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2007年4月

2007年4月30日 (月)

「マッチポイント」を観ました

  いや~、久しぶりのウディ・アレン。ここ最近の作品はいまひとつだと聞いていたのでしBd05 ばらくご無沙汰していた。しかし「マッチポイント」はなかなか評判がいい。もちろん多少期待して観た。結果は期待をはるかに上回った。上出来です。ウディ・アレンにしては珍しい作風だ。BBC製作のイギリス映画というのも興味深い。最初は恋愛映画という趣で始まる。貧しいアイルランド出身の青年があれよあれよと言う間に成功をつかみかかる。つかみかかった成功が指の先からすり抜けていくのではないかとハラハラさせられる。しかし首尾よく社長の娘と結婚して逆玉の輿に。

  ところが、よせばいいのに昔の愛人と浮気をはじめ、よくある話で浮気相手が妊娠してしまう。主人公の青年は自分の掴み取った成功を守るために浮気相手を始末しようとたくらむ。このあたりはほとんどセオドア・ドライサーの『アメリカの悲劇』に似た展開。映画の最初にテニスのシーンが映され(主人公は元テニスのコーチという設定)、ネットに当たって上に跳ね上がったボールがどちら側のコートに落ちるかで運命が大きく異なるとのナレーションが入る。これが最後まで不気味な通奏低音のようにドラマの底を流れている。どういう結末になるのか、最後まで観客はひきつけられてしまう。実にうまいストーリー展開になっている。危険な恋愛+犯罪サスペンスという展開にちょっとひねったフィルム・ノワールの味付け。いやいや老体ながらウディ・アレン健在です。男女のねじれて、こじれて、もつれた恋愛を描かせたら実にうまい。俳優時代も含め彼の映画はもう10本以上観たが、「マッチポイント」は70年代から90年代にかけての傑作群に引けを取らない出来だ。この偏屈親父や恐るべし。

  主演のジョナサン・リース・マイヤーズを観るのは「マイケル・コリンズ」、「ベルベット・ゴールドマイン」、「ベッカムに恋して」「アレキサンダー」に続いて6本目。けばけばしく派手派手な「ベルベット・ゴールドマイン」よりこちらの方がずっと記憶に残りそうだ。危うげな表情と佇まいに何とも惹きつけられた(「もうちょっと先のことを考えて行動せんかい!」と突っ込みも入れたくなるが)。スカーレット・ヨハンソンは「モンタナの風に抱かれて」、「ゴースト・ワールド」、「アメリカン・ラプソディ」、「真珠の耳飾の少女」、「ロスト・イン・トランスレーション」に続いてこちらも6本目。妖艶ではないが、あの分厚い唇をフルに活かしたセクシーな役。彼女の出演作はどれもいいが、これも彼女の代表作の一つになるだろう。傑作「Dearフランキー」の母親役が強い印象を残すエミリー・モーティマーは、ここではしきりに子供を欲しがる妻の役。キーラ・ナイトレイのちょっと上の世代、ケイト・ウィンスレット、サマンサ・モートン、タラ・フィッツジェラルド、エミリー・ワトソン、ヘレナ・ボナム・カーターあたりに近い世代。もっと活躍して欲しい女優だ。

  昨日念願の「麦の穂をゆらす風」を借りてきた。早く観たい。連休後半には旅行の予定も入っているのでなかなかレビューを書く時間が取れないが、もう開き直ってがんがん映画を観よう。

「マッチポイント」 ★★★★☆
 2005年 ウディ・アレン監督 イギリス

2007年4月24日 (火)

「硫黄島からの手紙」を観ました

  このところ映画は観てもレビューを書けない日々が続いている。完全に輸入超過状態。Orora1 気はあせっても筆は進まない。何とか観た直後の感想を連発してその場をしのいでいる。「ローズ・イン・タイドランド」、「王と鳥」、「ドリームガールズ」、「母たちの村」、そして「硫黄島からの手紙」。たまる一方だ。何とか「母たちの村」だけでも本格的レビューを書きたい。

  昨年公開された映画は既に50本は観ていると思うが、それでも注目すべき作品でまだ観ていないものが結構ある。「父親たちの星条旗」、「麦の穂をゆらす風」、「カポーティ」、「マッチポイント」、「うつせみ」、「サラバンド」、「王の男」、「007/カジノ・ロワイヤル」、「ヒストリー・オブ・バイオレンス」、「ブラック・ダリア」、「楽日」、「ブロークン・フラワーズ」、「プルートで朝食を」、「イカとクジラ」、「ダーウィンの悪夢」、「明日へのチケット」等々。ハ~、ため息が出る。この調子じゃ、昨年のマイ・ベストテンが完成するのは6月になりそうだ。

  さて、「硫黄島からの手紙」。知り合いがどこか物足りないと言っていたが、確かにそう感じた。141分が3時間くらいに感じた。だらだらとしているわけではないし、退屈でもない。しかし何か物足りない。日本軍の扱いは実に公平だし、戦場と国にいる家族をつなぐカットによって残してきた生活の重さも描きこんではいる。戦闘場面は期待したほどではなかったが、ドラマと演出のメリハリさえしっかりしていればこれは大きな欠陥ではない。だがその人間ドラマにもう一つインパクトがないのだ。ほぼ全滅した日本軍側から描いていながら、悲壮感もむなしさもあまり感じない。別にそう描かなければならないわけではないが、どこか淡々としている。栗林中将(渡辺謙)と西中佐(伊原剛志)の人物描写は見事で強く印象に残ったが、西郷(二宮和也)と清水(加瀬亮)は掘り下げが足りない。役者の演技や存在感にしても前の二人とは格の違いを感じてしまう。この辺もマイナスポイントだ。

  恐らくクライマックスに欠けるのが一番の原因なのだろう。退屈な場面はほとんどないのだが、どうもメリハリがないのだ。この長さの作品ならば2箇所は山場がほしい。しかし全体に同じような調子で流れてしまう。どの場面も悪くはないのだが、ぐっと心に迫るものがない。記憶に残る場面やせりふも少ない。だから淡々とした印象を受けるのだろう。なぜそうなるのか。思うにこの映画は主題を絞りきれていないのではないか。5日で終わると思われた圧倒的に不利な戦いを36日間も持ちこたえさせた日本軍の勇敢さ、知略を描きたかったわけではない。アメリカ映画だから当然日本人の愛国心をくすぐる描き方にはなっていない。戦争の犠牲者として日本兵を描いたわけでもない。確かに、単なる「顔のない敵」としてではなく、それぞれの人格を持った人間として日本兵を描こうとした意図は伝わってくる。彼らは何を考え、戦場に来る前はどのような生活をし、どのような悩みを持ち、どのように戦い、どのように死んでいったのか。そこに焦点を当てたい。それは分かる。その意味で、アメリカ映画としては日本人を良く描いていると思う。ほとんど不自然さを感じなかった。しかしどこか深みに欠ける。ステレオタイプ的な描写も所々見受けられる。焦点が絞りきれないから山場が作れず、焦点が拡散してパノラマ的になってしまう。そういうことではないか。

  日本人を描いたアメリカ映画としては出色だが、作劇上の問題点をいくつか感じる映画である。もっとテーマを明確にして焦点を絞り込み、クライマックスを設けてメリハリをつけていたらとてつもない傑作になっていたかも知れない。

「硫黄島からの手紙」 ★★★★
 2006年 クリント・イーストウッド監督 アメリカ

2007年4月23日 (月)

「母たちの村」を観ました

  先日「ゴブリンのこれがおすすめ 36」でアフリカ関連映画を取り上げたのは「母たちのFan3_2 村」を観る予定だったからである。それを書いた直後に白石顕二著『アフリカ映画紀行』(2000年、つげ書房新社)を手に入れた。まだきちんと読んでいないが、そこに取り上げられている映画の数には驚く。50本取り上げられているが、僕が知っているのは「チェド」1本である。これほどアフリカ映画を観ている人は世界でも珍しいのではないか。何しろアフリカに住んでいる人たちでさえアフリカ映画を観る機会は少ないのである。アフリカでは大都市の映画館ですら欧米、インド、エジプトの映画で占められているらしい。では彼はどこでアフリカ映画を観たのか。アフリカを始め各地の映画祭で観たのである。なるほどこれは名案だ。特にフランスではアフリカ映画祭が盛んらしい。日本でも白石氏自身がかかわってきた「東京アフリカ映画祭」や各地の上映会なども開催されるようになり、アフリカ映画はわずかながらも認知されるようになって来た。

