寄せ集め映画短評集 その17
このところ映画レビューが滞っています。映画は観ているのですが、なかなかレビューを書く気力が湧きませんでした。「ゴブリンの映画チラシ・コレクション⑤」で書いた「洲崎パラダイス」、「十三人の刺客」、「六ヶ所村ラプソディー」以降に観たのは、「ラストキング・オブ・スコットランド」、「みえない雲」、「リーグ・オブ・レジェンド」、「リストランテの夜」の4本。それと昨日「しゃべれどもしゃべれども」と「ボルベール<帰郷>」を借りてきました。「リストランテの夜」は今レビューを準備中です。「しゃべれどもしゃべれども」と「ボルベール<帰郷>」も期待通りの出来ならばレビューを書きたいと思っています。年内に何とか2本はレビューを書きたい。ただし正月に帰省している間は一切パソコンから離れ、のんびり読書にふけろうと思っています。
(「ゴブリンの映画チラシ・コレクション⑤」に載せた「洲崎パラダイス」短評を再録しておきます。)
「洲崎パラダイス」(1956年、川島雄三監督、日本)
評価:★★★★
「洲崎パラダイス」は期待通りのいい映画だった。原作を読んだときは義治のだらしなさにいらいらし、またそんなだらしない男との腐れ縁を断ち切れない蔦枝にもいらいら。散々つかず離れずを繰り返した挙句、最後に蔦枝は義治と二人で洲崎を出てゆく。何なんだこいつらは。淡々とした芝木好子のタッチにもあまり馴染めず、あまり面白くないという印象を持った。最初に読んだ芝木好子の小説は『隅田川暮色』。これも最初は彼女の乾いた文体に馴染むのに時間がかかっ たが、一旦馴染んでしまうと一気に読めた。しかし『洲崎パラダイス』は洲崎遊郭界隈を舞台にした短編を集めた短編集なので、それぞれの世界に入り込める前にあっさり読み終わってしまう。全体に印象の薄い本だったのである。
川島雄三監督の映画版はかなり原作に忠実な作品なので、映画でももちろん上記の点に関してはいらついた。しかし実際の人間が演じる映画になるとどういうわけか話に色艶が出てくる。なんと言っても蔦枝を演じた新珠三千代がいい。これまで特にいいと感じたことのなかった女優だが、「洲崎パラダイス」の彼女は実に魅力的だった。特に目がいい。大好きな淡島千景を思わせる雰囲気が気に入った。義治役は何と三橋達也。あまりに若すぎて最初はすぐには気づかなかった。 時々ある角度で顔が映ったときやちょっとしたせりふを言ったときの声で確かに彼だと分かる。
この映画の魅力はもう一つある。洲崎遊郭の入り口である橋の手前にある飲み屋。観ているうちにまるで「男はつらいよ」の「とらや」のような居心地の良さを感じてくるから不思議なものだ。そこの女将を演じる轟夕起子がいい。「三四郎」、「武蔵野夫人」など何本か出演作を観たが、脇役俳優なので彼女の記憶はない。これほど印象的な彼女を観たのは初めて。下町のおっかさんという庶民的な佇まいが素晴らしい。飯田蝶子や望月優子とはまた違う、もっとお母さんという雰囲気。全く昔の日本映画の脇役陣は本当に層が厚かった。他にも芦川いづみや小沢昭一も少ない出番でしっかり存在感を示している。さすが川島雄三、なかなかの秀作だった。
「ラストキング・オブ・スコットランド」(ケヴィン・マクドナルド監督、英米)
評価:★★★☆
「ホテル・ルワンダ」や「ナイロビの蜂」のような社会問題を扱ったものではなく、アミン大統領のお抱え医者になったイギリス人がいかにウガンダから脱出するかに焦点が当てられているサスペンス映画だった。その分エンターテインメント寄りの作品になっており、問題を充分深く掘り下げているとはいえない。どちらかと言えば「ブラッド・ダイヤモンド」や「輝く夜明けに向って」に近いタイプの映画である。
しかしただ軽い娯楽映画というわけでもない。最初は明るく気さくだった「解放者」アミンが悪名高い「虐殺者」アミンになる過程をイギリス人医者の目から描いているところにこの映画の価値がある。確かにフォレスト・ウィテカーの存在感は抜群である。笑福亭鶴瓶が黒塗りで出てきたような顔でとてもうまい俳優には見えないのだが、こういう気のいいおっさんのような役柄は合っている。後半の疑い深い表情に変わって行くあたりもなかなかの熱演だ。ただ、暗殺者に狙われているというだけでは彼の豹変の説明としては弱い。フォレスト・ウィテカーが熱演しているだけに彼の人物像をもっと掘り下げられなかったのが残念である。いや、問題はそれにとどまらない。虐殺にいたる原因をアミン個人の資質に矮小化していることも問題なのだ。もっと歴史的、政治的事情があったはずだ。その点も物足りない。
