リストランテの夜
1996年 アメリカ 1997年4月公開
評価:★★★★☆
原題:Big Night
監督:スタンリー・トゥッチ、キャンベル・スコット
製作:ジョナサン・フィレイ
製作総指揮:デヴィッド・カークパトリック、キース・サンプルズ
脚本:ジョセフ・トロピアーノ、スタンリー・トゥッチ
撮影:ケン・ケルシュ
音楽:ゲイリー・デミシェル
出演:スタンリー・トゥッチ、イアン・ホルム、トニー・シャルーブ
キャンベル・スコット、ミニー・ドライヴァー、イザベラ・ロッセリーニ
キャロライン・アーロン、マーク・アンソニー、アリソン・ジャネイ
ラリー・ブロック、アンドレ・ベルグレイダー、パスクアル・カジャーノ
この映画の主題は始まって早々に示される。時は50年代。ニュージャージーの小さな港町にあるイタリアン・レストラン。イタリア移民のプリモ(トニー・シャルーブ)と弟のセコンド(スタンリー・トゥッチ)が経営する小さな店だ。兄がシェフ、弟がギャルソンと経理を担当している。雇い人はクリスティアーノ(マーク・アンソニー)という若者1人。テーブルについている女性客がアレコレと注文をつけている。それまで自分がイメージしていたリゾットと違ったようだ。セコンドがイタリアではそれが本式だと説明しても納得せず、ついにはミートボール入りのスパゲティがほしいと言い出す。しぶしぶ注文を受けたセコンドは兄のプリモにスパゲティを作ってくれと頼む。しかしそれを聞いたプリモは激昂し、どっちも炭水化物だぞ、そんな注文をする奴はどうかしていると断固拒否する(厨房にちゃぶ台がなくてよかった)。
恐らくこんなやり取りが毎日のように繰り返されているのだろう。セコンドは兄の料理の腕は世界一だと思っている。しかし味音痴のアメリカ人にイタリア料理をそのまま出しても受けつけてもらえないことも分かっている。もっとアメリカ人の舌に合う料理にして欲しいと何度も兄に頼んできたはずだ。しかしプリモは超がつく頑固者。決して自分の考えを曲げない。「お前は料理を妥協しろと言う。イヤだ、そんなことをしたら俺の料理は終りだ。それならいっそ死んだ方がマシだ」と言って譲らない。アメリカに移住して二年たつが、客がつかず今や倒産寸前である。経理担当のセコンドはあちこち走り回って金を借りているがもはや限界。
こう見ると性格の違う二人の兄弟の確執がテーマのように見える。しかしこの映画のテーマはもっと深いところにある。切羽詰ったセコンドは自分の店のすぐ向かいにある「パスカルズ・イタリアン・グロット」という大繁盛している店の経営者パスカル(イアン・ホルム)に借金を頼みに行く。そこでの二人の会話がこの映画のテーマを端的に示している。
セコンド「イタリアでは苦労しても成功できないが、アメリカはそうじゃない。成功でき
る。」
パスカル「だからみんなアメリカへ来る。チャンスの国だ。でも、苗を植えて1年じゃイチ
ジクは収穫できん。・・・男が仕事を終えどこかへ飯を食いに行く。疲れ切って。そいつ
は面倒な食い物はゴメンなんだ。慣れた食い物がいい。そいつが食いたいのはス
テーキだ。ステーキが一番だ。肉さえ出してやれば男は喜ぶ。誤解しないでくれ。お
前の兄貴のプリモは抜群の料理人だ。」
セコンド「天才的だ。世界一だよ。」
パスカル「そうとも、だがそれじゃ成功せん。客の食いたいものを出せ。シャレた料理は
その後だ。」
ぶつかり合っているのは兄弟二人の性格だけではない。この店がイタリアにあったのなら生じ得なかった対立だ。アメリカとイタリア、この2つの文化の間の違いが問題の根源である。ファスト・フードを食べ慣れたアメリカ人に下ごしらえにたっぷり時間をかけて作ったイタリア料理を出す。当然はやらない。商売に徹して信念を曲げるか、あくまで信念を貫くのか。二人の間に立ち塞がっていたのは見えない文化の壁だった。「ベッカムに恋して」、「やさしくキスをして」、「ぼくの国、パパの国」、「スパングリッシュ」に通じる主題がそこにある。
