みは何か憑き物が取れたようなさわやかな笑顔でしたね。
僕もすべてDVDで観ています。音響のいい映画館で聴いたらすごいでしょうね。上田では望むべくもないのですが。
投稿: ゴブリン | 2008年2月19日 (火) 23:44
ゴブリンさま、こんにちは。拙記事にTBありがとうございました。
実は最近拙ブログよりココログさんへのTBが不調となっており、返信が届かないようです。
申し訳ありません。復旧するのを願っているのですが・・・。
さて。『トランシルヴァニア』忘れ難い印象を残す作品でした。
ラストのジンガリアの微笑が聖母マリアのよう、という意見をよく目にしました。
もしかしたらチャンガロはヨセフだったのかも・・・などと思ったりもします。
トニー・ガトリフの作品はDVDでしか観たことがないので、是非一度映画館であの音楽を体感したいと願っています。
ではでは、またです~。
投稿: 真紅 | 2008年2月19日 (火) 12:58