2006年 英・仏・伊 2007年4月公開
評価:★★★★☆
監督:スティーヴン・フリアーズ
脚本:ピーター・モーガン
撮影:アフォンソ・ビアト
編集:ルチア・ズケッティ
音楽:アレクサンドル・デプラ
出演:ヘレン・ミレン、マイケル・シーン、ジェイムズ・クロムウェル
シルヴィア・シムズ、アレックス・ジェニングス、ヘレン・マックロリー
ロジャー・アラム、ティム・マクマラン
はじめに
1997年8月31日、ダイアナ元妃が亡くなったとき僕はイギリスのブライトンにいた。たまたま日曜だったので、同僚に誘われて二人でロンドンのケンジントン公園まで行ってみた。門のところに大勢の人が詰め掛け、花束が壁に捧げられていた。9月6日(土)の彼女の葬儀の日はテレビでダイアナの葬儀を見ていた。その後ブライトンの街に出てみると、ロイヤル・パビリオンの前にもぎっしりと花束が並べられており(どの花束にもメッセージ・カードが付いていた)、オールド・スタインの公園ではあちこちでキャンドル・サービスをしていた。
僕は彼女の死に関しては終始冷静さを保っていた。マスコミの大騒ぎからは終始距離を置いていた。だからこの映画を楽しみにしていたのはそのテーマのためではない。ヘレン・ミレンを観たかったからである。
王室の内幕、女王の個人生活
「クィーン」にはいくつも見所がある。あの事故があった当時の王室の内側は実際のところどんな状態だったのか、そもそも女王の個人生活はどんなものなのか、首相と女王の関係はどうなっているのか、そして何と言ってもあの時女王は何を考えどう対応していたのか。この映画はまさにそれらの点を明らかにしたのである。
事故の第一報が届いた時の王室関係者たちはやはりショックを受けている。ナイトガウンのままでテレビを見つめ、ダイアナの安否を気づかう様は普通の家族と何ら変わらない。当時エリザベス女王(ヘレン・ミレン)たちはスコットランドのバルモラル城にいた。中でも衝撃のあまり青ざめるチャールズ皇太子(アレックス・ジェニングス)の反応は好意的に描かれていて驚く。彼はさっそく王室専用ジェット機の使用を申し出るが、女王は既に民間人になっているダイアナにチャーター機など使えばまた無駄使いだと国民に非難されると止める(散々叩かれてきたのでマスコミに関してはかなり敏感になっている)。しかしチャールズは、ダイアナは未来の王になるウイリアムとヘンリーの母親でもあるとなおも説得する。結局、皇太后(シルヴィア・シムズ)の専用機でチャールズはフランスに飛び、ダイアナの遺体を引き取ってきた。
しかし他のメンバーは批判的に描かれている。休暇を早めに切り上げて戻ることになったマーガレット王女は「ダイアナは生きていても死んでもやっかいだ」と電話で言ったと伝えられる。こんな時は外の空気を吸うのがいいという口実でエリザベスの夫エディンバラ公(ジェイムズ・クロムウェル)は二人の王子を鹿狩りに連れ出す。この男は終始鹿狩りにしか関心を示さない男として描かれている。ダイアナの葬儀について女王が悩んでいる時も紅茶が冷めることばかり気にしていた。何かにつけて悪態ばかりついている姿が目に付く。皇太后は「あなたは誓ったのよ。全人生を神と国民に捧げることを誓ったのよ。」と伝統にのっとった対応に固執している。
エリザベスの対応も基本は皇太后と同じである。ダイアナと不仲であったとか、奔放なダイアナはいつも王室の頭痛のタネであったと言われてきたが、「クィーン」は王室の伝統と国民の望みの間のズレが問題の本質であったと描き出す。ダイアナ元妃はすでに民間人となっているのだから、王室は何もコメントする必要はないとの姿勢を女王は貫いていたのだと。半旗も掲げなかった。ダイアナの葬儀にしても、王室関係者ではない以上国葬にする理由はない、ダイアナの実家スペンサー家が取り仕切るべきだと女王は主張する。
