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2007年9月13日 (木)

亀も空を飛ぶ

2004年 イラン・イラク 2005年9月公開
評価:★★★★★
監督、脚本、製作:バフマン・ゴバディ
撮影:シャーリアール・アサディ
音楽:ホセイン・アリザデー
編集:モスタファ・ケルゲ・プーシュ、ハイデ・サフィアリ
出演:ソラン・エブラヒム 、ヒラシュ・ファシル・ラーマン 、アワズ・ラティフ
   アブドルラーマン・キャリム、サダムホセイン・ファイサル、アジル・ジバリ

 「何も知らない幼い子供たちと映画を撮ろうとした。イラクに旅した時に子供たちが丘の上でナッツを食べながら戦火を眺めていた。欧米の子供たちはポップコーンを食べながら映画を観るが、イラクでは現実の戦争を見る。」(バフマン・ゴバディ監督、DVDの付録映像より)

*  *  *  *  *  *  *  *

はじめに
 僕がクルド人の存在を初めて知ったのは85年にユルマズ・ギュネイ監督のトルコ映画Cphe 「路」を観た時である。「路」は社会派が制したと言われた82年のカンヌ映画祭で「ミッシング」(コンスタンチン・コスタ・ガブラス監督、アメリカ)とグランプリを分け合った。審査委員特別賞は「サン・ロレンツォの夜」(パオロ&ヴィットリオ・タヴィアーニ監督、イタリア)だった。「ミッシング」は82年、「サン・ロレンツォの夜」は83年に日本で公開されたが、「路」は85年になってやっと公開された。トルコ映画など当時の日本では全くなじみがなく(今でもそうだが)、ましてやクルド人問題など知る人はほとんどいなかったからだろう。

 国を持たない世界最大の少数民族クルド人。同じ民族なのに恣意的に引かれた国境線によりトルコ、イラン、イラク、シリアなどアラブ諸国に分断されて生活することを余儀なくされている。「路」に描かれたようにトルコでは分離独立を求めているために激しく弾圧されている。イラクでも同じだ。クルド人が最も多く住んでいるのはトルコで、2番目に多いのがイラクである。これまで僕が観たクルド人を主人公にした映画は以下の通り。

「ハッカリの季節」(エルデン・キラル監督、トルコ、83年)
「路」(ユルマズ・ギュネイ監督、トルコ、82年)
「遥かなるクルディスタン」(イエスィム・ウスタオウル監督、トルコ他、99年)
「少女ヘジャル」(ハンダン・イペチク監督、トルコ他、01年)
「酔っ払った馬の時間」(バフマン・ゴバディ監督、イラン、00年)
「亀も空を飛ぶ」(バフマン・ゴバディ監督、イラン・イラク、04年)

  すべてトルコとイランの映画だ。「ブラックボード――背負う人――」(サミラ・マフマルバフ監督、イラン、00年)にもクルド人が描かれている(バフマン・ゴバディも教師役で出演)。ギュネイの映画はユーロスペースを中心に6本観たが(うち1本は「獄中のギュネイ」という西ドイツ製作の記録映画)、ここでは「路」だけを挙げておく。「遥かなるクルディスタン」という映画のタイトルが象徴的だ。クルディスタンとは「クルド人の国」という意味である。「亀も空を飛ぶ」の舞台はイラク北部のクルディスタンとされるが、明らかにそれは「国」ではない。彼らにはいまだに「国」がない。自分たちの国を持つこと、恐らくそれが彼らの悲願なのだ。「亀も空を飛ぶ」でヘンゴウを演じたヒラシュ・ファシル・ラーマンはDVDに収録されたインタビューで、「将来クルディスタンにどうなってほしい?」との問いに次のように答えている。「すばらしい首都になってほしい。周辺のアラブ諸国の影響を受けない国になってほしい。」クルド人が夢見るクルディスタンはどこにあるのか。いつたどり着けるのか。その道のりはなお「遥か」である。

*  *  *  *  *  *  *  *

 日本で最初に公開されたイラン映画はアッバス・キアロスタミ監督の「友だちのうちはどこ」である。87年の映画だが日本公開は5年後の93年。同年公開の新作「そして人生はつづく」(02年)と共に大変な反響を呼び、「友だちのうちはどこ」はキネ旬で8位にランクされた(「そして人生はつづく」は34位)。僕も93年に2本を同時に観たが、その素朴な映像の新鮮さに衝撃を受けた。以来数は少ないもののイラン映画はコンスタントに輸入されてきた。ただ、ここ2、3年は映画祭などでしか観られなくなってしまったのが残念だ。

