ヘンダーソン夫人の贈り物
2005年 イギリス 2006年12月公開
評価:★★★★☆
原題:MRS. HENDERSON PRESENTS
監督:スティーヴン・フリアーズ
製作:ノーマ・ヘイマン
脚本:マーティン・シャーマン
撮影:アンドリュー・ダン
音楽:ジョージ・フェントン
出演:ジュディ・デンチ、ボブ・ホスキンス、ウィル・ヤング、ケリー・ライリー
セルマ・バーロウ、クリストファー・ゲスト、アンナ・ブリュースター
ロザリンド・ヘルステッド、サラ・ソルマーニ、ナタリア・テナ
トーマス・アレン、ラルフ・ノセック、マシュー・ハート
この種のコメディを作らせたらイギリスは滅法うまい。「キンキー・ブーツ」、「シャンプー台の向こうに」、「カレンダー・ガールズ」、「ヴァキューミング」、「フル・モンティ」、「ウェイクアップ!ネッド」、「ウェールズの山」、等々。さすがイーリング・コメディ、モンティ・パイソン、Mr. ビーン、そして「ウォレスとグルミット」シリーズを生んだ国だ。チャップリンだってイギリス生まれだ。イギリスのコメディはアメリカものと違って洗練されていて、独特のユーモアに富んでいる。
監督のスティーヴン・フリアーズは「マイ・ビューティフル・ランドレット」 (1985)で衝撃的に登場した。「エレファント・マン」、「シャイニング」、「炎のランナー」、「英国式庭園殺人事件」、「インドへの道」、「眺めのいい部屋」、「ミッション」、「遠い夜明け」、「ワールド・アパート」、「ヘンリー五世」などと共に80年代イギリス映画を代表する作品となった。70年代のイギリス映画は低迷期で80年代からやや上向きになってきた。ようやく90年代になって「ブラス!」、「フルモンティ」、「リトル・ダンサー」、「トレインスポッティング」などのヒット作や「リフ・ラフ」、「秘密と嘘」、「レディバード・レディバード」、「エリザベス」、「ビューティフル・ピープル」、「ぼくの国、パパの国」などの傑作を生み、イギリス映画は復活するのである。復調期の80年代において、90年代の飛躍を準備したといわれるのが「炎のランナー」と「マイ・ビューティフル・ランドレット」の成功なのである。しかし、その後のスティーヴン・フリアーズ監督は正直言って「マイ・ビューティフル・ランドレット」を超えられずにいた。「危険な関係」や「ハイロー・カントリー」などの佳作はあったがいまひとつ力を発揮できずにいた。やっとこの「ヘンダーソン夫人の贈り物」と「クィーン」で再び本来の力を発揮したと言っていいだろう。
「ヘンダーソン夫人の贈り物」の第一の魅力は何といってもジュディ・デンチとボブ・ホスキンスの丁々発止のやり取りである。名優2人の演技をたっぷり楽しめる。デイム・ジュディ・デンチ。類まれなる才能を持った大女優である。彼女については「ラヴェンダーの咲く庭で」のレビューでも触れたが、ここでも少し触れておきたい。彼女が映画界に進出したのはだいぶ遅く、80年代半ばである。それまではもっぱら舞台で活躍していた。早くから彼女の天賦の才能は開花し、早くも60年代半ばには英国の最も優れたシェイクスピア役者と言われていた。映画界への進出が遅かったのは、映画向きの顔ではないと思われていたかららしい。といっても決して美人でなかったということではない。若い頃は結構美人だった。Judi Denchで画像検索すると舞台俳優時代の貴重な白黒写真がいくつか見つかる。若い頃の彼女は歴史劇が似合うきりりとした顔立ちだったことが分かるだろう。
