夫婦善哉
1955年 日本 東宝
評価:★★★★★
監督:豊田四郎
脚本:八住利雄
美術:伊藤熹朔
原作:織田作之助
音楽:団伊玖磨
出演:森繁久彌、淡島千景、司葉子、浪花千栄子、小堀誠、田中春男、田村楽太
三好栄子、山茶花究、志賀廼家弁慶、万代峰子、森川佳子
面白い。文句のつけようがない傑作である。何より主演の森繁久彌と淡島千景が抜群に
いい。淡島千景はこの時代の女優としては原節子、高峰秀子と並ぶ僕の3大アイドル。中でもこの「夫婦善哉」の蝶子役は「にごりえ」や「麦秋」、「駅前」シリーズなどと並ぶ彼女の代表作の一つ。元気でいたずらっぽいちょっと勝気な娘というイメージが彼女の持ち味。ここではしっかり者でちょっぴり色気も漂う芸者役。彼女の魅力全開。森繁もすごい。彼とフランキー堺(元祖ソン・ガンホ)は役者として天才だと思う。どちらも喜劇俳優だが、役者としての才能は滝沢修や中村翫右衛門などの名優と比べても引けをとらない。「夫婦善哉」の柳吉役はほとんど地でやっている感じがするが、演技を感じさせないほど役になりきっているということである。
助演陣もすごい。置屋の女将(?)役の浪花千栄子。「祇園囃子」でも置屋の女将役を演じていたが、この手の役はまさにお手の物。東の沢村貞子(「赤線地帯」、「飢餓海峡」)、西の浪花千栄子といった感じか。昔の脇役女優にはすごい人たちがいたものだ。はまり役といえば婿養子役の山茶花究。この人もあきれるほどうまい。芸名が九九の“さざんがきゅう“から取っているところからして人を食っている。善玉もやるが悪役がめっぽう似合う。「夫婦善哉」では異常なほどの潔癖症でニコリともしない男の役。蝶子の母親役の三好栄子もよく見る脇役女優。庶民的な女性を演じさせたら恐いほどはまる。チョイ役が多いのに顔を覚えてしまうのだから大したものだ。千石規子、望月優子、北林谷栄、飯田蝶子、浦辺粂子、等々。当時の庶民的おばちゃん役女優は多彩だった。こういう人たちがいないと映画は成り立たない。蝶子の父親役田村楽太も超個性派。何とも特異な面相だ。映画には「夫婦善哉」と「世にも面白い男の一生 桂春団治」くらいしか出ていないようだが、どうやら舞台の喜劇俳優らしい。笑わせるタイミングが抜群。巧まざる技に脱帽。日本映画の頂点を極めた1950年代は大監督ひしめく巨匠の時代であったが、同時に名優の時代でもあったことを改めて認識させられる。
森繁久彌演じる柳吉は化粧品を扱う維康(これやす)商会の長男。大店(?)のぼんぼんである(関東風の「お坊ちゃん」では感じが出ない、「ぼんぼん」でないと駄目だ)。しかしこのぼんぼん、まったくの遊び人で甲斐性なし。商売などそっちのけで遊び歩いていた。まあそれには理由がないではない。柳吉には妻も子供もいるが、妻は病気で2年も里に帰ったきりなのだ。柳吉の父親は見るからに頑固一徹な男。自由気ままな性格の柳吉には息苦しくて仕方がないだろう。映画は柳吉の父親がいつまでも芸者にうつつを抜かしている柳吉を見放して勘当を宣言しているところから始まる(ついでに触れておくと、店に代々の当主の写真が飾ってあるが、一番左側の写真が何といかりや長介にそっくりだ)。その頃柳吉は芸者の蝶子(淡島千景)と駆け落ちして熱海の宿でいちゃついていた。昭和7年のこと。
熱海でのろけている場面の後、二人は蝶子の実家に現われる。蝶子の父親が散々心配かけおってと娘を叱るが、柳吉が顔を出すと突然ぺこぺこするところが可笑しい。母親もどうでもいいことをくだくだ話している。蝶子の実家は天麩羅屋で、柳吉に何もないからと商売ものの天麩羅を出す。食道楽の柳吉はうまいといって素手でつまんで食べる。それを行儀が悪いと叱る蝶子。この辺の描写も実に巧みで、世話女房タイプである蝶子の性格がよく示されている。なぜ二人が突然蝶子の実家に押しかけたかも二人の会話から分かるようになっている。熱海で1週間楽しんだ後維康商会に戻ったら、敷居もまたがせてもらえなかったのである。その時柳吉は勘当されたことを初めて知ったわけだ。行くところがないのでとりあえず蝶子の実家に転がり込んだというしだい。