 アポルファズル・ジャリリ、アッバス・キアロスタミ、モフセン・マフマルバフ、マジッド・マジディ、バフマン・ゴバディ、このあたりがイランの代表的監督だろう。各種映画祭で上映されている最近のイラン映画を見ると知らない名前が多い。新しい才能も育っていると思われる。もっと劇場公開作品を増やし、DVD化も進めてほしいものだ。

「亀も空を飛ぶ」レビュー
 2005年に公開された映画の中で最後まで見落としていた重要な作品がこの「亀も空を飛ぶ」だった。マイ・ベストテンはだいぶ前に公開しているが、これを観ていない以上は暫定的なものにすぎないと思っていた。「わが故郷の歌」、「りんご」、「柳と風」、「ギャベ」など手元にありながら観る機会のなかったイラン映画のDVDが結構あるのだが、それらを差し置いても「亀も空を飛ぶ」を先に観たかった。ようやく観た「亀も空を飛ぶ」はもともと高い期待をさらに上回る傑作だった。さっそく2005年のマイ・ベストテンを書き換え、「亀も空を飛ぶ」を1位に据えた。

 ゴバディ監督は「酔っ払った馬の時間」で、イランとイラクの国境地帯で密輸を生活として暮らしている貧しい人々を描いた。主人公は両親を亡くした5人の兄弟。これはクルド語で描かれた実質的に最初の映画だった。命がけで密輸をしながら暮らしているクルド人たちの生活が驚くほどリアルに描かれていた。雪山を越えてゆく場面の美しさはネパール映画「キャラバン」(エリック・ヴァリ監督、99年)を思い起こさせる。

 「亀も空を飛ぶ」はその衝撃度および映画の完成度において「酔っ払った馬の時間」をさらに上回っている。子供たちが主人公である点は同じだが、その視点はより多面的になっている。「酔っ払った馬の時間」は、言ってみれば、「亀も空を飛ぶ」のアグリン、ヘンゴウ、リガーの3人を主人公にしたような映画だが、「亀も空を飛ぶ」ではむしろサテライトとその周りの子供たちを主人公にしている。そうすることで子供たちの明るさとたくましさを取り入れることができたのだ。アグリン、ヘンゴウ、リガーの3人を主人公にしていたら、クルド人の悲惨で過酷な生活をいやというほど描けただろうが、同時にまるで人類の業を一身に背負ったような出口のない苦痛に満ちた映画になっていたかもしれない。

 そうは言っても、「亀も空を飛ぶ」で描かれた世界が「酔っ払った馬の時間」よりも悲惨さが少ないというわけではない。むしろその逆だ。クルド人たちの村があるのは木さえほとんど生えていない荒れ地である。「本多勝一が書いていた。アメリカのインディアン居留地は何もないやせ衰えた土地である。何でもいい、草一本であれ、虫一匹であれ、生命の兆しが見えたらそこは既に居留地の外であると。それほど極端ではないが、クルド人が住む地域も荒涼とした原野ばかりである。」これは「遥かなるクルディスタン」のレビューからの引用だが、トルコでもイラクでも事情は同じなのだ。その村の一角にある丘には難民テントがぎっしりと建てられている。粗末な即席「村」だが、元からの住民たちの家もそう大して変わらないかもしれない。子供たちを指揮している才知に長けた少年サテライト(ソラン・エブラヒム)は、テレビで放送される英語のニュースを翻訳してくれたら「家」をやると村の長老たちに言われるが、もらったその「家」とはなんと戦車か装甲車の残骸だった。

