2005年 イギリス・アメリカ 2006年8月公開
評価:★★★★☆
原題:Kinky Boots
監督:ジュリアン・ジャロルド
脚本:ティム・ファース、 ジェフ・ディーン
撮影:アイジル・ブリルド
音楽:エイドリアン・ジョンストン
出演:ジョエル・エドガートン 、キウェテル・イジョフォー 、 サラ=ジェーン・ボッツ
ユアン・フーパー、リンダ・バセット、ニック・フロスト、ジャミマ・ルーパー
ロバート・パフ
ショービズとシュービズの衝撃の出会い。この映画を一言で表現するとこういうことにな
る。大量の在庫を抱えてにっちもさっちも行かなくなった靴工場がキンキー・ブーツというニッチな市場を見出すというお話。
本論に入る前に、いくつか基本的なことを確認しておこう。「キンキー・ブーツ」の”kinky”という言葉は「異常な、変態の、性的に倒錯した」という意味。イギリスの名門ロック・バンド「ザ・キンクス」の「キンク」はその名詞形。キンキー・サウンドという言葉も懐かしい。そういえば、イギリス人の知り合いが、「近畿日本ツーリスト」が「キンキー日本ツーリスト」に聞こえると大笑いしたことをふと思い出した。それはともかく、「キンキー・ブーツ」の文字通りの意味は「変態ブーツ」だが、要するに日本で言う女王様ブーツのことである。
映画の舞台はイングランド中部にあるノーサンプトン。ノーサンプトンシャーの州都である。この映画を観るまで知らなかったが、ノーサンプトンはかつて靴の聖地とまで言われた街である。しかし時代の波には勝てず、人件費が安い海外に工場が次々と移転し、名門ブランドも淘汰されていった。それでも、ジョン・ロブ、クロケット&ジョーンズ、チャーチズなどの高級靴メーカーが今でも多く残っているそうだ。
「キンキー・ブーツ」を観て真っ先に思い浮かべたのは「シャンプー台の向こうに」というイギリス映画。一度バラバラになった家族が全英ヘアドレッサー選手権をきっかけに再び絆を取り戻すというハートウォーミング・コメディである。この種のイギリス映画はかつてはほとんどなかった。数々の名作を生んだイギリス独特の味わいを持ったイーリング・コメディというのがあるが、これはもっとブラックでアイロニカルな作風である。明るいのりで困難を乗り越え成功を収めるというタイプの映画、例えば「ウェールズの山」、「ブラス!」、「フル・モンティ」、「リトル・ダンサー」、「グリーン・フィンガーズ」、「ベッカムに恋して」、「カレンダー・ガールズ」などの映画は90年代以降にどっと現われて来たのである。これは1984年4月から85年3月まで丸1年間続いた炭鉱ストに象徴されるような(組合側の敗北で終わる)サッチャー時代の抑圧的政策とその結果の不況、その後の景気こそ回復したが同時に貧富の差が拡大したイギリスの現状の反映であろう。絶望の裏返しであるほとんどやけっぱちの楽天主義と奇想天外な発想で現状を突破しようという前向きの意欲が入り混じった状態から生まれてきた映画たち。「キンキー・ブーツ」はまさにこの系統に属する。似たタイプの映画はアメリカにも多いが、イギリス映画は一筋縄では行かないひねりやブラックな笑い、そしてアイロニーなどが加えられているだけに、基本の筋立てはストレートであっても見ごたえがある。
