「六ヶ所村ラプソディー」の上映会に行ってきました
今年の1月7日に書いた「2006年公開映画を振り返って」という記事の中で、昨年度の特徴を6点挙げた。その一つとして記録映画に力作が揃ったことを取り上げた。しかしその時名前を挙げた「蟻の兵隊」、「六ヶ所村ラプソディー」、「エドワード・サイード OUT OF PLACE」、「三池 終わらない炭鉱の物語」、「ガーダ パレスチナの詩」、「ヨコハマメリー」、「スティーヴィー」、「ダーウィンの悪夢」のうち、観ていたのは「スティーヴィー」だけだった。他の作品が観られるのは2、3年先だろうと正直その時は思っていた。
しかし僕の予想を超えてドキュメンタリー映画の認知は進んでいたようだ。今年中に「ヨコハマメリー」、「ダーウィンの悪夢」、「六ヶ所村ラプソディー」の3本を観ることができたのである。最初の2本はしっかりレンタル店に置いてあった。他に「不都合な真実」と「狩人と犬、最後の旅」もレンタルDVDで観ている。未見だが、「ガーダ パレスチナの詩」もレンタル店で見かけた。今年に入っても「チョムスキーとメディア」、「ヒロシマナガサキ」、「シッコ」、「ミリキタニの猫」、「いのちの食べかた」、「ニキフォル 知られざる天才画家の肖像」、「コマンダンテ」、「カルラのリスト」、「スケッチ・オブ・フランク・ゲーリー」、「マイ・シネマトグラファー」、「ヴィットリオ広場のオーケストラ」等々、続々と続いている。「スティーヴィー」のスティーブ・ジェイムズ監督作品「フープ・ドリームス」も今年の1月にDVDになった。
なんとも驚くべき状況である。ドキュメンタリー映画の持つ意味が一般にも広がってきている。この流れの中においてみると、レビューで「100人の子供たちが列車を待っている」を取り上げたのも偶然ではあるがタイムリーだったかもしれない。これでDVD化も進めばこのジャンルはさらに定着するだろう。楽しみな状況になってきた。
さて、肝心な「六ヶ所村ラプソディー」。この映画を観て、一番強く思ったのはフェアーであることと中立であることの違い。中立とは抗議もせず、暗黙の内に現状を認めてしまうことだから結局は肯定することだと映画の中で苫米地さんが言っていた。今更言うまでもない当たり前のことだが、実はほとんどの日本人が常にこの立場をとってしまうのだ。自分の考えや意見を持つことをほとんど教えられずに育ってきた日本人は、ある立場をとることひいては自分の意見を持つこと自体を「イデオロギー的だ」、「偏向している」として嫌う傾向が強い。このことと一定の立場に立ちながらも、自分とは違う立場の人の意見も公平に取り上げる姿勢とは全く別のことである。「六ヶ所村ラプソディー」で鎌仲ひとみ監督は後者の立場をとっている。六ヶ所村の核燃料再処理工場に明確に反対の立場をとりながら、消極的支持も含めて賛成している人たちの意見も取り上げている。「六ヶ所村ラプソディー」に力があるのは明確に反対の立場をとっているからであり、かつそれを無理やり押し付けるのではなく、主としてインタビューを通じてそれぞれの立場の考え方を提示する形で問題提起しているからである。「中立的」と称して当たり障りのないことを並べただけのものとは説得力が違う。
監督はフェアであろうとつとめているが、映画で取り上げられている人は反対派の人の方が多い。監督によれば原燃関係者や自治体関係者がインタビューをことごとく断ってきたからである。マスコミも「不都合な真実」は一切報道しない。六ヶ所村の役場で試写会を行った時、町の人は1人も観に来なかったそうである。役場の女性が休みを取って1人観に来ただけだと鎌仲監督は話していた。再処理工場以外にこれといった働き場所がない現実。自由に物言えぬ雰囲気と無関心が支配している。
そんな中粘り腰で撮り上げた労作ではあるが、フェアな立場を貫こうとすれば当然制約も多い。恐らくそのためだろう、上映後の講演で鎌仲監督は鬱憤を晴らすかのように1時間半に渡り縦横無尽に語りまくった。自由に話せる場なので歯に衣着せずに率直な思いを語っていた。だから正直言って映画よりも講演会の方が面白かった。メモを取っていなかったので正確には思い出せないが、できる限り記憶をたどってみよう。