Candle1_1  そのサテライト(本名はソラン)が丘の上にアンテナを立てている場面が最初に出てくるが、アンテナを立てさせていた老人が吐き捨てるように叫んでいた言葉が強烈だ。「空まで奪われちまった。水もなけりゃ電機もない。作物も育たないし校舎だってない。どれもこれもサダムのせいだ。戦争が近いのにニュースも見られない。」誠にもってもっともな不満だが、この映画の中では大人はほとんど脇役だ。因習に縛られ、こすっからく、金儲けしか頭にない大人たち。外国の番組は「汚れて」いて「罰あたり」だとこぼしながら驚きの目でテレビを見ている長老たち。しかし自分たちではアンテナも立てられないし、外国語も分からないので、子供のサテライトに頼り切っている。予言の能力を持っている少年を見つけて戦争について予言させればいい金になると言った老人。まるで店先に肉をぶら下げるようにして、武器を露店で売っている商人たち。生きるのに精いっぱいの子供たちに向かって「子供に必要なのは算数や理科だ」と説教する教師。

 最後に挙げた教師の言葉にサテライトは「算数ならできる」とやり返す。実際に算数の問題をやらせてみると子供たちは正しい答えを言っていた。生きるのに必要なのは金だ。金がなくても掘り出した地雷を金代わりに使える。地雷を掘り出したり、砲弾の薬きょうを積み上げたり、子供たちは既にそうして生活していた。理科の実験は知らなくても、生きるのに必要な計算力は身に付けている。「亀も空を飛ぶ」が描いたのは、与えられた条件下でたくましく生き抜いている子供たちの姿である。彼らは大人以上に働き、力いっぱい生活している。冒頭に引用した監督の言葉、イラクの子供たちは「ナッツを食べながら戦火を眺めている」という言葉は、まさにこの映画の本質を突いている。まるで芋でも掘り出すように地雷を掘り出している子供たち。それはまさに彼らの「日常生活」だった。両手を失った子供は口で地雷の信管を抜く。熟練の手技(口技)。早く大人にならなければ生きてゆけない。必要な知識はすべて現場で学ぶ。それが「戦場の村」に暮らす子供たちの宿命である。サテライトは地雷の値段について大人のブローカーとかけあって単価を上げさせている。アポルファズル・ジャリリ監督の「少年と砂漠のカフェ」(01年、イラン)でも、主人公のキャイン少年は大人に対して臆することなく対等にやりあっていた。

 手足を失った子供はベトナムにもカンボジアにもいた。チェチェンにもボスニアにもいた。戦争のあるところはどこでも「五体不満足」の子供があふれている。子どもが大人びているのも同じだ。日本だって終戦直後の混乱期にはそんな子供が国中にあふれていた。以前韓国映画「僕が9歳だったころ」(ユン・イノ監督、06年)のレビューでこう書いた。「人間は社会的存在だから、社会状況に応じて人間の意識も変わる。日本でも終戦直後の混乱の時期は子供も大人びていた。親がいなかったり、いても頼れなかったり、事情は様々だろうが子供も生き延びるためには大人にならざるを得ない。当時の写真を見ると、小学生くらいの子供がタバコを吸っている姿は珍しくない。石川サブロウの傑作漫画『天(そら)より高く』(潮出版社、原作半村良)はまさにその時代をたくましく生きた戦災孤児たちを描いたものである。」彼らも不発弾を掘り出し屑鉄屋に売ったりしている。子供のころから携帯を持ち、ゲームに興じ、塾通いで疲れ切っている今の子供の方がよほど異常なのだ。

*  *  *  *  *  *  *  *

 子供たちがみなサテライトやパショーたちのように明るくたくましく生きているわけではない。最初に名前を挙げたアグリン(アワズ・ラティフ)とその兄のヘンゴウ(ヒラシュ・ファシル・ラーマン)、幼児のリガー(アブドルラーマン・キャリム)たちに笑いはない。映画の最初に登場するのは印象的な赤い服を着た少女アグリンである。彼女は断崖絶壁の淵に佇んでいる。しばしためらった後、彼女は崖から飛び降りた。

 あまりに唐突なので彼女が本当に飛び降りたのかどうか観客には判断がつかない。不安な気持で映画を見続けることになる。映画の後半部分で、彼女が本当に自殺したことが分かる。サテライトを中心としたストーリーが縦糸だとすると、アグリンたち3人のストーリーはそれに横糸の様に組み合わされている。DVDのジャケットにもなっている彼女の顔は実に印象的だ。深い、深い悲しみをたたえた彼女の目。それがわれわれをとらえて離さない。彼女はまだ中学生1年生くらいの年齢なのに、既にしてこの世の地獄をみてきたのだ。彼女の愁いに沈んだ表情に表れていたのは絶望だった。それは彼女の顔から笑いを奪い、彼女の心から希望を奪った。