イギリスは多くの名優を輩出した。チャールズ・ロートン、ローレンス・オリビエ、ジョン・ギールグッド、デヴィッド・ニーヴン、アレック・ギネス、レックス・ハリスン、ローレンス・ハーヴェイ、マイケル・レッドグレーヴ、ジェームズ・メイスン、ラルフ・リチャードソン、トレヴァー・ハワード、ピーター・オトゥール、ダーク・ボガード、ジョン・ミルズ、リチャード・バートン、スタンリー・ベイカー、マイケル・ケイン、アンソニー・ホプキンス、ショーン・コネリー、ベン・キングズレー、いやはやきりがない。比較的最近の人たちを除いてもこの通りだ。
ところが女優となると美人女優はたくさんいるが、名女優と呼べる人は意外なほど少ない。ヴァネッサ・レッドグレーヴ、マギー・スミス、ジュディ・デンチ、ヘレン・ミレンの4大女優、だいぶ年代が下がって中堅ではエマ・トンプソンが代表か。この5人はさすがにすごい。しかしほかに名前を挙げようとすればためらいを感じる。いかに女優が演技力よりも美しさを求められているかがよく分かる。
さて相手役のボブ・ホスキンス。彼はどうしても「モナリザ」(86)の印象が強い。どうもほかに代表作が見当たらない。7本しか観ていないので見落としているのも多いが、「未来世紀ブラジル」を除いて傑作と呼べる作品にはほとんど出ていない。しかし堂々とジュディ・デンチと渡り合った「ヘンダーソン夫人の贈り物」は「モナリザ」と並ぶ彼の代表作になるだろう。
この2人の出会いがいい。しかし、その前に出会う前の状況から書かなければならない。ローラ・ヘンダーソン(ジュディ・デンチ)の夫はどうやらインドで財を成した富豪らしいことが会話から間接的に分かる。その夫の葬式から映画は始まる。葬式では気丈に耐えていたが、1人湖にボートを浮かべ涙を流すヘンダーソン夫人(ほかのボートが近づいてくるとはっとして泣くのをやめるところも彼女らしい)。やがて悲しみも癒えた頃、退屈がそれに取って代わる。そんな彼女にあれこれとアドバイスを与える友人のレディ・コンウェイ(セルマ・バーロウ)が愉快だ。このいかにも人が良さそうな上流婦人を演じているセルマ・バーロウは英国テレビドラマの人気女優である。50~60年代は舞台で活躍するが、70年以降はTVが主な活躍舞台になる。TVのメロドラマ「Coronation Street」(「BFI選定英国テレビ番組ベスト100」の40位にランクされた名作ドラマ)のメイヴィス・ウィルトン役、シットコム「dinnerladies」のドリー・ベルフィールド役で知られる。ボブ・ホスキンスとのやり取りに目が行きがちだが、この能天気でおせっかいで微塵も悪気のないアドバイザーの存在を忘れてはいけない。
レディ・コンウェイの勧めで上流婦人のたしなみたる刺繍と慈善活動を始めるが長続きしない。元々そんな枠組みに収まらない性格なのだ。何てったって男性の目の前で「○ッシー」なんて平気で口にして相手をのけぞらせてしまうのだから、当時の上流婦人としては相当型破りである。刺繍と慈善活動の失敗は短いエピソードだが、彼女の「レディのたしなみくそ食らえ」的破天荒な性格とその後のびっくりするような展開へそれとなく導く下地になっている。うまい展開だ。
そんなある日、たまたま「ウィンドミル」という閉鎖中の劇場を見つけ、やっと金と暇の使い道を見出す。その劇場をぽんと買って、さっそく改装させる。買ったのはいいが、何をどうやって始めればいいのか全く考えていなかったというのが彼女らしくて可笑しい。ここでボブ・ホスキンスが舞台に登場する。またまたレディ・コンウェイの勧めでヴィヴィアン・ヴァンダム(ボブ・ホスキンス)というやり手の男を支配人として雇うことになったのである。ところが遠慮などという奥ゆかしいものをもたないヘンダーソン夫人は彼をユダヤ人だろうとあけすけに言ってすっかりヴァンダムを怒らせてしまう(図星だった上に、言い方が横柄だったからだ)。ここから何かにつけて衝突する2人の確執が始まる。