鎌仲監督は原発のある富山県出身で、子供の頃から原発はありがたいものと教えられて育ってきたそうである。彼女の認識を大きく変えるきっかけになったのはNHKにいたころにイラクを取材したことだ。ただその当時は問題意識も強くなく、医薬品が足りないために子供たちがたくさん命を落としているという報道になってしまったそうだ。その後劣化ウラン弾に関心を向け、核や被曝といった問題を追及するようになった。その延長線上に「ヒバクシャ 世界の終わりに」と「六ヶ所村ラプソディー」があるというわけだ。
劣化ウラン弾は自分たちが出したゴミから作られていると彼女は何度も指摘した。劣化ウラン弾の主原料である劣化ウランは、日本がアメリカから買っている濃縮ウランを製造する過程で出る廃棄物なのである。つまり核のゴミ。そのゴミから劣化ウラン弾が作られているのである。しかしそういうことをわれわれは何も知らされていない。何も知らずに電気を消費している。もう一つ強調していたのは内部被爆。イラクの子供たちは放射性物質である劣化ウラン弾の微粒子を知らず知らずに身体の中に吸収し、それが子供たちを内側から蝕んでいる。被曝しているのは日本人だけではない。
ところがマスコミはそういう問題を真面目に取り上げない。原発は日本の政治に深く食い込んでいて、行政・マスコミぐるみで「不都合な真実」隠しに懸命なのだ。その結果原発やその関連施設の当事者自身が被曝の怖さを認識していないという悲劇的な事態に立ち至っている。それを象徴的に示したのがあの東海村のJCOでの臨界事故だ。今年の7月に発生した新潟県中越沖地震の際に柏崎刈羽原発で起きた火災もその備えの不十分さを明るみに出した。原発は安全だと宣伝して警戒心をなくすことがいかに危険であるかを分かりやすく示した実例だ。
六ヶ所村でも同じことだ。監督は防災訓練を取材させてもらったそうだ(取材の許可を貰うまで散々苦労したそうである)。その話がすごかった。何と災害対策本部が再処理工場のすぐそばにもうけてあったという。一番危険なところではないか。しかもわざわざ遠くの住民まで再処理工場近くの避難所へ誘導してくるという念の入れよう。そんなことをしてたら村は全滅だ。そんな噴飯ものの訓練を取材した新聞記者たちは記者会見で何も質問しなかったという。監督が色々質問すると責任者は何も答えられないどころか、自分が何を聞かれたのかも分からない様子だったという。目をおおわんばかりだ。こんな愚か者たちが危険物の処理と管理を担い、同じくらい愚かな報道陣が無視を決め込み、結果的に国民は何も知らされず思考停止状態に置かれている。
監督はこのように日本の現状を批判したが、ただ原発やめろ、再処理をやめろといっているわけではない。新しい道の提案もしている。電気がなければ生活できない、これが原発推進派や消極的賛成派の論拠の一つだが、電気の需要が増えるから原発を増やして発電量を増やすという考え方ではなく、ドイツのように節電に真剣に取り組む、あるいは原発以外の発電方法の開発にもっと努力すべきであると訴えている。放射能汚染は他人事ではない。日本の食料自給率はカロリー・ベースでわずか2割台。しかし東北各県では180パーセントになる。つまり東北で作られた食料を日本全国で食べているわけだ。その食料が汚染されていたら?
鎌仲監督は映画評論家の意見などどうでもいいと言っていた。こうして一般の人と直に意見を交わす方が楽しいと。「六ヶ所村ラプソディー」の活力の根源は、つまるところアクティヴィストとしての彼女の活力にある。「映画を観ただけで終わらせないでほしい」、「まずは知ることから始めよう」というスローガンを掲げていた上映会だが、知った後には行動が続くべきだ。彼女はそう訴えている。彼女の作品と彼女のさわやかな弁舌に魅了された4時間だった。
「六ヶ所村ラプソディー」(2006、鎌仲ひとみ監督)★★★★☆
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