しかしその態度に対する国民の批判は日にヽ高まってゆく。辛らつな新聞の見出しが毎日女王の目に触れる。彼女の苦悩は深まる。彼女にとって不幸だったのは王室の中に頼れる人が誰もいなかったことだ。夫は鹿狩りしか頭にない。皇太后は王室の伝統を説くばかり。しかし今や「彼女の国民」は伝統からの逸脱を望んでいるのだ。息子のチャールズはマスコミを気にしてか、ブレア首相に擦り寄っている。チャールズとエリザベスのドライブ中の会話が面白い。チャールズ「(ダイアナは)子供たちを愛していて、いつも温かく人目を気にせず態度で示した。」女王「特にカメラの前ではね。」チャールズ「その傾向はあったけど、彼女はどこか特別だった。彼女の見せる弱さや過ちがかえって大衆を惹きつけた。反対にわれわれは憎まれている。」女王「われわれが?」チャールズ「違いますか?」女王は途中で車を降りてしまう。
面白かったのは「テイ・ブリッジ」。侍従長(ロジャー・アラム)がダイアナの葬儀は「テイ・ブリッジ」でやることになった(ただし中身は変える)と伝えると、女王と皇太后が仰天する。「それは私の葬儀の暗号よ」と皇太后。しかしそれが唯一リハーサルをしたものだから、それで行くしかないと侍従長が答える。そうか、王室の葬儀ってリハーサルをするものなんだ。
女王の私生活面でも面白い発見がたくさんあった。女王たちは立派な家具調度の揃った家に住んではいるが、意外に質素に暮らしている。ついでに言えば、ブレア首相の家もごく普通の家に見えた(まあ、労働党の党首だから贅沢すぎる家に住むわけにも行かないだろうが)。女王が愛用しているRV車(確かレンジローバー?)はかなり長い間使い込んだもので、そろそろ新しい車に替えたらとチャールズが忠告する場面もあった。普段着ている服は普通の服に見えた。考えてみれば、誰でも家ではくつろいだ格好をするものだ。常に盛装していると考える方がおかしい。それでも驚くのは、そんな普段の姿を見たことがないからだ。どうでもいいことだが、滅多に見られないことなので見所の一つであるには違いない。
側近達は女王を「マアム」と呼んでいる。もちろん公式の場では「陛下(Her Majesty)」と呼んでいるが、平素は下働きの男たちまでも「マアム」と呼んでいた。一番驚いたのは女王が車を運転できること。女王が自分で車を運転してドライブに出るなど誰が想像しただろうか?川を渡ろうとして動けなくなったとき、彼女は電話で「前輪のシャフトを折った」などと詳しく状況を伝えている。本人が言っているが、何と戦争中車の整備をしていたというのだ。これにも驚いた。
首相との関係
最初の頃に出てくる、ブレア新首相(マイケル・シーン)が女王と謁見する場面。これがなかなか面白い。事前に作法を指南されるが、女王の前に出ると首相といえども庶民の地が出てしまう。何度も女王に正しい作法を教えられるブレア首相が滑稽に描かれている。女王はのっけから、これまで10人(だったと思う)の首相と付き合ってきた、最初の首相はチャーチルだったと語って聞かせて、新米のあんたとは格が違うと思い知らせる。中盤あたりでも、国民の要求を受け入れるべきだと助言するブレア首相に、助言するのは女王の仕事だとやり返している。なかなかにしたたかだ。女王に頭が上がらないブレアは、新聞のタイトル(女王批判)を何とかしてほしいと侍従長に頼まれたとき、努力すると答えるが、その時にこう付け加えている。「何も約束は出来ないよ。私は脇役だから。」
女王が苦しい立場に追い込まれていたとき、親身になって彼女をかばい助けたのは王室関係者ではなくこのブレア首相だった。女王が自分の真意を語ったのはブレアに対してだった。国民が望むように(ダイアナを「国民のプリンセスだった」と語った彼のコメントは国民に大歓迎された)半旗を掲げるかロンドンにお戻りになるべきだと進言するブレアに、女王はこう答えている。「人々がそれぞれ静かに悲しみに浸るべき時に、マスコミが掻き立てたムードです。英国人の哀悼の表現は控えめで品位があるのです。世界が尊敬する国民性です。」
映画の終盤でも彼にこう語っている。「今の世の中は大げさな涙とパフォーマンスの時代。私はそれが苦手なの。感情は自分の中で抑える。私は愚かにも信じてたの。“人々はそういう女王を求めているのだ”と。“務めが第一、自分は二の次。”そう育てられ、そう信じてきた。」