  しかし映画祭が開かれているとはいえ、広く劇場公開される作品はほとんどない。アフリカ映画が岩波ホール以外で長期上映されることは滅多にないと言っていいだろう。「母たちの村」もやはり岩波ホールで上映された作品である。これまで観た「エミタイ」、「チェド」、「アモク!」はどれも悪くないが、傑作だと思うものはなかった。しかし「母たちの村」は期待をはるかに上回る傑作だった。僕は戦う映画が大好きだが、「母たちの村」は戦う女の映画として「スタンドアップ」に勝るとも劣らない出来である。傑作、力作ぞろいだった昨年の洋画の中でも上位に入ることになるだろう。

  アフリカにおける女性器の切除手術はだいぶ前から日本でも知られていた。まあ当時はアフリカの奇習という扱いだったと思う。性器を縫い付けてしまうとはなんて野蛮な習慣だと仰天したものだ。ユダヤ教などで行われる男性の割礼は宗教的意味合いが強いと思われるが、女性器割礼は女性の性欲を減退させるため、つまり男性への服従を強いる意味合いが強いと感じる。当然フェミニズムの標的になるわけで、1995年に翻訳が出たアリス・ウォーカー(スピルバーグの「カラー・パープル」の原作者)の『喜びの秘密』でこの問題が扱われ、当時話題になった。

  女性器割礼があることは知っていても、それがどのように行われ、女性たちはそれをどう受け入れていたのか、それにどのような意味合いがあるのかは分からない。「母たちの村」はそれらを具体的に描き出してゆく。その点で「それでもボクはやってない」に通じるものがある。具体的に描かれてこそ伝わるのである。手術の結果命を落とすものが少なからずいること、手術を恐れて逃げ出す子供がいること、割礼師たちのおどろおどろしい姿(何度か独特の仮面をかぶった映像が差し挟まれるが、その恐ろしさは「なまはげ」など比ではない)、ビラコロ(割礼を受けていないもの)に対する差別、手術を受ける子供たちの悲鳴、男性に絶対服従の父権制的社会(主人や目上の男性を女性は跪いて迎える)、等々。

  とにかくアフリカ独特の風俗、風習、習慣が強烈なインパクトと共に目に飛び込んでくる。中でも色彩が強烈である。大胆に使われた原色が目に鮮やかだ。独特の衣装とそのデザインのユニークさ。褐色の肌に原色が似合う。日本では考えられない色使い。形の美しさ。女性ならずとも目を引かれる。

Gen1_2   しかし、「母たちの村」は「それでもボクはやってない」のようにただ戸惑い翻弄されるだけではない。「母たちの村」は戦う映画である。その点では「スタンドアップ」により近い。実際、どちらも似た展開になる。共に1人の女性が男たちの不当な扱いに抗議して立ち上がり、次第に仲間の協力を得て覆してゆくという展開である。「スタンドアップ」のシャーリーズ・セロン同様、主演のファトゥマタ・クリバリが圧倒的な存在感を示している。「スタンドアップ」ではあからさまなセクハラ攻撃が描かれるが、「母たちの村」ではあからさまと言うよりは昔から続いてきた当然のことという現れ方をする。男たちはただ「割礼は大昔から伝えられたイスラムの定めだ」と決め付けるばかり。

  直接圧力をかけてくるのは村の女たちである。赤い衣装に身を包み、峻厳な表情で立ちはだかる割礼師たちの不気味さ。「スタンドアップ」同様、女たち自身が「伝統の儀式」を当然のこととして受け入れてきたのだ。割礼は「神の定めた伝統」という目に見えない圧力で締め付けてくる。宗教的盲目性が迷信のような考え方と結びつき、テレビやラジオを女性から取り上げるという行動に出る。女性から楽しみを奪う、外の世界の知識が入り込むことを断ち切るというのは性的支配の論理である。しかし手術が元で死ぬ子供や身投げをして自殺する子供が後を絶たず、女性たちはヒロインのコレを支持する側に回り、男たちに立ち向かう。強い視線で男をにらみ、堂々と村の長老たちに言い返すコレに深い共感を覚えずにいられない。ラストのクライマックスで、コレの「ワッサー、ワッサー」という叫び声に応えて、女たちは歌い始め、踊り出す。「アマンドラ 希望の歌」を思い起こさせる感動的なシーンだ。アフリカの人々は心を奮い立たせる時、体全体を使ってリズムを取り歌いだすのである。「女性たちは素晴らしい 女性たちは生命を産む。」

  映画全体から映像とドラマの持つ力強さがはじけだしてくる。特定の地域の特定の儀式を超えて、深く人間的感情に訴えてくる。日本ではじめて公開されたアフリカ映画「エミタイ」の上映から22年。ついにアフリカから世界でも最高水準の傑作が出現した。

 「母たちの村」 ★★★★★

「母たちの村」のレビュー

2007年4月22日 (日)

これから観たい&おすすめ映画・DVD(07年5月)

【新作映画】
4月14日公開
 「クィーン」(スティーブン・フリアーズ監督、英・仏・伊)
4月21日公開
 「こわれゆく世界の中で」(アンソニー・ミンゲラ監督、英・米)
 「ドレスデン、運命の日」(ローランド・ズゾ・リヒター監督、独)
 「明日、君がいない」(ムラーリK.タルリ監督、オーストラリア)
4月28日公開
 「バベル」(アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督、仏・米・メキシコ)
 「STRINGS 愛と絆の旅路」(アンデルス・ルノウ・クラウン監督、デンマーク他)
 「モンゴリアン・ピンポン」(ニン・ハオ監督、中国)
4月下旬より
 「日本の青空」(大澤豊監督、日本)
5月12日公開
 「スモーキン・エース 暗殺者がいっぱい」(ジョー・カーナハン監督、英・仏・米)
 「眉山」(犬童一心監督、日本)
 「初雪の恋 ヴァージン・スノー」(ハン・サンヒ監督、日本・韓国)
5月19日公開
 「主人公は僕だった」(マーク・フォースター監督、米)
 「パッチギ!LOVE&PEACE」(井筒和幸監督、日本)
5月25日公開
 「パイレーツ・オブ・カリビアン ワールド・エンド」(ゴア・バービンスキー監督、米)

【新作DVD】
4月25日
 「カオス」(トニー・ジグリオ監督、加・英・米)
 「カクタス・ジャック」(アレファンドロ・ロサーノ監督、メキシコ)
 「クリムト」(ラウル・ルイス監督、オーストリア・他)
 「天上の恋人」(ジャン・チンミン監督、中国)
 「ストロベリーショートケイクス」(矢崎仁司監督、日本)
 「明日へのチケット」(エルマンノ・オルミ他監督、伊・英・イラン)
 「トリノ、24時からの恋人たち」(ダビデ・フェラーリオ監督、伊)
4月27日
 「フィッシング・ウィズ・ジョン」(ジョン・ルーリー監督、米)
 「手紙」(生野慈朗監督、日本)
5月2日
 「恋するレストラン」(マルティン・コールホーベン監督、オランダ)
5月3日
 「父親たちの星条旗」(クリント・イーストウッド監督、米)
5月4日
 「イン・マイ・カントリー」(ジョン・ブアマン監督、英・南ア・他)
 「リメンバー・ミー」(ガブリエレ・ムッチーノ監督、伊・仏・英)
5月11日
 「ブラック・ダリア」(ブライアン・デ・パルマ監督、米・独)
 「五月の恋」(シュー・シャオミン監督、台湾・中国)
5月23日
 「007 カジノ・ロワイヤル」(マーティン・キャンベル監督、英・他)
5月25日
 「キャッチボール屋」(大崎章監督、日本)
 「エンロン」(アレックス・ギブニー監督、米)
 「シャーロットのおくりもの」(ゲイリー・ウィニック監督、米)
 「みえない雲」(グレゴール・シュニッツラー監督、ドイツ)
5月26日
 「サラバンド」(イングマール・ベルイマン監督、スウェーデン)

【旧作DVD】
4月25日
 「らせん階段」(45、ロバート・シオドマク監督、米)
 「ナビゲーター ある鉄道員の物語」(01、ケン・ローチ監督、英・独・スペイン)
 「ブレッド&ローズ」(00、ケン・ローチ監督、英・他)
 「マイ・ネーム・イズ・ジョー」(98、ケン・ローチ監督、英・他)
4月28日
 「美しき結婚」(82、エリック・ロメール監督、フランス)
 「海辺のポーリーヌ」(83、エリック・ロメール監督、フランス)
 「飛行士の妻」(81、エリック・ロメール監督、フランス)
 「怪人マブゼ博士」(33、フリッツ・ラング監督、ドイツ)
5月3日
 「トーク・レディオ」(88、オリバー・ストーン監督、米)
5月18日
 「評決」(82、シドニー・ルメット監督、米)
5月25日
 「レッズ」(81、ウォーレン・ビーティ監督、米)
 「オール・ザット・ジャズ」(79、ボブ・フォッシー監督、米)
5月26日
 「グル・ダッド傑作選 DVD-BOX」(グル・ダッド監督、インド)

