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2007年9月

2007年9月29日 (土)

小諸の懐古園へ行く

 中国出張の前に小諸の懐古園に行っていました。出張前後のドタバタした状況の中で、ブログに書きそびれていたのです。もうだいぶ日がたってしまいましたが、写真も豊富に撮ってきましたので載せることにします。

* * * * * * * * * * * *

 ふと思い立って小諸の懐古園へ行くことにした。車で行くのは初めてだが、看板が出ているので道はすぐに分かった。専用駐車場に車を入れる。入口(三ノ門料金所)で入場料を払って公園の中に。入場料300円、駐車代が500円。入場料金よりも駐車代の方が高いってどうなの?

  誰でもそうだと思うが、近くにある有名な観光地というものは案外めったに行かないものである。軽井沢などほとんど行ったことがない。大学院生の頃に家庭教師をしていたが、そこの家族が軽井沢に別荘を持っていた(確か中軽駅の近くだったように思う)。夏は家族で軽井沢に行くので先生も来てくださいと言われ、1週間ほど別荘に滞在したことがある。初めての軽井沢体験、かつ別荘体験で楽しかった。しかし上田に来てからは、軽井沢なんてめったに行かない。そういうものだ。同様に、懐古園も1度しか行ったことはない。しかも行ったのはまだ東京に住んでいた頃である。もう25年くらい前だ。長野県に来てからは一度も行っていなかった。なかなか行く気にならなかったのは、前に一度行ったことがあるという気持ちもあったからだろう。

 懐古園は結構広い敷地で、緑が実に豊かだ。しかし何を見ても全く記憶がない。初めてきたような感じだった。20数年前に来た時にはたいして関心もなかったので、それで記憶がないのだろう。写真をとる習慣がついてきたから関心が生まれてきた。人間、関心を持つことは大事なわけだ。

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<写真>
三ノ門、黒門橋(2枚)

 橋が3つあった。入ってすぐ正面にある黒門橋、横の動物園に続く白鶴橋、寅さん会館の方に行く酔月橋。これも関心がなければ全く意識しなかっただろう。それぞれ写真を撮る。「博士の愛した数式」でロケした桜並木も写真に撮った。DVDのジャケット写真にも使われている、寺尾聰と深津絵里が通った道だ。桜が咲く時期でなかったのが残念。その時期はきっときれいだろう。そして何といっても懐古園と言えば島崎藤村。学生の頃に来たのも、小諸周辺文学散歩の一環としてだった。懐古園以外にも句碑などを見て回ったはずだが、悲しいことに全く記憶がない。帰りに駐車場のところでパンフレットを何枚か取ってきたが、その中に「文学碑めぐり」というパンフがあった。歌碑や句碑の写真がぎっしりと収められている。こんなにあるのかと驚くほどの数である。小諸周辺は県内でも有数の文学的雰囲気のある場所なのである。

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<写真>
黒門跡、紅葉ヶ丘、荒神井戸と苔むした石垣

 藤村記念館は公園の中ほどにある。ここに入るには入口で300円ではなく500円の入場券を買う必要がある。今回はパス。記念館前に立っている藤村の銅像だけ写真に撮った。そこをさらに進むと右手に酔月橋が見えてくる。ここを渡るともう一つの出入口酔月料金所があり、その先に鹿嶋神社と寅さん会館がある。橋は後で渡ることにして、さらに進むと有名な「小諸なる古城のほとり」の詩碑がある。その近くに展望台があった。水の手展望台。上ってみると、はるか眼下に千曲川が見える。素晴らしい眺め。数日雨が降り続いていたので、ここからも川が大増水している様子が分かる。橋脚に川水がぶつかり、激しく跳ね上がり渦巻いているのが見える。普段の千曲川の水はきれいだが、大雨が降った後は茶色に濁ってしまう。今日も茶色の濁流になっていた。

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<写真>
上の3枚:桜並木、藤村記念館、藤村の銅像
下の3枚:「小諸なる・・・」の詩碑、水の手展望台、千曲川の濁流

 地図で見ると、懐古園は三角形の形をしているようだ。三角形の真ん中に懐古神社がある。その横に馬場があり、そこが前述の桜の名所である。馬場と言っても今は木が植えられている。桜の花が咲いていない桜並木の下を通りぬけると、その先は崖のようになっている。どうやら3角形の3辺を崖が取り巻いているようだ。懐古園と言っているが、もとは小諸城である。パンフによると、鎌倉時代に小室太郎光兼の築いた館が原型らしい。戦国時代に武田信玄の支配下に置かれ、山本勘助と馬場信房が城郭として整備した。さらに時代が下り、仙石秀久が城を大改修して堅牢な城を築きあげた。明治13年に本丸跡に神社が祀られ「懐古園」と名付けられた。近代的な公園に改修されたのは大正15年のことだという。

 小諸城は3方を崖に取り囲まれた堅牢な城だったようだ。酔月橋下の谷は「地獄谷」と呼ばれている。水は流れていなかったが、かつては水を張って堀にしていたのかもしれない。馬場の先の崖を右に行くともう一つの展望台があった。富士見台。高校生の男女が仲良く並んで座っていた。お邪魔虫は即刻退散。そのすぐ横に白鶴橋がある。そこを渡ると動物園だ。これも別料金なので、橋の写真だけをとる。名前の通り白く塗られた鉄製のつり橋である。

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<写真>
上の3枚:白鶴橋、創造の森案内板、あづまや
下の3枚:懐古神社の池(真中は壁紙サイズ)、神社の鳥居

 道を戻り、懐古神社に行ってみる。真中に錦鯉が泳ぐ池があった。噴水も付いていてきれいな池だった。神社は写真だけ撮ってさっと通り抜ける。あづまやで一服。その後酔月橋を渡って外に出た。出口のすぐ横に鹿嶋神社がある。写真を撮ったが、もう夕方で逆行が差し込みアングルに苦労した。神社の斜め向かいに寅さん会館がある。時間があれば入ってみたいと思ったが、今日は素通り。建物と寅さん像の写真を撮っただけ。寅さん会館の向かいに小山敬三美術館がある。ここも美術館には入らなかったが、その前の所に様々な木を植え、いろいろな岩の見本などを配置した場所があった。そこがなかなかいい雰囲気だった。「イロハ英男ガッパ」(なでるとご利益があるそうな)なるユニークな彫刻もあり、結構見あきない。小山敬三美術館自体もユニークな作りで、写真をたくさんとった。小山敬三美術館の裏に千曲川を眺めるポイントがあり(「眺望百選」との札が横の柱に貼ってあった)、そこから赤い橋が見えた。あれは何という橋だろうか。いずれ日を改めて写真を撮りたいと思った。鹿嶋参道を通って駐車場に引き返す。

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<写真>
上の3枚:酔月橋、鹿嶋神社、寅さん会館前の寅さん像
下の3枚:小山敬三美術館前の公園

 帰宅後地図を眺めていたら、三ノ門料金所の前に三ノ門があり、そこに懐古園という看板がかかっていたことに気づいた。三ノ門自体の写真は撮ったのだが、裏側から撮ったので「懐古園」の題字が入っていない。いったん三ノ門をくぐって表側からも1枚撮るべきだった。う~ん悔しい。

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<写真>
小山敬三美術館(2枚)、美術館裏からの展望


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2007年9月25日 (火)

中国ばてばて旅行記07

  去年とおととしの中国出張は内モンゴルのフフホトと大連へ行ったが、今年は青島と北京に行ってきた。もちろんどちらも初めて。9月17日(月)から20日(金)までの実質4日間の旅。行きも帰りも自宅と空港の間は長距離タクシーを利用した。これが最悪。出発は夜中の2時半!とても車の中では眠れない。帰りは10時に空港を出発し家に着いたのがやはり夜中の2時過ぎ。やはり眠れない。終始強行軍の日程でいやはやとても疲れました。いつもなら旅行中は毎日日記を書くのですが、今回は現地で書いたのは前半の二日分だけで、残りの二日間は日本に帰ってきてからやっと書き足すという始末。そういう事情なので今回は今までのように2回に分けて書くほどの話題はありません。写真も前2回の中国旅行や3月の韓国旅行の半分も撮っていません。1回で済ませます。

* * * * * * * * * * * 

  見物した場所も多くはないので、時系列に沿って日記風に書いてゆくことにする。最初に行ったのは青島。青島海情大酒店というホテルに泊まった。このホテルがユニークな作りだった。客室部分はロの字型になっており、真ん中が大きな吹き抜けになっている。1階部分には店が並んでいる。そこまで行っている時間はなかったが、上からのぞいた感じでは中国風の空間でおおいに興味を惹かれた。部屋は広くはないが、悪くなかった。しかしシャワーが使いにくい。お湯の出が悪いうえに、カランとシャワーの切り替え方が分かりにくい。なんと蛇口の先端部分の出っ張りをつまんで思いっきり下に引くのである。しかもその蛇口がかなり低い所についているので、かがんで作業しなければならない。ガタンと音がしてシャワーに切り替わる。それにしても、どうして外国のシャワーはこうも使いにくいのか。日本ではどこの家庭にもある普通のシャワーがとんでもないぜいたく品に思えてくる。イギリスでも相当な年代物が現役で頑張っているが、中国のものはもっと使いにくい。バスタブがないタイプが多い。これには2年前に最初見たときびっくりした。まあ、ホテルではシャワーしか使わないから風呂がなくてもいいが、ガラスの仕切りの奥にがらんとした何もない空間があるのは日本人の目には異様に映る。バスルームではなく最初からシャワールームだと考えればいいのかもしれない。

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<写真>
青島海情大酒店(客室部分、ホテルのフロント)

  青島は、大連のある遼東半島の反対側、海を挟んで向かい合う山東半島の付け根近くにある街である。人口710万人(うち市区人口237万人)というから日本の感覚では大都会だ。1898年にドイツの租借地となった関係から、街並みが西洋風でとてもきれいだ。建物の屋根が赤(橙色?)で統一されていて、海の青、山の緑と合わせて三色がシンボルカラーらしい。青島は北京オリンピックではヨット競技の会場になるため、海岸地帯はきれいに整備されている。現地の人の話では昔は小さな漁村があったらしいが、今は跡形もない。車の移動が多くあまり歩く時間がなかったので、街並みを撮った写真がほとんどない。それが残念でならない。この街並みと有名な青島ビールがドイツの置き土産である。滞在した4日間ずっと青島ビールにお世話になりっぱなしだった。

  山がまた独特だ。木の生え方がまばらで、木々の間から岩肌が見えている。どことなく秋芳洞のような感じだ。ところどころ山が削られたようになっているが、あれは山を切り崩して家を建てるためだと説明を受けた。1年ぶりに行くと景色が一変しているのが今の中国。前回来た時には山だった所に家が建っているというのは日本ではほとんど考えられない。今年2年ぶりに大連へ行った同僚はあまりの変化にあっけにとられたそうである。それにしても、どうしてこんなに早く道路や建物が作れるのか。地震がないからいいものの、鉄筋なんかろくに入っていないんじゃないか。姉歯建築士も中国なら摘発されずに済んだだろうな。

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<写真>
青島の風景

  夜は海岸のすぐ横にあるレストランに案内された。何回か乾杯したが、フフホトのように強引にはやらない。70度のパイチュウを小さなお猪口に1杯勧められただけだ。これはさすがにきつかった。後は4日間ずっと青島ビール。去年のように二日酔いにならずに済んだ。料理は、とにかくテーブルにあいている場所がなくなるくらいたくさんの皿が出る。それが中国式だ。ある中国人が初めて日本でそばを食べた時、テーブルにそばしか出てこないのに面食らったと言っていた。日本人の食事はこんなに貧しいのかと思ったそうである。皿がテーブルを埋め尽くす壮観を見ればそりゃそうだろうと納得する。庶民的な店でも、値段はともかく皿は結構どのテーブルにもたくさん並んでいた。ただ、料理の味に関して言えば、中華料理独特の匂いがして必ずしもすべてがおいしいとは思わなかった。去年まではどれもおいしいと思って食べていたが、あれは前もって香草を入れないように頼んであったのかもしれない。タイ料理ほどではないが、あの匂いにはなかなか慣れない。

  翌日、海岸へ案内された。昨日夕食を食べたレストランのある所だ。すぐ横が海でクルーザーがたくさん停泊していた。そこで何枚か写真をとる。埠頭にマルコポーロやコロンブスなど何体かの像が立っていた。ホテルも海のすぐそばだったが、時間がなくて海まで行けなかった。ほんの束の間だったが海が見られたのはうれしかった。トラファルガー・スクエアのネルソン提督記念碑のような高いマストの上に立っている銅像(人物はだれか分からない)と貝殻をかたどった灯台が印象的だった。

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<写真>
青島の海岸

  北京では北京昌平商務会館というホテルに泊まった。「商務会館」という名前が気になり、本当にホテルなのかと心配していたが、行ってみると正面に大きくビジネスホテルと英語で書いてあった。そうか「商務会館」とはビジネスホテルという意味だったのか。しかしまあ中国は広い。飛行機でちょっと移動すれば全く違う風土の場所に着く。青島は坂が多いので自転車はほとんど走っていなかった。車の量も歩行者の数も多くはなく、ここなら自分でも運転できると思ったほどだ。ところが北京はまさに別世界。車と人と自転車が入り混じる混乱した道路。あちこちでクラクションがけたたましく鳴り響いている。そうそう、これでこそ中国。混雑と喧騒、混乱と活力、ベンツの横を日本ではまず見かけない年代物の三輪車やぼろぼろの輪タクが走っている街。青島が高級住宅地のイメージなら北京は(少なくとも僕らが行ったその北の外れは)庶民の街だった。ビジネスホテルだけあって翌朝何かの会合があるらしく三々五々と客が入ってきたが、ビシビシ仕事をこなすビジネスマンというよりは近所のおっちゃんたちという感じだった。