イギリス人医師役のジェームズ・マカヴォイは対照的に線が細く、それだけにフォレスト・ウィテカーに比べると見劣りする。しかしそれがまた彼の判断力の甘さに合っていると言えなくもない。彼が働くことになった病院の立派さ、街の大きさには驚いたが、医療の現場にいればもっと人々の苦しみやそれを充分救えない無力感に苦しんでいるはずだ。その辺もあっさり描かれている。後半はもっぱらいかに脱出するかという展開になってしまっている。国を出られない人々の苦悩は蚊帳の外に置かれてしまった。「ホテル・ルワンダ」は西洋の資本で作られており、主人公も英雄視されているが、それでも主人公をアフリカ人にしている点が重要である。同じ問題を描く場合でも、誰を主人公にし、どこに焦点を当て、どのような視点から描くかで出来上がった作品は大きく異なってしまう。「ラストキング・オブ・スコットランド」は最初から最後まで西洋人の視点で描かれた映画だった。
「みえない雲」(グレゴール・シュニッツラー監督、ドイツ)
評価:★★★★
思った以上に良くできている映画だった。このところドイツ映画は好調だ。80年代に一世を風靡したニュー・ジャーマン・シネマ以降90年代後半に一時停滞期もあったが、このところだいぶ世代交代が進んで新しい才能が出てきた。もっとも「アグネスと彼の兄弟」は観ていて気持ちが悪くなったが。これは「リストランテの夜」と同じ日に観たのだが、後半の3分の2は早送りにしてさっさと終わらせたのでここでは取り上げない。
「みえない雲」は「宇宙戦争」と比較するとその意義が見えてくるだろう。ともに人間の力をはるかに超えた「敵」から逃げ回る映画だ。破壊や災害をこれでもかとスペクタクルとして描くことよりも、追われる人間たちの恐怖に焦点を当てている。共に強大な「敵」を前にしては人間など卑小な存在だと思わせる。「宇宙戦争」は圧倒的な科学力を持つ宇宙人の地球襲撃という形で人間の思い上がりを叩きのめし、驕りを剥ぎ取った。しかし人間を追い詰める恐るべき力を持った敵は何も地球外から持ってくる必要はない、人間を脅かす脅威はすぐそこにあるということを示したのが「みえない雲」である。この映画の価値はそこにある。人間の最大の敵は自分でコントロールできない「鬼っ子」を安易に作り出し、ずさんな管理をしてきた人間の愚かさである。放射能を帯びた雲がトライポッドのように人間に襲いかかる恐怖。それが単なるフィクションでないからこそ怖いのだ。この映画は「六ヶ所村ラプソディー」とセットで観るべき映画なのである。
単なるホラー映画になってしまった「28日後・・・」や地球温暖化による大規模な気候変動で氷河期のようになってしまった世界を描いたパニック映画「デイ・アフター・トゥモロー」などよりはるかに真剣に身近な危機を描いている。この映画のユニークな点は、恐怖とパニックを描きながらも被曝による後遺症に充分時間を割いていることである。髪の毛がすべて抜けてしまったハンナの姿は、ある意味で、車にひき殺された彼女の弟ウリーの姿以上に訴える力を持つ。パニックは過ぎた。しかし被曝した人たちの戦いはその後から始まるのだ。
原作はチェルノブイリ原発事故直後の87年に発表されたベストセラー少説。当時は相当ショッキングだったと想像される。日本人の目からすると被曝がもたらす障害が軽すぎる気がする。またハンナとエルマーの恋愛も暗さを救ってはいるがやはりありきたりだという気がする。しかし絶望的状況に置かれた人間は支えなしには生きられない。美しすぎるストーリーではあるが無意味ではない。
