王の男
2006年 韓国 2006年12月公開
評価:★★★★☆
監督:イ・ジュニク
脚本:チェ・ソクファン
撮影:チ・ギルン
原作:キム・テウンの戯曲「イ(爾)」
照明監督:ハン・ジウプ
衣装:シム・ヒョンソップ
アートディレクター:カン・スンヨン
音楽:イ・ビョンウ
出演:カム・ウソン、チョン・ジニョン、カン・ソンヨン、イ・ジュンギ、チャン・ハンソン
ユ・ヘジン、チョン・ソギョン、イ・スンフン
最初にこの映画の基本的性格をはっきりさせておくのがいいだろう。コンギルという美しい男に注目が集まっているために、あたかも「プルートで朝食を」、「キンキー・ブーツ」、「トランスアメリカ」、「ブロークバック・マウンテン」などの系統に属する作品と受け止められているような気がする。しかしこの作品は、むしろ、シェイクスピアの史劇を多分に意識した重厚な歴史劇として構想された作品であり、そういうものとして高く評価されるべきだと思う。おそらく『マクベス』、『リア王』、『ハムレット』などが意識されている。また、旅芸人たちが歴史の波に巻き込まれ翻弄されるという点ではテオ・アンゲロプロス監督の「旅芸人の記録」やチェン・カイコー監督の「さらば、わが愛 覇王別姫」に通じ、盲目の芸人という点ではイム・グォンテク監督の「風の丘を越えて」に通じる。そういう作品である。
チャンセン(カム・ウソン)、コンギル(イ・ジュンギ)、そしてユッカプ(ユ・ヘジン)、チルトゥク(チョン・ソギョン)、パルボク(イ・スンフン)といった芸人たちは社会の最下層の人間たちの代表であり、同時に特にチャンセンの場合は『リア王』における道化のような役割を持たされている(「王の男」の原題は「王と道化」)。しかも芸人たちは王に忠誠を誓う気がないだけに、その批判は最初こそ当てこすりであったが、最後には直接的で痛烈な批判になる。社会の最下層の人間たちを王宮に入り込ませることによって、王や重臣たちの資質や政治の腐敗を批判して見せる。「腐った世の中」というチャンセンの台詞はその意味で「世界のタガが外れてしまった」というハムレットの台詞に重なる。さらに複雑な人間関係を絡ませて、陰謀や嫉妬や人間愛をめぐる人間ドラマにしている。前半は喜劇的色彩が強いが、後半はシェイクスピア劇のような台詞をちりばめ、権力批判と人間ドラマと歴史の激動が一つに収斂してゆく壮大な悲劇へと変わる。王の煩悶も描かれるが、真に焦点を当てられているのは虫けらにも等しい芸人たちの葛藤であり命を捨てても真実を語ろうとする執念である。
喜劇と悲劇に対する古い概念では、喜劇は庶民を描き悲劇は高貴な人物を描くというものだった。普通の人間が悲劇の主人公になるのは近代以降である。この映画は16世紀初頭の王朝を描きながら、その視点は庶民の視点である。歴史劇であるが現代劇の視点で描かれている。しかし王も単純には描かれていない。ハムレットやマクベスほどではないが、史上有名な暴君ヨンサングン(チョン・ジニョン)を描きながら、幼くして母を失い、何かにつけて偉大な父王と比較されるヨンサングンの苦悩も描きこまれている。「父王の法に縛られている余は本当に王なのか?」という彼の苦悩に満ちた言葉はシェイクスピアを想わせる印象的な台詞である。
映画の冒頭で描かれるのは芸人たちの悲惨な生活である。彼らには人権など無いも等しい。チャンセンとコンギルが属している一座の座長は町の有力者に取り入ろうとしてコンギルの体を与えようとする(コンギルの美しさは悲劇を招きかねない。その予兆)。必死で止めようとするチャンセンを座長は散々痛めつける。それでもコンギルを行かせまいと抵抗したチャンセンに座長が投げかけた言葉は「飢え死にしたいなら一人で勝手に野たれ死にしろ」だった。そう、芸人たちには絶えず背後霊のように「飢え」が付きまとっている。映画の冒頭ではこの飢え死にすれすれの彼らの生活が強調されている。一座を逃れてチャンセンとコンギルは漢陽へ向かう。都に行って最初に彼らの目に入ったものは食べ物だった。そこへ囃子の音が聞こえてくる。芸人がいる!人垣をかき分けてみるとユカップ、チルトゥク、パルボクの3人が芸を見せていた。ひとしきり芸を見せた後の彼らの台詞がいい。腹が減ってこれ以上芸を続けられない、小銭をくれたら先を見せると言っている。客に小銭を出させる演出であるが、実際彼らも飢えているのだ。
