シセルとディー・ディー・ブリッジウォーターに酔う
気持ちよく晴れた日曜日。昼間久しぶりにCDを聞いた。シセル・シルシェブーの「シセル・イン・シンフォニー」。シセル・バンドも加わったアンダース・イーヤス指揮ノルウェー放 送オーケストラの演奏をバックに、クラシック曲やポピュラーソングを歌っている。プッチーニの「私のお父さん」と「ファイアー・イン・ユア・ハート」のノルウェー語ヴァージョンが特に印象に残った。いや驚いた。彼女がクラシックの修練を積んでいたことを不覚にも認識していなかった。彼女のCDは何枚も持っているので、他のCDにもクラシック曲が入っていたのかもしれないが、僕の意識の中にクラシック歌手としての彼女のイメージはまったくなかった。彼女のCDはほとんどどれも満点を付けたいほど気に入っているが、クラシックを歌う彼女は新しい発見だった。見事な発声とその透明な声にしばし魅了された。しかしどうして北欧の歌手はこうも透き通った声が出せるのか。デンマークのセシリア・ノービー、オランダ(正確には北欧ではないが)のフルーリーン。ジャズ界にも素晴らしい声の持ち主がいる。
「シセル・イン・シンフォニー」の解説から簡単に彼女のプロフィールをまとめてみよう。シセル(シセルとシセル・シルシェブーの両方の表記がある)は1969年ノルウェーのベルゲン生まれ。7歳で子供の聖歌隊で歌い始める。15歳の時テレビに初出演して、当時の憧れであったバーブラ・ストライサンドの曲を歌った。16歳の時デビュー作「シセル」をリリース。今ではノルウェーの国民的歌手である。94年のリレハンメル冬季オリンピックでは、開会式で「ファイアー・イン・ユア・ハート」を歌って世界的に知られるようになる。97年には映画「タイタニック」と出会い、サントラでヴォーカル曲を担当した。クラシック界との関連で言えば、プラシド・ドミンゴとツアーをし、ホセ・カレーラスとデュエットした経歴がある。
僕はリレハンメル冬季オリンピック当時すでに彼女の名前を知っていた記憶がある。レコード/CD記録ノートを調べてみたら、94年の9月17日に「ギフト・オブ・ラヴ」と「心のままに」を買っている。これが最初に買った彼女のCDだ。ということはオリンピックが開催された冬の時期にはまだCDを持っていなかったことになる。レコード評か何かで読んで、彼女の名前だけ知っていたということだろう。オリンピックで「ファイアー・イン・ユア・ハート」を聞いてすっかり気に入り、見つけたら買おうと思っていたということだと思われる。
僕が持っているシセルのCD8枚はどれも素晴らしい出来だ。参考までに評価点付きで下にリストを挙げておく。なお最近の「楽園にて」、「マイ・ハート」、DVD「シセル・イン・コンサート」などを手に入れたいのだが、近所の中古店ではまず見かけたことはないし、アマゾンでも2000円近い値(DVDは3000円台)が付いていて手が出ない。安くなるまでもう少し待つしかない。
「シセル・イン・シンフォニー」(01年) 5
「オール・グッド・シングズ」(00年) 4
「ザ・ベスト・オブ・シセル~ファイアー・イン・ユア・ハート」(98年) 5
「ザ・ベスト・オブ・シセル」(98年) 5
「アメイジング・グレイス」(94年) 5
「心のままに」(94年) 5
「森とフィヨルドの詩」(94年) 4
「ギフト・オブ・ラヴ」(93年) 5
シセルの歌を聞いてまた音楽好きの心がうずき出した。たまらず、今度はディー・ディー・ブリッジウォーターの古いレコードを引っ張り出す。というのも、1週間ほど前、新作の「レッド・アース」を中古店で衝動買いしたからだ。「レッド・アース」とはアフリカの大地のことだろう。最近アフリカ関連映画をよく観ていたし、ディー・ディーのCDは中古店ではめったに見かけることはないので、2000円以上したが禁を破って買ってしまった。マリの実力派ミュージシャンたちと組んだアフリカン・ジャズ&フュージョン版。素朴な太鼓の音がゴンゴンとリズムを刻み、何とも素朴だが力強い曲が流れてくる。時には単調ですらある曲調なのだが、聞くほどにリズムが体に染みこんできていつの間にかぐいぐい引き込まれてゆく。久々に聞いたアフリカ音楽だった。フェラ・クティ、ユッスー・ンドュール、サリフ・ケイタなど聞いていたのはもうだいぶ前だ。
