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2007年10月19日 (金)

「ぼくの国、パパの国」②

1999年 イギリス 2001年1月公開

評価:★★★★☆

監督:ダミアン・オドネル

原題:East is East

原作・脚色:アューブ・カーン=ディン

撮影:チャオ・フェイ
出演:オーム・プリー、リンダ・バセット、ジョーダン・ルートリッジ、ジミ・ミストリー
   イアン・アスピナル、アーチー・パンジャビ、ラージ・ジェイムズ、クリス・ビソン
   レズリー・ニコル、ゲイリー・デイマー、エミル・マーワ、エマ・ライドル


東は東、西は西 

Ukflag2_hh_w 「ぼくの国、パパの国」のテーマは明瞭である。それはまずタイトルに表れている。原題の”East is East” は、『ジャングル・ブック』や『少年キム』で知られるラドヤード・キップリングの詩The Ballad of East and West(「東と西の歌」)からとられている。“OH, East is East, and West is West, and never the twain shall meet”( ああ、東は東、西は西、両者の出会うことあらず)という有名な冒頭の1行である。東と西とは、ここではパキスタンとイギリス、さらにはパキスタンの伝統的生活や習慣を保持したい親の世代とイギリスの文化の中で育った子供たちの世代という相いれない二つの文化と考え方を指していると思われる。これこそまさに「ぼくの国、パパの国」のテーマである。親子あるいは夫婦間の対立は深刻だ。彼らは本気で怒鳴り合い、つかみ合い、殴り合っている。最後の最後まで対立は埋まらない。

 

 安易な解決は見いだせないが、かと言ってとことん深刻で重苦しいだけのドラマというわけでもない。親子と夫婦の切れそうで切れない絆という問題が織り込まれているので、ファミリー・ドラマという側面もある。映画は基本的に子供たちの視点に立っているが、同時に妻や子供たちに理解されない父親の深い悲しみに思いをはせなければ、この映画を十分理解したことにはならない。彼を単なる頑固おやじ、父権的な暴君と受け止めるべきではない。この映画にはアン・リー監督の「父親3部作」(「推手」「恋人たちの食卓」「ウェディング・バンケット」)にも通じるテーマが隠れているのである。「ぼくの国、パパの国」の父親ジョージは確かにアン・リー監督の父親3部作の父親たちよりも頑固で因習的だが、それはイスラム教という宗教的信念とパキスタン人コミュニティという強固な枠組みにとらわれているからであり、移民として差別を受けてきた経験がイギリスの文化への警戒心を生み出してしまうからである。この映画を「スパングリッシュ」と比較することは意味がある。どちらも祖国を離れ外国に暮らしながらも、子供たちに自分の国の文化を忘れさせまいとする親の苦闘と苦悩が描かれている。何びとも自分が育った文化からは容易に抜け出すことはできない。そもそも自分の祖国の文化や考え方に誇りを持つことを誰が笑えようか。むしろ自分の国の文化よりも西洋文化をあがめたて、少しでも早く外国に馴化しようとする日本人の方こそ植民地意識丸出しである。西欧崇拝と植民地意識はコインの裏表である。

 

 植民地問題は逆にイギリスの帝国主義意識も照らし出す。タイトルにキップリングの言葉を持ってきたのはここでも暗示的だ。キップリングの作品は、コンラッドの『闇の奥』や『ノストロモ』、E.M.フォースターの『インドへの道』、サマセット・モームの『カジュアリーナ・トリー』、ジョージ・オーウェルの『ビルマの日々』や『象を撃つ』などと並んで、帝国主義と文学を論じる時に必ず取り上げられる作品である。「麦の穂をゆらす風」はイギリスの帝国主義的支配とアイルランド人の独立闘争を描いたが、「ぼくの国、パパの国」は内なる帝国主義を描いている。移民排斥運動をぶち上げるパウエル議員の演説がテレビで映し出される。主人公たちのアパートの隣の部屋には移民に対する偏見むき出しの白人が住んでいる。移民への差別を描いた部分はだいぶカットされたようだが、われわれはそういう背景を行間に(コマ間に?)読み込んでこの映画を観なければならない。

 

 監督のダミアン・オドネルがアイルランド人だということも偶然とは思えない。アイルランドもパキスタンもかつてイギリスの植民地だったのである。アイルランド人とパキスタン人、そうこれはまさしく「やさしくキスをして」の主人公二人の組み合わせなのだ。イギリスという、かつて帝国主義国家であり今でも階級社会的性質を残している国の映画や小説を理解するときには、帝国主義や階級意識を常に意識していなければならない。帝国主義と人種差別は常に一体である。作品のコアに社会に対する深く、鋭い洞察があったからこそ、現実の矛盾が生み出す人間の深い苦悩と葛藤を具体的に描いたからこそ、この映画は優れたドラマになったのである。