ひょんなことで彼らは王宮に滞在することになるが、住む場所の次に与えられたのは食い物だった。大量の食べ物の前で顔をほころばせる芸人たち。彼らが引き立てられたのは芸のお陰だった。芸は彼らの生活であり彼らの命だった。身分が上るかもという芸人の1人の対して、チャンセンがこう言う。「芸人でも大臣でもたらふく食えりゃいい。飢え死にする寸前だった。」飢え死にを心配することなくたらふく飯を食える生活、彼等にはそれで満足だった。
同時に、チャンセンの台詞にはより重要な要素が含まれている。彼には出世欲などないのだ。それはより早い段階で示されている。彼はいかさま博打で大儲けした夜、妓生上がりのノクス(カン・ソンヨン)が王の寵愛を受けているといううわさを聞く。その時彼はひらめいた。「王をネタにする。さっき聞いたろう。妓生を相手に遊ぶのは俺たちと同じ。王だからって特別じゃない。」チャンセンという人物はコンギル以上に魅力的である。だが彼の魅力は、彼を演じたカム・ウソンのすぐれた演技力だけに還元することはできない。彼は最初から権力など歯牙にもかけていない。初めて王の前で芝居を見せた時、気押されていなかったのは彼だけである。だからこそ最後にあそこまで王を批判できたのだ。彼の人物像としての魅力はまさにそこにある。この点を決して見落とすべきではない。
コンギルは王の秘められた苦悩を知ってしまったためにチャンセンのようには王を相対化できない。しかし彼も最後にはチャンセンと同じ道を選ぶ。ユカップ、チルトゥク、パルボクの3人はもちろんチャンセンのようなラディカルではない。ごく普通に王を偉い人として見ている。しかし彼らも芸人だった。彼らの存在そのものが笑いを生み出し、その笑いは彼ら自身が意図する以上に反権力的だった。王をからかったとして連行された時に言ったユカップの台詞は傑作だ。「王様のアレを大きくしたのが罪ですか?いくらなんでも王様だから瓢箪くらいはあるかと」思ったというのだ。思わず噴き出す台詞だ。このどこかピントのずれた間抜けな台詞は、しかし、国王の権威を地に落とすという点においては「王だからって特別じゃない」というチャンセンの台詞に劣らない。ユカップたちは王とノクスをからかう芝居を演じた時に登場するのをためらったが、それはその芝居が不敬なものだからではなく、宦官の役を演じるのがいやだったからである(股の所に「無」と書いてあるのが妙に可笑しい)。笑いこそ何も持たない庶民の最大の武器である。
チャンセンは胆力においてすぐれていただけではなく、芸人としても非凡な才能を持っていた。王を侮辱したとしてとらえられた時も、「王が笑えば侮辱じゃない。王を笑わせてみせる。」と大胆不敵な挑戦をして見せたのもそれだけ自信があったからだ。他の芸人たちが王を前にして縮み上がっていたので危うく失敗するところだったが、コンギルの機転で何とか王を笑わせることに成功した。このヨンサングンという王、終始苦虫を噛み潰したような顔をしているのだから、芸人たちが縮み上がるのも無理はない。しかし脇にいたノクス(ドリカムの吉田美和似)は苦笑いしている。妓生上がりなので下ネタでも引かないという設定が面白い。ところがこの王は稀代のバカ殿だった。芸人たちの芝居に大笑いした夜、ノクス相手に「上の口がいいか、下の口がいいか」とチャンセンとコンギルの真似をして戯れている。