衝突の原因は単純。責任者としてすべて自分で仕切りたいヴァンダムにオーナーである夫人が横槍をしきりに入れてくるという図式だ。がみがみ怒鳴り散らすヴァンダムと子どもみたいに思いつきや自分の好みで首を突っ込むオーナーは何事につけ衝突する始末。ところが夫人の方はそんなヴァンダムに惹かれるところがあった。ヴァンダムに奥さんがいることが分かって、ヘンダーソン夫人は急に不機嫌になってしまう。妻に対する無礼な態度に腹を立てたヴァンダムとまた大喧嘩。それを見ていたレディ・コンウェイのせりふがいい。「まるで長年の夫婦みたい。」これには笑ってしまった。そういえば何の映画だったか、近所に住んでいる男女が本当に夫婦か疑っていた隣人が、その2人が喧嘩しているのを見て間違いなく夫婦だと納得するという滑稽な場面があった。
あるとき散々言い合った挙句、腹を立てたヘンダーソン夫人がもう二度と劇場には来ないと啖呵をきってしまう。しかし何にでも口を出さないと気がすまないこのおせっかいオーナーは、(これまた「マタ・ハリになればいいのよ」というレディ・コンウェイのアドバイスで)あの手この手で劇場に潜入してくる。あるときは怪しい中国人に変装し(あの顔は傑作)、あるときは白くまの着ぐるみをまとって。
あのジュディ・デンチがこんなお茶目な婆さんになりきってしまうのだからすごい。「プライドと偏見」で威圧感辺りを払う暴君のごときレディ・キャサリンとして登場した人と同じ人物とはとても思えない。「ラヴェンダーの咲く庭で」で孫ほどの男性に恋してしまう繊細な老女を演じ、「アイリス」でボケが進んだ晩年のアイリス・マードックになり、知られざる傑作「Queen Victoria 至上の愛」では、馬番のジョン・ブラウンに恋してしまうヴィクトリア女王に扮している(英語のタイトルは「ミセス・ブラウン」)。まさに変幻自在。大女優たるゆえんだ。
一方のヴァンダムもさるもの。レビューを1日に4回上演するノンストップ・ショーという驚天動地の企画を打ち出し大当たりをとる。連日満員御礼となる。出し物のレビューも洒落た物で今観ても充分楽しめる(できるだけ当時のレビューを再現したらしい)。悪ガキどもがステージにネズミを放って踊り子たちがパニックになったらかえって受けたのに目をつけ、すかさずまねしてネズミを用意させるあたりはなかなかしたたか者だ。着々と演出を進めながらも、隙を見ては忍び込んでくるヘンダーソン夫人をつまみ出したり、横車を押してくる夫人に顔を真っ赤にして反論したりと大車輪の活躍。大女優を向こうに回して、この真面目一方ながらなかなかしたたかな劇場人を演じるボブ・ホスキンスの存在感も大変なものだ。
最初は順調に行っていた劇場も、ほかの劇場がまねしだしたとたん客足が引いていった。そこでオーナーたるヘンダーソン夫人がひねり出した新企画が何とヌード・レビュー!まさに常識に捕らわれない夫人の本領発揮である。さすがのヴァンダムも最初は反対するが、一度言い出したら聞かない彼女は、検閲官のクロマー卿(クリストファー・ゲスト)も説得して実現させてしまう。絵画のヌードが許されるのなら、舞台で裸になっても動かなければいいだろうと言いくるめてしまったのだ。
クロマー卿とのやり取りが傑作だ。時代設定は1937年だが、ヴィクトリア朝(1837-1901)が終わって30年以上たってもヴィクトリアニズムと言われるお上品な伝統は未だ根強く残っていた。ヌードのどこがいけないのよと迫るヘンダーソン夫人とアタフタするばかりのクロマー卿の対比がこの時代の倫理観をそれとなく浮き上がらせ、また夫人がいかに型破りであったかを雄弁に描き出している。女性性器を表す言葉をうまく口に出せなくて哀れなほどまごつくクロマー卿に向って、夫人があっさりと「○ッシー」と言ってのけるところが痛快だ。