 

 もう一つ重要なのはコメディ映画の側面である。随所にコミカルな場面が差しはさまれており、それが(最後まで解決が見出せないにもかかわらず)この作品に明るいタッチをもたらしている。「やさしくキスをして」とは違って、この作品には明るいトーンがある。親子の対立を描きながらも明るいトーンを持ちえたのは、最後まで家族の絆に信頼を置いて描いているからである。


「父親が決めた縁談に従うのが息子だ」

 「ぼくの国、パパの国」は宗教的パレードから始まる。舞台となるマンチェスターのサルCtwo フォード地区は労働者が多く住んでいる地域。上に述べた、赤茶けたレンガ造りのテラスト・ハウスが建ち並んでいる。しかし良く見るとこのパレードはイスラム教のものではない。マリア像などを担いでいるのでどうやらカトリックのパレードらしい。そのパレードにカーン家の子供たちも参加している。そこへ母親のエラ(リンダ・バセット)が夫のジョージ(オーム・プリー)が戻ってきたと伝えるや、子供たちはあわてて列から抜け出す。父に見つからないように裏道を回り込み、母親が夫の気をそらしている間に後ろをそっと通り抜けてまた列に戻る。父親のジョージは楽しそうに異教徒のパレードを見ているが、よもや自分の子供たちがその中に加わっていようとは思っていない。

 

 続いて長男ナジル(イアン・アスピナル)の結婚式の場面が描かれる。ナジルは式の衣装に着替える前に身を清めるのだが、なんとこれから身を沈めるバスタブに小便をしている。汚いという感覚が先立つが、むしろこれから行われる「神聖な儀式」を汚そうという意図だったのかもしれない。父親が伝統の衣装を息子に着せているが、息子は浮かない表情をしている。いよいよ花嫁との対面。どうやら双方ともそれが初対面のようだ。二人並んだあと共に隠していた顔をあらわにする。花嫁はまんざらでもなさそうだ。しかし花婿のナジルの表情はみるみる歪んでゆき、あろうことか「僕にはできない」と式場から逃げ出してしまう。呆然とたたずむ両親と先方の家族。次の場面で壁に掛けられた家族の写真が写り、そこから長男の写真が消える。

 

 これら冒頭の二つのエピソードがこの映画の基調となるテーマを明確に示している。父親のジョージは敬虔なイスラム教徒であり、息子たちにもその伝統を受け継いでほしいと思っている。しかし彼らが住んでいるのはパキスタン移民が多いブラッドフォードではなく、白人の労働者街である。子供たちはイスラム文化ではなく白人の文化の中で育ち、それに溶け込もうとしている。母親とその妹のヘレンはクリスチャンで、子供たちをパレードに誘ったのはヘレンおばさんかもしれない(彼女もパレードに参加している)。子供たちは父親を心から嫌っているわけではないが、イギリスにいてもパキスタン人としての生き方を押しつけてくる彼には辟易している。モスクへも行きたがらず、ウルドゥ語もさっぱり話せない。両親が留守のすきにたばこを吸い、ソーセージとベーコンをこっそり食べている。

 

 何といっても双方の考え方が大きく食い違うのは結婚である。父親は自分が見つけてきた「いい縁談」に子供たちは当然従うべきだと考えている。しかし、イギリス的考え方になじんでいる子供たちは、結婚の相手は自分で見つけたいと望んでいる。一生にかかわる重大事である。悩んだ末、長男のナジルは家族を捨てた。父親も長男は死んだものとみなしている。三男のタリク(ジミ・ミストリー)は「パキ(パキスタン人に対する蔑称)の女なんかと結婚するもんか」と宣言し、隣の移民嫌い男の娘ステラ(エマ・ライドル)と付き合っている。「私たちロミオとジュリエットね」というステラの言葉が端的に彼らの立場を表現している。もちろん父親も悩んでいる。「一族の顔に泥を塗った」と腹を立てながらも、ブラッドフォードに住んでいればこんなことにはならなかったと悔やんでいる。

 

