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2007年5月14日 (月)

母たちの村

2004年 フランス・セネガル 2006年6月公開
評価:★★★★★
原題:Moolaade
監督・製作・脚本:ウスマン・センベーヌ
撮影:ドミニク・ジャンティ
音楽:ボンカナ・マイガ
美術・衣装:ジョゼフ・クポブリ
出演:ファトゥマタ・クリバリ、マイムナ・エレーヌ・ジャラ、サリマタ・トラオレ
    アミナタ・ダオ、ドミニク・T・ゼイダ、マー・コンパオレ

 この映画の直接の主題は2000年以上も続いてきたといわれる女性性器切除の風習でTr07ある。「お浄めの儀式」と言われ、不衛生な状態での施術のために何人も命を落とす者が出ているにもかかわらず続けられてきた。アフリカのある村に実の娘二人を女性性器切除のために亡くし、3人目も帝王切開でかろうじて産んだ女性がいた。シレという男の第2夫人コレ・アルド(ファトゥマタ・クリバリ)。彼女は一人娘アムサトゥ(サリマタ・トラオレ)をビラコロとして育てる決意をしていた。ビラコロとは女性性器切除を受けない女性のことである。「母たちの村」は女性性器切除をのがれて逃げてきた4人の少女たちがコレのもとに「保護」(モーラーデ)を求めてやってくるところから始まる。モーラーデとはアフリカの古い風習で、助けを求めに来た人間を保護することである。保護を求められた人間は、これを守らねば罰があたると信じられている。一旦モーラーデが宣言されれば本人が取りやめるまで周りの人々は保護されている人に手を出すことはできない。

  「お浄めの儀式」という言葉が暗示的だ。逆にいえば、女性は「汚れている」ということになる。アフリカは遅れているなどと笑えない。ついこの間まで日本でも「不浄な」女性は「神聖な」相撲の土俵に上がれなかった。「女性の処女性と貞節を守るため」などと様々な理由をつけても、結局女性性器切除の風習は男性優位の父権制的権力構造を維持するための手段にすぎない。果ては女性性器切除を「割礼」という宗教的儀式と結びつけ、「割礼は大昔から伝えられたイスラムの定め」であると権威づける。

  「母たちの村」が暴きだしたのは「支配の構造」である。ただ単に野蛮な風習が否定され、少しは先進国に近づいたなどと受け止めていたら、全くこの映画の本質を見落としていることになる。「女性性器切除」も単なる表向きの主題というわけではない。これはまさに女性を男性より劣った「汚れた」存在と貶め、女性自ら「支配の構造」の中に組入られるように作用する支配の装置なのである。「女性性器切除」は「支配の構造」の根幹をなすものなのだ。だからこそ「女性性器切除」を真っ向から否定するコレの反抗は村の権力構造そのものを揺るがしかねない大事件になったのである。コレの決意も生半可なものではなかった。「モーラーデを始めたわけだね。大変なことだよ」と言う第一夫人に、コレは「命がけさ」と答えている。

  いや、「支配の構造」もこの映画のすべてではない。「母たちの村」が優れた作品になったのは単に「支配の構造」を暴きだしただけではなく、自分たちの足かせとなっていた「女性性器切除」をはねつけてゆく女たちの戦いを肯定的に描き出しているからである。一人の女性から始まった女たちの戦いはやがて村を二分する大きな騒動にまでなり、「支配の構造」そのものを揺るがしていった。「母たちの村」が一般に社会派と言われる作品であるにもかかわらず、映画として決して重苦しくならないのは、不当な扱いに反逆してゆく女たちの力強さや明るさが作品全体に満ち溢れているからであり、その戦いが殺し合いを含む苛烈な闘争ではなく、生命を産み出す性としての女性の豊かさと力強さを前面に押し出しての戦いだったからである。女たちは武器ではなく歌で立ち向かった。ラストで歌われる女たちの歌は戦いの鬨の声であり、また高らかな勝利と歓喜の歌であった。「ワッサー、ワッサー」というコレの雄たけびがこれに重なってゆく。

 女性たちは素晴らしい。女性たちは生命を産む。女性たちに教育を捧げよう。だからこう言いたい。女の子が生まれたら、ぜひ教育を与えてください。立派な花嫁になるために。ぜひ学校にやりなさい。昔から言われてきたことがある。(リフ)でも割礼のことは書かれてはいない。(リフ)それは書かれていないのだ。

