恋人たちの食卓
1994年 台湾 1995年6月公開
評価:★★★★☆
監督:アン・リー
製作:シュー・リーコン
脚本:アン・リー 、ジェームズ・シェイマス、ウォン・フイリン
撮影:ジョン・リン
音楽:メイダー
出演:ラン・シャン、ヤン・クイメイ、ワン・ユーウェン、ウー・チェンリン
シルヴィア・チャン、ウィンストン・チャオ、チェン・チャオロン
ルー・チンチョン、チェン・チエウェン、グァ・アーレイ
「胡同のひまわり」や「推手」もそうだが、アジア映画には親子や家族の情愛を描いた秀 作が多い。韓国映画「グエムル 漢江の怪物」もやはり親子の強い絆を描いた映画だった。韓国映画は感情表現が派手だし、日本のドラマは概してべたべたしすぎるが、中国や台湾の映画はむしろあっさりしている。落ち着いた悠揚迫らぬ作品なのだが、それでいて深い愛情を感じさせる。実に味わい深い作品である。「推手」に続いて観たアン・リー監督「老父3部作」の3作目「恋人たちの食卓」も料理を通して父と娘たちを描いた秀作である。
「推手」は冒頭で老人が1人黙々と太極拳をしている場面で始まった。音のない不思議な空間と感覚が観客を引き付け、同時にその家におけるコミュニケーションの不在という主題をさりげなく提示していた。見事な導入部分だった。「恋人たちの食卓」の導入部分もそれに劣らない。「推手」と同じ朱という名前の老人が台所で料理を作っている。その手さばきの見事さには和食の伝統を持つ日本人の目で見ても驚嘆せざるを得ない。ものすごい勢いで料理を作っている。次々に多彩な材料に包丁を入れ、手でむしりとり、なべに放り込む。あっという間に仕上げてゆくが充分な下ごしらえをしていることは説明などなくても分かる。鮮やかな手つきと次々に出来上がってゆく料理の見事さに思わず身を乗り出しそうになる。
妻を早く亡くした朱老人は日曜日ごとに3人の娘たちと食事を共にすることを習慣にしていた。しかしあれだけうまそうな料理に娘たちはほとんど手を出さない。次女などは味に文句をつけている。朱老人は一流ホテルで働いていた名シェフだったが、実は最近味覚が衰えていることを自覚していた。入念に作られてはいるがやや味が落ちた料理と、ほとんど料理に手を出さず会話も弾まない食卓。「推手」同様、親子の関係がきしみだしていることが冒頭のエピソードから見て取れる。
シチュエーションは違うが、主題は「推手」と同じといってもよい。親と子の関係。ただ、「推手」では既に息子は家庭を持っていた。親と息子家族の同居から、親が家を出て微妙なバランスを保つという経過をたどった「推手」に対して、「恋人たちの食卓」では3人の娘たちの結婚、独立が遠からぬ先に控えている時期に焦点を合わせている。娘たちの結婚はいずれ来るべきものであり喜ぶべきだが、残される親はさびしいものだ。このテーマはまさに小津安二郎が何度も描いてきたテーマである。日常のなんでもないことをテーマにしながら、それでいてありきたりの話に終わらず優れた作品に仕上げる。滅多に起こらない劇的な出来事を描くのではない。淡々と日常を描きながらそこに永続的な感銘を残すドラマを作り出す。
これが実は難しい。ファミリー・ドラマを得意とするアメリカ映画でもこれを成し遂げた作 品はほとんどない。ヨーロッパの作品で僕が唯一小津の世界を感じたのはベルトラン・タベルニエ監督の「田舎の日曜日」だけだ。日本でも家族の日常を描くことを通して人間的感情をそくそくと描きえた作品は意外に少ない。興味深いことに小津の伝統を踏まえ、かつ作品的に優れたものを生んだのは台湾だった。日本に親近感を抱く人が多い国だ。家族のありようもかつての日本に近いのかもしれない。しかし台湾人の監督でもすべての試みが成功しているわけではない。アン・リー同様小津を尊敬するホウ・シャオシェン監督が日本で撮った「珈琲時光」は悪くはなかったが、小津とは別の世界だった。「ウェディング・バンケット」は未見だが、現在のところ初期のアン・リーこそがもっとも正統な小津の後継者だという気がする。