 父親は子供たちの反対を押し切って強引に伝統文化を守らせようとする。末っ子のサジ(ジョーダン・ルートリッジ)がまだ割礼を済ませていないと知ると、「恥をかいた」、「皮を切らないと地獄行きだ。清めねば」と、泣き叫ぶサジを病院に連れてゆき、無理やり手術を受けさせる。手術は成功したが、父は手術をした医師がインド人だと不機嫌だ。長年イギリスに住みながら、パキスタン人としての生き方や考え方をかたくなに守ろうとしている。しかし父親が子供たちに愛情を持っていないと解釈しては理解が浅くなってしまう。「一族の顔に泥を塗った」、あるいは「恥をかいた」という言葉が象徴的だ。彼の意識はパキスタン人コミュニティに向けられている。日本でいう世間体に近いが、それと全く同じではない。全く違う文化と伝統を持った外国で暮らすには、コミュニティの助けが必要なのである。そこから締め出されれば完全に孤立してしまう。彼はそれを心配しているのだろう。移民一世である彼はそれまでさんざん苦労してきたに違いない。苦労して学びとった生き方、それを信じて生きてゆくしかない。もちろん自分が育った文化を子供たちに伝えたいという気持ちもあるだろう。

 

 長男の結婚式に腕時計を贈る彼の顔は誇らしげだ。息子もそれを喜ぶと信じて疑わない。決してただ頑固なだけの、愛情のかけらもない父親ではない。彼にとって悲劇だったのは、彼にはそれ以外の生き方や考え方ができなかったことであり、子供たちの考えが理解できなかったことである。一方子供たちの気持ちは複雑である。それを端的に表しているのは、自分たちは混血ではなく「ダブルなんだ」という言葉である。二つの文化の間に挟まれ思い悩む子供たち。家族の絆は断ちがたいが、親の考えを押し付けられるのは嫌だ。父親にすれば、差別されながら異国で生きるにはコミュニティの支えが必要だということになるが、子供たちはむしろイギリス文化に溶け込もうと必死だ(彼ら自身も差別を受けているのだが)。テレビで移民排斥派のパウエル議員が「移民の本国への送還と再定住の支援政策」をぶち上げているのを観て、息子の1人は「パパを送還してくれ」と茶化している。


母はかすがい

 差別は深刻な問題だ。前述のように1971年当時は移民が爆発的に増えていた時代である。急激な変化にイギリス人も戸惑いと不快感を隠さない。カーン一家がブラッドフォードPhoto へ行った時、道路標識に書かれた「ブラッドフォード」の文字が落書きで「ブラディスタン」に書き換えられていた。しかしこの映画の中で差別問題はむしろコミカルに描かれている。サッカーが好きな長女ミーナ(アーチー・パンジャビ)は、誤ってサッカー・ボールで隣の家の窓ガラスを割ってしまう。隣家の親父は例の移民嫌い男だ。その窓には移民排斥主義者であるパウエル議員の写真が貼ってあったが、ボールは見事パウエル議員の顔の部分を打ち抜いていた。差別を描いた場面がかなりカットされたのは、このコミカルなタッチを崩したくなかったからだろう。その分甘口になったが、決して中心にある問題はあいまいにされていない。子供たちの反抗も多くはやんちゃな感じでコミカルに描かれている。しかし本格的な対立場面では真剣に怒鳴り合っている。父親は暴力まで振るっている。この映画の場合、シリアスな場面とコミカルな場面のさじ加減は成功していると思う。重すぎず、さりとて軽すぎず。見事にバランスの取れた構成だった。

 

 この映画のクライマックスは、父親が無理やり二男のアブドゥル(ラージ・ジェイムズ)と三男のタリクを結婚させようとする場面とそれに続く深刻な対立の場面だ。ここで活躍するのが母親のエラである。イギリス人である彼女は一家の中で微妙な立場にあった。子供たちの不満に共感しながらも、イスラム教徒の妻として夫には一定の遠慮をしていた。彼女は二つに割れそうな家族の間に立って、バランスをとる役割を果たしていた。しかし、あくまで自分勝手に息子たちの結婚相手を選ぼうとする夫についに反抗し、殴られて目の周りに黒いあざを付けている。彼女はそのみっともない顔で花嫁の家族を迎えるのである。

 