  正確な場所は分からないが、北京昌平商務会館は北京の北はずれにある。空港から高速を使っても1時間近くかかった。タクシーの運転手もこの辺は不案内なのか、何回も携帯でホテルにかけて道を聞き直していた。一度は間違えてUターンしたほどだ。とにかく周りは工場などが並んでいる地区で、見事に何もない。夕食を食べに行こうにもホテルの並びには店一つない。かと言って、疲れているのでタクシーで街中に出て行く気力もなかった。仕方がないのでホテルのレストランで食事した。中国語がまったくできないし、向こうは日本語も英語も分からないので苦労したが、幸いメニューには写真と英語の説明がついていたので何とか注文はできた。

  部屋は全部個室のようだ。若い女の子が3、4人ついている。みんなかわいい子たちだが、こちらがなかなか注文を決めないのでだいぶイライラしていたのではないか。何でもうまいと言う同僚Aと中国の食べ物は口に合わないという同僚Bの攻防が長々と続いた。僕は疲れているので何でもいいから早く決めてくれという心境。さんざん時間をかけて食べきれないほど注文した。ここの料理もにおいはきついが食べられないものはなかった。また青島ビールをガンガン飲んだ。これだけは確かにうまい。

  翌日の昼食は先方の案内で、近くの田舎の家を改造したレストランで食べた。民家は何の変哲もない長方形の建物だが、その横に別の木造の小屋(壁がないので巨大な東屋のような感じ)のようなものが建っている。民家の中で食べるか外(つまり東屋の方)で食べるかと聞かれたので、迷わず外にした(民家の中も見たかったと後で思ったが)。料理はやはり匂いが強かったが、結構おいしく食べられた。こんな田舎料理は旅行者ではめったに食べられないようだ。確かに客は地元の人たちばかりで、観光客はほとんどいなかったと思う。うどんのようなものが最後に出た。日本のうどんのような麺は中国にはないと思っていたが、やはりあるんだ。

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<写真>
田舎家、東屋、東屋の内部

  食事の後、「明の13陵」の一つ定陵に案内された。観光らしい観光はこれだけだった。案内した人も初めて行ったと言っていた。「明の13陵」とは明朝歴代13人の帝が葬られている13の陵墓のことである。かなり広い範囲にわたって転々と所在している。定陵の規模は長陵に次いで2番目に大きい。第13代万暦帝と2人の皇后、孝端、孝靖が葬られている。歩いている時は広すぎて分からなかったが、山一帯が皇帝の陵となっているらしい。観光用に公開されているのは、定陵、長陵、昭陵の3ヶ所と陵道である神路だけである。定陵は定陵博物館、稜恩門、稜恩殿、賢星門、明楼、宝城、地下宮殿などからなる。1590年に完成したということだから、400年以上前の建造物である。

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<写真>
定陵:左から博物館、正面の門、見取り図

  駐車場から敷地内に入ると、まず右手に博物館がある。正面には鮮やかな金色の屋根に赤い壁の門。皇帝の建物はすべて金色の屋根なのだそうである。左手には13陵の見取り図がある。門をくぐると先の方に階段がある。階段の真中は皇帝だけが通れるところで竜などの彫刻が施してある。皇帝はかごに担がれているのでそこは平らな斜面で階段にはなっていない。その両側に階段があり、かごを担ぐ人やわれわれ庶民はそこを登らなければならない。その先の門をくぐると正面に大きな建物が視界を遮るようにしてそそり立っている。それが明楼である。その下を右に行って地下宮殿の方に進んだ。地下宮殿という名前にだいぶ期待したが、ただ洞窟があるだけという感じでがっかり。写真も撮らなかった。地下宮殿を出て、明楼から下界を眺める。さすがにすごい眺めだ。楼の中にはモノリスのような記念碑が建っている。かなり広い敷地だが、案内してくれた女性は「ここは狭い」と言っていた。これを聞いて、中国人の広さに関する感覚は日本人のそれとは相当に異なると実感した。

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<写真>
皇帝の階段、明楼、明楼の記念碑

  中国滞在最後の日はどこにも行く余裕はなかった。4人の女性と一緒に昼食をとったのが一番楽しい思い出である。彼女たちはいろいろと日本人の舌に気を使ってくれたのか、中国料理が苦手な同僚Bも結構おいしいと言って喜んで食べていた。一番驚いたのは不思議な形のパンのような食べ物。名前は忘れたが、材料をそばのようにこねて丸めてから、ちぎるようにして引っ張って作るらしい。見た目には削りたての鰹節のような感じだ。平べったく長い形になる。これが何ともおいしかった。味はパンに近い。気に入って一人で結構食べてしまった。他にもたくさん料理が出た。中国はとにかくたくさんの数の料理が出る。いちいち覚えていられない。何度も食べる前に写真を撮ればよかったと思うのだが、そう思うのはいつも食べてしまってから。写真より食べる方に神経が行ってしまう。情けない。

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<写真>
明楼からの眺め、城壁のような通路、赤い壁と柿の木(とんでもなく大きい)

<追記>
 そうそう、忘れていました。気になっていて中国の人に聞いて確かめてみたことが一つあります。「孔雀 我が家の風景」で家族がそろってアパートの通路で食事をしている光景、あの不思議な光景について尋ねてみたのです。その方が言うには、中国の田舎ではよく見かける光景なのだそうです。なにもあんな人が行き来する通路で食べなくてもと思うのですが、文化や習慣の違いというのは面白いものですね。

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2007年9月23日 (日)

「夢がない橋」を発見!?

 金曜日に中国出張から帰ってきました。と言っても着いたのは夜中の2時。シャワーを浴びてすぐ寝て、また朝から仕事。地獄の日程でした。月曜日に出発した時も夜中の2時半。自宅から空港までは行きも帰りも長距離タクシー。マイクロバスサイズですが、とにかく揺れるのでとても眠れたものではありませんでした。新幹線で行けばよかったと今更ながら思います。青島と北京を回ってきたのですが強行軍の旅。ずっと体調を壊しっぱなし。詳しい中国旅行記はまた後でブログに載せます。

  さて、今日の土曜日は久々にゆっくりできた。11時まで寝てましたよ。もっと寝ていたいくらいだったが暑くて目が覚めてしまった。まったく、9月の下旬だというのに30度を超えるとは一体どうなってるんだ。

  十分寝たので元気回復。昼食の後また探索に出かける。今日も特に目的地は定めないままに出発した。丸子方面に走りだしたので、依田川の探索に向かうことにした。152号線を進み、以前写真を撮った腰越橋と立石の中間点あたりに車を乗り入れる。武石沖の交差点の少し手前あたり。車を停めて、歩いて川に向かう。以外に距離があった。川の表情は武石川との合流点あたりとほぼ同じ。大きな岩が川底にごつごつと飛び出している。ただ上流から流されてきたというよりは、もともとあった岩盤が川に削られて残っているという感じだ。上流側に堰のようなものがある。川の水を一部別の水路に引き込んでいるようだ。依田川のこのあたり、つまり武石川との合流点の少し上流あたりから「大渕・中渕」の少し下流あたりまでが一番野性的で好きだ。

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<写真>
依田川(2枚)、五反田橋

 車を出し、さらに上流に行く。前にも来た立岩あたりを川沿いに走る。前回は歩いて渡った駒形橋を今度は車で渡って、さらに奥まで行ってみた。坂道を上ってゆくとやや大きな道に出たので最初は左折した。特に何もないので途中で引き返す。今度は先ほど上がってきた道を通り過ぎてそのまままっすぐ進んだ。道はすぐ下り始める。このまま行けばまた川に出ると思ったら、案の定依田川に架かる橋に出た。橋を越えて近くに停車。橋の写真を撮る。五反田大橋という名前だった。すぐ上流にも青い色の橋が見える。そこからまた川沿いに上流方向に進んでみた。川はすぐ見えなくなり、町中の生活道路を走る感じになる。しばらく町中を進むと142号線に合流し、その142号線はすぐまた長久保の信号で152号線に合流する。142号線と152号線はそのまま1本になり、大和橋の信号でまた142号線と152号線に分かれる。その時左右が逆になる。つまり142号線と152号線はX状に交わっているわけだ。その交差するところが点ではなく短い線になっているということである。初めてここを通った時152号線をまっすぐ走っていたはずがいつの間にか142号線になり、またしばらくして152号線になっているので戸惑ったものだ。142号線(中山道)は和田峠に向かい、152号線は大門峠(白樺湖方面)に向かう。

 152号線を進むことにした。この道は今年2月にブランシュたかやまスキー場と不動滝に行った時以来だ。このあたりはスキー場がひしめき、白樺湖、女神湖、霧ケ峰、八島ヶ原湿原、長門牧場、蓼科牧場、ビーナスラインなど観光名所がたくさんあるところだ。いずれも一通りは行ったことがある。今回は依田川探索の延長なので、名所よりもやはり川にこだわりたい。川は道の右側を流れている。走っている時はそれが依田川だと思っていた。川の方向に下りる道があったので右折してみる。すぐ橋に出た。橋の手前に車を停める。橋の名前は大門橋。川は依田川ではなく大門川だった。よく地図を観直してみると、大和橋で142号線と152号線に分かれた時、依田川は152号線に別れを告げ142号線について行ってしまったのだ。この浮気者め。ちょうど大和橋のところで依田川に大門川が合流しているので気がつかなかった。大門川は152号線に沿って流れている。大和橋は142号線と152号線、さらには依田川と大門川が1点で交わる結節点だったのである。知らなかった。川に興味を持たなければ、永遠に気付かなかったかもしれない。

 それはともかく、話を大門橋に戻そう。橋自体は普通の橋だが(ただし鹿曲川の望月橋のように車用と歩行者用の橋が二つ並んで架かっている)、川の上流側が階段状になっていていい表情をしていた。上流と下流に別の橋がそれぞれ見える。橋の両端の横にそれぞれ石碑が建っていた。こちら側に立っているのは災害の記念碑だが、有名な大臣だったか首相だったかの名前が麗々しく彫ってあったので無視。反対側にあるのは小野沢戎平という医者の顕彰碑である。こちらは地域医療に尽くした人らしいので一応写真を撮った。橋のすぐ下流側には常福寺があった。赤い帽子とよだれかけを付けたお地蔵さんが並んでいたのでこれも写真に撮る。

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<写真>
大門橋、大門橋から上流を臨む、お地蔵さんたち

 下流の橋が気になるので道を戻ってそちらに行ってみる。しかしどうも橋の方に行く道が見つからない。少し先に行ったところで川の方に入る道があったので曲がってみる。すぐ橋があった。しかし先ほど見えた橋とは違う。さっき見えたのは白っぽい橋だったが、こちらはこげ茶色だ。とにかく近くに車を停めて写真を撮ろうとした。橋の名前を写真に撮ろうとした時、のけぞるほど仰天した。「夢がない橋」!?なんだこれは?どうしてこんなお先真っ暗な、東京凡太(古っ!)が命名したような夢もチボーもない名前にしたのか?いやはや橋の名前にもいろいろあるが、こんな身も蓋もない名前は聞いたことがない。あきれ果てながらしっかりと橋の写真を撮る。欄干に花を模したかわいいレリーフが付けられている。う~、花が枯れているデザインでなくてよかった。平成12年3月完成となっているのでまだ新しい橋だ。それにしてもこのネーミングの感性なんとかならないか。でも、考えようによっては珍しい名前なので、「こんなの知ってた?」シリーズでも作ろうかと本気で考えた。

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<写真>
夢がない橋(3枚)

 写真を撮り終えてまた元の152号線に戻ろうかと思ったが、今の道の先に何があるか気になったので少し先まで行ってみることにした。まさに正解だった。しばらく上ると道は下りになる。その先にまた橋があった。写真を撮ろうと名前を観たら、何と今度は「夢の架け橋」。もうここまでくれば唖然とするばかり。長門町に未来はないな。先ほどの橋とペアなのだろうが(こちらは平成11年完成なので1年早い)、「夢の架け橋」ときてはそのセンスはもはや絶望的だ。この橋を先に見てから「夢がない橋」に行ったら飛び降りる奴が出るぞ!そんなことを考えながら、一方でまた別の考えも浮かんでいた。これについては最後に書くことにする。

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<写真>
夢の架け橋(3枚、真中は川の上流側)

 あまりのことに頭がくらくらしながら車の方に戻る。その時不思議なことに気づいた。川の名前が大門川になっているではないか!?今峠を越えてきたはず。峠の両側を同じ川が流れているはずはない。だとしたら「夢がない橋」が架かっていたのは何の川だ?車で戻る時に「夢がない橋」が架かっている川の名前を走りながら確認した。やはり大門川になっている。どういうこと?とっさに川が流れる方向を確認してやっと納得がいった。要するに、大門川はぐるっと山を回り込むようにして流れていたのだ。「夢がない橋」は上流側、「夢の架け橋」は下流側。そういうことだった。しかしまあ、今まで出会った中では群を抜く不思議空間だ。年末までまだ3カ月以上あるが、「ゴブリン選定 輝け!不思議空間大賞2007」を授与しちゃおうじゃないの。