前代未聞のヌード・レビューを最初に見た観客たちの反応がこれまた面白い。この頃はまだ上流の客が主体だった。上演の後のどう反応したらいいのか戸惑っている観客たちの様子がリアルだ。最初に拍手したのは検閲官のクロマー卿だった(これはお墨付きの合図だった)。踊り子たちは見事に額縁に納まって静止していたのである。これは日本で言う「額縁ショー」である。額縁に囲まれているのはヌードを描いた絵画に見立てているのである。
これがまた連日客が詰め掛けるほどの大当たりになる。この映画の二つ目の楽しみはこのヌード・レビューである。ミュージカル映画といえばアメリカ映画の十八番だが、「ヘンダーソン夫人の贈り物」のレビューもアメリカに劣らない見事なものだ。踊りと歌は決してヌードの添え物ではない。踊り子たちは見事にはじけて飛びまわっている。カラフルな出し物もアイデア満載で引き付けられる。楽曲もなかなか楽しい。節々で額縁の中にライトが当てられ裸の女性が浮かび上がる仕掛けだが、これも決して下品な感じではなく、ショーとうまくマッチしていて違和感がない。
順調に行っていたウィンドミル劇場だったが、時代の影が次第に忍び寄ってくる。戦争の影である。最初に出し物が変わってゆく。戦争を題材にしたレビューになるのだ。踊り子たちはヘルメットを被り軍服を着て踊っている。観客層も一変し、ほとんどが若い兵士になる。このあたりから暗いトーンが映画を覆い始める。しかしレビューの質は落ちない。中でも印象的なのは、フランス国歌の成り立ちを描く出し物。恐らくフランスがナチスに蹂躙されている時期だったのだろう。劇場に響く「ラ・マルセイエーズ」のメロディーに感動する観客。ヘンダーソン夫人も劇場の隅で涙を流していた。
この点が重要だ。この劇場はただ単に金儲けのために存在していたのではない。連日の空襲に打ち沈む国民を励ましていたのである。ここにもう一つの魅力がある。ヘンダーソン夫人がレビューに魅せられたのも、そこにはヴィクトリアニズムの厳しい倫理観に縛られた「家庭の天使」には決して体験することができない生き生きとした世界が広がっていたからだ。人々を縛る枠組みを取っ払った時初めて見えてくる生身の人間の息遣い。刺繍などに明け暮れていては決して知ることのなかったのびのびとした世界がそこにあったのだ。同じ頃、「贅沢は敵」と華美なものを極力排除しようとしていた日本人と比べてみれば、イギリス社会の懐の深さがよく理解できるだろう。ヴィクトリアニズムの残滓がまだはびこってはいたが、イギリスには伝統を破るものでも受け入れるおおらかさと余裕がまだあったのだ。苦しい時ほど人は息抜きを求める。だから観客が集まってくる。
もう一つの魅力とは戦時中にもかかわらず劇場を閉鎖せずに頑張った彼らの心意気である。「戦いは兵器だけでするのではない。大空襲で街や家がいくら焼かれ、友や顔見知りが死んだとしてもショーは続けるつもりだ。幕は下ろさず、劇場の扉も閉ざさない。」ヴァンダムが踊り子たちに言った言葉がそれをよく表している。踊り子たちも負けてはいない。劇場の近くに爆弾が落ち一時騒然となったとき、主演のモーリーンは「くたばれ」とばかり中指を突き出した。映画の後半は暗いトーンになるが同時にまた感動的でもある。ナチス占領下でも映画を作り続けたフランス映画人の気概にも通じるものを感じるからだ。実際、フランス映画「レセ・パセ」で描かれたように、マルセル・カルネ監督の「天井桟敷の人々」や「悪魔が夜来る」といった名作は占領下で作られたのである。「悪魔が夜来る」のラストで主人公の2人は悪魔によって石にされてしまう。しかしそれでも彼らの心臓はドクンドクンと脈を打つのをやめなかった。フランス人の抵抗精神を表したこのラストシーンは何度観ても感動的だ。
