山猫
1963年 イタリア 1964年公開
評価:★★★★★
監督:ルキノ・ヴィスコンティ
製作:ゴッフリード・ロンバルド
原作:ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサ
脚本:スーゾ・チェッキ・ダミーコ、パスクァーレ・フェスタ・カンパニーレ
エンリコ・メディオーリ、マッシモ・フランチオーザ、ルキノ・ヴィスコンティ
撮影:ジョゼッペ・ロトゥンノ
音楽:ニーノ・ロータ
出演:バート・ランカスター、クラウディア・カルディナーレ、アラン・ドロン
パオロ・ストッパ、リナ・モレリ、ロモロ・ヴァリ、セルジュ・レジアニ
ピエール・クレマンティ、ジュリアーノ・ジェンマ、オッタビア・ピッコロ
イヴォ・ガラーニ、アイダ・ガリ、マリオ・ジロッティ
以前「ゴブリンのこれがおすすめ 8」でフェデリコ・フェリーニ(1920-93)とルキノ・ヴィスコンティ(1906—1976)を取り上げた。その時上げた「おすすめの10本」を再度挙げておこう。
「家族の肖像」(1974)
「ルードウィッヒ/神々の黄昏」(1972)
「ベニスに死す」(1971)
「地獄に堕ちた勇者ども」(1969)
「異邦人」(1968)
「山猫」(1963)
「若者のすべて」(1960)
「ベリッシマ」(1951)
「揺れる大地」(1948)
「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(1942)
未見作品は「華やかな魔女たち」(1967)と「われら女性」(1953)の2本だけ。ほぼ主要な作品は観た。ベスト3を挙げろといわれたら「ベニスに死す」、「地獄に堕ちた勇者ども」、「山猫」あたりか。ただ「ベニスに死す」は大学に入学してすぐ観た(73年6月3日)時はかつてないほど感動したのだが、今観たらどうかという一抹の不安がある。1年後に2度目に観た時にはかなり冷めて観ていたからだ。もし入れ替えるとしたら「ベリッシマ」か「家族の肖像」あたりになろう。「イノセント」や「白夜」は退屈だった。「異邦人」も無理して撮ったという感は否めない。「熊座の淡き星影」、「夏の嵐」、「ルードウィヒ 神々の黄昏」あたりもさほど僕の評価は高くない。何だ、結局貴族趣味から足が抜けなかったのねという冷めた目で観ていた。
「ベリッシマ」はイタリアの肝っ玉母ちゃんアンナ・マニャーニの庶民的活力に脱帽。逆に「郵便配達は二度ベルを鳴らす」は観終わった後にどっと疲れが出た。2つあるアメリカ版よりはるかに優れているが、暑苦しすぎて好きな映画ではない。「若者のすべて」は庶民を描いてはいるが、出口のない閉塞感が重苦しい。「家族の肖像」は静かで暗い映画だが、不思議な力のある映画。ネオ・リアリズモの傑作と言われつつも長い間幻の作品だった「揺れる大地」はさすがの出来。ただ期待が大きかっただけに、期待値には届かなかったという記憶がある。「地獄に堕ちた勇者ども」は「山猫」と対になる作品だと思う。「山猫」の時代からおよそ70年後、20世紀の貴族一家を描いている。退廃的描写をふんだんに取り入れながら、ぎりぎりのところでそれを批判的に描いている点を僕は高く評価したい。エッセンベック男爵家は「山猫」で新しい世代として登場したタンクレディの成れの果ての浅ましい姿である。退廃的世界をどれだけ距離をおいて客観的かつ批判的に描きえているかは「ベニスに死す」の評価にもかかわる。「ベニスに死す」の評価が微妙なのは、一歩身を引いてそれを描いているのか、それとも半分足を突っ込んでしまっているのか微妙だと思うからだ。いずれにせよもう一度観直してみるしかない。