 また152号線に戻って、大門峠方向に向かう。仏岩温泉の看板があったのでそこに行ってみることにする。地図には仏岩橋も載っているので、案外いい橋かもしれないという期待もあった。行ってみると仏岩橋はなんてことない橋だった。白いガードレールの付いた貧弱な橋だ。がっかり。その先の仏岩温泉も閉まっていた。仏岩も探してみたが、それらしい岩は見当たらない。ただ、温泉から向かいの山を見ていた時はっとひらめいた。山のあちこちで岩がむき出しになっている。そのうちのどれかの形が仏に見えるということかも知れない。帰宅後ネットで調べたら当たらずとも遠からずというところ。向かいの山のてっぺんあたり、そそり立つ岩場の上に宝篋印塔という石塔が立っているらしい。「応長元年(1311)」と銘が入っているというのだからとてつもなく古い。そんな昔に一体誰が、どうやって運びあげたのか?謎の石塔らしい。

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<写真>
仏岩橋、仏岩のある山、夢かない橋

 ここまでで引き返す。家に着いてすぐデジカメの写真をパソコンに取り入れた。どうしても確かめておきたいことがあったからだ。パソコンの画面に「夢がない橋」の名前の部分を映し出した。やっぱり。いや~、お騒がせしました。よくよく見たら、「夢がない橋」ではなく「夢かない橋」だった。上で書いた「別の考え」とはこのことだった。つまり「夢叶い橋」。そういうことね。最初から漢字で書いておけよ。と八つ当たりしながらも、自分の早とちりを反省。そうかそうか、それなら「夢の架け橋」とペアになるわねえ。知り合いに落ち込んでいる奴がいたらここに連れてきて励ましてやろうか。でも「夢かない橋」の方はやっぱり止めておくか。落ち込んでいると僕みたいに勘違いして、いきなり川に飛び込みかねないからね。

<追記>
 この文章を書いていて、思い出したエピソードがある。まだ東京に住んでいた頃。場所は新宿駅の東口。駅からアルタ前に出ると、左のガードに昔は大きな映画の看板がいくつも並んでいた。ある時その中の一つに「日銀を越えて」というのがあった。ちょうど円高という言葉が日本人の間に定着しつつある頃で、円高問題を扱ったシリアスな社会派ドラマかと思った。しかしそれにしては絵が合わない。なんだかアルプスのような山が映っている。近くまで行って真相判明。「日銀」ではなく「白銀を越えて」だった。アドベンチャー・ファミリー・シリーズの最新作だったのだろう。いやあ、あの頃から目が悪かったのね。

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2007年9月22日 (土)

これから観たい&おすすめ映画・DVD(07年10月)

【新作映画】
9月22日公開
 「アーサーとミニモイの不思議な国」(リュック・ベッソン監督、フランス)
 「さらば、ベルリン」(スティーブン・ソダーバーグ監督、米
 「めがね」(荻上直子監督、日本)
9月29日公開
 「パーフェクト・ストレンジャー」(ジェイムズ・フォーリー監督、アメリカ)
 「エディット・ピアフ 愛の賛歌」(オリビエ・ダアン監督、仏・英・チェコ)
 「クローズド・ノート」(行定勲監督、日本)
10月6日公開
 「パンズ・ラビリンス」(ギレルモ・デル・トロ監督、メキシコ・スペイン・米)
 「白い馬の季節」(ニンツァイ監督、中国)
 「大統領暗殺」(ガブリエル・レンジ監督、イギリス)
 「リトル・レッド レシピ泥棒は誰だ!?」(コリー・エドワーズ監督、米)
10月13日公開
 「僕がいない場所」(ドロタ・ケンジェルザブスカ監督、ポーランド)
 「ふみ子の海」(近藤明男監督、日本)
 「キングダム 見えざる敵」(ピーター・バーグ監督、アメリカ)
10月20日公開
 「グッド・シェパード」(ロバート・デ・ニーロ監督、米)
 「ヘアスプレー」(アダム・シャンクマン監督、英・米)
 「クワイエットルームにようこそ」(松尾スズキ監督、日本)
10月27日公開
 「この道は母へとつづく」(アンドレイ・クラフチューク監督、ロシア)

【新作DVD】
9月26日
 「300」(ザック・スナイダー監督、アメリカ)
 「オール・ザ・キングスメン」(スティーブン・ザイリアン監督、米・独)
9月27日
 「檸檬のころ」(岩田ユキ監督、日本)
9月28日
 「長州ファイブ」(五十嵐匠監督、日本)
10月3日
 「黄色い涙」(犬童一心監督、日本)
 「輝ける女たち」(ティアリー・クリファ監督、フランス)
 「アルゼンチンババア」(長尾直樹監督、日本)
 「ひつじのショーン」(リチャード・ゴルゾウスキー監督、イギリス)
10月5日
 「ロッキー・ザ・ファイナル」(シルベスター・スタローン監督、アメリカ)
 「ツォツィ」(ギャビン・フッド、英・南アフリカ)
 「ラスト・キング・オブ・スコットランド」(ケビン・マクドナルド監督、イギリス)
 「ロッキー・ザ・ファイナル」(シルベスター・スタローン監督、アメリカ)
 「恋愛睡眠のすすめ」(ミシェル・ゴンドリー監督、仏・伊)
 「フランシスコの2人の息子」(ブレノ・シウベイラ監督、ブラジル)
 「ヴィム・ヴェンダース presents Rain」(マイケル・メレディス監督、米)
10月10日
 「ストリングス 愛と絆の旅路」(アンデルス・ルノウ・クラルン監督、デンマーク・他)
 「13/ザメッティ」(ゲラ・バブルアニ監督、フランス)
10月12日
 「あかね空」(浜本正機監督、日本)
10月13日
 「パッチギ! LOVE&PEACE」(井筒和幸監督、日本)
10月24日
 「クイーン」(スティーブン・フリアーズ監督、イギリス・他)
 「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」(松岡錠司監督、日本)
 「死者の書」(川本喜八郎監督、日本)
 「約束の旅路」(ラデュ・ミヘイレアニュ監督、フランス)
10月26日
 「ボンボン」(カルロス・ソリン監督、アルゼンチン)
11月2日
 「ドレスデン、運命の日」(ローランド・ズゾ・リヒター監督、ドイツ)
 「バベル」(アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督、仏・米・メキシコ)
 「ゾディアック」(デビッド・フィンチャー監督、アメリカ)
 「シュレック3」(クリス・ミラー監督、アメリカ)
11月7日
 「ダイ・ハード4.0」(レン・ワイズマン監督、アメリカ)
11月9日
 「しゃべれども しゃべれども」(平山秀幸、日本)
 「眉山」(犬童一心監督、日本)

【旧作DVD】
9月28日
 「王将」(48、伊藤大輔監督、日本)
 「無法松の一生」(43、稲垣浩監督、日本)
9月29日
 「ジャン・ルノワールCOFFRET DVD」(「坊やに下剤を」、「牝犬」、「素晴らしき放浪者」)
 「タルチュフ」(26、F.W.ムルナウ監督、ドイツ)
 「歴史の授業」(72、ダニエル・ユイレ監督、西独)
 「大阪の宿」(54、五所平之助監督、日本)
10月10日
 「ピンチクリフ グランプリ」(75、イボ・カプリノ監督、ノルウェー)
10月11日
 「ロアン・リンユイ」(91、スタンリー・クワン監督、香港)
10月27日
 「キッスで殺せ!」(55、ロバート・オルドリッチ監督、アメリカ)
11月8日
 「影の軍隊」(69、ジャン・ピエール・メルヴィル監督、仏・伊)

 劇場新作、DVD新作共に目につく日本映画が増えてきた。それでも傑作がそろった昨年Prima02 には劣る気がする。杞憂であればいいが。  新作映画では「めがね」、「パンズ・ラビリンス」、「白い馬の季節」あたりが期待できそうだ。リュック・ベッソンのアニメ「アーサーとミニモイの不思議な国」も気になる。ちなみに、今月はアニメの当たり月で、「ひつじのショーン」、「ストリングス 愛と絆の旅路」、「死者の書」、「シュレック3」、「ピンチクリフ グランプリ」など面白そうな作品が並ぶ。特に「死者の書」は待ちに待ったDVD化。1月には「川本喜八郎作品集」も出ている。
 新作DVDでは、人気の「300」、「ロッキー・ザ・ファイナル」、「ダイ・ハード4.0」などが出る。作品的にもっと興味を惹かれるのは「ツォツィ」、「ラスト・キング・オブ・スコットランド」、「しゃべれども しゃべれども」、「クイーン」あたり。他にも面白そうな作品が目白押しで、来月の新作DVDは充実している。
 旧作DVDの最大の収穫は坂東妻三郎版「無法松の一生」。三船敏郎版ではなくこちらを待ち望んだ人は少なくないはずだ。昼飯を1週間抜いてでも買っておくべき傑作である。「ジャン・ルノワールCOFFRET DVD」はめったに観られない初期の傑作を収録。貴重なBOXだ。中古品に高値が付いていた「影の軍隊」が再発されるのも朗報。ムルナウ監督の「タルチュフ」やブレヒト原作の「歴史の授業」にも大いに興味を惹かれる。

2007年9月16日 (日)

浅間サンライン脇道探索 「せせらぎ公園」を発見

 また浅間サンラインの脇道探索に出かけた。適当な道を左折して山側に向かう。ところがすぐT字路にぶつかる。仕方がないので右折。しばらくサンラインと並行して走る。よさそうな道があったので左折する。おそらく祢津(ねつ)小学校の手前あたりと思われる。しばらく坂道を上がると右側に不思議なものがあった。前にも見たことがあると後で思い出したが、柱が8本立っているのだ。てっぺん近くに切り込みがあるので、前は柱だけではなかった感じだ。捨てられたと思われる車が2台停めてある。その横には石塔のようなものが。その反対側は石を積み上げて小山のようになっている。一体ここは何なんだ。何とも不思議なところである。とにかく写真を撮った。

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 車に戻って先に進もうかと思ったが、ふと気付くと川の音がする。柱が立っているところのすぐ裏が谷になっていて、どうやら川があるようだ。川となれば見過ごすことはできない。車を停めたところの先に、川の方に下りてゆく小道があるので行ってみた。川に出ると橋があった。一瞬木の橋かと思ったが、木に似せて作ってあるだけだった。そばの看板に所沢川と書いてある。橋の名前は書いてない。とにかく橋の写真を撮る。川の反対側は川沿いに広場のようなスペースが設けてある。公園のようにも見える。ちょっとした隠れ里のような感じ。よく見ると旗などが立ててあるので、マレットゴルフか何かに使うのかも知れない。上流の方にダムらしきものがある。近くまで行って写真を撮った。いや驚いた。こんな不思議なところがあったなんて。あそこで車を停めて、川のせせらぎを聞かなければ気づかなかっただろう。思わぬ発見だった。

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 下流側にもう一つ橋が見えるのでそちらにも行ってみる。橋のところまで行くと看板があった。「せせらぎ公園」と書いてある。思った通り公園だった。さっきのところもやはりマレットゴルフ場だった。後で道路地図を確かめてみたが、緑色に染められてはいるが、公園の名前は書いてなかった。全く偶然の発見。最初からここに公園があると知って来れば、こんなものかと思ったかも知れない。しかし、道路からは全く見えないところにあるという意外性、小道を下りて林を抜けたとたん予想もしない光景が目に飛び込んでくる新鮮な驚き、それがこの場所を特別な空間に感じさせたのだろう。いきなり不思議世界に飛び込んだような感覚だった。ただのダムがこの空間の中では流水オブジェに見えるから面白い。同じ発見でも出会い方によってこれほど印象が違うものかとつくづく思った。これだから脇道探索は止められない。

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 二つ目の橋を渡って、丁度ぐるりと一回りした感じで車に戻る。さらに道を上がる。ダムの上に出たところで車を停める。看板に「所沢砂防ダム」とある。柵があって中には入れない。柵の手前からダムの写真を撮る。さらに上に行く。道が右にカーブしているところに面白い東屋があったので、それも写真に撮った。この東屋も見覚えがある。やはり前にも迷い込んだことがある道だ。東屋の横にムクゲがきれいに咲いていた。さらに先へ行く。そのまま行くと94号線に出るが、その手前で池を発見。車を停めた先に大きな看板がある(一部がはがれて垂れ下がっている)。それによると池の名前は前橋池、「県営かんがい排水事業」として作られたようだ。工期が平成12年3月までと書いてあるので7年前にできたことになるが、なぜかこれも道路地図には載っていない。その横に事業を記念した石碑が建てられている。もう夕方なのでこれで帰ることにする。そこから坂を下ってゆくと、サンラインの新屋の信号に出た。う~ん、しかし分かりにくいところだ。また同じ所へ行こうとすると迷いそうだ。

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2007年9月13日 (木)