王がこれでは重臣たちも頭を痛めている。事あるごとに父王は聖君であったのにと比較され、王は腐っている。政治にも身が入らず遊び戯れるばかり。こんな王のお抱え芸人にされたことがチャンセンたちの不幸の始まりだった。彼らは意図せずして王宮をめぐる陰謀の渦に巻き込まれてゆく。映画の中盤に入って新たに二つのテーマが導入される。一つは王と国を憂える堅臣チョソンの思惑。その思惑とはチョソン自身が後に王に打ち明けている。「私が芸人を宮殿に呼び入れたのは、腹黒の重臣を追い出して、国王様に世の中を正しく見てほしかったからです。」かくしてチョソンは「王をからかったお前たちがなぜ重臣たちをからかわない?」と次なる芝居を持ちかける。賄賂を受け取る大臣の芝居だ。この芝居を見て青くなった法務大臣は王宮から追放される。芝居の意図を悟った王が大臣たちを追求したからだ。居並ぶ貴族たちをねめつけ、「お前のところは門番さえも賄賂を取るそうだな」などと言っているところを見ると、この王まったくの馬鹿ではない。結構現実を見ている。
ではなぜこんなバカ殿になってしまったのか。父王と比較される重圧だけが原因ではなかった。それはチョソが仕掛けた次の芝居で明らかになってくる。王の母親毒殺を描いた京劇だった。王は芝居を見て事の次第に気づき、逆上する。母親を毒殺した先王の側室を二人とも刺し殺してしまう。皇太后はショック死。ヨンサングンがノクスと遊び戯れているのは母のいない心の隙間を埋めようとしていたのかもしれない。ヨンサングンは韓国人なら誰でも知っている有名な暴君だが、ここでは心に深い闇を抱えた男として描かれている。
王の心の隙間はノクスだけでは埋まらず、ついに美貌のコンギルにまで手を伸ばす。中盤で導入される二つ目のテーマはコンギルをめぐる、王、ノクスそしてチャンセンの心理葛藤劇である。コンギルに王の寵愛を奪われたノクスの嫉妬心がまた別の陰謀を生む(コンギルは重臣たちからも疎まれ、危うく暗殺されそうになる)。コンギルが王のお気に入りになることによって、さまざまなバランスが崩れ始める。もちろんコンギルの気持ちは常にチャンセンに向いていた。2人は決してゲイの関係ではない。コンギルが初めて王に呼ばれた日の夜、チャンセンとコンギルが一つのゴザに並んで寝る場面がある。チャンセンははだけたコンギルの布団をそっと掛けなおしてやる。コンギルは寝たふりをしていたが、そのことに気づいていた。2人の間にあったのは純粋に仲間を想う気持ちだった。それでもコンギルが王の誘いをきっぱり断りきれなかったのは、王のさびしい一面を見てしまったからだ。芸人と遊び呆けていると重臣たちに意見された王は芸人のところへ行く。太鼓を取り、叩いて叩いて叩きすぎて太鼓を破ってしまう。その後コンギルを奥へ連れてゆき、コンギルに影絵をやってみせる。酒を飲み、涙を流して寝てしまう王。その涙をコンギルが指で拭う。この涙を拭うシーンはぞくっとするほど美しい。
王は自分を必要としている。コンギルはそう思ったに違いない。その時から彼の心は揺れはじめた。それでも京劇の後コンギルは仲間と王宮を去るつもりでいた。しかし官服を着たコンギルに(王はコンギルに官職を授けていた)チャンセンがお前は最初から出てゆく気はなかったのだろうという言葉を浴びせ、さらに「この服は何だ?体を売るなら貴族より王の方がいいか?」と吐き捨てるように言った時、コンギルの心の針が大きく反対方向に振れてしまった。これはチャンセンの誤解だ。2人の関係は肉体関係には至っていない。しかし、こんなことがあっても2人の絆は決して切れることはなかった。2人を引き裂いていたのはあくまで王の偏愛であり、コンギルの心変わりではない。チャンセンが目をつぶされたとき絶望の余りコンギルは王の前で手首を切る。ここは凄絶な場面だった。血を流しながらコンギルは指人形の芝居を続ける。彼が語っていたのはチャンセンの言った言葉だった。
そのころまでには芸人たちも、自分たちが結局王の慰みものにすぎないと感じていた。 王が2人の側室を殺した後、ユカップが「何かするたびに誰かが死ぬ、怖いよ」とつぶやく。その言葉は図らずも彼自身に降りかかってきた。王がコンギルを官職につけた祝に狩りをすることにした時、芸人たちは王たちに狩られる動物役にさせられた。茶色い着ぐるみを着せられた彼らの腹には豚、鶏、猿などと書かれている。まさに慰みものだ。実は狩りの混乱に乗じて貴族たちはコンギルを殺そうと謀ったのだが、ユカップがコンギルをかばって矢を受ける。彼は死ぬ。雨のそぼ降る中、むしろをかぶせられたユカップの遺体が荷車で運ばれてゆく。仲間がその顔にお面をかぶせてやる。この場面は実に感動的だ。何十年か生きて、彼が最後の旅に出るとき持っていたのは芝居で使ったお面だけだった。底辺に生きる芸人の虚しく寂しい人生が胸に迫る。