セコンドがリゾットは手間がかかりその分値段も張るのでメニューからはずそうと兄に持ちかけると、兄はあっさりOKした。しかしその後でこう提案する。「代わりにホットドッグを出せばいい」と。プリモには「おかしいのはアメリカ人の舌のほうだ」という信念がある。もちろん、商売である以上うまければいいというだけでは成り立たない。ビジネスの問題が中心にあるようにも見える。実業家としてのレストラン・オーナーの価値観とこだわりの味職人の価値観のぶつかり合い、その間に挟まって苦労する弟という図式になっている。だが、その背後に異文化の衝突という問題、さらには薄っぺらなアメリカ文化への批判が込められていることを見落とすべきではない。
だが、言うまでもなく、この映画は根底にあるテーマだけをひたすら押し出した映画ではない。料理をテーマにした映画らしく、メインディッシュの他に兄弟愛や兄弟二人の恋物語というサイドディッシュを用意し、コメディと人情ドラマの味付けを施している。ストーリー展開上重要な位置を占めるのが「仕掛け人」としての役割を果たすパスカルである。彼はセコンドの借金の申し出を断るが、代わりに友人であるジャズ歌手のルイ・プリマが来週町に来るので、招待して名前を広めてもらえと助言するのだ。後がないセコンドはこの「ビッグ・ナイト」に一発勝負をかける。
もてなし作戦はうまく行くのか、店は持ち直すのか、これがストーリーを動かし、観客の関心をひきつけるドライブとなっている。もちろん計画はすんなり進むわけではない。途中で ルイ・プリマがパスカルの友人だとプリモにばれてしまう。プリモは友人アルベルト(パスクアル・カジャーノ)の床屋で荒れ狂う。その言葉がすさまじい。「毎晩あの店(パスカルの店)で何が行われていると思う?レイプ、レイプ、料理の陵辱だ。」とにかくこの男の頑固さは並大抵ではない。性格は単純明快で、全く冗談の通じない男だ(「外は雨」という歌詞をめぐるエピソードが可笑しい)。セコンドの言によれば、プリモは車の運転もできない。「兄貴が乗り物に乗ったのはアメリカへの船だけ。それでもう充分なんだよ。」そういう男だから女性には滅法弱い。花屋のアン(アリソン・ジャネイ)に思いを寄せているが(本人は隠しているつもりでも、傍からは見え見え)、自分からは何も言い出せない。パーティ用の花を注文するついでにアンをパーティに誘って来いと弟に言い聞かされるが、会話は弾まず、結局花だけを頼んで帰ってくるエピソードが愉快だ。そう、そういう純情朴訥な性格だから憎めないのだ。
一方のセコンドにもフィリス(ミニー・ドライヴァー)という恋人がいる。このセコンド、髪をオールバックにしている様はなかなかの美男子。ギャルソンの格好をしているとアンディ・ガルシア並みに隙がない。当然もてもてなのだが、フィリスと車の中で抱き合っている時に意外に固い面を見せる。フィリスがその気になると、そういうことは大事な時まで取っておこうなどと言い出すのだ。イタリア人にしては珍しい奴だと思っていると、何と彼にはもうひとり別の愛人がいたのである。パスカルの店のマネージャーをしているガブリエラ(イザベラ・ロッセリーニ)という超ゴージャスな女性。そこはやはりイタリア人、ちょい悪親父の素質充分。この危険な火遊びがパーティの場でちょっとしたサスペンスを作る下地になっている。
こうして、個人の煩悩も絡めてクライマックスのパーティへとストーリーは展開してゆくのである。セコンドがありったけの金をかき集めて準備した「勝負」パーティ。なにしろ銀行で金をおろした後の残高は62ドル47セントしかないのだから文字通り背水の陣である。失敗すれば明日から文無しだ。一時へそを曲げたプリモもさすがに現場復帰(さりげなく戻ってきて、弟と交代する場面がいい)。腕によりをかけて自慢の料理を作る。時間がかかるティンパーノという包み焼きを作るというのでまた弟が反対するという一幕を経て、いよいよパーティーに突入(結局ティンパーノは作ることになった)。
フィリス、アン、アルベルト、ボブ(キャンベル・スコット)、そしてパスカルとガブリエラなどの友人たちが集まりいつにない大盛況。口パク芸を披露するおじさん(日本でいえばドジョウすくいのような宴会芸だろう)が登場したりと、宴会はガンガン盛り上がる。そしていよいよ料理登場。皆一斉にテーブルに着く。ここのキャメラワークがうまい。縦長のテーブルを手前から映し、キャメラが引いてゆくに連れて奥から客が次々に座ってゆく。後はもう料理の嵐。客たちはほとんど陶酔の境地。ティンパーノを食べたパスカルに至っては、プリモの首を絞めて「殺したいほどうまい」と言ったほどだ。ガブリエラとフィリスが始めて遭遇するなどハラハラする場面も差し挟みながらパーティーは進む。デザートが出てくる頃には客は全員満足して言葉もない。ぐったりとイスに倒れこんでいる(ある女性客などは大胆にもテーブルの上に横になっている)。しかし肝心な主賓がいつまでたっても現れない。