亀も空を飛ぶ

2004年 イラン・イラク 2005年9月公開
評価:★★★★★
監督、脚本、製作:バフマン・ゴバディ
撮影:シャーリアール・アサディ
音楽:ホセイン・アリザデー
編集:モスタファ・ケルゲ・プーシュ、ハイデ・サフィアリ
出演:ソラン・エブラヒム 、ヒラシュ・ファシル・ラーマン 、アワズ・ラティフ
   アブドルラーマン・キャリム、サダムホセイン・ファイサル、アジル・ジバリ

 「何も知らない幼い子供たちと映画を撮ろうとした。イラクに旅した時に子供たちが丘の上でナッツを食べながら戦火を眺めていた。欧米の子供たちはポップコーンを食べながら映画を観るが、イラクでは現実の戦争を見る。」(バフマン・ゴバディ監督、DVDの付録映像より)

*  *  *  *  *  *  *  *

はじめに
 僕がクルド人の存在を初めて知ったのは85年にユルマズ・ギュネイ監督のトルコ映画Cphe 「路」を観た時である。「路」は社会派が制したと言われた82年のカンヌ映画祭で「ミッシング」(コンスタンチン・コスタ・ガブラス監督、アメリカ)とグランプリを分け合った。審査委員特別賞は「サン・ロレンツォの夜」(パオロ&ヴィットリオ・タヴィアーニ監督、イタリア)だった。「ミッシング」は82年、「サン・ロレンツォの夜」は83年に日本で公開されたが、「路」は85年になってやっと公開された。トルコ映画など当時の日本では全くなじみがなく(今でもそうだが)、ましてやクルド人問題など知る人はほとんどいなかったからだろう。

 国を持たない世界最大の少数民族クルド人。同じ民族なのに恣意的に引かれた国境線によりトルコ、イラン、イラク、シリアなどアラブ諸国に分断されて生活することを余儀なくされている。「路」に描かれたようにトルコでは分離独立を求めているために激しく弾圧されている。イラクでも同じだ。クルド人が最も多く住んでいるのはトルコで、2番目に多いのがイラクである。これまで僕が観たクルド人を主人公にした映画は以下の通り。

「ハッカリの季節」(エルデン・キラル監督、トルコ、83年)
「路」(ユルマズ・ギュネイ監督、トルコ、82年)
「遥かなるクルディスタン」(イエスィム・ウスタオウル監督、トルコ他、99年)
「少女ヘジャル」(ハンダン・イペチク監督、トルコ他、01年)
「酔っ払った馬の時間」(バフマン・ゴバディ監督、イラン、00年)
「亀も空を飛ぶ」(バフマン・ゴバディ監督、イラン・イラク、04年)

  すべてトルコとイランの映画だ。「ブラックボード――背負う人――」(サミラ・マフマルバフ監督、イラン、00年)にもクルド人が描かれている(バフマン・ゴバディも教師役で出演)。ギュネイの映画はユーロスペースを中心に6本観たが(うち1本は「獄中のギュネイ」という西ドイツ製作の記録映画)、ここでは「路」だけを挙げておく。「遥かなるクルディスタン」という映画のタイトルが象徴的だ。クルディスタンとは「クルド人の国」という意味である。「亀も空を飛ぶ」の舞台はイラク北部のクルディスタンとされるが、明らかにそれは「国」ではない。彼らにはいまだに「国」がない。自分たちの国を持つこと、恐らくそれが彼らの悲願なのだ。「亀も空を飛ぶ」でヘンゴウを演じたヒラシュ・ファシル・ラーマンはDVDに収録されたインタビューで、「将来クルディスタンにどうなってほしい?」との問いに次のように答えている。「すばらしい首都になってほしい。周辺のアラブ諸国の影響を受けない国になってほしい。」クルド人が夢見るクルディスタンはどこにあるのか。いつたどり着けるのか。その道のりはなお「遥か」である。

*  *  *  *  *  *  *  *

 日本で最初に公開されたイラン映画はアッバス・キアロスタミ監督の「友だちのうちはどこ」である。87年の映画だが日本公開は5年後の93年。同年公開の新作「そして人生はつづく」(02年)と共に大変な反響を呼び、「友だちのうちはどこ」はキネ旬で8位にランクされた(「そして人生はつづく」は34位)。僕も93年に2本を同時に観たが、その素朴な映像の新鮮さに衝撃を受けた。以来数は少ないもののイラン映画はコンスタントに輸入されてきた。ただ、ここ2、3年は映画祭などでしか観られなくなってしまったのが残念だ。

 アポルファズル・ジャリリ、アッバス・キアロスタミ、モフセン・マフマルバフ、マジッド・マジディ、バフマン・ゴバディ、このあたりがイランの代表的監督だろう。各種映画祭で上映されている最近のイラン映画を見ると知らない名前が多い。新しい才能も育っていると思われる。もっと劇場公開作品を増やし、DVD化も進めてほしいものだ。

「亀も空を飛ぶ」レビュー
 2005年に公開された映画の中で最後まで見落としていた重要な作品がこの「亀も空を飛ぶ」だった。マイ・ベストテンはだいぶ前に公開しているが、これを観ていない以上は暫定的なものにすぎないと思っていた。「わが故郷の歌」、「りんご」、「柳と風」、「ギャベ」など手元にありながら観る機会のなかったイラン映画のDVDが結構あるのだが、それらを差し置いても「亀も空を飛ぶ」を先に観たかった。ようやく観た「亀も空を飛ぶ」はもともと高い期待をさらに上回る傑作だった。さっそく2005年のマイ・ベストテンを書き換え、「亀も空を飛ぶ」を1位に据えた。

 ゴバディ監督は「酔っ払った馬の時間」で、イランとイラクの国境地帯で密輸を生活として暮らしている貧しい人々を描いた。主人公は両親を亡くした5人の兄弟。これはクルド語で描かれた実質的に最初の映画だった。命がけで密輸をしながら暮らしているクルド人たちの生活が驚くほどリアルに描かれていた。雪山を越えてゆく場面の美しさはネパール映画「キャラバン」(エリック・ヴァリ監督、99年)を思い起こさせる。

 「亀も空を飛ぶ」はその衝撃度および映画の完成度において「酔っ払った馬の時間」をさらに上回っている。子供たちが主人公である点は同じだが、その視点はより多面的になっている。「酔っ払った馬の時間」は、言ってみれば、「亀も空を飛ぶ」のアグリン、ヘンゴウ、リガーの3人を主人公にしたような映画だが、「亀も空を飛ぶ」ではむしろサテライトとその周りの子供たちを主人公にしている。そうすることで子供たちの明るさとたくましさを取り入れることができたのだ。アグリン、ヘンゴウ、リガーの3人を主人公にしていたら、クルド人の悲惨で過酷な生活をいやというほど描けただろうが、同時にまるで人類の業を一身に背負ったような出口のない苦痛に満ちた映画になっていたかもしれない。

 そうは言っても、「亀も空を飛ぶ」で描かれた世界が「酔っ払った馬の時間」よりも悲惨さが少ないというわけではない。むしろその逆だ。クルド人たちの村があるのは木さえほとんど生えていない荒れ地である。「本多勝一が書いていた。アメリカのインディアン居留地は何もないやせ衰えた土地である。何でもいい、草一本であれ、虫一匹であれ、生命の兆しが見えたらそこは既に居留地の外であると。それほど極端ではないが、クルド人が住む地域も荒涼とした原野ばかりである。」これは「遥かなるクルディスタン」のレビューからの引用だが、トルコでもイラクでも事情は同じなのだ。その村の一角にある丘には難民テントがぎっしりと建てられている。粗末な即席「村」だが、元からの住民たちの家もそう大して変わらないかもしれない。子供たちを指揮している才知に長けた少年サテライト(ソラン・エブラヒム)は、テレビで放送される英語のニュースを翻訳してくれたら「家」をやると村の長老たちに言われるが、もらったその「家」とはなんと戦車か装甲車の残骸だった。

Candle1_1  そのサテライト(本名はソラン)が丘の上にアンテナを立てている場面が最初に出てくるが、アンテナを立てさせていた老人が吐き捨てるように叫んでいた言葉が強烈だ。「空まで奪われちまった。水もなけりゃ電機もない。作物も育たないし校舎だってない。どれもこれもサダムのせいだ。戦争が近いのにニュースも見られない。」誠にもってもっともな不満だが、この映画の中では大人はほとんど脇役だ。因習に縛られ、こすっからく、金儲けしか頭にない大人たち。外国の番組は「汚れて」いて「罰あたり」だとこぼしながら驚きの目でテレビを見ている長老たち。しかし自分たちではアンテナも立てられないし、外国語も分からないので、子供のサテライトに頼り切っている。予言の能力を持っている少年を見つけて戦争について予言させればいい金になると言った老人。まるで店先に肉をぶら下げるようにして、武器を露店で売っている商人たち。生きるのに精いっぱいの子供たちに向かって「子供に必要なのは算数や理科だ」と説教する教師。

 最後に挙げた教師の言葉にサテライトは「算数ならできる」とやり返す。実際に算数の問題をやらせてみると子供たちは正しい答えを言っていた。生きるのに必要なのは金だ。金がなくても掘り出した地雷を金代わりに使える。地雷を掘り出したり、砲弾の薬きょうを積み上げたり、子供たちは既にそうして生活していた。理科の実験は知らなくても、生きるのに必要な計算力は身に付けている。「亀も空を飛ぶ」が描いたのは、与えられた条件下でたくましく生き抜いている子供たちの姿である。彼らは大人以上に働き、力いっぱい生活している。冒頭に引用した監督の言葉、イラクの子供たちは「ナッツを食べながら戦火を眺めている」という言葉は、まさにこの映画の本質を突いている。まるで芋でも掘り出すように地雷を掘り出している子供たち。それはまさに彼らの「日常生活」だった。両手を失った子供は口で地雷の信管を抜く。熟練の手技(口技)。早く大人にならなければ生きてゆけない。必要な知識はすべて現場で学ぶ。それが「戦場の村」に暮らす子供たちの宿命である。サテライトは地雷の値段について大人のブローカーとかけあって単価を上げさせている。アポルファズル・ジャリリ監督の「少年と砂漠のカフェ」(01年、イラン)でも、主人公のキャイン少年は大人に対して臆することなく対等にやりあっていた。

 手足を失った子供はベトナムにもカンボジアにもいた。チェチェンにもボスニアにもいた。戦争のあるところはどこでも「五体不満足」の子供があふれている。子どもが大人びているのも同じだ。日本だって終戦直後の混乱期にはそんな子供が国中にあふれていた。以前韓国映画「僕が9歳だったころ」(ユン・イノ監督、06年)のレビューでこう書いた。「人間は社会的存在だから、社会状況に応じて人間の意識も変わる。日本でも終戦直後の混乱の時期は子供も大人びていた。親がいなかったり、いても頼れなかったり、事情は様々だろうが子供も生き延びるためには大人にならざるを得ない。当時の写真を見ると、小学生くらいの子供がタバコを吸っている姿は珍しくない。石川サブロウの傑作漫画『天(そら)より高く』(潮出版社、原作半村良)はまさにその時代をたくましく生きた戦災孤児たちを描いたものである。」彼らも不発弾を掘り出し屑鉄屋に売ったりしている。子供のころから携帯を持ち、ゲームに興じ、塾通いで疲れ切っている今の子供の方がよほど異常なのだ。

*  *  *  *  *  *  *  *

 子供たちがみなサテライトやパショーたちのように明るくたくましく生きているわけではない。最初に名前を挙げたアグリン(アワズ・ラティフ)とその兄のヘンゴウ(ヒラシュ・ファシル・ラーマン)、幼児のリガー(アブドルラーマン・キャリム)たちに笑いはない。映画の最初に登場するのは印象的な赤い服を着た少女アグリンである。彼女は断崖絶壁の淵に佇んでいる。しばしためらった後、彼女は崖から飛び降りた。

 あまりに唐突なので彼女が本当に飛び降りたのかどうか観客には判断がつかない。不安な気持で映画を見続けることになる。映画の後半部分で、彼女が本当に自殺したことが分かる。サテライトを中心としたストーリーが縦糸だとすると、アグリンたち3人のストーリーはそれに横糸の様に組み合わされている。DVDのジャケットにもなっている彼女の顔は実に印象的だ。深い、深い悲しみをたたえた彼女の目。それがわれわれをとらえて離さない。彼女はまだ中学生1年生くらいの年齢なのに、既にしてこの世の地獄をみてきたのだ。彼女の愁いに沈んだ表情に表れていたのは絶望だった。それは彼女の顔から笑いを奪い、彼女の心から希望を奪った。

 彼女がその小さな背中に背負っていたものとは何だったのか。それは彼女一人の肩では到底背負いきれないほど重い「荷物」だった。彼女の兄ヘンゴウは両腕を失くしているが、希望を失わず生きている。腕がなくても頭突きで相手を倒すことができる。彼は妹ほど絶望に取りつかれていないが、やはり誰とも付き合わない。難民たちの中でも彼らだけ離れて暮らしている。小さなリガーはくりくりとした目がかわいいが、その目は見えなかった。そしてこの子こそがアグリンの悪夢だったのだ。最初は一番下の弟のように見えたが、実はアグリンの子供なのだ。サダムの軍隊に村が襲われた時彼女はレイプされ、その時にできた子供だったのである。彼女が背負っているものは、サテライトやパショーやシルクーたちが背負っているものよりもさらに重い。単に大人になっただけではない、母親になってしまったのだ。しかも望まぬ子を産んだ母親に。アグリンは背中にどんなに取り除こうとしても取り除けない宿命を背負っていたのである。