しかしぼんぼんの柳吉はいつまでも店に未練たらたらである。蝶子は「男らしゅうさっぱ
りと忘れてしまいなはれ」と迫り、柳吉をつねる。柳吉は「痛い、痛い、堪忍してくれやもう」などと情けない声をあげている。収入源を絶たれたため、蝶子はまた芸者として働き始める。夜中帰ってくると柳吉は2階でおとなしく鍋で昆布を煮詰めている。食道楽らしく、こうやって作るんだと薀蓄をたれるところが彼らしい。何とまあ朝から鍋に付きっ切りだったようだ。商売には不熱心でも、自分の好きなことにはとことん向き合う。そういう男だ。
とまあ、こんな調子で映画は始まる。自分では働きもせず朝から昆布などを煮占めている柳吉はまさにヒモの生活だ。一方の蝶子はしっかり者で働き者。だらしのない柳吉を叱り飛ばしながらも、まめまめしく彼の世話を焼いている。これだけ世話を受けながら、柳吉は彼女が稼いでためた金を維康の番頭長助と飲み歩いて全部使ってしまったりする。散々泣かせながらも、「頼りにしてまっせ~」(当時流行語にもなった)と蝶子におんぶに抱っこ。しかしこの甲斐性なしのダメ男がなぜか憎めない。
なぜだろうか。柳吉は無責任で甲斐性なしの男だが、植木等の「無責任男」ともまたタイプが違う。破天荒というよりももっと古い遊び人のタイプだ。藤沢周平の市井ものにも大店の放蕩息子がよく出てくるが、柳吉はやはりその系譜。「粋人」というほど粋ではないが、食べ物に目がない食道楽。だから蝶子が維康から貰った手切れ金で始めた関東煮の店ではかいがいしく働いている。まったくのぐうたらというわけではないのだ。つまり、息苦しい維康商会の雰囲気にどうしてもなじめなかったのだろう。中風で寝込んでいる柳吉の親父は相当な頑固者である。また、店を継がせるために柳吉の妹筆子(司葉子)と結婚させた婿養子(山茶花究)は生真面目一方で、「超」の付く清潔好き。そういう気風なのだ。これでは柳吉ならずとも近寄りたくはない。蝶子との自由気ままなのろけ生活と息苦しい維康商会が対比的に描かれているので、自然柳吉に肩入れしてしまうのだ。
だがそれだけではないだろう。柳吉はだらしがないが決してふしだらではない。後先考えずに金を使ってしまう甲斐性なしだが、それは無類の人の良さの表れでもある。ぼんぼんだから人に奢ってうれしがるのだ(番頭を手なずけておけば後々役に立つとの期待もある)。ちゃらんぽらんなのは苦労知らずのぼんぼんだからである。番頭を手なずけたり、蝶子との手切れ金をふんだくろうとしたりと計算高いようでいて、実は単なる思い付きにすぎない。ただ財産に未練たっぷりなだけだ。腹黒い打算で生きている男ではないので、そういう情けなさがかえって憎めないのだ。そして何よりも愛情の面で決して蝶子を裏切らなかった。遊びはしても浮気はしない。要するに無邪気なのだ。大きな子供みたいで、むしろ蝶子のように叱りつつも世話をしたくなってしまう。そう思わせる人柄なのだ。
もちろん演じる森繁の魅力もある。飄々とした演技が彼の持ち味である。それが柳吉の役柄にぴったりとはまっている。さらには蝶子との組み合わせの妙もある。喧嘩するほど仲が良いとよく言うが、まさにそのいい例だ。淡島千景の蝶子は魅力たっぷり。芸者上がりだが一途な女である。「柳吉さんをほんまに寝取ろうと思ってるんやろ」と母親に言われた時、彼女は「わては何も奥さんの後釜に座るつもりはあらへん。あの人を一人前の男に出世させたらそれで本望や。ほんまやで」と言い返している。そういう彼女に甘えきって、あまつさえしばしば彼女の気持ちを踏みにじる柳吉はしょうもない男である。だが、彼女にこっぴどく折檻されていてもそれがどこかのろけに見えてしまう。そんな二人に観客はいつの間にかひきつけられ、行方定まらぬ展開に見入ってしまう。しっかり者の女とちゃらんぽらんな男という昔からよくある組み合わせだが、どういうわけかこの取り合わせには魅力がある。柳吉のような男が実際身近にいたら腹立たしいが、喜劇的な味付けをされているために傍から眺めていると実におもろいのである。