その点で「山猫」が際立っているのは、滅び行く貴族階級の運命を透徹した客観的・批判的視点、歴史の変転を的確にとらえる冷徹な眼で描いている点である。「山猫」はいかなる意味でも「退廃美」や「滅びの美学」を描いたものではない。それは半分以上描かれた世界にのめりこんでいる作品に使う言葉だ。「山猫」は個人を(それがいかなる大貴族であろうとも)否応なく押し流し翻弄してゆく時代の冷酷な流れと、その流れに押し流されつつ自らが属する階級に未来がないことを自覚した1人の貴族が、爛熟しきって腐りつつある自らの属する世界と自らに向けた自己認識に対する冷静かつ冷徹な探求なのである。
先日掲載した「ただいま『山猫』のレビューを準備中」という記事でアラン・ドロンが物足りないと書いた。これには少し説明が必要だ。アラン・ドロン扮するタンクレディが卑劣で日和 見主義的に見えるのも、その妻となるアンジェリカ(クラウディア・カルディナーレ)が貴族ですら振り向くほど美人だが礼儀知らずの蓮っ葉娘に見えるのも、さらには彼女の父親ドン・カロージェロ(パオロ・ストッパ)が公爵の前では終始ぺこぺこして卑屈に見えるのも、意図的にそう描いているからである。サリーナ公爵ドン・ファブリツィオ(バート・ランカスター)は彼ら3人に興隆しつつある新しい世代と勢力を見出したが、決して彼らを貴族階級以上に洗練され、高い文化的知識を持った人々だと思っていたわけではない。機を見るに敏で、せっせと権力拡大に精を出す新興のブルジョア階級。公爵の狩のお供をしているドン・チッチョ(セルジュ・レジアニ)がドン・カロージェロ像を的確に描き出している。金持ちで実力者、抜け目がない。近いうちに新政府の議員になるでしょう。いずれ教会の土地を安く買ってこの地方で最高の大地主になる。彼はそういう人ですと。膨大な地代によって安楽な生活を保障され、働きもせず遊び呆けながらぬくぬくと暮らしている貴族階級は、いずれ財力があり勤勉なブルジョア階級に取って代わられる、公爵はそう見抜いているということである。
アンジェリカが輝いているのは単に美しいからだけではない。彼女の肢体から力を得つつある新しい階級の活力があふれ出ているからである。アラン・ドロンが物足りないのは新しい世代の活力や抜け目なさをいまひとつ体現できていないからである。どんなにせりふで「タンクレディには未来がある」(公爵)、「あなたを愛したら他の男なんて水みたいよ。・・・あなたはマルサラ酒だわ」(アンジェリカ)と語って見せても、アラン・ドロンの演技からはただ変わり身の早い軽薄な男というイメージしか浮かび上がってこない。
ただし、この点もまた微妙ではある。「軽薄さ」はある程度ヴィスコンティが意図した要素でもあるからだ。問題は叔父である公爵に対して敬意を払いつつも自分は別の道を進むという、傲慢さも持ち合わせた、どこか裏がある底知れない影を持った男という複雑な人物像にまで彼の演技が及んでいないということである。まあ、アラン・ドロンについてはこれくらいにするとして、重要なのは「未来がある」世代が決して全面的に肯定されていないということである。タンクレディがアンジェリカと結婚することでドン・カロージェロと義理の父、息子の関係になることが暗示的である。つまり、彼は公爵の前ではぺこぺこしながら「次の時代」を虎視眈々と窺っているブルジョア家族の一員になるということである。機を見るに敏で変わり身が早く、実務に卓越した能力を持ち、幻想などは持ち合わせないが必用なら創り出すことが出来る人々。公爵が「新時代向きだ」と言ったドン・カロージェロやタンクレディたちは、明らかに権力闘争に明け暮れ、退廃に身を任せている「地獄に堕ちた勇者ども」のエッセンベック男爵家につながる。結末に漂う寂寥感は、公爵が自分たちの階級の没落を予感しているからだけではなく、新しい時代が金儲けはうまいが何の気品も文化的素養もない粗野な「山犬」たちの時代になるという諦めがあるからだ。この映画の価値はそこにある。ランペドゥーサの原作はいざ知らず、少なくともヴィスコンティは「地獄に堕ちた勇者ども」の権力闘争に明け暮れるおぞましくも退廃的な世界を「山猫」の中で公爵に予感させていたのである。