 その花嫁というのがとんでもなく不細工な娘たちだった。その二人の顔を見た瞬間、息子二人とエラの顔が凍りつく。その後のエラは大活躍だ。四男マニーア(エミル・マーワ)が「美術品」と称しているこれまたとんでもない「飛び道具」まで飛び出し、果ては花嫁花婿双方の母親が共にぶちぎれてしまう。「野蛮なハーフに娘はやりません。」「ハーフでもゲテモノの娘よりマシよ。」激しい言葉を投げつけあって、ついにエラは花嫁の家族を追い出してしまう。このあたりはどたばた喜劇調だ。その後にはより深刻な言い合いが続く。せっかくの縁談をぶち壊された父親は怒りが収まらない。「恥知らずな女め。一族の面汚しだ。」「恥知らずはあんたよ。自分の子の幸せも考えないで、父親の威厳を示すことばかり。あんたは最低の夫よ。それに最低の父親だわ。なのに認めもしない。」

 

 そこまで言われて彼はさすがに落ち込んでしまう。「父さんは皆のためを。それだけなんだ。」打ちしおれて彼は外へ出てゆく。隣の移民嫌いおやじの息子アーネストが彼に「サラームおじさん」と声をかける。強調しておきたいのは、ラストはジョージとエラの言葉で終わることだ。自分の店(彼はフィッシュ&チップスの店を経営している)のカウンターでうなだれている夫にエラは「お茶でも入れましょうか?」と声をかける。ジョージはいつもの返事を返す。「カップに半分な」。このさりげない終わり方が実に秀逸だ。最後は親ないし夫婦の視点で終わっている。簡単な言葉を交わすだけで互いの気持ちを察することができる。あれだけ激しく喧嘩したのに、2人の距離は遠ざかっていない。若い頃の二人は2人で力を合わせてつらい時期を乗り越えてきたのだろう。

 

 結局一人で空回りしていただけだったジョージ。うなだれる彼の姿には悲しみと失望感がにじみ出ている。映画が最後にこの姿を映したことには意味がある。彼を非難しているのではない。彼は彼なりに家族のことを想って行動したのだ。誰も悪意の人はいないのに家族に亀裂が入ってしまう。「やさしくキスをして」と同じだ。問題は個人ではない。文化と世代のギャップ。移民の大波が押し寄せてから10年がたち、イギリス生まれの若い世代の比率が高まってきた時期。多くの家族が遭遇した問題がそこにあった。父親の価値観はもはや子供の世代には簡単には受け入れられない。しかし同じパキスタン人を「パキ」と馬鹿にしている子供たちだって、自分たちのルーツから逃れられはしない。どんなに英語を達者に話し、ディスコで白人たちと一緒に踊ってみても、白人との溝は簡単には埋まらない。ただ変化の兆しもある。打ちひしがれたジョージに「サラームおじさん」と声をかけたアーネスト。移民の家族ばかりではない。イギリス人の家族にも新しい世代が生まれつつあるのだ。

 

 激しい対立を経て親子と夫婦のきずなは強まったのか?それは分からないが、少なくともエラとジョージはまた微妙な距離を保ちながら夫婦であり続けるだろう。頭の固いジョージに対してエラは周りがよく見えている。ジョージがまたもや縁談を持ち込もうとした時、彼は妻のご機嫌を取ろうとしてプレゼントを買ってくる。何と床屋の椅子だ。リクライニングにもなるし座り心地が良いぞと言うジョージの意図をエラはとうにお見通しだった。「何を企んでるの?」と冷静に切り返す。さらにはこんなものに3ポンドも払ったのかと文句を言い出す始末。どうやら最終的な主導権は彼女が握っているようだ。

 

 ジョージに殴られた後、エラは「一体家族って何?」とつぶやいた。この映画はイスラム教そのものを批判してはいない。しかし覆い隠しようのない男尊女卑の思想、父親の絶対的権威、これらが実は妻や子供たちばかりではなく父親自身も苦しめているという描き方には共感を覚える。つまるところ、この映画の価値はそこにあると言っても良い。この映画には語られていない部分がある。エラとジョージがどのように知り合い、どのような経過を経て結婚したのか。国には第一夫人もいる(エラは第二夫人)。確執もあっただろう。ジョージは息子のタリクを説得しようとして、イギリス女はたちが悪いと言い聞かせる。その時タリクは「イギリス女が悪いなら母さんは?」と切り返す。「それ以上は許さん!黙って言うことを聞け。分かったか。」突然父親は激昂する。この激しい怒りは何を意味しているのか。単に矛盾を突かれたということではなさそうだ。これ以上一家が白人の側に近づいたら完全にパキスタン人のコミュニティから締め出されてしまうと考えたのか。自分もさんざん苦労したから、同じ思いをさせたくないのか。なぜそれを息子に語らないのか。単純なように見えて、家族というのは複雑である。

 

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