蝶子の思いは一途なだけに、柳吉が彼女の期待を裏切った時には猛烈に怒る。柳吉が彼女の貯金通帳を勝手に持ち出して全部飲んでしまった時には、「わてはな、あんたと
なんぞ商売でも始めようと思って、それだけを楽しみに一生懸命貯金してきたんやで。それをこのあんたという人は」と上にのしかかって散々ぶったたく。柳吉は全く抵抗せず「むちゃくちゃやないか」と泣き言を言う。「もうあんたなんか見るのもいややわ」と蝶子は出て行った後、柳吉は1人「まあ無理ないわな」とつぶやく。分かっちゃいるけど止められない。そんな彼がどこかお茶目で憎めない。そもそも折檻されていても、彼は蝶子を憎んでいない。ひーひー言いながらも蝶子を「おばはん」と呼んでいるのが滑稽だ。自分より若い相手を「おばはん」もないものだが、この「おばはん」には全く馬鹿にした響きがない。むしろ親しみと愛情がこもっている。そんなところに彼の憎めない性格が表れている。
それにしても怒った時の蝶子の剣幕はすさまじい。妹が養子を取ることになったと聞いてまた柳吉が長助と飲みに行った時には、「清めたる」と叫びながら表の井戸の下に貯めてある水に柳吉の頭を突っ込んでいる。誰か近所の人がそうめんをザルに入れて冷やしてあったので、もがく柳吉の頭には麺がくっついている。すごい演出だ。翌日、蝶子はさすがに置屋の女将おきん(浪花千栄子)に「わてもういやや、何もかも」とぼやいている。そりゃそうでしょう。しかしこれだけ派手に折檻されても柳吉は懲りない。蝶子もあっさり彼を許している。これが一つのパターンになり繰り返される。観客はニヤニヤしながら二人のラブ・ゲームを見守っている。
柳吉は性懲りもなく蝶子にある策略を持ちかける。別れる振りをして店から手切れ金をたんまりふんだくろうというのだ。だから店の者が来たら、「別れます」と答えておくれと蝶子に言い含める。ところが蝶子は「別れる」と言わなかった。手切れ金も受け取らなかった。柳吉が戻ってきて怒るが、たとえ芝居でも「別れる」とどうしても言えなかった蝶子の気持ちが何ともいじらしいのだ。柳吉もあまり追求しない。失敗したらあっさり諦めてしまうところはいかにもぼんぼんらしい。代わりに「妹の婿養子な、大学出や。学問で商売できるけえ、おまえ」などと毒づいている。いつまでも店の財産に未練たらたらなのである。
いずれにせよ手切れ金は手に入れたようだ。その金を元に関東煮の店を始めようと提案したのは柳吉の方である。このぼんぼん、食い物が絡むと俄然頑張るのだ。やる気を出したのがうれしかったのだろう、さっそく関東煮の勉強をしに行こうと柳吉が言うのを止め、蝶子はにんまりしながらカーテンを閉める。おいおい本気かと顔をしかめる柳吉。この場面は傑作だ。おきゃんな娘役が似合う淡島千景に色気はほとんど感じたことはないが、この場面は別。にっこりしながら黙ってカーテンを閉めるしぐさがいつになくなまめかしい。
二人が始めた関東煮屋は結構繁盛している。柳吉がまじめに働いているではないか!さすが食道楽、料理を作る手つきは手なれたものである。しかし順調に行っている様に見えた商売だが、思わぬことで頓挫する。店を閉めた後、柳吉がぼんやりしているので蝶子は遊びに行ってきなさいと言う。柳吉は何度も「いいんやな」と念を押しながら二階へ行く。しかしなかなか下りてこないので蝶子が様子を見に行くと柳吉が倒れていた。腹が痛くて苦しんでいる。そこで蝶子が「猫の糞とミョウバンを煎じて飲むか?」と聞いているのか可笑しい。「また怪しい病気もらってきたと思ってるのか」と柳吉が苦しみながら怒る。「怪しい病気」と言っているところを見ると、前に悪い病気を貰ってきたことがあるようだ。本当に腹が痛いらしい(それはそうと「猫の糞」なんて本当に効くのか?)。
せっかくうまく行っていた店も柳吉の入院代と手術台を払うために250円で売ってしまった。金に困った蝶子は恥を忍んでせめて手術代だけでもと維康商会に頼みに行くが、にべもなく断られる。明らかに彼女が柳吉を「堕落させた」相手であり、芸者だからである。しかし蝶子が決して卑屈でないところがいい。悪いことは重なるもので、蝶子の母も同じ頃子宮癌に罹っていた。母は自分のことはいいから、早く柳吉さんのところへ入ってやりなさいと言う。「お母ちゃんな、優しいことばっかり言うて仏さんになってはる」と蝶子は父に伝える。維康商会の冷たさと貧しい蝶子の家族の温かさが対比されている。