  新作では何より「クィーン」が観たい。ダイアナ妃が亡くなった時たまたま僕はイギリスのIt01 ブライトンにいて、その日のうちにロンドンのケンジントン・パークへ行って人々が献花している様子を見てきた。大好きなヘレン・ミレンがエリザベス女王を演じているのも注目。話題の「バベル」と「パイレーツ・オブ・カリビアン ワールド・エンド」の出来も気になる。連休を控えて他にも注目作がいっぱい。
  新作DVDでは、「父親たちの星条旗」が目玉。ケン・ローチ、「木靴の樹」のエルマンノ・オルミ、アッバス・キアロスタミ競演の「明日へのチケット」も楽しみだ。他に中国やイタリア作品が結構あるので期待したい。未公開作品だが、アパルトヘイトの実態を描いた「イン・マイ・カントリー」も拾い物の可能性あり。
  旧作DVDでは何と言ってもエリック・ロメール作品とケン・ローチ作品が目玉。ケン・ローチ作品は長いこと待たされました。BOXはすぐ手に入らないとしても個々の作品はレンタル店に並びそうだ。「レッズ」、「トーク・レディオ」、「評決」もやっとDVDに。見逃していたらこの機会に観ておいて損はない。伝説の監督といわれるインドのグル・ダッド作品もBOXで出る。どんな作品なのか気になる。

2007年4月19日 (木)

それでもボクはやってない

2007年 日本 2007年1月公開
評価:★★★★★
監督:周防正行
脚本:周防正行
撮影:栢野直樹
美術:部谷京子
出演:加瀬亮、瀬戸朝香、役所広司、山本耕史、竹中直人、田口浩正
    徳井優、鈴木蘭々、小日向文世、もたいまさこ、光石研
    大森南朋、清水美砂、大和田伸也、尾美としのり、高橋長英

Sky_window_2  事実そのものが説得力を持つ映画である。昨今は大概のことは何かで見たり聞いたりしているので、「ええっ!そうなのか!」と驚くことはそれほどない。姉歯建築士など、いろんな業界の暗部を知って驚きはするが、この映画ほどの衝撃はない。なぜならどこでもそんなものさという気持ちがあるからだ。しかしこの映画の場合は文字通り「正義」が必要な場所でその正義が全く何の意味もなさないことがはっきりと描かれるから衝撃的なのである。裁判制度はまさに日本人の盲点だった。「そんな!めちゃくちゃじゃないか。一体どうなってるんだ?」という思いがこれほど湧き上がって来る映画も少ない。そういう意味で貴重であり、久々に現われた社会派の傑作として長く記憶にとどまることになるだろう。

  そこにこの映画のもう一つの効用がある。色々なブログを覗いてみて気づくが、社会派という言葉が珍しく肯定的に使われている。「社会派」というとまるで偏った映画で、押し付けがましくやたらと小難しい映画と思われていた印象がある。それをかなり払拭したという意味でも大きな意味を持つ作品である。徹底したリアリズムがいかに強烈な衝撃を生み出すか、それを実際に、しかも見事にやって見せた作品である。ただ知らない世界を描いて見せるなら花輪和一の「刑務所の中」(青林工芸舎)のような作品もある(映画「刑務所の中」の原作)。まさに「へ~」連発の世界。しかし「それでもボクはやってない」の世界は「へ~」だけではなく、「えっ、まさかそんな」の連発なのである。驚きばかりか、怒りや恐怖がわきあがってくる。そこが強烈なのだ。

  かつて日本にも山本薩夫と今井正という社会派の巨匠がおり、社会派の作品は数多く作られていた。その後その系統は先細りになっていた。わずかに山田洋次と晩年の黒木和雄がその流れを引き継いでいたに過ぎない。冤罪事件を扱ったものとしては今井正監督の「真昼の暗黒」(1956)、山本薩夫監督の「松川事件」(1961)や「証人の椅子」(1965)などが知られる。外国映画ではジュリアーノ・モンタルド監督の「死刑台のメロディ」(1970)が有名。有名なサッコとヴァンゼッティ事件を映画化したもの。高校生の時に観たがこれも強い衝撃を受けた。ジョーン・バエズの歌った主題歌は今でも耳に残っている。スペイン映画にはピラール・ミロー監督の「クエンカ事件」(1979)がある。これも実際にあった事件を描いたもので、全編これ拷問シーンばかりといった印象の映画である。最後に死んだはずの男がひょっこり現われて冤罪だったことが分かる。この映画は当時スペインで空前の大ヒットとなったが、こんな冤罪・拷問映画が大ヒットすること自体フランコ独裁体制の下で人々がいかに苦しめられていたかを物語っている。

  スタンリー・クレイマー監督の「風の遺産」と「ニュールンベルグ裁判」、ビリー・ワイルダー監督の「情婦」、シドニー・ルメット監督の「十二人の怒れる男」、オットー・プレミンジャー監督の「軍法会議」と「或る殺人」など、これまで数多くの裁判映画が作られてきた。謎解きのサスペンス、いくつものどんでん返しが重なる予想外の展開、息詰まるような緊張感、丁々発止の演技合戦などが盛り込めるので、俳優にとっても脚本家にとっても監督にとっても思いっきり力量が発揮できるジャンルなのである。しかし、「それでもボクはやってない」は日本における裁判のあり方それ自体をテーマにしているという点でユニークである。被告席に立っているのは加瀬亮ではなく、日本の裁判制度なのだ。

  法は誰のためにあるのか?この映画はそう問いかけている。この映画の主張は極めてSdlamp02_1 単純であり、明快である。「十人の真犯人を逃すとも一人の無辜を罰するなかれ。」この当然の前提が今の日本の裁判制度の下では崩れている、そう言っているのである。有罪が確定するまではあくまで「容疑者」であり「犯人」ではない。理屈では誰でも理解できるが、もう長い間テレビの報道はこの原則を踏みにじってきている。名前が挙がった時から既に犯人扱いである。オウムの松本サリン事件で濡れ衣を着せられたKさんを思い起こせばいい。しかしそれとても所詮は他人事だった。報道側も視聴者も時間がたてばやがて忘れてしまう。しかし、痴漢冤罪事件はいつ何時自分に降りかかってくるかも知れない。だから他人事ではない。観ていて背筋に恐怖が走るのは誰にでも置き換え可能な事件だからだ。歴史的な大事件ではなく、「身近な」痴漢冤罪事件に目をつけたことはその意味でまさに慧眼だった。

  自分もいつ被告の立場に置かれるかわからない。観ていてそういう気持ちにさせられるが、まな板に載せられているのは裁判制度だけではない。今の報道は「有罪が確定するまでは無罪と推定される」という立場に立っているのか、テレビの報道を観て自分は無批判的にそれを受け入れていないか。この映画は同時にそのことも問いかけている。容易に被害者になりうる社会は容易に加害者になりうる社会でもある。たとえ無実が証明されても、一旦拘留された者を会社が首にしたり、アパートから追い出したりしていないか。今の裁判制度は、自分が被害者にならないためにも、また自分が加害者にならないためにも、見直しが必要なのである。 法は誰のためにあるのか?多くの人は、法は国民を守るためにあると答えるだろう。だが、それは幻想だ。法は常に支配者の都合のいいように作られてきたのである。トレヴェニアンの「ワイオミングの惨劇」(新潮文庫)に次のような一節がある。 

 「盗むなら、でっかく盗め。子供に食わそうとパンを盗んだやつは鎖をつけられ、大きな岩を砕かせられる。しかし、でっかく盗んだら――ほんとにでっかくだぞ――そいつは称賛され、真似までされる。ロックフェラーしかり、モルガンしかり、カーネギーしかり。もちろんそういうやつらは法律を破らない。法律をつくるんだ。“企業”とか“大型融資”とか名前をくっつけて、盗みを合法的にするためにな。だから、盗みや悪党を志すならでっかく考えることだ。そうすれば一目置いてもらえるよ」(254)

  「やつらは法律を破らない。法律をつくるんだ。」国民の基本的権利は憲法によって保障されているが、われわれが絶えず意識していなければ法律は気づかないうちに書き換えられてしまう。われわれは国の制度にあまりに無頓着でなかったか?難しいことは偉い人に任せておけばいい。そういう意識が隙を生む。大岡裁きや水戸黄門の裁きに委ねてしまっている。水戸黄門の印籠が象徴的だが、彼は権力を持ち権力を振りかざすことで事件を解決している。そういう考え方に慣れてしまってはいないか?仮に水戸黄門に優れた人格があったとしても、すべての裁判官がそうだといえるのか?個々の検事や判事や弁護士は大きなシステムの中の歯車に過ぎない。システム自体がゆがんでいる時に個々の人間の人格がどれだけの効力を発揮できるのか?むしろその人格すらも歪められてはいないか?