きっとぎりぎり最後になって劇的な登場の仕方をするのだろうという観客の期待を裏切り、結局最後までルイ・プリマは現われなかった。実はパスカルは彼に電話をしていなかったのだ。来るはずはない。彼のもくろみはセコンドたちを破産させ、自分の店で雇おうという腹黒いものだった。彼は「わしは実業家だ。商売のためなら何でもする。お前に何ができる?」と言い捨てて平然と立ち去る。その上、あろうことか、セコンドはガブリエラと抱き合っているところをフィリスに見られてしまう。さらにはプリモがローマに店を出したおじさんのところで働くことを計画していたことが分かり、セコンドとプリモは浜辺で大喧嘩。すべては音を立てて崩れていった。
何とも苦い結末である。その意味でこの映画は単なる人情ドラマやハートウォーミング・コメディではない。しかし決してペシミスティックな映画ではない。この映画はセコンドたちが浜辺で立ち尽くすシーンで終わるのではない。ラストにはほのかな明るさがある。翌朝、厨房のテーブルの上でクリスティアーノが寝ている。セコンドが入ってきて、3人分いり卵を作る。せりふもなく黙々と食べる二人。そこへプリモが入ってくる。黙ってプリモの分を差し出すセコンド。兄弟並んで食べる。互いに腕を相手の背中に回しながら。
その後二人はどうなったのか、いやでもそのことに考えをめぐらさずにはいられない映画だ。「うまいものを食うのは神に近づくこと」と言っていたプリモはローマに行ったのか。それともセコンドに引きずられてもう一度アメリカで再起を期す決意をしたのか。あるいはパスカルの店で働いているのか。
この映画に根っからの悪人は登場しない。文化間の衝突を描いた映画はほとんどそういう設定になっている。「ベッカムに恋して」しかり、「やさしくキスをして」しかり、「ぼくの国、パパの国」しかり、「スパングリッシュ」しかり。誰も悪意はないのにぶつかり合ってしまう。パスカルも心からプリモの料理を褒めていた。彼の腕を認めているからこそ、彼を自分の店で雇いたいのだ。彼は彼なりに実業家としての自分の信念に従ったのだ。プリモを頭の固い奴だと責めても仕方がない。彼にも揺るがない信念がある。もっと柔軟な対応が必要だとわれわれは感じるが、だからと言って彼の信念それ自体を簡単に否定できるだろうか。信念を捨てることは自分の文化を捨てることだ。朝日新聞12月7日付の「私の視点」欄に“日本人の劣化:「型通り」もできぬ大人たち”と題する岸本葉子さんの文章が載っていた。
(コンビニやファストフードで働く若者たちに対して)マニュアル通りとか、心がこもっていないとか、言う人もあるけれど、その批判は、マニュアル通りした上でのこと。・・・07年、約束を守る、ごまかさないといった「型通り」のこともできなかった大人たち。08年、まずは、あの子たちを見習ってみませんか。
セコンドとプリモが迫られていたのは人生の選択である。二人とも、いやパスカルも含めて、夢を求めてアメリカにやってきた。映画は最後に「この二人はその後どうなったのか」という疑問を観客に突きつけて終わる。そこには、アメリカは自分の文化を捨ててまでしがみつく価値があるのかという問いかけもあるのだ。人間は誰でも悩みつつ、時には挫折しつつ、自らの道を選び取ってゆかねばならない。文無しになったからといって人生は終わらない。二人はまた何らかの道に進みだすだろう。「リストランテの夜」は人生のアイロニーをにじませたほろ苦い人生の讃歌なのである。
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JUGEMテーマ:映画 制作年:1996年
制作国:アメリカ
上映メディア:劇場公開
上映時間:109分
原題:BIG NIGHT
配給:パラマウント
監督:スタンリー・トゥッチ
主演:スタンリー・トゥッチ
イザベラ・ロッセリーニ
トニー・シャルーブ
イアン・ホルム
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