 新しい生命の誕生はしばしば希望の象徴として描かれる。しかしその命が彼女にとっては悪夢そのものだったのだ。どうしても乗り超えられない深い傷と苦悩。言葉を失うほど悲惨な宿命。同じ状況はボスニア紛争を主題にした「ビューティフル・ピープル」(ジャスミン・ディズダー監督、イギリス)の5つのエピソードの一つとして描かれている。5つの中で最も感動的なエピソードだ。理由も告げずしきりに子供を堕ろして欲しいと医者に頼むボスニア難民夫婦。実はこの子供もボスニアにいるときに相手の兵士にレイプされてできた子だったのである。戦争は国を離れても付きまとってくる。「彼らは体と一緒に苦悩と悲しみをロンドンに持ってきたのである。戦争は人間の心の中に憎しみと苦悩の種を植え付けるのだ」(「ビューティフル・ピープル」のレビューから)。悩んだ末夫婦は子供を産む決心をする。生まれた子供は「ケイオス(混沌)」と名づけられた。

 しかしアグリンは安全なイギリスにいるわけではないし、何といってもまだ少女なのだ。彼女にはこの重荷を背負いきれなかった。もちろん迷わなかったわけではない。彼女は飛X_dolls2 び降り自殺する前に、焼身自殺をはかっている。石油をかぶり火を付けた所に、夜眠れないリガーがふらふらと歩いてきた。その姿を見て彼女は我に返った。絶望という魔物に取り憑かれつつも、彼女は散々迷ったに違いない。「サダムの兵隊の子。私の子じゃない。」と言いつつ、「産めば母親なの?」と問いつつ(何という重い問いだ)、なおも一方で彼女はサテライトに赤い金魚が欲しいと言った。「目の薬になるって聞いたわ。」ただひたすら憎いだけならこんなことは言わない。絶望の淵に追いやられながら、なおも母親として悩む。その人間的苦悩が身を切るようなつらさで迫ってくる。なんとか二人で育てようと言う兄に彼女はこう言う。「今捨てなきゃ。その子が育って物心がついた時、他人にどう説明するの?その子にはなんて言う?村に置いていくのが一番いいの。」誰かに引き取ってもらった方がいい。子どもにとってもその方がいい。彼女はそう言っている。最初から死なすつもりではなかったのだ。

 しかし追い詰められた彼女は子供を泉でおぼれさせ、自らも死を選ぶ。「孔雀 我が家の風景」のレビューで「空を飛ぶという願い、それは自由への願いであり現実から抜け出したいという渇望を示している」と書いた。アグリンも飛んだ。崖から奈落に向かって。彼女は自由になったのか?苦悩から解放されたのか?それは正しい判断だったのか?それとも性急で誤った判断だったのだろうか?簡単には答えられない重い、重い問いだ。

 最後まで亀の甲羅のように重荷を背負っていたアグリン。子供らしさはとうに消えうせ、夢や未来を奪われた少女。思えば彼女は最初から死の淵に立っていたのだ。いつも赤い服を着ていた少女。その服の赤さは「シンドラーのリスト」の赤い服の少女よりずっと強烈に記憶に焼きついている。そう、まるで悲しみのピエタのように。

*  *  *  *  *  *  *  *

 「亀も空を飛ぶ」は「アフガン零年」(セディク・バルマク監督、03年)のように怒りが噴き出す映画ではない。「ライフ・イズ・ミラクル」(エミール・クストリッツァ監督、04年)のように戦争を笑い飛ばす映画でもない。一連のボスニア映画のように圧倒的な現実の前でただ呆然と立ち尽くすわけでもない。気がめいるほどリアルな現実描写に圧倒され、人間がこんなことであっていいのかという怒りを感じるが、政治的矛盾や人々の苦悩だけではなく子供たちの生きる強さ、明るさも描いている。リアリティを徹底して追求しながらも、ヘンゴウの不思議な予知能力など超自然的な要素を取り入れる余地を残している。霧に浮かぶアグリンの姿など、映像的にも素晴らしい効果を作り出している。「亀は空を飛ぶ」はドキュメンタリーの迫力とリアリティーを持つと同時に、フィクションの力を併せ持った類まれな作品なのである。

 底知れない絶望を描きながら、なお希望を描き得るのか?圧倒的な現実を前にした時、フィクションに何ができるのか?僕自身が何度も問うてきたことである。想像力は決して万能ではない。フリッツ・ラング監督の「メトロポリス」(27年)は未来社会を描いたSF映画だが、巨大なビルが林立する中を飛び回る飛行機は何と複葉機である。想像力も時代に制限されている。生まれてから一度も見たことのない色を想像することができないように、想像力には限界がある。想像力が生み出すのはそれまで経験してきた知識の新しい組み合わせなのだ。だがそこにまた可能性がある。現実との接点がある。つまり、創造力の源泉は現実なのである。

 ゴバディ監督が「亀も空を飛ぶ」で試みたのは人間を否応なく押し流してゆく現実の圧倒的な力を作品のエネルギーに変えることである。「私たちは大変な土地にいた。あらゆるところで爆薬の匂いがした。この匂いを映画に取り込むのは困難に思えた。役人の協力は得られたが、村人たちは映画を観たことすらなかった。」安全な映画館や家庭で映画を観る人たちにどうやって「爆薬の匂い」を伝えるのか。撮影は30人の護衛付きで行われたという。それがかえって不安を助長した。彼らは本当にわれわれを守っているのか。いつ自爆テロに襲われるかという不安に加えて、護衛そのものが信じられないという不安にさいなまれての撮影。その結果あのリアルな感じが出せたのだと監督自身は語っている。要するに絶えず現実の中に身を置いて、その場その場で脚本も臨機応変に変えながら作っていったからこそあのリアリティが出せたということだろう。大地に倒されるたびに大地から力を得てまた立ちあがってくるアンタイオスのように、彼は現実に圧倒されながらもまた現実から力を得たのである。映画は現実を直接変える力はないが、決して無力でもない。現実から力を得た映画が、今度は観客に力を与えるのである。

 戦争を日常として生きている子供たちの姿。地雷とともに生きることを余儀なくされている子供たちの日常。実際に両手がなく、片足がない子役を使っていることが映画にどれだけリアリティを与えていることか。彼らを誰も珍しがらない。それが日常なのだ。杖を突きながら片足で歩くパショーの動きの素早いこと。にわか仕込みではないリアリティ。銃の商人がサテライトに言った「無理して買うな。どうせ戦争で死ぬんだ」という言葉の説得力。アメリカ軍のヘリが撒いたビラに書かれている「この国を楽園に戻すため、君たちの苦しみを取り除くために我々は来た」という言葉の空々しい響き。「歯が痛い」というアグリンに兄が言った「石油を口に含んでおけ」という言葉。石油に正露丸のような効き目があるとは聞いたことがない(さすがはアラブの国だ)。日本ではあり得ない話だが、それがまたリアルに感じられてしまう。摩訶不思議なタイトル、幻想的な映像、不思議な予知能力、それらが生々しいイラクの生活描写と混じり合って監督の言う「魔術的リアリズムの世界」を生み出している。現実から力を得ると同時に現実に創造的加工を加え、ドキュメンタリーとはまた違うリアリティーを持った傑作を作り上げた。圧倒的な出来栄え。イラン映画の頂点に立つ傑作である。

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2007年9月11日 (火)

壁紙を作りました

    この間撮りためた写真の中から良さそうなものを選んで壁紙を作ってみました。かなり容量をとるので、無制限で使える別館ブログ「ゴブリンのつれづれ写真日記」に「ゴブリン壁紙 その2」、「ゴブリン壁紙 その3」としてアップしました。全部で36枚あります。コピー自由ですので、壁紙としてご利用ください。
  ここでは1枚だけ写真を付けておきます。茶房「パニ」のベランダからの眺めです。

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2007年9月10日 (月)

「ブロークン・フラワーズ」を観ました

Big_0046  「ブロークン・フラワーズ」を観た。突然昔付き合っていた女性から実は息子がいるという 手紙が来る(差出人は分からない)展開が「アメリカ、家族のいる風景」に似ていると聞いていた。しかし実際観てみると、誰が母親なのか探るために20年前付き合っていた5人の女性を訪ね歩くという展開は、むしろジュリアン・デュヴィヴィエ監督の「舞踏会の手帖」(1937)に似ている(男女が逆ではあるが)。エピソードをつないだような展開で、結局最後まで手紙の差出人が誰か分からない。ジム・ジャームッシュらしい、とぼけていて人を食ったなかなかいい映画である。どこか情けない主人公を演じるビル・マーレイが抜群にいい。コメディ映画やこの手の“とほほ”な味わいの映画が彼には似合う。

  それは役名にも表れていて、ドン・ジョンストンと名乗るたびにドン・ジョンソンではなく’t’が入るといちいち説明するところがおかしい。ドンはまた「ドン・ファン」にもひっかけられる。同じ時期に5人の「彼女」がいたというわけだから、若いころはだいぶ派手に遊んでいたようだ。しかし20年ぶりに会ってみるとみんなすっかりおばさんになっている。最初に訪ねたローラ(シャロン・ストーン)だけがいまだに若く美人である。彼女とだけしっかりとベッドを共にしてしまうというのだから、ジャームッシュもサービス精神旺盛だ(しかも娘が露出狂ときている)。

  最後に出会う若い男も彼の息子なのかはっきりしない。そもそもあの手紙はただのいたずらだったのではないか。映画の冒頭でドンの家を出て行った恋人のシェリー(ジュリー・デルピー)のいやがらせか?そんな疑問も浮かんでくる。本当に息子がいるのか、差出人は誰なのか、最後まではっきりとは分からない。それなのに観終わった時に不思議な満足感がある。どうやらこの映画が描きたかったのは「息子」の母親探し(手紙の差出人探し)の旅ではなく、過去の自分と今の自分を見直しさらにはこれからの自分を模索する旅だったようだ。ジュリー・デルピー、ジェシカ・ラング、ジェフリー・ライトなど共演陣もなかなか多彩。パソコン関連の仕事で大儲けしたものの、いまだに結婚もせず、寒々とした寂寥感漂う家で一人寂しく人生を送っている男のとぼとぼロード・ムービー。この間観た映画の中ではこれが一番いい出来だった。これは近くレビューを書きます。

  「ヨコハマメリー」以後に観た他の映画にも短いコメントを付けておこう。「デジャヴ」は荒唐無稽な映画だった。作りがいかにもハリウッド映画。展開はまったくのご都合主義である。最近のハリウッドはよほどアイデア詰まりのようだ。設定がそもそもあり得ないのだが、そこはまあ「バック・トゥ・ザ・フューチャー」みたいな近未来SFだと考えればいいか。舞台はニューオーリンズ。最後にハリケーン「カトリーナ」で被災した人々に捧げるというような言葉が入っているので、また元のニューオーリンズに戻ろうよというメッセージが込められているのかもしれない。それを理解した上でも、映画の出来は平凡だと言わざるを得ない。

  「アンフィニッシュ・ライフ」は劇場未公開だが、「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」、「サイダーハウス・ルール」、「シッピング・ニュース」などのラッセ・ハルストレム監督作品とあっては見逃せない。彼はアメリカに渡ってからも平均して優れた作品を作り続けている。当然出来は悪くない。老人二人と子供の出会いがテーマで、「ウォルター少年と、夏の休日」とよく似た作品。老人役のロバート・レッドフォードとモーガン・フリーマンがさすがにうまい。2人の演技に関して言えば、共に最近の出演作の中では出色の出来だろう。ただストーリーが弱い。話の展開がお定まりのパターンなのだ。その点が惜しい。

  「藍色愛情」は「山の郵便配達」や「ションヤンの酒家」のフォ・ジェンチイ監督作品。当然期待して観た。結果は全くの期待はずれ。いかにも無理に作った感じのストーリーで、全くリアリティがない。まるで韓国映画を観ている感じがした。なるほどこれでは未公開なわけだ。あのフォ・ジェンチイ監督がどうしてこんな情けない映画を撮ったのか首をひねりたくなる。チェン・カイコー、チャン・イーモウ、フォ・ジェンチイと実績のある監督たちが最近は外国のまねごと映画ばかり作っている。新しい才能も生まれてきつつあるが、中国を代表する巨匠たちがこんな状態では中国映画の先行きにやや不安を覚えざるを得ない。

  「ハッピー・フィート」も期待はずれだった。映像はピクサーだが、ストーリーがいかにもお手軽ディズニー。安直でいただけない。これまでピクサー作品に外れはないと思っていたが、この映画にはがっかりだ。氷の世界南極の描写など映像面ではさすがに素晴らしいが、話はできの悪いミュージカル映画。だいたい足の短いペンギンにタップダンスを踊らせるという設定にそもそも無理がある。大人も楽しめるアニメから子供だましのアニメへ後退してしまった。