  この映画では検事の方が裁判官よりも力を持っていると示唆されている。検事の背後には国家権力がある。無罪を宣告することは警察の主張に誤りがあると判断を下すことである。それはひいては国家権力に楯突くことになる。無罪を連発する判事は裁判の途中でもあっけなく左遷される。だから、それを恐れる判事たちは頭から被告を有罪だと決め付けて裁判に臨むことになる。弁護士も、裁判に訴えたところで99.9%は負けるのだから、たとえ無実でも「罪」を認めてしまったほうが楽だと勧める。そんな仕組みになってしまっている。もがけばもがくほど人権を奪われてゆく。

  映画はこの恐怖を細部にわたる正確なリアリティを積み重ねることで描き出してゆく。家族との面会場面や取調室の様子などはテレビドラマや映画などでよく見かける。しかしそこで描かれていない世界にこそ真の暗闇があった。被害者の言葉を鵜呑みにする駅員、ろくに証拠も集めないずさんな捜査、端からやったに違いないと決め付けている取調官や検察庁の係員、二人目の裁判官も同じだ。「推定無罪」ならぬ「推定有罪」がまかり通っている。裁判官は200もの裁判を抱え、とにかく無難にこなす(つまり検察に逆らわず有罪判決を下す)ことしか考えていない。被疑者の金子徹平(加瀬亮)がくぐったのは単なる警察署と裁判所の門ではない。彼がくぐったのはダンテの『神曲』に描かれた地獄の門だった。その門には「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」との銘文が刻まれている。

  どんなに徹平が無実を主張しても一切取調官は耳を貸さない。一日がかりで検察庁で取り調べられる時も手錠をかけられ縄でつながれている。ほとんど犯人扱いだ。罪を認めれば5万円の罰金で釈放され誰にも知られないで済む(前科は付くが)のに対し、あくまで無罪を主張すれば何ヶ月も拘留され、裁判でさらし者にされ、しかも判決の99.9%が有罪というのでは完全に人生が狂わされてしまう。自分はやっていないのだから有罪になるはずはないなどという淡い期待は粉々に砕かれてしまう。

  徹平はあまりにひどい扱いと知らないことばかりの制度に振り回され、うろたえ、もがき、苦しみ、立ちすくむ。なれない裁判の場面では、マイクに顔を近づけすぎたり、裁判官の方ではなく質問する検察官や弁護士の方を見てしまうというさりげない描き方がリアルInaka0006 だ。裁判官や取調官個人が悪いのではない。実際に痴漢行為は行われており当然被害者はいる。ずるがしこい加害者に騙されまいと取調官が身構えてしまうのも無理はない。法廷に引き出され、あれこれ話したくないことを聞かれる被害者もつらいのだ。問題は個人ではなく、制度と運用にある。被疑者の立場を理解する余裕のない裁判官、無罪を出せば左遷される人事のありよう、検察の背後に国家権力が控えていて判決にまで影響を与えている現状。ましてや痴漢冤罪は反証を集めるのが極めて難しい。しかし被害者の証言以外にやったという証拠を集めるのも難しい。この裁判の場合は、被疑者の手に被害者の衣服の繊維クズがついていないか調べることを怠っていた。それでも判決は有罪だった。つまるところ「疑わしきは罰してしまえ」というやり方がまかり通っていることに問題があるのだ。徹平のような冤罪をなくすためには、有罪とするに足る明白な証拠がない限り無罪と推定されるという本来の原則を貫く以外にない。無罪が立証されなければ有罪というのではなく、有罪が立証されない限りは無罪であるという考えに切り替える必用がある。「十人の真犯人を逃すとも一人の無辜を罰するなかれ。」この原点に戻るべきだ。

  次々と明らかにされる驚くべき事実にぐいぐいとひきつけられる。しかし徹頭徹尾峻厳なリアリズムで押し通しているわけではない。ところどころユーモラスな場面が盛り込まれている。そのバランスがまた絶妙である。周防正行作品の常連である竹中直人や田口浩正はいまひとつ活かしきれていないが、徹平と同房のオカマのような男を演じた本田博太郎と刑務所の看守を演じた徳井優は出色。この二人は本当にうまい役者だ。

  こういう作品に出会うと、真に戦慄すべきは作り物のホラーなどではなく現実であるという思いを新たにする。われわれ自身を含め、人権感覚の低さを改めなければ冤罪はなくならない。一番の法の番人、それは国民なのである。

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2007年4月16日 (月)

「ドリームガールズ」を観てきました

Utahime1  昨日電気館で「ドリームガールズ」を観てきた。実に素晴らしかった。久々にミュージカルを満喫した。80年代以降世界の映画の水準が上がり、様々な国から傑作が届けられるようになってきたが、ミュージカル映画だけはいまだにアメリカ映画の独壇場である。こればかりはどこの国もアメリカにかなわない。音楽映画という切り方をすれば、アメリカ以外にも優れた作品はたくさんある。「歌え!フィッシャーマン」、「風の丘を越えて」、「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」「風の前奏曲」などは優れた音楽映画だ。しかしミュージカルとは呼べない。まさにアメリカのミュージカル映画はワン・アンド・オンリーなのである。やはり電気館で観た「シカゴ」も良かったが、その後に観た「ビヨンドtheシー」「五線譜のラブレター」「プロデューサーズ」などもさすがの出来。平均点は高い。才能のある歌手やエンターテイナーが腐るほどいて、国民がショー好きで、とにかく楽しむのが好きな国民性があってはじめて作られる類の映画である。その上歌やダンスが中心だからドラマは薄くてもいいときてはまさにアメリカ向き。傑作が多いはずだ。映画を観るというよりも、ショーを観に行く感覚で行けばいい。

 「ドリームガールズ」は「ザ・スプリームス」というモデルがあるので、「Ray/レイ」、「ビヨンドtheシー」、「五線譜のラブレター」、「ウォーク・ザ・ライン」など一連の伝記映画の流れの上に企画されたものといえるだろう。しかし「ザ・スプリームス」の成功秘話を描いた映画と言うよりも、むしろ「ザ・スプリームス」になれなかったフローレンス・バラードをモデルにした映画と言うべきである。その点でむしろ″ビートルズになれなかった男″スチュアート・サトクリフを描いた映画「バック・ビート」に近い。とにかくフローレンス・バラードをモデルにしたエフィ役のジェニファー・ハドソンがすごい。彼女には終始圧倒されていた。これは彼女の映画である。ビヨンセ・ノウルズ、エディ・マーフィ、ジェイミー・フォックスなどはみんな脇役。ジェニファー・ハドソンの歌と存在感は断然他を圧倒していた(エディ・マーフィも力演だったが)。だから日本での宣伝がビヨンセ、エディ・マーフィ、ジェイミー・フォックスばかりを前面に出していることには怒りを覚えた。許しがたい行為である。劇中でジェイミー・フォックス(モータウンの創設者ベリー・ゴーディ・ジュニアをモデルにしたカーティス・テイラーJr役)がやったことと同じではないか。

   そもそもモータウン(自動車産業で有名なデトロイトで生まれたので、モーター・タウンをもじってつけた名称)はそれまで黒人を中心に聞かれていた黒人音楽を白人のリスナーもターゲットにして、ソフトでポップな味付けにした独特のモータウン・サウンドで売り出したのである。ドリーメッツの「キャデラック」という曲を白人の男性歌手がよりソフトにして歌って大いに白人たちに受けている場面が出てくる。この場面は二重に象徴的である。ドリーメッツがドリームガールズと衣替えしてデビューした時に歌ったのはそういうソフトでポップな歌なのである。そういう方向転換をしたのだ。同時にそれはエフィーの歌う強烈なR&B路線から美人のディーナを中心としたソフトな白人受けのするモータウン・サウンドへの転向をも象徴している。エフィーが主役の座を奪われたのはディーナの方が美人だったからだけではなく、エフィーの野太い声とソウルフルな歌い方がモータウン・サウンドに合わなかったからでもある。エフィーの復帰作「ワン・ナイト・オンリー」も、カーティス・テイラー(ジェイミー・フォックス)が白人歌手にパクらせてエフィーをもう一度葬ろうとした。白人版の方がヒットしたことは言うまでもない。

 同じことはエディ・マーフィ扮するR&B歌手ジェームス・“サンダー”・アーリーにも言える。JBばりの彼の歌はもう時代遅れで、白人の聴衆には下品に見えるというわけだ。「過去の男」になったジェームズは自ら命を絶つ。だいぶ前に読んだ吉田ルイ子の名著『ハーレムの熱い日々』(1973年、講談社)によると、当時黒人大衆は妖しく歌い踊るティナ・ターナーなどに熱中していたそうだ。「高級な」ジャズはもっぱら白人が聴いていた。彼らは当然モータウン音楽なども聴かない。それも白人の音楽なのである。