病院に柳吉の妹筆子(司葉子)が娘のみつ子(森川佳子)を連れて見舞いに来る。しか
し娘は父に会いたがらない。ここで印象的な場面がある。妹の筆子は蝶子に「姉さん」と呼びかけるのだ。蝶子は一瞬はっとする。跡取り息子をたぶらかした悪女とばかりに、柳吉の身内から蝶子は冷たくされるばかりだった。初めて「姉さん」と呼ばれた蝶子は感激してしまう。日陰の身のつらさがその一瞬のはっとした表情に表れている。しかも筆子は挨拶の中で父も蝶子には感謝しているとまで言ったのである。柳吉の妹にすれば、一応の礼儀でそう言ったに過ぎないのだろう。しかし中身のない言葉に自分は認められているのだと力づけられてしまうほど追い詰められている蝶子の気持ちが切ない。
筆子はもう一つ重要な発言をしている。「お父さんは頑固やし、お母さんは早う死にはりましたし、それに古い家やし、いつも周りに遠慮ばっかりして育ってきはったよって、あんないじけた、どこに自分があるのか分からんような人ができまして。でも、根はええ人です。それに姉さんだけはほんまに頼りにしてはります。」筆子は柳吉の身内の中では一番まともな人間である。見舞いに来ただけでも彼女が兄を心配していることが分かる。そういう妹だから蝶子を感激させるような実のない言葉も深く考えずに言ってしまうわけだが、この兄に対する評価は本心だろう。夫のことも「気違いのようなきれい好きでして」と言っている。兄には蝶子だけが頼りだというのも単なる外交辞令ではないと思われる。誰が見ても実際そのとおりなのだから。それにしても「どこに自分があるのか分からんような人」というのは言い得て妙だ。病室のベッドでは柳吉がわがまま放題を言っている。体を切られる(手術)のはいやだなどとぐずっている。そんな彼を見ると確かにそう思えてくる。柳吉に全く何も芯がないわけではないが、商家の娘として厳しく育てられた筆子には確かにそう見えるのである。
自分は認められていると思った蝶子はまた必死に頑張る。芸者の時の仲間だった金八(万代峰子)に金を借りて「蝶柳」という店を出した。有馬温泉で養生していた柳吉も戻っている。柳吉の妻は亡くなっていたが、柳吉は娘のみつ子が可愛くてならない。蝶子は何とかみつ子を引き取ろうと涙ぐましい努力をする(父の葬儀の時柳吉も同じことをみつ子に聞いたが、どうやって暮らすのと聞き返されている)。みつ子が英語を習っているというので自分も客が言った英語を懸命に覚えようとしているのだ。そんなある時、みつ子が突然彼女の店にやってきた。蝶子は「オー・マイ・ダーリン」、「パパ」、「ウェルカム」などと一生懸命に話しかけるが、さっぱりみつ子には通じない。実は柳吉の父が危篤だと言いに来ただけだったのだ。むなしい努力をする蝶子が何ともけなげだ。
蝶子は私のことを認めてもらえるようにお父さんに頼んでほしいと何度も柳吉に言って送り出す。しかしからきし意気地のない柳吉は結局何も言わなかった。自分は長男なのだからそれらしく扱ってほしいということばかり気にかけている。結果を気にする蝶子に電話をかけてもただ親父が死んだというばかり。婿養子を散々けなしても、本人の前では何もいえない。蝶子が電話をかけ直すと養子が出て、「うちはあんさんとは何の関係もない」と言われてしまう。蝶子はガス自殺を図った。柳吉が発見して事なきを得たが、そのときのあわてぶりも情けない。
生き延びた蝶子は店で大盤振る舞いし、一晩飲み明かす。ひとしきり騒いで、彼女はまた生きようとする。しかし柳吉がいない。いやいや御心配なく。彼はちゃっかり現れるのである。蝶子が店に戻るとレコードがかかっている。曲に合わせて歌う柳吉の声が聞こえる。