ヒロインのハンナを演じたパウラ・カレンベルクがなかなかいい。この映画の欠点は迫り来る放射能の恐怖と、被曝の恐怖ばかりがクローズアップされており、なぜ事故が起きたのかはなんら追及されていないことだ。放射能は確かに恐怖だ。しかしそれを作り出し管理しているのは人間である。放射能汚染に対する一般市民の無知。汚染された食べ物を通じて内部被曝する恐怖。その点の追求が全くなされていない。その点は「六ヶ所村ラプソディー」と比べると不満が残る。
しかし、実は主演のパウラ・カレンベルク自身がその恐怖を体現していた。公式サイトに掲載されている和久本みさ子氏の評論に驚くべきことが書いてあった。パウラはチェルノブイリの事故と同じ年に生まれたのである。妊娠中の母親は被曝していたのだろう。パウラの心臓には穴があいていた。その時にレントゲンを撮ってさらに驚くべき事実が判明した。彼女には片肺がなかったのである。放射能被曝の恐怖は決してどこか遠い世界の出来事ではないのだ。
「リーグ・オブ・レジェンド」(スティーヴン・ノリントン監督、アメリカ)
評価:★★★☆
B級映画かと思っていたが意外に金をかけた大作だった。寄せ集めのキャラクターはめちゃくちゃだが、典型的なジェットコースター・ムービーで飽きさせない。しかしその集められた面子のめちゃくちゃなこと!いやあ、作っている人たちが実に楽しそうに遊んでいます。
世界大戦を引き起こそうとする仮面の武器商人ファントムの陰謀を防ぐために集められ た有名な小説の登場人物7人。ヘンリー・ライダー・ハガードの『ソロモン王の洞窟』などから伝説の冒険家アラン・クォーターメイン、ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』から女吸血鬼ミナ・ハーカー、ジュール・ヴェルヌの『海底二万哩』のネモ艦長、マーク・トウェインの『トム・ソーヤーの冒険』からアメリカの諜報員トム・ソーヤー、オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』からドリアン・グレイ、ロバート・スティーヴンソンの『ジキル博士とハイド氏』からジキル&ハイド、H.G.ウェルズの『透明人間』から透明人間ロドニー・スキナー。彼らを集めたのが英国軍事情報部のMというのが可笑しい。さらにファントムの正体がシャーロック・ホームズの宿敵モーティマー博士というおまけまで付いている。サービス満点だ。
原作の漫画にはドリアン・グレイとトム・ソーヤーは含まれていないらしい。それにしても、冒険家、吸血鬼、透明人間、ネモ艦長くらいまではなぜ選抜されたかまだ理解できる。トム・ソーヤーとジキル&ハイド、それに極めつけはドリアン・グレイが一体何の役に立つのか?それがこの映画を観る前に感じていた疑問だった。正直トム・ソーヤーは本当に必要だったのか疑問だ。別にトム・ソーヤーである必然性は感じられなかった。ジキル&ハイドは納得。ハイドはまるで超人ハルクのようになってしまうわけね。リーグの中に怪力キャラは確かに必要だったかも。ドリアン・グレイは不死身キャラだった。なるほど。原作では、ドリアンは不思議な想像画を書いてもらってから永遠の若さと美貌を手に入れた。代わりに肖像画の中の顔が老いてゆき、おぞましく変わって行く。映画のスタッフたちはそこに不死身キャラを見出したわけだ。ほとんどお遊びですな。このままでは醜い自分の肖像画がいつまでも残ってしまうと、ドリアンが肖像画の中の自分を刺すと、肖像画のドリアンは元の若い姿に変わり、ナイフが刺さって倒れていたのは醜い姿の老人だったという有名なラストは映画にも取り入れられている。
キャラ以外で秀逸なのは薄っぺらなノーチラス号の形。さながらフランス・アニメ「ベルヴィル・ランデブー」に出てくるありえないほど幅が狭く喫水線が極端に低い船のようだ。あれでどうして横に倒れない?まあ、難しいことは言いっこなし。楽しめばいいさ。
「リストランテの夜」(キャンベル・スコット、スタンリー・トゥッチ監督、米)
評価:★★★★☆
この映画については本格レビューを書くつもりなので、ここでは前書きだけにとどめたい。「リストランテの夜」は1997年4月に劇場公開されている。同年12月にビデオで観た。したがって今回DVDで観たのは丁度10年ぶりになる。悲しいかなほとんどストーリーは忘れていた。しかしその分新作を観るような新鮮な気持ちで観ることができた。ユーモアを絡めながら、最後には人生のほろ苦さを感じさせる。じっくりと寝かせたワインのような大人の味わい。改めていい映画だと思った。