Time2_2   何か気楽に観れるものをと思って久々に「特攻大作戦」を観直した。Dデイ前にドイツ軍将校を多数殺害し、指揮系統に混乱を与えるというもくろみで大胆な潜入作戦が企てられた。ほとんど決死隊なので、集められたのは死刑囚や終身犯ばかり。これもよくあるパター だが、札付きの不良兵隊ばかりを集めて叩き上げる前半の訓練部分がよくできている。チームの指揮官役リー・マーヴィンがさすがの貫録。鬼軍曹ならぬ鬼少佐。この時代には存在感のある俳優がうようよいたものだ。今の俳優でいうとトミー・リー・ジョーンズがタイプとして近いか。チャールズ・ブロンソン、ドナルド・サザーランド、テリー・サバラス、ジョン・カサベテスなど、今考えると豪華なキャストだが、リー・マーヴィンの前ではみんなただの若造にしか見えない。ベテラン勢では、無能な将校に扮して珍しくコミカルな演技を見せるロバート・ライアンと、終始リー・マーヴィンの肩を持つジョージ・ケネディがいい。クライマックスの戦闘場面もなかなかの迫力で、十分楽しめた。ロバート・オルドリッチ監督らしい重厚な作品。ただ、敵とはいえ非戦闘員の女性までも平気で殺すという描き方には疑問も残る。

「ブロークン・フラワーズ」(ジム・ジャームッシュ監督)★★★★☆
「アンフィニッシュ・ライフ」(ラッセ・ハルストレム監督)★★★★
「特攻大作戦」(ロバート・オルドリッチ監督、67年)★★★☆
「ハッピーフィート」(ジョージ・ミラー監督)★★★☆
「藍色愛情」(フォ・ジェンチイ監督)★★★
「デジャヴ」(トニー・スコット監督)★★★

2007年9月 6日 (木)

ヨコハマメリー

2005年 日本 2006年4月公開
評価:★★★★
監督:中村高寛
企画・制作:人人フィルム
プロデューサー:白尾一博、片岡希
撮影:中澤健介、山本直史
出演:永登元次郎、五大道子、杉山義法、清水節子、広岡敬一、団鬼六、山崎洋子
    福寿祁久雄、大野慶人、松葉好市、森日出夫、木元よしこ、五木田京子
    福寿恵美子、三浦八重子、山崎正直、山崎きみこ、湯田タツ

033799_2  もう30年近く前になるだろうか。1度だけ東京の福生に行ったことがある。何のために 行ったのかは忘れてしまったが、街の独特の雰囲気はよく覚えている。駅の周辺を歩いただけだと思うが、そこは確かに米軍のいる街だった。ちょうど夕方の時間帯で、一目でそれと分かる女性が街角に立っていた。道端に停まっている車の中にも、化粧の濃い女性が人待ち顔に座っていた。人が乗っているとは思わなかったので、薄暗い車内にぼんやりと浮かぶ女性の顔が目に入った時ドキッとした。  横浜がヨコハマだった頃、すなわち米兵がたむろする街ヨコハマだったころ、福生に似た雰囲気が漂っていたのだろうか。福生は松本清張の『ゼロの焦点』と深いかかわりのある街である(ひょっとしたら、この本を読んで実際にどんなところか見に行ったのかもしれない)。戦後が色濃く残る街。50~60年代のヨコハマを僕は知らないが、僕のイメージの中では福生とヨコハマは重なっている。

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *

  昨年は珍しく「三池 終わらない炭鉱の物語」、「六ヶ所村ラプソディー」、「ガーダ パレスチナの詩」、「ヨコハマメリー」、「蟻の兵隊」、「スティーヴィー」などドキュメンタリーの力作がそろった。今年も「コマンダンテ」、「スケッチ・オブ・フランク・ゲーリー」、「シッコ」、「ヒロシマナガサキ」などが話題になっている。ドキュメンタリー映画を積極的に上映してきた「山形国際ドキュメンタリー映画祭」、「ゆふいん文化・記録映画祭」、ポレポレ東中野などの果たした役割も大きい。特筆すべきことだろう。ドキュメンタリー映画はなかなかDVDになる機会が少ないが、ようやく「ヨコハマメリー」をDVDで観ることができた。

 僕は合計12年間東京に住んでいたが、横浜はほとんど行ったことがない。だからメリーさんのことは知らなかった。横浜に住んでいる人なら誰でも知っている伝説の存在だったようだ。白塗りの顔に目の周りだけが黒々とアイシャドウで縁どられている。上品な白い衣装に身を包み、大きなバッグを二つ持って伊勢佐木町あたりを徘徊する老婆。初めて出会った人は一様に驚き、ギョッとする。人を寄せつけないような独特のオーラがあったそうだ。都会のジョングルに出没する妖精(妖怪)のような存在。匿名性が特徴である大都会で誰もが知っている実在の人物。

 「ヨコハマメリー」はメリーさん本人ではなく彼女や彼女のいたころのヨコハマを知る人たちのインタビュー(特に永登元次郎さんは実質的な主役である)に焦点を当て、メリーさん に対する彼らの想い出や思いを描くことで間接的にメリーさんの人物像を浮かび上がらせようとしている。つまりメリーさんの実像ではなく、彼女の記憶の記録なのである。「ヨコハマメリー」を観て、僕は今井正の名作「キクとイサム」を連想した。黒人米兵と日本人女性の間に生まれた姉弟。戦争の置き土産だった(主演の高橋恵美子は現役のジャズ歌手高橋エミとして今も活躍している)。「ヨコハマメリー」もメリーさんの正体を暴くことではなく、人々の中に残る彼女の記憶を引き出し、同時に彼女がいたヨコハマを浮かび上がらせることに焦点を当てている。黒澤明の「天国と地獄」にも登場した米軍相手のバー「根岸家」の記憶を執拗に呼び起こそうとしているのもそのためなのだ。ただ欲を言えば、もっと当時の写真や映像をふんだんに映し出してほしかった。彼女はここに立っていたと言われても、今の建物を映していたのでは当時をイメージできない。建物や服装などをイメージするにはどうしても当時の映像が必要である。

 それでも、インタビューの中からヨコハマという街がメリーさんを排除するのではなく、受け入れていた様子は伝わってくる。ホームレスを中に入れるビルや店はまずないだろう。しかし家を持たないメリーさんに寝場所を提供し、客として受け入れていた所がいくつもあったということは記憶に値する。彼女が誰かにいじめられていたという話は一つもなかった(語られなかっただけかもしれないが)。

Photo  ヨコハマの人たちとメリーさんのかかわり合い、それはこの映画の重要なモチーフの一つである。当然彼女を煙たがっている人たちもいた。彼女と同じカップで飲みたくないと言ってきた客(ティーサロン「New相生」)、エイズが話題になったころにはメリーさんに使った櫛を使わないでほしいと言う美容院の客もいたという(ルナ美容室、湯田タツさん)。苦情を受けた店の対応には感心した。メリーさんに相応しい素敵なカップをご用意しましたよと言ってメリーさん専用のカップを用意したというのだ。クリーニング店「白新舎」は衣装全部を持ち歩けないメリーさんの服をたくさん預かっていたそうだ。引き換えの札が厚い束になるほどで、彼女専用のスペースまで設けていたという。ルナ美容室は客足が減るのを恐れてメリーさんの利用を断ったそうだが、そう語る湯田タツさんは本当に無念そうだった。できればそんなことは言いたくなかった、そういう気持ちが伝わってくる。人をそういう気持ちにさせる何かがメリーさんにはあったのだ。またそういうメリーさんをできる限り受け入れようとする人たちがヨコハマにはいた。そういうことをきちんと描いたことにこの映画の価値の一つがある。

 彼女に助けられた人たちもいる。メリーさんは芸術に対する優れた鑑賞眼を持っていたらしい。メリーさんが見に来るような公演は大当たりするので、いつも舞台の袖からメリーさんの姿を探していたという発言もあった。舞台芸術家の大野慶人さんは『ハムレット』のオフィーリアを演じる時に、メリーさんを参考にしたそうである。メリーさんが美しい香水のケースを慈しむように見ていた様子を身振りを交えて再現して見せる彼の口調にはメリーさんに対する畏敬すら感じられた。

 永登元次郎さんのインタビューも印象的だ。メリーさんが故郷に戻る前の数年間、ずっと彼女を支えてきた人だ。シャンソン歌手だが、ゲイであり若いころ男娼もしていたという彼自身も相当な人生の荒波をくぐりぬけてきた人である。しかもインタビューを受けた時には癌に侵されていた。メリーさんと心を通わせることができたほとんど唯一の人だったのもうなずける。彼には若いころ、再婚を考えていた母親に「パンパン」という言葉を投げつけてしまったという苦い思い出があった。なぜあんな残酷なことを言ってしまったのかという悔いが、本物のパンパンであったメリーさんを支えたいという気持ちに結びついたと語っている。男娼をしていた彼自身の経験も彼女とのきずなを深めたようだ。

 彼によると、メリーさんは誇り高い人で、人から施しを受けることを拒んでいた。「メリーさんにお金をあげたいと思っても裸では受け取ってもらえなかった。封筒に入れて“お花代”として、これできれいなお花でも買ってくださいと言って渡すと初めて受け取ってくれた。」住む場所がない彼女のためにだいぶ奔走したそうだ。映画は彼とのインタビューと彼のコンサートにかなりの時間を割いている。彼の思い出を通してメリーさんの姿を浮かび上がらせようという作りになっている。正直言って、映画の構成からすれば、彼に比重をかけすぎていると思う。彼が背負ってきた人生の重さを強調し、それをメリーさんの人生に重ねようとしている。そういう構成になっている。その点に多少疑問を感じないわけではない。

 しかし、メリーさんに対する彼の思いをじっくりと描いていたからこそ、ラストでメリーさんとTeien再会する場面が素晴らしいクライマックスになったとも言える。自分がまだ元気なうちに、もう一度メリーさんに会いたい。彼はメリーさんの入っていた老人ホームでの慰問コンサートを企画する。この時点で観客はメリーさんという人物にかなり引き込まれている。彼のコンサートにメリーさんは来ているのか?われわれは不安な気持ちで彼の歌を聞いている。キャメラは長々とステージの彼をとらえる。やがてキャメラはゆっくりとパンして観客席を映す。何度もうなづきながら聞いている素顔のメリーさんが画面に映った時、体に衝撃が走った。メリーさんは普通の老女に戻っていた。白塗りの仮面をとった彼女は上品なおばあさんだった。

 丹念にメリーさんのイメージを積み上げてきた構成が、ラストの強烈なインパクトを生んだ。そう言っていいだろう。われわれはラストで垣間見た彼女の柔和な顔とそれまで彼女が歩んできた人生を重ね合わせて見ずにはいられない。故郷でどんな少女時代を送り、54年に横須賀に流れてくるまでに一体何があったのか。メリーさんの手紙を観れば、彼女がかなりの教養を持った人であることが分かる。実に達筆である。あの年になって、自分はまだまだ未熟でもっと立派な人になりたいとはなかなか書けない。一体彼女はどんな人だったのか。そう思いをめぐらさずにいられない。そうさせるのは映画の力である。もちろんこの映画の目的は彼女の過去を暴くことではない。彼女は自分の過去を誰にも語らず、墓場まで持っていった。彼女はこの映画と森日出男さんが撮った彼女の写真の中でだけ生き続ける(彼女がうつむいてベンチに腰掛けている写真は素晴らしいショットだ)。それでいい。

 元次郎さんの歌う「マイ・ウェイ」や「哀しみのソレアード」は決してうまいとは思わないが、彼が歌に込めた気持ちは確かに伝わってきた。テーマ曲の「伊勢佐木町ブルース」の使い方も実にうまい。当時の雰囲気がよく伝わってくる曲だ。 

 戦後およそ20年たって作られた「拝啓天皇陛下様」(63年)の最後は「拝啓天皇陛下様 陛下よ あなたの最後のひとりの赤子(せきし)がこの夜戦死をいたしました」という言葉で結ばれている。しかしメリーさんはそれからさらに40年ほども戦後の混乱の時代を引きずって生きてきたのである。

<追記>
 「悲しみのソレアード」について。この曲はもともとイタリアのインストルメンタル・ポップスらしい。哀愁に満ちた曲で日本人には親しみやすい。ミレイユ・マチューやジョニー・マティスのフランス語と英語バージョン、由紀さおり・安田祥子の日本語バージョンなどいろんな人が歌っているが、僕は白鳥英美子の英語バージョンが一番好きだ。「トワ・エ・モア」からソロになって以降彼女は数々の名盤を世に送ってきたが、「ソレアード」は「アメイジング・グレイス」と並ぶ彼女の代表曲である。「Re-voice 白鳥英美子ベスト」などに収録されている。

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2007年9月 3日 (月)

路地裏探索 その2

 以前「路地へ」という記事を書いた。今回はその第2弾。タイトルは「路地裏探索」と若干変わっているが、「路地へ」の続編である。以後「路地裏探索」としてシリーズ化するつもりだ。路地裏探索といっても別に路地の写真ばかり撮るつもりはない。要するに、にぎやかな大通りを避けて脇道に入り込み、路地や目についた建物、石碑、もちろん川と橋なども写真に撮るつもりだ。