このあたりから悲劇調に切り替わってゆく。ノクスが偽造させた抗議文によってコンギルは罪を着せられそうになる。その時とっさにコンギルをかばったのはチャンセンだった。チャンセンは捕らえられるが、チョソンが彼を逃がす。賢臣チョソンはコンギルに溺れる王を非難したために追放されたばかりだったのだ。重臣たちの腐敗を一掃するために芸人たちを呼び入れたのは自分だ。そういう思いがあったから王宮を去る前にチャンセンを逃がしてやったのだろう。「行け、もう舞台は終わった。」この台詞以降、映画はさらにシェイクスピア劇的色彩を強めてゆく。
しかしチャンセンはすぐには舞台を去らなかった。脚本と演出が冴えわたるのはむしろここからだ。チャンセンを舞台から去らせる前に彼にこれまで以上に重い苦難を背負わせ、また思いのたけを洗いざらいぶちまけさせた。チャンセンは逃げるどころか、宮殿の庭に縄を張り、綱渡りの芸を始める。「世の中で一番偉い人が住んでいる宮殿も大したことないな。今までいろんな奴らを見てきたが、ここにきて最低の奴を見つけたよ。そいつの行状を話そう。皆さん聞いてくれますか。」驚いた王が庭を覗く。チャンセンは王を痛烈に皮肉る。「ここで死んでいった命はあの瓦の数より多い。」
やがてチャンセンは捕らえられ、王は彼を切り捨てようとする。殺さないでと懇願するコンギルに、王はならばお前が切れと命ずる。コンギルは「いっそのこと私を切ってください」と叫ぶ。結局王はチャンセンを殺さず、代わりに焼きごてを当てて彼の目をつぶす。つぶされた目に布を巻いたチャンセンが言うセリフはまさにシャイクスピア的だ。「今まで盲人の芝居を何度もしてきたが、いざ盲人になったら盲人の芝居ができないまま死ぬのか。ようやく自由に舞台を飛びまわれると思ったのに。」
盲目になって却って彼にはより真実が見えてきた。映画は彼にもう一度「自由に舞台を飛びまわ」る機会を与える。処刑の日、チャンセンはまた綱渡りのロープに上る。「今は盲人になって何も見えない。あるゲス野郎があいつの心を盗むのも見えない。それはさておき、綱の下が見えないと宙に浮いているようだ。この味を知っていたら早く盲人になればよかった。」彼の言う「宙に浮いている」状態とは自由を意味しているのではないか。ロープの上で演じているときの彼は他のどんなときよりも自由だった。身分制度という足かせによって地上に縛り付けられていない状態。目が見えるときにはそれに気づかなかった。死を覚悟した時彼はついに自由になれた。身分の低いものが真に自由を得られるのは死ぬ時だけなのだ。王の気まぐれに翻弄され続けた人生の最後の日々。それ以前も「飢え」が道ずれの放浪人生だったが、王宮に入ってからも死と隣り合わせの人生だった。彼らの人生はまさに綱渡りの人生だった。いつ足を踏み外して転落してもおかしくない危うい人生。しかしそんな軽い命が終始光りを放ち続けていた。彼らの身分は低いけれども、彼らは綱渡りのロープの上から見物客を見下ろしていたように、王をも上から見降ろしていた。
最後の芸を披露する彼らに反乱軍が迫っていた。人生の最後の瞬間を迎えつつあるチャンセンとコンギル。もう言うべきことはすべて言った。最後に彼らが語ったのは、彼らの人生が決して無ではなかったということだ。チャンセンとコンギルの最後のやり取りは全文引用するに足る。
コンギル「そこのバカ野郎、見えなくて嬉しいか?」
チャンセン「嬉しいよ。嬉しくて死にそうだ。」
「なんて命知らずの男なの。何も見えないくせにそんな所に登るなんて。早く降りなさい。」
「なんと口の悪い女だ。俺はこの宮殿の王であるぞ。」
「よし、ちょうど王のツラを見たいと思ってたけど、なるほど見ものだわ。」
「ひどい女だ。俺のツラに文句あるか?」
「何も恐れるものがないから世の中を騒がせたのね。生まれ変わったら何になりたい?貴族になりたい?」
「いや。イヤだ。」
「じゃあ、王になるの?」