ただし、あまりに小津に引き付けすぎて作品を観ない方がいいだろう。時代も国も違うのだ。文化や習慣や考え方も同じではない。親と子の関係もずっとドライだ。「恋人たちの食卓」は朱老人(ラン・シャン)を主人公にしながらも、3人の娘たちの悩みや考えも十分描きこんでいる。総計4人の主要登場人物それぞれに一定のスペースを割きつつ(しかも3人の娘たちにはそれぞれ恋人がいる)、細切れにならず焦点もボケていない。練り上げた脚本の見事さと演出のよどみなさをまず賞賛したい。
小津映画の父親は平凡なサラリーマンが多い。しかしアン・リーの3部作の父親たちはそれぞれに突出した特技を持っている。アン・リー監督自身が「父親は何でも知っている三部作」と言っている通りである。父親の性格付けもその特技と深く関連付けて描かれている。「恋人たちの食卓」の場合は言うまでもなく料理である。父親がもっとも心を割って話せるのは料理を理解している人たちである。その1人は長年の同僚だったウェンである。朱老人は元「グランドホテル」の総料理長で今は引退しているが、時々人手が足りない時に駆りだされる。ウェンは現在の料理長。
朱老人に率直な意見をいってくれるのはウェンだけである。「強がり言っても分かるさ。人生思い通りには行かない。あんたは亀みたいに押しつぶされている。」亀のたとえが日本人の発想にないだけに愉快だ。背中に子亀を3匹乗せているイメージか。長女のチアジェン(ヤン・クイメイ)は30歳を越えているのに全く男っ気がない。「一生あんたにくっついていそうだ。」次女のチアチェン(ウー・チェンリン)は航空会社に勤めるキャリア・ウーマンで、3人の中では一番独立心が強く気も強い。ウェンのコメントが面白い。「あの子は石から生まれたみたいだ。だがあの性格はまったくの親譲りだろう。頑固と気ままは母親からだ。気取り屋と好き嫌いの激しさは父親からだ。」
3人の娘の中で最も重要な役割を果たしているのはこの次女である。「親譲り」の例え通り、次女のチアチェンは料理の優れた腕を親から譲り受けている。食卓で父親の味覚が衰えていると率直に指摘したのは彼女だ。長女として父親の世話をしなければいけないと常日頃話しているチアジェンに対して、次女のチアチェンは早く家を出たいといつも言っている。3女のチアニン(ワン・ユーウェン)は父親の手の込んだ料理への反発からかマクドナルドでアルバイトをしている。この中で料理のことを口にするのは次女だけである。
料理はこの映画の中で重要な象徴的役割を果たしている。最初のあたりで朱老人が「飲む、食べる、男と女、食と性は人間の欲望だ。一生それに振り回される」と語っている。毎週テーブルを囲んで食事をするように、料理は家族の絆の象徴である。今はその絆が崩れかかっている。その不安は父親の味覚が衰えているという自覚と並行して描かれている。味覚の衰えた朱はホテルのレストランで手伝っている時は友人のウェンの「顔色で味を判断」している。同じように娘たちの顔色を窺いながら家族の絆を判断している。舌が衰えたのと同じ様に、娘たちの様子も見えなくなってきている。長女も3女もいきなり結婚したことを報告して家を出てゆく。父親は呆然として見送るしかない。
一番家を出たがっていた次女が最後に残る。彼女にも恋人はいる。新しく同僚になった切れ者の男にも気持ちを引かれている。アムステルダムへの転勤の話も出ている。それ でも彼女は最後に残った。料理の絆があったからである。彼女は恋人にこう語っている。「変ね、昔の思い出は料理のことばかり。昔は父も優しい人だったの。嘘みたいね。レストランの厨房で粉をこねて腕輪や指輪を作ってくれたわ。」しかしやがて女に料理人は無理だと厨房から追い出されてしまう。だから彼女は決して家では料理を作らない。頑固親父と「親譲り」の頑固な娘。言葉では通じ合えないが、二人の間には料理という共通の「絆」があった。