山田洋次監督の「故郷」で井川比佐志扮する無学な精一が口にした「大きなものとは一体何だ?時代の流れとか、大きなものに負けると言うが、それは一体何を指しているのか」という問いかけ。彼が語った個人を否応なく押し流してゆく「大きなもの」とは時代の大きな流れのことだが、それが「山猫」ではさらに壮大な規模で語られている。しかも公爵は時代の先の先まで読んでいたのだ。「我々は山猫だった、獅子だった。(それに)山犬や羊どもが取って代わる。そして山猫も獅子もまた山犬や羊すらも自らを地の塩と信じ続ける」という公爵の言葉にそれがよく表れている。貴族もブルジョアも「地の塩」、つまり「世界の光」ではないと言っているのである。
公爵の認識を分析する前に、タンクレディという人物についてもう少し触れておこう。彼は興味深い存在だ。本人が登場する前にタンクレディのことは馬車の中での公爵とピローネ神父(ロモロ・ヴァリ)の会話に登場する。タンクレディにはいかがわしい友人が多いと神 父が心配そうに言うと、公爵は「彼のせいではない、時世だよ」と甥を擁護する発言をしている。むしろ「まことによい国なのですが」と革命騒ぎを憂える神父に対して、「神父さえ少なければな」と公爵は応じている。しばしば映画の中に差し挟まれる滑稽な場面の一つだ。時代の変化を深く受け止めている公爵とその公爵家に取りすがり、その権力の傘の下で生きてきた神父が対比されている。しかしその公爵も義勇軍に参加すると宣言したタンクレディには、最初「気でも狂ったのか!」と応じている。今は「大変革の時」だといち早く気づいていたタクレディは公爵を説得しようとする。「奴ら(ガリバルディが率いる革命軍)はみんなマフィアだぞ。我ら一族は王に恩義がある」と言う公爵に、タンクレディは「共和制を阻止しようと思うなら、現状維持を願うなら、変化が必要です」と答える。あきれる公爵を後に彼は「三色旗を持って戻ります」と言って去ってゆく。公爵は去ろうとする甥を呼び止めて餞別を渡す。
イタリアの三色旗はイタリア統一運動のシンボルとされた旗である。緑は国土、白は雪・正義・平和、赤は愛国者の血・熱血を表すとされる。しかし元はフランスの国旗が起源で、「自由」、「平等」、「友愛(博愛)」をも象徴している。つまり、タンクレディの意図とガリバルディの意図は最初から一致していない。タンクレディは皮肉にも「共和制を阻止」するために革命軍に参加したのである。イタリア統一や革命運動そのものに共感したのではなく、今の王を別の王にすげ替えることが彼の目的だった。「自由」も「平等」も「友愛(博愛)」も端から彼の眼中にはない。イタリア統一後彼は正規軍に入隊する。大舞踏会の時に、彼は「革命軍に入った者は銃殺だ、脱走兵だから当然だ」と冷酷に言い放つが(実際、銃殺の音が聞こえた時も顔色一つ変えない)、そもそも一般民衆に何の共感も持たない彼が反革命に転ずるのは必然だった。彼は「革命列車」から途中下車した。その先まで進もうとする者はもはや邪魔者でしかないのだ。
公爵も甥が本格的な革命運動に身を捧げるつもりではないと分かったから、金を渡して彼を送り出したのだ。翌日彼が神父と交わした会話が興味深い。公爵「今日は一つ発見をした。今何が起こっているか。何も起こっていない。階級が交代するだけだ。中産階級の奴らは我らに取って代わりたいのだ。穏やかな手段でな。事と次第では金も惜しまぬ。だが大変革はない。わが国はすべて妥協で動くのだ。」公爵は緩やかな変化を期待していた。彼の言う「大変革」が何を意味するか明確ではない。中産階級ではなくさらにその下の下層階級が取って代わるという意味にも取れる。しかしこの段階ではむしろ、中産階級が政治の実験を握っても貴族階級は解体されずに残されるだろうという見通しを語っていると解釈するべきかもしれない。少々の変化は仕方がないと達観していたのだ。