「それもイヤだ。また芸人に生まれたい。」
「バカね。芸人になったから命を失うのに。」
「そういうお前は何になりたい?」
「私はもちろん芸人になりたい。芸人よ。」
「よし、腐った世の中、逝く前に思い切り遊ぼう。最後にもう一度2人で芸を見せよう。」
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ミチさん コメントありがとうございます。
そうですねコンギルとチャンセンの間の感情はなかなか正確には定義しずらいですね。嫉妬もありますがいわゆる恋愛感情ではないと思います。純粋なもので、2人に肉体関係はないでしょう(おそらく王とコンギルの間にも)。
ともに芸をすることで自然に生まれた仲間としての愛情だったのだと思います。だからラストで二人とも生まれ変わるならやはり芸人だと言いきるセリフが感動的なのだと思います。
投稿: ゴブリン | 2007年6月25日 (月) 11:50
こんばんは♪
軽い調子の感想文しか書いていないのにいつもお世話になり恐縮です。
王とチャンセンの影絵遊びのシーンがゾクッとするほど美しかったのを覚えています。
この映画を見る前はそれこそ男同士の妖しいカンケイを描いたものかと邪推していましたが、そういう気持ちはほとんど見られませんでしたね。
ただ、コンギルとチャンセンの間にだけは兄弟とも師弟とも同士とも、なにか表すことの出来ない感情も流れていたように見受けられました。
投稿: ミチ | 2007年6月24日 (日) 23:50
kimion20002000さん 真紅さん コメント&TBありがとうございます。お二人にはお世話になりっぱなしです。だいぶお待たせしてしまいましたが、なんとか書き上げることができてほっとしています。
<kimion20002000さん>
僕は作品に即して解釈を進めてゆくタイプですが、kimionさんは、ここで言えば、「聖」と「賤」などのさまざまな視角をお持ちで、そこから豊かな分析を紡ぎ出す。前提となる豊かな教養をお持ちだからこそできることですね。チャンセン、コンギル、そして王も、皆「逸脱」のキャラクターですね。僕もこの視点に気づいていたらもっと深く、面白い解釈ができたかもしれません。これからそちらのブログに伺おうと思いますが、読むのが楽しみです。
<真紅さん>
シェイクスピアからの直接の引用はないかもしれません。ただセリフや王と庶民の関係の持たせ方などにシェイクスピア的なものを感じました。
あのラストシーン、綱の上で跳ねあがり宙に舞った状態でストップモーションになる。反乱軍突入の後彼らはどうなったのか。観たものの解釈に任されていますが、僕はやはり悲劇として一貫させたい。あのストップモーションのすぐ後に、芸人たちが山の斜面を歩いてゆく短いショットが差しはさまれます。死んだユカップもいる。幕を下す前に「去っていった」旅芸人たちを記録する、そういうショットだったと思うのです。
投稿: ゴブリン | 2007年6月23日 (土) 12:31
ゴブリンさま、こんにちは。
この映画はもともと舞台劇だったそうですから、シェイクスピアの引用もされているかもしれませんね。
(恥ずかしながら、私は全くわからなかったのですが)
セリフを全文引用されているラストは圧巻でした。涙、涙。
ノクスは誰かに似ていると思いましたが、吉田美和さんでしたか(笑)
高く評価されるべき作品というご意見、同感です。
ではでは!
投稿: 真紅 | 2007年6月23日 (土) 11:21
こんにちは。
僕はやはりこの映画に「聖」と「賤」を同一地平でみる視線を感じました。「芸人」が得る自由は、精神の自由であり、しかしそれは、市民的自由や平等の均質性の中からは、生まれにくい。そこから逸脱してはじめて、得ることの出来る自由とは、蔑まれること、よそ者になること、安定を拒まれること、そういう哀しさを超えて初めて成立するものなんだろうなあ、と。
ちょっといまのところ、TBが反映しないので、とりあえず・・。
投稿: kimion20002000 | 2007年6月23日 (土) 02:04