ラストは父親と次女の2人が食卓を囲んでいるシーンである。料理で始まり料理で終わる。次女のチアチェンは既にアムステルダム行きを決意している。父親と二人で過ごす最後の夜。チアチェンの作ったスープを飲んで父親の味覚が戻った。父は娘の手を握る。「この味は・・・。」娘のスープの味は恐らく母親の味だったのだ。家族といえども共通するものがなければ心は通い合わない。一度だけ壁にかけられた母親の写真が映された。母親は最初から不在だったが、彼女は最初からずっと壁から一家を見つめていたのである。次女とのラストシーンは最も小津らしさを感じさせるシーンであった。僕はこのシーンを観て小津の「晩春」のラストシーンを思い浮かべた。結婚式で娘を送り出した父親が一人家に帰ってくる。彼はリンゴの皮を剥き始める。切れずに長く垂れ下がるリンゴの皮。その皮が突然ぽとりと下に落ちる。父親は手を止めうなだれる。
「推手」では家族のバランスの取りかた、家族との距離の取りかたの大切さが描かれた。しかし、「恋人たちの食卓」では未婚の娘たちを抱えている以上、いずれは家族がばらばらになって行く運命にある。ラストが小津の「晩春」を思わせるシーンになっているのはそのためである。しかしそこに寂寥感はない。なぜなら「推手」同様、父親も新しい人生に踏み出していたからである。この点は小津作品と大きく異なる。
小津は日常を描きながら実は人生を描いていた。「恋人たちの食卓」は料理をシンボルとして添えながら、家族がそれぞれに自分の人生を掴み取ってゆく様を描いた。人生という料理の味は朱老人が言ったように一色ではない。「人生は料理のようには行かないもの。材料をそろえて鍋に入れ、そして口に入れれば、甘い、すっぱい、辛いと色々だ。」戸惑いつつ、迷いつつ人は生きてゆく。結婚、離婚、独立、就職、転職、死別、人生にはいくつも転換期がある。人はそれぞれに迷い、考え、道を選んでゆく。人はいつまでも同じところにとどまりはしない。人生の大半は日常的な出来事の繰り返しだが、人は年を取るように少しずつ変わって行く。ジャン・コクトーの「君たちに」という詩がある。「いつかは天までとどくほど 大きくなるような木の幹に 君の名前を彫りたまえ 大理石に彫るよりも そのほうがずっといいのだよ 名前もいっしょにのびるのだ。」
朱老人の家族は決して大理石の家族ではなかった。老大木のようにあちこち裂け目があり、木肌が剥げ落ちているところやねじれたところもある。切り落とされた枝もある。しかしその幹に刻まれた3人の子供たちの名前は確実に大きくなっていた。木の成長につれてそれぞれの名前は大きくなると同時に離れても行く。もう消えかかっている。いずれごつごつして荒れた木肌と区別が付かなくなってしまうだろう。しかしその時、刻まれた名前は木と一体になるのである。
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あいりさん、真紅さん TB&コメントありがとうございます。
<あいりさん>
小津に通じるといってもそれとなく感じるという程度ですけれどもね。でも主題は間違いなく通じるものがあります。
ラン・シャンが亡くなっていたのですね。あいりさんのブログを読んで初めて知りました。素晴らしい俳優でしたのでとても残念です。
<真紅さん>
どうもお待たせしてしまいました。「ゆったりマイペース」もいいのですが、その分集中するのに時間がかかります。
アン・リーのインタビューの言葉は面白いですね。やはり「東京物語」ですか。あれは本当に名作ですね。いずれは取り上げて論じなければならない作品だと思っています。
「ウェディング・バンケット」も必ず観ます。
投稿: ゴブリン | 2007年2月 6日 (火) 21:48
ゴブリンさま、こんにちは。TBさせていただきました。
記事、お待ちしておりましたよ。今後も「ゆったりマイペース」で続けて下さいね。
さて。この作品と小津作品との関連について触れておられますね。
10年ほど前、アン・リーがあるインタビューで小津の「東京物語」が好きだと語っていました。
「小津やベイルマンが嫌いだと言ったら、それは犯罪行為だ」とも。
『ウェディング・バンケット』も良作ですので、是非ご覧になって下さいね!ではでは。
投稿: 真紅 | 2007年2月 6日 (火) 09:59
TBをありがとうございました。
小津作品に通じるものがありますか。
成るほど~と思いました。
ラン・シャン・・素晴らしい俳優さんを亡くしました。
惜しいです。
投稿: あいり | 2007年2月 6日 (火) 08:52