「キンキー・ブーツ」のひねりはドラッグ・クイーンを主役に持ってきたことである。その意味で「トランスアメリカ」や「オール・アバウト・マイ・マザー」、「メゾン・ド・ヒミコ」、未見だが「プルートで朝食を」などにも通じる要素もあるわけだ。だから同じ努力して成功を掴む映画でも「フラガール」とは違う味わいになるのである。しかし、ドラッグ・クイーンのローラ(キウェテル・イジョフォー)を主役に持ってきたことに注目すれば、もう一つ重要な関連を持つ映画がある。スペイン映画の傑作「靴に恋して」(2002)である。「靴に恋して」は女性5人を中心にした群像劇で、タイトルどおり靴が重要な象徴的役割を果たしている。5人それぞれが満たされない思いを抱き、悩み苦しみさまよっている。タイトルの「靴」が最も重要な象徴的要素として使われるのはイザベルのエピソード。45歳になるが子宝に恵まれず、夫婦仲はとうに冷え切っている。彼女は満たされない思いを1サイズ小さい高級靴を買いあさることで埋めようとしている。しかし彼女の足に合う靴はいまだに見つからない。イザベルが捜し求めた靴とは「自分の本当の人生」を象徴しているのである。
サイズの合わない靴はローラのテーマにも当てはまる。ドラッグ・クイーンのローラは大柄な黒人男性だが、無理して女性用のハイヒールをはいている。男物などないからだ。当
然女性用の靴では彼女の体重を支えきれない。しょっちゅうヒールが取れてしまう。乱暴な男たちに取り囲まれていたローラを偶然見かけて助けたチャーリー(ジョエル・エドガートン)にローラが言ったせりふがずっしりと観客の胸にのしかかる。「またヒールが取れちゃった。人生の重みに負けるのよ。」ヒールを折った重みは自分の体重ではなく「人生の重み」だと彼女は言う。窮屈な靴はローラを締め付ける世間の常識を表している。おそらく「トランスアメリカ」の“ヒロイン”ブリーも同じ「人生の重み」に耐えていたに違いない。自分に合わない靴を履くということは、与えられた性と自分がなりたい性との乖離を示している。女性として生きたいというローラの気持ちは子供の頃からあったことが暗示されている。冒頭で描かれるシーンが実に印象的だ。黒人の女の子が椅子に座っている。足元には赤い靴が入った袋。おもむろに彼女は赤い靴を履いて桟橋の上でステップを踏む。そのうれしそうな顔。本当に輝いていた。そこに父の声。何と「ヘイッ!ボーイ」と呼びかけている。女の子に見えたが実は男の子だった。頑固で偏屈そうな父の顔。うつむいて靴を脱ぐローラの姿。その姿こそ「人生の重み」に打ちひしがれている姿である。偏見にさらされ世間の片隅に追いやられてきた人生。チャーリーの工場に行ったとき、身の置き所のない彼女はクズ置き場でうずくまっていた。その姿が何とも寂しい。「ここなごむの。みんな友達。クズって意外と味わい深いものよ。はみ出し者も。」
キンキー・ブーツをはき舞台で歌っているときのみ彼女は自分の人生を生きていた。チャーリーの工場で田舎者の社員に馬鹿にされトイレに閉じこもった時、ローラは普通の格好をしていた。何とかして他の社員に溶け込もうと彼女なりに努力したのだ。説得にきたチャーリーに彼女が語った言葉は彼女の心情を余すところなく表現していた。「ドレスを着れば500人の前でも歌えるのに、ジーンズだと挨拶もできない。」ジーンズもまた彼女を締め付ける鋳型だった。無理やり彼女をボクサーにしようとした父に反発したローラ(「リトル・ダンサー」と同じケースだ)は父の死に目にも会えなかった。「順応なの。皆に溶け込み目立つな。巨漢の黒人ボクサーなら有望株ってわけ。でも巨漢の黒人がドレスを着るとうまくいかないね。」「順応」とは鋳型にはめることである。ギラギラしたローラたちのステージやコミカルなタッチに隠れてはいるが、この映画にはローラの苦渋に満ちた人生がしっかりと描き込まれていることを見落としてはいけない。忘れがたいせりふがたくさん詰まっている作品なのだ。