むしろ民衆を口にしたのは神父だった。「犠牲を払うのは教会です。教会の財産は貧民の財産だ。それが無法にも奪われてゆく。結果は?教会が養ってきた民衆をどうします?彼らの不満をどう収めます?初めは少しずつ与えても、度重なれば全部の土地を失う。主は盲人を治された。だが魂の盲人をどうします?」神父は民衆の擁護者として教会を描いているが、これは口実に過ぎまい。本音は教会の存続である。これに対し公爵はこう答えている。「教会は自らを救うために必用とあらば我らを犠牲にすることもあろう。やがて・・・そうせざるを得まい。」
これに対し神父はこう返している。「土曜には2つの罪を告解なさい。昨夜の肉欲の罪と今日の魂の罪もです。」実は公爵は前日、つまりガリバルディ率いる800人の部隊がマルサラに上陸したというニュースを聞いたその日にパレルモで娼婦を抱いていたのである。公爵の言い訳がいい。彼の妻(リナ・モレリ)は始める前に十字を切り、絶頂で「マリア様」と呼ぶ。「そんな女で満足できるか!」妻のへそも見たことがないと。まあ、勝手な言い分だが、公爵を預言者のごとき聖人として描いていないところがいい。タンクレディにも「誰かさんのようにパレルモで夜遊びなどしません。この浮気な道楽者」と言わせている。
どんなに騒いでも変化は訪れる。そう考える公爵は紛争のさなかにもかかわらず、いつものようにドンナフガータの別荘に馬車を4、5台連ねて移動する。途中で通る何もない赤茶けた荒野がシチリアの貧しさを印象的に表している。サリーナ公爵家は数十代に渡ってシチリアを領土としてきた名門一族なのである。イタリア統一後も豊かな北部と貧しい南部という南北問題がずっと尾を引いていた。シチリアの痩せた土地と貧しさはマフィアの台頭と不可分に結びついているのである。食い詰めた人々が夢を求めてアメリカに渡っていったのだ。タヴィアーニ兄弟の傑作「カオス・シチリア物語」でも、「また可愛そうな人たちがアメリカへ渡ってゆく」という意味のせりふが出てくる。シチリアという土地はこの映画の中で重要な意味を持っているのである。ついでに触れておくが、「シシリーの黒い霧」、「都会を動かす手」、「黒い砂漠」、「コーザ・ノストラ」、「ローマに散る」など、一貫してマフィアとの戦いを描いてきた巨匠フランチェスコ・ロージ監督の存在も忘れてはならない。
ドンナフガータの別荘で公爵は変化が止めようもなく押し寄せていることを実感させられる。一つは国民投票である。シチリア島民は統一イタリア国の国王としてヴィットリオ・エマヌエレ王を戴く事を全員一致で(実はそうではないことが後に分かるが)選択したのである。もはや逆戻りできないところまで事態は進んでしまった。投票所に向う公爵と神父に強風であおられた埃が容赦なく襲いかかるシーンが印象的だ。別荘に一行が着いたときも全員埃まみれになっていた。シチリアの乾いて痩せた土地がここでも強調されている。
二人が埃まみれになるのは、公爵の背後に統一を祝う花火が打ちあがる場面とあいまって、没落の象徴でもあろう。埃はまた別のところで崩壊の象徴として描かれている。遅れて別荘にやってきたタンクレディが一緒に連れて来たカヴリアギ伯爵(マリオ・ジロッティ)やコンチェッタ(ルチラ・モルラッキ)やアンジェリカたちと普段使われていない部屋でかくれんぼの様な遊びをして戯れているシーンである。カヴリアギが邸の広さにあきれて「なんて広い邸だ。何部屋ある?」と聞くと、タンクレディは「邸の持ち主すら知らない」と答えている。彼らが走り回っている普段使われていない部屋は埃をかぶり、蜘蛛の巣が張っている。まるで廃屋のようだ。部屋数の多さは邸の広大さを強調するもので、本来豊かさの象徴であったわけだが(侍従のミミがドアをいくつも開けてタンクレディの到着を知らせに行く目を瞠るシーンはまさに邸の広大さをこれでもかと見せ付けている)、ここでは滅び行くものの象徴に変わっている。