 僕はモータウンの音楽は好きだ。ザ・スプリームス(当時は「シュープリームス」と言ってIrisc11 いた)も数多くのナンバーワン・ソングを放ち、耳に馴染んでいる曲が多いので決して嫌いではない。しかし僕が本当に好きな黒人音楽は「真っ黒」な音楽である。もっとディープでなけりゃソウルじゃない。フォークもアイリッシュ・ミュージックもモダン・カントリーも大好きだが、ことブラック・ミュージックに関しては「真っ黒」でなければ満足しない。だからエフィーの歌はまさに僕のつぼにはまる。ダイアナ・ロスもザ・スプリームス時代はまだいいが、ソロになってからはいいと思う曲は一つもない。彼女は「ビリー・ホリデイ物語/奇妙な果実」でビリー・ホリデイを演じたが、スター街道を歩んできた彼女に人種差別で苦しみ麻薬とアルコールが手放せなかったビリー・ホリデイの苦難の人生など演じられるはずはない。まったくの凡作だった。

 まあダイアナ・ロスのことはこのくらいにしておこう。肝心なのはジェニファー・ハドソン。すごい人がいたものだ。抜群のリズム感、太い声と豊かな声量。彼女の声にはソウルが込められている。多くの黒人歌手がそうだが、彼女もまた幼い頃から教会で歌っていたという。イギリスの映画俳優たちが映画の前に舞台でしっかり経験を積んでいるように、黒人歌手の多くも教会で培ったゴスペルの下地がある。ただミュージカルの「ドリームガールズ」では歌で圧倒できたが、もし今後女優を目指すのなら演技力も磨かなければならない。しかしあれだけの表現力があれば女優としても十分活躍できるだろう。

 本格的なレビューが書けるかわからないのでつい長く書いてしまった。最後に、上に挙げた『ハーレムの熱い日々』の他にもう1冊紹介しておこう。ジャック・シフマン著『黒人ばかりのアポロ劇場』(スイングジャーナル社)。ダイナ・ワシントン、ビリー・ホリデイ、サラ・ヴォーン、スティーヴィー・ワンダー等々、錚々たる大歌手たちの舞台裏でのエピソード満載である。昭和48年発行の古い本なので、とっくの昔に絶版になっていると思うが、見つけたら買っておくべし。

「ドリームガールズ」★★★★☆

「ドリームガールズ」のレビュー

2007年4月15日 (日)

「王と鳥」をDVDで観ました

  このところ猛烈に忙しかった。「ローズ・イン・タイドランド」と「それでもボクはやってない」Sdcutmo313_1 のレビューも遅れに遅れている。家に帰ってくるとどっと疲れが出て、ものを考える気力が湧かない。映画を観ることすら億劫だった。昨日の土曜日にようやく一段楽したが、体に疲れが澱のようにたまっていてなかなか抜けない。レンタルしていた「王と鳥」(「やぶにらみの暴君」の改作)の返却期限が昨日だったので夕方無理して観たが、途中で何度も眠り込んでしまい、その度に少し巻き戻して(DVDでもそう言うのか?)観直す始末。もちろん映画が退屈だったわけではない。疲れのせいである。

  「やぶにらみの暴君」は1952年製作。日本公開は1955年。その後長い間「幻の名作」化していた。この作品の名前は恐らくまだ田舎にいた高校生の頃に知ったのだと思うが、ようやく念願かなって初めて観たのは84年の3月13日。高田馬場のACTで「禁じられた遊び」、「恐怖の報酬」、「やぶにらみの暴君」の三本立てで観た。東京に出てきて11年目である。「王と鳥」は、ポール・グリモーの気に染まないまま公開された「やぶにらみの暴君」の権利とネガフィルムを彼が取り戻して作った改訂版である。「やぶにらみの暴君」を観てから23年。あの独特の人物・キャラクター造形、未来都市のような王宮とロボットに代表される機械仕掛け、端々にまで行き渡る風刺精神は今観ても新鮮で色あせていなかった。正直、宮崎アニメやピクサーなどのCGアニメに慣れた目で観ても耐えられるのか多少不安はあった。しかしまったくの杞憂だった。

  ストーリーなどはほとんど忘れていたので「やぶにらみの暴君」との細かい違いなどは分からないが、ライオンなどの猛獣のエピソードは全く記憶になかった。しかしそこにあったのは間違いなく十九世紀のパリを辛辣に風刺したドーミエなどから続くフランスの風刺の伝統である。後のカリカチュアやパロディ満載の「ベルヴィル・ランデブー」(2002)にも連なる伝統。アメリカのディズニー、日本のスタジオ・ジブリやテレビアニメ、イギリスのアードマン、イジー・トルンカを生んだチェコの人形アニメ、ユーリ・ノルシュテインやイワン・イワノフ・ワノーを生んだソ連アニメなどに比べるとフランスのアニメ作品は印象が薄い。それでも、最近で言えばシルヴァン・ショメ監督の「ベルヴィル・ランデブー」やミッシェル・オスロ監督の「キリクと魔女」や「プリンス&プリンセス」などがある。探せばまだまだ宝が眠っているかもしれない。

  「それでもボクはやってない」と「王と鳥」は遅れてもレビューを書きます。「ローズ・イン・タイドランド」は?微妙だな。観てからもう1週間以上たっているからねえ。

「王と鳥」★★★★☆
 1980年 ポール・グリモー監督 フランス

2007年4月14日 (土)

ゴブリンのこれがおすすめ 36

アフリカ関連映画
「おじいさんと草原の小学校」(2010、ジャスティン・チャドウィック監督、英)
「インビクタス/負けざる者たち」(2009、クリント・イーストウッド監督、米)
「迷子の警察音楽隊」(2007、エラン・コリリン監督、イスラエル・フランス)
「おいしいコーヒーの真実」(2006、マーク・フランシス監督、英・米)
「ブラッド・ダイヤモンド」(2006、エドワード・ズウィック監督、米)
「輝く夜明けに向かって」(2006、フィリップ・ノイス監督、仏・英・南ア・米)
「ラスト・キング・オブ・スコットランド」(2006、ケビン・マクドナルド監督、イギリス)
「エマニュエルの贈り物」(2005、リサ・ラックス、ナンシー・スターン監督、アメリカ)
「ツォツィ」(2005、ギャビン・フッド監督、英・南ア)
「ルワンダの涙」(2005、マイケル・ケイトン=ジョーンズ監督、英・独)
「約束の旅路」(2005、ラデュ・ミヘイレアニュ監督、フランス)
「ナイロビの蜂」(2005、フェルナンド・メイレレス監督、イギリス)
「ロード・オブ・ウォー」(2005、アンドリュー・ニコル監督、アメリカ)
「ダーウィンの悪夢」(2004、フーベルト・ザウパー監督、 オーストリア・ベルギー・仏)
「母たちの村」(2004、ウスマン・センベーヌ監督、セネガル他)
「ホテル・ルワンダ」(2004年、テリー・ジョージ監督、南アフリカ・イギリス・イタリア)
「アマンドラ!希望の歌」(2002、リー・ハーシュ監督、南アフリカ・アメリカ)
「名もなきアフリカの地で」(2002、リー・ハーシュ、ドイツ)
「キリクと魔女」(98、ミッシェル・オスロ監督、仏・ベルギー・ルクセンブルグ)
「イングリッシュ・ペイシェント」(1996、アンソニー・ミンゲラ監督、アメリカ)
「サラフィナ!」(92、ダレル・ジャームズ・ルート監督、英・独・南ア)
「シェルタリング・スカイ」(1990、ベルナルド・ベルトルッチ監督、イギリス)
「白く乾いた季節」(89、ユーザン・パルシー監督、アメリカ)
「サラフィナの声」(88、ナイジェル・ノーブル監督、アメリカ)
「ワールド・アパート」(87、クリス・メンゲス監督、イギリス)
「遠い夜明け」(87、リチャード・アッテンボロー監督、イギリス)
「ひかり」(87、スレイマン・シセ監督、マリ共和国)
「愛と哀しみの果て」(1985、シドニー・ポラック監督、アメリカ)
「アモク!」(81、スウ ヘイル・ベン=バルカ監督、モロッコ・ギニア・セネガル)
「アレキサンドリアWHY?」(79、ユーセフ・シャヒーン監督、エジプト)
「チェド」(76、ウスマン・センベーヌ監督、セネガル)
「放蕩息子の帰還」(76、ユーセフ・シャヒーン監督、エジプト)
「エミタイ」(71、ウスマン・センベーヌ監督、セネガル)
「アルジェの戦い」(66、ジッロ・ポンテコルヴォ監督、イタリア・ アルジェリア)
「トブルク戦線」(1966、アーサー・ヒラー監督、アメリカ)
「飛べ!フェニックス」(1965、ロバート・アルドリッチ監督、アメリカ)
「ズール戦争」(63、サイ・エンドフィールド監督、英米)
「アラビアのロレンス」(62、デヴィッド・リーン監督、イギリス)
「キリマンジャロの雪」(1952、ヘンリー・キング監督、アメリカ)
「アフリカの女王」(51、ジョン・ヒュ-ストン監督、アメリカ)
「望郷」(37、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督、フランス)
「地の果てを行く」(35、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督、フランス)
「外人部隊」(33、ジャック・フェデー監督、フランス)
「モロッコ」(30、ジョゼフ・フォン・スタンバーグ監督、アメリカ)