劇場の屋上から空襲下のロンドンを見つめるヘンダーソン夫人は第1次大戦で死んだ息子を思い出していたのだろう。その息子への思いが彼女にヌード・レビューを思い立たせたのである。彼女がその思いを打ち明ける場面がこの映画のクライマックスである。戦時中であったため、彼女たちにはまた別の枠組みが押し付けられた。劇場には人が集まるので閉鎖を命じられたのだ(爆撃を受けたとき被害が大きくなる)。劇場を開けろと騒ぐ兵士たちと何としても劇場を開かせまいとする政府の役人たちの前で夫人は演説する。
息子の遺品を整理していた時ヌード写真が出てきた。その時彼女は思った。「うちの子は本物の女性の裸を一度も見ないで死んだと。あまりにせつない人生だと思いました。戦争で息子を失った母親の正直な思いとすれば、あれは犬死です。・・・私の思いは一つ。せめて若者へ”贈り物”がしたい。若者が命を捧げるならば喜びを捧げるのがわれわれの務めと。その場を与えたい。」
「ヘンダーソン夫人の贈り物」という邦題はこの演説からとられている。本物の女性の裸を見て死ねば犬死ではないのかという疑問もないではないが、むしろ戦場に赴く兵士たちを励ましたいという彼女の気持ちを受け止めるべきだろう。喜びこそが暗い時代を撃つ武器なのだ。 ラスト・シーンも洒落ている。屋上でヘンダーソン夫人とヴァンダムが踊るシーンだ。「あなたは困った人だが憎めない。」「あなたも困った人だわね。」仲良く踊りながらも、「踊りが下手だわ」、「いやそんなことはない」と言い合っている。最後まで言い合いをしているところがいい。
軽妙洒脱、この2人の俳優を表現するにはこの言葉がぴったりだ。ずけずけとものを言い、きかん気で強い意思を持ち、常識に捕らわれず自由な発想をする。かと思えば小娘のように好奇心にあふれ、お茶目な一面も持つヘンダーソン夫人。優秀なプロデューサーかつ支配人として次々にアイデアあふれる出し物を繰り出し、裸になるのを不安がる女の子たちには「これは絵画と同じ芸術なのだよ」とやさしく諭すこともできるヴァンダム。自ら全裸になってまでしり込みする彼女たちの背中を押す。自分の仕事には妥協を許さず、オーナーの口出しにも全力で対抗する。いつもフルチン、いやフル回転で仕事をしている印象だが、容れるべきは容れるおおらかさもある。2人の名優が演じたこの2人の登場人物は、屋上で踊る二人の姿と共に長く記憶に残ることだろう。
ウィンドミル劇場はロンドンのグレイト・ウィンドミル・ストリートにあった。17世紀末ごろまでそこに風車小屋(windmill)があったらしい。それでピカデリーからその風車小屋までの道がグレイト・ウィンドミル・ストリートと名づけられたのである(ピカデリー劇場とアポロ劇場の間の通り)。ローラ・ヘンダーソンは1944年に82歳で亡くなった。ウィンドミル劇場はその後も続いたが、1964年にその歴史が閉じられる。その後コンプトン・シネマ・グループに売却されウィンドミル・シネマに改装されたが(もともとヘンダーソン夫人が買い取る前も映画館だった)、現在はまたウィンドミル劇場という名前に戻りヌード劇場になっている。
<付記>
大修館書店の『ロンドン辞典』にGreat Windmill StreetとWindmill Theatreの記述があります。また「BFI選定英国テレビ番組ベスト100」については、本館ホームページ「緑の杜のゴブリン」の「イギリス映画の世界」コーナーで紹介しています。100番組すべてのタイトルを載せてあります。