最初は女王や王室に対して斜に構えていたブレア首相も、女王の真意や人柄を知って
からは女王をかばう立場に変わって行く。王室が孤立するのを避けようと必死で奔走し始める。王室廃止論者の妻シェリー(ヘレン・マックリー)や鼻から王室を小ばかにしているブレーンのランポート(ティム・マクマラン)を怒鳴りつけるところはこの映画のクライマックスの一つだ。「あの女性は全生涯を国民のために捧げたんだぞ。自分が望みもせず父親の命を奪った仕事を50年!一度たりとも威厳を失わず立派にやり遂げた彼女を袋叩きにするのか?後ろ足で泥をかけた女性を弔う努力をしてるんだぞ。女王が尊いとする価値観をすべて崩した女性をね!」
女王の人間的ドラマ
しかし真のクライマックスはその後の場面である。女王はこれ以上国民との間の乖離を広げまいと、ブレア首相の意見を受け入れる。車でバッキンガム宮殿に向った彼女は門の前で車を降り、柵の周りにぎっしりと敷き詰められている花束を見て回る。花束に添えられている言葉にはダイアナへの想いと同時に女王や王室へのむき出しの非難が書かれている。息を飲み、顔をゆがめてそれらの言葉を見つめるエリザベスとエディンバラ公。胸を引きちぎられる思いだったに違いない。しかし、詰め掛けた国民の方を振り向いた時、彼女は笑顔を見せる。この場面こそ「クィーン」の最大のクライマックスであり、最も感動的な場面である。
国民に微笑みかけただけではなく、エリザベスはつかつかと前に進んで群集の前まで行き、少女に「花を捧げてあげましょうか」と声をかける。何と少女は“NO”と答えた。一瞬緊張が走る。少女はしかしこう続けた。「あなたに上げます。」いかにも泣かせの手法なのだが、女王が顔色を変えずにその言葉を受け止めるという演出にしたのは立派だ。花束から言葉の攻撃をまともに受けながらも、国民注視の中で泣くことも動揺を見せることもできず、必死で耐えながら笑顔を見せ、女王として振舞う。花束を見て回る場面は彼女が追い込まれた状況を象徴的に集約している。矛盾と緊張が極限に達したそのシーンこそこのドラマの頂点であった。
エリザベスの内的葛藤を描くドラマ、これこそこの映画の最大の見所である。そしてそのドラマを支えたのはエリザベス2世を演じたヘレン・ミレンである。映画の冒頭でエリザベスは画家に肖像画を描かせている。そのとき彼女がもらした言葉が実に印象的だ。「投票ってしてみたいわ。実際に投票所に行くことより、ただ一度でいいから自分の意思を示したいの。」女王であるのに、いや女王であるがゆえに参政権がない。国王は絶大な権力を持っているように見えて、実は法と慣習によってがんじがらめにされ、行動を制限されている。「クィーン」はダイアナの死をきっかけに噴出した王室批判を受け、自らの「意思」で王室の伝統を曲げるという重大な決意をした1人の女性の葛藤を描いたドラマなのである。
とにかくヘレン・ミレンの存在が圧倒的である。薄い唇をきりっと結んだ彼女の顔。威圧感はないが威厳のある顔だ。最初に彼女の顔が映った時、エリザベス女王そっくりなのに
まず驚く。しかし映画はそっくりショーではない。ヘレン・ミレンが素晴らしいのは、エリザベスの女王としての苦悩と葛藤を見事に表現しえていることにある。一方で「わが子」である国民から非難され、一方では伝統に縛り付けられている。頼る人とていない。国民の批判を一身に受けて苦悩するエリザベス。つらいのは1人の女性として振舞うことができないことだ。女王として振舞わねばならない。国王として育てられて者ゆえの苦悩。“務めが第一、自分は二の次。”しかもそれが国民に通じない苦悩。感情は自分の中で抑えるのが国王としての務め、イギリス人の美徳と信じていたのに、「大げさな涙とパフォーマンスの時代」には冷たい対応と受け取られてしまう。人生を捧げてきた国民に理解されない傷心の日々が続く。事態を収めるには自分を曲げなければならない。1953年に即位して以来恐らく最大の危機だったに違いない。