レストランや食堂、あるいは食事や料理を作品の重要な要素にしている映画はかなりある。同じ97年に公開された「パリのレストラン」を始め、「マーサの幸せレシピ」、「バベットの晩餐会」、「かもめ食堂」、「めがね」、「ギャルソン」、「フライド・グリーン・トマト」、「アリスのレストラン」、「ディナー・ラッシュ」、「アントニアの食卓」、「エイプリルの七面鳥」、「タッチ・オブ・スパイス」、「スパイシー・ラブ・スープ」、「芙蓉鎮」、「恋人たちの食卓」、「孔雀 我が家の風景」変わったところではノルウェーとスウェーデン合作の「キッチン・ストーリー」もある。未見だが「レミーのおいしいレストラン」や「星降る夜のリストランテ」もある。
料理以上に重要なテーマはイタリア系移民というテーマである。今でこそイタリア系の俳優や監督は珍しくないが、かつては黒人俳優と同じく滅多に主役としてスクリーンには登場しなかった。有名なのはイタリア系とプエルト・リコ系の不良グループが対立する「ウエスト・サイド物語」くらいではないか。WASPが主流の社会なので、カトリック系のイタリア人やアイルランド人は同じ白人の中でも低く見られていたのである。ナチの脅威を逃れてきたドイツ系の俳優や監督が古くからアメリカで活躍していたのとは対照的だ。イタリア系の映画人が続々登場したのは70年代以降である。監督としては、例えば、フランシス・フォード・コッポラ、マーティン・スコセッシ、マイケル・チミノ、クェンティン・タランティーノ、俳優ではロバート・デ・ニーロ、アル・パチーノ、シルベスター・スタローン、ジョン・トラボルタ、レオナルド・ディカプリオ、ニコラス・ケイジ、レネ・ルッソ、ダニー・デヴィート、ジョン・タトゥーロあたり。
映画もイタリア系アメリカ人を主人公にした作品が次々に生まれた。マーティン・スコセッシ監督の「ミーン・ストリート」、「タクシー・ドライバー」、「レイジング・ブル」を初め、「ゴッドファーザー」、「死刑台のメロディ」(イタリア映画)、「ブロンクス物語」、「サタデー・ナイト・フィーバー」、「ジャングル・フィーバー」、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」、「月の輝く夜に」、「グッド・フェローズ」、そして「ロッキー」シリーズなど。テレビ番組だが「刑事コロンボ」シリーズのコロンボ(コロンブスのイタリア語表記)もイタリア系だ。
ストーリーはアメリカに成功を求めてやってきたイタリア人の兄弟がレストランを開くが、味音痴のアメリカ人には本格的イタリア料理は口に合わない。店の経営は苦しい。そこに近くの繁盛しているイタリアン・レストランの経営者が、有名人のジャズ歌手を紹介するから歓待しろと持ちかけるというもの。二人は店の命運をかけてパーティーの準備をする。表面的にはアメリカ人向きに料理を作りかえることを拒否する頑固な兄とそうは言っても客が来なくては商売にならないと考える弟の対立のように見える。しかし基本的な構図は、繁盛しているレストラン・オーナーの実業家的価値観とこだわりの味職人の価値観のぶつかり合い、その間に挟まって苦労する弟という図式なのである。したがって、そこには「ぼくの国、パパの国」や「スパングリッシュ」に通じる文化の衝突、あるいはアメリカの薄っぺらな文化批判というテーマが隠れている。その点を見落とすべきではない。
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ここに来て「ジェイムズ 聖地へ行く」、「フリーダム・ライターズ」、「レミーのおいしいレストラン」、「フランシスコの2人の息子」あたりが一気に1週間レンタルになった。トニー・ガトリフ監督の「トランシルヴァニア」はまだ出たばかりだが、これは新作でも借りたい。正月はゆっくりするとしても、年末から年始は映画鑑賞とレビューで忙しくなりそうだ。
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