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<写真>
宗吽寺裏の路地、道祖神と路地、毘沙門堂

  車で上田旧市街へ。海野町の駐車場に車を停めて、路地裏探索に出る。鷹匠町から常田2丁目あたりを歩いてみる。このあたりも路地の宝庫だ。古い味のある建物も多い。横町通りを渡って駐車場の向かいの路地に入る。「ささや」の裏あたり。小さな駐車場の前に道祖神があった。上田はちょっと歩くとすぐ道祖神に出会う。宗吽寺(そううんじ)の横を回り込み、さらにまっすぐ進む。このあたりは細い道ばかりだ。突き当りを右折。141号線の方に向かう。途中に緑色の古風な建物がある。昔は病院だった建物だ。相当古びていたが、今は塗装を塗り直してきれいな建物になった。その建物の横の路地に入ってみる。初めて足を踏み入れるところだ。特にどうということはないのですぐ引き返す。途中素敵な家があったので写真を撮る。緑の家のすぐ先に毘沙門堂がある。その向かいに路地がある。ここは昔常田に住んでいた頃時々通った道だ。懐かしい。久々に通ったが思ったほど道は細くなかった。時々さらに細い路地に入り込みながら進む。路地の終点は秋野大宮社の裏側になる。回り込んで神社に入り写真を何枚か撮る。秋野大宮社はジャスコ/イオン横の交番前交差点を渡ってすぐ左手にある。

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<写真>
緑の家、毘沙門堂向かいの路地、秋野大宮社

 神社を出て141号線と並行して走っている細い道を上田駅方面に進む。79号線だが、むしろ江戸の五街道(東海道、中山道、甲州街道、奥州街道、日光街道)の脇街道であった北国(ほっこく)街道と言ったほうが分りやすいだろう。上田の中心街を東西に横断している。ここも古い町並みが少し残っているところだ。「犬神家の一族」(76年版)でロケ地になったところだ。金田一耕助(石坂浩二)がここを走ったわけだ。今回の再映画化でもこことやはり北国街道沿いの柳町で再びロケをしたようだ。再び横町に出て駐車場に戻る。

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<写真>
北国街道沿いの古い民家、蔦のからまる家、横町の路地(映劇前の通り)

  物足りないので、もう1か所回ることにした。上田城跡公園横の体育館駐車場に車を停める。駐車場の正面は市営野球場。映画「博士の愛した数式」でルートが野球の試合をするシーンがあるが、そのシーンはこの球場で撮影された。僕も観客のエキストラで出る予定だったが、当日になって気が向かなくなって行かなかった。その時はあんな傑作になるとは思ってもいなかった。行っていれば、深津絵里がナマで見られたかもしれないのに、残念。

 散策に出る前に駐車場の下にある軽食・喫茶「富貴」の写真を撮る。上田城跡と体育館の間の坂道にひっそりと建っている店。小さい建物ではないが、目立つ看板を立てていないのでうっかりしていると見落としてしまう。ごくたまにしか行かないが、静かで落ち着ける店だ。特に喫茶コーナーの内装が落ち着いていてお気に入りである。

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<写真>
富貴、旧松本街道の道しるべ、歴史の散歩道入口

 常盤城(ときわぎ)あたりを歩いてみる。ここは前にも一度たどってみたところだ。諏訪部、生塚(うぶつか)あたりである。まず旧松本街道をたどる。一部が「歴史の散歩道」になっている。距離は短いがお気に入りの場所だ。上田の住人でも案外知らない人が多いかもしれない。上田市はかつて養蚕で栄えた町。道の両側に立ち並ぶ立派な家々と路地の風情からかつての蚕都上田の繁栄ぶりがうかがえる。道には長方形のスレート状石畳が敷かれている。両側が壁になっている。右側は白壁に下部が黒板。相当歴史がありそうな立派なお屋敷である。左側も大きな邸宅の壁が続く。灯籠や植込みが美しい。竹垣のところは、その下に石が積んであり、緑の草が植えてある。ちょっとしたロック・ガーデン。この緑が実に鮮やかで、思わず写真に撮ってしまった。純日本的な路地。上田で一番好きな路地かもしれない。

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<写真>
歴史の散歩道(3枚)

 そこを抜けると右側に延命地蔵尊、正面に芳泉寺がある。芳泉寺は真田信幸の正室である小松姫の菩提寺である。そこを左折して坂を少し下り(玉姫殿の方向)、また左折して路地に入る。また歴史の散歩道を通って芳泉寺の所に出る。今度は右に行く。しばらく進むとT字路に出る。ちょうど角の所に石の道しるべがある。石に「北向観世音道」と彫ってある。石の形が道祖神に似ているので、横に案内板がないと気づかない。突き当りを左折。

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<写真>
石垣の緑、散歩道終点、延命地蔵尊

 道なりに進むと矢出沢川に架かる高橋に出る。高橋という橋である。面白いもので、高橋というと人名を思い出すので、実際に橋の名前として付けられると違和感がある。長谷川という川や中山という山があったらやはり違和感があるのだろうな。橋の名前だけではなく、そのあたりも高橋と呼ぶようだ。高橋のすぐ先(下流側)で川は湾曲している。そのカーブしているところは左岸に高い石垣があり、その下にやや広い河川敷がある。そこは山田洋次監督の「たそがれ清兵衛」で真田広之が大杉漣と決闘するシーンを撮ったところである。以前常田に住んでいた頃、ここまでよく自転車で来たものだ。眺めのいいところだが、「たそがれ清兵衛」で有名になったせいか、川の横にベンチを置いたりしてきれいに整備されている。「『たそがれ清兵衛』はここで撮影されました」などと大書したでっかい看板が立たないことを祈る。

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<写真>

石の道しるべ、高橋(2枚)

 そこから北の生塚の方に向う。国道18号の手前で右折。18号と向源寺の間の細い道を通る。向源寺の角で右折してまた矢出沢川に出る。向源寺の正面に赤い橋が架かっている。橋が参道になっているので赤いのだろう。橋の名前も向源寺橋と分かりやすい。また高橋を渡り、先ほどの道を引き返す。石の道しるべのところで右折すれば芳泉寺の方に戻るのだが、曲がらずに直進した。その道も北国街道である。白壁の土蔵がたくさん残っていたのだが、今は普通の道と大して変わらない。一か所だけうだつ(「うだつが上がらない」という時のうだつだ)が付いている古い民家があったので写真にとる。しばらく行って右折。まっすぐ進むと振り出しの体育館駐車場に出る。40分くらい歩いただろうか。気持ちのいい汗をかいた。

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<写真>

高橋(決闘の河原)、向源寺、うだつの上がる家

2007年9月 1日 (土)

孔雀 我が家の風景

2006年 中国 2007年2月公開
評価:★★★★☆
監督:クー・チャンウェイ
製作:ドン・ピン、クー・チャンウェイ
脚本:リー・チャン
音楽:ペン・ドウ
出演:チャン・チンチュー、ファン・リー、ルゥ・ユウライ、フォアン・メイイン
   チャオ・イーウェイ、リウ・レイ、ユィ・シャオウェイ、ワン・ラン
    シー・ジュンホイ、アン・ジン、リウ・グオナン、ワン・インジエ
    ヅォン・ビン、 ヤン・モン、リー・ウェンイン、ゴン・ナー、ワン・トン

  監督のクー・チャンウェイは中国でもっとも有名な撮影監督であった。「子供たちの王様」Ctea (87)、「紅いコーリャン」(87)、「菊豆」(90)、「さらば、わが愛/覇王別姫」(93)、「太陽の少年」(94)、「鬼が来た!」(00)あたりが代表作となるだろうが、いずれも中国映画を代表する傑作ぞろいである。「紅いコーリャン」と「菊豆」の赤や黄色を大胆に強調した鮮烈な映像も記憶に生々しいが、何といってもチェン・カイコー監督と組んだ「子供たちの王様」での音と映像をあえてずらした実験的撮影方法は新鮮だった。豊田利晃監督の「空中庭園」がいい例だが、奇抜な映像がいたずらに目立つのは却って嫌味になってしまうものだ。しかし「子供たちの王様」の場合、その映像は実に自然で、作品世界とむしろ溶け合っていて効果的だった。

  「孔雀 我が家の風景」はクー・チャンウェイの監督第1作である。俳優から監督業に進出する場合と違って、撮影監督から監督になって成功する例は多くない。撮影監督の場合、どうしても個々の場面に関心が向き、ドラマの展開という線的なつながりを意識するのは苦手なようだ。同じく撮影監督から監督に転向したホウ・ヨン監督の「ジャスミンの花開く」の場合、かなり色彩を意識した画面を作っていたが、3世代にわたる女性の家系を描いた映画なのに案の定さっぱり時間の流れが感じられなかった。どんなに映像に凝っても、ドラマそのものに厚みがないのではすぐれた作品にはなりえない。撮影監督としても監督としても一流の才能を持っているチャン・イーモウのような人はそうそう出てこないものである。

  「孔雀 我が家の風景」は登場人物への感情移入を意識的に避け、淡々と描いている。説明的な描写を極力排している。ストーリーの展開でぐいぐい観客を引っ張ってゆくという作風ではない。しかしそれでいて人物描写や生活感の醸成が貧弱だという印象はない。では、いかにしてこの映画のリアリティは成り立っているのか。たとえて言えば、クー・チャンウェイ監督はスーラの絵画のような点描画の手法を使ったのである。切れ切れの断片的記憶を紡いでゆく手法だ。一応全体は3部構成になっており、それぞれウェイホン、ウェイクオ、ウェイチャンというカオ一家の兄弟3人が各パートの中心になっている。しかしそれぞれのパートは明確に分けられてはいない。いつの間にか次のパートに移行しているというつなぎ方をしている。しかも、それぞれのエピソードがぶつぶつ切れて飛んでおり、前後につながりがない。この断片的エピソードの塊の間にテラスでの食事風景という印象的な映像を挿入して家族のつながりを暗示し、さらにその上にウェイチャンのナレーションをかぶせている。こうして、全体を通してみるとある輪郭を持った「家族の肖像画」がキャンバスに浮かび上がってくるのだ。それはかつてどこにでもあった我が家の原風景であった。クー・チャンウェイ監督はこうして撮影監督として積んだキャリアの強みを生かし、断片的ではあるがリアルな生活感にあふれた、新鮮なタッチの作風を作り出したのである。人生は滔々と流れる川の様なものかもしれないが、記憶として残っているのは切れ切れで、時間配列のあいまいな想い出の集まりなのである。思い出という描かれた対象と点描画的な描出方法が見事に一致している。「孔雀 我が家の風景」が成功した第一の理由はここにある。

  「家族そろって夕飯を食べた70年代の夏の光景を思うたび、僕の胸は感傷にうずく。今も多くの老人たちが覚えている、僕ら兄弟3人の物語を。」カオ一家の次男であるウェイチャンのナレーションは感傷的な響きを帯びている。しかし語りのノスタルジックな枠組みと語られた悲しい現実との間には大きなギャップがある。愁いを含み、過ぎ去りし日々を懐かしむノスタルジックなナレーションや音楽にもかかわらず、そこに語られたことの多くは悲しく、貧しく、潤いの少ない人生だった。時代は1970年代。文革が終わって間もないころ。映し出されるのは薄汚れた石壁の家々とそこで営まれていた貧しい生活。これといった将来の希望もなく、生きるにはつらい時代だった。「僕の胸は感傷にうずく」という言葉とは裏腹に、その想い出は苦くて辛い。決して舌触りのいいものではなかった。「孔雀 我が家の風景」はただ甘いノスタルジーに浸る映画ではない。

  最初に焦点があてられるのは次女のウェイホン(チャン・チンチュー)である。彼女のエJewelgrape5 ピソードでまず印象的なのは家の屋上に寝転がって空を見上げるシーンだ。台所で切った野菜(芋?)が並べて干してあり、そばにはシーツもたくさん干してある。生活のにおいに取り囲まれながら、彼女の心は別の所に飛んでいる。中島みゆきの「この空を飛べたら」という名曲がある。空を飛ぶという願い、それは自由への願いであり現実から抜け出したいという渇望を示している。彼女には何もなかった。やりがいのある仕事、愛し合うべき恋人、打ち込んで実現すべき夢。彼女にはどれもない。10年続いた文革が終わって、ふと気付いたら心の中にあるのは空虚感だった。苦しい時代が終わり、ようやく新しい時代に向けて歩み始めたばかりの混乱期。ウェイホンは何よりも自分自身を見出せないでいた。彼女にあるのは今の境遇から抜け出したいという漠然とした願望だけだった。

  何かを求めるように空を見上げていた時、大空に花開くパラシュートが目に入った。人も空を飛べる!矢も盾も止まらず、ウェイホンは自転車に飛び乗り原っぱへ向かう。空から降りてきた訓練兵たちのうれしそうな顔。そして目の前に降り立った若い男の兵士に心を奪われてしまう。 彼のパラシュートがウェイホンの体にかぶさる。まるで幸せに包まれた感覚だったのだろうか。面白くもないビン洗いや幼稚園の仕事。潤いのない生活に倦み果てていた彼女は、「空を飛ぶ夢」に飛びつく。彼女は行動した。これは大事なことだ。ただじっと我慢し、心の中で夢を追っていたのではない。彼女は夢を求めて行動した。しかし彼女の夢はどれも実現しなかった。

  原因はおそらく彼女自身にあった。彼女が抱いた夢の質にあった。何も夢を持てなかった文革時代の反動で、彼女は夢そのものを夢見ていたのである。身の丈に合わない夢だったというだけではない。彼女が追い求めていたのは鬱屈した彼女の心の中で膨らんでいった抽象的な願望だった。ああ、こんな狭苦しい地上を離れて、大空を自由に飛び回りたい。誰にでも理解できる夢だが、彼女の願望はおそらく軍隊に入隊できても満足できるものではなかった。すぐパラシュート訓練にも飽きて、今度は息苦しい軍隊から逃れたいと思っていただろう。彼女の夢はむしろ夢想であって、「現実逃避」が形を変えたものだったのではないか。だから何をやっても満足できないのだ。地に足がついていなかった。