■そういえばこんなのもあった
「炎の戦線エル・アラメイン」(02、エンツォ・モンテレオーネ監督、イタリア)
「愛と哀しみの果て」(85、シドニー・ポラック監督、アメリカ)
「砂漠のライオン」(81、ムスタファ・アッカード監督、アメリカ)
「ワイルド・ギース」(78、アンドリュー・V・マクラグレン監督、イギリス)
「ルーツ」(77、テレビドラマ、アメリカ)
「ロンメル軍団を叩け」(70、ヘンリー・ハサウェイ監督、アメリカ)
「パットン大戦車軍団」(70、フランクリン=J=シャフナー、アメリカ)
「野生のエルザ」(66、ジェームズ・ヒル監督、アメリカ)
「ハタリ!」(61、ハワード・ホークス監督、アメリカ)
「砂漠の鬼将軍」(51、ヘンリー・ハサウェイ監督、アメリカ)

 最近アフリカ関連の映画が続々と公開されている。僕が初めて観たアフリカ映画は「エミタイ」。1984年4月に岩波ホールで観た。これが日本で最初に公開されたアフリカ映画でCandle1_1 ある。86年5月には同ホールでエジプト映画「放蕩息子の帰還」と「アレキサンドリアWHY?」(次に観たユーセフ・シャヒーン監督作品は04年のオムニバス「セプテンバー11」の1篇)、89年4月にも「チェド」を観ている。大手が輸入に二の足を踏む陽の当たらない作品を積極的に日本に紹介してきた岩波ホールの功績はどれほど讃えても足りない。いまさら言うまでもないことだが、やはりこの点は強調しておきたい。もう1本、84年10月に今はなき六本木のシネ・ヴィヴァンで「アモク!」を観ている。数こそ少ないが80年代にようやくアフリカ映画が日本で観られるようになった。

 もちろんアフリカが舞台として描かれる映画はそれまでもあった。30年代のフランス映画には北アフリカが何度も登場した。「外人部隊」、「地の果てを行く」、「望郷」など。アメリカ映画にも有名な「モロッコ」がある。アフリカは人々が落ち延びてゆく地の果てのエキゾチックな異郷というイメージだった。60年代は「野生のエルザ」や「ハタリ!」などでアフリカが舞台となるが、ここでは野生の王国のイメージが強かった。もちろん一方で「アルジェの戦い」や「ズール戦争」など、イタリアやイギリス製作ではあるが、植民地におけるアフリカ人の戦いを真摯に描いた作品もあった。「アラビアのロレンス」でも一部アフリカが舞台になっている。70年代には「ロンメル軍団を叩け」、「パットン大戦車軍団」、「ワイルド・ギース」など第二次大戦や傭兵戦争を描いた作品が続々と作られた。もちろん西洋人の視点で描かれており、アフリカは単なる舞台に過ぎない。

 ようやく80年代にアフリカで作られた映画が日本でも公開されるようになったわけだが、87年に南アのアパルトヘイトを描いた力作「ワールド・アパート」と「遠い夜明け」が公開されたことは重要である。共にイギリス製作ではあるがアパルトヘイトの実態とアフリカ人の戦いを共感を込めて描いている。89年には「マルチニックの少年」で知られるユーザン・パルシー監督の傑作「白く乾いた季節」が作られ、02年にはアメリカ人監督リー・ハーシュによる「アマンドラ!希望の歌」が生まれる。「アマンドラ!」は人々に勇気と希望と力を与えていた歌という視点からアパルトヘイトを覆した民衆のうねりを描いた必見の名作である。98年のアニメ「キリクと魔女」も注目に値する。素朴な絵ながら、アフリカの大地とそこに生きる人々が温かく描かれている。

 2000年代になって大きな変化が生まれてきた。アフリカは搾取と虐殺の大地として浮かび上がってきた。新作群はまだほとんど観ていないが、力作が続々と作られてきていることは注目すべきである。また、日本でもアフリカ映画祭が開催されるなど、関心も高まってきている。劇場で一般公開されるのはまだまだ西洋の資金で作られた映画が多いが、今後関心が広まればもっと公開作品数も増えるだろう。注目してゆきたい。

 最後に音楽について一言。90年代まではアフリカは映画よりもむしろ音楽で注目されていたと思う。ジャズ・ピアニストのアブドラ・イブラヒム(ダラー・ブランド)を始め、70年代に活躍したフェラ・クティ(東京にいる頃代表作「ゾンビ」を探してずいぶん中古レコード店を探し回ったものだ)、80年代後半からはキング・サニー・アデ、ユッスー・ンドゥール、サリフ・ケイタ、フェラの息子フェミ・クティ、「アモク!」や「アマンドラ!希望の歌」にも出演していたアフリカのディーヴァ、ミリアム・マケバなど世界的に知られるミュージシャンが続出した。しかし最近あまり聞かなくなってしまったのはさびしい。映画の注目に合わせて音楽も注目されることを期待したい。

2007年4月 8日 (日)

「それでもボクはやってない」を観てきました

 今日電気館で「それでもボクはやってない」を観てきた。確かに評判どおりの傑作だっStglass31 た。常々日本映画から社会派作品が消えたことを嘆いていたが、日本の裁判制度そのものを問題にした作品が現われ、かつ非常に高い評判を得ていることはうれしいことである。それにしても、痴漢行為そのものも許せないが、それを裁く日本の裁判制度もひどいものだ。ジョン・グリシャムなどのリーガル・サスペンス物を読めば、裁判で争われるのは真実ではないということはもはや常識である。真実なんて誰にも分からない、とにかく重要なのは裁判で勝つか負けるかの駆引きなのである。ここまで来ればほとんどゲームである。しかしアメリカもひどいが、日本はさらにひどいと思った。あきれるのを通り越して怒りすら覚える。日本の裁判制度は暗黙のうちに「推定無罪」ではなく「推定有罪」の上に立っている。「疑わしきは罰せず」ではなく、疑われたものはみんな罰しろ。これはもはや司法犯罪ではないかという気すらしてくる。コメディばかりが流行る中で、久々に心の底から憤りを感じる日本映画を観た。じっくり取材に時間をかけた周防正行監督の力作である。「ファンシイダンス」(1989)、「シコふんじゃった」(1991)、「Shall we ダンス?」(1996)と、これまで観てきた周防正行監督の作品はどれも面白かった。コミカルな作品を得意としてきたが、ここではシリアスな作品に敢えて挑戦、見事に成功した。彼の復帰を素直に喜びたい。

 他にこの間観た映画は「アタゴオルは猫の森」と「ローズ・イン・タイドランド」。前者はほとんど評判も聞かず、最初から期待していなかった。それでも観たのは原作のますむらひろしのファンだからである。彼の漫画はほぼ全作品持っていると思う。大学生の頃千葉県流山市の江戸川台に住んでいたという縁もある。とにかく、ヒデヨシやテンプラの動く映像が観たかった。しかし予想通り貧弱な映画だった。原作のファンタジー・ワールドをそのまま映像化するだけでいいのに、余計な「演出」を加えているために安っぽいテレビアニメのような作りになってしまった。あの素晴らしい原作をこんな風にしてしまうなんて腹立たしい。テンプラやツキミ姫の顔はまるでブログのアバターみたいだ。ヒデヨシの声がイメージに合っていないのはアニメ化の宿命みたいなものだから我慢するとしても、ギルバルスばかりが活躍して、パンツ、ヒデ丸、カラアゲ丸、テマリなどはほとんどエキストラ並の扱いなのはあまりにひどい。3D-CGなんかにする暇があったらその分原作の味をアニメに置き換える工夫をすべきだった。「銀河鉄道の夜」のようなアニメ化作品の傑作もあるのだからもっと見習うべきだ。