  「立派な花嫁」、この言葉の意味は映画が始まった時点と終わった時点では大きく異なっている。もはや何の疑問も抱かずに自ら進んで「割礼」を受ける、唯々諾々と夫に従うのが「立派な花嫁」ではなくなっている。教育を受け、知識を身につけていなければならない。何も知らないままでいてはいけない。無知のままで理不尽な「伝統」を受け入れてはいけない。この歌にはそういう女性たちの思いが込められている。そして何よりも女は生命を生み出す存在なのである。男を産むのもまた女なのだ。

Ftkgm001_3   コレもはじめから村の伝統を覆そうと考えていたわけではない。彼女は逃げてきた娘たちを叩こうとすらしていた。娘の「お浄め」こそ拒否していたが、コレも村のしきたり全般には従っていた。彼女はただ、彼女を頼って逃げてきた4人の娘たちをモーラーデで守りたかっただけだろう。映画は村のしきたりを丁寧に描き出してゆく。男の前では女はひざまずく。何とも大時代的で、まるで大奥でも見ているようだ。コレ自身もこのしきたりには従っている。村長の息子がフランス留学から村に帰って来た時など、女たちがかいがいしくスカーフのような布を地面に敷いている。その上をドクレ家の息子が背広姿で歩いてゆく。

  このシーンに支配の構造がよく表れている。花道を敷く女とそれを踏みつけて歩く村長の息子。額ずく女と踏みつける男。いやそれだけではない。権力と金を持った男だけが外国で知識を得ることを許されている。男も女もそのことに何の疑問も持っていない。掟とはそういうものである。そこには何ら合理的な理由づけはない。ただ理屈抜きで守るべきもの。掟は絶対的なもので、女たちが自ら服従しようとする意識を刷り込む装置となっている。知識は男だけが専有するものである。暴力はほとんど使わない。掟が機能している限り必要ないからだ。せいぜい鞭打ち程度である。この空気のような支配構造が男の権威、夫の権威を支えている。長老の一人が言った「夫は妻に対して絶対的な権力を持つ」という言葉はこの構造の上で成り立っている。これにもう一つの支配の道具「宗教」が重ねられて支配は貫徹する。

  村の長老たちが最も恐れたのは女たちが知恵をつけることだ。だからコレが頑強に反抗したとき、男たちは女たちからラジオを奪ったのである。ラジオは外の世界とつながっている。その意味でラジオは「知恵の箱」だ。「割礼は大昔から伝えられたイスラムの定めだぞ」という村の呪術師ケモーテクラの言葉をコレが論破したのも、ラジオで得た知識があったからである。「イスラムはあの儀式を求めていない。ラジオで指導者が言っていた。毎年何百万という女たちがメッカに行く。みんな割礼などしていない。」これに対して長老たちは何ら論理的な反駁を加えられない。ただ「アラーの冒涜者!」「コレ・アルド、お前は悪魔だ。まさに悪魔だ」と繰り返すばかり。そもそも合理的根拠などはじめから無いのだ。「あの女は狂ってる。」憐れなことに男どもにはそうとしか理解できないのだ。

  その点では女たちの方がよほど事情を理解している。「ラジオやテレビを禁じても意味がない。今は誰でもどこでも利用している。生活必需品のラジオやテレビをなくしたら、世界から取り残される。」村の二人の女の会話が強烈だ。「なぜ男どもはラジオを持っていくの?」「私らの心を閉じ込めるためさ。」「目に見えないものを閉じ込めるとはどういうこと?」「私らはみんな無知なんだよ。」自らの無知を理解することは知識に対する欲求の入り口である。ラジオを取り上げられた日の夜、女たちは集会を開く。集会では隠し持っていたラジオの音が流されていた。村の広場に集められ積み重ねられたラジオの山は、男たちの危機感の象徴なのである。

  後で触れるが、知識は男たちにとっても当然重要な役割を果たしている。男たちの間にも序列がある。男たちも否応なく村の長老を頂点とした支配構造の中に組み入れられているのである。コレの夫シレの兄はシレに対し、言うことをきかない妻を鞭打てと命ずる。ついに男たちは暴力にまで訴えてきた。見方を変えれば、そこまで彼らは追い詰められていたのである。シレはしぶしぶ妻を鞭うち、モーラーデをやめると皆の前で言わせようとする。「言わないで、がんばって、倒れないで。」女たちがコレを励ます。コレは耐え抜いた。女たちの団結の輪が広がってゆく。コレがモーラーデを始めた時、必ずしも第1夫人と第3夫人はコレの味方ではなかった。コレとの間には不協和音があった。しかし決してあきらめないコレを観て二人ともコレを支持する側に回る。