  満足できないから次々に目標を変える。軍隊に入隊できないと分かると、青い布を使って自分でパラシュートを縫い、自転車にパラシュートを付けて町を走り回る。中年の男が弾くアコーディオンの音に魅せられて、義理の父になってくれとその男に迫る。

  確たる目標を持たない彼女はいたずらに迷走するばかり。結局彼女はシャオワンという堅実そうだが平凡な男と結婚することになる。映画はそういう彼女を冷静に突き放して描いている。決しMoontalisman3 て彼女に感情移入させない。むしろ彼女の唐突な行動に戸惑いを覚えるくらいだ。しかし、重要なことは、それでもわれわれは彼女に惹かれてしまうということだ。その象徴的なシーンは青いパラシュートを引いて自転車で走るシーンだ。誰もがこのシーンに言及する。それだけ印象的なのである。パラシュートの青い色が鮮やかだということだけがその理由ではない。パラシュートを引いて走っている彼女は輝いていた。本当にうれしそうだった。その時彼女は空を飛んでいたのである。人は夢や希望なしには生きてゆけない。たとえそれがどんなに手の届かない夢であっても。顔を輝かせ嬉しそうにパラシュートを引いて走っている彼女の姿に、なんとか自由になりたい、もっと潤いのある生活をしたいという彼女のひたむきな願いを感じるからこそ、このシーンがわれわれの胸に迫ってくるのである。その彼女の願いが実現しなかったのは、自分が何を求めているか彼女自身にも分からなかったからだ。文革が終わり、突然戻ってきた自由。しかし道が開けたとたん、どの道を選ぶのか自分で選択しなくてはならなくなった。自由の前で彼女は戸惑っていた。自由への渇望だけが空回りしていた。しかも小さな田舎町、望んでも手に入るものは多くはない。彼女の願望は行き場がなかった。

  次に長男のウェイクオ(ファン・リー)のエピソードに移ってゆくが、その前に家族で食事をする光景がまた写される。上で引用したナレーションはここで流されたものだ。アパートのテラス状の通路で食事をするという光景は日本ではまず見かけないものだ。他人に見られながら食事をするのでは落ち着かないだろうと日本人は思うが、それでもどこかほのぼのしたものを感じる。それはおそらく家族で食卓を囲むという姿が一家団欒のイメージと重なっているからだろう。テレビのホーム・ドラマには必ず食事のシーンが出てくる。核家族化が進んだ現在ではむしろフィクションだが、それでも一家団欒のシーンにはある安らぎを感じざるを得ない。そのほのぼの気分をノスタルジックなナレーションがさらにあおる。

  しかし、その後に描かれるウェイクオのエピソードはこれまた「ほのぼの」というイメージからは程遠いものだった。ウェイクオは巨漢で丸々と太っている。ひときわ体が大きいので、最初彼が一家の父親かと思ったほどだ。よく見ると父親は隅の方で小さく体を丸めている。ウェイクオは知的障害を持っている。しかし長男でもあるし、また障害を持っているだけに両親は彼にばかり気を使っている。

  このパートは彼が自転車に乗る練習をしているところから始まる。妹は軽々と自転車を飛ばしていたが、兄はふらふらとしてうまく乗れない。何をやっても思い通りいかないという点では妹と同じだが、ウェイクオの場合全く屈託がない。人が良く、馬鹿にされていてもそれに気づいていない。多くを望まないから、ちょっとしたことで満足している。

  その典型的なエピソードは製粉工場で働いている場面だ。体が大きいので力仕事をしている。他人の分まで代わりに働いて、お礼にタバコをもらって満足していた。柳行李のようなものに押し込められて、中で寝ていたりする。仕事仲間にからかわれているのだが、自分ではそれに気づいていない。帰りが遅いので心配して探しに来た父親に僕の稼ぎだとタバコを差し出すが、父は怒ってそれを叩き捨てる。ウェイクオは父に見下されたと感じがっくりきている。「お前に損をさせたくないの」と慰める母。しかしウェイクオは損してないと言い返す。

  それでも両親は長男である彼を一番かわいがっている。飴を家族で分け合う場面が出てくるが、父親が自分の分け前の一部をウェイクオに差し出すので、仕方なく弟と妹も差し出す。ウェイクオが一番多く飴をもらった。弟はこの兄の存在を疎ましく思っている。しかし妹のウェイホンは自分が結婚することになった時、「結婚用に取っておいて」と母親からもらった時計を兄に渡している。あるいは兄が仕事仲間にいたずらされて泡を吹いて倒れた時には、人に頼んで仕返しをしてもらった。ふらふらしているウェイホンだが、彼女は優しい娘なのだ。

  一方、弟のウェイチャンはウェイクオが兄であることを学校ではひたすら隠そうとしていた。次のエピソードは強烈である。優しい兄はある雨の日、学校にいる弟に傘を持ってゆく。教室にいきなり入ってゆくところが彼らしくて可笑しい。だが弟のウェイチャンは彼を自分の兄ではないと否定するのだ。恥ずかしそうに下を向いて顔を隠している。兄はそれを聞いて黙って傘を置いて教室を出る。ある生徒が残酷なことを言ったのはその後だ。「その人知ってます。ウェイチャンの兄“ブタの角煮“です。」 教室を出たウェイクオは女性の歌声に惹かれて女子トイレの前で歌を聞いていた。トイレから出てきた女子生徒に痴漢と間違えられ、大騒ぎとなる。みんなに取り囲まれて殴られるウェイクオ。弟はこん奴兄じゃないと言って傘の先で兄を突き刺す。このシーンは観ていて腹が立った。生徒たちがウェイクオを袋だたきにしたことに対してではなく、弟の卑劣さと卑屈さに対して。弟の性格が情け容赦なくあぶり出されている。

  周りから散々馬鹿にされ、いじめられてきたウェイクオだが、彼のパートが実は一番感動的なのである。彼にはメイリンという好きな女性がいた。もちろん相手は彼のことなど気にも留めていない。それでもウェイクオはひまわりを持ってメイリンに話しかける。そのひまわりのでっかいこと!もちろん相手にはされない。あんな大きなひまわりを持ってゆくなど常識外れだが、そのひまわりに込めた彼の気持ちが可愛く、また切ない。ウェイホンのパラシュートのシーンを想わせるいい場面だ。

  しかしその後に来るエピソードはより感動的である。彼を持て余した両親は福祉作業所に入れてしまおうかなどと相談したりもするが、縁があってやはり障害を持ったジンジイと見合いをさせることになる。2人は互いに気に入って結婚することになる。街に住めるだけでうれしいというジンジイの台詞が実に印象的だ。彼女もつらい人生を送ってきた。彼女の親は兄と弟ばかりかわいがっていた。子供のころ彼女が足をけがした時も、治療費をケチったためけがは治らなかったというのだ。

  彼女は昔からそんなに太っていたのかとウェイクオに聞く。彼も子供のころ病気をしたためにそんな体になってしまったのだ。同じ兄弟なのに「ほかの二人は病気にならない、不公平ね」というジンジイの言葉には彼に対する同情だけではなく、同じ境遇の自分に対する憐れみも込められていただろう。互いに相手のつらさを理解しようとする2人の姿勢に深く胸を打たれる。「覚えておいて。誰にも頼れない。お互いだけ信じるの。」2人は元手となる資金を親に出してもらい、屋台の店を出す。

Sdcawin301   3人の兄弟の中で一番「成功」し、堅実に生きているのはウェイクオなのである。ひどいいじめも描きながら、寄り添って生きて行く二人を見つめる視線は温かい。しかしこの作品の優れたところは、決して情に流されないところである。二人が結婚する前に胸の痛むシーンが描かれている。兄の存在を迷惑としか感じられない弟のウェイチャンが思い余って兄に毒を飲ませようとするのである。幸い姉が気付いてコップの水を捨てる。父も見ていた。翌日、テラスで食事している時、母がガチョウにその薬を飲ませる。ガチョウは苦しみながら死んでゆく。口下手な両親だが、どんな説教よりもこれは強烈な教訓だった。ガチョウのもだえ苦しむ姿はそのままウェイチャンの心のもだえを表していた。

  最後のウェイチャンのパートの前にまた家族で食事をする光景が映し出される。静かで美しい曲とともにウェイチャンのナレーションが流れる。「家族がそろっていた日はもうはるかに遠い。後に皆が言った、若いころの僕は影のように寡黙だったと。」懐古調の美しいナレーションを性格が歪んでしまったウェイチャンが語っているギャップが逆に効果的だ。両親は長男をかわいがってはいたが、一番期待していたのは一番成績が良い次男のウェイチャンだった。父親自身がそれを端的に語っている。「今の社会はとにかく知識なしではダメだ。しっかり勉強しろ。兄さんも姉さんも能なしだ。絶対あんな人間になるな。」残酷な言葉だが、父親は励ましたつもりなのだろう。しかしその直後、ウェイチャンの持っていた本に裸の絵を書いた紙がはさんであるのを見つけてしまう。父親は激怒し、ウェイチャンは勘当されてしまう。彼は家出した。

  シャオワンと結婚したウェイホンはガラス工房で働いている。ウェイクオの商売はうまくいっているようだ。子供たちはみんな家を出て行ってしまった。テラスで夫婦二人きりで食事する両親の姿が何ともさびしい。しかしまた家族は集まってきた。ウェイホンはシャオワンと離婚して家に戻ってきた。両親とウェイホンが家で「君よ憤怒の河を渉れ」を観ていると、ウェイチャンが婚約者のリーナとその息子を連れて帰ってくる。彼はサングラスをかけ、すっかりやくざ風になっている。実際彼は指を詰めていた。

  商売をしているウェイクオを除いて、家族はまたそろった。しかしもう元の家族ではない。ウェイチャンは仕事もせずぶらぶらしている。前は子供一人だったが、今は2人も養わなければならないと妻のリーナが嘆くのももっともだ。ラストは動物園で孔雀を見るシーンである。娘と夫を連れた(再婚して娘を生んだようだ)ウェイホンたちが通り過ぎ、次にウェイクオとジンジイが通り過ぎる。最後にウェイチャンとリーナが息子を連れて孔雀を見てゆく。その間孔雀は一度も羽を広げない。諦め顔でウェイチャンは「冬は孔雀も羽を広げない」とつぶやく。彼らが去った後孔雀は羽を広げた。

  次々に現れる夢に手を伸ばしながらも、ついに夢に手が届かず、平凡な結婚をしたウェイホン。親からも周りの人たちからも馬鹿にされていたウェイクオは一番確かな人生をつかむ。しっかりしているかに見えたウェイチャンは家を出て、子連れの女性と結婚。やくざな人生を歩んでいるようだが、ナレーションからすれば彼はいつまでも彼女のお荷物でいたわけではなさそうだ(最初に登場した頃は、1元貸してほしいと言う姉に2元貸してあげる優しい子だった)。ついに羽を開くことなく逝った父。羽を開くことなく老いた母。人生は長く平凡だが、また変転極まりない。悲しみもあるが、ささやかな喜びもある。3人の兄弟は幸せではないかも知れないが、それでも生きていた。大局的には何事もなかった人生。しかし数限りない出来事やエピソードが詰まっている。

  家族は互いに反発し合い、また受け入れる。家族は減り、また増える。そうして時は過ぎてゆく。「人生」と言ったとたん、それは抽象的になってしまう。人は今を生きているが、それは次々に「過去」になってゆく。懐かしく過去を振り返った時、過去は美しく思い出されがちである。しかしこの家族の過去は悲痛だった。長男はみんなに馬鹿にされ、妹は人生の夢をつかみ損ね、弟は長兄を疎ましく思う。父親は長男と娘を無能だと感じ、次男は家を飛び出す。悲しく、つらく、厳しい現実がいつまでも続く。それでも最後に懐かしく思い出されるのは、家族全員がそろってテラスで食事をする光景だった。常に、そして最後までばらばらの家族であったからこそ、家族全員がそろっての食事が特に強く記憶に残るのだ。何度も出て行こうとした。でもまた戻ってしまう。なぜならそこが故郷だからである。家族の記憶が染みついている町だからである。皮肉な運命に家族はバラバラになるが、また寄り添っていく。

  誰もが平凡で特別な才能など持ってはいない。しかし子供たちは結婚し家族を持った。映画はラストで、彼らに美しく羽を広げた孔雀を贈った。羽を広げた孔雀を誰も見なかった。やっと開いた時にはみんな通り過ぎた後だった。だが、この結末部分は決して人生の皮肉を暗示しているのではない。平凡な人生ではあっても決して無意味な人生ではない。辛い日々ばかりが続くわけではない。孔雀もいつかは羽根を開く。自分が気づかないでいるだけだ。辛いいことや哀しいことが多かった人生でも、懐かしく思い出せる人生であるなら、それは生きるに値する人生だった。映画はそう言っているのだろう。

 

<追記>  今年の9月に中国へ出張した時、家族がそろってアパートの通路で食事をしている光景、あの不思議な光景について北京の人に聞いてみました。その方が言うには、中国の田舎ではよく見かける光景なのだそうです。なにもあんな人が行き来する通路で食べなくてもと思うのですが、文化や習慣の違いというのは面白いものですね。

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