その苦悩を象徴的に示しているのが鹿を見る場面である。上記の車が動けなくなった場面の次に描かれる場面だ。後ろ姿で1人丘を見上げる女王は嗚咽する。人前では泣けないのだ。それまで抑えていた悲しみが思わずもれ出てしまった。その時対岸の丘の上に一頭の鹿がたたずんでいるのが目に入る。鹿はじっと彼女を見つめていた。「何と気高い。」遠くから銃声が聞こえてくる。女王は「逃げなさい」と鹿に声をかけ、腕を振って、必死で鹿を逃がそうとする。幸いにも、ハンターたちが近づく前に鹿はいなくなっていた。花束を見て回る場面ほどではないが、女王がふと押し隠していた感情をあらわにするこの場面は実に印象的だ。
その場を逃げおおせた鹿は別のところで撃たれてしまった。その知らせを聞いた女王は鹿の死体を見に行く。首を切り落とされ天井から吊された鹿の死体を見て、エリザベスは沈痛な表情を浮かべる。ダイアナが死んだと聞いた時も涙を見せなかった彼女が、鹿の死をダイアナの死以上に悲しむ。シンボリックな表現なので、様々な解釈が可能だが、鹿の孤高な姿に自分の立場と境遇を読み取ったのだろう。吊るされた鹿の死体を見た時、彼女は国民の前に出る決心をしたに違いない。たとえ批判的な国民の目にさらされようと、最後まで女王としての威厳と美しさを保ちたい。その前向きの選択には孤立ではなく「孤高」を感じる。このシンボリックなシーンが与える感動の根源はそこにあるのかも知れない。
政治的ドラマとしての「クィーン」
国民をあげてのバッシングの中で真剣に苦悩しつつ、最後まで威厳を失わなかった女王の姿が印象的に描かれている。しかし、妥協はしたが自分の信念は変わっていない。葬儀の後で彼女はブレア首相に「納得はしていない」と話している。また、「どうして一度も会った事のない人間に涙することが出来るの」という彼女の言葉からは、マスコミによるダイアナの偶像化に対する批判も込められている。
当時ダイアナとエリザベス女王との確執など様々な憶測が流れたが、要するにこの映画はダイアナとの不仲は問題の中心ではなく、女王は伝統と彼女の信念に基づいて行動しただけだと描いているのである。女王は冷たい人間だったのではなく、自らの信念に基づき自分の苦悩と葛藤を表に出さなかったのだと。
マスコミの異常な取り上げ方こそ批判されるべきだというのは納得できる。一般人の死にいちいち王室がコメントを出す必要はない、一般人を国葬にするわけにはいかないという王室の公式の立場にも矛盾はない。それでも、映画の基本的視点に偏りがあることは明白である。チャールズは善人過ぎるし、エリザベスの苦悩と葛藤も美談として描かれていることは否めない。女王を助けるブレアが肯定的に描かれていて、夫人のシェリーは急進的で冷酷な人間として描かれている。そこにこの映画の政治性が明確に表れている。王室擁護の映画だという批判も成り立ち得る。
しかし、それを認めつつも、この映画を単なる王室擁護のキャンペーン映画だと決め付けるつもりはない。「クィーン」のドラマとしての完成度はそんなイデオロギー映画のレベルをはるかに越えている。君主制に対して僕は批判的な立場だが、女王個人の人間的資質について云々するつもりは一切ない。制度と個人は全く別だからである。君主制に批判的な立場であってもドラマを楽しめる根拠はおそらくそこにある。君主には君主の悩みがある。そもそも君主といえども人間である。常に女王として振舞わなければならない重圧。女王としての苦悩と葛藤はそのままエリザベスの人間としての苦悩と葛藤だった。「クィーン」は「冬のライオン」などに通じる優れた歴史劇であると同時に、優れた人間ドラマでもある。現存する人々が多数描かれるドラマという微妙な作品であり、政治的なバイアスがかかっていることは明らかだが(だから満点にはしなかった)、それを認めた上でなお「クィーン」はドラマとして優れていると思う。
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