ついでに言うと、タンクレディがコンチェッタに気があるらしいカヴリアギ伯爵に、思い切ってコンチェッタにアタックしてみろと誘う時のせりふが面白い。「ただし、彼女はシチリア人だ。毎日マカロニを食べる。ミラノの生活に慣れるのは大変だ。」カヴリアギ「マカロニくらい何とかする。」そうか、イタリアならどこでもマカロニを食べているわけではないんだ(少なくともこの時代は)。面白い発見だった。
変化を表すもう一つの要素は、いうまでもなくアンジェリカの登場である。最初の登場シーンがすごい。まずパーティに招かれたドン・カロージェロが燕尾服で来たとみんなで笑いものにする場面がある。しかし娘のアンジェリカが盛装で現れると、一同その美しさに息を呑む。その場の空気が一変する。皆居住まいを正す。公爵ですら「この美しい花をわが家に迎えられてうれしい。(ここで右側をちらりと見る。奥方を気にしているのだ)これからも時々姿を見せていただきたい。」と丁重な挨拶をしたほどだ。新しい勢力の活力をもっとも印象的に表しているのは、義勇軍に従軍したタンクレディの勇ましい姿でも、着々と地歩を固めつつあるドン・カロージェロでもなくこのさっそうと登場したアンジェリカの姿である。言われるほど美人だとは思わないが、このシーンは確かに忘れがたい強烈な印象を観客に与える。
タンクレディはアンジェリカに一目ぼれしてしまう。タンクレディが彼女に挨拶しようとして身構えていると、アンジェリカはあっさり彼を素通りしてコンチェッタに挨拶する。彼は神父の後にやっと紹介される。うまい演出だった。パーティーのシーンもなかなか秀逸で、すっかりアンジェリカに夢中になっているタンクレディと、その二人の仲を気にしているコンチェッタの不安げな顔を交互に描いている。アンジェリカの流し目が印象的だ。しかしアンジェリカはタンクレディの冗談に大笑いしてしまう。あまりの下品さに一同驚愕。公爵もあきれて会食は中止となる。上流にふさわしいたしなみを持たなければその仲間に入れないことを示す有名なシーンである。
しかし公爵はアンジェリカを認めていた。「これでいい。後押ししてやろう。少し品のない相手だがな。」この場では彼女を笑いものにしたが、いずれは自分たちの方こそ消え去ってゆく存在だと知っていたからだ。この時点では公爵はむしろ変化を求めていた。埃まみれで投票所に向っていた時、「いやな風が吹きますな」という神父に「そんな事はない。よどんだ空気が入れ替わる」と公爵は答えていた。いずれはよどんだ空気と共に自分たちも消え去って行くのだ。彼にはそんな認識が既にあった。
彼が自分の到達した認識をはっきりと口にするのは、公爵を上院議員に推薦したいとのトリノ政府の意向を伝えに来たシュヴァレ(レスリー・フレンチ)との会話の中である。「私は旧体 制と結ばれたかつての支配階級の者です。それは否定しようのない事実だ。私は不幸なことに新旧2つの世界にまたがって生きている。そして何の幻想も持っていない。自らをあざむく事なく立法者になれぬ。したがって私は上院に入り人を導くなど不可能だ。シュヴァレ殿、私には政治は向いていない。」彼はこういって申し出を断るのだ。なおも粘るシュヴァレに「シチリア人は老いている。25世紀もの間、異種の文化に圧迫されてきた。自らの文化を生むことは出来なかったのだ。2500年の間植民地だった。我ら自身の罪だ。我らは力を失った。燃え尽きた。・・・眠りだよ。眠りを求めているのだ。そして揺り起こす者を憎む。贈り物に心動かす事もない。それに私は信じておらぬ。新しい王国の贈り物とやらを。我らの願望は忘却だ。忘れられたいのだ。逆に見えても、実はそうなのだ。血なまぐさい事件の数々も、我らが身をゆだねている甘い怠惰な時の流れも、すべて実は官能的な死への欲求なのだ。」