「シセル・イン・シンフォニー」を聞いた余韻がこの「レッド・アース」の記憶をよみがえらせ、ほこりをかぶったレコードを引っ張り出させた。聞いたのは「ディー・ディー・ブリッジウォーター」。デビュー作「アフロ・ブルー」に次ぐ2作目。「ゴブリンのこれがおすすめ 37」(レディ・ソウルを楽しむ特集)を書いた時から、また聞き直したいと思いながら時間がなくて聞きそびれていたものだ。ブログにかまけて最近CDを聞く時間が極端に減ってしまった。買ったまままだ聞いていないCDが100枚以上あるというありさま(涙)。70~80年代に必死でかき集めたレコードに至っては、2000枚ほどあるにもかかわらず、滅多に聞くこともなく過去の遺物と化していた。
久々に聞いた「ディー・ディー・ブリッジウォーター」はやはり素晴らしかった。今では大物ジャズ歌手として知られるが、若い頃はソウルも歌っていた。若々しく力強い歌声、軽快な曲などは若い頃のナタリー・コールを彷彿とさせる。このレコードは何といってもジャケット写真が魅力的で昔からお気に入りだった。当時彼女は丸刈り頭だった(「アフロ・ブルー」のCDジャケット写真参照)。しかしここでは帽子が似合っている。CDタイトルは「私の肖像」。アマゾンで調べたら1万円近いとんでもない値がついていた。
「ディー・ディー・ブリッジウォーター」を堪能して勢いは止まらず、次いでデビュー作「アフロ・ブルー」を聞いた。これもレコード。CDではくりくり頭を披露しているが、僕の持っているレコードではジャケットにオーブリー・ビアズリーの挿絵が使われている。日本製作盤で、彼女はこの「アフロ・ブルー」を引っ下げて70年代のジャズ・ヴォーカル界に颯爽と登場したのである。さすが今聞いても新鮮だ。
「アフロ・ブルー」のライナー・ノートなどを基に、彼女についても簡単にプロフィールをまとめておこう。1950年5月27日、アメリカ・テネシー州メンフィス生まれ。名盤「ディア・エラ」で98年度グラミー賞「ベスト・ジャズヴォーカル・アルバム」賞を受賞。サラ・ヴォーン、エラ・フィッツジェラルド、カーメン・マクレエ亡き後、今やジャズ・ヴォーカル界の大歌手である。
父親のマシュー・ゲリットはフィニアス・ニューボーンやブッカー・リトルやチャールズ・ロイ ドを指導した高校の音楽教師であり、ジャズ・トランペット奏者でもあった。5歳の頃のディー・ディーはよくレナ・ホーンやダイナ・ワシントンの物真似をしていたという。16歳の頃にナンシー・ウィルソンにあこがれる。16歳の時に父親のバンドで歌ったのが彼女の初舞台。70年に結婚したセシル・ブリッジウォーターもまた、父親がトランペッターで母親がピアニスト兼歌手という音楽一家育ちだった。自身もトランペット奏者だった。ディー・ディーは72~74年にサド・ジョーンズ=メル・ルイス・オーケストラで活躍する。レコード・デビュー作「アフロ・ブルー」以来15枚のアルバムを発表。僕が持っているのはその一部にすぎないが、どれも評価は高い。「ディス・イズ・ニュー」、「ディア・エラ」、「ディア・エラ・ライブ」が欲しいが、なかなか手に入らないのが残念。参考までに僕が持っているレコードとCDのリストを評価点付きで下に挙げておく。
「レッド・アース」(07年) 5
「シングズ・デューク・エリントン」(96年)
5
「“ラヴ”&“ピース”トリビュート・トゥ・ホレス・シルヴァー」(95年) 5
「ライヴ・イン・パリ」(87年)
5
「ディー・ディー・ブリッジウォーター」(76年)
5
「アフロ・ブルー」(74年)
4
なお、彼女のディスコグラフィーはこちらを参照。
« 「サン・ジャックへの道」を観ました | トップページ | 塩田の文教地区を歩く »
この記事へのコメントは終了しました。
コメント