自分に合わない人生を生きていたのはローラを救ったチャーリーも同じだった。トイレでローラの告白をきいた彼は「僕こそここに隠れたい。どうも浮いてる」と言った。彼も工場になじめなかったのだ。彼の父親はノーサンプトンの有名な紳士靴メーカーの社長だった。子供の頃からがっしりとした革靴を履かされている。一流の職人が丹精込めて作った高級靴。縫製もしっかりしていて、コンクリートの壁を蹴ったくらいではびくともしないほど頑丈そうだ。しかしこの高級な靴もチャーリーにとっては「足かせ」に過ぎなかった。大人になったチャーリーはいつもスニーカーをはいている。父は家業を継がせたかったが、チャーリーは家を出てほかの仕事に就こうと考えていた。彼もまた意に沿わない人生を歩まされることから逃げようとしていた。しかし突然父が死んで彼は社長の座に座らざるを得なくなってしまう。ところが彼が引き継いだ工場は在庫を大量に抱え倒産寸前だった。彼はそこですべてを投げ出して逃げることもできただろう。しかしそうはしなかった。彼は父の職業を嫌ってはいたが、やはり父の血を受け継いでいた。職人の誇りが彼にはあったのだ。
在庫を少しでも処分しようとロンドンのなじみの取引店へ行く場面が重要である。先方はそれまでの付き合いもあるからと在庫を一部買い取ってくれたが、そこでチャーリーが見たのはチェコ製のぺにゃぺにゃで安っぽい靴だった。「うちのは一生ものだぞ。これは10ヶ月しか持たない」と言うチャーリーに、相手は「そうさ、好都合だろ」と返す。すぐ駄目になるからまた新しいのが売れるというわけだ。ノーサンプトンの高級靴メーカーはこの論理に駆逐されつつあったのだ。注文が減るわけである。打ちひしがれて帰ってきたチャーリーは、「他にどうすることができる(What can I do?)」と言いつつ仕方なく15人の社員の首を切った。昔からの社員を首にするのはつらかった。「15人も解雇した。人生最悪の経験だった。」しかし自分の行為に苦痛を感じる良心があったからこそ、彼には奇想天外な逆転発想が浮かんだのである。ただの甘っちょろいお坊ちゃんではなかった。だから、首にした女性社員ローレン(サラ=ジェーン・ポッツ)が言った「製品を変えたら」という言葉に反応できたのだ。こうしてキンキー・ブーツに社運をかけようという彼のヴェンチャーが始まる。
彼はまず重要な提案をしたローレンを説得して、ロンドンへ行く。ローラのショーを見た時のローレンの仰天したような表情が面白い。彼女はローラにどう接したらいいか分からない。「ごめんなさい。服装倒錯の人、田舎にいなくて。」これに訂正を加えたローラの表現がこれまた面白い。「私は服装倒錯でドラッグクイーン。どちらも似てるけど、ドラッグクイーンはカイリー・ミノーグ風。服装倒錯の方は口紅をつけたボリス・エリツィン。まあいいけど、誰でもその気はあるのよ。」不審そうなローラにチャーリーはとにかく一度ブーツの見本を作らせてくれと説得し楽屋で彼女の寸法を測る。ふと気がつくと他の人たちも靴を脱いで順番を待っている所が可笑しい。ニッチどころか「大市場かも。」
ここから「プロジェクトX」ノーサンプトン版が始まる。試作品を取りにきたローラはそのま
まデザイナーに納まってしまう。試作品を見た彼女の反応がすさまじい。そのブーツはバーガンディ色だった。「レッド。レーーーーッド。赤よチャーリー坊や。第一のルール。赤こそセックスの色。暗い色はダメ。恐怖と危険の色、そして“立ち入り禁止”って標示の色なわけよ。どれも私の好きなものばかり。」がっしりしたロウヒールにも食って掛かる。その方がはきやすいと言うチャーリーに、「それが何よ。セックスは苦痛!以後あんたが作るのはセックスなの。75センチの筒状のセックスよ。そのヒール最低よ。」チャーリー「でも壊れない。」ローラ「作業靴なんかイヤなの。」