戻ったのかと思って店中を見回すが柳吉の姿はない。空耳かと思い「あほやなあては」と言った時、「ここや、ここや、英語でいうたらWCや」と言いながら何食わぬ顔で柳吉がトイレから出てくる。見事な演出だが、その後の細かい描写も見落としてはならない。トイレと知って蝶子がとっさに懐からハンカチを出す。しかし柳吉のひどい仕打ちを思い出してハンカチを渡すのを思いとどまる。柳吉は水の滴る手を前に出したままトイレからでてくる。うつむく蝶子の手から柳吉がハンカチを取って拭くと、蝶子がそのハンカチで柳吉の手を丁寧に拭いてやる。こういうさりげない描写が実にうまい。切れそうで切れない絆。決して懲りない柳吉と決して彼を見捨てない蝶子。二人の関係を表す見事な場面である。
二人で「めおとぜんざい」を食べに行く。映画の最初の頃にも二人で「自由軒」に入りライスカレーを食べるシーンがある。蝶子にハンカチで口を拭いてもらったり、テーブルの下で足を蹴ったりさすったりののろけぶりが印象的な場面だ。二人で仲良く「めおとぜんざい」を食べるシーンは二人の将来を暗示しているのかも知れない。外に出ると雪が降っていた。どこかの店の軒下で二人はしばしたたずむ。蝶子「なあ、あんた、どないしはんねんこれから?また、バーテンしはんの?」柳吉「任せるがな、頼りにしてまっせ~。」蝶子「なあ、あんた、みんなあてが悪いねんなあ。」柳吉「そやがな。」蝶子はさめざめと泣き出す。「どないしてんな。ええがな、おばはん。二人で濡れて行こいな。」「せやな、ええ道行きや。」途中二人でお宮にお礼参りをする。「まだ頼りにしてますさかいに、あんじょう頼んまっさ~」。相変わらずのんきなことを言っている柳吉と寄り添って、蝶子は雪の舞う法善寺横町を歩いてゆく。寄り添って歩いてゆく二人だが、この先何度もまた付いたり離れたりを繰り返すだろう。しかし決して別れはしないだろう。そういう余韻を残すしっとりとした終わり方である。
これは踏まれても蹴られてもひたすら男に尽くすだけの女を描いた映画なのか?確かに蝶子は柳吉にとことん尽くす女に見える。しかし見方を変えれば彼女が大きな子供のような柳吉を終始導き、支えていることが分かる。尽くしているのではなく、彼女が養っているのである。母のごとく包み込んでいるのである。そう、観ているうちに年下の蝶子が母親のように見えてくるのだ。うっかり手を離すとどこへ行ってしまうか分からない大きな子供のような柳吉としっかりと手綱を握っている蝶子の道行き。男なんて女に甘えて生きているに過ぎない。映画はそう言っているように思える。
<付記>
記事を書き終えた後にある重要な論点に気づいた。筆子が兄を評した「どこに自分があるのか分からんような人」という表現、どこかで聞いたことがあると書いている時からぼんやり思っていた。記事をブログとHPにアップした後風呂に入っている時にはっと思い出した。そう「浮雲」だ。あの映画の中で富岡(森雅之)が「まったくどうにもならない魂のない人間が出来ちゃったもんさ」と自分のことを自嘲して言っている。さらに考えるとこの二つの作品は実に多くの共通点を持っている。「浮雲」は甲斐性がなくふらふらしている富岡と常に積極的に行動するゆき子(高峰秀子)とが付かず離れずの腐れ縁関係のまま、決まった目的地もなくただただ流れに任せてどこへともなく漂ってゆく映画である。しっかりした女性と甲斐性がなくいつもふらふらしている男。蝶子は芸者でゆき子はパンパンを一時していた。
同じような男女の組み合わせなのに、一方はどこまでも堕ちてゆく悲劇であり、もう一方は堕ちそうで堕ちない喜劇である。しかもどちらも55年の作品。製作年まで一緒だ。同じような状況と組み合わせなのに、描き方によって悲劇にも喜劇にもなる。「夫婦善哉」は蝶子が自殺未遂をしたように常に悲劇になる可能性があった。今井正のオムニバス「にごりえ」の第3話で淡島千景が演じた小料理屋の酌婦お力は最後に片思いの男に無理心中させられている。彼女を引き取ってくれそうないい旦那が見つかった矢先だった。このあたりの男女の描き方はじっくりと考察するに足る論点である。いずれゆっくりと考えてみたい。
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