 彼女がその小さな背中に背負っていたものとは何だったのか。それは彼女一人の肩では到底背負いきれないほど重い「荷物」だった。彼女の兄ヘンゴウは両腕を失くしているが、希望を失わず生きている。腕がなくても頭突きで相手を倒すことができる。彼は妹ほど絶望に取りつかれていないが、やはり誰とも付き合わない。難民たちの中でも彼らだけ離れて暮らしている。小さなリガーはくりくりとした目がかわいいが、その目は見えなかった。そしてこの子こそがアグリンの悪夢だったのだ。最初は一番下の弟のように見えたが、実はアグリンの子供なのだ。サダムの軍隊に村が襲われた時彼女はレイプされ、その時にできた子供だったのである。彼女が背負っているものは、サテライトやパショーやシルクーたちが背負っているものよりもさらに重い。単に大人になっただけではない、母親になってしまったのだ。しかも望まぬ子を産んだ母親に。アグリンは背中にどんなに取り除こうとしても取り除けない宿命を背負っていたのである。

 新しい生命の誕生はしばしば希望の象徴として描かれる。しかしその命が彼女にとっては悪夢そのものだったのだ。どうしても乗り超えられない深い傷と苦悩。言葉を失うほど悲惨な宿命。同じ状況はボスニア紛争を主題にした「ビューティフル・ピープル」(ジャスミン・ディズダー監督、イギリス)の5つのエピソードの一つとして描かれている。5つの中で最も感動的なエピソードだ。理由も告げずしきりに子供を堕ろして欲しいと医者に頼むボスニア難民夫婦。実はこの子供もボスニアにいるときに相手の兵士にレイプされてできた子だったのである。戦争は国を離れても付きまとってくる。「彼らは体と一緒に苦悩と悲しみをロンドンに持ってきたのである。戦争は人間の心の中に憎しみと苦悩の種を植え付けるのだ」(「ビューティフル・ピープル」のレビューから)。悩んだ末夫婦は子供を産む決心をする。生まれた子供は「ケイオス(混沌)」と名づけられた。

 しかしアグリンは安全なイギリスにいるわけではないし、何といってもまだ少女なのだ。彼女にはこの重荷を背負いきれなかった。もちろん迷わなかったわけではない。彼女は飛X_dolls2 び降り自殺する前に、焼身自殺をはかっている。石油をかぶり火を付けた所に、夜眠れないリガーがふらふらと歩いてきた。その姿を見て彼女は我に返った。絶望という魔物に取り憑かれつつも、彼女は散々迷ったに違いない。「サダムの兵隊の子。私の子じゃない。」と言いつつ、「産めば母親なの?」と問いつつ(何という重い問いだ)、なおも一方で彼女はサテライトに赤い金魚が欲しいと言った。「目の薬になるって聞いたわ。」ただひたすら憎いだけならこんなことは言わない。絶望の淵に追いやられながら、なおも母親として悩む。その人間的苦悩が身を切るようなつらさで迫ってくる。なんとか二人で育てようと言う兄に彼女はこう言う。「今捨てなきゃ。その子が育って物心がついた時、他人にどう説明するの?その子にはなんて言う?村に置いていくのが一番いいの。」誰かに引き取ってもらった方がいい。子どもにとってもその方がいい。彼女はそう言っている。最初から死なすつもりではなかったのだ。

 しかし追い詰められた彼女は子供を泉でおぼれさせ、自らも死を選ぶ。「孔雀 我が家の風景」のレビューで「空を飛ぶという願い、それは自由への願いであり現実から抜け出したいという渇望を示している」と書いた。アグリンも飛んだ。崖から奈落に向かって。彼女は自由になったのか?苦悩から解放されたのか?それは正しい判断だったのか?それとも性急で誤った判断だったのだろうか?簡単には答えられない重い、重い問いだ。

 最後まで亀の甲羅のように重荷を背負っていたアグリン。子供らしさはとうに消えうせ、夢や未来を奪われた少女。思えば彼女は最初から死の淵に立っていたのだ。いつも赤い服を着ていた少女。その服の赤さは「シンドラーのリスト」の赤い服の少女よりずっと強烈に記憶に焼きついている。そう、まるで悲しみのピエタのように。