 「ローズ・イン・タイドランド」を一言で言えば「アリス・イン・ナイトメアランド」である。ルイス・キャロルのナンセンス・ファンタジーをドラッグの悪夢世界に変えてしまった。『不思議の国のアリス』も映画化、アニメ化が難しい作品である。何度も試みられたがいまだに決定打はない。テリー・ギリアム監督は正面から挑むのをやめて、ミッチ・カリンの『タイドランド』を原作にひねりにひねった映画に作り変えた。ユーモラスな原作の登場人物を怪しげで病的なキャラクター群に置き換えた。かくして、実におぞましくも不気味ながらどこか惹かれるものもあるティム・バートン的世界が出来上がった。一部で絶賛されているが、僕はそれほど褒めるつもりはない。しかし辛らつなダーク・ファンタジーとしては悪くない出来だ。テリー・ギリアムらしいアイロニーに満ち溢れている。少なくとも彼の作品としては「未来世紀ブラジル」に次ぐ出来である。いかにもイギリス的なコメディであるモンティ・パイソン・シリーズはそこそこ楽しめるが、「バンデットQ」は単なるオバカ映画だし、「12モンキーズ」は平凡な出来。「未来世紀ブラジル」と「ローズ・イン・タイドランド」以外で論ずるに足るのは「フィッシャー・キング」くらいか。「ローズ・イン・タイドランド」でようやく彼らしさを取り戻した。しかもローズ役のジョデル・フェルランドはアリスのイメージにぴったり。よくこんな子を探し出してきたものだ。その点は感心する。

「それでもボクはやってない」★★★★★
  2007年 周防正行監督 日本
「アタゴオルは猫の森」★★★
  2006年 西久保瑞穂監督 日本
「ローズ・イン・タイドランド」★★★★
  2005年 テリー・ギリアム監督 イギリス・カナダ

 「ローズ・イン・タイドランド」と「それでもボクはやってない」はレビューを書きます。

 

2007年4月 4日 (水)

キンキー・ブーツ

2005年 イギリス・アメリカ 2006年8月公開
評価:★★★★☆
原題:Kinky Boots
監督:ジュリアン・ジャロルド
脚本:ティム・ファース、 ジェフ・ディーン
撮影:アイジル・ブリルド
音楽:エイドリアン・ジョンストン
出演:ジョエル・エドガートン 、キウェテル・イジョフォー 、 サラ=ジェーン・ボッツ
    ユアン・フーパー、リンダ・バセット、ニック・フロスト、ジャミマ・ルーパー
    ロバート・パフ

  ショービズとシュービズの衝撃の出会い。この映画を一言で表現するとこういうことになCinderella05g_1 る。大量の在庫を抱えてにっちもさっちも行かなくなった靴工場がキンキー・ブーツというニッチな市場を見出すというお話。

  本論に入る前に、いくつか基本的なことを確認しておこう。「キンキー・ブーツ」の”kinky”という言葉は「異常な、変態の、性的に倒錯した」という意味。イギリスの名門ロック・バンド「ザ・キンクス」の「キンク」はその名詞形。キンキー・サウンドという言葉も懐かしい。そういえば、イギリス人の知り合いが、「近畿日本ツーリスト」が「キンキー日本ツーリスト」に聞こえると大笑いしたことをふと思い出した。それはともかく、「キンキー・ブーツ」の文字通りの意味は「変態ブーツ」だが、要するに日本で言う女王様ブーツのことである。

  映画の舞台はイングランド中部にあるノーサンプトン。ノーサンプトンシャーの州都である。この映画を観るまで知らなかったが、ノーサンプトンはかつて靴の聖地とまで言われた街である。しかし時代の波には勝てず、人件費が安い海外に工場が次々と移転し、名門ブランドも淘汰されていった。それでも、ジョン・ロブ、クロケット&ジョーンズ、チャーチズなどの高級靴メーカーが今でも多く残っているそうだ。

  「キンキー・ブーツ」を観て真っ先に思い浮かべたのは「シャンプー台の向こうに」というイギリス映画。一度バラバラになった家族が全英ヘアドレッサー選手権をきっかけに再び絆を取り戻すというハートウォーミング・コメディである。この種のイギリス映画はかつてはほとんどなかった。数々の名作を生んだイギリス独特の味わいを持ったイーリング・コメディというのがあるが、これはもっとブラックでアイロニカルな作風である。明るいのりで困難を乗り越え成功を収めるというタイプの映画、例えば「ウェールズの山」、「ブラス!」、「フル・モンティ」、「リトル・ダンサー」、「グリーン・フィンガーズ」、「ベッカムに恋して」「カレンダー・ガールズ」などの映画は90年代以降にどっと現われて来たのである。これは1984年4月から85年3月まで丸1年間続いた炭鉱ストに象徴されるような(組合側の敗北で終わる)サッチャー時代の抑圧的政策とその結果の不況、その後の景気こそ回復したが同時に貧富の差が拡大したイギリスの現状の反映であろう。絶望の裏返しであるほとんどやけっぱちの楽天主義と奇想天外な発想で現状を突破しようという前向きの意欲が入り混じった状態から生まれてきた映画たち。「キンキー・ブーツ」はまさにこの系統に属する。似たタイプの映画はアメリカにも多いが、イギリス映画は一筋縄では行かないひねりやブラックな笑い、そしてアイロニーなどが加えられているだけに、基本の筋立てはストレートであっても見ごたえがある。

  「キンキー・ブーツ」のひねりはドラッグ・クイーンを主役に持ってきたことである。その意味で「トランスアメリカ」や「オール・アバウト・マイ・マザー」、「メゾン・ド・ヒミコ」、未見だが「プルートで朝食を」などにも通じる要素もあるわけだ。だから同じ努力して成功を掴む映画でも「フラガール」とは違う味わいになるのである。しかし、ドラッグ・クイーンのローラ(キウェテル・イジョフォー)を主役に持ってきたことに注目すれば、もう一つ重要な関連を持つ映画がある。スペイン映画の傑作「靴に恋して」(2002)である。「靴に恋して」は女性5人を中心にした群像劇で、タイトルどおり靴が重要な象徴的役割を果たしている。5人それぞれが満たされない思いを抱き、悩み苦しみさまよっている。タイトルの「靴」が最も重要な象徴的要素として使われるのはイザベルのエピソード。45歳になるが子宝に恵まれず、夫婦仲はとうに冷え切っている。彼女は満たされない思いを1サイズ小さい高級靴を買いあさることで埋めようとしている。しかし彼女の足に合う靴はいまだに見つからない。イザベルが捜し求めた靴とは「自分の本当の人生」を象徴しているのである。

  サイズの合わない靴はローラのテーマにも当てはまる。ドラッグ・クイーンのローラは大柄な黒人男性だが、無理して女性用のハイヒールをはいている。男物などないからだ。当 Arthituji3502_1 然女性用の靴では彼女の体重を支えきれない。しょっちゅうヒールが取れてしまう。乱暴な男たちに取り囲まれていたローラを偶然見かけて助けたチャーリー(ジョエル・エドガートン)にローラが言ったせりふがずっしりと観客の胸にのしかかる。「またヒールが取れちゃった。人生の重みに負けるのよ。」ヒールを折った重みは自分の体重ではなく「人生の重み」だと彼女は言う。窮屈な靴はローラを締め付ける世間の常識を表している。おそらく「トランスアメリカ」の“ヒロイン”ブリーも同じ「人生の重み」に耐えていたに違いない。自分に合わない靴を履くということは、与えられた性と自分がなりたい性との乖離を示している。女性として生きたいというローラの気持ちは子供の頃からあったことが暗示されている。冒頭で描かれるシーンが実に印象的だ。黒人の女の子が椅子に座っている。足元には赤い靴が入った袋。おもむろに彼女は赤い靴を履いて桟橋の上でステップを踏む。そのうれしそうな顔。本当に輝いていた。そこに父の声。何と「ヘイッ!ボーイ」と呼びかけている。女の子に見えたが実は男の子だった。頑固で偏屈そうな父の顔。うつむいて靴を脱ぐローラの姿。その姿こそ「人生の重み」に打ちひしがれている姿である。偏見にさらされ世間の片隅に追いやられてきた人生。チャーリーの工場に行ったとき、身の置き所のない彼女はクズ置き場でうずくまっていた。その姿が何とも寂しい。「ここなごむの。みんな友達。クズって意外と味わい深いものよ。はみ出し者も。」