こうして新たな試作品作りが始まる。その頃チャーリーの婚約者のニック(ジャミマ・ルーパー)は先のない工場なんか売却すべきだと彼に迫っていた。散々悩んだ末、チャーリーは決心する。ミラノの国際見本市にキンキー・ブーツを持って乗り込むという大胆な計画。あきれる社員に発破をかけるチャーリーの口調はローラそのものだった。「君らが作るのは履物でもなく、ブーツでもない。長さが75センチの思わずうっとり筒状のセックスだ。」そう力強く言い切ったものの、社員たちの足並みは乱れている。ドンという偏見に満ちた男がいつまでもローラへの差別意識を捨てないからである。ドンとローラの確執は最大の障害だったが、それは二人の腕相撲という「直接対決」によって解消された。ただし、ドンの気持ちを最終的に奮い立たせたのは彼がたまたま漏れ聞いたチャーリーとその婚約者ニックの会話である。工場の売却を迫るニックにチャーリーは自分の夢を語ることで反論した。社長は本気でミラノ出品に賭けていると知ったからこそドンの気持ちは変わったのだ。そして最大の山場ミラノでのショーへとなだれ込む。このあたりはお約束どおりの展開ではあるが悪くない。ただ、ミラノ行き直前にチャーリーがローラにひどい言葉を浴びせる場面はあまりに唐突である。ローラと決裂したチャーリーを窮地に追いやり、それをエンジェル・ボーイズを引き連れたローラが土壇場で登場して救うという「劇的な」展開に持ってゆきたかったのだ。しかし、この欠点も作品全体の魅力によってかき消されてしまう。
この映画には世間の常識を蹴飛ばしてしまう痛快さがある。突飛な発想を現実のものにしたチャーリーの奮闘も大きな魅力だが、この映画を根底で支えているのはローラの存在である。それには脚本の力が大きい。脚本を担当した1人ティム・ファースは「カレンダー・ガールズ」の脚本家である。この映画は事実に基づいているが、それは窮地に陥った紳士靴メーカーがキンキー・ブーツを作ることで危機を乗り越えたという点までで、恐らくローラという人物は創作である。モデルはあったかもしれないがそれは重要ではない。ローラは突飛な発想を生み出すきっかけとして最初は考え出されたのかもしれない。しかし彼女のキャラクターを練り上げてゆくうちに、ローラには深い陰影が与えられていった。スポットライトを浴びる華やかな存在であると同時に世間の偏見にさらされる日陰の存在。その陰影をさらに彫り進めて行くうちに真摯な考察に値するゆたかな鉱脈に突き当たったのだ。かくして深い内的葛藤を抱えた大柄な黒人のドラッグクイーンが生まれたのである。
そして、その卓抜な人物造形に生き生きとした生命を吹き込んだのはキウェテル・イジョフォーという類まれな才能を持った俳優だった。「キンキー・ブーツ」を優れた作品にした最大の要因はこのローラという人物を創造したことであり、それを演じきる力量を持ったキウェテル・イジョフォーという俳優を見出したことである。舞台に立ったローラの存在感は圧倒的である(「紳士淑女の皆さまと、どちらにするか迷っている皆さま」というショーの始めの口上も愉快だ)。時には舞台の上から女王のように観客を睥睨し、時には妖艶な美女のような表情を浮かべ、妖しくそして優美に体をくねらせ跳ね踊る。しかし舞台の外では不安や心中の葛藤を垣間見せる。一方で偏見にさらされながらもそれを跳ね返す強靭さとしなやかさを持ち、他方で除け者の身の切なさを吐露したりもする。華やかな衣装を着けスポットライトを浴びつつも、彼女の身の回りにはいつも深い陰影が張り付いている。舞台で踊る彼女の姿には子供の頃桟橋で無心に踊っていた姿が二重映しになる。その強さと美しさと悲しい翳り。合わない靴にのしかかる人生の重み。それらがわれわれの眼と想像力を引きつけて止まない。
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