*  *  *  *  *  *  *  *

 「亀も空を飛ぶ」は「アフガン零年」(セディク・バルマク監督、03年)のように怒りが噴き出す映画ではない。「ライフ・イズ・ミラクル」(エミール・クストリッツァ監督、04年)のように戦争を笑い飛ばす映画でもない。一連のボスニア映画のように圧倒的な現実の前でただ呆然と立ち尽くすわけでもない。気がめいるほどリアルな現実描写に圧倒され、人間がこんなことであっていいのかという怒りを感じるが、政治的矛盾や人々の苦悩だけではなく子供たちの生きる強さ、明るさも描いている。リアリティを徹底して追求しながらも、ヘンゴウの不思議な予知能力など超自然的な要素を取り入れる余地を残している。霧に浮かぶアグリンの姿など、映像的にも素晴らしい効果を作り出している。「亀は空を飛ぶ」はドキュメンタリーの迫力とリアリティーを持つと同時に、フィクションの力を併せ持った類まれな作品なのである。

 底知れない絶望を描きながら、なお希望を描き得るのか?圧倒的な現実を前にした時、フィクションに何ができるのか?僕自身が何度も問うてきたことである。想像力は決して万能ではない。フリッツ・ラング監督の「メトロポリス」(27年)は未来社会を描いたSF映画だが、巨大なビルが林立する中を飛び回る飛行機は何と複葉機である。想像力も時代に制限されている。生まれてから一度も見たことのない色を想像することができないように、想像力には限界がある。想像力が生み出すのはそれまで経験してきた知識の新しい組み合わせなのだ。だがそこにまた可能性がある。現実との接点がある。つまり、創造力の源泉は現実なのである。

 ゴバディ監督が「亀も空を飛ぶ」で試みたのは人間を否応なく押し流してゆく現実の圧倒的な力を作品のエネルギーに変えることである。「私たちは大変な土地にいた。あらゆるところで爆薬の匂いがした。この匂いを映画に取り込むのは困難に思えた。役人の協力は得られたが、村人たちは映画を観たことすらなかった。」安全な映画館や家庭で映画を観る人たちにどうやって「爆薬の匂い」を伝えるのか。撮影は30人の護衛付きで行われたという。それがかえって不安を助長した。彼らは本当にわれわれを守っているのか。いつ自爆テロに襲われるかという不安に加えて、護衛そのものが信じられないという不安にさいなまれての撮影。その結果あのリアルな感じが出せたのだと監督自身は語っている。要するに絶えず現実の中に身を置いて、その場その場で脚本も臨機応変に変えながら作っていったからこそあのリアリティが出せたということだろう。大地に倒されるたびに大地から力を得てまた立ちあがってくるアンタイオスのように、彼は現実に圧倒されながらもまた現実から力を得たのである。映画は現実を直接変える力はないが、決して無力でもない。現実から力を得た映画が、今度は観客に力を与えるのである。

 戦争を日常として生きている子供たちの姿。地雷とともに生きることを余儀なくされている子供たちの日常。実際に両手がなく、片足がない子役を使っていることが映画にどれだけリアリティを与えていることか。彼らを誰も珍しがらない。それが日常なのだ。杖を突きながら片足で歩くパショーの動きの素早いこと。にわか仕込みではないリアリティ。銃の商人がサテライトに言った「無理して買うな。どうせ戦争で死ぬんだ」という言葉の説得力。アメリカ軍のヘリが撒いたビラに書かれている「この国を楽園に戻すため、君たちの苦しみを取り除くために我々は来た」という言葉の空々しい響き。「歯が痛い」というアグリンに兄が言った「石油を口に含んでおけ」という言葉。石油に正露丸のような効き目があるとは聞いたことがない(さすがはアラブの国だ)。日本ではあり得ない話だが、それがまたリアルに感じられてしまう。摩訶不思議なタイトル、幻想的な映像、不思議な予知能力、それらが生々しいイラクの生活描写と混じり合って監督の言う「魔術的リアリズムの世界」を生み出している。現実から力を得ると同時に現実に創造的加工を加え、ドキュメンタリーとはまた違うリアリティーを持った傑作を作り上げた。圧倒的な出来栄え。イラン映画の頂点に立つ傑作である。

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