  コレの強さはどこから来るのか?逃げてきた4人の子供たち(ウミ、ジャトゥ、アワ、ナEarth1_2 フィ)をかくまった時、おどろおどろしい赤い服を着て頭に赤いハチマキのようなものを締め不思議な形の杖を持った割礼師たちと4人の子の母親たちが押し掛けてきた。ジャトゥの母親がコレに聞く。「なぜまた拒否するのか?」コレは次のように答えた。「確かに私は割礼を受けたが二度も縫った。子供を二人土に埋めた。アムサトゥの時は(腹の傷を示して)取り出すために女の医者がここまで切った。今度は子供たちが逃げてきたからかくまった。」コレは女性性器切除の風習がどんな結果を生むかを体で知っていた。彼女の腹に残るむごたらしい傷跡が実に雄弁だ。自らの手で子供を葬った悲しい記憶、もう二度とそんなことは繰り返したくない。誰にも繰り返させない。だから彼女は命を張ってモーラーデを死守した。いやそれだけではない。彼女自身が「割礼」を受けている。女性性器切除は手術の時の死亡率が高いだけではない。排泄、生理、分娩そして性交時と、その傷は一生女性を苦しめるのだ。夫とのセックスの時コレが指を噛んで必死で痛みに耐えている凄絶なシーンがある。女性性器切除は、女性を男性に従わせるために女性の体に埋め込ませた拷問道具に他ならない。コレはそれを体で知っていた。単なる西洋からの知識の受け売りではない。そこに彼女の強さがあると言っていいだろう。

  コレが夫の鞭打ちを受けた時、もう一つある重要な変化の兆しが現れる。見かねた「傭兵」がシレから鞭を奪ってやめさせたのだ。「傭兵」とは村で屋台の店をやっている男のあだ名である。昔国連平和軍に入っていたが、将校たちが給料をピンはねしていると文句を言ったために不名誉除隊にされ、5年の刑を受けた。それ以後「傭兵」と馬鹿にして呼ばれるようになったのである。外国にいた彼は外の世界を観ていた。彼がフランス帰りの村長の息子イブラヒマとフランス語で会話するシーンは象徴的だ。これら外の世界を観てきた男たちが最初に村の長老たちに反抗するのだ。「傭兵」はその日の晩どこかへ連れ去られ、殺されてしまった(ハゲタカが多数空を舞っているショットで暗示される)。しかし彼のまいた種はイブラヒマに、そしてコレの夫シレにまで広がった。「弟よ、お前は裏切り者だ」と怒鳴る兄に、シレは「コレはもう一人前だ。わしの女房に手をあげたら承知しないぞ」と言い放ち、席をけって立ち去る。これにイブラヒマが続いた。「父さん、結婚は僕がすることだ(彼の婚約者はコレの娘アムサトゥである)。父さん、僕を叩くのは簡単だ。でも暴君が威張る時代はもう終わった。僕はテレビを視るよ。」

  もう一人面白い立場の男がいる。長老たちに付き添う語り部のような男。彼はシェイクスピアの「リア王」に出てくる道化のような役割を果たしている。権力者に雇われてはいるが、多少の戯言は許される。彼が歌う「女性は王を産み落とす。貧乏人も産むが勇者も産む。女性に敬意を!勇敢な女性には男と同様にズボンをはいてもらおう」という歌は、冗談めかせているが、真実を語ってもいる。

  ほとんどの女はコレの側につき、男たちの中からも次々に反逆者が現れる。「ビラコロは臭いと言われてきたけど、体を洗わない男の方がよっぽど臭いよ。」アムサトゥも「私は一生ビラコロでいるわ」と宣言する。この流れはもう誰にも止められない。「この子を切らせない、誰も切らせない。」女たちは割礼師たちを取り囲み、ナイフを取り上げる。「今日は女の苦しみの終わりの日だ。みんな勇気を出すんだ。きっとよくなるさ。」「この土地の女よ帯を締めよ。あんた方は男どもより勇敢だ。」コレはすでに戦う姿勢を固めている。「ラジオを燃やした上に私に手をあげたら、このコレは村を燃やし血の海にしてやる。」女たちの反乱を見て、呆然と立ち尽くす赤い服の割礼師たち。女たちは歌い始める。「私らは産む、やつらは殺す。」「女性たちは素晴らしい、女性たちは生命を産む。」