「官能的な死への欲求」というのは原作にあるせりふだろうか。これまで描いてきた世界とはややずれる気がする。しかしこの言葉をとらえて無理やり「滅びの美学」へ持ってゆくのは作品の理解を歪めると僕は思う。むしろシチリアという土地の不毛さ、それを変えられなかった己の無力さが強調されていると読むべきだ。「変わったところで良くなるはずもない。」それは彼個人の無力さばかりではなく、彼の属する階級の無力さでもある。映画の約3分の1を占めるポンテレオーネ公爵邸での盛大な舞踏会の部分で最も重要なのは、他愛もなく遊び呆ける若い娘たちを見て放った公爵の言葉だ。「いとこ同士の結婚が多すぎる。彼女たちが猿に見えないかね。今にシャンデリアにぶら下がりかねない。」一体何人の招待客がいるのか分からないほど盛大な舞踏会の表面的壮麗さの中に、彼は貴族階級が衰退してゆく兆しを的確に見て取っている。同時にポンテレオーネ公爵邸の調度品を手にとって、「これは土地に換算すると何ヘクタールくらいだろうな?」と値踏みするドン・カロージェロを映し出して、貴族たちとは全く違う価値観を持った新興勢力が大貴族の邸にも入り込んできていることを描き出している。死の床に横たわる老人と周りで嘆いている人々を描いた絵を1人しげしげと眺め、公爵が涙目になる場面はその延長線上にある。その後に続くアンジェリカと公爵がワルツを踊る有名な場面は、上りつつある階級の輝きと滅び行き、過ぎ去り行くものの最後の輝きが同時に描かれる素晴らしい場面である。一時公爵は若さを取り戻す。
しかしその後の場面、舞踏室にしばらく佇んでからゆっくりと部屋を出てゆく彼の後姿にはもはや覇気はなかった。馬車にも乗らず公爵は1人歩いて帰る。薄汚れてボロボロの家々が続く。貧しい家に入ってゆく司祭と出会った時、彼は跪いて祈る。「おお星よ、変わらざる星よ。はかなきうつし世を遠く離れ、なんじの永遠の時間に我を迎える日はいつの日か?」彼が求めていたのは自分たちを必用としない現世から離れ、永遠の安らぎを得ることだった。立ち上がった老いぼれ山猫はがっくりと肩を落とし暗がりの横丁へ消えて行く。うら寂しい落魄のシーンだが、注目すべきは彼が庶民の街を歩いて帰るということの持つ意味である。公爵が別荘の窓から庶民の家を眺め微笑むシーンがある。様々な生活の音、大声を上げてはしゃぎまわる子供たち。そこにはブルジョア階級とはまた違った活気と活力があった。公爵が民衆に共感を持ったと言いたいわけではない。それはかすかに暗示されているだけだ。しかし最後のシーンは明らかにほのめかし以上のものがある。わざわざ公爵に薄汚れた町の中を歩かせたのは何らかの意図があると解釈すべきだ。タンクレディは反革命に転じ、一方公爵は最後に民衆の中に入ってゆくのである。原作がどうなっているかは分からない。原作はともかく、エンディングにはヴィスコンティの思いがこめられている気がするのだ。
変革の時代をとらえた歴史叙事詩。かつてイタリア映画が世界の最高水準にあった時代に到達した頂点の一つ。その透徹した歴史観、時代に押し流されてゆく人々を見る冷徹な視線、消え去りつつある階級と力を得つつある階級が交錯する重厚な人間ドラマ。完成後40年以上たった今でも少しも色あせていない。名作中の名作である。
<おまけ>
■バート・ランカスター出演作 マイ・ベスト25
代表作を25本挙げて、そのほとんどが傑作レベルという人はそうはいない。重厚なドラマが似合う得がたい俳優だった。
「ローカル・ヒーロー 夢に生きた男」(1983) ビル・フォーサイス監督
「アトランティック・シティ」(1980) ルイ・マル監督
「1900年」(1976) ベルナルド・ベルトルッチ監督
「家族の肖像」(1974) ルキノ・ヴィスコンティ監督
「ダラスの暑い日」(1973) デヴィッド・ミラー監督
「大空港」(1970) ジョージ・シートン監督
「大反撃」(1969) シドニー・ポラック監督