  キンキー・ブーツをはき舞台で歌っているときのみ彼女は自分の人生を生きていた。チャーリーの工場で田舎者の社員に馬鹿にされトイレに閉じこもった時、ローラは普通の格好をしていた。何とかして他の社員に溶け込もうと彼女なりに努力したのだ。説得にきたチャーリーに彼女が語った言葉は彼女の心情を余すところなく表現していた。「ドレスを着れば500人の前でも歌えるのに、ジーンズだと挨拶もできない。」ジーンズもまた彼女を締め付ける鋳型だった。無理やり彼女をボクサーにしようとした父に反発したローラ(「リトル・ダンサー」と同じケースだ)は父の死に目にも会えなかった。「順応なの。皆に溶け込み目立つな。巨漢の黒人ボクサーなら有望株ってわけ。でも巨漢の黒人がドレスを着るとうまくいかないね。」「順応」とは鋳型にはめることである。ギラギラしたローラたちのステージやコミカルなタッチに隠れてはいるが、この映画にはローラの苦渋に満ちた人生がしっかりと描き込まれていることを見落としてはいけない。忘れがたいせりふがたくさん詰まっている作品なのだ。

  自分に合わない人生を生きていたのはローラを救ったチャーリーも同じだった。トイレでローラの告白をきいた彼は「僕こそここに隠れたい。どうも浮いてる」と言った。彼も工場になじめなかったのだ。彼の父親はノーサンプトンの有名な紳士靴メーカーの社長だった。子供の頃からがっしりとした革靴を履かされている。一流の職人が丹精込めて作った高級靴。縫製もしっかりしていて、コンクリートの壁を蹴ったくらいではびくともしないほど頑丈そうだ。しかしこの高級な靴もチャーリーにとっては「足かせ」に過ぎなかった。大人になったチャーリーはいつもスニーカーをはいている。父は家業を継がせたかったが、チャーリーは家を出てほかの仕事に就こうと考えていた。彼もまた意に沿わない人生を歩まされることから逃げようとしていた。しかし突然父が死んで彼は社長の座に座らざるを得なくなってしまう。ところが彼が引き継いだ工場は在庫を大量に抱え倒産寸前だった。彼はそこですべてを投げ出して逃げることもできただろう。しかしそうはしなかった。彼は父の職業を嫌ってはいたが、やはり父の血を受け継いでいた。職人の誇りが彼にはあったのだ。

  在庫を少しでも処分しようとロンドンのなじみの取引店へ行く場面が重要である。先方はそれまでの付き合いもあるからと在庫を一部買い取ってくれたが、そこでチャーリーが見たのはチェコ製のぺにゃぺにゃで安っぽい靴だった。「うちのは一生ものだぞ。これは10ヶ月しか持たない」と言うチャーリーに、相手は「そうさ、好都合だろ」と返す。すぐ駄目になるからまた新しいのが売れるというわけだ。ノーサンプトンの高級靴メーカーはこの論理に駆逐されつつあったのだ。注文が減るわけである。打ちひしがれて帰ってきたチャーリーは、「他にどうすることができる(What can I do?)」と言いつつ仕方なく15人の社員の首を切った。昔からの社員を首にするのはつらかった。「15人も解雇した。人生最悪の経験だった。」しかし自分の行為に苦痛を感じる良心があったからこそ、彼には奇想天外な逆転発想が浮かんだのである。ただの甘っちょろいお坊ちゃんではなかった。だから、首にした女性社員ローレン(サラ=ジェーン・ポッツ)が言った「製品を変えたら」という言葉に反応できたのだ。こうしてキンキー・ブーツに社運をかけようという彼のヴェンチャーが始まる。

  彼はまず重要な提案をしたローレンを説得して、ロンドンへ行く。ローラのショーを見た時のローレンの仰天したような表情が面白い。彼女はローラにどう接したらいいか分からない。「ごめんなさい。服装倒錯の人、田舎にいなくて。」これに訂正を加えたローラの表現がこれまた面白い。「私は服装倒錯でドラッグクイーン。どちらも似てるけど、ドラッグクイーンはカイリー・ミノーグ風。服装倒錯の方は口紅をつけたボリス・エリツィン。まあいいけど、誰でもその気はあるのよ。」不審そうなローラにチャーリーはとにかく一度ブーツの見本を作らせてくれと説得し楽屋で彼女の寸法を測る。ふと気がつくと他の人たちも靴を脱いで順番を待っている所が可笑しい。ニッチどころか「大市場かも。」

  ここから「プロジェクトX」ノーサンプトン版が始まる。試作品を取りにきたローラはそのまRosehome2_1 まデザイナーに納まってしまう。試作品を見た彼女の反応がすさまじい。そのブーツはバーガンディ色だった。「レッド。レーーーーッド。赤よチャーリー坊や。第一のルール。赤こそセックスの色。暗い色はダメ。恐怖と危険の色、そして“立ち入り禁止”って標示の色なわけよ。どれも私の好きなものばかり。」がっしりしたロウヒールにも食って掛かる。その方がはきやすいと言うチャーリーに、「それが何よ。セックスは苦痛!以後あんたが作るのはセックスなの。75センチの筒状のセックスよ。そのヒール最低よ。」チャーリー「でも壊れない。」ローラ「作業靴なんかイヤなの。」

  こうして新たな試作品作りが始まる。その頃チャーリーの婚約者のニック(ジャミマ・ルーパー)は先のない工場なんか売却すべきだと彼に迫っていた。散々悩んだ末、チャーリーは決心する。ミラノの国際見本市にキンキー・ブーツを持って乗り込むという大胆な計画。あきれる社員に発破をかけるチャーリーの口調はローラそのものだった。「君らが作るのは履物でもなく、ブーツでもない。長さが75センチの思わずうっとり筒状のセックスだ。」そう力強く言い切ったものの、社員たちの足並みは乱れている。ドンという偏見に満ちた男がいつまでもローラへの差別意識を捨てないからである。ドンとローラの確執は最大の障害だったが、それは二人の腕相撲という「直接対決」によって解消された。ただし、ドンの気持ちを最終的に奮い立たせたのは彼がたまたま漏れ聞いたチャーリーとその婚約者ニックの会話である。工場の売却を迫るニックにチャーリーは自分の夢を語ることで反論した。社長は本気でミラノ出品に賭けていると知ったからこそドンの気持ちは変わったのだ。そして最大の山場ミラノでのショーへとなだれ込む。このあたりはお約束どおりの展開ではあるが悪くない。ただ、ミラノ行き直前にチャーリーがローラにひどい言葉を浴びせる場面はあまりに唐突である。ローラと決裂したチャーリーを窮地に追いやり、それをエンジェル・ボーイズを引き連れたローラが土壇場で登場して救うという「劇的な」展開に持ってゆきたかったのだ。しかし、この欠点も作品全体の魅力によってかき消されてしまう。

  この映画には世間の常識を蹴飛ばしてしまう痛快さがある。突飛な発想を現実のものにしたチャーリーの奮闘も大きな魅力だが、この映画を根底で支えているのはローラの存在である。それには脚本の力が大きい。脚本を担当した1人ティム・ファースは「カレンダー・ガールズ」の脚本家である。この映画は事実に基づいているが、それは窮地に陥った紳士靴メーカーがキンキー・ブーツを作ることで危機を乗り越えたという点までで、恐らくローラという人物は創作である。モデルはあったかもしれないがそれは重要ではない。ローラは突飛な発想を生み出すきっかけとして最初は考え出されたのかもしれない。しかし彼女のキャラクターを練り上げてゆくうちに、ローラには深い陰影が与えられていった。スポットライトを浴びる華やかな存在であると同時に世間の偏見にさらされる日陰の存在。その陰影をさらに彫り進めて行くうちに真摯な考察に値するゆたかな鉱脈に突き当たったのだ。かくして深い内的葛藤を抱えた大柄な黒人のドラッグクイーンが生まれたのである。

  そして、その卓抜な人物造形に生き生きとした生命を吹き込んだのはキウェテル・イジョフォーという類まれな才能を持った俳優だった。「キンキー・ブーツ」を優れた作品にした最大の要因はこのローラという人物を創造したことであり、それを演じきる力量を持ったキウェテル・イジョフォーという俳優を見出したことである。舞台に立ったローラの存在感は圧倒的である(「紳士淑女の皆さまと、どちらにするか迷っている皆さま」というショーの始めの口上も愉快だ)。時には舞台の上から女王のように観客を睥睨し、時には妖艶な美女のような表情を浮かべ、妖しくそして優美に体をくねらせ跳ね踊る。しかし舞台の外では不安や心中の葛藤を垣間見せる。一方で偏見にさらされながらもそれを跳ね返す強靭さとしなやかさを持ち、他方で除け者の身の切なさを吐露したりもする。華やかな衣装を着けスポットライトを浴びつつも、彼女の身の回りにはいつも深い陰影が張り付いている。舞台で踊る彼女の姿には子供の頃桟橋で無心に踊っていた姿が二重映しになる。その強さと美しさと悲しい翳り。合わない靴にのしかかる人生の重み。それらがわれわれの眼と想像力を引きつけて止まない。

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