  女たちが輝いている。原色の衣装がさらにその輝きを強調する。彼女たちが輝いているのは単に美しいからではない、不当な扱いと闘っているからなのだ。コレは顎の下を黒く塗っている。日本人の価値観から見ればむしろ醜い。それでも彼女は輝いている。彼女の精神が理不尽な掟などに縛られていないからだ。自由への意志が脈打っているからだ。美醜は顔や姿の美しさなどで測れない。彼女の存在そのものが輝いているのである。

  「ホテル・ルワンダ」、「ダーウィンの悪夢」、「ナイロビの蜂」、「ラスト・キング・オブ・スコットランド」、「ブラッド・ダイヤモンド」、「ツォツィ」等々。一連のアフリカ関係の映画が西洋人の手と西洋人の資本で次々に作られてきた。その中にあって「母たちの村」がアフリカ人自らの手で作られたことは高く評価されるべきである。「アフリカ映画の父」ウスマン・センベーヌ監督の、「エミタイ」(71)、「チェド」(76)に続く日本公開第3作。文句なしの傑作である。

<追記>
 07年6月13日の新聞に、ウスマン・センベーヌ監督が同月9日ダカールの自宅で亡くなったとの記事が載った。享年84歳。心からご冥福をお祈りいたします。
 改めて彼の生前に「母たちの村」を日本で公開した岩波ホールと配給のアルシネテランを高く評価したい。しかしその一方で彼の作品がわずか3本しか日本で公開されていないことを残念に思わざるを得ない。これから彼の作品が1本でも多く公開されることを願う。

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コメント

GMNさん、kimion20002000さん コメント&TBありがとうございます。

<kimion20002000さん>
アフリカのことは映画で描かれている範囲のことしかよく分りません。モーラーデについてはkimionさんとほぼ同じ印象を僕も持ちましたね。ただ詳しいことが分からないので深くは追求しませんでした。社会の安全弁のような機能を果たしているのかもしれません。
社会である以上何らかの形で「法」のようなものを持たなければ、集団を束ねることはできないでしょう。「掟」もすべて悪いものばかりではないと思うのです。ただ女性性器切除については何ら積極的な意味は見いだせません。
コレの描き方が素晴らしかったと思います。戦闘的な女性像ではなく、心と体に深い傷を負った、強い意志と信念を持った女性という描き方が彼女の人物造形に説得力を持たせています。

<GMNさん>
ウスマン・センベーヌ監督の作品は3作とも観ましたが、やはり西洋人の視点とは違う独特の世界が描かれています。ただ、どこかで同じことを書きましたが、たとえ限界があるにしても西洋人が彼らなりの視点で真摯にアフリカの現状を描くことも必要です。そうすることで互いの理解を深めてゆくことができると思うのです。
私たちはもっとアフリカのことを知らなければなりませんね。映画から知りうることはほんの一部ですが、関心を持つこと自体が大事なことなのだと思います。

この監督のことは詳しくは知らないですけど、アフリカ人が作った映画っての、やはり意義深いですよね。
最近はアフリカ系の作品ががどんどん作られてますし、出来の良い作品も多いですけれど、普段は裕福な国に暮らしていて、そういう感性の上でアフリカってのはこういう国なんだって外から見て語っちゃうのと、そうではなく中から見た上で語るのとでは違ってくるだろうなとは思いますし。

TBありがとう。
わからないけど、モーラーデという興味深い慣習(知恵)というのは、本来コレの「反乱」の錦の御旗のようには、使われていなかったのかもしれませんね。古い自然法的な慣習を、ああいう武器に使っちゃうということが、カタルシスになりました。
語り部のような男のことは、あまり注意深く見ていませんでした。ご指摘で、なるほどな、と。
一見、この部族は、「直接民主主義」的なみせかけで集会を煩雑に開いていますが、おっしゃるように「支配」を密室ではなく、公的な「正論」であるかのようなみせかけで使っていますね。
これは、長老支配の世界では、よく使われますね。
インディアンなどの長老の知恵、調整という機能とは、少し異なるものを感じましたね。

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