「泳ぐひと」(1968) フランク・ペリー監督
「インディアン狩り」(1967)シドニー・ポラック監督
「プロフェッショナル」(1966) リチャード・ブルックス監督
「ビッグトレイル」(1965) ジョン・スタージェス監督
「大列車作戦」(1964) ジョン・フランケンハイマー監督
「5月の7日間」(1963) ジョン・フランケンハイマー監督
「山猫」(1963) ルキノ・ヴィスコンティ監督
「終身犯」(1962) ジョン・フランケンハイマー監督
「明日なき十代」(1961) ジョン・フランケンハイマー監督
「ニュールンベルグ裁判」(1961) スタンリー・クレイマー監督
「エルマー・ガントリー 魅せられた男」(1960) リチャード・ブルックス監督
「深く静かに潜航せよ」(1958)ロバート・ワイズ監督
「旅路」」(1958) デルバート・マン監督
「成功の甘き香り」(1957) アレクサンダー・マッケンドリック監督
「OK牧場の決斗」(1956)ジョン・スタージェス監督
「空中ぶらんこ」(1956)キャロル・リード監督
「地上より永遠に」(1953) フレッド・ジンネマン監督
「愛しのシバよ帰れ」(1952) ダニエル・マン監督
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10月から、テアトルタイムズスクウェアで、「ヴィスコンティ生誕100年祭」というのが開催されるそうです。山猫、ルートヴィヒ、イノセントの3作品が上映され、写真展も開催されるようです。1976年に亡くなられて... [続きを読む]
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ボナ・セ〜ラ! というわけで19世紀半ばのイタリア、シシリーの貴族の館で開かれるパーティに皆さんをお連れしたい。ワルツの調べに緩やかに舞う男女、マズルカの軽快なリズム、サリーナ公爵ドン・ファブリツィオ(バート・ランカスター)の目の前、大広間で繰り広げられる舞踏会は、彼にとって昔の面影、失われた時代の懐かしい最後の残影の如く展開したのではないかと思う。絢爛としてひときわ晴れやかな衣装、派手な色彩の軍服などなど。
山猫というより豹、いやむしろライオンというべき大貴族の姿に圧倒される。彼は時代が変わ... [続きを読む]
ぴかちゅうさん コメントありがとうございます。普段から長いレビューですが今回はさらに長大になってしまいました。それにもめげずに読んでいただいたことを感謝いたします。
TBに付いては申し訳ありません。時々相性が悪いブログがあるようです。
「山猫」はあまり深いことを考えずに、壮大な舞踏会を楽しむなり、雄大な歴史絵巻を堪能するといった姿勢で見ても充分楽しめる作品だと思うのです。しかしこの大作を楽しむにはそれだけではもったいない。そんな思いで長々と書いてしまいました。
重たいレビューばかりで恐縮ですが、今後ともよろしくお願いいたします。
投稿: ゴブリン | 2007年12月 5日 (水) 00:49
TB有難うございます。TB返しが不調なので名前のURL欄に該当記事のURLを入れさせていただきました。
ご覧になった他のルキノ・ヴィスコンティ作品とも比較されての長文の力作記事はとても参考になりました。
>「山猫」が際立っているのは、滅び行く貴族階級の運命を透徹した客観的・批判的視点、歴史の変転を的確にとらえる冷徹な眼で描いている点である。
このご指摘が端的にこの作品を言い表していると思います。
私はTVでチラ見した「ベニスに死す」と2夜連続放送で後半だけ観た「ルードウィッヒ/神々の黄昏」と今回きちんと映画館で観た「山猫」しか観ていませんが、「山猫」は気に入りました。これからもどうぞよろしくお願いしますm(_ _)m
投稿: ぴかちゅう | 2007年12月 4日 (火) 23:19